栂尾明恵上人伝記 16 耳自切後の白上で
又、或る夜の夢に見給ふ。大海の中に五十二位の石とて、其の間一丈計り隔てゝ、大海おき興に向つて、次第に是を雙(なら)べ置けり。我が踏みて行くべき石と思ひて、其の所に至る。信位(しんゐ)の石の處には、僧俗等數多(あまた)の人あり。然るに信の石を躍(おど)りて初住(しよじゆう)の石に至るよりは人なし。只一人初住の石に至る。又躍りて第三住の石に至る。此の如く次第に躍り著きて十住の石を躍りて、又初行の石に至る。一々に踏みて乃至(ないし)第十地・等覺(とうがく)・妙覺(めうがく)の石といふまで至りて、彼の妙覺の石の上に立て見れば、大海邊畔(たいかいへんぱん)なし。十方世界悉く礙(とゞこほ)りなく見ゆ。來れる方も遙に遠く成りぬれば、此の所をば、人是を知らず。今は歸りて語らんと思ひ、又逆次に次第に踏みて、信位の石の處に至つて、諸人に語ると見る。
又、西域(さいゐき)慈恩(じおん)等の傳記に依りて所々の遺跡(ゆゐせき)を檢(しら)べ、或る求法(ぐはふ)の高僧の巡禮の跡を尋ねて、筆を下し、假名(かな)を以て注し集めたる物あり。金文玉軸集(こんもんぎよくじくしう)とぞ號しける。其の端に誰人なりとも心有らん人の爲に、歿後の付屬(ふぞく)を契りて、一首を詠ず。
人の見て咲(わら)はん事をかへりみず心やりたる祕密授記(ひみつじゆき)かな
此の草菴に數月を送つて、煗(あたゝ)かなる食事なし。又鹽噌(えんそ)の類も遙に遠ざかる。有待(うだい)の身なれば、四大乖達(しだいかいゐ)して、白痢(はくり)の如くなる物下りて數日を經る間、諸人、且(しばら)く療を加へ、藥を服せよと云へども、邊鄙(へんぴ)醫藥稀なり。必ずしも奔走するに及ばず。生者必滅何ぞ始めて驚かん。縱(たと)ひ佛道修行の故に、病み付いて死せば、修道(しゆだう)の志を以て、來世に繼(つ)がんこと、今日に明日を繼ぐに異ならざらんと云々。爰に或る夜の夢の中に、一人の梵僧來りて、白器に熱湯の如くなる物を一杯盛りて、是を服すべしとて授け給へり。心に薊菜(あざみ)の汁かと覺えて服しぬ。夢覺めても猶其の味口の中にあり。即時に快くして其の病氣日を追ひて平愈せり。