一言芳談 一三四
一三四
然阿上人云、かなしき哉、因果を信ずる者は他力の信よわく、本願を信ずる者は因果の理(ことわり)ゆるし。庶幾(こひねがはく)は、もはら本願を信じて、かねて因果を信ぜよ。すなはち佛意にかなひて、往生をとぐべきものなり。
〇因果を信ず、他力を疑ふは偏見なり。因果をやぶるは邪見なり。かねて信ずるは正見なり。
[やぶちゃん注:
本条は以上に示したⅠと、Ⅱ・Ⅲのそれが大きく異なる。以下にⅢを示す(区切り記号「〇」の位置に(これはⅠともⅡとも異なる箇所がある)適宜判断した句読点を打った。「信ぜば」の部分のみ、Ⅲが「ぜは」とあるのをⅡで補正した)。
然阿(ねんあ)上人云、かなしき哉(かな)。因果(いんぐは)を信(しん)ずるものは、他力(たりき)の信よはく、佛願(ぶつぐはん)を信じて、かねて因果(いんぐは)を信(しん)ぜば即(すなはち)佛意に、かなひて、往生すべきものなり。
因果の理法に則るなら、自力他力を問わず、来世での在り方は既に因果によって定まっており、極楽往生出来ると定まっていることにはならないから、当然、この因果応報説によって、絶対他力による極楽往生の決定を信ずる心は、弱化される。しかし、因果説やそこから分かり易く引き出されて善悪に分類された応報説は、元来が方便であることは言を俟たぬ。さればこそ、彌陀の本願という特殊相対性理論の真理性を信じ、同時にそれを分かり易く理解するためには、迂遠ながらも小学校で習う初等算数としての因果の四則をも、まずは信ずる必要がある、と述べているのだと私は解釈する。]