一言芳談 一四三
一四三
敬佛房、奥州の方、修行のとき、寄宿しける在家(ざいけ)の四壁、大堺(おほざかひ)みなやぶれて、住み荒らせる體(てい)なり。そのゆゑをとふに、亭主こたへて云、名取郡(なとりのこほり)にうつりすむべきゆゑなり、云々。敬佛房、これをきゝて落涙し、同行(どうぎやう)に示して云、欣求(ごんぐ)の心あらば、自然(じねん)に穢土(ゑど)を執(しふ)すべからず。才覺(さいかく)にいはれけるなり。
○四壁、家の四方の壁なり。
○大堺、屋敷のさかひの垣(かき)などなり。
○名取郡、奥州の郡の名なり。名所なり。
[やぶちゃん注:「名取郡」同名の郡が昭和六三(一九八八)年まで宮城県南部にあった。明治一一(一八七八)年に行政区画として発足した当時の郡域は、名取市・岩沼市(吹上・吹上西・阿武隈・大昭和などを除く)・仙台市太白区及び青葉区の一部(茂庭・新川など)・若林区の一部(沖野・下飯田・三本塚・井土以南)に当たる。七世紀に設置されたと推定される郡で、かつては和銅六(七一三)年に陸奥国に丹取郡を置いたとする『続日本紀』の記事が、「名取」を「丹取」と誤記したものだとする説が有力だったが、現在では否定されている(丹取郡(にとりのこおり)は和銅六(七一三)年に当時の陸奥国最北の郡として、後の名取郡よりも遙かに北方である現在の宮城県大崎市辺りを中心に設置された郡。神亀五(七二八)年頃に分割・廃止された)。天平元(七二九)年十一月十五日の日付で、陸奥国名取郡から昆布を納めたときの荷札の木簡が、平城宮から見つかっている。また、郡の字は付されていないものの、郡山遺跡から出た土師器の坏に「名取」と記されたものがある。「名取」の名の文献上の初見は、「続日本紀」天平神護二(七六六)年十二月三十日の条にある名取竜麻呂の改姓記事であるが、郡名「名取郡」としては神護景雲三(七六九)年三月十三日の条、
神護景雲三年三月辛巳○辛巳。陸奧國白河郡人外正七位上丈部子老。賀美郡人丈部國益。標葉郡人正六位上丈部賀例努等十人。賜姓阿倍陸奧臣。安積郡人外從七位下丈部直繼足阿倍安積臣。信夫郡人外正六位上丈部大庭等阿倍信夫臣。柴田郡人外正六位上丈部嶋足安倍柴田臣。會津郡人外正八位下丈部庭蟲等二人阿倍會津臣。磐城郡人外正六位上丈部山際於保磐城臣。牡鹿郡人外正八位下春日部奧麻呂等三人武射臣。曰理郡人外從七位上宗何部池守等三人湯坐曰理連。白河郡人外正七位下靭大伴部繼人。黑川郡人外從六位下靭大伴部弟蟲等八人。靭大伴連。行方郡人外正六位下大伴部三田等四人大伴行方連。苅田郡人外正六位上大伴部人足大伴苅田臣。柴田郡人外從八位下大伴部福麻呂大伴柴田臣。磐瀨郡人外正六位上吉彌侯部人上磐瀨朝臣。宇多郡人外正六位下吉彌侯部文知上毛野陸奧公。名取郡人外正七位下吉彌侯部老人。賀美郡人外正七位下吉彌侯部大成等九人上毛野名取朝臣。信夫郡人外從八位下吉彌侯部足山守等七人上毛野鍬山公。新田郡人外大初位上吉彌侯部豐庭上毛野中村公。信夫郡人外少初位上吉彌侯部廣國下毛野靜戸公。玉造郡人外正七位上吉彌侯部念丸等七人下毛野俯見公。竝是大國造道嶋宿禰嶋足之所請也。
の、『名取郡人外正七位下吉彌侯部老人』に『上毛野名取朝臣』を賜姓したとする記事が最も早い。元来は名取川及び支流の広瀬川が宮城郡との境であったが、近世初期には広瀬川支流の竜ノ口沢が境界線となり、青葉城を含む土地が宮城郡へと編入された(以上は主にウィキの「名取郡」等に拠ったが、「続日本紀」の引用部は「J-TEXTS 日本文学電子図書館」の「続日本紀」巻第廿九)にあるものを恣意的に正字化して引用した)。Ⅱの大橋氏注には『山道・海道の合する要衝の地で』あったとする。しかし、本話では、敬仏房はこの「名取郡」を西方浄土の謂いとして置換している。
「欣求の心あらば、自然に穢土を執すべからず。才覺にいはれけるなり。」――欣求浄土のみ心のままにあれば、この穢土に対し、自ずと執着しなくなるものなのである。『近々、名取郡(なとりのこおり)に移り住むことになっておりますゆえ』とは、これ、我ら念仏者に対し、機転を利かせてお答えになられたのじゃ――
……しかし恐らく、かく涙して讃じた敬仏房に対して、この在家の主(あるじ)は微苦笑せざるを得なかったには違いあるまい……。]

