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2013/04/14

耳嚢 巻之六 きむらこう紋所の事

 きむらこう紋所の事

 

 三浦一等の内、當時佐原名乘候(なのりさふらふ)人は、丸にやはり三つ引を附候得共(つけさふらえども)、右三つ引を系譜抔にきむらこうと記し候よし。其子細は、いにしへは右三つ引の一筋黄、二筋目は紫、三筋目は紅に染(そめ)し故、むらさきの下略にて、きむら紅と唱へ候由。佐原氏の人、ものがたりの由、人のかたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:感じさせない。武辺有職故実。

・「きむらこう」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『木村こう』と表記し、長谷川氏は注されて、『三引両の三筋を黄・紫・紅に染めたもの』と記す。サイト「風雲戦国史――戦国武将の家紋」の引両紋の悲喜こもごもには、この通りに着色したカラーの三浦氏の幟が、同三浦氏のページに家紋の図像がある。後者によれば、三浦三つ引両のルーツは桓武平氏良文流とする(今、自宅の書斎にいる私の背後の山の頂上に彼の墓がある)。以下、引用させて頂く(西暦を漢数字に代えさせて頂いた)。

   《引用開始》

 横に、あるいは竪に一本、二本あるいは三本などと線を引いた紋がある。これらの紋は総称して「引両」紋と呼ばれる。非常にシンプルでかつ斬新な武家ならではの家紋である。

 引両紋は、龍を象ったものといわれている。すなわち一龍が「一つ引両」であり、二龍が「二つ引両」というのである。龍は古来、中国では天子の象徴として、我が国では雨の神として尊敬されてきた。家紋となったのも、そのような霊力にあやかろうとしたものと考えられるが、「両」が「龍」に通じることから、そのような説が成立したのであろう。

 鎌倉時代初期、源氏の一門である足利氏・新田氏は将軍家の白幕に遠慮して、自らの陣幕に二本の線、あるいは一本の線を引いた。それが足利氏の「二つ引両」となり、新田氏の「一つ引両」の紋に変化していったのである。こちらの方が、「引両紋」の成立としてはうなづけるものがある。

■幕紋[やぶちゃん注:ここにモノクロームの「三つ引き(黄紫紅)」「二つ引き」「一つ引き(大中黒)」の幟紋が掲げられている。

 三浦氏も「引両紋」を用いたが、三浦氏のものは「三つ引両」として有名である。三浦氏は源頼朝の創業を援け、鎌倉幕府初期の重鎮であった。この三浦氏の幕は、黄紫紅(きむらご)の三色に染め分けられたもので、三浦の「三」の文字を表現したものといわれる。それがのちに「三つ引両」の紋に転じたのである。このように、引両紋は陣幕から転じたものとみて間違いない。

 三浦氏の嫡流は「宝治合戦」で滅亡したが、一族は各地に分散し「三つ引両」の紋を伝えた。会津の葦名氏、越後の三浦和田氏一族、越後・周防の平子氏、織田信長に仕えた佐久間一族も三浦氏の分かれであった。さらに、美作の三浦氏、肥前の深堀氏など各地に広がった三浦一族は、いずれも三つ引両の紋を用いている。

  三浦氏の家紋の記録としては、永享七年(一四三五)に鎌倉公方が、常陸長倉城主の長倉遠江守を追罰した戦記物『羽継原合戦記』に「三つ引両は三浦介」とあり、『見聞諸家紋』にも、三浦介として「竪三つ引両」が記されている。また、北条早雲と戦って滅亡した三浦義意の肖像画の鎧の胴には、「丸に三つ引両」が描かれている。

 とはいえ、長い歴史の流れのなかで三つ引両から他の紋に転じた例もある。たとえば、越後の三浦和田氏一族の場合、惣領家である中条氏は鎌倉時代に三つ引両を用いていたことが知られる。それが、南北朝のとき足利尊氏に属して功があり、戦功の証として酢漿草(かたばみ)を賜った。これをきっかけとして、以後、三つ引両に代えて酢漿草紋を用いるようになったと『中条家記』にみえている。

   《引用終了》

・「一等」底本は右に『(一統)』と補正注を附す。岩波版長谷川氏は「一党」と補正。後者の方がよい。

・「佐原」ウィキの「佐原氏」のほぼ全文を引く(アラビア数字を漢数字に代えた)。『佐原氏(さわらし)は相模三浦氏の一族。三浦大介義明の末子・十郎義連を祖とする。宝治合戦で本家三浦氏が滅んだ際には盛連系を除く佐原氏の一族はこれに殉じて族滅した。僅かに盛連一族のみが生き残ったが、その出身である盛時は三浦氏を再興した。また、盛時の兄弟達の子孫は会津の豪族として活躍している。他にも越後山吉氏は男系では佐原氏の子孫である』。『三浦大介義明の末子である義連は相模国衣笠城の東南・佐原(現・神奈川県横須賀市佐原)に因んで佐原十郎と号した。これが佐原氏の始まりである。佐原義連は平家追討、奥州合戦等で功を立てた。特に後者では陸奥国会津を報償として与えられ、後に佐原氏が会津の豪族として発展する土台を築いた。 建仁三年(一二〇三年)に義連は死去するが、その後の佐原氏の家督がどのようになったかは定かではない。ただ、義連の息子のうち、盛連の遺児達が会津地方に因んで姓を名乗り、後に当地の豪族として発展していったことからすると盛連は会津地方を相続したと考えられる(実際に会津蘆名氏は盛連を初代とする系図が見受けられる)。盛連は本家である三浦義村の娘である矢部禅尼と結婚しているが、彼女は最初は執権北条泰時と結婚して時氏を儲けたものの夫と離別して盛連と再婚したのである。これにより盛連は得宗北条氏と縁繋がりとなった』。『宝治元年(一二四七年)に三浦氏追討の辞が下されて宝治合戦が勃発する。この戦いでは佐原氏の殆どが三浦側に加わったが、北条氏の縁繋がりのある盛連の遺児達は北条側に加わった。戦いの結果、三浦氏の本宗は族滅亡したが、佐原氏も同時に盛連系を除いて族滅したのである。宝治合戦後に盛連の五男・盛時は三浦介を継承して三浦氏を再興することが許された。これが相模三浦氏である。また、盛時の兄弟の子孫は会津の豪族として発展した。その中で有名なのは会津守護と呼ばれた蘆名氏である。盛時の孫である明連は越後国の池保清の娘と結婚した。二人の息子である成明は母方の池氏の名跡を継ぎ、その子孫は山吉氏として発展した』。底本の鈴木氏注に、『この系統の佐原姓が寛政譜に二家ある』とある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 「きむらこう」の紋所の事

 

 三浦一党の内、現在、佐原姓を名乗っておらるる御武家は、その昔の三浦氏御一党と同じく、

――丸に、やはり、三つ引き

の紋を附けておらるるが、この三つ引きの紋のことを、これ系譜等では、

「きむらこう」

と記して御座る由。

 その子細によれば、古えは、この三つ引きの一筋を黄(き)に、二筋目は紫(むさらき)に、三筋目は紅(こう)にそれぞれ染めて御座ったゆえ、「むらさき」の下を略し、

「黄紫紅(きむらこう)」

とは唱へて御座る由。

 佐原氏御当家の方が直接に物語られた由、知人から聴いた話で御座る。

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