明恵上人夢記 3・4
3・4
一、同廿七日の夜、釋迦如來の御前に於いて、花嚴經を讀誦し奉る。其の間、熟眠(じゆくめん)し了(をは)んぬ。夢に云はく、『菩薩三僧祇(さんそうぎ)修行の圖』と云ひて、獨鈷(とこ)の如くなる物あり。處々に瑕(きず)あり。初僧祇より第二個所に至る間の瑕なんど云ひてあり。成辨(じやうべん)も此(これ)に從ひて修行せんずると覺ゆ。然るに、初心には此(かく)の如き少々の瑕のあるなりと思ふ。此(これ)は、成辨、經典を讀誦する間に心の散亂するをうれふるが故に示す所也。又、東寺の塔の許に繩をひけり。其の繩をひける内は、其の地、深田の如くして歩みにくげなり。少々人のありくも、其の足、地に入りて歩みにくげに見ゆ。成辨、其の繩をひける内に、少しき片足を踏み入れたるが、やがて足をひきて繩の外の大路(おほぢ)へ去りぬ。其の大路は堅地(かたぢ)にして、歩みよげなりと見ると云々。
[やぶちゃん注:これは二つの夢から構成されている。訳では分けた。
「花嚴經」正式名「大方広仏華厳経」「大方広仏」とは、時空間を超越した絶対的存在としての「仏」というものの存在について説いた経。「厳」は荘厳(しょうごん)で、「花で厳かに飾られた広大なる教え」の意。
「菩薩三僧祇」三阿僧祇劫(さんあそうぎこう)のこと。修行者である菩薩が仏果を得るまでの途方もない永い時間がかかる修行段階を三分したもので、五〇ある修行の諸段階の内、十信・十住・十行・十回向を第一阿僧祇劫・十地のうちの初地から七地までを第二阿僧祇劫・八地から十地を第三阿僧祇劫に三大別したもの。なお、「僧祇」は「阿僧祇」のことで、梵語の「無数」「無量」の音写で数えられないほどの大きな数、具体的には10の56乗(一説に10の64乗)を示す数の位の単位である。
「獨鈷」密教で用いる法具金剛杵(こんごうしょ)の一種。鉄製又は銅製で両端が尖った短い棒状のもので、魔を払う。古代インドの投擲用の武器の転用。独鈷杵(とっこしょ)。
「此は、成辨、經典を讀誦する間に心の散亂するをうれふるが故に示す所也。」「成辨」は文治四(一一八八)年十六で出家して東大寺で具足戒を受けた折りに明恵が受けた法諱。後に高弁と改名している(底本の注記によれば承元二(一二〇八)年五月以降で承元四(一二一〇)年七月五日以前の間の改名である)。この部分は夢記述ではなく、「夢記」にしばしば見られる明恵による夢解釈で、非常に貴重な部分である。
「東寺」京都市南区九条町にある真言宗の根本道場。現在は東寺真言宗総本山。教王護国寺とも呼ばれる(参照したウィキの「東寺」によれば、正式な名称は東寺である)。
「塔」知られた東寺の国宝五重塔。ウィキの「東寺」によれば、高さ五四・八メートルで木造塔としては日本一の高さを誇る。天長三(八二六)年、空海が創建に着手したが、完成は空海没後の九世紀末とされる。雷火や不審火で四回焼失しており、現在の塔は五代目で、寛永二一(一六四四)年に徳川家光の寄進によって建てられたもの。『初重内部の壁や柱には両界曼荼羅や真言八祖像を描き、須弥壇には心柱を中心にして金剛界四仏像と八大菩薩像を安置する。真言密教の中心尊であり金剛界五仏の中尊でもある大日如来の像はここにはなく、心柱を大日如来とみなしている』とある。底本の注には、『この辺の記事は建久年間に行われた文覚・上覚らによる修理が意識されたものか』とある。しかし、この『意識』というのは夢の具体的アイテムの素材動機となったという以上の情報を教えてくれるものではない。もう少し、即ち、彼らの弟子である明恵が、その改修にどう関わったか、関わらなかったか、といった情報が欲しい。
「繩をひけり」地曳き。「地曳き」は本来は家屋などを建築する際に地均(なら)しや地突きの際に行う儀式としての地曳き祭りを指すが、この場合は実際の間縄(けんなわ)を用いての検地測量や間隔を測る作業を言っている。]
■やぶちゃん現代語訳
3
一、同二十七日の夜、釈迦如来の尊像の御前に於いて、「華厳経」を讀誦し奉った。それを成し終えてから、横になって深い眠りに入った。その時の第一の夢。
「――『菩薩三僧祇(さんそうぎ)修行の図』――
と書かれたものに、独鈷(とっこ)のような物体が描かれている。その物体には所々に疵(きず)がついている。図にはまた、
『――第一阿僧祇劫より第二阿僧祇劫に至る修行の諸階梯の間に生じた疵――』
などという解説が記されている。
その図を見ながら、
『私、成弁(じょうべん)も、この絵解きに従って修行をして来たし、これからも続けるのであろうなあ。』
としみじみと感じた。
さても、
『修行の初心にあっては、まさにかくの如き、痛々しき少々の疵も、これ、兎角、つきものなのだなあ。』
とも思いつつ、見つめていた。
〈私明恵の夢解釈〉
これは、私、成弁が、経典を読誦している、その只中にあってさえも、得てして、知らぬ間に心が乱るることがあるが故に、その「警策(けいさく)」として、私、成弁に対し示された夢なのである。
4
続く第二の夢。
「私は東寺の五重の塔の直ぐのところで、地面に間縄(けんなわ)を曳いているのであるが、その縄を曳いた場所の内側(東寺境内の内側)に当たる地所は、深田のような湿地化沼沢のようになってしまっており、非常に歩きにくそうに見える。
そこには実際、少しは人が歩いているのではあるが、彼らの足はずぶずぶと地面に潜り沈んでしまって、やはり如何にも歩きにくそうに見えるのである。
私、成弁も、試みに、その縄を曳いた直ぐの、その内側のところに、少しだけ、片足を踏み入れようとしたが、すぐに止め、間縄(けんなわ)の外側(東寺境内の外)の、大路の方に向かって去った。その私が行く大路は、非常に堅い地面であって、歩きながら、
『ああ! 如何にも歩き易そうだなあ。』
と頻りに感じ入った――。
[やぶちゃん注:本条について、河合氏は「明惠 夢に生きる」の中で(一三三頁)、まず3の夢について、『自己反省の強い明恵としては、いろいろな「瑕」を意識することが多かったであろうが、「初心には此の如き少々の瑕のあるなり」という言葉で慰められたであろう』とある。ということは、河合氏は、覚醒時には激しい自己拘束を課している明恵の本心の底にあるところの自己の修行実体への秘められた虞れを、夢の中の、夢の中でのみ発動するような、より柔軟で包括的な明恵の内なる、ある存在が『慰め』たということになる。
また、4について河合氏は『明恵がもう少し社会との接触をもつようになることを暗示しているように思われる』とされ、夢の中の極めて明瞭な二項対立からは、『明恵は以前よりは父性的なものを身につけ、隠遁生活から外の社会へと少し乗り出してゆくことが推察される』と分析なさっておられる。しかし、本夢が底本編者の推定通り、建久六(一一九五)年の記載であるとすれば、明恵はまさに、東大寺への出仕を止めてしまい、神護寺をも出奔して、紀州白上の峰に隠棲してしまうのである。河合氏はこの夢をこの白上遁世以降で、耳自截の翌年である建久九(一一九八)年頃の八月(この時、明恵は一度、高雄に戻って、その後、紀州の白上や筏立に移って点々とするのである)以前に設定しておられるのではあるまいか?]

