祕密 萩原朔太郎
祕密
春畫や春本ほど、一般に祕密にされながら、しかも普遍的なものはないだらう。實に至る所に、僕等はその表現を發見する。たとへば町の共同便所や、寄宿舎の壁や、工場の集會所や、それからたいていの中學生のノートなどに。
此等のものについて、僕の實に驚くことは、すべてが一樣の型にはまり、同じ言語、同じ畫面が、至る所に約束されてゐるといふことである。そこにはいつも、氣の利かない、馬鹿馬鹿しい、無刺激の言語が羅列され、ただ醜惡の外、何の春情をも挑撥し得ない、誇張した局部の穢畫がある。何故に人々は、こんな醜劣な、非色情的なものによつて、性感の満足と表現を得るのだらうか。もし人間の性生活が、實に果してこの通りで、一樣に、単調に、平凡に、型にはまつたものであり、且つそれが一般的であるとすれば、人生は何といふ陰慘な存在だらう。あらゆる春畫の表現は、僕を絶望的にまで憂鬱にする。實に春童や春本ほど、僕にとつて人生を味氣なく、退屈に感じさせるものはない。
或はもちろん、此等の街路に見る落書は、何等質感からの表現でなく、子供等の無心にする摸倣の惡戯であるだらう。しかしながら歌麿や豊國やの大家等が、時に全くその「同じもの」を描いて居るのだ。すべての美術的な春畫が、同樣に醜惡の局部を描き、型にはまつた一樣式のものであるとは? 他の創作に於ては、かれほどに獨創的で、特異な個性と創見とをもつてる畫家が、人生の最も情熱的な畫題に対して、一も類型の平凡を脱しないといふことは、いかに人間の性生活が、一般を通じて單調であり、馬鹿馬鹿しく、無刺激なものであるかを證據する。
果してけれども、それが人間の實の表現だらうか。たいていの人々は、思ふにその實の表現を祕密にしてゐる。人間の羞恥心は、實の恥づかしい、デリケートな性感を人にかくし、一般に知られてゐる、紋切り型の、公開されたものだけを表現してゐる。春畫や淫本に於てさへも、人生の明らさまの表口しか、僕等は見ることができないのだ。
[やぶちゃん注:『手帖』第一巻第四号・昭和二(一九二七)年六月号に掲載。……「他の創作に於ては、かれほどに獨創的で、特異な個性と創見とをもつてる畫家が、人生の最も情熱的な畫題に対して、一も類型の平凡を脱しないといふことは、いかに人間の性生活が、一般を通じて單調であり、馬鹿馬鹿しく、無刺激なものであるかを證據する」という断言……そしてコーダに於いて「春畫や淫本に於てさへも、人生の明らさまの表口しか、僕等は見ることができないのだ」と、ある対象を強調的に例示し、それによって他の場合は勿論、当然であることを類推させる副助詞「さへ」に添加の係助詞「も」を用いた朔太郎の、くだらない、おおかたの人間存在の、その人生というものへの絶対のアンニュイが見てとれる……]