明恵上人夢記 2
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一、同廿二日、一向に、釋迦大師の御所に於いて、忠を盡さむと思ふ。其の夜、夢に、上人の御房、前(さき)に已に滅し給ふ。其のしおかせ給へ金堂土壇(こんだうどたん)の干割(ひわ)れてあしくなれるを、鍬をもてうちかへして、よくよくうちとゝのふ。其の壇の上に多くの赤き丹(に)を散ず。其の色、殊に妙(たへ)にして、諸人(しよにん)之を讚美すと云々。
[やぶちゃん注:日付が前後しているのは、明恵が毎日、夢記述を行っていたのではなく、何日かに纏めて書き記していた可能性を示唆し、その場合、恣意的で意識的若しくは無意識的な夢の美化や論理的整合性や合目的性を孕んだ明恵自身による脚色が行われてしまっている可能性をも念頭に置く必要はある。これは夢分析の現場でも最も注意しなければならないこととして知られ、また私自身の夢記述の経験からも、しばしばある問題点である。意識的にも勿論ながら、超自我の検閲が再検閲をかけ、無意識の内に「辻褄が合わないがそれ故にこそ意味あること」を、「辻褄を合わせて意味を無化させる仕儀」を成すことがまま、いや、かなり高い確率で、あるのである(と私は思っているのである)。
「釋迦大師の御所に於いて、忠を盡さむと思ふ」夢(これは正しく就眠時の夢)に入る前の、その日の覚醒時の、事実というより、より重要な心理状態を書き記している点で着目する必要がある。彼は僧であるから、釈迦如来の広大無辺の慈悲への絶対の恭順はいつものことであるはずだが、この日、明恵が、何時もの通りに、「忠を盡さむ」と心に覚えたことを、しかし特に記したい、と感じていることが重要であり、それこそが、その日の夜の夢に意味を与えているのだと明恵が信じている(確信している)という点が眼目なのである。
「上人の御房」これは叙述からも具体的な事実としての仏法上の直接の師を指していることは間違いない。明恵にとって師は、高雄山神護寺に於ける文覚の弟子で、明恵の叔父に当たる上覚(後に「夢記」で「上師」という呼称で登場する)か、後に師事することになる上覚の師である文覚自身となる。ところが、二人の生没年は、
上覚 久安三(一一四七)年~嘉禄二(一二二六)年十月
文覚 保延五(一一三九)年~建仁三(一二〇三)年七月二十一日
である(以上はウィキのそれぞれの生没年によったが、河合氏の「明惠 夢に生きる」では上覚の没年は一二二六年以前と不定にしてある。因みに頼朝挙兵に功のあった文覚は、晩年、後鳥羽上皇に謀反の嫌疑をかけられて対馬国へ流罪となる途中の鎮西で客死している)
本夢が底本編者の推定通り、
建久六(一一九五)年
の記載であるとすれば、明恵の事実上の「上人の御房」=師は、二人とも存命していることになる。勿論、これを全く架空の人物をとることも出来ぬわけではないが、だとすればもっと書きようがあろう。されば、私はこれは、実際には我が師匠は未だ存命しておられるが、夢の中では既に示寂しておられた、という設定であると、とるものである。一見、不吉にして不遜で書き記すことを躊躇しないかと思われる向きもあろうが、浄土教ならずとも、仏法の根本に於いて死を忌避するのは寧ろおかしいであろう。仏者が壇を設けられ祀られているという設定は必ず「在る」ザインであり、同時に「在るべき」ゾルレンである。それにして何れの人物か? 後述される夢では、明らかに上覚に対してはある種のアンビバレントな意識を持っていたことが分かるので、私はここは文覚を指すと一応はとりたい。しかし、実はこれは、理想の文覚であり理想の上覚であり、架空の不二の理想の師でもある設定なのではあるまいか? だからこそ既にして入滅して「いなければ」ならないのではないか?
「土壇」土を盛って築いた祭壇。
「丹」硫黄と水銀の化合した赤土。辰砂(しんしゃ)。道家思想では不老不死長寿の薬でもある。
「云々」引用した文や語句のあとを省略すると際、「以下略」の意味でその末尾に添える語である。必ずしも、省略がなくても引用であることを示すためにこの時代はしばしば使われているが、「夢記」では非常に重要な語句であるように思われる。以降の記述を見ると、明恵は夢を途中(特に話の末尾部分を丸ごと)で忘れた場合、はっきりと思い出せない場合、更に複数の夢を見た場合の区切りとして、この「云々」を用いていると読めるからである。]
■やぶちゃん現代語訳
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一、同二十二日、今日も何時もの通り、他に心を向けることなく、只管、釈迦如来の祀られている御堂に於いて、真心を尽くし、修行を執り行おうと心に誓って、いつもの通り、かく行法を成し終えた。その夜、見た夢。
「夢の中では、私の御上人様は、既にして、寂滅なさっておられる。
そうして上人様のために、既にして設けられてある、上人様を祀る金堂が、土を盛った壇の上に築かれてある、その前に私は立っている。
見ると、金堂の建っている土壇(どたん)がすっかり乾き切って、無数に罅(ひび)割れて、ひどく壊(く)えていた。そこで私は、手ずから鍬を執り、その土壇をしっかりとうち耕して、新たに壇を築き直した。
すると、その私が拵え直した壇の表面のあちらこちらに、数多(あまた)の真っ赤な辰砂(しんしゃ)がじんわりを浸み出して、壇上に美しい色を点じていた。
その真紅の色は、殊の外、霊妙で、それを見た会衆は、そのことを頻りに賛美していた。……」
[やぶちゃん補注:「丹」が普通なら容易に連想されるはずの忌避される血の色と『敢えて』表現せずに、「殊に妙にして、諸人之を讚美す」というのは、寧ろ、だからこそ、血をそこに明恵が『確かに』認知している、その『血は私の血だ』と深く認知していると言える。そしてこれは、明恵の人生の最大の瞬間を我々にフラッシュ・バックさせる。即ち、建久七(一一九六)年満二十三歳の折りの、自身による耳削ぎのである。奥田正造編「栂尾明惠上人傳記」(私の電子テキスト)から当該箇所を引く。
彌々形をやつして人間を辭し、志を堅くして如來の跡(あと)を踏まんことを思ふ。然るに、眼をくじらば、聖教を見ざる歎(なげき)あり。鼻を切らば則ち、涕洟(ていい)垂りて聖教を汚(けが)さん。手を切ちば印を結ばんに煩ひあらん。耳は切ると云へども、聞えざるべきに非ず。然れども五根(ごこん)の闕(か)けたるに似たり。されども、片輪者(かたわもの)にならずば、猶人の崇敬(そうけい)に妖(ばか)されて、思はざる外に心弱き身なれば、出世もしつべし。左樣にてはおぼろげの方便をからずば、一定(いちぢやう)損をとりぬべし。片輪者とて人も目を懸けず、身も憚りて指出(さしい)でずんば、自らよかりぬべしと思うて、志を堅くして、佛眼(ぶつげん)如來の御前にして、念誦の次でに、自ら剃刀を取つて右の耳を切る。餘りて走り散る血、本尊竝に佛具聖教等に懸り、其血本所に未だ失せずと云云。
この最後、「佛眼如來の御前にして、念誦の次でに、自ら剃刀を取つて右の耳を切る。餘りて走り散る血、本尊竝に佛具聖教等に懸り、其血本所に未だ失せず」
――文殊菩薩像の御前(おんまえ)にして、経を念誦しつつ、自(みずか)ら剃刀を執って右の耳を削ぎ切る。迸り出、ぱっと散じた血は、御本尊や仏具・経に至るまで鮮やかに降り懸かり、その血の跡は、それぞれの散り染めた場所・床に、今も失われずに在る―― というシークエンスは恐ろしくも美しい。
――しかし年号を見て頂きたい。本夢が底本編者の推定通り、建久六(一一九五)年のものえだるとすれば
――この夢は――彼が耳を削ぎ切る前の年の夢なのである……
さればこそ、この自らの耳の自截の瞬間、明恵の心には、かつてのこの夢の映像が、預言としてフィード・バックしたと私は考える。そしてそれは実景としての凄惨さや、血の持つ穢れが完全に無効化され、寧ろ、夢の中の、会衆の讃嘆の声に広がってゆく赤い蓮華のようなものとしてそれが意識されたに違いないと私は思うのである。
また、生臭い血を超越したそれは、道家的な不滅の、仏法の正当な「血」脈(けちみゃく)のシンボルとしての辰砂でもあるようにも私には感じられる。これは明恵の、精神的な意味での、血脈=法灯の護持の、揺るぎない(だからこそ冒頭に言わずもがなに見える事実を記した)自負が示された夢と読んでよいであろう。この夢こそが翌年の耳自截を預言したものなのである(少なくとも自截後の明恵はそう考えていたに違いない)。しかし、モノクロームの画面に漣のように広がってゆく円形の辰砂の色が実に美しいではないか。]