栂尾明恵上人伝記 21
建久九年〔戊午〕秋の末に、高尾聊か騷動する事有りしかば、むつかしくとて、本(もと)住(す)み捨てし紀州白上の峯に歸り給ひしが、此の所猶人近(ひとちか)くして、樵夫(せうふ)の斧の音、耳かしましくして、又三四町下は大道なり。うるさきこともあればとて、石垣山(いしがきやま)の奧に、人里(ひとざと)三十町計り隔てゝ、筏立(いかだだち)と云ふ處あり。興ある靈地なり。上人の舅(しうと)湯淺兵衞尉宗光(ゆあさひやうゑのじようむねみつ)が知行(ちぎやう)の處なり。仍て其れに草菴を構へて、請(しやう)じ申されければ、移り給ひて坐禪行道(ざぜんぎやうだう)、萬事を抛(なげう)ちて營まれけり。其の間、唯心觀行式(ゆゐしんくわんぎやうしき)一卷撰集(せんじふ)す。又、隨意別願(ずゐいべつぐわん)の文同じく之を集む。又解脱門義(げだつもんぎ)竝に信種義(しんしゆぎ)之を撰ぶ。
[やぶちゃん注:「筏立」和歌山県有田郡有田川町(旧金屋町)にある明恵の生地。現在は「いかだち」と呼んでいる。現在、歓喜寺(かんぎじ)という浄土宗の寺が現存するが、ウィキに「歓喜寺」によれば、伝承によればこの寺の創建は寛和二(九八六年)に「往生要集」の著者源信の開創とする。その後、衰微したが、建長元(一二四九年)年に明恵の高弟で本伝記の作者喜海が再興したとされ、これを促したのは明恵の従兄弟湯浅宗氏(本文の宗光の三男)であったという(当時は真言宗寺院であったが近世に浄土宗に改宗)。
「舅湯淺兵衞尉宗光」「舅」は「おじ」、母親の兄弟である伯父・叔父の意。「湯淺兵衞尉宗光」(生没年不詳)は鎌倉前期の武士で宗重(紀伊国湯浅城(現在の和歌山県有田郡湯浅町青木)を領した平清盛配下の有力武将。清盛の死後、平重盛の子忠房を擁して湯浅城に立て籠もるも源頼朝に降伏して文治二(一一八六)年に所領を安堵される。以後、順調に所領を増やして紀の川流域まで勢力を広げ、後に湯浅党と呼ばれた)の七男(養子とも)。七郎左衛門尉と称した。後に出家して浄心と号した。当初は父と共に平氏に仕えたが、やがて源氏に味方するようになり、鎌倉幕府御家人となった。父から紀伊国保田荘(現在の和歌山県有田市)を譲られて保田氏を名乗るようになる。嫡流でなかったにも拘わらず、湯浅一族の中での最有力者となり、保田氏が湯浅一族全体の主導的立場に立つ基礎を築いた。甥に当たる明恵の後援者でもあった(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。]