大和田建樹「散文韻文 雪月花」より「汐なれごろも」(明治二七(一八九四)年及び二九(一八九六)年の鎌倉・江の島風景) 2
鎌倉に歸れば盆の十六日になりぬ。けふは閻魔まゐりをするとて、漁夫の娘も相應に晴着よそほひつゝ、手を引き引かれねりゆくなり。處はと問へば山の内なりといふに、例の物見ずきなる癖とて、喜ぶ子供を先に立てゝ雪の下へと道を急ぐ。鶴岡の八幡宮を知らぬもあれば、先づ之に詣で、それより繩手めきたる道を田舍娘の群れ行く方にとたどり行けば、蟻の行列は遂に左手の高き處にぞとまりける。寺は圓應寺とかいひけらし、人は新居の閻魔樣と呼ぶ。賑は何くも同じ事にて、飴賣る店、氷賣る店など、立ち竝びつゝ聲々にすゝめたつれば、汐風に吹き黑まされたる美人は、首に掛けたる財布の紐を解きかけつゝ、土産の品を直切るもあり。堂に入りて見れば、正面の閻魔王をはじめとして有らゆる木像、すべて古色の掬すべきあるを覺えしは、運慶の作と人はかたれり。石段を下りて猶人の西へと行くは、ものこそあらめと坂を下りゆくに、建長寺さして又蟻の道はつきたり。門を入れば、辻占入の菓子に天狗の羽團扇つけたるを賣る店など立ちならぶ。何故けふはかゝるものを賣るぞと問へば、旦那は御存じなきか、半僧樣とて東京からさへ參詣し給ふ人もあるをといふ。さてはよき折に來つるなり。今日のみは人まねの効能あやまたぎりきと笑ひあひつゝ、本堂を右に見て山道を奧へく奥へと入る。道すがら赤く白く竹の筒のふとさに卷きたるものを賣るを、線香にやと問へば、一束百本づゝの旗なり、旦那も御心願の叶ほせらるゝやうに、立てゝ奉納し給へとすゝめて止まず。さらば武運長久の御祈願にもなど戲れつゝ、いざ立てよといへば、小兒は石垣木の根ともいはず、おもしろがりてこゝにもここにもと突きさしくうかれゆく。坂いよいよ急にして山ますます嶮しく、遂に同行の中二人は途中に殘されたり。此間に休め休めと呼びたつる茶店處々にありて、鮨飯餅氷水などを出だしたるも、大方は殘り少なになれるほどの繁昌なり。腕まくりに尻はしよりなる娘は、燃えたつ顏を汗にしつゝ、腰うちかけては柄杓に汲みだす釜の茶を吹き吹き飮む。からうじて奧の院までのぼりはてぬ。堂は大きからぬが極めて險しき坂の上に立てり。祭らるゝは天狗にて半僧大權現とぞよばれたる。堂のうしろには一の茶店ありて眺望打開けたり。是に一休みして茶をもてくる老婆に問へば、あれなるは戸塚程谷、右の端の平たきところが神奈川なりなど、指さし示す。蟬の聲も何となく涼しきに、鶯さへ法法華經と鳴き出でたり。下りはいとやすやすとはやくも建長寺に來りぬ。こゝにて本堂など見物しありきて雪の下に歸りし頃は、夕陽八幡の森に落ちて風やゝ涼し。さても閻魔にひかれて半僧まゐりとは今日なるべしと笑へば、小兒は坂のこはかりし事など今も忘れずして語る。
[やぶちゃん注:雪ノ下から巨福呂坂(この道は明治一九(一八八六)年に明治政府が新たに開鑿した新道で現在の車道と同じ位置にあった)への「繩手」(田の畦道)めいたところを、田舎娘たちがぞろぞろと向かう様子、円応寺及び建長寺境内から半僧坊へ至る道筋の茶店や土産物店の賑わい、殊に既に占い+天狗の羽団扇というオプション戦略の銘(?)菓や、小さな旗竿を地面に立て挿して天狗へ奉納祈請するという当時の風俗など、近代鎌倉紀行やガイドブックには見られないリアルな情景がすこぶる面白い。私は読みながら、大和田家族の書生になった気分で歩く自分を実感したものである。……私は思い出す……そこで、この坂下の、晴着を着た「汐風に吹き黑まされた」小麦色のぱんとした張りのある頬の漁師の娘に……「首に掛けたる財布の紐を解きかけつゝ、土産の品を直切る」小娘に……何故か、うたかたの恋をしたのだった。……そうだ……建長寺奥の急坂で顎を出しかけている私を尻目に、元気よく、「よつこらしよ! よつこらしよ!」と声を掛けながら――「書生さあ! もうじきじゃ!」――と……「腕まくりに尻はしより」している彼女を、少し顔を赤らめながら眩しそうに見上げている私が、いる……ほうほうの体(てい)で辿り着いた半僧坊の茶屋で、「燃えたつ顏を汗にしつゝ、腰うちかけては柄杓に汲みだす釜の茶を吹き吹き飮」んでいるその娘を、何か、限りなく愛おしいものに感じながら、黙って笑って見ている私が、そこに、いる――のである……。
「直切る」「ねぎる」(値切る)と読む。
「武運長久の御祈願」この旅は明治二七(一八九四)年八月十六日であるが、まさにこの前月七月二十三日に日本は漢城に侵攻、朝鮮王宮を三時間に亙って攻撃し、占領、七月二十五日には日本艦隊と清国艦隊が朝鮮半島西岸沖の豊島(ほうとう:現在の京畿道安山市檀園区内)沖で海戦(豊島沖海戦)となり、大日本帝国海軍が圧勝、八月一日には遂に日清両国が宣戦布告し、日清戦争が勃発し、この七月十六日頃には、日清戦争における最初の本格的な陸戦である平壌の戦い(九月十五日)に向けての動きが既に始まっていた。]