○實朝公右大臣に任ず 付 拜賀 竝 禪師公曉實朝を討つ
同十二月二日、將軍實朝公既に正二位右大臣に任ぜらる。明年正月には、鶴ヶ岡の八幡宮にして、御拜賀あるべしとて、大夫判官行村、奉行を承り、供奉の行列隨兵(ずゐびやう)以下の人數を定めらる、御装束(ごしやうぞく)御車以下の調度は、仙洞より下されける。右大將頼朝卿の御時に隨兵を定められしには、譜代の勇士(ようし)、弓馬の達者、容儀美麗の三德の人を撰びて、拜賀の供奉を勤させらる。然るにこの度の拜賀は、關東未だ例なき睛(はれ)の儀なりとて、豫てその人を擇(えら)び定めらる。建保七年正月二十七日は、今日良辰(りやうしん)なりとて、將軍家右大臣御拜賀酉刻(とりのこく)と觸れられけり。路次(ろじ)行列の裝(よそほひ)、嚴重なり。先づ居飼(ゐかい)四人、舍人(とねり)四人、一員(ゐん)二行に列(つらな)り、將曹菅野景盛(しやうざうすがのかげもり)、府生狛盛光(ふしやうこまのもりみつ)、中原成能(なかはらのなりより)、束帶して續きたり。次に殿上人(でんじやうびと)北條〔の〕侍従(じじう)能氏、伊豫(いよの)少將實雅、中宮權亮(ごんのすけ)信義以下五人、随身(ずゐしん)各四人を倶す。藤勾當(とうのこいたう)賴隆以下前驅(ぜんく)十八人二行に歩む。次に官人秦兼峰(はたのかねみね)、番長下毛野敦秀(ばんちやうしもつけのあつひで)、次に將軍家檳榔毛(びりやうげ)の御車、車副(くるまそひ)四人、扈從(こしよう)は坊門(ぼうもんの)大納言、次に隨兵十人、皆、甲胄を帶(たい)す。雜色(ざつしき)二十人、檢非違使(けんびゐし)一人、調度懸(てうどかけ)、小舎人童(こどねりのわらは)、看督長(かどのをさ)二人、火長(かちやう)二人、放免(はうべん)五人、次に調度懸佐々木〔の〕五郎左衞門尉義淸、下﨟の隨身(ずいじん)六人、次に新大納言忠淸、宰相中將國道以下、公卿五人、各々(おのおの)前驅隨身あり。次に受領の大名三十人、路次の隨兵一千騎、花を飾り、色を交へ、辻堅(つじがため)嚴しく、御所より鶴ヶ岡まで、ねり出て赴き給ふ裝(よそほひ)、心も言葉も及ばれず。前代にも例(ためし)なく後代も亦有べからずと、貴賤上下の見物は飽(いや)が上に集りて錐(きり)を立る地もなし。路次の両方込合うて推合(おしあ)ひける所には、若(もし)狼藉もや出來すべきと駈靜(かりしづ)むるに隙(ひま)ぞなき。既に宮寺(きうじ)の樓門に入り給ふ時に當りて、右京〔の〕大夫義時、俄に心神違例(ゐれい)して、御劍をば仲章朝臣(なかあきらのあそん)に讓りて退出せらる。右大臣實朝公、小野(をのゝ)御亭より、宮前(きうぜん)に參向(さんかう)し給ふ。夜陰に及びて、神拜の事終り、伶人(れいじん)、樂(がく)を奏し、祝部(はふり)、鈴を振(ふり)て神慮をいさめ奉る。當宮(たうぐう)の別當阿闍梨公曉、竊(ひそか)に石階(いしばし)の邊(へん)に伺來(うかゞひきた)り、劍(けん)を取りて、右大臣實朝公の首、打落(うちおと)し、提(ひつさ)げて逐電(ちくてん)す。武田〔の〕五郎信光を先として、聲々に喚(よばは)り、隨兵等(ら)走散(はしりち)りて求むれども誰人(たれびと)の所爲(しよゐ)と知難(しりがた)し。別當坊公曉の所爲ぞと云出しければ、雪下の本坊に押(おし)寄せけれども、公曉はおはしまさず。さしも巍々(ぎゞ)たる行列の作法(さはふ)も亂れて、公卿、殿上人は歩跣(かちはだし)になり、冠(かうふり)ぬけて落失(おちう)せ、一千餘騎の随兵等、馬を馳(はせ)て込來(こみきた)り、見物の上下は蹈殺(ふみころ)され、打倒(うちたふ)れ、鎌倉中はいとゞ暗(くらやみ)になり、これはそも如何なる事ぞとて、人々魂(たましひ)を失ひ、呆れたる計(ばかり)なり。禪師公曉は、御後見(ごこうけん)備中阿闍梨の雪下の坊に入りて、乳母子(めのとご)の彌源太(みげんだ)兵衞尉を使として、三浦左衞門尉義村に仰せ遣されけるやう、「今は將軍の官職、既に闕(けつ)す。我は關東武門の長胤(ちやういん)たり。早く計議(けいぎ)を廻らすべし。示合(しめしあは)せらるべきなり」とあり。義村が息駒若丸、かの門弟たる好(よしみ)を賴みて、かく仰せ遣(つかは)さる。義村、聞きて、「先(まづ)此方(こなた)へ來り給へ。御迎(おんむかひ)の兵士(ひやうし)を參(まゐら)すべし」とて、使者を歸し、右京〔の〕大夫義時に告げたり。公曉は直人(たゞびと)にあらず、武勇兵略(ぶようひやうりやく)勝れたれば、輒(たやす)く謀難(はかりがた)かるべしとて、勇悍(ようかん)の武士を擇び、長尾〔の〕新六定景を大將として、討手をぞ向けられける。定景は黑皮威(くろかはおどし)の胄(よろひ)を著(ちやく)し、大力(だいりき)の剛者(がうのもの)、雜賀(さいがの)次郎以下郎従五人を相倶して、公曉のおはする備中阿闍梨の坊に赴く。公曉は鶴ヶ岡の後(うしろ)の峰に登りて義村が家に至らんとし給ふ途中にして、長尾定景、行合ひて、太刀おつ取りて御首を打落しけり。素絹(そけん)の下に腹卷をぞ召されける。長尾御首を持ちて馳歸り、義村、義時是を實檢す。前〔の〕大膳〔の〕大夫中原(なかはらの)廣元入道覺阿、申されけるは、「今日の勝事(しようじ)は豫て示す所の候。將軍家御出立の期(ご)に臨みて申しけるやうは、覺阿成人して以來(このかた)、遂に涙の面に浮ぶ事を知らず。然るに、今御前に參りて、頻に涙の出るは是(これ)直事(たゞごと)とも思はれず。定(さだめ)て子細あるべく候か。東大寺供養の日、右大將家の御出の例(れい)に任せて、御束帶(ごそくたい)の下に腹卷(はらまき)を著せしめ給へと申す。仲章朝臣、申されしは、大臣、大將に昇る人、未だ其例式(れいしき)あるべからずと。是(これ)に依(よる)て止(とゞ)めらる。又、御出の時、宮田兵衞〔の〕尉公氏(きんうぢ)、御鬢(ぎよびん)に候(こう)ず。實朝公、自(みづから)鬢(びんのかみ)一筋(すぢ)を拔きて御記念(かたみ)と稱して賜り、次に庭上の梅を御覽じて、
出でていなば主なき宿と成りぬとも軒端の梅よ春を忘るな
其外商門を出で給ふ時、靈鳩(れいきう)、頻(しきり)に鳴騷(なきさわ)ぎ、車よりして下(お)り給ふ時、御劍(ぎよけん)を突折(つきをり)候事、禁忌、殆ど是(これ)多し。後悔せしむる所なり」とぞ語られける。御臺所、御飾(かざり)を下(おろ)し給ふ。御家人一百餘輩、同時に出家致しけり。翌日、御葬禮を營むといへ共、御首(おんくび)は失せ給ふ、五體不具にしては憚りありとて、昨日(きのふ)、公氏に賜る所の鬢(びんのかみ)を御首に准(じゆん)じて棺に納め奉り、勝長壽院の傍(かたはら)に葬りけるぞ哀(あはれ)なる。初(はじめ)、建仁三年より、實朝、既に將軍に任じ、今年に及びて治世(ぢせい)十七年、御歳(おんとし)二十八歳、白刃(はくじん)に中(あたつ)て黄泉(くわうせん)に埋(うづも)れ、人間を辭して幽途(いうと)に隱れ、紅榮(こうえい)、既に枯落(こらく)し給ふ。賴朝、賴家、實朝を源家三代將軍と稱す、其(その)間、合せて四十年、公曉は賴家の子、四歳にて父に後(おく)れ、今年十九歳、一朝に亡び給ひけり。
[やぶちゃん注:遂に実朝が暗殺され、源家の正統が遂に滅ぶ。そうしてこれを以って「卷第四」は終わっている。「吾妻鏡」巻二十三の建保六(一二一八)年十二月二十日・二十一日・二十六日、同七年一月二十七日・二十八日の条に基づく。本章は私にとって因縁のあるシークエンスである。されば、最後に現代語訳を附すこととする。
「同十二月二日、將軍實朝公既に正二位右大臣に任ぜらる」という記事は「吾妻鏡」では二十日の政所始の儀式の冒頭にある。
「大夫判官行村」二階堂行村。
「仙洞」後鳥羽上皇。
「右大將頼朝卿の御時」建久元(一一九〇)年十月三日、上洛中の頼朝は右近衛大将を拝賀し、仙洞御所に参向して後白河法皇に拝謁したが、ここはその際の随兵を指す。「吾妻鏡」建久元(一一九〇)年十二月一日の条によれば、例えば前駈の中には異母弟源範頼がおり、頼朝の牛車のSPの一人は八田知家、布衣の侍の中には三浦義澄や工藤祐経らが、扈従に附くのは一条能保と藤原公経、最後の乗馬の儀杖兵七人に至っては北条義時・小山朝政・和田義盛・梶原景時・土肥実平・比企能員・畠山重忠という、鎌倉幕府創生の錚々たるオール・スター・キャストで固められていた。因みにこの時、頼朝は右大将と権大納言に任ぜられたが、二日後の十二月三日に両官を辞している。これは望んだ征夷大将軍でなかったことから両官への執着(幕府自体にとっては実質上何の得にもならない地位であった)が頼朝に全くなかったこと、また両官が朝廷に於ける実際的公事の実務運営上の重要なポストであるために形式上は公事への参加義務が生ずることを回避したためと考えられている。
「譜代の勇士、弓馬の達者、容儀美麗の三德の人」通常、「三德」の基本は「中庸」で説かれている智・仁・勇であるが、ここは武家に於ける、代々嫡流の君子に仕える家柄の勇者であること、弓馬術の達人であること、容姿端麗であることの三つを指す。中でも「吾妻鏡」建保六(一二一八)年十二月二十六日の条には、わざわざ、
○原文
亦雖譜代。於疎其藝者。無警衞之恃。能可有用意云々。
○やぶちゃんの書き下し文
亦、譜代と雖も、其の藝に疎きに於いては、警衞の恃(たの)み無し。能く用意有るべしと云々。
あって、本来の坂東武士にとっての「三德」の内、弓馬の名人であることは必要十分条件であったことが分かる。しかも注意せねばならぬのは、ここで作者は『然るに』という逆接の接続詞を用いている点にある。実は、「吾妻鏡」のこの前の部分には、
○原文
兼治定人數之中。小山左衞門尉朝政。結城左衞門尉朝光等。依有服暇。被召山城左衞門尉基行。荻野二郎景員等。爲彼兄弟之替也。
○やぶちゃんの書き下し文
兼ねて治定(ぢじやう)する人數(にんず)の中(うち)、小山左衞門尉朝政・結城左衞門尉朝光等、服暇(ふくか)有るに依つて、山城左衞門尉基行・荻野二郎景員等を召さる。彼(か)の兄弟の替と爲すなり。
という事態が記されているのである。「服暇」とは近親の死による服喪を指す。問題はこの代替要員として指名された二人なのである。増淵氏はここの現代語訳に際し、ここに『しかるに(今回は三徳兼備でない者も入ったが)「このたびの大臣の拝賀は……』とわざわざ附加されておられるのに私は共感するのである。筆者は恐らくまずは「吾妻鏡」のこの二十六日の条の後に続く二件の記載が気になったのである。その冒頭は『而』で始まるが(以下の引用参照)、これは順接にも逆接にも読めるものの、私は逆接以外にはありえないと思うのである。何故なら、この後に書かれるこの二人の代替対象者についての解説には、実は微妙に「三德」を満たさない内容が含まれているからなのである。一人目の荻野影員というのは、実は父が梶原景時の次男梶原景高なのである。
○原文
而景員者去正治二年正月。父梶原平次左衞門尉景高於駿河國高橋邊自殺之後。頗雖爲失時之士。相兼件等德之故。被召出之。非面目乎。
○やぶちゃんの書き下し文
而るに、景員は、去ぬる正治二年正月、父梶原平次左衞門尉景高、駿河國高橋邊に於いて自殺するの後、頗る時を失ふの士たりと雖も、件等(くだんら)の德を相ひ兼ぬるの故、之を召し出ださる。面目に非ずや。
ここで「件等の德を相ひ兼ぬる」とするが、そうだろうか? 弓馬と容姿は優れていたに違いない。梶原景時は確かにかつての「譜代の勇士」ではあった。しかし、その後にその狡猾さが祟って謀叛人として(というより彼を嫌った大多数の御家人の一種のプロパガンダによって)滅ぼされた。だからこそ景員はその梶原一族の血を引くという一点から全く日の目を見ることがなかった。とすれば彼には源家嫡流に対する遺恨さえもあって当然と言える。されば、この時点では彼は第一条件である嫡流君子の代々の忠臣という「譜代の勇士」足り得ない。
二人目は二階堂基行である。彼は、
○原文
次基行者。雖非武士。父行村已居廷尉職之上。容顏美麗兮達弓箭。又依爲當時近習。内々企所望云。乍列將軍家御家人。偏被定號於文士之間。並于武者之日。於時有可逢恥辱之事等。此御拜賀者。關東無雙晴儀。殆可謂千載一遇歟。今度被加隨兵者。子孫永相續武名之條。本懷至極也云々。仍恩許。不及異儀云々。
○やぶちゃんの書き下し文
次に基行は、武士に非ずと雖も、父行村、已に廷尉の職に居るの上、容顏美麗にして弓箭にも達す。又、當時の近習たるに依つて、内々に所望を企てて云はく、
「將軍家の御家人に列し乍ら、偏へに號(な)を文士に定めらるるの間、武者に並ぶの日、時に於いて恥辱に逢ふべきの事等(など)有り。此の御拜賀は、關東無雙の晴の儀、殆んど千載一遇と謂ひつべきか。今度(このたび)の隨兵に加へらるれば、子孫永く武名のを相續せんの條、本懷至極なり」
と云々。仍て恩許、異儀に及ばずと云々。
とあるのである。彼二階堂基行(建久九(一一九八)年~仁治元(一二四〇)年)は代々が幕府実務官僚で評定衆あった二階堂行村の子である。父行村は右筆の家柄であったが京都で検非違使となったことから山城判官と呼ばれ、鎌倉では侍所の検断奉行(検事兼裁判官)として活躍した人物であり、また祖父で二階堂氏の始祖行政は、藤原南家乙麿流で、父は藤原行遠、母は源頼朝の外祖父で熱田大宮司藤原季範の妹である(その関係から源頼朝に登用されたと考えられている)。無論、基行も評定衆となり、実質的にも実朝側近の地位にあったことがこの叙述からも分かる。当時満二十歳。武家の出自でないが故に、今まで色々な場面で何かと屈辱を味わってきたのを、この式典を千載一遇のチャンスとして武家連中の若侍等と対等に轡を並べて、必ずや、子孫に二階堂家を武門の家柄として継承させん、という強い野心を持って実朝に直願して、まんまと許諾を得たというのは、これ、「三德」の純粋にして直(なお)き「譜代の勇士」とは到底言えぬと私は思うのである。……そうして民俗学的には、土壇場の服喪の物忌みによる二名もの変更(兄弟であるから仕方がないとしても二名の欠員はすこぶるよろしくない。これはまさに以前の「吾妻四郎靑鷺を射て勘氣を許さる」でも実朝自身が口をすっぱくして言った問題ではないか)や、「三德」の中に遺恨や実利的な野望を孕ませた「ケガレ」た者が参入する、これ自体がハレの場を穢して、実朝を死へと誘う邪悪な気を呼び込むことになったのだとも、私は読むのである。
実際、彼ら二人は目出度く、右大臣拝賀の式当日の実朝の牛車の直後の後方の随兵に以下のように名を連ねている(「吾妻鏡」建保七年一月二十七日の条より)。
○原文
次隨兵〔二行。〕
小笠原次郎長淸〔甲小櫻威〕 武田五郎信光〔甲黑糸威〕
伊豆左衞門尉賴定〔甲萌黄威〕 隱岐左衞門尉基行〔甲紅〕
大須賀太郎道信〔甲藤威〕 式部大夫泰時〔甲小櫻〕
秋田城介景盛〔甲黒糸威〕 三浦小太郎時村〔甲萌黄〕
河越次郎重時〔甲紅〕 荻野次郎景員〔甲藤威〕
各冑持一人。張替持一人。傍路前行。但景盛不令持張替。
○やぶちゃんの書き下し文
次に隨兵〔二行。〕。
小笠原次郎長淸〔甲(よろひ)、小櫻威(おどし)。〕 武田五郎信光〔甲、黑糸威。〕
伊豆左衞門尉賴定〔甲、萌黄威。〕 隱岐左衞門尉基行〔甲、紅。〕
大須賀太郎道信〔甲、藤威。〕 式部大夫泰時〔甲、小櫻。〕
秋田城介景盛〔甲、黑糸威。〕 三浦小太郎時村〔甲、萌黄。〕
河越次郎重時〔甲、紅。〕 荻野次郎景員〔甲、藤威。〕
各々冑持(かぶともち)一人、張替持(はりかへもち)一人、傍路に前行(せんかう)す。但し、景盛は張替を持たしめず。
この「冑持」は兜を持つ者(これによってこの式典の行列では兜を外して参加することが分かる)、「張替」は弓弦が切れた際の予備の弓持ちであろう(景盛が張替持を附けていないのには何か意味があるものと思われるが分からぬ。識者の御教授を乞う)。
「良辰」吉日。「辰」は「時」の意。古くは「良辰好景」「良辰美景」とも言った。
「酉刻」午後六時頃
「居飼」牛馬の世話を担当する雑人。
「舎人」牛車の牛飼いや乗馬の口取りを担当した雑人。
「一員」本来は各省や寮の役人の謂い。以下の三人を指す。全員が束帯である。「一員二行に列り」とあるのは、影盛と成能で一列、もう一列は盛光一人で一列。なお、中原成能の職名は「吾妻鏡」では「將監」で近衛府の判官(じょう)である。
「將曹」近衛府の主典(さかん)。普通は「しやうさう」と濁らない。
「府生」六衛府(りくえふ)・や検非違使庁などの下級職員。「ふせい」「ふそう」とも。
「狛盛光」建久四(一一九三)年頃に八幡宮の楽所の役人に任ぜられていることが鶴岡八幡宮公式サイトの宝物の記載に見える。
「勾當」「勾当内侍(こうとうのないし)」。掌侍(ないしのじょう)四人の内の第一位の者で天皇への奏請の取次及び勅旨の伝達を司る。
「前驅」古くは「せんぐ」「ぜんぐ」とも読んだ。行列などの前方を騎馬で進んで先導する役。先乗り。先払い。
「官人」通常、「かんにん」と読む。増渕氏の注によれば、『衛府などの三等官』とある。
「秦兼峰」「吾妻鏡」の「下臈御隨身」には、秦兼村の名でかの公氏と並んで載る。
「番長下毛野敦秀」「番長」は諸衛府の下級幹部職員のことを指す。上﨟の随身である。やはり「吾妻鏡」の「下臈御隨身」には下毛野敦光及び同敦氏という名が載る。
「檳榔毛の御車」通常は「檳榔毛」は「びらうげ(びろうげ)」と読む。牛車の一種で白く晒した檳榔樹(びんろうじゅ)の葉を細かく裂いて車の屋形を覆ったものを指す。上皇・親王・大臣以下、四位以上の者及び女官・高僧などが乗用した。
「扈從」朝廷からの勅書に随行してきた公卿の筆頭の意で述べているようだが、以下の「殿上人」とダブるのでここに示すのはおかしい。
「坊門大納言」坊門忠信(承元元(一一八七)年~?)。建永二(一二〇七)年に参議、建保六(一二一八)年に権大納言。後鳥羽天皇及び順徳天皇の寵臣として仕えた。妹の信子が実朝の妻であるから実朝は義弟に当たる。因みに、この後にある「隨兵」が先の注で示した十人の武者となる。
「調度懸」武家で外出の際に弓矢を持って供をした役。調度持ち。
「小舎人童」本来は近衛中将・少将が召し使った少年を指すが、後、公家・武家に仕えて雑用をつとめた少年をいう。
「看督長」検非違使庁の下級職員。役所に付属する獄舎を守衛したり、犯人追捕の指揮に当たった。かどのおさし。
「火長」検非違使配下の属官。衛門府の衛士(えじ)から選抜され、囚人の護送・宮中の清掃・厩の守備などに従事した。彼等は課役を免除されており、身分としては低い役職ながら、宮中への出仕であることから一定の権威を有した。
「放免」「ほうめん」とも。検非違使庁に使われた下部(しもべ)。元は釈放された囚人で、罪人の探索・護送・拷問・獄守などの雑務に従事したが、先の火長よりも遙かに下級の官吏である。
「調度懸佐々木五郎左衞門尉義淸」「吾妻鏡」を見ると、この直前にいる検非違使大夫判官加藤景兼の下に割注があって、そこに「調度懸」が一名とある。この義清の「調度懸」には「御」という接頭語が附いていることから、前のそれは加藤の調度懸であり、義清の肩書は実朝の調度懸であると判断される。
「次に新大納言忠淸、宰相中將國道以下、公卿五人」建保七年一月二十七日には、
○原文
次公卿
新大納言忠信〔前駈五人〕 左衞門督實氏〔子随身四人〕
宰相中將國道〔子随身四人〕 八條三位光盛
刑部卿三位宗長〔各乘車〕
○やぶちゃんの書き下し文
次に公卿。
新大納言忠信〔前駈五人。〕 左衞門督實氏〔子、随身四人。〕
宰相中將國道〔子、随身四人。〕 八條三位光盛
刑部卿三位宗長〔各々乘車。〕)
「子」というのは、殿上人に従う者、という意味であろうか。ここの先頭を行くのが先に出た坊門忠信で、筆者は誤って「忠淸」としている。
以下、北条義時の脱出劇のパート。
「宮寺の樓門」これによって当時の鶴岡八幡宮寺の入り口には二階建ての門があったことが分かる。
「右大臣實朝公、小野御亭より、宮前に參向し給ふ」不審。実朝は無論、御所から拝賀の式に向かったはずである。ここは思うに「吾妻鏡」の筆者の誤読であるように思われる。「吾妻鏡」の行列の列序の詳細記載の後には、
○原文
令入宮寺樓門御之時。右京兆俄有心神御違例事。讓御劔於仲章朝臣。退去給。於神宮寺。御解脱之後。令歸小町御亭給。及夜陰。神拜事終。
○やぶちゃんの書き下し文
宮寺の樓門に入らしめ御(たま)ふの時、右京兆、俄かに心神に御違例の事有り。御劔を仲章朝臣に讓り、退去し給ふ。神宮寺に於て、御解脱の後、小町の御亭へ歸らしめ給ふ。
とあり、
拝賀の行列が鶴岡八幡宮寺楼門に御参入なされたその直後、前駈しんがりを勤めていた右京兆義時殿が俄かに御気分が悪くなるという変事が出来(しゅったい)した。そこで急遽、御剣持を前方の一団である殿上人のしんがりを勤めていた文章博士源仲章朝臣に譲って、退去なさり、神宮寺門前に於いて直ちに行列から離脱された後、そのまま小町大路にある御自宅にお帰った。
とあるのを、文字列を読み違えた上に、「小町」を「小野」と誤読したのではあるまいか? 識者の御教授を乞うものである(増淵氏の訳では特に注がない)。
「伶人」雅楽を奏する官人。楽人(がくにん)。
「祝部」禰宜の下に位置する下級神職。「はふり」は「穢れを放(はふ)る」の意ともするが語源未詳。
「神慮をいさめ奉る」この「いさむ」は、忠告するの意で、実朝卿に右大臣の拝賀に際しての心構えや禁制などの神の思し召しをお伝え申し上げた、という意。
以下、この公暁による暗殺及びその直後のパートを「吾妻鏡」より示しておく。
○原文
及夜陰。神拜事終。漸令退出御之處。當宮別當阿闍梨公曉窺來于石階之際。取劔奉侵丞相。其後隨兵等雖馳駕于宮中。〔武田五郎信光進先登。〕無所覓讎敵。或人云。於上宮之砌。別當阿闍梨公曉討父敵之由。被名謁云々。就之。各襲到于件雪下本坊。彼門弟惡僧等。籠于其内。相戰之處。長尾新六定景与子息太郎景茂。同次郎胤景等諍先登云々。勇士之赴戰場之法。人以爲美談。遂惡僧敗北。闍梨不坐此所給。軍兵空退散。諸人惘然之外無他。
○やぶちゃんの書き下し文
夜陰に及びて、神拜の事終り、漸くに退出せしめ御(たま)ふの處、當宮別當阿闍梨公曉、石階(いしばし)の際(きは)に窺ひ來たり、劔を取つて丞相を侵し奉る。其の後、隨兵等、宮中に馳せ駕すと雖も、〔武田五郎信光、先登に進む。〕讎敵(しうてき)を覓(もと)る所無し。或る人の云はく、
「上宮(かみのみや)の砌りに於いて、『別當阿闍梨公曉、父の敵を討つ。』の由、名謁(なの)らると云々。
之に就き、各々、件(くだん)の雪下(ゆきのした)の本坊に襲ひ到る。彼の門弟惡僧等、其の内に籠り、相ひ戰ふの處、長尾新六定景・子息太郎景茂・同次郎胤景等と先登を諍(あらそ)ふと云々。
勇士の戰場に赴くの法、人、以つて美談と爲す。遂に惡僧、敗北す。闍梨、此の所に坐(おは)し給はず。軍兵、空しく退散し、諸人、惘然(ぼうぜん)の外、他(ほか)無し。
「武田五郎信光」(応保二(一一六二)年~宝治二(一二四八)年)は甲斐源氏信義の子。治承四(一一八〇)年に一族と共に挙兵して駿河国に出陣、平家方を破る。その後、源頼朝の傘下に入って平家追討戦に従軍した。文治五(一一八九)年の奥州合戦にも参加するが、この頃には安芸国守護となっている。その後も阿野全成の捕縛や和田合戦などで活躍、この後の承久の乱の際にも東山道の大将軍として上洛している。弓馬に優れ、小笠原長清・海野幸氏・望月重隆らとともに弓馬四天王と称された。当時五十七歳(以上は「朝日日本歴史人物事典」及びウィキの「武田信光」を参照した)。
「巍々たる」雄大で厳かなさま。
以下、公暁誅殺までを「吾妻鏡」で見る。
○原文
爰阿闍梨持彼御首。被向于後見備中阿闍梨之雪下北谷宅。羞膳間。猶不放手於御首云々。被遣使者弥源太兵衞尉〔闍梨乳母子。〕於義村。今有將軍之闕。吾專當東關之長也。早可廻計議之由被示合。是義村息男駒若丸依列門弟。被恃其好之故歟。義村聞此事。不忘先君恩化之間。落涙數行。更不及言語。少選。先可有光臨于蓬屋。且可獻御迎兵士之由申之。使者退去之後。義村發使者。件趣告於右京兆。京兆無左右。可奉誅阿闍梨之由。下知給之間。招聚一族等凝評定。阿闍梨者。太足武勇。非直也人。輙不可謀之。頗爲難儀之由。各相議之處。義村令撰勇敢之器。差長尾新六定景於討手。定景遂〔雪下合戰後。向義村宅。〕不能辞退。起座著黑皮威甲。相具雜賀次郎〔西國住人。強力者也。〕以下郎從五人。赴于阿闍梨在所備中阿闍梨宅之刻。阿闍梨者。義村使遲引之間。登鶴岳後面之峯。擬至于義村宅。仍與定景相逢途中。雜賀次郎忽懷阿闍梨。互諍雌雄之處。定景取太刀。梟闍梨〔着素絹衣腹卷。年廿云々。〕首。是金吾將軍〔頼家。〕御息。母賀茂六郎重長女〔爲朝孫女也。〕公胤僧正入室。貞曉僧都受法弟子也。定景持彼首皈畢。即義村持參京兆御亭。亭主出居。被見其首。安東次郎忠家取指燭。李部被仰云。正未奉見阿闍梨之面。猶有疑貽云々。
○やぶちゃんの書き下し文
爰に阿闍梨、彼(か)の御首を持ち、後見(こうけん)備中阿闍梨の雪下(ゆきのした)北谷の宅に向はる。膳を羞(すす)むる間、猶ほ手を御首より放たずと云々。
使者弥源太兵衞尉〔闍梨(じやり)の乳母子(めのことご)。〕を義村に遣はさる。
「今、將軍の闕(けつ)有り。吾れ專ら東關の長に當るなり。早く計議を廻らすべし。」
の由、示し合はさる。是れ、義村息男駒若丸、門弟に列するに依つて、其の好(よし)みを恃(たの)まるるの故か。義村、此の事を聞き、先君の恩化を忘れざる間、落涙數行、更に言語に及ばず。少選(しばらく)あつて、
「先づ蓬屋(ほうおく)に光臨有るべし。且つは御迎への兵士を獻ずべし。」
の由、之を申す。使者退去の後、義村、使者を發し、件(くだん)の趣を右京兆に告ぐ。京兆、左右(さう)無く、
「阿闍梨を誅し奉るべし。」
の由、下知し給ふの間、一族等を招き聚めて、評定を凝らす。
「阿闍梨は、太(はなは)だ武勇に足り、直(ただ)なる人に非ず。輙(たやす)く之を謀るべからず。頗る難儀たり。」
との由、各々相ひ議すの處、義村、勇敢の器(うつは)を撰ばしめ、長尾新六定景を討手に差す。定景、遂に〔雪下の合戰後、義村が宅へ向ふ。〕辞退に能はず、座を起ち、黑皮威の甲を著し、雜賀(さひか)次郎〔西國の住人、強力の者なり。〕以下郎從五人を相ひ具し、阿闍梨の在所、備中阿闍梨が宅に赴くの刻(きざみ)、阿闍梨は、義村が使ひ、遲引の間、鶴岳後面の峯に登り、義村が宅に至らんと擬す。仍つて定景と途中に相ひ逢ふ。雜賀次郎、忽ちに阿闍梨を懷き、互ひに雌雄を諍ふの處、定景、太刀を取り、闍梨〔素絹の衣、腹卷を着す。年廿と云々。〕が首を梟(けう)す。是れ、金吾將軍〔賴家。〕の御息、母は賀茂六郎重長が女〔爲朝の孫女なり。〕。公胤僧正に入室、貞曉僧都受法の弟子なり。定景、彼(か)の首を持ちて皈(かへ)り畢んぬ。即ち義村、京兆の御亭に持參す。亭主、出で居(ゐ)にて其の首を見らる。安東次郎忠家、指燭(しそく)を取る。李部、仰せられて云はく、
「正しく未だ阿闍梨の面(おもて)を見奉らず。猶ほ疑貽有り。」
と云々。
「吾妻鏡」では、実は当時の幕府の要人が阿闍梨の顔を誰も知らなかったと推測されることが首実検に立ち会った「李部」(式部省の唐名。当時の泰時の経官歴は式部丞)北条泰時(当時満二十一歳)が本当に公暁の首であるかどうかに疑義を挟んでいるのが注目される。話として頗る面白い(肝心の実朝の首は見つからず、謀叛人の首が残るとは如何にも不思議ではないか)が、通史としての「北條九代記」では、何やらん、判官贔屓の実朝トンデモ生存説(大陸に渡って実は知られた○〇禅師こそが実朝だった! なってえのはどうよ?)でも臭わせそうな雰囲気になるから、やっぱ、カットやろうなぁ……。
・「備中阿闍梨」彼の名は、この後、三日後の三十日の条に彼の雪ノ下(後の二十五坊ヶ谷である)の屋敷が没収されたという条、翌二月四日にその屋敷地が女官三条局の望みによって付与された旨の記載を以って一切載らない。怪しいではないか。
・「彌源太兵衞尉〔闍梨の乳母子。〕」ここで「乳母子」とあるということは次に示す「駒若丸」北条光村の兄弟(恐らく弟)でなくてはならない。
・「義村息男駒若丸、門弟に列するに依つて、其の好みを恃まるる」「駒若丸」は三浦義村の四男三浦光村(元久元(一二〇五)年~宝治元(一二四七)年)の幼名。後の三浦氏の当主となる三浦泰村の同母弟。早い時期に僧侶にさせるために鶴岡八幡宮に預けられたらしく、この頃は公暁の門弟であった。「吾妻鏡」では建保六(一二一八)年九月十三日の条で、将軍御所での和歌会の最中、鶴岡八幡宮境内に於いて月に浮かれ出た児童・若僧が鶴岡廻廊に配されていた宿直人に乱暴狼藉を働き、その不良少年団の張本人として挙げられ、出仕を止められる、という記事を初見とする。暗殺当時でも未だ満十四歳である。後に実家である三浦氏に呼び戻され、兄泰村とともに北条氏と並ぶ強大な権力を有するようになったが、後の宝治元(一二四七)年の宝治合戦で北条氏によって兄とともに滅ぼされた。小説家永井路子氏が実朝暗殺三浦氏説の最大の根拠(乳母の家系はその養育した家系の子を殺めることはないという不文律)とするように、公暁の乳母は三浦義村の妻であり、その子であったこの駒若丸は公暁の乳兄弟であって門弟でもあった。一方、実朝の乳母は北條時政の娘で政子や義時の姉妹で兄弟である阿波局である。但し、私はこの歴史学者の支持も多い永井説には全く組出来ない。私は北条義時策謀張本説を採る(三浦は北条の謀略に気づいてはいた)。この時の義時の壮大な謀略計画の体系(後の北条得宗の濫觴となるような)の中では、乳母―乳母子血脈説なんどという問題は容易に吹き飛んでしまうと考えているのである。私のその考えは、私が二十一歳の時に書いた噴飯小説「雪炎」以来、今も一貫して変化していない。よろしければ、御笑覧あれ。……あの頃……どこかで小説家になりたいなどと考えていたことをむず痒く思い出した……。
・『使者退去の後、義村、使者を發し、件の趣を右京兆に告ぐ。京兆、左右無く、「阿闍梨を誅し奉るべし』この下りが、私のとって永い間、疑問なのである。真の黒幕を追求すべき必要性が少しでもあるとならば、義時は生捕りを命ぜねばならない。しかも(と同時に、にも拘わらず)源家の嫡統である公暁を「左右(さう)無く」(ためらうことなく)「誅し奉」れ、というのは如何にも『変』である。そのおかしさには誰もが気づくはずであり、それがやる気がない理由があるとすれば、ただ一つ、謀略の総てを義時が最早、知尽していたから以外にはあり得ない。だからこそ彼は危機一髪、『難』を逃れているのだ。これについては「吾妻鏡」の事件直後、翌二月八日の条に早くも弁解染みて奇妙に示されていることは知られた話である。
〇原文
八日乙巳。右京兆詣大倉藥師堂給。此梵宇。依靈夢之告。被草創之處。去月廿七日戌尅供奉之時。如夢兮白犬見御傍之後。御心神違亂之間。讓御劍於仲章朝臣。相具伊賀四郎許。退出畢。而右京兆者。被役御劔之由。禪師兼以存知之間。守其役人。斬仲章之首。當彼時。此堂戌神不坐于堂中給云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
八日乙巳。右京兆、大倉藥師堂に詣で給ふ。此の梵宇は、靈夢の告げに依つて、草創せらるるの處、去ぬる月廿七日戌の尅、供奉の時、夢のごとくにして、白き犬、御傍に見るの後、御心神違亂の間、御劍を仲章朝臣に讓り、伊賀四郎許りを相ひ具して、退出し畢んぬ。而るに右京兆は、御劔を役せらるるの由、禪師、兼て以つて存知するの間、其の役の人を守りて、仲章の首を斬る。彼の時に當りて、此の堂の戌神(いぬがみ)、堂中に坐(おは)しまし給はずと云々。
というあからさまなトンデモな霊験譚である。大倉薬師堂は既に見た通り、義時が大方の反対を押し切って前年に私財を擲って建立した『変』な寺なのだ。さて――拝賀の式の行列が鶴岡社頭にさしかかった際、彼にだけ白い犬が自分の傍へやってくるのが見え、俄に気分が悪くなって、内々に急遽、実朝の御剣持を仲章に代行してもらうこととして、たった一人の従者を連れてこっそりと自邸へ戻ったが、仲章が代役になっていることを知らずに、事前に何者かに知らされていた通り、御剣持役の人間を義時と信じて疑わずに今一つのターゲットとして首を刎ねた――というのである。しかも――その拝賀の式当日、不思議なことに大倉薬師堂の十二神将の戌神の像だけが、忽然と消えており、事件後には再び戻っていた――というのである。――この話、読み物としてはそれなりに面白いはずなのに「北條九代記」の作者は採用していない。大倉薬師堂の建立の事実をわざわざ書いておきながら、である。わざわざ書いたということは、私は恐らく筆者はこの後日譚を書くつもりだったのだと思う。ところが、どうにもこの如何にも『変』な作話ばればれの話に、筆を進めて行くうちに、筆者自身があきれ返ってしまい、結局、書かず仕舞いとなったのではなかったか? 逆に私の肯んじ得ない三浦陰謀説に立つならば、ここで義村が期を見極め(義時に謀略がばれたことの危険性が最も高いであろう)公暁の蜂起に利あらずと諦めたのならば、義時に伺いを立てる前に、自律的に公暁の抹殺を計ればよい(実際の公卿の行動やそれを追撃する三浦同族の長尾定景という絶妙の配置からも、義村は失敗した謀略ならばそれを簡単に総て抹消することが出来たのである。義時から万一、事後に抗議や疑義があったとしてもそれらは、公暁は将軍家を放伐した許し難い賊であり、公暁が抗った故に仕方なく誅殺した当然の処置であったと答えればよいのである)。その「不自然さ」を十全に説明しないで、乳母一連托生同族説から三浦陰謀説(中堅史家にも支持者は多い)を唱える永井路子氏には、私は今以って同調出来ないでいるである。
・「長尾新六定景」(生没年不詳)既に暗殺直後にテロリスト探索に名が挙がっているがここで注す。石橋山の合戦では大庭景親に従って平家方についたが、源氏勝利の後、許され、和田合戦で功を立てた。ここで公暁を打ち取った時には既に相当な老齢であったと考えられる。今、私の書斎の正面に見える鎌倉市植木の久成寺境内に墓所がある。
『義村、聞きて、「先此方へ來り給へ。御迎の兵士を參すべし」とて、使者を歸し、右京〔の〕大夫義時に告げたり。公曉は直人にあらず、武勇兵略勝れたれば、輒(たやす)く謀難かるべしとて、勇悍の武士を擇び、長尾新六定景を大將として、討手をぞ向けられける』この部分、「北條九代記」の筆者は、「吾妻鏡」にある、重要な義時の即決部分を省略してしまっている。即ち、
京兆、左右無く、
「阿闍梨を誅し奉るべし。」
の由、下知し給ふの間、一族等を招き聚めて、評定を凝らす。
の部分がないのである。これは如何にも不審である。そもそもこれでは公暁誅殺の合議をし、長尾を選抜したのが北条義時であるかのようにさえ誤読されてしまう危険性さえあるのだ。私はこの違和感は実は、「北條九代記」の筆者が、この北条義時の即決の台詞に対して強烈な、私と同じ違和感を感じたからではないか、と考えている。これを記すと「北條九代記」はその輝かしい北条の歴史の当初於いて血塗られた疑惑を読者に与えてしまうからに他ならない。
……そうである。この「吾妻鏡」の伝える部分こそが私の昔からの違和感としてあるのである。――真の黒幕の可能性の追求すべき必要性がある以上、義時は生捕りを命ぜねばならない。にも拘わらず、現在唯一残っている源家の嫡統である公暁を、有無を言わせず、しかも自身の手ではなく、三浦氏に命じて「誅し奉」ったのは何故か? また、逆に私の肯んじ得ない三浦陰謀説に立つならば、ここで義村が期を見極め、公暁蜂起に利あらずと諦めたのならば、義時に伺いを立てる前に、自律的に公暁の抹殺を計らねばならない(実際の公卿の行動やそれを追撃する三浦同族の長尾定景という絶妙の配置や事実結果からみても、義村は失敗したと判断する謀略ならばそれを簡単に総て抹消させることは極めて容易であったはずである)。そうしなければ、普通なら当然の如く行われると考えるはずの公暁への訊問によって三浦謀略の全容が明らかになってしまうからである。にも拘わらず、三浦は義時に伺いを立て、義時は捕縛ではなく誅殺を命じている。義時が潔白であるなら、公暁の背後関係を明らかにし、それらを一掃させることが最大の利となるこの時にして、これは不自然と言わざるを得ない。寧ろ、これはこの実朝暗殺公暁誅殺という呪われた交響詩のプログラムが、総演出者・総指揮者たる北条義時によって組み立てられたものであったことを示唆すると私は考えるのである。そこでは多くの役者が暗躍した。実際にこの後の「吾妻鏡」を見ると、実に怪しいことに気がつく。この実朝暗殺に関わった人間たちの殆んどすべての関係者が、簡単な訊問の後、無関係であるとか、誤認逮捕であったとかという理由で、さりげなく記載されているのである。そして誰もいなくなって、殆んど公暁一人が悪者にされている。こうした関係者までもが皆、三浦氏の息のかかったものであって、三浦の謀略指示について幕府方の訊問でも一切口を割らず、事件が速やかに終息するというのは、この方が如何にも考えにくいことではないか? 寧ろ、総ての駒の動きがフィクサーとしての義時によって神のように管理されていたからこその、鮮やかにして速やかな終息であったと考えた方が自然である。三浦義村は確かに和田合戦でも同族の和田氏を裏切っており、千葉胤綱から「三浦の犬は友を食らうぞ」と批判された権謀術数に長けた男ではある。しかしだからこそ、義時の想像を絶する策謀をもいち早く見抜くことが出来、三浦一族の危機を回避するために、同族乳母子の公暁をも――義時の謀略にはまらないために――蜥蜴の尻尾切りした、とも言えるのである。
「雜賀次郎」三浦の被官であるが、「吾妻鏡」ではここにしか見えない。紀伊国南西の雑賀荘を領有したか。
「公曉は鶴ヶ岡の後の峰に登りて義村が家に至らんとし給ふ途中にして、長尾定景、行合ひて、太刀おつ取りて御首を打落しけり」それでなくても、実朝殺害直後の公暁の行方は不明で神出鬼没なればこそ、これは三浦義村が予め、使者であった北弥源太兵衛尉に援軍の移送経路は間道の峯筋であると指示したものと考えなければ、こんなに都合よく行くはずがない。なお、この部分「北條九代記」の作者は「吾妻鏡」のこの場面の「定景と途中に相ひ逢ふ。雜賀次郎、忽ちに阿闍梨を懷き、互ひに雌雄を諍ふの處、定景、太刀を取り、闍梨が首を梟す」という立ち回りシーンを浄瑠璃風に簡略化している。
「素絹」素絹の衣(ころも)。素絹で作った白い僧服。垂領(たりくび:襟を肩から胸の左右に垂らし、引き合わせるもの。)で袖が広くて丈が長く、裾に襞がある。
「腹卷」鎧の一種で、胴を囲み、背中で引き合わせるようにした簡便なもの。次のシークエンスの広元の台詞でも重要な単語として登場する。
以下、実朝暗殺のコーダ部分を「吾妻鏡」で見る。
〇原文
抑今日勝事。兼示變異事非一。所謂。及御出立之期。前大膳大夫入道參進申云。覺阿成人之後。未知涙之浮顏面。而今奉昵近之處。落涙難禁。是非直也事。定可有子細歟。東大寺供養之日。任右大將軍御出之例。御束帶之下。可令著腹卷給云々。仲章朝臣申云。昇大臣大將之人未有其式云々。仍被止之。又公氏候御鬢之處。自拔御鬢一筋。稱記念賜之。次覽庭梅。詠禁忌和歌給。
出テイナハ主ナキ宿ト成ヌトモ軒端ノ梅ヨ春ヲワスルナ
次御出南門之時。靈鳩頻鳴囀。自車下給之刻被突折雄劔云々。
又今夜中可糺彈阿闍梨群黨之旨。自二位家被仰下。信濃國住人中野太郎助能生虜少輔阿闍梨勝圓。具參右京兆御亭。是爲彼受法師也云云。
〇やぶちゃんの書き下し文
抑(そもそも)、今日の勝事(しようし)、兼ねて變異を示す事一(いつ)に非ず。所謂、御出立の期(ご)に及びて、前大膳大夫入道、參進し申して云はく、
「覺阿成人の後、未だ涙の浮ぶ顏面を知らず。而るに今、昵近(ぢつきん)奉るの處、落涙禁じ難し、是れ、直(ただ)なる事に非ず。定めて子細有るべきか。東大寺供養の日の、右大將軍御出の例に任せ、御束帶の下に、腹卷を著せしめ給ふべし。」
と云々。
仲章朝臣、申して云はく、
「大臣大將に昇るの人、未だ其の式有らず。」
と云々。
仍つて之を止めらる。又、公氏、御鬢(ごびん)に候ふの處、御鬢より一筋拔き、
「記念。」
と稱し、之を賜ふ。次いで、庭の梅を覽ぜられて、禁忌の和歌を詠じ給ふ。
出でていなば主(ぬし)なき宿と成りぬとも軒端(のきば)の梅よ春をわするな
次いで、南門を御出の時、靈鳩、頻りに鳴き囀(さへづ)り、車より下り給ふの刻(きざみ)、雄劔(ゆうけん)を突き折らると云々。
又、今夜中に阿闍梨の群黨を糺彈すべきの旨、二位家より仰せ下さる。信濃國住人中野太郎助能(すけよし)、少輔阿闍梨勝圓を生虜(いけど)り、右京兆の御亭へ具し參る。是れ、彼の受法の師たるなりと云云。
・「中野助能」(生没年未詳)幕府御家人。信濃出身。「吾妻鏡」では本件以外に、寛喜二(一二三〇)年二月八日の条で承久の乱での功績により、領していた筑前勝木荘の代わりに筑後高津・包行(かねゆき)の両名田を賜るという記事で登場する。
・「少輔阿闍梨勝圓を生虜」公暁の後見人であったこの勝円なる人物は同月末日の三十日に義時の尋問を受けるが、申告内容から無罪となって、本職を安堵されている。一方、「吾妻鏡」同条には、公暁が最初に逃げ込んだ同じく「後見」の「備中阿闍梨」については、先に掲げた通り、雪の下宅地及び所領の没収が命ぜられている(但し、この備中阿闍梨にしても、その後の本人の処罰内容は掲げられていない。おかしくはあるまいか? 犯行後に真っ先に逃亡した先の住僧であり、同じく公暁の後見人である。如何にも怪しいではないか)。
「勝事」快挙の意以外に、驚くべき大事件の意があり、ここでは後者。
「仲章朝臣」文書博士源(中原)仲章(なかあきら/なかあき ?~建保七(一二一九)年一月二十七日)。元は後鳥羽院近臣の儒学者であったが、建永元(一二〇六)年辺りから将軍実朝の侍読(教育係)となった。「吾妻鏡」元久元(一二〇四)年一月十二日の条に『十二日丙子。晴。將軍家御讀書〔孝經。〕始。相摸權守爲御侍讀。此「僧」儒依無殊文章。雖無才名之譽。好集書籍。詳通百家九流云々。御讀合之後。賜砂金五十兩。御劔一腰於中章。』(十二日丙子。晴。將軍家御讀書〔孝經。〕始め。相摸權守、御侍讀をたり。此の儒、殊なる文章無きに依りて、才名の譽無しと雖も、好んで書籍を集め、詳かに百家九流に通ずと云々。御讀合せの後、砂金五十兩、御劔一腰を中章に賜はる。)と記す。御存知のように、彼は実朝と一緒に公暁によって殺害されるのであるが、現在では、彼は宮廷と幕府の二重スパイであった可能性も疑われており、御剣持を北条義時から譲られたのも、実は偶然ではなかったとする説もある。
「宮田兵衞尉公氏公氏」宮内公氏が正しい。実朝側近。秦姓とも。
又、御出の時、(きんうぢ)、御鬢(ぎよびん)に候(こう)ず。實朝公、自(みづから)鬢(びんのかみ)一筋(すぢ)を拔きて御記念(かたみ)と稱して賜り、次に庭上の梅を御覽じて、
出でていなば主なき宿と成りぬとも軒端の梅よ春を忘るな
其外商門を出で給ふ時、靈鳩(れいきう)、頻(しきり)に鳴騷(なきさわ)ぎ、車よりして下(お)り給ふ時、御劍(ぎよけん)を突折(つきをり)候事、禁忌、殆ど是(これ)多し。後悔せしむる所なり」とぞ語られける。
「御臺所……」以下は、「吾妻鏡」の翌一月二十八日の条の基づく。以下に示す。
〇原文
廿八日。今曉加藤判官次郎爲使節上洛。是依被申將軍家薨逝之由也。行程被定五箇日云云。辰尅。御臺所令落飾御。莊嚴房律師行勇爲御戒師。又武藏守親廣。左衞門大夫時廣。前駿河守季時。秋田城介景盛。隱岐守行村。大夫尉景廉以下御家人百餘輩不堪薨御之哀傷。遂出家也。戌尅。將軍家奉葬于勝長壽院之傍。去夜不知御首在所。五體不具。依可有其憚。以昨日所給公氏之御鬢。用御頭。奉入棺云云。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿八日。今曉、加藤判官次郎、使節と爲し上洛す。是れ、將軍家薨逝の由、申さるるに依つてなり。行程五箇日と定めらると云云。
辰の尅、御臺所、落飾せしめ御(たま)ふ。莊嚴房(しやうごんばう)律師行勇、御戒師たり。又、武藏守親廣・左衞門大夫時廣・前駿河守季時・秋田城介景盛・隱岐守行村、大夫尉景廉・以下の御家人百餘輩、薨御の哀傷に堪へず、出家を遂ぐるなり。戌の尅、將軍家、勝長壽院の傍らに葬り奉る。去ぬる夜、御首の在所を知ず、五體不具たり。其の憚り有るべきに依つて、昨日、公氏に給はる所の御鬢(ごびん)を以つて、御頭(みぐし)に用ゐ、棺に入れ奉ると云云。
・「辰の刻」午前八時頃。
・「御臺所」坊門信子(ぼうもんのぶこ 建久四(一一九三)年~文永一一(一二七四)年)。実朝正室。西八条禅尼と通称された。出家後の法名は本覚尼。父は公卿坊門信清。元久元(一二〇四)年に実朝の正室となって鎌倉に赴いた。実朝との仲は良かったといわれるが、子は出来なかった。出家後は京に戻った。当時、満二十六歳であった。その後、承久三(一二二一)年五月に起こった承久の乱では兄坊門忠信・坊門忠清らが幕府と敵対して敗北するも、彼女の嘆願によって死罪を免れている。九条大宮の地に夫の菩提寺遍照心院(現在の大通寺)を建立。享年八十二で亡くなった。なお、「北條九代記」では信子及び次の御家人らの出家は当日中となっている。
・「武藏守親廣」源親広。以下、「左衞門大夫時廣」は大江時広、「前駿河守季時」は中原季時、「秋田城介景盛」は安達景盛、「隱岐守行村」は二階堂行村、「大夫尉景廉」は加藤景廉。
実朝の首は一体、何処へ行ってしまったのだろう?
現在、秦野市東田原に「源実朝公御首塚(みしるしづか)」なるものがあるが、同市観光協会の記載などには、『公暁を討ち取った三浦氏の家来、武常晴(つねはる)』や大津兵部『によってこの秦野の地に持ちこまれ』、『当時この地を治める波多野忠綱に供養を願い出て、手厚く葬られたと伝えられ』とするが、これは到底、信じ難い。……失われた実朝の首の謎……彼はそれ故に顔なき悲劇の貴公子であり――puer eternus――プエル・エテルヌスであり続ける……]
■やぶちゃん現代語訳(各パートごとに分けてそれぞれにオリジナルな標題を附し、御列記載は「吾妻鏡」の記載方式に准じた。誤りと思われる部分でもそのまま訳した。但し、一部に敷衍訳を施してある)
〇実朝公右大臣に任ぜらる事
付けたり 同拝賀の式の事
並びに 同拝賀の式にて、禅師公暁、実朝を討つ事
〈右大臣叙任の段〉
同建保六年十二月二日、将軍実朝公は、遂に正二位右大臣に任ぜられた。
「明年正月には、鶴ヶ岡の八幡宮に於いて、右大臣拝賀の儀を執り行なう」と決し、同拝賀の式次第奉行として大夫判官二階堂行村が、これを承って、供奉(ぐぶ)の随兵以下の人員及びその選抜をお定めになられる。
御装束及び御牛車以下の調度類はその総てが仙洞御所の後鳥羽院様より下し賜わられた。
右大将故頼朝卿の右大将拝賀の御時に随兵を定められた際には、かねてより代々、将軍家に仕えた勇士にして、弓馬の達人であって、且つ、容姿端麗なることという、三徳を兼ね備えた者を選んで、拝賀の供奉をお勤めさせなされた。――あの頃は、まっこと、古き良き時代で御座った。……
しかるに――この度は世も移り変わったとは申せ、この三徳兼備とは言い難き者も含まれて御座った――まあ、それは謂うまい……ともかくも、
「この度の右大臣拝賀の儀は、これ、関東にては未だ例(ためし)なき晴れの儀式である。」
ということなれば、早い時点に、あらかじめ、その参加すべき人員の選抜を行われ、お定めになられた。
建保七年正月二十七日のこと、今日はまさに儀式を執り行うに相応しき吉日なり、とのことなれば、
――将軍家右大臣御拝賀の式は酉の刻――
との触れられて御座った。
〈右大臣拝賀行列の段〉
拝賀の路次(ろし)の行列の装備は華麗荘重にしてしかも厳重である。
まず、
居飼(いかい)四人
舎人(とねり)四人、
次に、一員(いちいん)は二列に連なって、
将曹(しょうそう)菅野景盛・府生(ふしょう)狛(こまの)盛光・将監(しょうげん)中原成能(なりよし)
の三名が束帯で続いている。
次に、殿上人、
一条侍従能氏(よしうじ)・伊予(いよの)少将実雅(さねまさ)・中宮権亮(ごんのすけ)信義以下の五人
が各々、随身四人を伴っている。
次に、
藤勾当(とうのこうとう)頼隆以下、前駆(まえがけ)の十八人
が二列を組んで進む。
次に、官人、
秦兼峰(はたのかねみね)・番長下毛野敦秀(なんちょうしもつけのあつひで)。
次に、
将軍家実朝卿。
将軍家の御乗物は檳榔毛(びろうげ)の牛車。
車副(くるまぞえ)四人、
扈従(こじゅう)は坊門大納言忠信卿。
次に随兵十人、
皆、甲冑を帯びている。
次に雑色(ぞうしき)二十人、
検非違使(けびいし)一人、
その検非違使の供奉として、
調度懸(ちょうどがけ)一人、
小舎人童(こどねりわらわ)一人、
看督長(かどのおさ)二人、
火長(かちょう)二人、
放免(ほうめん)五人。
次に、将軍家御調度懸、
佐々木五郎左衛門尉義清
次に、随身(ずいじん)六人。
次に、
新大納言忠清・宰相中将国道以下
公卿五人
が、各々、前駆と随身を伴う。
次に、
受領(ずりょう)の大名三十人。
行列掉尾には、
路次(ろし)の随兵一千騎
が、それぞれに花を飾り、色鮮やかに着こなして、道中辻々警護を厳しく致して、御所より鶴岡八幡宮まで、大河の如くにねり廻り出でて赴き遊ばされる絢爛は、とても想像だにし得ず、また、筆舌にさえ尽くし得ぬほどのもので御座る。
「前代にもかくなる盛大なる儀式は例(ためし)、これなく、後代にも二度とはあるまじい。」
とて、貴賤上下の見物人は、なおますます膨れ上がって、立錐の余地もないほどで御座る。
道中の路次(ろし)は両側ともに何処(いずこ)も混み合って、その中でも特に押し合いへし合いしおる場所にては、
「万一、乱暴狼藉等、出来(しゅったい)致いては。」
と、警備の兵どもが駆け回っては騒ぎを静めるのに躍起で、落ち着いている暇もない。
〈鶴岡八幡宮社前の段〉
まさに拝賀の行列が鶴岡八幡宮寺の楼門にお入りにならんとした、丁度その時、右京大夫(うきょうのだいふ)義時殿、俄かに御気分が悪くなられ、御剣持(みけんもち)を仲章朝臣殿に急遽、譲られて退出なされる。
〈右大臣拝賀の段〉
右大将実朝公は小野の御亭より八幡の社前に参向なされ、夜に入って、参拝の儀式を終えられ、楽人(がくじん)が楽を奏し、祝部(ほうり)が鈴を持って鳴らしつつ最後に、実朝卿に右大臣の拝賀に際しての心構えや禁制と思しい神の思し召しをお伝え申し上げた。
〈鶴ヶ岡石階(いしだん)の段〉
上宮(かみのみや)での式次第を滞りなく終えられ、二尺ほども積もった雪の中、清浄に雪の除かれた社前の道をお下りになられた。
その時、当八幡宮の別当、阿闇梨公暁殿、秘かに下る石階(いしだん)の辺りにて隙を覗い、ぱっと飛び出でたかと思うと、剣を抜き放って、右大臣実朝公の首を一太刀に打ち落とした。
――白き雪に真っ紅な血の華が飛び散った……
……公暁殿は、その御頭(みぐし)を乱暴に引っ提げると、電光の如、素早く逃げて行方を眩ました。
〈鶴岡境内の段〉
闇夜の混乱の中、武田五郎信光を先頭に、大声を張り上げては互いに味方を確認し合いつつ、随兵らが四方八方へ走り散って、逃げた賊を探し求めたが、暗中の模索なればこそ、一体、実朝公暗殺、これ誰人(たれびと)の仕出かしたことかさえも相い分からぬ。
〈別当本坊の段〉
暫くして、
「――これ、別当坊公暁の所為じゃ!――」
と、誰ともなく口に出し、それが知れ渡ったによって、別当職となれば! とて、雪ノ下の公暁の本坊に方々、押し寄せてはみたものの、公暁殿はおわさぬ。
〈鶴岡社頭の段〉
かくも盛大荘厳であった行列の順列なんども、これ、みるみるうちに乱れに乱れ、公卿・殿上人は裸足のままに逃げ惑い、束帯の冠なんども脱げてどこぞに落ち失せる。
一千余騎の随兵らは、皆、馬手(めて)を絞って馬を廻しては馳せ、雲霞の如くなだれ込んで来る。
暗夜の騒擾なれば、逃げ遅れ、前へと突き出だされた貴賤を問わざる見物の人々は、これ、多くが兵馬に踏み殺され、或いは鎮圧のために不用意に抜き振られた太刀に打ち倒されて、これ、鎌倉中、目にも心にも全き闇(やみ)と相い成って、
「……これは……そ、そもそもが……一体、何が如何(いかが)致いたことなるぞ!?」
と、人々は魂消(たまげ)、ただただ呆然とするばかりであった。
〈三浦屋敷の段〉
その頃、公暁禅師は後見人であられた備中阿闍梨殿の雪ノ下の坊にお入りになっていた。
ともかくもと、ともにここまで連れ逃げて参った乳母子(めのとご)の弥源太兵衛尉(みげんたひょうえのじょう)を使者として、三浦左衛門尉義村殿に仰せ遣わせられた御消息には、
「……今は以って将軍の官職は欠員となった。我は関東の武門棟梁のの嫡孫である。速やかに将軍職就任への企計を廻らすがよい――ともかくも委細面談の上――」
とあった。
なお、ここで何故三浦義村殿の元へ消息を送って事後を頼んだのかと申せば、義村の子息 である駒若丸は、かの公暁殿の門弟であったればこそ、その好(よし)みを頼んで、かくも言いやられたので御座った。
さて、義村、これを聞いて、
「――まずは――拙宅へと来たり給え。――御迎えの護衛の兵士を追っ付け、差し向けますれば――」
と返答して、使者の弥源太をば帰し、そのそばから直ちに右京大夫義時殿に、以上の経緯を急告致いた。
そうして――義時邸からの返事は――これ――「左右(そう)なく誅し奉るべし」――で御座った。――
そこで義村は、
「……公暁は並みの人物にては、これ、御座ない!……武威も蛮勇も兵法も功者なればこそ……そう容易くは我らが謀りごとには載って参るまい。……」
と評議一決、彼に劣らぬ蛮勇にして精悍なる武士を選び、長尾新六定景を大将として、万全の誅殺部隊を組織して討手(うって)として備中阿闍梨の坊へと直ちに向けられた。
〈鶴岡後背大臣山峰の段〉
定景は黒皮縅(くろかわおどし)の鎧を着し、無双の大力を誇る強者(つわもの)雑賀(さいか)次郎以下、郎従五人を引き連れて、公暁のおわす備中阿閣梨の坊へと向かう。
公暁殿はと言えば、三浦の兵の迎えの来ぬに痺れを切らし、指示通り鶴岡の後ろの峰に登って、そこから間道を義村の家の方へを迂回して向かおうとなさっておられたが、まさしくその途次にて、長尾定景と行き合った。
公暁殿は定景に尋常ならざる気配を見抜きはした。――が――しかし――それは遅過ぎたのだった。
定景、太刀をすかさず抜き取り、あっと言う間に御頭(みぐし)を打ち落とし申し上げたのであった。
その場で探り見ると、公暁殿は、素絹(そけん)の法衣の下に腹巻(はらまき)をしっかりとなさっておられた。
長尾は、そこで公暁の御頭を持って馳せ帰って、三浦義村、そして北条義時とがこれを実検した。
〈大江広元の証言〉
前(さき)の大膳大夫(だいぜんのだいふ)大江広元入道覚阿殿の語り。
「……今日の恐るべき出来事は、拙者には何か、かねてより予感さるるところが、これ、御座ったように思わるる。……今朝、将軍家が御所を御出立するの時に臨んで、我ら、直(じき)に申し上げたことには、
『……この覚阿、成人してよりこの方、今日(こんにち)に至るまで遂に、涙の面(おもて)に浮かびしことは、これ、一度として御座らなんだ。……しかるに、只今――御前に参って――かくもしきりに涙の出ずる……これ、ただ事とも思われませぬ。――定めて、何か深い因縁のあるものかとも存じ奉る。――さればこそ――東大寺供養の砌り、右大将家の御出座の際の先例に倣い、御束帯の下に腹巻を御着帯下さいまするように――』
と申し上げたのであった。ところが、その場にあった、かの将軍家とともに右京兆(うきょうのちょう)殿の身代わりとして亡くなられた源仲章朝臣殿が、
『――大臣・大将に昇った人にあっては未だ嘗て腹巻を着帯なされたという例式は、これ、御座らぬ。』
と口を挟まれた。
されば、その仲章殿の一言によって、その腹巻の着用は沙汰止みとなったて御座ったのじゃ。……
また、御出立の直前には、宮田兵衞尉公氏(きんうじ)が御調髪をし申し上げて御座ったが、その折り、実朝公は、自ら御自身の鬢(びん)の御髪(みぐし)を一筋お抜きになられ、
『――これを形見に――』
とおっしゃっられて、公氏にお授けになられ、そうして……次に、縁端(えんばな)へとお歩み寄りになられると庭の梅をご覧になられ、
出ていなば主なき宿となりぬとも軒端の梅よ春を忘るな
――私が出で去ってしまったならば……
――この宿居は主人(あるじ)がおらぬ屋敷となって……
――誰からも忘れ去られてしまって浅茅が宿と化すにしても……
――しかし……そうなったとしても……
――お前、軒端に美しく咲く梅よ、……
――この世の春を……忘れずに……
――いつまでも……咲いて……いよ……
とお詠みになられた。……
その他にも、例えば、南門を出られ際には、白き霊鳩(れいきゅう)がしきりに鳴き騒ぎ、また、鶴岡社頭にて牛車よりお降りになられた時には、お佩きになられておられた礼式の御剣(ぎょけん)を突き折られてしまわれるなど……これ、禁忌に触るる、不穏にして不吉なる出来事が、まっこと、多くに御座った。……返す返すも……我らさえ、後悔致いておるところにて御座る。」
と語られたと申す。
〈葬儀埋葬次第〉
その日の内に、故将軍家御台所坊門信子(ぼうもんのぶこ)様が落飾なされる。
御家人百余名も、これ、同時に出家致いた。
翌二十八日、御葬礼を営まんとしたが、御頭(みぐし)は未だに御所在、これ、不明なれば、
「五体不具のままにては、葬送の事、甚だ、差支え、これ、あり。」
とのことなれば、昨日、公氏に賜わられたところの鬢(びん)の髪一筋を、これ、御頭(みぐし)と擬(なぞら)えて、棺に納め申し上げ奉り、勝長寿院の傍らに葬り申し上げたは、……ああぁ! これ、何たる、哀れなるかな!……
その初め、建仁三年に実朝卿の将軍に任ぜられなさってよりこのかた、今年に至るまで、治世十七年、御年二十八歳にして白刃の一閃に中(あた)って黄泉(こうせん)へとう埋もれなさって、人間(じんかん)を辞して幽冥の途次(とじ)へと隠れになられ、紅いの華麗な花の如き栄華も、瞬く間に、枯れ落ち朽ち尽きてしまわれた。
頼朝公・頼家公・実朝公――これを源家三代将軍と称す。その治世の間、合わせて四十年。公暁殿は頼家公の子息にて、四歳にして父に死に別れ、この年、未だ十九歳、僅かの間(ま)に亡んでしまわれたのであった。――
[やぶちゃん補注:今回、現代語訳をしながら、私の若書きの駄作「雪炎」の考証上の問題点が幾つか浮かび上がってきたのを感じた。特に最大の誤りは「前駈(まえがけ)の列の先頭に加わっていた右京兆が」の部分で、「吾妻鏡」によれば、北條義時は二列の恐らくは右の最後尾であること、そうするとその前の集団の殿上人のやはり恐らく右の最後尾にいた源仲章がリアル・タイムで義時の体調不良の演技の瞬間の傍らに、たまたまいるという設定はあり得ない。そもそも御剣持の大役の交代がそんな場当たり的に行われることなどあり得ないから、これは噴飯なこの小説でも、実は最も噴飯物のシーンであると言える。寧ろ、近年の仲章朝廷方スパイ説を踏まえるなら、一石二鳥で義時が仲章を指名して自分の身代わりとしたという設定の方が説得力を持つであろう。それにしても広元の言にダメ出しした仲章が、哀れ、犠牲となる図式は、すこぶる附きで、偶然とは思えなくなってくる。更に言えば、この事件では、
――首のない実朝の一人分の胴体
があり、遂に実朝の首は発見されない。一方、首実検の際に北条泰時が「これが本当に公暁殿の御首級であると、一体、どなたが断言出来ると申さるるのか? 誰(たれ)も彼の顔を見知った者など、おらぬというに!」(ちょっと脚色した)と言った、
――公暁のものと称する一人分の首
という奇体な設定だ!(考えて見ると公暁の胴体や墓はどうしたんだろう?)……私は今、既に一杯呑んでこれを書いている……その酩酊の意識の中で……実は死んでいるのは一人なんじゃないか?……殺されたのは実朝ではなくって……実は公暁なんであって……その遺体がそれぞれ二人分を演出しているとうのはどうだ!?……というかの「相棒」でさえも採用して呉れそうもない、トンデモ偽装殺人トリックという仮説も面白い……なんどいう気がしてきたりしている……
……ともかくも……実朝の死は未だに古くて新しい、謀殺という現象の、悪魔的な『魅力』を持続しているのだと言えよう。]