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2013/05/31

明恵上人夢記 17

この私の解釈――解釈している自分に何だかエクスタシーを感じたことを告白しておく――



17
 元久二年 神護寺槇尾に於いて、寶樓閣法を修して、佛頂(ぶつちやう)を讀す。
一、十月十一日、道場より出でて、初夜の時の後に學文等畢んぬ。丑の尅(こく)許り、熟眠す。夢に云はく、此の住房に小兒五六人許りを置けり。然るに、四五人許り學問處に在り。今一人、持佛堂之方より足音來(く)。障子を引き開き、宿物(よるのもの)を引き擧げ、中に入りて臥す。生絹の如くなる物を著たり。我が心に淸涼の心地す。覺めて後、又悦喜太(はなは)だ深しと云々。

[やぶちゃん注:「元久二年」西暦一二〇五年。明恵満三二歳。この年の初めに明恵は再度の天竺渡航計画を断念している。底本注に、ここより「41夢」までは、『「明恵上人夢の記〔九紙〕」と外題ある一冊』とある。
「槇尾」三尾(北へ向かって高雄(高尾)・槇尾・栂尾)の一。現在は高雄の神護寺、槇尾の西明寺、栂尾の高山寺として知られる。それぞれが京都屈指の紅葉名所でもある。
「寶樓閣法」宝楼閣経法。諸尊が住む楼閣を讃え、その陀羅尼の功徳を説いた唐の不空訳になる「宝楼閣経」(ほうろうかくきょう。正式には「大宝広博楼閣善住秘密陀羅尼経」という)三巻に拠って滅罪・息災・増益などを祈る修法をいう(中経出版「世界宗教用語大事典」に拠った)。底本注に、『釈迦如来のいる楼閣を中央に描いた曼陀羅を掛けて行う』とある。
「佛頂」大仏頂陀羅尼。底本注に、『仏頂呪。楞厳経の中の大仏頂の悟りの徳を説いた陀羅尼』とある。「楞厳経」は「りょうごんきょう」と読み、大乗仏典の一つ(正式には「大仏頂如来密因修証了義諸菩薩万行首楞厳経」という)唐の則天武后の時代(六九〇年~七〇四年)にインド僧が口訳したものを流謫中の宰相房融が筆録したとされる。早くより偽経の疑いがあり、現在は、当時の新興勢力であった禅や菩薩戒・密教の教義を仏説の権威を借りて総合的に主張しようとしたものとされている。「楞厳」とはクマーラジーバ(鳩摩羅什)訳の「首楞厳三昧経」と同様、「堅固な三昧」の意である(「楞厳経」については平凡社「世界大百科事典」に拠る)。
「初夜の時」この場合は六時の一つである戌の刻(現在の午後八時頃)に行う勤行。
「丑の尅」午前二時頃。]

■やぶちゃん現代語訳

17
 元久二年。神護寺の槇尾に於いて、宝楼閣法を修して、大仏頂陀羅尼を読み上げる。
一、十月十一日、その日の修法を終えて道場より出でて、いつも通りの初夜の勤行をなし終えた後、少し必要があった調べ物などをもし終え、丑の刻頃になって、やっと就寝した。その時の夢。
「現在の私の住房に、童子を五人か六人か、養っているのである。
 その内の四、五人は学問所で修学に励んでいる。
 ところが、その欠けている今一人の童子が、丁度、その時、持仏堂の方より走って来る気配がするのである。
――とんとんとんとん――
と、廊下を軽やかに走って来る足音が聞こえてくる。
……と……
――さっ
と、部屋の障子を引き開いたかと思うと、
――ぱっ
と、夜着を引き挙げたかと見るや、
――くるん
と褥(しとね)の中にすっかり包(くる)み入って臥した。
 その童子は如何にも柔らかく美しい生絹のようなる物を着ていたのだけが分かった。
 その顔貌(かおかたち)も、いや、姿さえも――実はよう、見えなんだ。
 しかし、その童子が部屋に入って夜具に入るまでのその刹那――我らが心は、えも言われぬ清々しい心地に満ち満ちたのであった。」
 目覚めた後も、またずっと、その喜悦が、とても深く、持続していたのが実に印象的であった。

[やぶちゃん注:その日の昼間の修法でやったことを簡潔ながらも具体的に記して、就寝に至るまでの仔細を記載していること、覚醒後も非常に強くその論理的な因果関係の不明な摩訶不思議な法悦のエクスタシーが持続したことを特に注記している点でかなり特異点にある夢である。宝楼閣法、大仏頂陀羅尼そして明恵が初夜の行法の後にした何かの調べ物――それらが総てこの夢と関連付けられている(と明恵は思っている)と考えて差し支えあるまい。
 また、その一少年が教学を学んでいる残りの少年たちのいる学問所(教学という理学)からではなく、持仏堂(仏法の真相)から明恵のいるところへと確かな足取りで速やかにやって来るというのも何か如何にもという設定である……待て?……そもそもこの時実は明恵はどこに「居る」のであろう?……私は実は、明恵はその障子のある部屋で横臥しているのではないのか、と思うのである。……即ち、この少年は今、まさにその明恵の褥に鮮やかに同衾しているのではなかろうか?……この少年の顔貌が語られぬにも拘わらず、最後に「生絹の如くなる物を著たり」と描写出来るのは、実は子宮の中の胎児のように褥の中にすっぽりとくるまった少年を、同じくそこにくるまっている少年の双子の胎児の如き明恵が、目と鼻の先で見ているからではないか?……いや! かく表現し得る場所はそこしかないんではないか?!……そしてその着衣は胞衣(えな)のような(!)「生絹の如くなる物」なのである!……ああ!……これはまるで……“2001: A Space Odyssey”のあの衝撃のラスト・シーンではないか!!……]

栂尾明恵上人伝記 32

 或る時上人語りて云はく、今夜夢に予一の世界に往生せり。其の世界の衆生悉く七寶莊嚴(しつぱうしやうごん)の瓔珞(やうらく)奇麗殊妙(きれいしゆめう)なるを以て、其身を莊嚴せり。然るに此を見れば、我が前世に書きて諸人に施與(せよ)せし所の三寶なり。此の國の衆生、前世に皆三寶を持し奉りしに依つて、今併(しかしなが)ら三寶の瓔珞を莊(かざ)りて、其の形うつくしと思ひて、不思議の思ひに住(ぢゆう)して覺(さ)めぬと云々。
[やぶちゃん注:夢記述である。それも明恵はここで別な世界に生まれ変わっている。しかもその世界の人々の、この上もなく美しいその装身具の瓔珞は、なんと、明恵がこの現世で多くの民草に書き与えた三宝で出来ていた、というのである。ここでは少しも明恵は奢っていない。これは殊更に明恵自身の神聖性を称揚する逸話というよりは、寧ろ、こうした夢を誇ることなく、三宝の絶対の功徳の神聖性に感動したことを素直に語っている明恵自身の、確信に満ちた「あるべきようは」=ゾルレンへの信仰告白であると私には思えるのである。]

大橋左狂「現在の鎌倉」 6 秋の鎌倉

     想思出(おもひで)多き秋の鎌倉

 「行く秋やさてさて人を泣かせたり」、「もの言へば唇寒し秋の風」などゝ、古人が詠んだ通りに、兎角秋は悲哀のものである。殊に疎雨蕭々として四隣寂(せき)たるの時、微かに椽下に切れ切れの蟲聲を耳にするの夜半に至りては、眞に愁(うれひ)を起し此秋獨り吾身に迫るなるかなと幾多の感想に打たるゝのである。然れども雲收まりて月明かの夕、波穩かなる海邊に逍遙せんか、微風波を起して金龍走るの絶景言わん方ないのである。秋は詩的である。高潔である。悲哀的である。又浩然の氣を養ふべき好期である。此時鎌倉に杖を曳く者は如何に多くの追想に驅らるゝのであらうか。秋の鎌倉は實に思出多き鎌倉である。

[やぶちゃん注:見出しの「想思出」はママ。冒頭二句の太字は底本では傍点「ヽ」。

「行く秋やさてさて人を泣かせたり」は、蕉門十哲の一人越智越人の句と思われるが、ネット検索で掛かるものでは「行く秋のさてさて人を泣かせたり」と初句のてにをはが異なる。]

 長空一碧秋天拭ふが如きの時一度び杖を鎌倉に曳き、往時の舊蹟古趾を探るものこそ眞の鎌倉を知る人である。

 鎌倉停車場に下車して鶴ケ岡八幡に歩を進め二の鳥居前を右折し、それより左折日蓮上人辻説法の趾を過ぎて二丁餘進めば玆處(ここ)は往時北條義時以後執權の屋敷跡である。今は寶戒寺境内となつて居る。寺内に入りて滑川を捗れば富士に似たる小山がある。其右に連れる山が屏風山と云ふのである。此富士に似たる山は小富士山と稱してある。此邊は往昔右府賴朝公の邸の庭前になつて居たので政子の請に依り此山にて富士の牧狩りの再演をしたと云ふ事である。又寶戒寺の南隣は土佐坊昌俊の屋敷趾であるのだ。又小富士山の南屏風山の稍々凹み居る谷合がある。之れ即ち葛西ケ谷にして俗に腹切坂と云ひ、元弘三年五月新田義貞が北條高時を攻めんとて稻村ケ崎に金裝の刀を投じて、潮を退け鎌倉に攻め入つた時、北條一族が此やぐらの内にて切腹した舊跡で、今や蟲の音淸く露荒れて幽魂を吊ふ客もなきこそ哀なれ。それより雪の下大倉に至れば師範學校の東方に畑地がある。治承四年十二月右府賴朝玆に居住せしより賴家、實朝、賴經等四代の將軍の邸趾である。

[やぶちゃん注:「日蓮上人辻説法の趾」これは当時としては極めて新しい史跡であったことを確認しておきたい。「花の鎌倉」で注した如く扇ヶ谷亀ヶ谷坂に別荘を構えていた田中智学は、日蓮腰掛石と称するものが小町大路(現在の「小町通り」ではなく、若宮大路を隔てた「小町通り」の対称位置にある大路の正式古名)の路傍に捨て置かれているのを見るに忍びず(この石は同大路にあった日蓮宗妙勝寺の門前にあったが同寺が福島県に移転して以後、放置されていた)、これを日蓮宗布教の布石ともせんと旧跡地の同定を行い、結果としては現在の蛭子神社から正覚寺夷堂附近と推測された。但し、その辺りには碑跡を建立する余地がなかったため、現在地に明治三四(一九〇一)年(本書の出る十一年前)に腰掛石を安置して顕彰したものである。無論、実際には日蓮の辻説法地は固定していたわけではないが、当時、町屋が多くあって賑わい、商業地域としても発展していた小町大路を布教活動の要衝としたことは事実と考えてよく、それもあってか、この大路周辺には日蓮宗寺院が現在も密集している。

「牧狩り」は厳密には「卷狩り」が正しい。

「腹切坂」これは現在ではあまり聞かれない呼称で興味深い。]

 鶴ケ岡八幡の左り建長寺に至る街道に漸次上り坂となる。巨福坂(こふくざか)及び其左りの假粧(けはい)坂はこれで、正平六年新田義興・脇谷義治鎌倉に攻め入らんとしたる新田・足利の攻守趾である。如何に多くの將士が白骨となつて埋もれ居るかと思へば凄然たらざるを得ない。また、扇ケ谷壽福寺境内に入りて彼の末松謙澄子別莊の附近は永承年間より源賴義・義家等の邸があつたのである。更に雪の下八幡前を由比ケ濱に進む。一の鳥居附近は由比ケ濱沿岸に渉り建曆年間和田氏と北條氏とが血戰した古戰場である。

[やぶちゃん注:「巨福坂(こふくざか)」表記ルビともにママ。

「正平六年新田義興・脇谷義治鎌倉に攻め入らんとした」これは正平七(一三五二)年の誤り。同年閏二月に足利幕府と南朝の講和が破れ、新田義貞の三男義宗とその次兄義興及び義貞の甥脇屋義治が後醍醐天皇皇子宗良親王を奉じ、さらに北条高時次男時行も加えて上野(こうずけ)で南朝軍として挙兵、同十八日に鎌倉を攻略し、足利尊氏を一時、武蔵国狩野川(現在の横浜市)へ敗走させた際のことを指している(但し、じきに巻き返した尊氏は一ヶ月後の同年三月十二日は鎌倉を奪還している)。

「末松謙澄子」末松謙澄(すえまつけんちょう 安政二(一八五五)年~大正九(一九二〇)年)子爵。衆議院議員・逓信大臣・内務大臣などを歴任。帝国学士院会員。]

 極樂寺坂に到れば玆處は新田義貞の家臣大館又次郎宗民主從が北條氏と血戰して討死した凄慘の舊趾である。今尚ほ此邊を發掘すれば五輪塔や多くの白骨古錢等が續々として掘り出されるのである。之れより南すれば元弘三年新田義貞北條氏を攻めんとし此地に入りたるも、陸は要塞峻嚴にして入るを得ず海神に祈り金裝の刀を投じて、干潮を見たるより大擧一陣府中に火を放ちて攻め入り遂に高時を逐ふて滅亡の偉勳を奏した古戰場の稻村ケ崎に出るのである。七里ケ濱は寶德三年四月の交足利成氏上杉憲定と大戰した古戰場である。幾多寶刀は折れて砂底に埋められ、白骨又黄土と化して乙女摘むすみれと化せしが、今尚海濱砂中より時々刀劍の折れを發見するのである。

[やぶちゃん注:どうも作者大橋氏は記年の誤りが多い。「寶德三年四月の交足利成氏上杉憲定と大戰した」の「交」は何と読んでいるのか分からないが(これ、もしかするとかつてあった地図記号の「古戦場」の類か?)、これは宝徳二(一四五〇)年四月の江の島合戦の誤りである。これは山内上杉家家宰長尾景仲及び景仲の婿扇谷上杉家家宰太田資清が成氏を襲撃、成氏は鎌倉から江の島に避難してことなきを得るという内紛であるが、その間、腰越から由比の浦(七里ヶ浜と由比ヶ浜)に於いて烈しい交戦が行われた。]

 七里ケ濱を過ぎて腰越に至れば滿福寺がある。源義經の鎌倉に入らんとするや右府賴朝の怒に觸れて入る事を許されなかつたのだ。即ち義經が此地に滯在して辨慶に草さした陳情書の腰越狀が此寺に保存してある。當時義經の心中や如何に多くの感慨に打たれたであらうか。兎に角鎌倉は到る處因緣の舊趾に充たされて居る。

  押立てゝ早や散る笹の色紙かな      鳴 雪

[やぶちゃん注:内藤鳴雪(弘化四(一八四七)年~大正一五(一九二六)年)。当時、鳴雪はまだ存命していた点、筆者の「左狂」という筆名、越智越人の引用句がそれほど知られた句でない点、ここで特異的に発句・俳句を引用し、傍点まで施していることなどを考えると、この大橋左狂という人物、相当に俳句を好んだ人物と考えてよかろう。]

叙情小曲 萩原朔太郎

 

 叙情小曲

きみがやえばのうす情け
ほのかににほふたそがれに
遠海(とほみ)の松を光らしめ
遠海(とほみ)の櫻を光らしめ
浪は浪浪きみがかたへと。

 

[やぶちゃん注:『遍路』第一年第六号・大正四(一九一五)年六月号に掲載された。底本第三巻「拾遺詩篇」より。校訂本文では「叙」を「敍」、「やえば」を「やへば」、「遠海」を「遠見」に『補正』している。

 なお、底本の『草稿詩篇「拾遺詩篇」』に載る以下の無題の草稿一種がある。以下に示す。誤字は総てママ。
   *

  

きみがやえばのうす情け
ほのかにせまる→くらい→ひらくにほふたそがれの
遠夜の 窓のうすあかり


遠夜の櫻ほの白し
海の梗をひらかしめ
海の櫻をひか光らしめ
浪は浪々
きみがかたへと


   *]

無言の顏 大手拓次 + 同詩自筆画像

 無言の顏

 

ちからをまきおこすともしびの裸形(らげふ)のかげに
ひとり想念のいただきにたふれふす。
永遠をあゆむ無言の顏。

 

[やぶちゃん注:当該詩は「178」頁で以下、ハトロン紙を挟んで末尾の「目次」で『筆蹟(グラビア版)・大手拓次筆』とある本詩(題名はなし)の自筆画像が入る(頁としては数えられておらず次の「毛がはえる」は左頁で「179」とノンブルが振られる)。以下に示す。拓次の筆跡は一見、優しい柔らかで優しい、少し可愛い嫋やかささえ感じさせる筆遣いで、私は非常に好きである。]

Img042

鬼城句集 夏之部 旱

旱     山畑に巾着茄子の旱かな



以上を以って「夏之部 天文」が終わる。

「電子テキスト情報」アーカイヴを見て仰天!

どういう方かはよく分からないが、ネット上の電子テクスト・サイトをアップ・トゥ・デイトに収集しておられる(この手の収集サイトの大半は実際には数十年から更新されていないものが大半で利用価値が存外低いものが大半である。また、このサイトのように頻繁に更新するためには検索と更新確認に恐るべき時間を必要する難儀な仕事である)

「電子テキスト情報」

を昨日発見した。2/3程度は概ね僕もチェックしているサイトで(僕も電子テキストサイトの検索蒐集では、一応、人後に落ちない自負はある。読めもしない癖にと言われそうな中国古典籍からカラマーゾフのロシア語原文まで9年で蒐集した資料は既に100GBを超えている)、古いものには消失しているものもあるが、非常によく収集がなされている。アーカイヴから見ても、この困難な作業を日常的になさっておられるようで頭が下がる。僕の知らなかった、特に海外サイトの随筆大成のPDF完全版など、「ほんまに手に入るんかいな?」と疑ったほど、信じ難い凄いものが入手出来ることに驚愕したサイトもある。

これは現在望み得る、最も新しい優れた電子テキスト情報サイトといってよい。フィールド購読をお薦めするものである。

……と……見ていくと……名立たる知られた内外の電子テクスト・サイトの中に……ありゃ?……「やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」……「鬼火」……「尾崎放哉全句集(やぶちゃん版新版)」……あちゃあ!――有り難やぁ!!!

2013/05/30

生物學講話 丘淺次郎 第九章 生殖の方法  一 雌雄異體

   一 雌雄異體

 雌雄異體とは個體に二種の區別があつて、一方は雄一方は雌である場合をいふ。普通に人の知つて居る動物は殆ど皆かやうになつて居る。人間を始め獸類・鳥類は素より蛇・「とかげ」・龜・蛙及び魚類に至るまで脊椎動物は悉く雌雄異體である。また日常人の目に觸れる昆蟲類・「えび」・「かに」の類なども雌雄は必ず別である。それ故、雌雄異體は動物の通性の如くに思はれ、わざわざこれを論ずる必要がないかの如くにも感ぜられるが、生物には雌雄の別のないものも少くないから、それらに比べて雌雄異體の動物にのみ特に具はつて居る性質に就いて考へて見よう。
 個體に雌雄の別があつて、その間に生殖の行はれる動物の中にもさまざまのものがある。「からす」や「さぎ」の如くに一見しては雌雄の別のわからぬものもあれば、鹿や鷄の如くに遠くからでも雌雄の區別の判然と知れるものもある。犬や龜の如くに交尾して暫時離れぬものもあれば、「うに」・「なまこ」などの如くに雌雄相觸れずして生殖するものもある。これらの相違及びその生じた原因に就いては後の章に述べることとしてここには略するが、雌雄異體の動物にはかやうに相異なる性質の外に全部に通じた肝要な點がある。それは即ち雌性の個體は卵細胞を生じ、雄性の個體は精蟲を生ずることであつて、この一事に關しては決して例外はない。卵細胞を生ずる個體ならば如何なる形狀を呈し、如何なる性質を具へて居てもこれは雌であつて、精蟲を生ずる個體ならば如何なる形狀を呈し、如何なる性質を具へて居てもこれは雄である。雌雄異體の動物が生殖する際には、雌の身體から離れた卵細胞と雄の身體から離れた精蟲とが一個づつ相合して、新たなる一個體の基礎を造る。そして雌雄の身體・性質等に相違のある場合には、これは皆卵細胞と精蟲とを相出遇はしめるため、また新たに生じた個體を保護し養ふためのものである。雌雄兩性による生殖は、種々の生殖法の中で最も進んだ最も複雜なものであるが、雌雄の間に著しい相違のある種類では、更に一層働が複雜になつて居るから、たゞこれだけを見ると頗る不思議に思はれ、何か神祕的の事情が含まれてあるかの如くにも感ぜられる。しかしこれを他の簡單な生殖法に比べて見ると、初めてその理窟が稍々明瞭になつて來る。その有樣は恰も人間だけを調べたのでは人間とは如何なるものであるかが到底わからぬが、他の下等動物と比較して見ると、その素性が明らかに知れるのと同じである。
 卵細胞を生ずる器官は卵巣であって、精蟲を造る器官は睾丸であるから、雌とは卵巣を有する個體、雄とは睾丸を具へた個體というて差支はない。一方に卵巣を一方は睾丸を具へて居るといふ外に何の相違もない雌雄は、外見上には少しも區別が出來ぬ。「うに」や「なまこ」はこの類に屬する。しかし雄の身體から離れた精蟲を確實に卵細胞まで達せしめるには、これを雌の身體の内へ移し入れるのがもっとも有功である。そして、雄が精蟲を雌の體内へ移し入れる器官は交接器であるが、これを具へた動物になると、如何に雌雄の形狀が相似て居てもその部さへ見れば容易に區別することが出來る。犬・猫などはこの程度にある。
 なお雌雄異體の動物には、雌雄によつて體形の非常に相違するものがあり、中には雄と雌とが同一種の動物とは思はれぬ程のものもあるが、これらに就いては更に後の章に詳しく述べるからこゝには略する。
 とにかく、雌雄異體の生殖は、すべての生殖法の中でも最も進んだもので、それだけ他に勝つた利益はあるに違ないが、物には必ず損と得とがあるもので、雌雄異體の生殖にもまた多少不利益な點がないでもない。例へばこの類に屬する動物では、一疋づつ離して置けば全く棲息が出來ぬ。假に一疋の雌鼠が鼠の一疋も居ない離れ島へ漂著したと想像するに、もしその後他の鼠が漂流して來なかつたならばい一代限りで絶てしまふ。また偶然第二囘の漂著者があつたとしても、もしこれが同じく雌であつたならば、二疋寄つても子を遺すことは出來ぬ。雌と雌とが出遇うても、雄と雄とが出遇うても子を産むことが出來ぬから、雌雄異體の動物では、二疋の個體が偶然相出遇うたときに子を産む機會は五割により當らぬ。それ故、新領土に種族を節分布するに當つては、雌雄の別のあることは餘程の損になる。尤も同種類の個體が多數に近邊に居る場合にはかやうな不都合は無論起らぬ。

栂尾明恵上人伝記 31 雨乞成功と民草の見た霊夢

 上人紀州に栖み給ひける夏、八十餘日に及ぶまで大旱魃(だいかんばつ)しけり。國々村々の田畠悉く燒け枯れて、萬民の歎き斜ならず。爰に上人哀しみに堪へずして、試みに大佛頂(だいぶつちやう)の法を修し給ふ。手づから自(みづか)ら二龍を圖して、一龍をば加持して海中に入れ、一龍をば壇上に安んじて祈誓を致し給ふ。二龍の銘に毘盧舍那(びるしやな)の大龍王と書き付け給ふ。是は毘盧舍那の一解脱の主たる大龍を請ずるに依つてなり。此の法三日を期限とし給ふ。其の間同法兩三をして、別譯の華嚴世主妙嚴品(けごんせしゆめうごんぼん)を轉讀せしむ。亦彼の法に依つて水を加持して、高山の峰に登りて是を灑(そゝ)ぎ給ふに、第三日の未の刻に至りて、雲一片彼の神谷(かみだに)の山寺の上に靉靆(たなびき)て、程なく大虛(おほぞら)に遍滿して、霹靂轟き、大雨降ること三日なり。萬民悦び合ふ事限り無し。其の近隣の里人多く夢に見けるは、上人の草菴の上より二龍空に登りて、一龍は水を天に灑ぎ、一龍は洪水を止め、田地を損ぜじとし給ふと見る由、申合ひにけり。此の二龍の圖加持の事、御弟子一兩輩の外更に知る人なし。各披露に及ばず。然るに此の如き夢想奇異不思議の事なり。
[やぶちゃん注:これはすこぶる興味深い。ここでのき夢記述は民が共時的に見た霊夢なのである。なお、「是は毘盧舍那の一解脱の主たる大龍を」の「る」は底本では植字ミスによって空欄になっているのを諸本で補った。]

 建暦二年〔壬申〕、摧邪輪(ざいじやりん)三卷之を作る。

 同三年〔癸酉〕六月莊嚴記(しやうごんき)一卷之を作る。

 建保三年〔甲戌〕三寶禮釋(さんばうらいしやく)一卷之を撰ぶ。又同(おなじく)功德義(くどくぎ)之を抄す。

 又同年、華嚴經十廻向の中に、菩薩五臟の中の心の臟をさきて衆生に施與(せよ)するとて、二十種の菩提心を列せり。其の中の四種の菩提心を左右に書きて能求(のうぐ)の心として、上に横に三寶の梵號(ぼんがう)を書きて本尊とす。必ず生々世々普賢大菩提心の行者として、三寶の値遇を遂げんが爲なり。委しくは三寶禮釋竝に功德義等に之を載せらる。尋ね見るべし。

仙人掌開花

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耳嚢 巻之七 鱣魚は眼氣の良藥なる事

 

 

 鱣魚は眼氣の良藥なる事

 

 

 寶曆の初(はじめ)、日本左衞門といへる強盜ありて、其節の盜賊改(たうぞくあらため)德山五兵衞方へ被召捕(めしとらへられ)御仕置に成りし。右吟味の節、同組與力何某、日本左衞門闇夜にも物を見(みる)事顯然たる由を聞(きき)、吟味處(ぎんみどころ)の燈を消して闇(くら)くなし日本左衞門を引出し、右吟味所に有之(これある)手鎖捕繩等の數を尋(たづね)しに、聊(いささか)相違無(なく)答へけれど、右は晝見置(みおき)候哉(や)の疑ひある故、其邊に有合(ありあふ)訴書(うつたへがき)を渡し讀(よむ)由好(この)みければ、燈火にて讀(よむ)程にはなけれ共、無滯讀(とどこほりなくよみ)ける故、何ぞ藥等有(あり)て眼精如斯哉(かくのごとしや)と尋(たづね)しに、若手の頭人の敎(をしへ)けるは、うなぎを澤(たく)さんに食すれば眼精格別と語(かたる)。其喰(くひ)しやふは、縱令(たとへ)ば朔日(ついたち)より八日迄日々うなぎを澤山に喰(くひ)、夫よりは斷(たち)もの同樣に一向不喰(くはず)、最初先(まづ)佛神えなり共(とも)祈誓して斷物(たちもの)にして、扨(さて)七日程喰(しよく)するよし。尤(もつとも)、鱣(うなぎ)の首の處は不給(たべず)、首より五分(ぶ)程の間(あひだ)、肝のある所を捨(すて)、尾先は末の所迄給(たべ)候由。鱣の肝は目の藥抔といへど、大き成(なる)そら事にて、尾先はすべて精身(せいしん)の集(あつま)る所故、尾先へは隨分肉を不殘喰(のこらずしよく)するよし申(まうし)けるを、彼(かの)與力聞(きき)て、右にならひうなぎを不絕(たえず)食しけるに、眼氣人よりはよかりしと、其子孫のかたりしと也。谷何某(たになにがし)物語也。 

 

□やぶちゃん注

 

○前項連関:民間習俗ながら天下の大盗賊の首魁日本左衛門の実録物とカップリングされた話柄は、なかなかに面白い。

 

・「鱣魚」鰻。目によいとされるビタミンAを多量に持っていることは事実である。但し、老婆心ながら申し上げておくと、ビタミンAは過剰摂取すると下痢などの食中毒様症状から倦怠感や全身の皮膚剥離などの重篤な皮膚障害などを引き起こし、また多量の体内蓄積は催奇形性リスクが非常に高くなるとされる。「ビタミン」というとまさに「鱣の社」に仕立て上げてしまう向きはご注意あれ。「鱣の社」を知らない? 教員時代は漢文の教科書によく載っていて、好んで授業したものだがなぁ。「異苑」に載る話だ。柴田宵曲 妖異博物館 乾鮭大明神」の私の注で電子化してあるから、見られよ。確かに、「鱣の社 異苑」で検索しても、ちゃんと紹介しているのは、私の記事ぐらいか? 漢文も、すっかり廃れたな。哀しいことだわ。なお、「眼」と「ウナギ」は逆に大変な事実がある。ウナギの血には「イクチオヘモトキシン」(ichthyotoxin) というタンパク質の毒が含まれており、飲むと、下痢・嘔吐・皮膚発疹・チアノーゼ・無気力症・不整脈・全身衰弱・感覚異常・麻痺・呼吸困難が引き起こされ、死亡することもあり、何より、江戸時代にも知られていたが、この血、眼に入ると、激しく痛み、結膜炎から――最悪――失明に至るんだぜ!!!

 

・「寶曆」西暦一七五一年から一七六三年。「初」とあるから、日本左衛門が本格的に大盗賊として知れ渡ったのは三十代前半であったことが知れる。

 

・「日本左衞門」(にっぽんざえもん 享保四(一七一九)年~延享四(一七四七)年)は本名浜島庄兵衛といった大盗賊。以下、ウィキの「日本左衞門」を引用する(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更した)。『尾張藩の下級武士の子として生まれる。若い頃から放蕩を繰り返し、やがて盗賊団の頭目となって遠江国を本拠とし、東海道諸国を荒らしまわった。その後、被害にあった地元の豪農の訴えによって江戸から火付盗賊改方の長官徳山秀栄が派遣される(長官としているのは池波正太郎著作の「おとこの秘図」であり、史実本来の職位は不明)。日本左衛門首洗い井戸の碑に書かれている内容では、捕縛の命を受けたのは徳ノ山五兵衛・本所築地奉行となっている(本所築地奉行は代々の徳山五兵衛でも重政のみ)。逃亡した日本左衛門は安芸国宮島で自分の手配書を目にし逃げ切れないと観念(当時、手配書が出されるのは親殺しや主殺しの重罪のみであり、盗賊としては日本初の手配書だった)』、『一七四七年一月七日に京都で自首し、同年三月十一日(十四日とも)に処刑され、首は遠江国見附に晒された。上記の碑には向島で捕縛されたとある。処刑の場所は遠州鈴ヶ森刑場とも江戸伝馬町刑場とも言われている。罪状は確認されているだけで十四件、二千六百二十二両。実際はその数倍と言われる。その容貌については、一八〇センチメートル近い長身の精悍な美丈夫で、顔に五センチメートルほどもある切り傷があり、常に首を右に傾ける癖があったと伝わっている』。『後に義賊「日本駄右衛門」として脚色され、歌舞伎(青砥稿花紅彩画)や、様々な著書などで取り上げられたため、その人物像、評価については輪郭が定かではなく、諸説入り乱れている』とある。「耳嚢 巻之一」の「武邊手段の事」には、その子分の捕縛時の逸話が記されてある。

 

・「盜賊改」火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)は、江戸時代に主に重罪である火付け(放火)、盗賊(押し込み強盗団)、賭博を取り締まった役職。本来、臨時の役職で幕府常備軍である御先手組頭、持組頭などから選ばれた。明暦の大火以後、放火犯に加えて盗賊が江戸に多く現れたため、幕府はそれら凶悪犯を取り締まる専任の役所を設けることにし、「盗賊改」を寛文五(一六六五)年に設置。その後「火付改」を天和三(一六八三)年に設けた。一方の治安機関たる町奉行が役方(文官)であるのに対し、火付盗賊改方は番方(武官)である。この理由として、殊に江戸前期における盗賊が武装盗賊団であることが多く、それらが抵抗を行った場合に非武装の町奉行では手に負えなかったこと、また、捜査撹乱を狙って犯行後に家屋に火を放ち逃走する手口も横行したことから、これらを武力制圧することの出来る現代でいうところの警察軍として設置されたものである。決められた役所はなく、先手組頭などの役宅を臨時の役所として利用した。任命された先手組の組織(与力五~一〇騎・同心三〇~五〇人)がそのまま使われたが、取り締まりに熟練した者は、火付盗賊改方頭が代わってもそのまま同職に残ることもあった。町奉行所と同じように目明しも使った。天明七(一七八七)年から寛政七(一七九五)年まで長官を務めや長谷川宣以(のぶため)が池波正太郎「鬼平犯科帳」で有名。但し、火付盗賊改方は窃盗・強盗・放火などにおける捜査権こそ持つものの、裁判権は殆んど認められておらず、敲(たた)き刑以上の刑罰に問うべき容疑者の裁定に際しては老中の裁可を仰ぐ必要があった。火付盗賊改方は番方であるが故に取り締まりは乱暴になる傾向があり、町人に限らず、武士、僧侶であっても疑わしい者を容赦無く検挙することが認められていたことから、苛烈な取り締まりによる誤認逮捕等の冤罪も多かった。市井の人々は町奉行を「檜舞台」と呼んだのに対し、火付盗賊改方を「乞食芝居」と呼び、一方の捜査機関たる町奉行所役人からも嫌われていた記録が見られ、こうした弊害を受けて元禄一二(一六九九)年には盗賊改と火付改は一度廃止されて三奉行(寺社奉行・勘定奉行・町奉行)の管轄となったが、元禄赤穂事件があった元禄一五(一七〇二)年に盗賊改が復活、博打改が新たに登場、さらに翌年には火付改も復活した。享保三(一七一八)年には盗賊改と火付改は「火付盗賊改」に一本化されて先手頭の加役となり、文久二(一八六二)年になると、先手頭兼任からも独立して加役から専任制になった(博打改は火付盗賊改ができた年に町奉行配下に移管)。以上はウィキの「火付盗賊改方」に拠った。

 

・「德山五兵衞」底本鈴木氏注に、『秀栄(ヒデイヘ)。享保九年本所火事場見廻、十八年御使番、布衣を許さる。延享元年御先鉄砲組頭、三年盗賊火付改、宝暦四年西城御持筒組頭、七年没、六十八。日本左衛門こと浜島庄兵衛が召捕となり、遠州見付で処刑されたのは延享四年三月であった』とある。

 

・「若手の頭人の敎けるは」の「若手」には底本には右に『(ママ)』表記する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『若年の頃人の教(おしえ)しは』で、すんなり読める。この部分はこのバークレー校版で訳した。

 

・「不給(たべず)」は底本のルビ。

 

・「五分」約一センチ五ミリメートル。

 

 

■やぶちゃん現代語訳 

 

 鰻は視力の良薬であるという事 

 

 宝暦の初め、日本左衞門(にっぽんざえもん)という知られた強盜がおり、その当時の火付盗賊改方徳山五兵衛殿に召し捕えられて御仕置と相い成った。

 

 その吟味の折り、同組与力の何某(なにがし)、

 

――日本左衛門は闇夜にてもはっきりと物を見ることが出来る

 

由を聞き、その日、夜間の訊問の折りから、吟味所(ぎんみどころ)の燈(ひ)をわざと消して暗くしておき、日本左衛門を引き出ださせると、吟味所の壁に掛けてある手鎖(てぐざり)や捕繩(とりなわ)なんどの数を訊いてみたところが、いささかの相違もなく正確に答えた。

 

 しかし、その与力、

 

「……うむ。しかしこれは……昼になした吟味の際、たまたま見覚えておったものでないとも限らぬ――」

 

と申した。

 

 すると日本左衛門は、

 

「――ではお近くにあるやに見えまするところの、その、訴状と思しい類いのもの――これ、どれでも一つ、お渡し下されい。――この場にてお読み申そうず……」

 

と言うたによって、与力は、訴状の中(うち)より、彼に読ませても問題のないものを選び出し、日本左衛門の前に差し出した。

 

 すると、彼は――燈火(ともしび)を照らして読むほどに流暢ではなかったものの――その一字一句を、これ、滞りのう、読み終えて御座った。

 

 されば、与力、

 

「……お主は、何ぞ、目に良き薬などを以って、その視力を養って参ったものか?」

 

と訊ねたところ、日本左衛門曰はく、

 

「……我ら、若き頃、さる人の教え呉れたことには、鰻をさわに食すれば、眼精(がんせい)は格別とのことで御座った。……我ら、それを守って御座ったとは申そうず。……その食い方と申さば、そうさ――例えば、月の朔日(ついたち)より八日までは、鰻をさわに食う――がしかし、その明けた九日よりは、逆に、断ち物同様、一切これを食わずにおくので御座る。少し具体に申さば――九日目の最初に、まず、何ぞ神仏へなりとも、これより鰻を断つ旨の祈誓を致いて、さても、それから七日ほどは一切、鰻を除いたものを食するので御座る。……もっとも、鰻の首の所は決して食い申さぬ。……そうさ、首より五分(ぶ)ほどの間にあるところの――俗に「肝」と申す――あそこは捨てて、尾先の方(かた)は末の末の部分まで、これ、綺麗に食べて御座る。……さても「鰻の肝」と申すを目の薬なんどと世間にては申しまするが……これは大いなる誤りにて――寧ろ、尾の先までは、これすべて、鰻の精気の凝り固まって御座るところなればこそ――尾先の方までは、随分、丁寧に、肉を残らず食うて御座った。……」

 

と申した由。

 

 その与力、これを聴いて――謂わば、日本左衛門の遺言のしきたりに倣って、鰻を絶えず食しては断ち、食しては断ちを繰り返してみたところが、人よりは眼が遙かにようなった――とは、その与力の子孫の者の語って御座った由。

 

 我らが知れる谷何某(なにがし)殿の物語りで御座った。

大橋左狂「現在の鎌倉」 5 海水浴場

     海水浴場

 

 鎌倉の海水浴場と云へば海岸到る處皆海水浴場となるのである。即ち材木座の由比ケ濱海岸より長汀曲浦淸砂を辿りて長谷、坂の下、片瀨、鵠沼に至る海岸は悉く海水浴に適して居る。只七里ケ濱の峯ケ原附近は稍々危險だそうだ。夏期避暑客の續々と押し寄せて來る七、八月の頃は此一帶の海岸に數十の私設海水浴場が設けられる。別莊客は箇人專用の海水浴場を設ける。海岸は見渡す限り萱津(よしづ)に包まれた脱衣場が軒を並べて隙がないと言ても良い程である。此外に鎌倉町から避暑客の便利を圖つて町費にて設けられた公開海水浴場がある。此れは明治四十三年から初めて設けられたのである。江の島長橋の手前片瀨の東濱にも川口村公設の海水浴場がある。

[やぶちゃん注:江ノ電鎌倉高校前駅と七里ケ浜駅の間にある峰ヶ原信号場(退避線有)附近。かつてこの付近には旧七里ヶ浜駅が置かれており、現在の七里ヶ浜駅は戦中に旧駅が廃駅となった後、昭和二六(一九五一)年に行合駅を改称、更に旧七里ヶ浜駅と行合駅(現在の七里ヶ浜駅)間には峰ヶ原駅が、日坂駅(現在の鎌倉高校前駅)と旧七里ヶ浜駅間には谷沢駅が存在した(かつての駅の並び〈日坂―谷沢―七里ヶ浜―峰ヶ原―行合(当初の駅名は田辺)〉/現在の駅等の並び〈鎌倉高校前―(峰ヶ原信号所)―七里ヶ浜〉。以上はウィキ峰ヶ原信号場に拠った)。この峰ヶ原は古記録に出る金洗沢で、「新編鎌倉志卷之六」に、

〇金洗澤 金洗澤(かねあらひざは)は、七里濵の内、行合川(ゆきあひがは)の西の方なり。此所ろにて昔し金を掘りたる故に名く。【東鑑】に、養和二年四月、賴朝、腰越(こしごへ)に出で、江島に赴き還り給ふ時、金洗澤の邊にて牛追物(うしをふもの)ありと有。又元年六月六日、炎旱渉旬(炎旱(えんかん)旬を渉(はた)る)。仍て今日雨を祈ん爲に、靈所七瀨の御祓(はらへ)を行ふ。由比濱(ゆひのはま)・金洗澤(かねあらひざは)・固瀨河(かたせがは)・六連(むつら)・柚河(ゆのかは)・杜戸(もりと)・江島龍穴(えのしまのりうけつ)とあり。

と記す。「金洗」とは、恐らくは稲村ヶ崎から七里ヶ浜一帯で採取される砂鉄の精錬を行った場所と考えられている。

「川口村」現在の藤沢市片瀬地区、旧片瀬町(まち)の前身。明治二二(一八八九)年に町村制施行により片瀬村と江島村が合併して川口村となり、明治三五(一九〇二)年九月に江之島電氣鐵道(現在の江ノ島電鉄線)の新屋敷・西方(現在の湘南海岸公園駅)・浜須賀・山本橋及び片瀬(現在の江ノ島駅)の各停留所が、同三六(一九〇三)年六月には龍ノ口及び中原停留所が開業している。昭和八(一九三三)年に町制施行で片瀬町となり、昭和二二(一九四七)年四月一日を以って藤沢市へ編入合併された(以上はウィキ片瀬町に拠った。]

 鎌倉の海水浴場は毎年七月二十日より九月七日迄の間開設してある。場所は由比ケ濱、極樂寺、坂の下、材木座海岸の四ケ所である。各所には間口七間奧行三間の更衣所が建設されて内部は男女の區別が嚴然としてある。又救護用として繃帶材料、アンモニヤ、其他應急上必要の藥品は全部各更衣所に備付けてある。何時何人(いつなんぴと)でも必要あれば使用しても差支ないのである。公衆の隨意使用を許してあるのは便利である。浴場の海上には絶へず三隻の救護船を浮べて浴客の危險なき樣にと見張らしめてある。由井ケ濱浴場の中央に公設海水浴場事務所を設けて毎日時間中は警察官町役場吏員が交代に出張して諸般の事務や萬一の警戒に怠りない。赤い饅頭笠を冠つた掃除夫は間斷なく海岸砂上を淸潔にして居る。中央事務所の番人は絶へず各浴場と連絡して信號を爲して危險を豫防して居る。周強く波荒くならんとするときには水浴を禁ずる爲め各浴場とも赤旗を樹てゝ信號する。波穩かに水浴適當に復したときは靑旗を掲げて信號する。毎日の水浴時間午前は七時より十一時まで、午後は二時より六時迄と制限されてある。此時間外にても水浴は出來るとは言へ救護船も引上げ監視員も退場するから甚だ危險である。公設水浴場には各所毎に眞水井を据つてあつて浴後の淸拭(きよふき)に用意されてある。川口村片瀨の水浴場も東濱に十數箇建てられてあるが、其設備は鎌倉の浴場と差異はない。

[やぶちゃん注:当時の海水浴場が我々の想像するよりも遙かに近代化されており、保安救護体制も完備していたことが分かる。僕らはこの映像の中に「こゝろ」の「私」と「先生」を配さねばならなかったのだ。僕らはもっと田舎染みた映像を想定してはいなかっただろうか?

「間口七間奧行三間」間口約一二・七メートル、奥行約五・五メートル。]

 此外海水浴場として毎年此期節の休暇日を見計らつて、近衞師團や第一師團の軍隊が此の鎌倉迄水浴に來る。短かきは一週日間長きも三週間位の豫定である。軍隊の水浴場は大概由井ケ濱海岸を選定せられる。由井ケ濱の小學校、材木座の光明寺等は常に此水浴軍人の宿泊所と定められる。陸軍幼年學校生徒も毎年此鎌倉に來て、材木座の光明寺に宿泊するものは其山門前の由比ケ濱にて、又片瀬學習院の寄宿舍に宿泊する生徒は片瀨の濱にて水泳の練習をする。而して各級の修了期には、江の島一圓やら由井ケ濱江の島間等の壯烈なる遠泳を試みるのである。數百の健兒が激浪に押しつ押されつ或は丈餘の浪に碎けて、隊伍を散づると思へば又寄せ來る波を越へて、隊伍整々堂々と互ひに拔手を切つて、目的の彼岸に上陸して、意氣豪然萬歳を絶叫するに至つては、實に壯觀である。

[やぶちゃん注:この光明寺裏に漱石は避暑に来ており、高い確率で「こゝろ」の先生の宿所もそこである。因みに「私」の宿所も冒頭部分の『宿は鎌倉でも邊鄙な方角にあつた。玉突だのアイスクリームだのといふハイカラなものには長い畷(なはて)を一つ越さなければ手が屆かなかつた。車で行つても二十錢は取られた。けれども個人の別莊は其處此處にいくつでも建てられてゐた。それに海へは極近いので海水浴を遣るには至極便利な地位を占めてゐた』という描写から材木座・大町地域にあったと考えてよい。]

 江の島の翠黛(すいたい)を前に眺めたる、白砂靑松風涼しき片瀨川の濱に、數隻のボートを繋ぎある其前に見ゆる小松原内の建物は、學習院の寄宿舍である。之れは毎年の夏期に於て學習院の若殿原が紅塵場裏の暑を避けて、日課の水泳練習を行ふべく與へられた樂境である。尚ほ山本橋を渡つた靑松白砂の間に點在する臨時天幕の宿舍が建られる。學習院の公達は毎年七月中旬から三週間の見込で此片瀨の濱に寄宿するのだ。中にも畏き御在學中の宮殿下のお參加を拜すのである。金枝玉葉の御身をば、此荒磯邊の波に揉ませられ、潮に洗わせ給ふ御技、拜するも畏多き事なり、實に宮殿下の水浴場に充てられたる片瀬濱の光榮こそ譽なれ。尚ほ乘馬軍隊の水馬演習も片瀨の濱に見受けられる。夏の鎌倉砂淨らかの海濱は、吾國軍隊や學校の水泳場と定められてあるのは眞に鎌倉繁榮の一彩色である。

[やぶちゃん注:「山本橋」現在の藤沢市片瀬海岸三丁目一にある片瀬川の河口から三番目の橋で、西浜公園の東角で対岸の片瀬海岸一丁目に架橋する。

「宮殿下」裕仁親王、後の昭和天皇。明治四〇(一九〇七)年四月に学習院初等科入学、まさに本書が出版された明治四五(一九一二)年七月三〇日に祖父明治天皇が崩御、父嘉仁親王が践祚したことに伴って皇太子となった。明治四五当時は満十一歳。その少年の泳ぐ姿を「金枝玉葉の御身をば、此荒磯邊の波に揉ませられ、潮に洗わせ給ふ御技、拜するも畏多き事なり、實に宮殿下の水浴場に充てられたる片瀬濱の光榮こそ譽なれ」たぁ、流石に、時代が時代なだけ、モノすげー表現だねえ……。但し、この叙述は正確にはまさにこの前年より正しゝないと言わざるを得ないのである。何故か? ウィキ片瀬東浜海水浴場を見よう。そこにこう書かれているからである(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『一八九一年(明治二四年)、学習院が隅田川の浜町河岸にあった游泳演習場を川口村片瀬に移す。一九〇四年(明治三七年)には片瀬海岸に学習院の寄宿舎(平屋建て、九棟)が翌年にかけて竣工し、三年後に学習院院長に就任した乃木希典の褌姿の写真も残っている。乃木院長は軍隊式の幕営という方法も採用した。一九〇五年(明治三八年)八月の記録には江の島片瀬に避暑客三〇〇人、学習院職員生徒一三二人来訪とある。しかし、一九一一年(明治四四年)、学習院は游泳演習場を片瀬から沼津御用邸の隣接地に移す。片瀬の海水浴場が一般客で混雑し、游泳演習場に適さなくなったのが理由とされる。この混雑のきっかけは一九〇二年(明治三五年)、藤沢駅から片瀬まで開通した江之島電氣鐵道によるアクセスの利便性の発展である』(下線部やぶちゃん)。しかし更に見てゆくと、この跡地がまたまた海水浴場になって発展するのである。『この学習院游泳演習場跡地の活用が一九一五年(大正四年)七月二十一日、鎌倉郡川口村の天野村長や村内有力者六名の協議により、更衣所や衣類所持品預かり所を設置し、見張り番・救助船などを準備した村営の海水浴場を開設することとなった。江ノ電の開通により、日帰り海水浴客が一般化してきたことが理由であろう。この傾向は一九二九年(昭和四年)四月一日の小田急江ノ島線開通によって決定的となった。江ノ電の方も一九三一年(昭和六年)七月十日、四輪車五両の海水浴納涼電車の運行を開始し、「海水浴納涼往復割引乗車券」を発売する。この賑わいは一九四〇年(昭和一五年)の頃まで続いたようで、東海道本線が品川駅 - 藤沢駅間に臨時列車を増発するほどだった。この年の東浜には休憩所、飲食店、売店等六十余軒が建ち並んだというから、今日の姿とほとんど変わらない』とある。従って泳ぐ神の子はもっと幼少の今の小学校三、四年生の映像が正しいということになろうか。]

年寄の馬 大手拓次

 年寄の馬

わたしは手でまねいた、
岡のうへにさびしくたつてゐる馬を、
岡のうへにないてゐる年寄(としより)の馬を。
けむりのやうにはびこる憂鬱、
はりねずみのやうに舞ふ苦悶(くもん)、
まつかに燒けただれたたましひ、
わたしはむかうの岡のうへから、
やみつかれた年寄の馬をつれてこようとしてゐる。
やさしい老馬よ、
おまへの眼(め)のなかにはあをい水草(すゐさう)のかげがある。
そこに、まつしろなすきとほる手をさしのべて、
水草のかげをぬすまうとするものがゐる。

鬼城句集 夏之部 露凉し

露凉し   露凉し形あるもの皆生ける

漠然たる敵 萩原朔太郎

       ●漠然たる敵

 

 すべての偉大な人物等は、避けがたく皆その敵を持つてゐる。より偉大なものほど、より力の強い、恐るへき敵を持つであらう。單純な人物――政治家や、軍人や、社會主義者や――は、いつでも正體のはつきりしてゐる、単純な目標の敵を持つてる。だがより性格の複雜した、意識の深いところに生活する人々は、社会のずつと内部に隱れてゐる、目に見えない原動力の敵を持つてる。しばしばそれは、概念によつて抽象されない、一つの大きなエネルギイで、地球の全体をさへ動かすところの、根本のものでさえもあるだろう。彼等は敵の居る事を心に感ずる。だが敵の實體が何であり、どこに挑戰されるものであるかを、容易に自ら知覺し得ない。彼等はずつと長い間――おそらくは生涯を通じて――敵の名前さえも知らないところの、漠然たる戰鬪に殉じて居る。死後になつて見れば、初めてそれが解るのである。

   何所(いづこ)にか我が敵のある如し

 

   敵のある如し………           北原白秋斷章

 

[やぶちゃん注:昭和四(一九二九)年十月第一書房刊のアフォリズム集「虚妄の正義」の最終章「思想と爭鬪」より。「はつきり」「より」は底本では傍点「ヽ」、「原動力」は底本では傍点「●」。引用の白秋の詩は、詩集「思ひ出」に載る以下の詩の冒頭と思われるが、底本校異に、朔太郎は『記憶によって記したものと思われる』とある。

 

   敵

 

いづこにか敵のゐて、

敵のゐてかくるるごとし。

酒倉(さかぐら)のかげをゆく日も、

街(まち)の問屋に

銀紙(ぎんがみ)買ひに行くときも、

うつし繪を手の甲に捺(お)し、

手の甲に捺し、

夕日の水路見るときも、

ただひとりさまよふ街の

いづこにか敵のゐて

つけねらふ、つけねらふ、靜(しづ)こころなく。

 

以上は、昭和四二(一九六七)年新潮社刊「日本詩人全集7 北原白秋」所載のものを恣意的に正字化して示した。]

2013/05/29

虛無の鴉 萩原朔太郎

 虛無の鴉

 

我はもと虛無の鴉

かの高き冬至の家根に口を開けて

風見の如くに咆號(はいがう)せん。

季節に認識ありやなしや

我の持たざるものは一切なり。

 

[やぶちゃん注:昭和四(一九二九)年刊新潮社版現代詩人全集第九巻「萩原朔太郎集」より。この詩はこの詩集で初めて収録された。因みに晩年の朔太郎はこの詩を遺愛し、詩集「氷島」や「宿命」に再録(一部文字表記に異同有り)するとともに、色紙などにもよく揮毫している(リンク先は私の所持する複製色紙)。]

否定せよツ!!! 萩原朔太郎 (「虛無の鴉」初出形)

 否定せよツ!!!

ああ汝はもと「虛無」の鴉
かの高き冬至の家根に口を開けて
風見(かざみ)の如くに咆號せよ。
季節に認識ありやなしや
我の持たざるものは一切なり。

[やぶちゃん注:「文芸春秋」第五巻第三号・昭和二(一九二七)年三月号に掲載された。後に改稿され、昭和四(一九二九)年刊新潮社版現代詩人全集第九巻「萩原朔太郎集」に「虛無の鴉」と改題して所収された。次に示す。なお、「!!!」は底本では一文字分に横三列。]

蛙の夜 大手拓次

 蛙の夜

いつさいのものはくらく、
いつさいのおとはきえ、
まんまんたる闇の底に、
むらがりつどふ蛙のすがたがうかびでた。
かずしれぬ蛙の口は、
ぱく、ぱく、ぱく、ぱく、…… とうごいて、
その口のなかには一つ一つあをい星がひかつてゐる。

鬼城句集 夏之部 靑嵐

靑嵐    馬に乘つて千里の情や靑嵐

中島敦「山月記」 + 藪野直史「山月記」授業ノート 公開

「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に中島敦「山月記」及び私藪野直史の「山月記」授業ノートを公開した。

教え子の諸君の中には僕の朗読を思い出して呉れる奇特な方もいると存ずる。僕の授業を、少しばかりブラッシュ・アップした教案とともに、そうした僕の愛する子らに贈る。

2013/05/28

僕が忘れていたことを

僕が忘れていたことを……やらなきゃ……

生物學講話 丘淺次郎 第九章 生殖の方法 序

    第九章 生殖の方法

 前章まではおもに食ふため食はれぬために生物の行ふことを述べたが、何故食ふこと食はれぬことにかくまで力を盡すかといへば、これは子を産み終るまで生き延びんがために他ならぬ。されば食ふことは産むための準備とも考へられるが、しからばなんのために産むかと尋ねると、これはまた更に多く食はんがためともいへる。一疋が一代限では何程も食へぬが、蕃殖して數多くなれば、それだけ多く食へ、更に蕃殖すれば更に多く食へる。食ふのは産むためで、産むのは食ふためだといへば、いづれが目的かわからぬやうであるが、およそ生物の生活は他物をとって自體とするにあることを思ふと、食ふのも産むのもそのためであつて、決して一方だけを目的と見做すことはできぬ筈である。言い換へれば個體の食ふことと産むこととによつて種族の生活が成り立つて居るから、一方だけに離しては生活を繼續することが出來ぬ。他物を食うて自己の身體に加へれば、自己の身體は無論それだけ大きくなる。これが即ち成長である。しかしながら生物の各種には種々の原因から、それぞれ個體の大きさに定まりがあつてこれを超えることは出來ぬから、更に食つて更に大きくならうとすれば、數が殖えるより外に途はない。これが即ち蕃殖である。かやうに考へると、蕃殖は個體の範圍を超えた生長であるというても宜しい。たゞ一つ不思議なのは何故普通の動植物では個體の殖えるためには、前以て雌雄兩性の相合することが必要かといふ點であるが、これに就いては今日もなほ議論があつて確なことはまだ知られて居ない。或は老いた體質を若くするためともいひ、または生まれる子に變異を多くするためともいひ、その他にも種々の説がある。著者自身は寧ろ食ふために働いて古くなつた體質を更に多く食ふに適した若い體質に囘復するためであらうといふ説に傾いて居るが、いづれにしても生殖のために雌雄の相合することは、種族の生存上何か特に有利な點があることだけは疑がない。犬でも猫でも雞でも蠶でも世人の普通に知つて居る動物には皆雌雄の別があつて、生殖に當つては必ず雌雄が相合するゆえ、生殖といへば即ち雌雄の相合することである如くに考へるが、廣く生物界を見渡すと、雌雄に關係のない生殖法もあれば、雌雄の別はあつても雌雄相合するに及ばぬ生殖法もある。そしてこれらの相異なつた生殖法を順々に比べて行くと、終には日頃生殖とは名づけて居ない身體の變化にまで達して、その間に境を設けることが出來ぬ。されば生殖の眞の意義を知らうとするには、まづ生物界に現に行はれて居る種々の生殖法から調べて掛らねばならぬ。
[やぶちゃん注:「一疋が一代限では何程も食へぬが、蕃殖して數多くなれば、それだけ多く食へ、更に蕃殖すれば更に多く食へる」というのは極めて形而上的な謂いであることに注目したい。ここでは「多く食へ」るという言辞、「食ふ」という個体行動の行為が、各個体を超越して種の保存のためのレベルでのメタな概念へと変換されているからである。
「相合する」は「あひがつする(あいがっする)」と訓じているようである(講談社文庫版でもかくルビを振っている)。
「何故普通の動植物では個體の殖えるためには、前以て雌雄兩性の相合することが必要かといふ點であるが、これに就いては」「著者自身は寧ろ食ふために働いて古くなつた體質を更に多く食ふに適した若い體質に囘復するためであらうといふ説に傾いて居る」というのが丘先生の拠って立つところであられるようだ。恐らく現代の生物学者の多くは無難に〈個体が持つところの基本的なDNAを継承することを目的とするもの〉と答えるのであろうか。私などはイギリスの生物学者クリントン・リチャード・ドーキンス(Clinton Richard Dawkins 一九四一年~)が提唱する、生物は遺伝子のヴィークル(乗り物)に過ぎないという考え方を支持するゆえに、厳密には主体は個体ではなくDNAであり、〈個体の持つところの基本的なDNAが自己を継承することを目的とするもの〉と言うべきであろうと考えている。そして、私はこれが前の注で指摘した「食う」のメタ概念化とオーバー・ラップしてくるのである。生物が遺伝子によって利用されている乗り物に過ぎないからこそ、実は生物個体が自己認識によって合目的目的性を持つと信じて疑わぬ採餌も生殖も、結局は、DNAによって操られた、DNAだけの意志であって、我々生物はそれを与り知らぬ――そこには実は――自然界にあって、超越的自立的存在として自覚的に生きていると信じている人間を含めて――自立的で論理的な目的性など存在しないのだということになるからである。]

明恵上人夢記 16

16

一、同二月、此の事を聞きて後、此の郡の諸人を不便(ふびん)に思ふ。夢に云はく、屏風の如き大盤石の纔少(ざんせう)の尖(とが)りを歩みて、石に取り付きて過ぐ。此の義林房等、前に過ぐ。成辨、又、同じく之を過ぐ。糸野の御前は、成辨とかさなりて、手も一つの石に取り付き、足も一つの石の面を踏みて過ぎらる。成辨、あまりに危ふく思ひて、能々(よくよく)之を喜びて過ぐ。安穩に之を過ぎ了りて行き、海邊に出づ。成辨、服を脱ぎ、將に沐浴せむとす。善友の御前、服を取りて樹に懸く。沐浴し畢りて後に、二枝の桃の枝を設けて、其の桃を折れば、普通の桃に非ず、都(すべ)て希(まれ)に奇(あや)しく未曾有之桃也。白き毛三寸許りなる、枝に生ひ聚(あつま)りて、毛の端そろひなびきて、其の形、手の如し。尾、其の毛、幷に其の中にひたる如くなる桃あり。之を取りて之を食ふ。今一枝をば、向ひの方を見遣(みや)りたれば、三丁許り去りて、殿原おはします。一番に、彌太郎殿、見らる。彼の處に之を遣はし了んぬ。

一、同月、夢に云はく、

 

[やぶちゃん注:「同二月」これが連続していて脱落のない記載ならば、「元久元年」西暦一二〇四年である。

「此の事」「15」の注で述べた通り、この具体な内容が分からない。夢の意味を解く鍵もそこにあればこそ、識者の御教授を乞うものである。

「義林房」明恵の高弟喜海(治承二(一一七八)年~建長二(一二五一)年)の号。山城国栂尾高山寺に入って明恵に師事して華厳教学を学び、明恵とともに華厳教学やその注釈書「華厳経探玄記」の書写校合に携わった。明恵の置文に高山寺久住の一人として高山寺の学頭と定められ、明恵の没後も高山寺十無尽院に住した。明恵一次資料として重要な明恵の行状を記した「高山寺明恵上人行状」は彼の手になる。弟子には静海・弁清などがいる(以上はウィキ喜海に拠る)。

「善友の御前」糸野の御前(「15」注参照)のことと採る。春日大明神の神託を受ける人物でるから善友(善知識)と称されても何の不思議もない。

「善友の御前、服を取りて樹に懸く」これを私は、天女のような糸野の御前が服を脱いで美しい裸身となり、羽衣のように自分の衣を木に懸ける、というシーンを激しく想起してしまうのであるが、文脈からは、やや無理があるようにも思えるので、訳では沐浴は明恵だけにした。但し、その私の気持ちは、人によっては御理解戴けるものと思う。

「尾」不詳。外して訳した。

「三寸」約九センチメートル。

「三丁」約三二七メートル。「三」は明恵の神聖数であろう。

「彌太郎」底本注に、『湯浅宗弘。明恵の従兄弟』とある。ウィキ湯浅宗弘には、生没年未詳として『紀伊国在田郡湯浅荘の地頭。通称として弥太郎、太郎、兵衛入道など。湯浅宗重の孫。湯浅宗景の子。湯浅宗良、湯浅宗直、湯浅朝弘の父』とある。

「一、同月、夢に云はく、」底本注に『以下欠文』とある。本文がないのでこれは「17」とはせず、訳でも省略した。]

 

■やぶちゃん現代語訳

 

16

一、同年二月のこと、例の事実を聞いて後は、しきりに、この有田郡(こほり)の諸人(もろびと)らが不便(ふびん)に思われて仕方がなかった。そんな中で見た夢。

「屏風の如き大盤石(だいばんじゃく)が幾つも聳え立っている。

 私はその頂きの、猫の額ほどもない、その屹立した巌の尖頭を踏み歩んで、やっとの思いで岩にとりついて峨々たる山嶺を渡ってゆくのであった。

 私の弟子の義林房喜海らも、私の前を、同じようにして踏み歩んでいるのであった。

 私もまた、同じく彼らの行った後を踏み越えてゆくのである。

 しかし、私は独りではなかった。

 糸野の御前も、私と一緒になって――手も同じ一つの石に添えてとりついては引き支え、足も同じ一つの石の平らなところを踏みしめて――私と同行二人、歩まれているのであった。

 私は断崖絶壁なれば、あまりに危うきことと理窟では思うのであったが、糸野の御前がこうして一緒に歩んで下さっていることが、とても嬉しく、何故か実に不思議なことに、恐ろしいとも思わず安心していられ、嬉々として御前さまとともに歩んでゆくのであった。

 難なく無事、この列岩を通り抜けることが出来、海辺に出た。

 私は服を脱ぎ、まさに沐浴をしようとした。

 善知識たる糸野の御前が私の脱いだ服をお取りになって、そこにあった樹にお懸け下された。

 沐浴をし終えて後、浜へと上がってみると、浜辺に二枝の大きな桃の枝が挿し設(しつら)えてあった。

 その桃の一枝を折りとってよく見て見ると、これが、普通の桃では、ない。

 なんと表現してよいか――ともかく――そのすべてが稀にして奇(く)しきもの――見たことも聞いたこともない未曾有(みぞう)の桃――なのであった。

 長くて三寸ばかりもある白い毛が枝にびっしりと束を成して生えており、それぞれの毛の端が皆、綺麗に揃って靡いている。

 その靡く形は、まるで人の手が何かを招くようであった。

 その無数の毛、並びにその手の形の毛の中に、浸る如くにして――未曾有の桃の実が――あるのであった。

 私は取って、この実を食った。

 今一枝を如何にせんものか――と思うたと同時に、私は、真向いの浜辺の方を見やった。

 すると三町許り向こうに、有田郡の殿方たちがいらっしゃった。

 一番に湯浅彌太郎宗弘殿を見つけた。

 私は、彼のところに、その、今一枝の桃を持ってゆき、そして、渡した。

栂尾明恵上人伝記 30 食人鬼、明恵に帰依す

 承元元年〔丁寅〕秋の比、院宣に依つて東大寺尊勝院(そんじようゐん)の學頭として、華嚴宗興隆すべき由、仰せ下されけり。依りて道性(だうしやう)法印の院主の時、餘りに衆徒の懇切に請じ申さるゝ間、春秋二季の傳法の時一兩年下向ありき。

 又同四年七月に、金獅子章(こんじししやう)の光顯鈔(くわいけんせう)一部二卷之を撰す。

 或る時鬼類(きるい)來つて御前なる小童に付きて云はく、我は是、毘舍遮鬼(びしやじやき)の類なり。世間に名僧達(だち)多くましませども、名聞を捨てゝ利養(りやう)に拘らず、如法に道を修(しゆ)する人少し。上人の如くなる僧は、天竺をば未だ委しく尋ねみず、晨旦(しんたん)には當時更になし、况んや本朝に於てをや。去る二月十三日の夜、洞中(とうちゆう)月朗に石上(せきじやう)風和に候ひしに、通夜(よもすがら)坐禪入定の御姿を見進(まゐ)らせ候に、貴敬(きけい)の思ひ深く感涙押へ難し。又經典讀誦の御聲心肝(しんかん)に徹(とほ)り殊勝(しゆしよう)に候間、我れ願を立てて生々世々に値遇(ちぐう)し奉りて、佛法に歸依し永く肉食(にくじき)を斷ずべし。願はくは我に戒を授け給へと云々。仇て上人此の小童に向つて、戒を授け給へり。其の時鬼類申すやう、我れ肉食を斷たば食物有るまじく候、御時の次(ついで)に少し御計らひに預り候はんと、仍て上人其れより施餓鬼法を毎夕(まいせき)修し給ひける。
[やぶちゃん注:「毘舍遮鬼」梵語「ピシャーチャ」(piśāca)の音写。啖精鬼(たんしょうき)と漢訳する。インド神話における鬼神の一種で人の血肉を喰らい、五穀の精気を吸う鬼とされる。ものによって「食人鬼」「食人血鬼」「喰屍鬼」とも書かれる。仏典では「畢舎遮」「毘舎遮」などと音写されて仏法に開明後、持国天の従者となったとされる。]

耳嚢 巻之七 植替指木に時日有事

 植替指木に時日有事

 

 櫻は十月十日にさし木すれば、根付(ねつく)事妙也。竹を植替(うゑかへ)に五月十三日を期日とす。是又根付事奇々の由、於營中に諸侯の語りしが、其外をなす事も同じと語る。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。

・「五月十三日」「大辞泉」によれば、中国の俗説で竹を植えるのに適する日といわれているとあり、転じて陰暦五月十三日を指す言葉として夏の季語となった。竹迷日。個人ブログ「今日のことあれこれと…」の竹酔日(ちくすいじつ の記載が詳しい。部分的に引用させて戴く(アラビア数字を漢数字に代えさせて頂き、記号やリンクを変更、末尾の一部を省略して引用させて戴いた)。

   《引用開始》

この日は、竹が酒に酔った状態になる日で、移植されたことにいっこうに気づかないので、よく活着するという意味から出たもの。中国の徐石麒(しゅしち)によって著わされた「花庸月令(かようげつれい)」には著者が永年にわたって口伝などを集めて実験観察した結果が記録されているそうで、この日に竹を植えられない場合でも、「五月十三日」と書いた紙を植えた竹の枝につるせばよく活着するのだとか……。

 こんなことは信じられないが、江戸時代の俳聖と呼ばれた松尾芭蕉の句に以下のようなものがある。

 「降らずとも竹植うる日は蓑と笠」(真蹟自画賛一、画賛二・笈日記)

以下参考に記載の「芭蕉DBの説明によると、『貞亨元年(四十一歳)頃から死の元禄七年(五十一歳)までの間の作品。『笈日記』では、貞亨五年木因亭としているが不明。竹はそのまま植えてもなかなかつかない。この国では新緑の頃に植えないと他の季節ではむずかしい。中国では古来、旧暦五月十三日を「竹酔日<チクスイジツ>」といって竹を植える日とされた。意味は、たとえ雨が降っていない日であろうとも、竹を植える日には蓑笠(以下参考に記載の蓑笠」参照)を着てやってほしいといった意味で、芭蕉の美意識の現れだ』という。「竹植うる日」は、俳句の夏の季題ともなっており、『去来抄』には「先師の句にて始(はじめ)て見侍(みはべ)る」とあるから、芭蕉がその使い始めであろう。

   《引用終了》

・「於營中に」はママ。「營中に於いて」と読む。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 植え替えや挿し木には最適の時日がある事

 

 桜は十月十日にさし木すれば、根付くこと、これ、絶妙なる由。

 竹を植え替るには五月十三日を最適の期日とする。これもまた、根付くこと、摩訶不思議なる由、御城内に於いてさる御大名の語って御座られたが、その他の植え替えや挿し木をする場合でも、これと同様、それぞれの樹種によって最適の時日があるもの、と語っておられた。

大橋左狂「現在の鎌倉」 4 夏の鎌倉

     夏の鎌倉

 

 炎帝威を逞ふして下界爲めに沸くが如きの三伏期、身は恰かも甑中に閉ざ込められた樣の思を爲し、鬱陶として五尺の小身も、殆んど容るゝに餘地がないと言ふ樣の時、此鎌倉は何ふであらうか。流石は山水明媚、風光佳絶、冬暖かに夏涼しと、先輩諸人が定評された丈け、それだけ苦熱を覺へない。外人が鎌倉を評して世界の公園だと稱贊したのも無理はない。年々歳々歐米各國より日本の風光を見んとて觀光する團體は、必ず一度は鎌倉に足を踏むのだ。それは鎌倉を見ないのは日本を見ないのと同樣だとの觀念であるそうだ。歐米外人が已にその觀念だ。それ故吾人は自己の故國である以上は、一生涯に尠くも一度は、此地の風光を見るの義務は在るだらうとは稍々出過ぎた鎌倉贔屓の過言だ。年々夏期に於て此鎌倉に遊覽する客人は、何億萬何十億萬あるか測り知られない。外國人さへ來るのだから臺灣、九州、樺太、北海道は、別に遠い事はないが、常に九州又は東北地方から見物に來る遊覽者が絶へずある。其他に毎年七月中旬か又は八月上旬頃より、九月の下旬頃迄定則の樣に、必ず此地に來て別莊或は貸別莊又は貸間に避暑する人が多い。之れ等の人を別莊客、避暑客と云ふて、鎌倉土着の諸商人其他貸家業者は大に崇拜するのだ。それも其筈で鎌倉人士の財源は全く此避暑客別莊客にあるからだ。鎌倉は此夏期を書入時としてあるので一部の營業者は此期節の收入が一年の諸經費に充てられるのである。

[やぶちゃん注:「三伏期」「三伏」は「さんぷく」と読み、陰陽五行説に基づく選日(せんじつ:暦注に於いて主な六曜・七曜・二十八宿・九星・以外の特定の期日の総称。)の一つ。初伏(しょふく)・中伏(ちゅうふく)・末伏(まっぷく)の総称。庚(かのえ)は「金の兄」で金性であり、相剋説によって「火剋金」(金は火に伏せられる)ことから、火性の最も盛んな夏の時期の庚の日は凶であるとする。そこで、夏の間の三回の庚の日を三伏として、種蒔き・療養・遠行・男女の和合などは全て慎むべき日とされる。三伏の時期は、七月中旬から八月上旬で酷暑の頃に当たるため、「三伏の候」「三伏の猛暑」と手紙の前文に書くなど、酷暑の頃を表す言葉として現在も用いられている(以上は主にウィキ伏」に拠った)。

「閉ざ」底本では右に『(ママ)』表記がある。]

 僅かに三ケ月内外の收入が一ケ年の生活費を除いて尚ほ相當の利益を爲すと言へば餘程の暴利を貪る樣に見受けられる樣だが、其實は反て損失をする商人も多いのだ。由來鎌倉は避暑地であり、又別莊地であるから、避暑客の年々増加して貸間貸屋を賃借する者も増加し、或は自己の別莊を建築する人も續々殖へて來たので隨て家督、地代等の高騰する樣の傾向は昨年頃迄往々認められたが、此等の事は勿論一般商業品等の相場が各店毎に一定してないのは、遊覽客避暑客別莊客等に非常に不安の念慮を懷かしめ終には鎌倉の衰微する樣な基を招く虞ありとて玆に逸早く覺醒したのは、鎌倉商業界の中心たる米酒業者である。此等の者が幾度となく集會して鳩首協議の結果昨年末から鎌倉米酒商組合なるものを組織し、可及的品質の精良を選び確實なる價格の均一を取る事に決定された。鎌倉に商業組合の組織されたのは米酒商組合を以て囁矢とするのである。毎日相場の移動や其他樞要の事共の通告を發して居る此組合組織以來地主、家主、其他の營業者も悉く之に倣つて互に相談して標準額を一定する樣になつたので、今日此頃の鎌倉諸營業の活動振りは實に確實となつた。商家の雇人手代連も商業道德修養の必要を自覺して商家雇人會なるものを組織し、毎月囘數を定めて、講師を聽し商業上有益なる講演を教へられて居る。斯くして久しく他から非難の聲を浴せ掛けられつゝあつた鎌倉の商業界も、今日此頃は面目を一新したのは實に快絶と叫ばざるを得ない。遊覽避暑客も別莊客も大に安心して續々入込んで來る。鎌倉の前途も玆に於てか、一點の光明を認め得たのである。續いて鎌倉の經濟界も活躍して來たのは、大に祝すべき譯だ。

[やぶちゃん注:現在、鎌倉商工会議所の公式サイトの「歴史」を見ても、昭和二一(一九四六)年の戦後の社団法人鎌倉商工会議所の創設しか記されていない。この叙述はその前史を知る上で貴重である。]

 夏の鎌倉とは夏期七月上旬より九月下旬に至る此三ケ月を云ふので、僅か九十日足らずの短日月が、鎌倉に取つては唯一の玉緒(たまのを)で、土着民の生命と言ふべき財源である。鎌倉は此夏季遊覽客、避暑客、夏他の別莊客を歡迎すべく、町費の許す限り、有志者寄附金の在る限り最大限の出費を爲して、町内の街路下水は勿論材木座、由井ケ濱、長谷、坂の下、七里ケ濱に至る海岸迄の大掃除を爲して、例令(たとへ)如何なる人、何國の人が來遊して見ても愧しくない樣にと苦心して諸々の設備をするのだ。一昨年夏より鎌倉公設海水浴場なるものも開設せられた。又縣下に未だ見ざる鎌倉圖書館なるものも鎌倉小學校附屬庫内に設けられて一般公衆の縱覽を許して居る。尚ほ又鎌倉博物館やら、鎌倉水族館、動物園等も建設されるとの風評であるが、此分は現在の鎌倉にては未だ急速の建設は見られまいと信ずるのである。

[やぶちゃん注:由比ヶ浜の海水浴場について、つい先日の二〇一三年四月十一日附「産経新聞」の「鎌倉の海水浴場が9月まで営業延長」という記事の中で、『鎌倉の海水浴場は130年の歴史を誇るが、営業を9月まで延長することは今回がはじめて』という下りが現われる。単純に計算すると一三〇年前は明治一六(一八八三)年になるが、これは恐らく二年後の明治一八(一八八五)年に内務省初代衛生局長長与専齋の奨めによって鎌倉由比ヶ浜の三橋旅館が海水浴場を開設したことを「東京横浜毎日新聞」で広告した辺りを起点としているものと思われる(医療目的でない日本最古の海水浴場はオランダ人医師ポンペからオランダ医学を学んだ初代軍医総監松本順によって明治一五(一八八二)年十月に三重県伊勢市二見町の立石浜が国によって公的指定を受けたのを嚆矢とするという)。以上の海水浴場の歴史はウィキ海水浴場」を参照した)。

「玉緒」魂(たま)の緒の意から、生命線の意。

「鎌倉水族館」恐らくご存知の方はあるまいが、鎌倉には「鎌倉水族館」がかつてあった。富田康裕著「トミタクンの思い出の記」によれば『稲村ヶ崎から長谷に向かい、坂を降りたところに鎌倉パークホテルがある。その敷地内に当時、鎌倉水族館があった』とある。昭和二八(一九五三)年開園で六年後に閉園したとあり、展示物の殆んどはホルマリン漬けの標本展示という恐るべき水族館であったらしい。私は閉園時二歳であったから行っていたとしても記憶はない(行った可能性は結構高い気はする。私の両親は当時、六地蔵の高濱虚子の娘の家の隣に間借りしていたからである)。ただ、幼少の頃にぼろぼろになるまで読んだ小学館の「魚貝の図鑑」の裏表紙にあった日本の水族館一覧にしっかりと「鎌倉水族館」とあって、ずうっと行きたくて行きたくて仕方がなかったのを思い出す(勿論、最早なくなっていることを知らずに)。ホルマリン漬けでもいい、今でも私は「鎌倉水族館」に行くことを夢見ている……。]

 鎌倉の避暑客は前陳の通り歳々年々増殖の趨勢を示して居る。最近二ケ年間に於ける鎌倉避暑客數を統計すると左記の如き數字を顯はすのである。小天地の鎌倉としては實に多數の避暑客があると言つても差支はない樣に考へられる。避暑客は多くは七月に避暑して九月に歸るので此三ケ月の各月毎に人員に差異を生ずるのは絶へず避暑客の出入がある故理の當然である。此處に記した統計は夏期三ケ月を統計した一ケ月の平均避暑客數である。

    明治四十二年   五、九〇七人

    明治四十三年   六、四一六人

    明治四十四年   八、八二六人

前記の統計を示すので、之れを七、八、九の三箇月に延算すると四十五年の如きは實に一萬八千四百七十八人となる。此避暑客は旅館、別莊、或は貸家貸間其他寺院等思ひ思ひの方面に散在假住するのである。この外に一日二日の滯在見込にて出掛るもの或は日曜祭日を利用して來る遊覽客等を數へると一ケ月平均七十萬以上に昇るそうだ。此大多數の遊覽客は鎌倉の土地に相當の金を散じて歸るのである。夏季鎌倉の收入は非常の高額に上るのだ。即ち避暑客、遊覽客は鎌倉の財源なりとは此邊より割り出されたものである。

[やぶちゃん注:「四十五年の如きは實に一萬八千四百七十八人となる」底本では「四十五年」及び「一萬八千四百七十八人」の右に『(ママ)』注記がある。一ヶ月平均の単純三倍であるから、ここは最も多い明治四四(一九一一)年の数値×3倍したものと思われるから、正しくは「四十四年の如きは實に二萬六千四百七十八人となる」でなくてはなるまい。

「一ケ月平均七十萬以上」鎌倉公式サイト統計(PDFファイル)で平成二三(二〇一一)年の鎌倉への年間入込観光客数見ると、

    年間  一八、一一〇、八六八人

で、

  一ヶ月平均  一、五〇九、二三九人

と当時の二倍以上に増えている。延入込観光客数推計表の同年の七・八・九月分を見ると、

    七月     九〇七、七三八人

    八月   一、五六二、〇三〇人

    九月     八九五、一八〇人

とあり、この平均値をとると、

  一ヶ月平均  一、一二一、六四九人

となり、明治四十四年の実に百二十七倍である。]

斷橋! 萩原朔太郎

斷橋!  夜道を走る汽車まで、一つの赤い燈火を示せよ。今そこに危險がある。斷橋! 斷橋! ああ悲鳴は風をつんざく。だれがそれを知るか。精神は闇の曠野をひた走る。急行し、急行し、急行し、彼の悲劇の終驛へと。

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年四月アルス刊のアフォリズム集「新しき欲情」の「第五放射線」より。これは後の散文詩集「宿命」(昭和一四(一九二九)年創元社刊)に、

 

 斷橋

 

 夜道を走る汽車まで、一つの赤い燈火を示せよ。今そこに危險がある。斷橋! 斷橋! ああ悲鳴は風をつんざく。だれがそれを知るか。精神は闇の曠野をひた走る。急行し、急行し、急行し、彼の悲劇の終驛へと。

 

の形で載る。萩原朔太郎にとって――総ての世界の通路は「斷橋」していた――のだと思う。近々、そうした彼のテクストをHPで公開する予定である。]

はにかむ花 大手拓次

 はにかむ花

黄金(こがね)の針のちひさないたづら、
はづかしがりのわたしは、
りやうはうのほほをほんのりそめて、
そうつとかほをたれました。
黄金(こがね)の針のちひさないたづら、
わたしは、わたしは、
ああ やはらかいにこげのなかに顔をうめるやうに、
だんだんに顔がほてつてまゐります。

[やぶちゃん注:「にこげ」「和毛」「毳」で、鳥獣の柔らかい毛。また、人の柔らかい毛。産毛(うぶげ)のこと。私は個人的にこの言葉が大好きだが、かつて亡き母にそれを言ったら「鍋の煮焦げみたいで厭だわ」と切り返され、何だか、妙に淋しくなったのを思い出す。]

鬼城句集 夏之部 五月闇

五月闇   提灯に風吹き入りぬ五月闇
[やぶちゃん注:「五月闇」は「さつきやみ」と読み、五月雨(さみだれ)の降る頃の夜が暗いこと、また、その暗闇。また、その頃の昼の薄暗い空模様をも言う。因みに和歌では、「くら」に掛かる枕詞としても用いられる。]

2013/05/27

栂尾明恵上人伝記 29 高山寺を興す/北斗七星の神人来臨す

 建永元〔丙寅〕年十一月後鳥羽院より院宣を成し下されて、高雄の一院栂尾を給はりぬ。則ち此の處を華嚴宗興隆の勝地と定む。仍て高山寺と號す。

[やぶちゃん注:「建永元〔丙寅〕年」西暦一二〇六年。]

 

 同年極月(ごくげつ)の比、月輪(つきのわ)の禪定殿下より世俗の爲の祈(いのり)にてはあらで、聯か願あるに依つて、星供(ほしく)を七ケ日修行有るべき由懇切に仰(おほせ)あり。辭し給ひ難きに依つて是を修し給ふ。始め兩三座の程は、上人自ら是を修し給ふ。爰に靈典(りやうてん)承仕の役勤仕(ごんし)して一二間の外に住するに、後夜の時蠟燭の尅限(こくげん)に至て、道場に入らんとするに、北方の空中より貴俗十餘人寶冠を戴き白服を着して來入す。暫く有つて又空中に還歸し給ふ。後日に北斗の圖像を見るに、其の姿少しも違はず。さては北斗七星等の親(まのあた)り降臨ありけるにこそと希有に覺えき。

[やぶちゃん注:「月輪の禪定殿下」九条兼実。

「星供」星祭(ほしまつり)・星供養。主に密教で災いを除くために個人の当年星(とうねんじょう:当年属星ともいう)と本命星(ほんみょうじょう)を祀る祭り。密教の占星術では北斗七星の七つの星の内の一つをその人の生まれ星として本命星と定め、運命を司る星と考える。また、一年ごとに巡ってくる運命を左右する星を「当年属星」と呼んで、これらの星を供養して個人の一年間の幸福を祈り、災いを除く。一般に旧暦の年の初め(立春)に行われることが多い(以上はウィキり」に拠る)。試みに調べて見たところ、建永元年は年内立春で旧暦十二月二十九日が立春であることが分かったので本文の記述に合致する。]

耳嚢 巻之七 婦人に執着して怪我をせし事

 婦人に執着して怪我をせし事

 

 下谷邊の醫師の由、色情深き生質(きしつ)にや、或時、洗湯(せんたう)濟(すみ)て晝前の事のよし、二階に上(あが)り、裸にて風抔入(いれ)ける。隣は女湯にて、入湯の者少(すくな)く、小奇麗(こぎれい)成(なる)女壹人湯桶をひかへ、人も見ざれば、陰門をあらはし洗ひ居たりしを、彼(かの)醫ちらと見て、二階のひさし續(つづき)の女湯故、引窓(ひきまど)のふちへ手を掛(かけ)、片手は糸に懸(かけ)る竹に取(とり)つき眺居(ながめをり)しに、みへ兼ける故兩手共引糸(ひきいと)を懸る竹へ取つき候と、右竹折(をれ)てまつさかさまに女湯の方へ落(おち)ける故、彼(かの)女は驚(おどろき)て氣を失ひ、醫師も高き所より落ける故、湯桶にて頸をうちて是(これ)又氣絶せし故、湯屋(ゆうや)の亭主は勿論家内周章(あはて)出てみしに、壹人は女、壹人は男氣絶なしければ、何分わからばこそ、氣附(きつけ)抔あたへ其譯を尋(たづね)ければ、其答も一向わからず。強(しひ)て尋ければ、粂(くめ)の仙痛(せんつう)とゆふべき事と、其所の物わらひと成りし由、人の語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:医師関連譚で軽く連関。久々の好色譚である。

・「洗湯」銭湯。湯屋(ゆうや)。

・「二階」底本の鈴木氏注に、当時の湯屋の『男湯には二階があって、菓子や茶なを売り、湯女が客の世話をした。(酒は禁制で出せない)』とあり、ウィキの「銭湯」にも、『社交の場として機能しており、落語が行われたこともある。特に男湯の二階には座敷が設けられ、休息所として使われた』とある。当時の『営業時間としては朝から宵のうち』、現在の夜八時頃まで開店していたらしい。また、これも知られたことであるが、こうした男女の湯が分かれているのは必ずしも一般的ではなく、『実際には男女別に浴槽を設定することは経営的に困難であり、老若男女が混浴であった。浴衣のような湯浴み着を着て入浴していたとも言われている。蒸気を逃がさないために入り口は狭く、窓も設けられなかったために場内は暗く、そのために盗難や風紀を乱すような状況も発生した』。寛政三(一七九一)年には『「男女入込禁止令」や後の天保の改革によって混浴が禁止されたが、必ずしも守られなかった。江戸においては隔日もしくは時間を区切って男女を分ける試みは行われた』とある。

・「引窓」屋根の勾配に沿って作った明かり取りの窓。下から綱を引いて戸を開閉する天窓のこと。

・「糸」「引糸」前の引窓の紐のこと。

・「何分わからばこそ」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、『何分わからず。』となっている。次の注との絡みで、この部分はバークレー校版で訳した。

・「粂の仙痛」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、『久米野仙庵』で、長谷川氏は久米の仙人の逸話に『医師であるので医師に多い名に似せて仙庵とした』とあるが、こちらではそれに加えて明らかに当時、根岸も患っていた流行病の疝気の「疝痛」をも掛けてあり、しかもこの文脈では「其譯を尋ければ、其答も一向わからず。強て尋ければ」と前にあって、これは「どうして女湯へ落ちたんじゃ? 覗いていたんじゃなかったんかい?!」と問い詰められた医師が、苦し紛れに「……いや、その急に持病の疝痛が起こりまして、二階より、足を踏み外しましたので……」という、如何にもな弁解を聴いて、その場の者が「――ほほう? そりゃまた久米の仙痛さんという訳かい?!」と皮肉って笑い飛ばしたという形になって、より面白い。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 婦人を出歯亀することに執着(しゅうじゃく)致いたによって怪我を致いた事

 

 下谷辺の医師の由。

 この男、どうにも色好みの度が過ぎた気質ででも御座ったものか、ある時、銭湯から上がって――未だ昼前のことであったと申す――二階に上がり、素っ裸(ぱだか)のまんま、一物に風なんど入れては涼んで御座ったところが、すぐ隣りが女湯で御座って、入湯(にゅうとう)の者も少なく、中には小綺麗なる女が一人、湯桶を脇に置いて、人気もなきと、陰部をあからさまにおっ広(ぴろ)げては、大事丁寧に洗って御座ったを、かの医者、ちらと見て、二階の庇(ひさし)続きの女湯であったがため、その女湯の引き窓の縁に手を掛けて、片手は紐のぶら下った竹枠に手を添えて眺めて居った。

 ところが、どうにもよく見えざれば、思わず、両手でもって引き紐を懸けた竹枠へ倚りかかったところが、

――バキン!

と、美事、竹の折れて、

――グヮラグヮラ! ドッシャン!

と、真っ逆さまに女湯の方(かた)へと落ちてしもうた。

――ギャアッ! ウン!

と、かの女は驚きて気を失のう、

――ウ! ムムッツ! グッフ!

と、医者も、これ、高い所より落ちたばかりか、運悪く、かの女子(おなご)の脇にあった湯桶にそっ首をしたたかに打ったによって、これまた、気絶。

 尋常ならざる物音なればこそ、

「な、何じゃッ!」

と、湯屋(ゆうや)の亭主は勿論のこと、家内の者ども皆、慌てて女湯へと飛び込んで見たところが、

――一人は素っ裸の女

――一人は素っ裸の男

――これ、それぞれ両人、雁首揃えて、気絶して御座る

……一瞬、これ、何が起こったものやら分からず、気付薬なんどを与えて、二人ともようように正気には返った。

 一体、何がどうしたものかと訊いてみても、女子(おなご)勿論、自身、訳も分からざれば、青うなって、はあはあと荒き息をするばかり。……

 男の方に訊ねてみても、これまた、もごもごと訳の分からぬことを呟くばかりで、一向に埒が明かぬ。

 如何にも怪しきは、この男なれば、亭主、さらに責めて糺いたところ、

「……い、痛たたたッ!……わ、我ら、医師で御座る……と、隣の二階にて涼んで御座ったれど……そ、その、じ、持病の、その、そうじゃ、疝痛が、これ、に、にわかに起って御座って、その……」

と、しどろもどろの言い訳をなした。

 されば亭主、横手を打って、

「……ははぁん! さればそれは――粂(くめ)の仙痛――と申すようなものじゃ、のぅ!」

と皮肉ったによって、この医師、そこら辺りにては永いこと、もの笑いの種となって御座った由。

 さる御仁の語って御座った話である。

大橋左狂「現在の鎌倉」 3  「花の鎌倉」

    花の鎌倉

 

 鎌倉を探らんとする人、鎌倉に遊ばんとする人は、必ず皆萬人萬律に鎌倉の古址多きを探りて往昔時代の如何に隆盛なりしかを追想し、自然の風光が如何に絶勝なるかを嘆賞するのである。未だ曾つて花の鎌倉を探らんとしたる人は殆んど僅少、否反て皆無である。鎌倉の花は眞に隱君子の態度をなしてゐる。

 上野公園の櫻ケ岡、淸水堂、パノラマ前の早咲き、遲くは竹の臺、動物園前、さては向島、飛鳥山の櫻を賞する者は數多し、鎌倉の櫻を觀んとする人は少ないのである。此れ鎌倉に花あるを知らなかつたのである。人或は言はん、花を賞せんとせば須らく東都の花を賞すべし、何ぞ閑散靜寂の鎌倉の花を賞するの遑あらんと、之れ眞に時代的趣味深き鎌倉の花を知らない人である。

[やぶちゃん注:「上野公園の櫻ケ岡」上野の山は別名桜ヶ岡と呼んだ。

「淸水堂」不忍池を見下ろす清水観音堂。

「パノラマ」浅草公園第六区にあった巨大なジオラマを興行した日本パノラマ館。明治二三(一八九〇)年開館。

「竹の臺」現在の上野公園のほぼ中央部にある、知られた大噴水を中心とした広場のある所の地名。江戸時代にはここに東叡山寛永寺の中心であった根本中堂の大伽藍があったが戊辰戦争で失われた(明治一二(一八七九)年に現在地である旧子院大慈院跡に寺とともに復興再建)。名称は両側に慈覚大師が唐の五台山から竹を根分けして持ち帰って比叡山に移植したものが更に根分されて、当時の寛永寺のこの付近に植えられたことに由来するものと思われる。

「飛鳥山」現在の東京都北区にある桜の名所として知られる区立飛鳥山公園。ウィキの「飛鳥山公園」によれば、『徳川吉宗が享保の改革の一環として整備・造成を行った公園として知られる。吉宗の治世の当時、江戸近辺の桜の名所は寛永寺程度しかなく、花見の時期は風紀が乱れた。このため、庶民が安心して花見ができる場所を求めたという。開放時には、吉宗自ら飛鳥山に宴席を設け、名所としてアピールを行った』という。]

 東都の花を見んとて其地に到れば、寸尺も餘地なき程觀客相肩摩して押返すばかりなる中に、醉態狂狀の人多くして俗趣味と云ふより外はないのである。鎌倉の花は此俗塵を去つて高潔淸澄、高尚優美、一たび雙眸に映ずるや眞に鬱々たる精神をも靜養するに足るのである。鎌倉の花が他所の花と異なるのは即ち此點にある。

 鎌倉の花を記さんとて冐頭第一位に鎌倉の梅を案内することにした。由來鎌倉の梅樹は悉く數十年を經たる老骨鐵幹である。倒まに蜿蜒(えんえん)たるあり、白臺枝を沒して蛟龍淵を出づるの態を爲すのがある。隨て開花の期が非常に遲いのである。即ち三月上旬頃が例年最(もつとも)の見頃である。

[やぶちゃん注:「蜿蜒」底本では「蜒」は「虫」が「延」の下方にある字体であるが、同字であるのでこれに代えた。また読みは歴史的仮名遣では正しくは「ゑんえん」である。蛇がうねるようにどこまでも続くさまをいう。

「白臺枝を沒して蛟龍淵を出づるの態を爲す」とは、白い台(うてな:通常なら花の萼(がく)を指すが、この場合は極楽に往生した者の座る蓮の花の形をした台を梅花に譬えていよう)が枝を没し去るほどに美しく咲き、その中を苔生したごつごつとした枝が蛟龍(みずち)が深い淵から天へ昇るが如き体(てい)を成すものがある、というのであろう。]

 鶴ケ岡八幡境内の梅 赤橋を渡りて境内に入れば左に鬱蒼たる杉林右に二層建の馬見(ばけん)樓を見て、數段の石段を登れば、玆は拜殿地と名けられた境内の中庭である。右に上村將軍寄附の野猪及び猿猴が檻の中に參詣者の投入する食料を樂みに、いと嬉しく遊んで居る。其前方に八十餘株の白苔帶びたる老梅樹が白兵戰の如く縱横入り亂れて銃劍の交るが如くに見える。左り半僧坊に入るの道傍に偃蹇(えんけん)して虎の天風に哮ゆるが如き屈鐵せる古梅が百數十株ある。何れも陽春三月の交、杖を境内に曳けば、樹々六花の花を綴るかと疑われ香氣馥郁嘆賞の外ないのである。而して暮鐘沈々花間に傳ふるも尚ほ歸るを忘るゝ程絶快である。

[やぶちゃん注:「馬見樓」不詳。幾つかの明治後期の地図や写真を見ても分からない。位置からすると流鏑馬馬場の沿道と思われ、もしかするとこれは神社の公施設ではなく、茶屋の名か? 識者の御教授を乞うものである。

「上村將軍」日本海海戦を勝利に導いた名将として知られる海軍大将上村彦之丞(かみむらひこのじょう 嘉永二(一八四九)年~大正五(一九一六)か。

「半僧坊」建長寺の半僧坊を指すとは思われない。按ずるに旧二十五坊(ヶ谷)の誤りではあるまいか?

「偃蹇」物が延び広がったり、高くそびえたりしているさまをいう。]

 大佛の梅 長谷大佛に詣で、山門を入れば右に古物店がある。それより蓮池に至るの間は、一面の梅樹である。今を盛りと咲き競はゞ恰かも雲の如く、雪の如くである。東風一たび梢を吹くときは落花片々六花を降らすが如く眞に佳景筆舌の及ばぬ程である。其他大巧寺、圓覺寺、建長寺、安國論寺、極樂寺境内等にも見るべき花は實に多い。

[やぶちゃん注:「六花」雪の雅称。]

 鎌倉の櫻 敷島の大和心を人問はゞ、旭日に匂ふ山櫻花と詠じられた通り、櫻は大和武士の神髓を表示した日本特有の花である。此賞玩すべき櫻花も鎌倉の個所々々に多くある。鎌倉停車場構内の櫻は例年三月下旬頃より班(まばら)に蕾を破りて四月三日神武天皇祭の佳辰頃は第一の好見頃である。長谷大佛境内の櫻は八重櫻が尤も多い。四月第一日曜より第二日曜前後が好見頃である。鶴ケ岡八幡境内殊に段蔓一帶の櫻は之れも神武天皇祭前後が丁度滿開の眞最中である。後醍醐天皇第三皇子護長親王を祀れる官幣中社大塔宮境内の櫻は大樹老木が多く、例年遲咲きの方である。四月第二日曜頃より第三日曜日頃は尤も見頃である。師範學校々庭の櫻は鎌倉第一の古木と評されて居る。四月第二日曜頃が花盛りである。此時分には授業を妨げない限り公衆に校庭櫻樹の觀櫻を許してある。鎌倉唯一の花やしき要山の櫻は眺望絶佳なる自然の高丘に靉靆(あいたい)として雲霞の如く咲き匂ひ、淡紅なるものは美人の薄化粧のそれの如く、濃白なるものは貴女の盛裝した樣に觀客に婚びて居る。自然の風致と相俟つて對照は嘆賞の外はない。此花も四月第一日曜頃迄からそろそろ咲き初めて第二日曜頃迄には好見頃となる。極樂寺境内にある八重一重咲き分けの櫻、源平咲分けの櫻等は最も有名なる櫻樹である。鎌倉に花期杖を曳くものは、必ず此源平咲き分けの櫻花を見て、多大の趣味を覺へて嘆賞するのである。四月三日頃より見頃となる。此外扇ケ谷永勝寺、山の内建長寺内半僧坊等の櫻花も此日頃より見頃となるのである。

[やぶちゃん注:「敷島の……」は、本居宣長の和歌。

    おのがかたを書きてかきつけたる歌

 敷島のやまと心を人とはば朝日ににほふ山ざくら花

寛政二(一七九〇)年に六十一歳の自身肖像画に書き付けた自賛。自撰家集には採られていないが、宣長の名歌として人口に膾炙する。

「護長親王」は護良親王の誤り。

「師範學校」神奈川師範学校。現在の横浜国立大学教育人間科学部の前身。現在、横浜国立大学教育人間科学部附属鎌倉小中学校の校地。

「要山」後掲される「名所舊蹟」の項の文中に『要山(かなめやま)香風園』とあり、ここもそれを指すと考えてよいであろう。但し、要山という呼称は廃れている。また、ここは田中智学の別荘であったものが、大正九(一九二〇)年に売られ、旅館としたものが香風園と認識していた。しかし本書は明治四五年の刊行であるから、実は田中の別荘であった時代から香風園と呼ばれていたことがこれで分かる。

「永勝寺」英勝寺の誤り。]

 鎌倉の桃 鎌倉に見るべき桃花は、極樂寺境内に一町餘歩の空地を利用して四十一年秋頃田中住職が苦辛して植付けられた桃樹がある。花季玆に到れば、今は盛りと咲き匂ふ桃花、紅(くれなゐ)を朝(てう)して幔幕の如く棚びき、坐ろに武陵桃源の感興に入るのである。此外鵠沼旅館東家(あづまや)主人の風流に成る、鵠沼花壇に數丁歩の桃園あり。尚ほ鵠沼停留場前及び藤ケ谷附近にも、觀るべき桃花少なからず。

[やぶちゃん注:「朝して」呈していって、達して。

「鵠沼旅館東家」明治三〇(一八九七)年頃から昭和一四(一九三九)年まで鵠沼海岸(高座郡鵠沼村、現在の藤沢市鵠沼海岸二丁目八番一帯)にあった旅館東屋。多くの文人に愛され、広津柳浪を初めとする尾崎紅葉主宰の硯友社の社中や斎藤緑雨・大杉栄・志賀直哉・武者小路実篤・芥川龍之介・川端康成ら錚々たる面々が好んで長期に利用し、「文士宿」の異名で知られた。約二万平方メートルの広大な敷地に舟の浮かぶ大きな庭池を持ったリゾート旅館であった。ここで「東屋主人」とあるが、参照したウィキの「旅館東屋」によれば、本来の経営権者は創始者伊東将行であるが、実際の切り盛りは初代女将で元東京神楽坂の料亭「吉熊」の女中頭であった長谷川榮(ゑい)が取り仕切り、明治三五(一九〇二)年九月に江之島電気鉄道が藤沢―片瀬(現在の江ノ島)間で営業運転を開始(鎌倉市街との開通は明治四〇(一九〇七)年八月)すると、伊東将行は鵠沼海岸別荘地開発の仕事が多忙となって東屋の経営権は長谷川榮に委ねられたとある(その後にこの経営権の問題で伊東家と長谷川家で意見の対立が生じたものの大正九(一九二〇)年には和解した模様である)が、「鵠沼花壇」という固有名詞風の呼称からもこの桃林の「主人」とは、とりあえず伊藤将行を指していると考えてよいであろう。

「藤ケ谷」は現存しない江ノ電の駅名。鵠沼駅と柳小路駅の間にあったが、昭和一九(一九四四)年に廃止された。因みに、現在の路線域とほぼ一致するようになるのは昭和二四(一九四九)年三月一日に横須賀線高架を潜った若宮大路にあった鎌倉駅(旧小町駅)を国鉄鎌倉駅構内に移転して以降のことである(その後では昭和四九(一九七四)年六月に藤沢―石上間が高架線化して藤沢駅を江ノ電百貨店(現小田急百貨店藤沢店)二階に移転している)。前の注も含めて、江ノ電関連の記載は主にウィキの「江ノ島電鉄線」を参考にした)。]

 鎌倉の花と東都の花とを問はず、花を見花を記(き)する、心中既に花となるのである。實に花は奇麗である、濃艷である、誰れも愛玩するのである。然れども此花を記して花の快味を覺ゆると共に、一面頻りに反響の感想に打たるゝのである。此花や風雨一たび過ぎて香雲地に委すればどうである。今迄仰ぎ見られた花も今は花辨地上に落ちて泥土と何ぞ撰ばんのである。人も榮華に誇り、綺羅を纏ひ、金殿に住み、玉食に飽く者と雖も、一朝風雨の變に遇えば、此落花の觀なきを得ないのである。花を見て嘆賞すると共に、處世の前途を警成するを要するのである。花は人を嬉ばしめ又眞に人を戒むるものかな。

 誰れやらの歌に曰く、

  明日ありと思ふ心のあだ櫻 夜半に嵐の吹かぬものかは

[やぶちゃん注:「香雲」桜の花などが一面に咲いているようすを雲に見立てた語。

「地に委すれば」は恐らくは「委(まか)すれば」若しくは「委(い)すれば」と読んでおり、委ねれば、の意であろう(「委(い)す」には捨てるの意もあるが、であるなら、この場合は受身で「委さるれば」とならないとおかしい)。

「玉食」「ぎよくしよく(ぎょくしょく)」で、非常に贅沢なものを食べること。美食。

「警成」見慣れない熟語であるが、戒めるように己れに成すよすがとする、の意であろう。

「明日ありと……」は「親鸞上人絵詞伝」に載る、親鸞が九歳で得度する前夜に詠んだとされる和歌。]

きのふけふ 萩原朔太郎 (「利根川のほとり」初出形)

」 きのふけふ

きのふまた身を投げんと思ひて、
利根川のほとりをさまよひしが、
水の流れはやくして、
わがなげき、せきとむるすべしなければ、
おめおめと生きながらへて、
今日もまた川邊に來り石投げてあそびくらしつ、
きのふけふ、
あるかひもなきわが身をば、
かくばかりいとしと思ふうれしさ、
たれかは殺すとするものぞ、
抱きしめて、抱きしめてこそ泣くべかりけれ。

[やぶちゃん注:「創作」第三巻第一号・大正二(一九一三)年八月号に掲載された。以下に示す大正一四(一九二五)年八月新潮社刊「純情小曲集」の「利根川のほとり」の初出形である。

 利根川のほとり

きのふまた身を投げんと思ひて
利根川のほとりをさまよひしが
水の流れはやくして
わがなげきせきとむるすべもなければ
おめおめと生きながらへて
今日もまた河原に來り石投げてあそびくらしつ。
きのふけふ
ある甲斐もなきわが身をばかくばかりいとしと思ふうれしさ
たれかは殺すとするものぞ
抱きしめて抱きしめてこそ泣くべかりけれ。

題名及び読点の全除去その他、詩集中の「愛憐詩篇」の一連の詩群の表記統一によるものとは思われるが、どれも私には解せない改変である。朔太郎が多く望んだ朗唱を考えるならば、初出の方が遙かに優れていると私は思う。]

手のきずからこぼれる花 大手拓次

 手のきずからこぼれる花

手のきずからは
みどりの花がこぼれおちる。
わたしのやはらかな手のすがたは物語をはじめる。
なまけものの風よ、
ものぐさなしのび雨よ、
しばらくのあひだ、
このまつしろなテエブルのまはりにすわつてゐてくれ、
わたしの手のきずからこぼれるみどりの花が、
みんなのひたひに心持よくあたるから。

鬼城句集 夏之部 雲の峰

雲の峰   海の上にくつがへりけり雲の峰

      わら屋根や南瓜咲いて雲の峯

 

2013/05/26

大橋左狂「現在の鎌倉」 2

    戸數人口

 

 鎌倉は東西北の三面に山嶺負ひ、南面海に瀕する故夏涼しく冬暖かにして眞に氣候温順である。夏季寒暖計九十三四度冬期四十度に降らないのである。加ふるに到る處名所古蹟ならざるはないのである。故に都人士が紅塵萬丈の地去つて此地に別莊を構ふるもの多く、年々避暑避寒者は數を加へるのである。貸別莊も貸間も、夏季に至れば一軒一間も空きがないのである。此地に常住して京濱間の官衙銀行會社へ通勤する官吏紳商も横須賀に通勤する陸海軍人も數多いのである。鎌倉の戸數及び人口が年々歳々増加する事は前記の通りである。玆に記した戸數人口は大町、小町、由井ケ濱、材木座、雪の下、長谷、坂の下、極樂寺、扇ケ谷、二階堂、西御門、十二所、淨明寺の十三字が、純粹の鎌倉町の戸數人口である。江の島、片瀨、腰越の戸數人口は別に記載してある。此戸數人口は寄留すると否とに係らず現在鎌倉に起臥しつゝある者の實地に就ての調査である。記者自からの實地踏査ではない、警察官が實地に就て調査された毎年の戸口調査表を移記したのである。

[やぶちゃん注:「夏季寒暖計九十三四度冬期四十度に降らない」は華氏表記なので、摂氏に変換すると凡そ「夏季寒暖計三三・九から三四・四度、冬期四・四度に降らない」ということになる。

「瀕する」現在は「瀕死」という熟語でしかお目にかからないのであるが、「瀕」はもともとは水際・渚・水辺・浜・岸、土地が河や海などに沿って存在する、の意である。

「官衙」役所。官庁。]

 鎌倉町四十二年末の戸口は、戸數二千三百七戸、人口一萬二丁百四十二人であつた。四十三年末には戸數二千三百九十二戸、人口一萬一千五百六十八人を數えられた。四十四年末の調査で四十五年二月二日の現在戸口は、戸數二千四百二十二戸、人口一萬一千七百五十九人である。今各字に區別すれば左の通りである。

[やぶちゃん注:以下、底本では二段組であるが、一段で示す。]

       戸數    人口

  小町   二五一   一、二〇五

  大町   二七二   一、四九二

  雪の下  二九〇   一、三一二

  由井ケ濱 二一九   一、〇七九

  長谷   三九八   一、八二一

  坂の下  二〇四   一、〇六二

  極樂寺  一〇五     五四五

  材木座  三九〇   一、七八三

  扇ケ谷  一一八     四二二

  二階堂   五七     三一六

  西御門   三二     一八六

  淨明寺   四三     二五九

  十二所   四三     二七七

 

 以上は鎌倉町の戸數及人口の字別である。更に片瀨、江の島、腰越の四十五年二月現在の戸口は左の通りである。

       戸數    人口

  片瀨   三三七   二、〇一九

  江の島  一九八   一、二二五

  腰越   四九〇   二、八五五

  津村   二一七     七五五

[やぶちゃん注:鎌倉市公式サイトの二〇一三五月現在口動態累計によれば、

   鎌倉市総人口  一七三、七一一人

    同総世帯数   七三、三二七世帯

で、この当時(実に一〇一年前である)の

   総人口比で  一四・八倍

   総世帯数比で 三〇・三倍

に膨れ上がっている。各字との比較はリンク先のPDFファイルで確認されたい。

なお、ここでは「鎌倉町」となっているが、ウィキ鎌倉市」によれば、明治二二(一八八九)年にそれまで三〇あまりあった村が、東鎌倉村・西鎌倉村・腰越津村・深沢村・小坂村・玉縄村に纏まり(この年に軍港横須賀への搬路としての横須賀線が開通しており、これを機に鎌倉の観光地化が一気に進んだ)、明治二七(一八九四)年に東鎌倉村と西鎌倉村が合併して鎌倉町となった。鎌倉市としての市制施行は昭和一四(一九三九)年十一月であった。]

明恵上人夢記 15

15
一、二月十日の夜、夢に云はく、此の郡(こほり)の諸人、皆、馬に乘りて猥雜す。糸野の護持僧と云ふ人二人、馬より墮ち、倒れ墮ち了んぬ。餘人もおちなむずと思ひて見れども、只、護持僧二人許り墮ちて、餘は墮ちず。心に思はく、護持僧の墮つるは不吉の事かと思ふ。然りといへども、餘人は墮ちず。糸野の御前、上人の御房の居給ふを瞻(み)る。上人の御房等も大路におはしますと見る。
  已上、未だ此の事を聞かざる以前の夢想也。

[やぶちゃん注:この夢、後半部分が分かりにくい。識者の御教授を乞うものである。この後にある「已上、未だ此の事を聞かざる以前の夢想也」という補記は、この「15」よりも前の(特に「14」の)もの総てに係る注であることに着目せねばならない。但し、次の「16」の冒頭にも「此の事を聞きて後、此の郡の諸人を不便に思ふ」とあって、実は「此の事」とは明恵が後に心から「此の郡の諸人を不便に思ふ」ような具体的な、ある事実を指していることが判明する。従って、以下の私の訳はその文脈では間違っているものと思われるが、残念ながら私にはその「此の事」というのが如何なる事件事故出来事であるかが不分明である。従って現代語訳は、そうしたごまかしを私が敢えてなしたものであることをご理解頂きたい。
「二月十 日」は底本のママ。現代語訳では詰めたが、記載時に日を失念していた明恵が、後日の記載を期してわざと空けておいたものかも知れない。
「糸野の御前」底本の注には、『明恵の母の兄弟である糸野の豪族湯浅宗光の妻か。春日大明神の神託を受け、明恵に渡天を止まらせた人』とある。]

「糸野の御前」底本の注には、『明恵の母の兄弟である糸野の豪族湯浅宗光の妻か。春日大明神の神託を受け、明恵に渡天を止まらせた人』とある。]

■やぶちゃん現代語訳

15
一、二月十日の夜、こんな夢を見た。
「この有田郡(こほり)のお歴々の方々が、皆、馬に乗って、何やらん、ざわめいているのである。
 糸野の護持僧であると称する人が二人、馬より墮ちて、倒れ、地べたに転落してしまった。
 私は少し離れたところから見ていたのだが、その他の人々のことも、
『ああっ! あれでは落ちてしまう!』
と思いながら眺めていたのだが、ただ、その護持僧と称した二人だけが墮ちただけで、他の方々は馬から墮ちなかったのである。
 夢の中の私の心には、
『護持僧が落馬して墮ちるとは、これ、何か、不吉の謂いであろうか。』
という思いが強く起こった。
 そうは言っても、おかしいのだ。……
 何故なら、他の人々は落馬し墮ちることはなかったからである。……
――その後、場面が変わって――
 糸野の御前、そして、我らの師文覚上人様が、そこに居なさるのを確かに見たのであった。
 糸野御前や上人様がいらっしゃる場所は――先とは違って――京の大路を歩いていらっしゃる、という映像を見たのである。
〈明恵注〉
 以上の夢の数々は、未だ、その実際の事実関係について、それが起こる、それを知る以前の――一切の事実について私はまだ聞いてはいなかった時点での――夢想であったことを、ここに明記しておきたい。

栂尾明恵上人伝記 28―2 諸天来臨

 同二年の秋比(ごろ)、紀州の庵所(あんじよ)、地頭職掠(かす)め申す人在りて他領に成りしかば、むづかしき事ありて又、栂尾に還住(げんぢゆう)す。
[やぶちゃん注:元久二(一二〇五)年。明恵、満三十二歳。]

 其の年の冬、極寒(ごくかん)の後夜に臨みて坐禪し給ふに、曉天に至りて五體遍身冷え通りぬ。時に持佛堂の方より人の來る足音しけり。心を澄(すま)し聞き給へば、傍の障子をあくる。何者やらんと見るに、ゆゝしく氣高(けだか)げにて、其の裝束吉祥天(きちじやうてん)・辨才天等の如くなる天童來つて曰はく、餘りに冷えとほりて御坐(おは)す間、暖めて奉らんとて、頂をなで、靈藥(れいやく)などを與へ給へり。然らば則ち遍身軈(やが)て暖まりけり。其の後も此の天童常に來り仕へ給へり。

 又大威德の眷屬と覺しくて四五歳ばかりなる小童、頭は禿(かむろ)にて、手に弓箭を帶(たい)し來りて曰はく、我れに一の善巧方便(ぜんげうはうべん)を授け給ふに依つて、無始の煩惱忽に除滅(ぢよめつ)し、無邊の善根則ち生得(しやうとく)し、心も潔(きよ)く身も輕く成つて候と申して去りぬ。此の如き事、御弟子直(ぢき)に見給ふ時もあり。

耳嚢 巻之七 同病重躰を不思議に扱ふ事

 同病重躰を不思議に扱ふ事

 

 是も柴田玄養の物語の由。或家の小兒、至(いたつ)ての重き疱瘡にて面部口の廻り共に一圓にて、貮歳なれば乳を呑(のむ)事ならず。纔(わづか)に口のあたり少しの穴ある故、彼(かの)穴より乳をしぼり入(いれ)て諸醫療治なせど、誰(たれ)ありて□といふ者なく各斷(おのおのことわり)なるよし。彼小兒の祖母の由、逗留して看病なしけるが、立出て玄養に向ひ、此小兒御藥も給りけるが全快なるべき哉(や)、諸醫不殘御斷(のこらずおことわり)の樣(やう)、藥給る處は御見込といふある哉と尋ける故、我迚(われとて)も見込といふ事はなし、強(しひ)て兩親の藥を乞(こひ)給ふによりあたへしと語りけるに、然る上は御見込もなく十死一生(じつしいつしやう)の者と思召(おぼしめし)候哉、然らば我等療治致(いたし)候心得有間(あるあいだ)、此段申(まうし)承るよしに付、實(じつ)も十死の症と存(ぞんず)る由答へければ、あるじ夫婦を呼びて、是迄醫者衆も不殘斷(のこらずことわり)にて、玄養とてもあの通りなれば、迚も不治ものにあらず、然る上は我に與へ、心儘(こころのまま)になさしめよ、若(もし)、我(わが)療治にて食事もなるべき口つきならば可申上(まうしあぐべし)と玄養えも斷(ことわり)て、彼小兒風呂敷に包(つつみ)、我へまかせよと宿へ立歸りし故、玄養はけしからぬ老女と思ひ捨て歸しが、翌日、彼小兒乳も呑付(のみつけ)候間、療治給り候樣申來(まうしこす)故、驚(おどろき)てかの許(もと)へ至りしに、彼老婆の語りけるは、迚も不治(なほらざる)者と存(ぞんずる)ゆへ、宿元へ歸り湯をあつくわかし、彼小兒を右の湯へ入(いれ)、衣類澤山にきせて火の邊(あたり)に置(おき)てあたゝめしに、一向に出來(いでき)し痘瘡ひゞわれて、口の所も少し明(あ)ける故、乳を付(つけ)しに給(たべ)付(つけ)たると語りしが、かゝる奇成(きなる)事もありしと語りける。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:小児痘瘡奇譚柴田玄養発信二連発。この祖母はおばあちゃんではない。ラスト・シーン、乳が出る程度の、今なら相当に若い女性である。私はこの話が、しみじみ好きである。

・「同病重躰を不思議に扱ふ事」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『疱瘡の重体を不思義に救ふ事』とある。

・「□といふ」底本では「□」の右に『(諾カ)』と傍注する。それで採る。

・「十死一生」殆んど助かる見込みがないこと。九死一生をさらに強めた語で、「漢書」の「外戚伝」に基づく。

・「迚も不治ものにあらず」底本では「不」の右に『(可カ)』と傍注する。それならば「治るべきものにあらず」で意味が通る。それで採る。因みに岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『迚も可活(いくべき)ものにもあらず』とあって、こっちの方が自然ではある。

・「一向に」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『一面に』。

・「給(たべ)」は底本のルビ。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 同じく痘瘡の重体の児童を不思議に扱って命を救った事

 

 これも柴田玄養殿の物語の由。

 

……とある家の小児、至って重い疱瘡にて、面部・口ともに一面に膿疱が重なった瘡蓋となって、酷くくっ付き、固まってしまい、いまだ二歳のことなれば乳を呑むこともならずなって御座った。僅かに口の辺り、瘡蓋の山の間に、少しだけ穴のようなものがあったによって、その穴より絞った乳を流し入れては、辛うじて授乳させておる始末で御座った。

 諸医、療治なしたれど、あまりにひどい痂(かせ)なれば、誰(たれ)一人として療治せんとする者とてなく、頼んだ医師、悉く皆、断ったと申す。

 かの小児の祖母なる者、その家に逗留して看病して御座ったが、ある日――両親のたっての望みなれば、我ら仕方なく、この小児の療治をなして御座ったが――その我らの傍らへと出でて参り、我に向こうて、

「……この小児……お薬も戴いておりまするが……全快致すもので御座いましょうか?……他のお医者さまは、皆……残らず療治をお断りになられたとのこと……先生は、かくも、お薬を処方致いて下さいます上は……これ、見込みのあると……お思いにて御座いましょうか?……」

と訊ねて参りましたゆえ、

「……我とても――見込み――といふことは、これ、残念ながら御座らぬ。……強いてご両親が薬だけでもと切(せち)に願われたによって、言われるがままに、効き目もあまり御座らぬながら、せぬよりはましと薬を処方致いておる次第……正直申し、それが実情で御座る。……」

と語ったところ、

「……しかる上は……それは……実は快癒のご賢察も、これ、御座なく……十死(じっし)一生の者と、内心は思し召しになっておらるるので御座いましょうや?……しからば……我らに一つだけ、療治として致してみたき心得の御座いますれば……それに附き……一つ、本当のところのお見立てを、これ、申し承りとう存じまする……」

とのことなれば、酷いとは存じたれど、

「……正直……とてものこと、助かりよう、これ、御座ない病態と、存ずる。……」

と率直に答えました。

 すると、その祖母、急に主人(あるじ)夫婦を呼び寄せ、

「……これまでの医者衆も、これ、残らず匙を投げた!……今、この玄養さまにもお伺いを立てたところ、『この通りなれば、とてものことに癒ゆることも、生き残ろうはずも、まず、これ、ない』とのことじゃ!……かくなる上は、この子を我らに任せて、我らの思うがままにさせて、お呉れ!……玄養さまにおかせられては、もし、我らが療治をなして、口の辺りの、乳なんども吸わるるようになるようなことが御座いましたならば、また、その後の療治方について、ご処方なんどお受け致したく、その折りにはまた、改めてお願いに上がりまする。……さればこそ、今日までのご療治は有り難く存じまして御座った。……」

と、我らへも療治の終わりを一方的に告ぐるが早いか、かの小児を大きな風呂敷に包むと、

「――我らに任せよ!――」

と両親に言うと、小児を背負って実家へとさっさと帰ってしもうたので御座る。

 我らも、鳩が鉄砲玉を喰らったようなもので、暫く手持無沙汰のまま、向かっ腹も立って参りましてな、

『……如何にも失礼千万な老女じゃ!……』

と不快に思うて、困って平身低頭して御座った若夫婦を尻目に、そそくさと自邸へ帰って御座った。

 ところが、その翌日、かの若夫婦の所より使いの参って、

「――かの小児、やっと乳も飲みつけるようになりましたによって痂(かさ)の後(あと)療治を給りますよう、お願い申し上げまする――」

申し越して参りましたから、これには、我らも吃驚仰天、とり急ぎ、かの若夫婦の元へと往診致しましたところが、

……これ……

……かの小児……

――元気に若妻の乳を含んで、美味そうに吸うて御座いましたのじゃ。

 傍に御座った老婆は、

「……昨日のまことに失礼なる仕儀、これ幾重にもお詫び申し上げまする。……ただ、まっこと、玄養さまのお見立ての通り、とてものことに治らぬ者と存じましたによって、我が実家へと連れ帰りまして、湯を熱く沸かし、その小児をその湯へ入れ、衣類なんどもたんと着せ、さらに囲炉裏火(いろりび)の近くに置いて、十分に温めてやりましたところが……さわに出て御座った痘瘡の痂(かさ)が、これ、みるみる乾いて罅(ひび)割れ、口の辺りにても、少しばかし、大きに開きましたゆえ、即座に我らが乳を宛がってやりましたところ、まあ、ちゅうちゅうと吸いつき、力強う、飲み始めまして御座いました。……」

と深々と礼をなして語って御座いました。……

 ……いや、実にこのような、医の常識の及びもつかぬ奇妙なことも、これ、時には御座いまする。……

大橋左狂「現在の鎌倉」 1

大橋左狂「現在の鎌倉」

 

[やぶちゃん注:本作は明治の末年明治四五(一九一二)年七月十五日に鎌倉町小町の通友社から発行されたもので、作者は『鎌倉二の鳥居のほとりに』(自序末より)住んでいたと思われる左狂大橋良平なる人物によって書かれた、統計数値を各所に示した本格的な近代鎌倉の案内書である。但し、作者及び発行所についての詳細は不明である。

 底本(上記の書誌も含む)は、吉川弘文館昭和六〇(一九八五)年刊の「鎌倉市史 近世近代紀行地誌編」(児玉幸多氏編)に載る同部分(同書は但し、以下に示す目次の内、残念ながら別荘・学校・営業の部分は省略されているので、正確には標題は『大橋左狂「現在の鎌倉」より』とすべきであるが、ブログ公開では煩瑣なので、かくした)を用いたが、私のポリシーに則り、恣意的に正字化した。但し、字配の空きなどは原則、無視した。踊り字「〱」は正字化し、傍点「ヽ」は太字で示した。また、ブログ公開版ではブラウザ表示の関係上、文字の段組の一部を変更した(それはその都度、当該箇所で断ってある)。一部に私の注を附した。なお、解説によれば、原本の振り仮名は一部を残すにとどめ、句読点を若干加えたともあり、親本は澤壽郎氏所蔵本、村田書店一九七七年刊行の『珍籍鎌倉文庫』の一冊として収められているとあるので(私は所持しない)、完本を読まれたい方はそちらを捜されたい。

 私が本作を電子化したい欲求は一に、耽溺する夏目漱石の「こゝろ」の冒頭に於いて「私」と「先生」が出会う鎌倉の実景を細部までくっきりとさせたいからに他ならない(リンク先は私の初出テクスト「心」)。私は二人の鎌倉海岸(材木座海岸)での出逢いを、本書が刊行される四年前の明治四一(一九〇八)年の七月下旬か八月に同定しているからである(私の「こゝろ」の論考「こゝろマニアックス」の最後の年表を参照されたい)。目次を例にとってみても『最近三ヶ年の戸數人口』『避暑の三ヶ年統計、水浴場案内』とあり、本作の叙述はまさに限りなく明治四一年に近いのである。私たちはこの大橋氏の行間に(目次だけしか読めない「營業一覽」の中にさえ)、二人が運命的に出逢った当時の鎌倉の活況をリアル・タイムの映像で見出すことが出来るのだと考えているのである。【作業開始:2013年5月26日】]

 

現在の鎌倉   大橋左狂

 

    目次

[やぶちゃん注:小項目の一部を改行して示した。]

 

鎌倉の地理

  位置、地勢、面積、風俗、産物、名物、

戸數人口

  気候、最近三ヶ年の戸數人口、現在の各字別戸數人口、

花の鎌倉

  鎌倉の花は隱君子的である、東都の花と鎌倉の花、

  各所の櫻、各所の桃

夏の鎌倉

  避暑地としての鎌倉、鎌倉は日本の代表的公園、

  鎌倉唯一の財源は夏期にあり、鎌倉商家の覚醒、

  避暑の三ヶ年統計、水浴場案内

想出多き秋の鎌倉

  鎌倉の長所は秋にあり、古戰場案内

國寶に充たされた錬倉

  鶴ケ岡八幡の國寶、建長寺の國寶、圓賞寺の國寶、

  淨智寺の國寶、子育闇魔堂、明月院、束慶寺、杉本寺、

  光觸寺、光明寺、廣德寺、極樂寺、淸淨光寺等

[やぶちゃん注:「廣德寺」は鎌倉大仏高徳院(正式には大異山高徳院清浄泉寺)の誤表記(本文も誤っている)である。「淸淨光寺」は鎌倉外の藤沢にある時宗総本山遊行寺のこと(正式には藤沢山無量光院清浄光寺)。以下の「名所古跡」に示されたように、記載範囲は鎌倉周縁域まで延びている。]

鎌倉の交通機關

  江の島電車は何時頃より出來たか、

  同社の沿革、同社の營業振り、

  鎌倉人力車は如何に活動しつつあるか

現在の貸家貸間料

  鎌倉の貸家數、貸間の戸數は何程あるか、

  貸家貸間料の標準調

名所古跡

  鎌倉、腰越、片瀨、江の島、鵠沼、藤澤、逗子、葉山

別莊一覽

   皇族、華族、文武官、銀行會社員、其他

[やぶちゃん注:冒頭注で示した通り、本文のこれより以下は底本では省略されているため、私もテクスト化出来ないが、黒部五郎氏のサイト「湘南の情報発信基地 黒部五郎の部屋」の「鵠沼を巡る千一話」の「明治末の別荘」に、本書のこの「別莊一覽」を参考にしつつ、更に他の資料をも駆使なさって製作された「明治末の鵠沼海岸別荘地の土地取得者・関係者」一覧表がある。本書の記載内容を想像するよすがとなろう。]

學校一覽

   學校、幼稚園

營業一覽

[やぶちゃん注:以下は底本では八段組となっているが、三段組に変えた。]

銀行會社    醫師      齒科醫

藥劑師     産婆      料理店

旅館      藝者家     温泉

待合所     米穀商     荒物商

酒類商     家具一式    菓子商

靑物乾物商   獸鳥肉販賣   牛乳搾取

魚商      蕎麥屋     運送業

藥種業     石炭商     佛塗師

賣藥化粧品   表具師     雜誌書籍業

呉服太物店   蒲鉾製造業   ラムネ製造業

和服裁縫    洋服仕立    小間物雜貨商

鎌倉彫     印刻業     印刷業

履物商     傘製造     時計店

石材商     金物商     陶器商

材木商     提燈張商    竹材商

篩製造業    綿製造業    骨董商

建具指物職   ペンキ塗職   寫眞業

桶職      疊職      硝子商

代書業     錺職      土木請負

染物職     足袋商     金錢貸附業

質商      西洋洗濯    靴製造

 

     鎌倉の地理

 

 鎌倉は相模國鎌倉郡の南端に位して、東は淺間、名越、辨ケ谷、丸山等の諸山を負ふて武州の久良岐、及三浦の田越に隣り、北西は太平、鷲峯、天臺等の山嶽を略して本郡の本郷、小坂、深澤、腰越の諸村に接して居る。南の一面は蒼茫たる相模灘に臨んで遙かに豆州の大島と相對して居る。東西二里一丁南北一里四丁餘ある。周圍は六里二十五丁餘、面積一方里半あつて南に弓形の由比ケ濱を嚙んで居るので、恰も節句の菱餠の形をして居る。地勢東北西に高くして漸次南に低下して居る。往昔靑砥左衞門藤綱扮撈錢(らうせん)の舊跡として名高い滑川は、東北より流れて鎌倉町の中央部を貫通して由井ケ濱に灌いで居る。西部には稻瀨川と云ふ小流がある。此川も滑川と同樣由比ケ濱に注いで居る。地味とて別段豐饒の方でない。が東北即ち名越、淨明寺及山の内に近き土地は米麥木綿等に適して居る。西南に下りて海に近(ちかづ)くに從つて砂地となるので甘薯、西瓜、蔬菜等が漸く作られてある。

[やぶちゃん注:「淺間」これは現在の横須賀線が潜る名越切通のある名越山の北東、「かまくら幼稚園」の南西の二〇〇メートルの所のピークの古称である。

「撈錢」の「撈」は「掬(すく)う」の意で、滑川に落ちた銭十文を銭五十文で松明を買い求めて川底から掬った例の故事をいう。]

 由來鎌倉は農業者尤も多く次は漁業者、商工の順位であつたのである。然るに年一年と別莊の新築多く殊に避暑避寒客が年々歳々其數を増加するので、專門の農業者も資産ある商工家も悉く貸別莊貸間等を設けて、避暑避寒客を見込んで相當利益を計つて居る。一方避暑避寒客もこれが爲め非常に便利に感ずるのである。鎌倉の産物として南沿海に荒布、和布(わかめ)、海藻、蛸、黑鯛、甘鯛、鮪、鰺、海老、海豚、烏賊、飽等の漁りがある。農産物としての大麥、小麥、蕎麥、米、豆類等は多く隣村からの産出である。

 又鎌倉名物としては中々に數多いのであるが、其内にも「おみやげ」品に適する重なるものは、八幡前に鎌倉彫、武者煎餠、同二の鳥居前豐島屋菓舖には元祖古代煎餠鎌倉時代の瓦煎餠、大佛煎餠、勝栗羊羹、新案鳩袋鳩ポツポ等奇拔の名物がある。殊に此鳩ポツポ菓子は八幡の神鳩其儘の原形にて腹中より豐の福德を顯はす同舖獨特の趣味菓なるより鎌倉土産として坊ちやん孃さん方の愛玩は一通りでない。由井ケ濱下馬には常盤屋の磯羊羹、長谷に至りては大佛前通りの鎌倉燒女夫饅頭等がある。長谷電車停留場附近にも各茶屋に大佛胎内調べと云奇拔の菓子や武者煎餠がある。坂の下權五郎神社前には、權五郎力餠がある。片瀨には片瀬饅頭、江の島には飽粕漬、もづく、榮螺子(さゞえ)、蛤、黄金飴、埋木貝細工等がある。此貝細工、黄金飴は特に鎌倉名物と稱されて江の島のみではない、八幡前は勿論長谷通り、片瀬江の島通に至る迄各所に陳列販賣して居る。

[やぶちゃん注:「新案鳩袋鳩ポツポ」ウィキ鳩サブレ―」によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『鳩サブレーは、豊島屋の初代店主が店に来た外国人からもらったビスケットが原点である。フレッシュバターをふんだんに使用した製品だが、開発を始めた当時はバターが使われていることが分からず、それを見つけるまで大変苦労をしたという。 ビスケットとの違いを出し、日本人に馴染みやすい味にするため、スパイスやフレーバーは使用していない。 鳩の形となったのは、初代店主が鶴岡八幡宮を崇敬しており、本宮の掲額の八が鳩の向き合わせであることと、宮鳩が多数いるところから着想を得たためと言われている。なお、開発当初は鳩の尻びれは二本であったが、尻尾が太く見えるという理由で三本になった。現在、本店二階にあるギャラリー「鳩巣」に尾びれが二本の型が展示されている』。『鳩サブレーは明治時代末期の発売当初には「鳩三郎」とも呼ばれていた。これは、この菓子を開発した初代店主が最初に「サブレー」と言う耳慣れない単語を聞いた時に「サブレー」=「三郎」と連想したためである。また、当時は一般的にも「サブレー」という外来語よりも「鳩三郎」の方が馴染みがあり、通りがよかったという。 現在でも鳩サブレーのマスコットグッズの中には「鳩三郎」の名称を付けられたものがある。 ただし、「鳩三郎」はあくまでも初代が付けた愛称であり、正式な商品名は当初より「鳩サブレー」である』とあるから、この大橋氏の「鳩袋鳩ポツポ」というのは勝手な呼称のようだが、誕生とその後のエピソードを詳しく綴った豊島屋公式サイトの鳩サブレー 鎌倉生鎌倉育によれば、『初代は意気揚々とこの新作を焼き続け店に並べたものの、明治末の頃のことでございます「バタ臭い!」と云われ、売れる筈もございませんでした』とある、更には『そこで、ご近所の皆様、知己にお配りしたようです。皆様から「ご馳定さま、美味しかったヨ」勿論お世辞でございましょうが、これが初代には励みとなり、一層に頑張ったようでした』が、『或る時初代のツレアイがご近所に伺った折、裏庭で鳩サブレーが犬の餌になっていたのを見たそうでございますが、初代の鳩サブレーに対する情熱を思うと、伝え難く、数年の間ないしょにしていたとのことでした。今日でこそ私達はチーズ、バターなどにはなじんでいますが、明治の頃のことです、全く異質の味であったのでしょう』とあって、やっと『十年程経てから、ようやく少しずつ知られるようになって参りました。大正に入り秋場隆一、竹内薫兵両小児医博より(離乳期の幼児食に最適である)とご推せんを頂いてより逐次、ご贔屓筋も増え、御用邸各宮家よりもご用命を受けるようになったのでございます』とあるのと、この大橋氏の叙述を比べると、この絶大なる褒め言葉は「鳩袋鳩ポツポ」、いやさ、鳩サブレーのヒットに、多大な貢献した解説であったと言えはしまいか? 推測であるが、事実は豊島屋公式サイトの記載でさえそれほど人気土産であったようには書かれていないところをみると、「殊に此鳩ポツポ菓子は八幡の神鳩其儘の原形にて腹中より豐の福德を顯はす同舖獨特の趣味菓なるより鎌倉土産として坊ちやん孃さん方の愛玩は一通りでない」という評言コピー――これは一種のタイアップ広告のようにさえ見えて来はしまいか? 実に面白いではないか。

「常盤屋の磯羊羹」店自体が既に現存しない模様である。

「大佛胎内調べ」この菓子の様態には非常に興味がある。識者の御教授を乞うものである。

「片瀨饅頭」片瀬龍口門前(藤沢市片瀬海岸)にある創業天保元(一八二八)年の和菓子屋「上州屋」の「片瀬まんじゅう」。田山花袋「一日行楽」の「島」に既注済。

天景 萩原朔太郎

 天景

しづかにきしれ四輪馬車、
ほのかに海はあかるみて、
麦は遠きにながれたり。
しづかにきしれ四輪馬車、
光る魚鳥の天景を、
また窓靑き建築を、
しづかにきしれ四輪馬車。

[やぶちゃん注:「地上巡礼」第一巻第三号・大正三(一九一四)年十一月号に掲載され、後に詩集「月に吠える」初版(大正六(一九一七)年二月感情詩社・白日社出版部共刊)に所収された。その際、句読点が変更され、現行では、次の詩形が本「天景」として公的に認知されている。

しづかにきしれ四輪馬車、
ほのかに海はあかるみて、
麦は遠きにながれたり、
しづかにきしれ四輪馬車。
光る魚鳥の天景を、
また窓青き建築を、
しづかにきしれ四輪馬車。

私はどう朗読しても、初出の句読点の方を全力で支持するものである。]

きれをくびにまいた死人 大手拓次

 きれをくびにまいた死人

ふとつてゐて、
ぢつとつかれたやうにものをみつめてゐる顏、
そのかほもくびのまきものも、
すてられた果實(くだもの)のやうにものうくしづまり、
くさかげろふのやうなうすあをい息(いき)にぬれてゐる。
ながれる風はとしをとり、
そのまぼろしは大きな淵にむかへられて、
いつとなくしづんでいつた。
さうして あとには骨だつた黑いりんかくがのこつてゐる。

鬼城句集 夏之部 夕立

夕立    夕立や橋下の君子飯自分
[やぶちゃん注:「橋下の君子」河原や橋の下に停留して河原乞食とも称されたホカイビト、流浪の旅芸人をかく言い換えた。鬼城の弱者への共感的な優しい視線を私は感じる。]
      夕立の小ぶりになりぬてふてふ飛ぶ
[やぶちゃん注:底本では「てふてふ」の後半は踊り字「〱」。]
      夕立や池に龍住む水柱

2013/05/25

チェルノブイリで被曝したナターシャ・グジーの悲しみ「視点・論点〜チェルノブイリと広島」

知人の教えてくれた

チェルノブイリで被曝したナターシャ・グジーの悲しみ「視点・論点〜チェルノブイリと広島」

明恵上人夢記 14

14

一、同八日、初夜の行法已(をは)る。出でて後、眠り入りたる夢に云はく、一つの野の如き處有り。而るに、野に非ずして、古き家の跡の如し。以ての外に廣くして、其の四方に大きなる獅子の形像(ぎやうざう)有り。而るに、行動(ぎやうどう)して生身(しやうじん)の如く也。成辨、彼のひげなんどの整ほらざるを切りそろふ。怖畏すること極り無けれども、之を整ふ。小さき犬等あまた有りて、此の獅子之腹の下の毛の中に聚(あつま)り伏(ふ)す。心に思はく、此の小さき犬等、此の獅子を以て我が母と思へり。二方をそろへて、今二方をば同じき事也と思ひて、思ひ止まりぬと云々。案じて曰はく、文殊、此の郡を守護し給ふ也。小さき犬は此の殿原也。古き家の跡の如くなるは、當時、此の郡に人無き故也。後に案じて云はく、崎山の糸野(いとの)の家は、四方に鎭護の呪(じゆ)を懸く。後に湯淺に遣はすと思ふに、同じき事也と思ふは此の事也。

 

[やぶちゃん注:「初夜の行法」この夢の「同八日」の「同」は記載時系列の前後があったとしても九月以降のことになるから以下の記載が無化される可能性はあるが(実際には次の15が「二月十日」のこととあるから必ずしも無効とは言えない)、東大寺で旧暦二月行われた修二会について、東大寺公式サイトでは、平日は十九時に東大寺の大鐘がならされ、それを合図に「おたいまつ」が点火され、練行衆が上堂すると、初夜の行法として、まず読経(法華音曲)・初夜の時・神名帳・初夜大導師の祈り・初夜咒師作法が行われる、というのが一つの参考にはなろうと思われる。この場合の初夜は、六時の一つである戌の刻(現在の午後八時頃)に行う勤行。

「崎山の糸野の家」底本の「歌集」の注記によれば、現在の和歌山県有田郡金屋町糸野上人谷にあった明恵の伯父湯浅宗光の館とする。湯浅宗光(生没年不詳)は鎌倉前期の武士で宗重(紀伊国湯浅城(現在の和歌山県有田郡湯浅町青木)を領した平清盛配下の有力武将。清盛の死後、平重盛の子忠房を擁して湯浅城に立て籠もるも源頼朝に降伏して文治二(一一八六)年に所領を安堵される。以後、順調に所領を増やして紀の川流域まで勢力を広げ、後に湯浅党と呼ばれた)の七男(養子とも)。七郎左衛門尉と称した。後に出家して浄心と号した。当初は父と共に平氏に仕えたが、やがて源氏に味方するようになり、鎌倉幕府御家人となった。父から紀伊国保田荘(現在の和歌山県有田市)を譲られて保田氏を名乗るようになる。嫡流でなかったにも拘わらず、湯浅一族の中での最有力者となり、保田氏が湯浅一族全体の主導的立場に立つ基礎を築いた。甥に当たる明恵の後援者でもあった(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」に拠った)但し、「崎山」というのは有田郡有田川町井口にある。因みにこの井口の法蔵寺境内には明恵が三十六歳から三十八歳頃まで修行を行った崎山遺跡があり、有田川町公式サイトの「崎山遺跡(町指定史跡)」記載には、『明恵上人が幼少の頃に養育を受けた叔母が夫の菩提供養のために寺を建て、明恵を迎え』『明恵は寺の後方に庵を造って居住し』たが、『現在、明恵上人紀州八所遺跡の中で、この崎山遺跡のみが卒塔婆の所在が不明となっており、遺跡の正確な位置は明らかではな』く、顕彰のために、『田殿橋の北詰、通称大師山と呼ばれる法蔵寺境内に復興された卒塔婆が立てられている』とあるので、この「夢記」の「崎山」こそが実は、最早、同定は出来なくなった正しい地名を指しているのかも知れない。ともかくもこの最後の辺りの解釈は私にはすこぶる難解でお手上げの感がある。力技の牽強付会の訳なれば、よろしく識者の御教授を乞うものである。]

 

■やぶちゃん現代語訳

 

14

同八日、初夜の行法を終えて、退出した後、眠りに入って見た夢。

「ある野原のようなところである――と思ったが、いや、そうではない――自然の野原ではなくて――古い屋敷が滅んで何も無くなった跡――のようである。ただ、それが、途轍もなく広いもので、その遺跡の四方には大きな獅子の姿を彫った像があるのである――と思ったが――像には像なのだが――これ――生きた獅子の如く――動く――のである。

 私は――その獅子の髭なんどが、これ如何にも疎らになって不揃いなのが気になって――切り調えている――のである。

 勿論、生きた獅子同様なれば――我らは大いに恐れ戦いておるのであるが――それでも――これを切り調えている――のである。

 そんな中、ふと見ると、小さな犬どもが数多おって、そ奴らが、これまた、この獅子の腹の下のふさふさした毛の中にびっしりと集まって頭を突き合わせ、眠っておるのであった。

 私は内心、思った。

『……この小さな犬どもは、この獅子のことを我が母と思っている。……』

と。

 その遺跡の四方の獅子像の内、二つの髭を切り揃え終え、残る二つも……同じ如、致そうと思ったが――そこで私は――何故か――思い止まった。……

〈私明恵の夢解釈〉

 幾つかの事柄を考え合せてみると、この夢は、文殊菩薩が、この有田郡(ありたのこおり)を守護なさっておらるる、ということを意味している。

 「小さな犬」というのは、今現在、この郡内にあられる主だった有力なる他所(よそ)から移入なされてこられた御仁らを象徴するものである。

 「古い家の跡のようなもの」というのは、この有田郡には、元来は人が住んでは居らなかった土地柄であったことに基づくものである。

〈後日の附記〉

 さらに後の再考してみたのであるが、有田の崎山(さきやま)の家に繋がるところの御前様の実家湯浅宗光殿の御屋敷は、これ、普段より、その四方に鎮護の呪符を懸けておらるることを実は知っていた。

 後日のある時のことであるが、私はその伯父なる湯浅の屋敷に宛てて、私の製した護符を贈ろうと考えたことがあった。

 ところがその時、私は

『待てよ? それは結局――もう、既に呪符のあるところに護符を贈るとは――同じこと、無駄なこと、ではないか!』

と、はっと気がつくという、如何にも恥ずかしいことがあったのである。

 この夢の最後の部分は、後に私に起こったところの、その失敗を予兆していた、のである。

「義古」という名の僕の隠し子の夢

今朝方の夢。



……僕はどこかの高原の芝生の上で一人の西洋人の三歳ほどの少女と遊んでいる。金髪の巻毛でぬけるように白い肌の美少女の彼女は英語しか話さないのだが、彼女がいたく僕を慕っているのが分かるのであった。そうして林の中を手を繫いで二人で歩きながら、僕は彼女が実は僕の子であることが分かった。そしてその少女の名は「義古」という名なのであることも何故か知るのである……。



覚醒の直後に、この「義古」という少女の漢字名だけが強く残っていた。――ふと――これは「よしこ」と読むのだと思った――因みに、僕は西洋人と肉体関係をもったことはない。「よしこ」という女性名は僕が片思いして、美事にフラれた中学時代の同級生の名ではある――そんなことを考えた。そこに意味や連関があるとも思われないかった。しかし、その少女が、哀しいまでに愛おしく感じられたのであった……

栂尾明恵上人伝記 28

 又其の比、南都の住侶(じゆうりよ)焚賢(ふんげん)僧都の許より、態(わざ)と人を奉れり。其の狀に云はく、「去る二十四日、春日の社壇に參詣、念誦の間に、折節(をりふし)御神樂(みかぐら)あり。舞巫(まひみこ)の中に俄に神託し給ひて云はく、我自(みづか)ら無量劫以來、一切の佛法を護つて、一切衆生を度せん事を誓ひぬ。然るに明惠房程の僧、此の比(ごろ)異朝(いてう)にも稀なり。況んや我が朝にあらんや。此の國に於て度衆生(どしゆじやう)の緣ありて、此の處に生ぜり。然れども前生(ぜんしやう)に中天竺に在りし餘執(よしふ)にて、釋尊の御遺跡(ごゆゐせき)を慕ふ志深くして、天竺に渡らん事を思ふ。天竺には是程の比丘もまゝあり。依て我れ闕(か)けたる所を補はん爲(ため)、又此の國の衆生に緣ある事を思ひて、渡天竺の事頻りに先年より惜み留むといへども、猶其の志休せずして、其の營みに及べり。先途(ぜんと)程(ほど)遠し。渡らば定めて歸る事を得んや。若し我が心を破つて進發せば、本意(ほんい)を成就せん事あらじ。此の趣を知らずやと云々。言多しと雖も詮(せん)を取れり。此の焚賢は事の緣有りて上人に日來(ひごろ)申承くる人なり。其の好(よし)みを以て示し申さるゝにや。かやうのことゞもに依つて、渡天竺の事延引(えんにん)と云々。

[やぶちゃん注:前段での私の感懐が強ち誤りではないことがお分かり戴けるものと思う。

「詮」は真理部分。]

耳嚢 巻之七 痘瘡の神なきとも難申事

 痘瘡の神なきとも難申事

 

 予がしれる人の方にて柴田玄養語りけるは、いづれ疱瘡には鬼神のよる所もあるにや。名も聞(きき)しが忘れたり。玄養預りの小兒に疱瘡にて、玄養療治しけるが、或時病人の申(まうし)けるは、早々さら湯をかけ、湯を遣ひ度(たき)よし申ける故、未(いまだ)かせに不至(いたらざる)時日故、難成(なりがたき)よし申ければ、かゝる輕き疱瘡にはかさかゝり候はゞ不宜(よろしからず)とて、何分早く湯を可遣(つかふべき)由強(しひ)て申(まうす)故、兩親も甚(はなはだ)こまり、玄養え呼(よび)に越(こし)候故參りけるに、しかじかの事なりと語りける故、輕き疱瘡なれ共、未(いまだ)詰痂の定日(ぢやうじつ)にもいたらず、玄養直々彼(かの)病人に向ひて道利(だうり)を説聞(とききか)せけるに、かゝる疱瘡に長(ながく)かゝり合せては迷惑なり、我も外えゆかねばならぬ事也といふ故、いづ方え參る哉と玄養尋ければ、四ツ谷何町何某(なにがし)と申(まうす)町家え參る由答ける故、奇なる事と思へども、父母と申合(まうしあはせ)、酒湯(ささゆ)のまなびしていわゐ抔してけるに、無程(ほどなく)肥立(ひだち)て無程相濟(あひすみ)ぬ。玄養歸宅のうへ、去(さる)にても怪敷(あやしき)事をと四ツ谷何町何や某(なにがし)と申(まうす)者方え人を遣して承りけるに、一兩日熱氣強(つよく)小兒疱瘡と存(ぞんずる)よし答ひける故、然れば彼(かの)疱瘡にて、鬼神のよる所ある、諺(ことわざ)に又うそならずと物語りせし也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:狐妖から疱瘡神の奇譚で軽く連関。疱瘡及び疱瘡神の話は、流石に死亡率も高い流行病であった故に「耳嚢」には多く出る。疱瘡(天然痘)については「耳嚢 巻之三 高利を借すもの殘忍なる事」の私の注を参照のこと。

・「柴田玄養」不詳。

・「さら湯」新湯・更湯で沸かしたばかりのまだ誰も用いていない風呂のことをであるが、後文から考えるとこれは酒湯で、「ささ湯」か「さか湯」の誤写の可能性が強いように思われる。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版も『さゝ湯』とある。「酒湯」(後注参照)で訳す。

・「かせ」「かさかゝり」は「痂」(かせ/かさ)。天然痘は発症である発熱の後、七~九日目に四〇度を越える高熱(発疹が化膿して膿疱となることによる)が発するが、それが収まって二~三週目に、発疹部の膿疱が瘢痕を残して治癒に向かう。その瘡蓋(かさぶた)状になった膿疱患部のことを指す。

 

・「詰痂」「つめかさ」と読んでいるか。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『結※』(「※」=「扌」+「加」)とある右に『〔痂〕』とする。この結痂(けっか)ならば、先に示した発症後二~三週目の発疹部の膿疱の瘡蓋化(「痂(かさぶた)」を「結」ぶ)の謂いで採れる。この意味で採る。

・「道利」底本には右に『(道理)』と補正注がある。

・「酒湯」底本の鈴木氏注に、『サカユ。疱瘡が治癒した後、温湯に酒をまぜて沿びさせること』とある。潔斎と寿ぎの禊ぎの意味があるのであろう。私は個人的な趣味から「ささゆ」と読むことにした。

・「答ひ」底本には右にママ注記がある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 痘瘡の神なんどというものは存在しないとは言い切れぬという事

 

 私の知人の所でたまたま逢った、柴田玄養殿と申す医師の語ったことで御座る。

「……結局のところ……疱瘡の病いに於いては、これ……鬼神が憑くことによって発するという病因も、また一つ、あるのでしょうか……。」

と語り出した(その際、その患者の姓も聴いたが、失念致いた)。

「……主治医として担当して御座る〇〇家の小児が疱瘡に罹患致し、我らが往診療治致いて御座った。

 高熱を発して数日の後、病児が突如、看病して御座った家人に向かって、

「……早(はよ)う、酒湯(ささゆ)をかけてくんない……もう、湯を使いとうてならんのじゃ……」

と申したによって、

「……いやいや、未だ痂(かさ)も生じておらぬ頃合いなれば……とてものことに成し難きことなるぞ……」

と諭せども、

「……この程度の軽(かろ)き疱瘡の場合はの、痂(かさ)がかかってからでは酒湯を用いるは、これ、逆に良ろしゅうないのじゃ!……どうか……かえって悪うなってしまう前に……早(はよ)うに湯をつかわするがよろしいのじゃて!……」

と、しきりに訴え、その様子は、これ、この小児の謂いとも思われなんだと申しました。

 この奇体なる愁訴には、両親ともにはなはだ困って御座って、遂には我らが屋敷へ使いを寄越して御座ったによって往診致いた。

 かくかくしかじかの旨、聞き及んだによって、我ら、

「――軽い疱瘡にてはあれども、未だ、熱が下がって瘡蓋(かさぶた)が出来て良うなる頃合いにも、今は至ってはおらんでの――辛抱せい!」

と直々に、噛んで含むように道理を説いて言い聞かせました。

 ところが、

「……いや――このような軽(かろ)き疱瘡なんぞのために――長々とこの坊主に関わっておったのでは、こっちが迷惑じゃ!――我らも外(ほか)へ行かねばならぬ場所があるのじゃて!」

と、これまた、妙なことを口走って御座ったゆえ、

「――一体、何処(いず)方へ行くと申すか?」

と、我ら、すかざす糺いた。

 と――

「――四谷××町〇△□△申す町家へ参るじゃ――」

と答えたので御座る。

 我ら、怪しきこととは思えども、病児の父母とも相談の上、それから、一両日の内に酒湯(ささゆ)の儀の真似事を致いて、形ばかりの快癒の祝いなんどを執り行ったところが、これ、ほどのう、軽快致し、それからほどなく小児の疱瘡、これ、すっかり治って御座ったのじゃ。

 一方、我ら、その酒湯を成した日、帰宅致いてより、

「……それにしても……如何にも不思議なることを口走って御座ったのぅ……」

と、つい、気になって、

「四谷××町〇△屋□△と申す商家のあるやなしやを聴き、あったれば、今日只今、急患などのなきかと訊ねよ。」

と、使いの者を走らせて調べさせたところが、帰ったその者の曰く、

「――二日ほど前より、当家の小児が相当な熱を発し、まずは疱瘡に罹ったものと思わるるの由にて御座いました。」

との答えで御座った。……

 ……さればこそ、かの疱瘡にては……これ――鬼神がとり憑いたるによって発するものもある――と俚諺に申しまするも、強ち偽りにては御座らぬと存ずる。……」

と物語って御座った。

所感斷片 萩原朔太郎

 

 所感斷片

 

 

 掏摸といふ人種は何時でも靈性を帶びて居る。彼は鋼鐵製の光る指をもつて居る、彼の眼はラヂウムのやうに人の心臟を透視する、その手は金屬に對して磁石の作用をする。

 彼の犯罪は明らかに靈智の閃光であつて、同時に纖微なる感觸のトレモロである。

 掏摸の犯罪行爲の如きは明らかに至上藝術の範圍に屬すべき者である。

 

 地上に於て最も貴族的なる職業は探偵である。彼の武器は鋭利なる觀察と推理と直覺と磨かれたるピストルである。

 彼の職業は常に最も緊張され――時としては生命かけである――然も未知數の問題に對して冥想的である。犯罪が秘密性を帶びて來れば來る程彼の冥想は藝術的となり、犯罪が危險性を所有すればする程彼のピストルは光つて來る。探偵それ自身が光輝體となつて來る。

 

 探偵及び兇賊を主人公とした活動寫眞が他の如何なる演藝にも優つて我々の感興を索く所以が此處にある。『T組』の兇賊チグリス及び美人探偵プロテヤ(淺草電氣館)の一代記は詩人室生犀星をして狂氣する迄に感激せしめた。

 

 如何なる犯罪でも犯罪はそれ自身に於て既に靈性を有して居る。何となれば兇行を果せるものは其の刹那に於て最も勇敢なる個人主義者となり感傷主義者となり得るからだ。のみならず彼は直接眞理と面接することが出來る、人類の僞善と虛飾と假面を眞額から引ぱがすことが出來る。

 

『人間にパンを與へろ、それから藝術を與へろ』孔子の言つたことは一般に眞理だ。けれどもパンをあたへられないでも藝術を所有する人がある。その人が眞個(ほんと)の藝術家だ。

 

 最初にパンを獲るために勞働する人がある、一般の藝術愛好家(ヂレツタント)である。最初にパンを獲るために乞食をする人がある、生れたる詩人である。

 

 藝術家とは人生の料理人である。料理人とは『如何にしてパンを獲得すべきや』といふ問題の解答者ではない。料理人とは『如何にしてパンより多くの滋養分と美味とを攝取すべきや』といふ質問の答案者である。

 

 汝の生活の心持を灼熱しろ。センチメンタリズムを以て汝の生活を白熱しろ。

 汝のセンチメンタルを尊べ、人生に於ける總ての光と美とは汝の感傷によつてのみ體得することが出來る。此處に新らしい生活がある。祈禱と奇蹟と眞理のための生活がある。キリストの生活がある。ベルレーヌの生活がある。小說サアニンの生活がある。光りかがやく感傷生活がある。

 

 最も光ある藝術とは最も深甚に人を感動せしむる藝術を意味する。最も人を感動せしむる者は言ふ迄もなく光と熱である。而して光と熱の核は感傷である。

 我々は第一に日本の自然主義が敎へた蛆虫の生活を超越せねばならぬ、じめじめとした賤民の藝術を踏みにじらねばならぬ。

 

 至上の感傷は人情を無視する、寧ろ虐殺する。我に順ふものは妻と子と父母とを捨てねばならぬとキリストは訓へた。感傷門に至らんとする者は最初に新派悲劇と人情本から超越しなければならぬ。

 

 狂氣も一種の感傷生活である。情熱と祈禱と光に充ちた生活である。然も狂人の生活が如何ばかり光榮に輝ける者だといふことを狂人以外の人は全く知らない。

 

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第八巻の「隨筆」パートの巻頭にある、大正四(一九一五)年一月一日附「上毛新聞」に掲載された初出形を底本の校異に基づき復元した(言っておくと、これは随筆と言うより、散文詩に近い)。具体的には校訂本文では以下のように訂されてある。

 

(初出)  →  (校訂本文)

 生命かけ  →  生命がけ

 秘密性   →  祕密性

 索く    →  牽く

 眞額から  →  眞向から

 蛆虫    →  蛆蟲

 

但し、太字は底本では傍点「ヽ」であり、更に言えば底本は総ルビであると底本(筑摩版全集第八巻)の校異注があるので、完全な初出復元ではない(底本にはルビはない)。

 

「『T組』の兇賊チグリス及び美人探偵プロテヤ(淺草電氣館)の一代記」というのは、当時上映された活動写真の一本と思われるが不詳。因みに、ネット検索では、ツイッターの「室生犀星@MUROUSAISEI_bot」氏のツイートに『せんちめんたる組の凶賊チグリスといふ別名をこしらへました。萩原は女探偵プロテア氏。』という謎めいた一節を発見したきり。私は犀星の全集を持っていないので、ここまでである。識者の御教授を乞う。【2022年3月12日追記】九年間、誰も答えては呉れなかったが、今朝方、萩原朔太郎の拾遺詩篇を電子化しようとして、再び「プロテヤ」が出現したため、調べたところ、「前橋文学館」公式ブログ内の『2017年12月26日 「ヒツクリコ ガツクリコ」展のもとになった詩』の記事内に、朔太郎のノートに『のんだくれの探偵詩人プロテヤ』として登場し、これはやはり映画の主人公の名で、大正二(一九一三)『年公開のフランス連続映画「プロテア」の主人公である女探偵プロテアに影響されて、朔太郎が名乗っていた名です。映画は同年』十二月一日に『日本で初公開され、朔太郎は』翌大正三年七月に『観に行き、犀星とともに熱狂しました』とあった。さらに、月村麗子の論文「ユルリアリズムの絵を先取りした朔太郎の詩」(第十一回国際日本文学研究集会・一九八七年十一月六日研究発表・PDFでダウン・ロド可能)に、 朔太郎の知られた詩篇「殺人事件」を生み出したのが、この映画であったことが記されてあり、『この詩は、当時朔太郎が持っていた、犯罪芸術論を表明しており、その背景には、1914年6月及び7月に、朔太郎が犀星と共に観た、イタリア映画『チグリス』と、フランス映画『プロテア』があったのです』。『『プロテア』は、ヴィクトラン・ジャセ監督による1913年の作品です。彼はその前に、新聞連載の大衆小説『ジゴマ』を映画化し、これが大ヒットとなり、さらに同傾向の『プロテア』の製作に入りますが、その途中で死亡、しかし、その続編が作られました。朔太郎と犀星の観たのは、その第二編に当ります。ジャセのこれらの連続探偵映画の影響下に、イタリアで『チグリス』が、フランスでは、フィヤード監督による『ファントマ』(1913-14)が作られました。後者は、1920年代にシュルリアリスト達を魅了しました。この事情は、それより十年程前に、大衆娯楽の連続大活劇に夢中になり、朔太郎と犀星が、それぞれプロテア、及び、チグリスと名乗って、<犯罪美学>とも呼ぶべき芸術論に熱を上げていたのと呼応するのは、興味深いことです』とあった。これで、私の不審は完全に氷解した。

 

「小説サアニンの生活」一九〇七年に刊行されたロシアの作家ミハイル・ペトローヴィチ・アルツィバーシェフ(Михаил Петрович Арцыбашев 一八七八年~一九二七年)の長編小説“Санин”「サーニン」(Sanin)。主人公の青年サーニンの性欲を賛美する、虚無的刹那的快楽に生きる姿を通して、一九〇五年のロシア革命で敗北したインテリ階級の挫折感を描いた近代主義小説の代表的作品とされる(以上は「大辞泉」の「サーニン」及びウィキミハイル・アルツィバーシェフに拠った)。]

黄色い帽子の蛇 大手拓次

 黄色い帽子の蛇

ながいあひだ、
草の葉のなかに笛をふいてゐたひとりの蛇、
草の葉の色に染(そ)められて化粧する蛇のくるしみ、
夜(よる)の花をにほはせる接吻のうねりのやうに、
火と焰との輪をとばし、
眞黄色な、靑(あを)ずんだ帽子のしたに、
なめらかな銀(ぎん)のおもちやのやうな蛇の顏(かほ)があらはれた。

鬼城句集 夏之部 虎が雨

虎が雨  かりそめに京にある日や虎が雨
[やぶちゃん注:「虎が雨」曾我兄弟の仇討がなされた陰暦五月二十八日に降る雨のことをいう。兄十郎祐成が斬り死にして、それを悲しんだ愛人の虎御前の涙雨とされた。「曽我の雨」「虎が涙」ともいう夏の季語。鬼城には
      寢白粉(ねおしろい)香にたちけり虎が雨
という句もあり、私はこの嗅覚的にすこぶる上手い「寢白粉」の方が好みである。]

2013/05/24

栂尾明恵上人伝記 27 二度目の天竺渡航断念

 元久二年春比(ごろ)、年來の本意たる問、天竺(てんぢく)へ渡るのこと思ひ立ち給ひけり。同心の同行五六人なり。志を一にして、既に其の營みに及ぶ。又大唐の長安城より中天竺王舍城(ちゆうてんぢくわうしやじやう)に至るまでの路次(ろじ)の里數に付きて、先達(せんだつ)の舊記を尋ね、これを檢(しら)べ注し給ふ。今に上人の御經袋(おきやぶくろ)の中にあり。然る間評定(ひやうぢやう)し營みて、殆んど衣裳の出でたちに及ぶ。然るに上人俄に重病を煩ひ給へり。其の病の躰(てい)普通にあらず。飮食なども例の如し、起居(ききよ)あへて煩ひなし。只此の渡天竺談合(とてんぢくだんがふ)の時のみ身心苦痛す。或時は左の片腹切り裂くが如く、痛く、或時は右の方苦痛す。心中に深く思ひ定むる時は、兩方の腹背に通りて刺疼(しとう)し悶絶す。是れ只事にあらず。先年渡天竺の事既に思ひ立ちし時、春日大明神種々の御託宣ありしに依つて思ひ留りき。思ひ留るといへども、其の志休(とゞ)め難くして、亦思ひ立つ處なり。さりながら、數日病惱して身心疲極(ひきよく)する間、遠行(ゑんかう)叶ひ難し。仇て試みに、本尊釋迦の御前と、春日大明神の御前と、善財(ぜんざい)童子等の知識の御前と、此の三所に御鬮(みくじ)を書して取るべし。一には西天に渡るべきや、一には渡るべからざるかと云々。然るに此の三所の御鬮の中、たとひ一處にても渡ると云ふ鬮あらば、其の志變ずべからずとて、心神深く潔齋して誠を致して、祈請して是を取る。善知識と大明神の御前の鬮をば他人に是を取らしめ、本尊の御前の鬮をば上人自ら是を取り給ふ。佛前の壇上に二の鬮をうつす。一の鬮忽にころびて壇の下に落つ。是を求むるに終に失せぬ。不思議の思ひに住して其の殘る鬮を開き見るに、渡るべからずと云ふ鬮なり。知識・明神の御前の鬮同じく渡るべからずと云ふ鬮なり。上人其の朝(あした)語つて云はく、今夜の夢に、空中に白鷺(しらさぎ)二つ飛ぶ。其の上に白服を着せる俗人一人立てり。春日大明神の御使と覺しくて、弓箭(ゆみや)を取りて一の鷺を射落すと見つると云々。今思ひ合はするに、此の鬮の一つ失せつるに符合して不思議に思ひき。
[やぶちゃん注:私は明恵を尊敬するが信徒ではないから平気で言えるのであるが、この時の明恵の病態は、所謂、重度の心身症のように思われるのである。明恵の無意識の中には、実は天竺への渡航を『実はしたくはないのだ』若しくは『実はすべきではないのだ』という希求が有意に大きく存在したのではなかったろうか? 但し、尋常でない明恵のストイックさを考える時、死の恐怖や災難による『実はしたくはないのだ』というレベルの低い卑怯な内心は全く考えられぬから、寧ろ、自ら衆生を還相廻向によって済度すべき存在であると認識していたと思われる明恵が、自分自身の正法の追究を主たる目的として天竺へ渡航するということに対し、実は根本的な部分で非常に強い疑義を抱いていた――西方巡礼の途次で命を落とすかも知れないという予覚に基づくところの、自己の本来の衆生済度という使命の放棄に繋がるかもしれない蛮挙としてそれが無意識下に於いて増殖していた――のではなかったか、それによって激しい身体変調と不定愁訴を訴える重い心身症を発症していたのではないか、と私は考えるのである。]

こんなことを考えて鬱々としている

どこかの国のジャーナリストが広島の被爆を「神の懲罰」であるとするのなら、そのコラムシストは、エニウェトク環礁の村人もチェルノブイリや福島の人々も皆その「懲罰」を受けて当然の人々であると言って憚らない人物であるということになる。彼が新聞人失格である以前に、それを載せて平然としていられる新聞社自体の愚劣さに反吐が出る。愚者の慰安婦へのおぞましい発言への返報として差別的に返すその言葉は結局、何らの正義をも平和をももたらしはしない。

先日、多くの悲惨な犠牲者を出した竜巻のエネルギを、その国は気象学者の算定に基づいてと称して、原爆の8倍から600倍と公的に報じている。僕はこれに激しい違和感を覚えた。しかし日本のメディアはどこもその違和感を指摘しないのは何故だ!? 今の日本人は、その報道を、何の抵抗もなく素直に納得してしまうようになってしまったのだろうか? 原爆を落とした国の悪逆なるこの正当化の一端をうさぎ小屋の飼いならされたうさぎはへらへらと認めるようになってしまったのか!? 日本で天変地異が起こり、その凄惨な被害をもたらしたエネルギを原爆何個分などと報じたら、その日本のメディアは失格である。私はその換算自体を非科学的だと言っているのではない。その換算自体が倫理的に「人間ならば」許されないということを、言っているのである。

福島第二原発の汚染と向後の状況は我々日本国民が『認識させられている』程度のものではない。もっともっと深刻である。私の知人には、まさに事故直前まであそこに関係していた人物がいるが、「汚染の深刻な事実は隠蔽されている」とはっきり言っている。

この数日、僕はそんなことを考えて、鬱々としていた。

ただ言えることは、こうした感じ方を僕が失っていないことは――僕にとっては――すこぶる附きで『幸せ』だということである。僕が僕であるために――である。

耳嚢 巻之七 稻荷宮奇異の事

 稻荷宮奇異の事

 

 久保田何某は、久しく小日向江戸川端に借地して住(すみ)けるが、拜領の屋敷と相對替(あひたいがへ)して、其儘右借地を居(ゐ)やしきとしてありしが、借地の比(ころ)より稻荷とてちゐさき洞(ほら)ありしが、地にては甚だおろそかにせしに、地主相對替なしけるが右洞も地主へ歸し、本所へ右地主引移りけるに、二三日過(すぎ)て取拂(とりはらひ)候元(もと)の場所え引渡しけるが、祠(ほこら)を唯持來るや、以前の通りありしゆへ、驚き陰陽家(おんみやうか)の者抔招(まねき)て、地祭(ぢまつり)して鎭守となしけるよし。右の陰陽師、此稻荷は餘り立派になしては不宜(よろしから)じ、麁末(そまつ)にても奇麗に祭り可然(しかるべき)者(もの)といゝし儘、有來(ありきたる)ちいさき祠のうへは、覆敷埋(おほひしつらひ)て鎭主なすよし語りぬ。引渡(ひきわたし)の節、地主僕抔元の所へ密(ひそか)に置ける由、又は稻荷には狐をつかはしめと被申せば、狐は靈獸ゆへ斯(かく)なしけると也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。この一条、表現が無駄に繰り返され、誤字としか思えぬものが散見されて、ひどく読みにくい。実は底本でも鈴木氏が例外的な注を附しておられる。以下に全文であるが本条読解には必須と思われるので引用させて頂く。

   《引用開始》

 この一条、悪文の見本のような感がある。写本も悪いせいであろうが分りにくい文章である。要するに久保田某が江戸川端の借地を地主と相談の上で、拝領屋敷と交換して居宅とした。そこにもとからあった稲荷の祠と洞穴は、もともと地主も大切にはしていなかったが、祠は旧地主の所有として取払い、地主の住居である本所へ移した。しかるにまた元の所にその祠が戻っていたので、久保田某は驚いて祭った。内実は地主の下男が横着をして、祠を片付ける振りをしてそのままにして置いたのを、稲荷が舞戻ったと早合点したのが真相らしいというのである。

   《引用終了》

但し、稲荷が岩の洞穴のようなものの中にあったのなら、最後のような屋根覆いの必然性が減じるように思われので、私は「洞」は岩波のカリフォルニア大学バークレー校版の『祠』の誤字と採った(以下の注を参照)。

・「小日向江戸川端」岩波版長谷川氏注には『小日向水道橋の南、江戸川沿いの地をいうか』と注されておられる。

・「拜領の屋敷」幕臣が江戸幕府から与えられた土地に建てられた屋敷は拝領屋敷と称し、大名が個人的に民間の所有する屋敷や土地を購入して建築したものは抱屋敷(かかえやしき)と呼んだ。

・「相對替」当事者双方の合意に基づいて田畑・屋敷等を交換すること。田畑の永代売買が禁止されていたために行われた事実上の土地所有権移動の一形態である。幕臣も幕府の許可を得て、拝領屋敷の相対替をすることが出来た。当初は新規に拝領した屋敷の場合は、相対替えには三年経過することが条件であり、また一度相対替した屋敷は替えて十年が経過している必要があったが、文化元(一八〇四)年には前者は年限の規制が廃止され、後者は五年に短縮された。さらに文久元(一八六一)年には五ヶ月経過後ならば再度の相対替が許可されるようになった、と参照した小学館「日本大百科全書」にはある。「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏であるから、この規制緩和によって、久保田何某は恐らく新規拝領の屋敷を相対替えしたものと判断される。なお、この言葉が用いらているからには相手も幕臣であるのは言うまでもなく、この久保田の住まう借家もその幕臣が貸していた自身の拝領屋敷でなくてはならない。

・「小さき洞」「右洞」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版はいずれも『小さき祠』『右祠』。岩を穿った祠ともとれなくなくはないが、ここではその移転が問題になっているので、ここは孰れもバークレー校版で採る。

・「地にては」底本では右に『(主脱カ)』と傍注し、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では正しく『地主にては』とあるので、「地主」で訳す。

・「唯持來るや」一読、前後の意味がよく分からない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『唯』は『誰』とあるので合点出来る。バークレー校版で採る。

・「陰陽家」ここでは単なる市井の祈祷師であろう。

・「有來(ありきたる)ちいさき祠のうへは、覆敷埋(おほひしつらひ)て鎭主なすよし語りぬ」この部分、やはりどう読むか非常に困った。「有來」はありふれているの意の「ありきたり(在り来り)」の当て字と読めるが、「覆敷埋」はお手上げであった。当初は「覆敷埋(おほひしきうめ)て」と読んではみたものの、読んだ自分も何だか意味が分からない。結局、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版を見ると、ここは、

 手軽く有来(ありきたる)小さき祠の上へ、

 上(う)は覆補理(おおいしつらい)して

 鎮主となすよしかたりぬ

とあって、さらに長谷川氏の注で「上は覆補理して」は『上部におおいを設けて』とあり、目から鱗。最早、このバークレー校版で採る以外に本条を読み解くことは出来ないほどである。

・「又は稻荷には狐をつかはしめと被申せば」底本には右にママ注記を附す。訓読不能である。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版を見ると、『又は稲荷には狐を使はしめとか申せば』とある。バークレー校版がよい。なお、我々は稲荷を狐を祀るものと思い込んでいるが、本来は京都一帯の豪族秦氏の氏神であり、山城国稲荷山(伊奈利山)、すなわち現在の伏見稲荷大社に鎮座する神を主神とする食物神・農業神・殖産興業神・商業神・屋敷神である。その後の神仏習合思想においては仏教の荼枳尼天と同一視され、豊川稲荷を代表とする仏教寺院でも祀られるに至った。現行の神仏分離の中にあっては神道系の稲荷神社にあっては「古事記」「日本書紀」などの宇迦之御魂神(うかのみたま)・豊宇気毘売命(とようけびめ)・保食神(うけもち)・大宣都比売神(おおげつひめ)・若宇迦売神(わかうかめ)・御饌津神(みけつ)といった穀物・食物の神を主祭神としている。狐との関連は以下、参照したウィキ稲荷神」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『狐は古来より日本人にとって神聖視されてきており、早くも和銅四年(七一一年)には最初の稲荷神が文献に登場する。宇迦之御魂神の別名に御饌津神(みけつのかみ)があるが、狐の古名は「けつ」で、そこから「みけつのかみ」に「三狐神」と当て字したのが発端と考えられ、やがて狐は稲荷神の使い、あるいは眷属に収まった。時代が下ると、稲荷狐には朝廷に出入りすることができる「命婦」の格が授けられたことから、これが命婦神(みょうぶがみ)と呼ばれて上下社に祀られるようにもな』り、『江戸時代に入って稲荷が商売の神と公認され、大衆の人気を集めるようになると、稲荷狐は稲荷神という誤解が一般に広がった。またこの頃から稲荷神社の数が急激に増え、流行神(はやりがみ)と呼ばれる時もあった。また仏教の荼枳尼天は、日本では狐に乗ると考えられ、稲荷神と習合されるようになった。今日稲荷神社に祀られている狐の多くは白狐(びゃっこ)である』。『稲荷神社の前には狛犬の代わりに宝玉をくわえた狐の像が置かれることが多い。他の祭神とは違い稲荷神には神酒・赤飯の他に稲荷寿司や稲荷寿司に使用される油揚げが供えられ、ここから油揚げを使った料理を「稲荷」とも呼ぶようになった。ただし狐は肉食であり、実際には油揚げが好物なわけではない』とある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 稲荷の宮の奇異の事

 

 久保田何某(なにがし)殿は、永く小日向江戸川端に借地をして住んで御座ったが、この度、お上より拝領した屋敷と相対替(あいたいが)えを致し、そのまま、現在の借地を御自身の正式な拝領屋敷として続けて住むことと致いたと申す。

 さて、その小日向江戸川端の屋敷内には、借地であった頃よりずっと、稲荷と称した小さな祠(ほこら)が、これ、御座った。

 この祠――しかし元の地主方にては、はなはだ疎かに扱って御座ったやに見えた――と久保田殿の談。

 久保田殿、この度の地主との相対替えを期に、この祠も地主方へと返し、本所にあるその地主の屋敷へと引き移させて御座ったと申す。

 ところが、二、三日過ぎて見てみると、取り払って先方へ送ったはずのその祠が、またしても元の場所へ――引き渡したにも拘わらず、その祠を誰かが再び持ち来たったものか――以前の通りにあった。

 久保田殿、流石に大いに驚き、祈祷を生業(なりわい)と致す者なんどを招いて、地鎮祭など執り行い、鎮守として祀ることとなさった由。

 その際、祈祷師が言うことに、

「この稲荷はあまり立派に祀りなしてはよろしゅう御座らぬ。まあ、質素なものでよろしゅう御座るによって、まずは綺麗に祀っておけば、よろしいという代物にて御座る。」

との見立てを成したればこそ、言うがままに、そのありがちな小さな祠の、その上に、雨風を除け得る程度の小ざっぱりとした覆いなんどを設(しつら)えて、屋敷の鎮守と成した――とは、久保田殿の直談で御座った。

 

 さてもこれ、按ずるに、祠の引き渡しの際、取りに参った地主方の下僕なんどが、一度は運び出す振りを致いたものの、面倒になってすぐに元あった場所へこっそりと戻し置いた、と申すが事の真相ででもあろうかと思わるるが、噂では、稲荷神に於いては狐を使者として使役致すと申すによって、狐は霊獣なればこそ、あるべき元の場所へと彼らが戻したのじゃ、と、まことしやかに申すものもおるやに聴いておる。

處女の言葉 萩原朔太郎

 處女の言葉

 處女の言葉といふ課題であるが、處女といふ意味を、此處では一般に「若い娘」として解釋したい。今日の世の中では、若い娘だけが獨り朗らかで快活である。なぜなら今のやうな社會、すべての人が希望を失ひ、就職に窮し、靑年や學生でさへも、老人のやうに意氣消耗してゐる社會に於て、獨り若い女たちは、至る所に就職の道があり、手痛い生活難もなく、前途に花やかな夢を抱いて居られるからである。したがつて今の世の中では、若い娘たちの言葉だけが、いちばんエネルギッシュに生々とし、魚のやうに潑剌として泳いで居る。實際今日に於て、眞に「生きてる言葉」を持つてるものは、街路の若き女性群のみ、他はすべて死語にすぎないといふ觀がある。

 今の日本の若い女、特に女學生の言葉については、前にも他の新聞雜誌に書いた通り、アクセントが強く、齒切れの好いことが特色である。齒切れの好いことは、智的で意志の強い性格を反映し、アクセントの強いことは、感情の表出が露骨になつたこと、即ち主觀の主張が強く、エゴイスチックになつたことを實證する。試みに彼等の間の流行語、
「ちやッかりしてンの。」
「モチよ。」
「斷然行くわ。」
等々を聽いて見給へ。いかに言葉の齒切れが好く、アクセントが強いかが解るだらう。日本の若い娘たちが、かうした言葉を使ふといふのは、つまり彼等の感情や思想やが、エゴの主張の強い、個人主義の西洋風になつたからである。日本の傳統的な言葉といふものは、すべて「私」の主觀的エゴを省略する。例へば I love you.(私は君が好きだ)といふ時、日本語では單に「君が好きだ」と言ふ。つまり東洋の文化は、西洋のヒューマニズムと反對に、主觀人のエゴを殺して、自然と同化することを理念するからである。所でまた、人間の言葉といふものは、主觀の感情が強くなるほど、言葉に自然の抑揚がつき、アクセントが強くなつて來る。そこで外國語にはアクセントが強く、日本語にはそれが極めて弱いのである。
 今の若い娘たちは、かうした日本語の傳統を破壞し、より西洋語の本質に近い言葉の方へ、日本語を新しく革命しようとして居るのである。その意味に於て、彼等はまことに意識せざる時代の詩人(言葉の革命者)である。そればかりではない。彼等は日本語の本質してゐる、文法そのものさへ變へようとしてゐをのである。
 エゴの主張の強い西洋人は、すべて主觀の意欲する感情を先に言ひ、次に目的の事物を言ふ。例へば I want some cakes.(欲しい。菓子が)と言ふ。日本語はこれの反對であり、先づ名詞を先に言ひ、最後に「欲しい」といふ主觀を言ふ。したがつて日本語は、感情の發想が力弱く、主觀の欲望やパッションを、充分に強く表出できないのである。僕等のやうな文學者も、今日の半ば歐風化した日本に生れ、さうした文化的環境に育つた爲に、この點で常に言葉の不自由に苦しんでゐる。今の日本で、僕等の詩文學が畸形的にしか成育し得ないのは、僕等の詩想の内容と、現存する日本語との間に、かうしたギャップの矛盾性があるためである。然るに町の若い娘や女學生やは、彼等一流の無邪氣さと大膽とで、僕等の敢て爲し得ない困難事を、何の苦もなく解決して居るのである。即ち例へば、
「好かんわ。そんな。」
「厭だわ。私。」
「行くわよ。どこでも。あんたと。」
「嫌ひ。そんなの。」
「欲しいわ。私。蜜豆。」
「ねえ。よくつて。」
といふ工合に言ふ。此等の言葉の構成法は、すつかり英語や獨逸語と同じである。即ち主觀の感情を最初に言ひ、次に事物や用件の説明をする。「私はお菓子が欲しい」でなく、「欲しいわ。私。お菓子。」である。
 これは驚くべきことである。今の若い娘たちによつて、これほどまで日本語が革命されてるといふことは、現代に於ける何よりも大きな驚異である。何となれば言葉の變化は、それ自ら文化情操の變化であり、社會の根本的改革に外ならないから。日本は何處へ行くか? この問題を思惟する人は、先づ町に出て若い女たちの會話をきけ!

[やぶちゃん注:「婦人畫報」第三九四号。昭和一一(一九三六)年十一月号に掲載され、後、昭和一二(一九三七)年三月第一書房刊のエッセイ集「詩人の宿命」に掲載された。底本は筑摩書房版全集第十巻に拠り、末尾近くの「社會の根本的改革に外ならないから。」については、底本「社會の根本的改革に外ならないから、」であるのを、校訂本文の句点にしたものを採用した以外は、「詩人の宿命」と同じである。この文章をどう読むか? それは貴女や貴方やにお任せしよう。]

鬼城句集 夏之部 雷

雷    北山に雷を封せよ御坊達
     雷の落ちてけぶりぬ草の中
     北山の遠雷や湯あみ時
[やぶちゃん注:「遠雷」は「とほかみなり」と訓じているか考えられない。]
     雷落ちて火になる途上かな
     吹落す樫の古葉の雷雨かな

魚の祭禮 大手拓次

 魚の祭禮

人間のたましひと蟲のたましひとがしづかに抱(だ)きあふ五月のゆふがた、
そこに愛につかれた老婆の眼が永遠にむかつてさびしい光をなげかけ、
また、やはらかなうぶ毛のなかににほふ處女(をとめ)の肌が香爐のやうにたえまなく幻想を生んでゐる。
わたしはいま、窓の椅子によりかかつて眠らうとしてゐる。
そのところへ澤山の魚はおよいできた、
けむりのやうに また あをい花環(はなわ)のやうに。
魚のむれはそよそよとうごいて、
窓よりはひるゆふぐれの光をなめてゐる。
わたしの眼はふたつの雪洞(ぼんぼり)のやうにこの海のなかにおよぎまはり、
ときどき その溜塗(ためぬり)のきやしやな椅子のうへにもどつてくる。
魚のむれのうごき方(かた)は、だんだんに賑(にぎや)かさを増してきて、
まつしろな音樂ばかりになつた。
これは凡(すべ)てのいきものの持つてゐる心靈のながれである。
魚のむれは三角の帆となり、
魚のむれはまつさをな森林となり、
魚のむれはまるのこぎりとなり、
魚のむれは亡靈の形(かたち)なき手となり、
わたしの椅子のまはりに いつまでもおよいでゐる。

[やぶちゃん注:「溜塗」漆塗りの一種で、朱またはベンガラで漆塗りをして乾燥させた後、透漆(すきうるし)でさらに上塗りしたものをいう。半透明の美しさがある。「花塗(はなぬり)」ともいう。]

2013/05/23

中島敦漢詩全集 十

  十

 

 早春下利根川 二首

 

水上黄昏欲雨天

春寒抱病下長川

菰荻未萌鳧鴨罕

不似江南舊畫船

 

 

淼洋濁水廻長坡

薄暮扁舟客思多

春寒料峭催冰雨

荻枯洲渚少游鵝

 

○やぶちゃんの訓読

 

早春利根川を下る 二首

 

水上 黄昏(くわうこん)して 雨(あめ)ふらんと欲するの天

春寒 病ひを抱きて 長川(ちやうせん)を下る

菰荻(こてき) 未だ萌えず 鳧鴨(ふあふ) 罕(すく)なし

似ず 江南 舊畫船(きうぐわせん)

 

 

淼洋(びやうやう)たる濁水 長坡(ちやうは)を廻(めぐ)り

薄暮の扁舟 客 思ひ多し

春寒の料峭(れうせう) 冰雨(ひようう)を催す

荻(おぎ)枯れて 洲渚(しうしよ) 游鵝(いうが)少なし

 

〇T.S.君原案(一部は藪野補筆)の中国語を踏まえた語釈

・「長川」長い川。中国古典でも複数の用例がある。

・「菰荻」「菰」はマコモ。沼地などに群生するイネ科の多年草、高さ約二メートル。「荻」はオギ。湿地に群落を作るイネ科ススキ属の多年草。一見ススキに似ている。

・「鳧鴨」狭義にはそれぞれ「鳧」は野生のカモ、「鴨」はカモを家畜化したアヒルを指すが、転じてカモ(アヒル)、水鳥の総称として用いられる。

・「」まれであること。少ないこと。

・「畫船」画舫(がぼう)。華麗な装飾を持つ遊覧のための船。水路の多い中国江南地方において一般的であった。江南の水上を渡ってゆく古式の美しい画舫という意味であろう。

・「」水が果てしなく広がっているさま。

・「長坡」地名ではあるまい。文字の意味は長い傾斜地で、ここでは長々と横たわった河岸の傾斜地としてよい。

・「扁舟」小船。

・「料峭」「料」は「なでる」、「峭」は「厳しい・きつい」の意で、春風が皮膚に寒く感じられるさま。

・「冰雨」現代中国語では、降った雨が冷たい地面に冷やされて凍るという、春浅い頃に見られる自然現象を指す。但し、ここでは日本語でいうところの、「霙(みぞれ)になりそうな冷たい雨」と採って良かろう。

・「洲渚」水の中の小さな陸地。中州。

・「」鵞鳥。ガチョウ。

 

T.S.君による現代日本語訳

 

■自由詩訳

 

小舟が進む…

 

垂れ籠めた雲

枯果てた菰荻(こてき)

夕暮れの川面(かわも)

映るは病(やまい)の影

心をよぎる

夢の残照――

 

小舟が進む…

 

鉛のような水

鳥の影なき汀(みぎわ)

墨いろの土手

氷雨を孕む空

涯なく続く

春寒の夕(ゆうべ)――

 

■散文詩訳

 

 もうすぐ夜が来る。今にも雨が降り出しそうな黝(くろ)い空が、暮れ方の生気のない川面に映っている。コートの内に忍び寄る寒気に身を縮めながら、私はさっきから、病に蒼ざめた顔を単調に続く河辺の方に向けている。岸一面に群生する菰荻(こてき)には芽吹きの兆しさえ見えず、水鳥の姿もほとんどない。私はひとり心の中で呟く。かつて夢見た江南の画舫(がぼう)の舟遊びとは、似ても似つかぬ船旅だ……。

 

 果てしなく広がるこの濁った川は、延々と続く岸辺の堤(つつみ)を浸しつつ、ゆっくりと流れている。このたそがれ、小舟で下って行く私の胸に、様々な思いが去来する。遠くに去ってしまった人々、数々の思い出、そして不安や幽かな希望。春とは名ばかりのこの寒気に、霙(みぞれ)さえ落ちて来そうだ。河辺の荻(おぎ)の群れも見渡す限り枯れ果て、向うの中洲にも鵞鳥の姿はほとんど見えない……。

 

〇T.S.君とやぶちゃんの協働取組みによる評釈

 この詩の現代語訳には大変苦しんだ。心の中で反芻し続けること約一週間、それでもぼんやりとしか形が見えないほどであった。それは、前半と後半の七絶で描写される世界の近似に戸惑ったからだ。似たような二枚の画像。それらが微妙にずれて重なった二重映しのスクリーンの処理に躓いたからだ。

 両者はどのような関係なのだろうか。

 すぐに気づくことがある。それは、ともに同じようなことを詠っているということだ。試みに、両方に出てくるモチーフを列挙してみよう。

――川の水が遥かに広がっている様子

――今にも雨が降りそうな薄暮の空

――春だというのに寒いということ

――水鳥の姿がほとんど見えないこと

――菰(こも)や荻(おぎ)などの群落が枯れ果てた姿で広がっていること……

……もう気づかれたであろう。これらはすなわち、この詩世界を構築するための主要部材なのである。

 つまりこれらの詩は、『お互い非常に近い詩世界を構築しつつ、並び立っている』のだ。

 では、ひとつの詩世界を詠んだ、ふたつの作品なのだろうか?

 いや、そうとは言えまい。

 前半だけに出てくる大切なモチーフ(詩世界の味付けのために不可欠なモチーフ)が、まるで隠し味のように、両方の詩の味わいをひき立てているからだ。

 そのモチーフとは何か?

 それは、ふたつ、ある。

――詩人が病を抱えているということ

そして、

――心の中の華やかな江南の画のイメージ

である。

 試みに、後半の詩だけを、それだけでひとつの作品とみなして再読してみていただきたい。病いのイメージと、華やかな画舫のイメージが存在しないことによって、前半の詩より明らかに色彩が単純であることが分かる。

 後半には、様々な思いが去来するという独自のモチーフはあるものの、それだけでは前半の詩に匹敵する奥行きを出せない。つまり、後半の詩には前半の詩が不可欠なのだ。

 したがって、これはほぼ同じ世界を詠う二篇の七絶によって構成された、ひとつの作品だと結論づけることができる。

 念のために申し上げたいのだが、近似した詩境を二度繰り返して表現することは、別に問題ではない。その逆である。調子をほんの少し変化させて二度歌うことに意味があるのだ。

 私はグレン・グールドによるバッハのピアノ演奏を思い出す。彼は、ひとつのモチーフの反復に差し掛かると、二回目は必ず速度やリズムや陰翳の在り処を変化させ、まさに『そこでそう歌わなければならないもの』として音楽を創った……。そういえば彼自身も口にしていたではないか。「全く同じものなら繰り返す意味などないのだ」、と。

 

 現代語訳に苦労した理由はもうひとつあった。それは、この詩のどこかに力点を置いたり、焦点を当てたりすることができないという点にあった。

 薄暮の空――濁った水――枯れた菰荻――見渡す限りの単調な眺め――思念――寒さ――船――病い……。

 どこにも特別なスポットライトを当ててはならない。

 全て同等な重みを持つモチーフだからだ。

 同じ大きさの積み木で隙間なく組み上げられた塔のような詩……。

 どれかひとつでも欠けると、構築物としての耐久性が著しく減じて崩れ去ってしまうような尖塔……。

 しかも、それぞれの部材は『ふたつずつある』のだ。どれかの部材に、構造上、他よりも大きな力が加わることのないよう、これらを『均等に配置』しなければならない……。

 

 以上の詩人の示したふたつの公案を解決するために、私は試行錯誤の末、自由詩と散文詩の二篇を編んでみた。そこで注意したことは次の通りであった。

 自由詩について意識したのはみっつ。外見上全く同様の二篇の詩形に組み上げるということ。

 そしてひとつのモチーフを二度描く際に同じ言葉は決して遣わないということ。

 さらには、前半は視線を空から水へと導き、後半は前半の鏡像のように視線を水から空へと導くことによって、各部材に均等な力がかかるようにするということ。

 一方、散文詩で配慮したのは、全てに均一な力が加わるようにしながら、感情が平坦に進行するように配慮し、淡々と速度を変えずに叙していくことであった。

 如何であろう……果たして詩人の懐いた世界に、少しは近づくことが、できたであろうか……。

 

 ともかくもそれが私なりに成就したという前提に基づいて、改めてこの詩世界を味わってみたい。

 描写されているのは――まことに物淋しい世界である。何かを見据え、それを取っ掛かりにして淋しさを詠うのではない。

 詩人の視線はどこにも固定されない。

 空、草、水……。

 枯れ果てた、冷たい、薄暗い世界を、どこにも留まることなく、どこにも照準を合わせることなく、彷徨い続けるのだ。

 しかも、詩人自身が居る場所ですら、水に浮かび、川下へと下っていく、覚束ない船の上なのである。

 どこにも係留されず、中身が完膚なきまでに欠落したような、心が無限の空洞になったような、淋しさ……。

 そして、寒さ、だ。

 それも厳しい冬の寒さではなく、春浅い曇天の寒さ。厳しい寒気ではないだけに、かえって身体や心にしみじみと感じられる寒さ……。

 まるで虚無の川に浮いたようなこんな淋しさを、一体、どのように説明したら良いのだろうか。

 それは対位法のように示されてあるのだ。

 江南の画舫は彼の暖かい夢の象徴だ。

 ああ……、人は誰しも必ず、そうした拠り所を心のどこかに持っているものだ。

 それは懐かしい人の面影であったり、憧れであったりする。

 病いを抱えた詩人の胸に、一瞬、昔、夢見た華やかな春がよぎる。

 その幻と、眼前の世界との――落差よ!

 

 誰も、幼い頃に、こんな経験をしたことはないだろうか。

 

――原っぱ

――灰色の沈鬱な雲が、そもそも雲であるとは判別できないくらい空一面に広がった、底冷えのする冬の夕暮れ

――仲間と一緒に、自分の背丈よりも高い雑草の迷路の中を探検していた、そのとき……

……ふっと一瞬

――皆の姿も声も足音も消え

――気づけば

――冷たい地面と――草と――憂鬱な空だけに囲まれ、唯ひとり

――音といえば、鳥が苛立たしく叫ぶ声だけが、遠くの方から冷気を貫いて響いてくるだけ

――その瞬間

――自分がいる場所も

――帰れば会えるはずの両親の存在も

――日常の全てが

――まるで嘘だったかのように頼りない空虚なものに暗転する

――そしてなんとも言えない淋しい塊りが

――みぞおちのあたりからこみ上げて来る

――しみ込むような淋しさ、血の気が引いたような淋しさ……

……そこから逃れるには、ただ身じろぎもせず、じっと耐えて待つしか、ない……

 

 私はこの詩に、そんな静かな深い淋しさを感じるのである。

 

 最後に申し上げたい。

 この詩を反芻する私には、

平均律クラヴィア曲集第一巻ヘ短調プレリュード

が聴こえる――。

 冒頭の右手の四つの音。三度…、三度…、四度…と気体か何かのように上昇する不思議な音型。

 ゆっくりと、しかも重力を感じさせずに高音へ向かうその虚ろな音の段差に、どこにも寄る辺のない、虚空を彷徨う魂の淋しさを感じる。

 曲は、静かに、沈潜したまま、終始歩みを変えずに、とぼとぼと、進んでいく。その旋律に、川面を音もなく沈鬱に進む小船の姿が見える。

 さらには――

 詩人の孤独な魂の佇まいまでもが、浮かんで来る……。

 人というものは、全て例外なく、こんな淋しさを抱えて生きていくしかない。

 おそらくは皆、気づきたくないだけなのだ。

 そうだ……

 きっと、そうに違いない……

 

[やぶちゃん補注:私とT.S.君とがこよなく愛するグレン・グールドによるバッハ「平均律クラヴィア曲集第一巻第十二曲(BWV857)前奏曲4声のフーガヘ短調プレリュード演奏は、とりあえず今ならば、ここで聴くことが出来る。当該ページ内の「ericinema」氏のコメントにリンクされた“Fm 12P 46:34”をクリックされたい。そこまで飛んで演奏して呉れるはずである。]

 

北條九代記 實朝公右大臣に任ず 付 拜賀 竝 禪師公曉實朝を討つ (完全版 / 【第四巻~了】)

      ○實朝公右大臣に任ず 付 拜賀 竝 禪師公曉實朝を討つ

 

同十二月二日、將軍實朝公既に正二位右大臣に任ぜらる。明年正月には、鶴ヶ岡の八幡宮にして、御拜賀あるべしとて、大夫判官行村、奉行を承り、供奉の行列隨兵(ずゐびやう)以下の人數を定めらる、御装束(ごしやうぞく)御車以下の調度は、仙洞より下されける。右大將頼朝卿の御時に隨兵を定められしには、譜代の勇士(ようし)、弓馬の達者、容儀美麗の三德の人を撰びて、拜賀の供奉を勤させらる。然るにこの度の拜賀は、關東未だ例なき睛(はれ)の儀なりとて、豫てその人を擇(えら)び定めらる。建保七年正月二十七日は、今日良辰(りやうしん)なりとて、將軍家右大臣御拜賀酉刻(とりのこく)と觸れられけり。路次(ろじ)行列の裝(よそほひ)、嚴重なり。先づ居飼(ゐかい)四人、舍人(とねり)四人、一員(ゐん)二行に列(つらな)り、將曹菅野景盛(しやうざうすがのかげもり)、府生狛盛光(ふしやうこまのもりみつ)、中原成能(なかはらのなりより)、束帶して續きたり。次に殿上人(でんじやうびと)北條〔の〕侍従(じじう)能氏、伊豫(いよの)少將實雅、中宮權亮(ごんのすけ)信義以下五人、随身(ずゐしん)各四人を倶す。藤勾當(とうのこいたう)賴隆以下前驅(ぜんく)十八人二行に歩む。次に官人秦兼峰(はたのかねみね)、番長下毛野敦秀(ばんちやうしもつけのあつひで)、次に將軍家檳榔毛(びりやうげ)の御車、車副(くるまそひ)四人、扈從(こしよう)は坊門(ぼうもんの)大納言、次に隨兵十人、皆、甲胄を帶(たい)す。雜色(ざつしき)二十人、檢非違使(けんびゐし)一人、調度懸(てうどかけ)、小舎人童(こどねりのわらは)、看督長(かどのをさ)二人、火長(かちやう)二人、放免(はうべん)五人、次に調度懸佐々木〔の〕五郎左衞門尉義淸、下﨟の隨身(ずいじん)六人、次に新大納言忠淸、宰相中將國道以下、公卿五人、各々(おのおの)前驅隨身あり。次に受領の大名三十人、路次の隨兵一千騎、花を飾り、色を交へ、辻堅(つじがため)嚴しく、御所より鶴ヶ岡まで、ねり出て赴き給ふ裝(よそほひ)、心も言葉も及ばれず。前代にも例(ためし)なく後代も亦有べからずと、貴賤上下の見物は飽(いや)が上に集りて錐(きり)を立る地もなし。路次の両方込合うて推合(おしあ)ひける所には、若(もし)狼藉もや出來すべきと駈靜(かりしづ)むるに隙(ひま)ぞなき。既に宮寺(きうじ)の樓門に入り給ふ時に當りて、右京〔の〕大夫義時、俄に心神違例(ゐれい)して、御劍をば仲章朝臣(なかあきらのあそん)に讓りて退出せらる。右大臣實朝公、小野(をのゝ)御亭より、宮前(きうぜん)に參向(さんかう)し給ふ。夜陰に及びて、神拜の事終り、伶人(れいじん)、樂(がく)を奏し、祝部(はふり)、鈴を振(ふり)て神慮をいさめ奉る。當宮(たうぐう)の別當阿闍梨公曉、竊(ひそか)に石階(いしばし)の邊(へん)に伺來(うかゞひきた)り、劍(けん)を取りて、右大臣實朝公の首、打落(うちおと)し、提(ひつさ)げて逐電(ちくてん)す。武田〔の〕五郎信光を先として、聲々に喚(よばは)り、隨兵等(ら)走散(はしりち)りて求むれども誰人(たれびと)の所爲(しよゐ)と知難(しりがた)し。別當坊公曉の所爲ぞと云出しければ、雪下の本坊に押(おし)寄せけれども、公曉はおはしまさず。さしも巍々(ぎゞ)たる行列の作法(さはふ)も亂れて、公卿、殿上人は歩跣(かちはだし)になり、冠(かうふり)ぬけて落失(おちう)せ、一千餘騎の随兵等、馬を馳(はせ)て込來(こみきた)り、見物の上下は蹈殺(ふみころ)され、打倒(うちたふ)れ、鎌倉中はいとゞ暗(くらやみ)になり、これはそも如何なる事ぞとて、人々魂(たましひ)を失ひ、呆れたる計(ばかり)なり。禪師公曉は、御後見(ごこうけん)備中阿闍梨の雪下の坊に入りて、乳母子(めのとご)の彌源太(みげんだ)兵衞尉を使として、三浦左衞門尉義村に仰せ遣されけるやう、「今は將軍の官職、既に闕(けつ)す。我は關東武門の長胤(ちやういん)たり。早く計議(けいぎ)を廻らすべし。示合(しめしあは)せらるべきなり」とあり。義村が息駒若丸、かの門弟たる好(よしみ)を賴みて、かく仰せ遣(つかは)さる。義村、聞きて、「先(まづ)此方(こなた)へ來り給へ。御迎(おんむかひ)の兵士(ひやうし)を參(まゐら)すべし」とて、使者を歸し、右京〔の〕大夫義時に告げたり。公曉は直人(たゞびと)にあらず、武勇兵略(ぶようひやうりやく)勝れたれば、輒(たやす)く謀難(はかりがた)かるべしとて、勇悍(ようかん)の武士を擇び、長尾〔の〕新六定景を大將として、討手をぞ向けられける。定景は黑皮威(くろかはおどし)の胄(よろひ)を著(ちやく)し、大力(だいりき)の剛者(がうのもの)、雜賀(さいがの)次郎以下郎従五人を相倶して、公曉のおはする備中阿闍梨の坊に赴く。公曉は鶴ヶ岡の後(うしろ)の峰に登りて義村が家に至らんとし給ふ途中にして、長尾定景、行合ひて、太刀おつ取りて御首を打落しけり。素絹(そけん)の下に腹卷をぞ召されける。長尾御首を持ちて馳歸り、義村、義時是を實檢す。前〔の〕大膳〔の〕大夫中原(なかはらの)廣元入道覺阿、申されけるは、「今日の勝事(しようじ)は豫て示す所の候。將軍家御出立の期(ご)に臨みて申しけるやうは、覺阿成人して以來(このかた)、遂に涙の面に浮ぶ事を知らず。然るに、今御前に參りて、頻に涙の出るは是(これ)直事(たゞごと)とも思はれず。定(さだめ)て子細あるべく候か。東大寺供養の日、右大將家の御出の例(れい)に任せて、御束帶(ごそくたい)の下に腹卷(はらまき)を著せしめ給へと申す。仲章朝臣、申されしは、大臣、大將に昇る人、未だ其例式(れいしき)あるべからずと。是(これ)に依(よる)て止(とゞ)めらる。又、御出の時、宮田兵衞〔の〕尉公氏(きんうぢ)、御鬢(ぎよびん)に候(こう)ず。實朝公、自(みづから)鬢(びんのかみ)一筋(すぢ)を拔きて御記念(かたみ)と稱して賜り、次に庭上の梅を御覽じて、

  出でていなば主なき宿と成りぬとも軒端の梅よ春を忘るな

其外商門を出で給ふ時、靈鳩(れいきう)、頻(しきり)に鳴騷(なきさわ)ぎ、車よりして下(お)り給ふ時、御劍(ぎよけん)を突折(つきをり)候事、禁忌、殆ど是(これ)多し。後悔せしむる所なり」とぞ語られける。御臺所、御飾(かざり)を下(おろ)し給ふ。御家人一百餘輩、同時に出家致しけり。翌日、御葬禮を營むといへ共、御首(おんくび)は失せ給ふ、五體不具にしては憚りありとて、昨日(きのふ)、公氏に賜る所の鬢(びんのかみ)を御首に准(じゆん)じて棺に納め奉り、勝長壽院の傍(かたはら)に葬りけるぞ哀(あはれ)なる。初(はじめ)、建仁三年より、實朝、既に將軍に任じ、今年に及びて治世(ぢせい)十七年、御歳(おんとし)二十八歳、白刃(はくじん)に中(あたつ)て黄泉(くわうせん)に埋(うづも)れ、人間を辭して幽途(いうと)に隱れ、紅榮(こうえい)、既に枯落(こらく)し給ふ。賴朝、賴家、實朝を源家三代將軍と稱す、其(その)間、合せて四十年、公曉は賴家の子、四歳にて父に後(おく)れ、今年十九歳、一朝に亡び給ひけり。

 

[やぶちゃん注:遂に実朝が暗殺され、源家の正統が遂に滅ぶ。そうしてこれを以って「卷第四」は終わっている。「吾妻鏡」巻二十三の建保六(一二一八)年十二月二十日・二十一日・二十六日、同七年一月二十七日・二十八日の条に基づく。本章は私にとって因縁のあるシークエンスである。されば、最後に現代語訳を附すこととする。

「同十二月二日、將軍實朝公既に正二位右大臣に任ぜらる」という記事は「吾妻鏡」では二十日の政所始の儀式の冒頭にある。

「大夫判官行村」二階堂行村。

「仙洞」後鳥羽上皇。

「右大將頼朝卿の御時」建久元(一一九〇)年十月三日、上洛中の頼朝は右近衛大将を拝賀し、仙洞御所に参向して後白河法皇に拝謁したが、ここはその際の随兵を指す。「吾妻鏡」建久元(一一九〇)年十二月一日の条によれば、例えば前駈の中には異母弟源範頼がおり、頼朝の牛車のSPの一人は八田知家、布衣の侍の中には三浦義澄や工藤祐経らが、扈従に附くのは一条能保と藤原公経、最後の乗馬の儀杖兵七人に至っては北条義時・小山朝政・和田義盛・梶原景時・土肥実平・比企能員・畠山重忠という、鎌倉幕府創生の錚々たるオール・スター・キャストで固められていた。因みにこの時、頼朝は右大将と権大納言に任ぜられたが、二日後の十二月三日に両官を辞している。これは望んだ征夷大将軍でなかったことから両官への執着(幕府自体にとっては実質上何の得にもならない地位であった)が頼朝に全くなかったこと、また両官が朝廷に於ける実際的公事の実務運営上の重要なポストであるために形式上は公事への参加義務が生ずることを回避したためと考えられている。

「譜代の勇士、弓馬の達者、容儀美麗の三德の人」通常、「三德」の基本は「中庸」で説かれている智・仁・勇であるが、ここは武家に於ける、代々嫡流の君子に仕える家柄の勇者であること、弓馬術の達人であること、容姿端麗であることの三つを指す。中でも「吾妻鏡」建保六(一二一八)年十二月二十六日の条には、わざわざ、

○原文

亦雖譜代。於疎其藝者。無警衞之恃。能可有用意云々。

○やぶちゃんの書き下し文

亦、譜代と雖も、其の藝に疎きに於いては、警衞の恃(たの)み無し。能く用意有るべしと云々。

あって、本来の坂東武士にとっての「三德」の内、弓馬の名人であることは必要十分条件であったことが分かる。しかも注意せねばならぬのは、ここで作者は『然るに』という逆接の接続詞を用いている点にある。実は、「吾妻鏡」のこの前の部分には、

○原文

兼治定人數之中。小山左衞門尉朝政。結城左衞門尉朝光等。依有服暇。被召山城左衞門尉基行。荻野二郎景員等。爲彼兄弟之替也。

○やぶちゃんの書き下し文

兼ねて治定(ぢじやう)する人數(にんず)の中(うち)、小山左衞門尉朝政・結城左衞門尉朝光等、服暇(ふくか)有るに依つて、山城左衞門尉基行・荻野二郎景員等を召さる。彼(か)の兄弟の替と爲すなり。

という事態が記されているのである。「服暇」とは近親の死による服喪を指す。問題はこの代替要員として指名された二人なのである。増淵氏はここの現代語訳に際し、ここに『しかるに(今回は三徳兼備でない者も入ったが)「このたびの大臣の拝賀は……』とわざわざ附加されておられるのに私は共感するのである。筆者は恐らくまずは「吾妻鏡」のこの二十六日の条の後に続く二件の記載が気になったのである。その冒頭は『而』で始まるが(以下の引用参照)、これは順接にも逆接にも読めるものの、私は逆接以外にはありえないと思うのである。何故なら、この後に書かれるこの二人の代替対象者についての解説には、実は微妙に「三德」を満たさない内容が含まれているからなのである。一人目の荻野影員というのは、実は父が梶原景時の次男梶原景高なのである。

○原文

而景員者去正治二年正月。父梶原平次左衞門尉景高於駿河國高橋邊自殺之後。頗雖爲失時之士。相兼件等德之故。被召出之。非面目乎。

○やぶちゃんの書き下し文

而るに、景員は、去ぬる正治二年正月、父梶原平次左衞門尉景高、駿河國高橋邊に於いて自殺するの後、頗る時を失ふの士たりと雖も、件等(くだんら)の德を相ひ兼ぬるの故、之を召し出ださる。面目に非ずや。

ここで「件等の德を相ひ兼ぬる」とするが、そうだろうか? 弓馬と容姿は優れていたに違いない。梶原景時は確かにかつての「譜代の勇士」ではあった。しかし、その後にその狡猾さが祟って謀叛人として(というより彼を嫌った大多数の御家人の一種のプロパガンダによって)滅ぼされた。だからこそ景員はその梶原一族の血を引くという一点から全く日の目を見ることがなかった。とすれば彼には源家嫡流に対する遺恨さえもあって当然と言える。されば、この時点では彼は第一条件である嫡流君子の代々の忠臣という「譜代の勇士」足り得ない。

二人目は二階堂基行である。彼は、

○原文

次基行者。雖非武士。父行村已居廷尉職之上。容顏美麗兮達弓箭。又依爲當時近習。内々企所望云。乍列將軍家御家人。偏被定號於文士之間。並于武者之日。於時有可逢恥辱之事等。此御拜賀者。關東無雙晴儀。殆可謂千載一遇歟。今度被加隨兵者。子孫永相續武名之條。本懷至極也云々。仍恩許。不及異儀云々。

○やぶちゃんの書き下し文

次に基行は、武士に非ずと雖も、父行村、已に廷尉の職に居るの上、容顏美麗にして弓箭にも達す。又、當時の近習たるに依つて、内々に所望を企てて云はく、

「將軍家の御家人に列し乍ら、偏へに號(な)を文士に定めらるるの間、武者に並ぶの日、時に於いて恥辱に逢ふべきの事等(など)有り。此の御拜賀は、關東無雙の晴の儀、殆んど千載一遇と謂ひつべきか。今度(このたび)の隨兵に加へらるれば、子孫永く武名のを相續せんの條、本懷至極なり」

と云々。仍て恩許、異儀に及ばずと云々。

とあるのである。彼二階堂基行(建久九(一一九八)年~仁治元(一二四〇)年)は代々が幕府実務官僚で評定衆あった二階堂行村の子である。父行村は右筆の家柄であったが京都で検非違使となったことから山城判官と呼ばれ、鎌倉では侍所の検断奉行(検事兼裁判官)として活躍した人物であり、また祖父で二階堂氏の始祖行政は、藤原南家乙麿流で、父は藤原行遠、母は源頼朝の外祖父で熱田大宮司藤原季範の妹である(その関係から源頼朝に登用されたと考えられている)。無論、基行も評定衆となり、実質的にも実朝側近の地位にあったことがこの叙述からも分かる。当時満二十歳。武家の出自でないが故に、今まで色々な場面で何かと屈辱を味わってきたのを、この式典を千載一遇のチャンスとして武家連中の若侍等と対等に轡を並べて、必ずや、子孫に二階堂家を武門の家柄として継承させん、という強い野心を持って実朝に直願して、まんまと許諾を得たというのは、これ、「三德」の純粋にして直(なお)き「譜代の勇士」とは到底言えぬと私は思うのである。……そうして民俗学的には、土壇場の服喪の物忌みによる二名もの変更(兄弟であるから仕方がないとしても二名の欠員はすこぶるよろしくない。これはまさに以前の「吾妻四郎靑鷺を射て勘氣を許さる」でも実朝自身が口をすっぱくして言った問題ではないか)や、「三德」の中に遺恨や実利的な野望を孕ませた「ケガレ」た者が参入する、これ自体がハレの場を穢して、実朝を死へと誘う邪悪な気を呼び込むことになったのだとも、私は読むのである。

実際、彼ら二人は目出度く、右大臣拝賀の式当日の実朝の牛車の直後の後方の随兵に以下のように名を連ねている(「吾妻鏡」建保七年一月二十七日の条より)。

○原文

  次隨兵〔二行。〕

 小笠原次郎長淸〔甲小櫻威〕   武田五郎信光〔甲黑糸威〕

 伊豆左衞門尉賴定〔甲萌黄威〕  隱岐左衞門尉基行〔甲紅〕

 大須賀太郎道信〔甲藤威〕    式部大夫泰時〔甲小櫻〕

 秋田城介景盛〔甲黒糸威〕    三浦小太郎時村〔甲萌黄〕

 河越次郎重時〔甲紅〕      荻野次郎景員〔甲藤威〕

   各冑持一人。張替持一人。傍路前行。但景盛不令持張替。

○やぶちゃんの書き下し文

 次に隨兵〔二行。〕。

 小笠原次郎長淸〔甲(よろひ)、小櫻威(おどし)。〕   武田五郎信光〔甲、黑糸威。〕

 伊豆左衞門尉賴定〔甲、萌黄威。〕  隱岐左衞門尉基行〔甲、紅。〕

 大須賀太郎道信〔甲、藤威。〕    式部大夫泰時〔甲、小櫻。〕

 秋田城介景盛〔甲、黑糸威。〕    三浦小太郎時村〔甲、萌黄。〕

 河越次郎重時〔甲、紅。〕      荻野次郎景員〔甲、藤威。〕

   各々冑持(かぶともち)一人、張替持(はりかへもち)一人、傍路に前行(せんかう)す。但し、景盛は張替を持たしめず。

この「冑持」は兜を持つ者(これによってこの式典の行列では兜を外して参加することが分かる)、「張替」は弓弦が切れた際の予備の弓持ちであろう(景盛が張替持を附けていないのには何か意味があるものと思われるが分からぬ。識者の御教授を乞う)。

「良辰」吉日。「辰」は「時」の意。古くは「良辰好景」「良辰美景」とも言った。

「酉刻」午後六時頃

「居飼」牛馬の世話を担当する雑人。

「舎人」牛車の牛飼いや乗馬の口取りを担当した雑人。

「一員」本来は各省や寮の役人の謂い。以下の三人を指す。全員が束帯である。「一員二行に列り」とあるのは、影盛と成能で一列、もう一列は盛光一人で一列。なお、中原成能の職名は「吾妻鏡」では「將監」で近衛府の判官(じょう)である。

「將曹」近衛府の主典(さかん)。普通は「しやうさう」と濁らない。

「府生」六衛府(りくえふ)・や検非違使庁などの下級職員。「ふせい」「ふそう」とも。

「狛盛光」建久四(一一九三)年頃に八幡宮の楽所の役人に任ぜられていることが鶴岡八幡宮公式サイトの宝物の記載に見える。

「勾當」「勾当内侍(こうとうのないし)」。掌侍(ないしのじょう)四人の内の第一位の者で天皇への奏請の取次及び勅旨の伝達を司る。

「前驅」古くは「せんぐ」「ぜんぐ」とも読んだ。行列などの前方を騎馬で進んで先導する役。先乗り。先払い。

「官人」通常、「かんにん」と読む。増渕氏の注によれば、『衛府などの三等官』とある。

「秦兼峰」「吾妻鏡」の「下臈御隨身」には、秦兼村の名でかの公氏と並んで載る。

「番長下毛野敦秀」「番長」は諸衛府の下級幹部職員のことを指す。上﨟の随身である。やはり「吾妻鏡」の「下臈御隨身」には下毛野敦光及び同敦氏という名が載る。

「檳榔毛の御車」通常は「檳榔毛」は「びらうげ(びろうげ)」と読む。牛車の一種で白く晒した檳榔樹(びんろうじゅ)の葉を細かく裂いて車の屋形を覆ったものを指す。上皇・親王・大臣以下、四位以上の者及び女官・高僧などが乗用した。

「扈從」朝廷からの勅書に随行してきた公卿の筆頭の意で述べているようだが、以下の「殿上人」とダブるのでここに示すのはおかしい。

「坊門大納言」坊門忠信(承元元(一一八七)年~?)。建永二(一二〇七)年に参議、建保六(一二一八)年に権大納言。後鳥羽天皇及び順徳天皇の寵臣として仕えた。妹の信子が実朝の妻であるから実朝は義弟に当たる。因みに、この後にある「隨兵」が先の注で示した十人の武者となる。

「調度懸」武家で外出の際に弓矢を持って供をした役。調度持ち。

「小舎人童」本来は近衛中将・少将が召し使った少年を指すが、後、公家・武家に仕えて雑用をつとめた少年をいう。

「看督長」検非違使庁の下級職員。役所に付属する獄舎を守衛したり、犯人追捕の指揮に当たった。かどのおさし。

「火長」検非違使配下の属官。衛門府の衛士(えじ)から選抜され、囚人の護送・宮中の清掃・厩の守備などに従事した。彼等は課役を免除されており、身分としては低い役職ながら、宮中への出仕であることから一定の権威を有した。

「放免」「ほうめん」とも。検非違使庁に使われた下部(しもべ)。元は釈放された囚人で、罪人の探索・護送・拷問・獄守などの雑務に従事したが、先の火長よりも遙かに下級の官吏である。

「調度懸佐々木五郎左衞門尉義淸」「吾妻鏡」を見ると、この直前にいる検非違使大夫判官加藤景兼の下に割注があって、そこに「調度懸」が一名とある。この義清の「調度懸」には「御」という接頭語が附いていることから、前のそれは加藤の調度懸であり、義清の肩書は実朝の調度懸であると判断される。

「次に新大納言忠淸、宰相中將國道以下、公卿五人」建保七年一月二十七日には、

○原文

  次公卿

 新大納言忠信〔前駈五人〕    左衞門督實氏〔子随身四人〕

 宰相中將國道〔子随身四人〕   八條三位光盛

 刑部卿三位宗長〔各乘車〕

○やぶちゃんの書き下し文

  次に公卿。

 新大納言忠信〔前駈五人。〕    左衞門督實氏〔子、随身四人。〕

 宰相中將國道〔子、随身四人。〕   八條三位光盛

 刑部卿三位宗長〔各々乘車。〕)

「子」というのは、殿上人に従う者、という意味であろうか。ここの先頭を行くのが先に出た坊門忠信で、筆者は誤って「忠淸」としている。

 

以下、北条義時の脱出劇のパート。

「宮寺の樓門」これによって当時の鶴岡八幡宮寺の入り口には二階建ての門があったことが分かる。

「右大臣實朝公、小野御亭より、宮前に參向し給ふ」不審。実朝は無論、御所から拝賀の式に向かったはずである。ここは思うに「吾妻鏡」の筆者の誤読であるように思われる。「吾妻鏡」の行列の列序の詳細記載の後には、

○原文

令入宮寺樓門御之時。右京兆俄有心神御違例事。讓御劔於仲章朝臣。退去給。於神宮寺。御解脱之後。令歸小町御亭給。及夜陰。神拜事終。

○やぶちゃんの書き下し文

宮寺の樓門に入らしめ御(たま)ふの時、右京兆、俄かに心神に御違例の事有り。御劔を仲章朝臣に讓り、退去し給ふ。神宮寺に於て、御解脱の後、小町の御亭へ歸らしめ給ふ。

とあり、

拝賀の行列が鶴岡八幡宮寺楼門に御参入なされたその直後、前駈しんがりを勤めていた右京兆義時殿が俄かに御気分が悪くなるという変事が出来(しゅったい)した。そこで急遽、御剣持を前方の一団である殿上人のしんがりを勤めていた文章博士源仲章朝臣に譲って、退去なさり、神宮寺門前に於いて直ちに行列から離脱された後、そのまま小町大路にある御自宅にお帰った。

とあるのを、文字列を読み違えた上に、「小町」を「小野」と誤読したのではあるまいか? 識者の御教授を乞うものである(増淵氏の訳では特に注がない)。

「伶人」雅楽を奏する官人。楽人(がくにん)。

「祝部」禰宜の下に位置する下級神職。「はふり」は「穢れを放(はふ)る」の意ともするが語源未詳。

「神慮をいさめ奉る」この「いさむ」は、忠告するの意で、実朝卿に右大臣の拝賀に際しての心構えや禁制などの神の思し召しをお伝え申し上げた、という意。

 

以下、この公暁による暗殺及びその直後のパートを「吾妻鏡」より示しておく。

○原文

及夜陰。神拜事終。漸令退出御之處。當宮別當阿闍梨公曉窺來于石階之際。取劔奉侵丞相。其後隨兵等雖馳駕于宮中。〔武田五郎信光進先登。〕無所覓讎敵。或人云。於上宮之砌。別當阿闍梨公曉討父敵之由。被名謁云々。就之。各襲到于件雪下本坊。彼門弟惡僧等。籠于其内。相戰之處。長尾新六定景与子息太郎景茂。同次郎胤景等諍先登云々。勇士之赴戰場之法。人以爲美談。遂惡僧敗北。闍梨不坐此所給。軍兵空退散。諸人惘然之外無他。

○やぶちゃんの書き下し文

夜陰に及びて、神拜の事終り、漸くに退出せしめ御(たま)ふの處、當宮別當阿闍梨公曉、石階(いしばし)の際(きは)に窺ひ來たり、劔を取つて丞相を侵し奉る。其の後、隨兵等、宮中に馳せ駕すと雖も、〔武田五郎信光、先登に進む。〕讎敵(しうてき)を覓(もと)る所無し。或る人の云はく、

「上宮(かみのみや)の砌りに於いて、『別當阿闍梨公曉、父の敵を討つ。』の由、名謁(なの)らると云々。

之に就き、各々、件(くだん)の雪下(ゆきのした)の本坊に襲ひ到る。彼の門弟惡僧等、其の内に籠り、相ひ戰ふの處、長尾新六定景・子息太郎景茂・同次郎胤景等と先登を諍(あらそ)ふと云々。

勇士の戰場に赴くの法、人、以つて美談と爲す。遂に惡僧、敗北す。闍梨、此の所に坐(おは)し給はず。軍兵、空しく退散し、諸人、惘然(ぼうぜん)の外、他(ほか)無し。

「武田五郎信光」(応保二(一一六二)年~宝治二(一二四八)年)は甲斐源氏信義の子。治承四(一一八〇)年に一族と共に挙兵して駿河国に出陣、平家方を破る。その後、源頼朝の傘下に入って平家追討戦に従軍した。文治五(一一八九)年の奥州合戦にも参加するが、この頃には安芸国守護となっている。その後も阿野全成の捕縛や和田合戦などで活躍、この後の承久の乱の際にも東山道の大将軍として上洛している。弓馬に優れ、小笠原長清・海野幸氏・望月重隆らとともに弓馬四天王と称された。当時五十七歳(以上は「朝日日本歴史人物事典」及びウィキの「武田信光」を参照した)。

「巍々たる」雄大で厳かなさま。

 

以下、公暁誅殺までを「吾妻鏡」で見る。

○原文

爰阿闍梨持彼御首。被向于後見備中阿闍梨之雪下北谷宅。羞膳間。猶不放手於御首云々。被遣使者弥源太兵衞尉〔闍梨乳母子。〕於義村。今有將軍之闕。吾專當東關之長也。早可廻計議之由被示合。是義村息男駒若丸依列門弟。被恃其好之故歟。義村聞此事。不忘先君恩化之間。落涙數行。更不及言語。少選。先可有光臨于蓬屋。且可獻御迎兵士之由申之。使者退去之後。義村發使者。件趣告於右京兆。京兆無左右。可奉誅阿闍梨之由。下知給之間。招聚一族等凝評定。阿闍梨者。太足武勇。非直也人。輙不可謀之。頗爲難儀之由。各相議之處。義村令撰勇敢之器。差長尾新六定景於討手。定景遂〔雪下合戰後。向義村宅。〕不能辞退。起座著黑皮威甲。相具雜賀次郎〔西國住人。強力者也。〕以下郎從五人。赴于阿闍梨在所備中阿闍梨宅之刻。阿闍梨者。義村使遲引之間。登鶴岳後面之峯。擬至于義村宅。仍與定景相逢途中。雜賀次郎忽懷阿闍梨。互諍雌雄之處。定景取太刀。梟闍梨〔着素絹衣腹卷。年廿云々。〕首。是金吾將軍〔頼家。〕御息。母賀茂六郎重長女〔爲朝孫女也。〕公胤僧正入室。貞曉僧都受法弟子也。定景持彼首皈畢。即義村持參京兆御亭。亭主出居。被見其首。安東次郎忠家取指燭。李部被仰云。正未奉見阿闍梨之面。猶有疑貽云々。

○やぶちゃんの書き下し文

爰に阿闍梨、彼(か)の御首を持ち、後見(こうけん)備中阿闍梨の雪下(ゆきのした)北谷の宅に向はる。膳を羞(すす)むる間、猶ほ手を御首より放たずと云々。

使者弥源太兵衞尉〔闍梨(じやり)の乳母子(めのことご)。〕を義村に遣はさる。

「今、將軍の闕(けつ)有り。吾れ專ら東關の長に當るなり。早く計議を廻らすべし。」

の由、示し合はさる。是れ、義村息男駒若丸、門弟に列するに依つて、其の好(よし)みを恃(たの)まるるの故か。義村、此の事を聞き、先君の恩化を忘れざる間、落涙數行、更に言語に及ばず。少選(しばらく)あつて、

「先づ蓬屋(ほうおく)に光臨有るべし。且つは御迎への兵士を獻ずべし。」

の由、之を申す。使者退去の後、義村、使者を發し、件(くだん)の趣を右京兆に告ぐ。京兆、左右(さう)無く、

「阿闍梨を誅し奉るべし。」

の由、下知し給ふの間、一族等を招き聚めて、評定を凝らす。

「阿闍梨は、太(はなは)だ武勇に足り、直(ただ)なる人に非ず。輙(たやす)く之を謀るべからず。頗る難儀たり。」

との由、各々相ひ議すの處、義村、勇敢の器(うつは)を撰ばしめ、長尾新六定景を討手に差す。定景、遂に〔雪下の合戰後、義村が宅へ向ふ。〕辞退に能はず、座を起ち、黑皮威の甲を著し、雜賀(さひか)次郎〔西國の住人、強力の者なり。〕以下郎從五人を相ひ具し、阿闍梨の在所、備中阿闍梨が宅に赴くの刻(きざみ)、阿闍梨は、義村が使ひ、遲引の間、鶴岳後面の峯に登り、義村が宅に至らんと擬す。仍つて定景と途中に相ひ逢ふ。雜賀次郎、忽ちに阿闍梨を懷き、互ひに雌雄を諍ふの處、定景、太刀を取り、闍梨〔素絹の衣、腹卷を着す。年廿と云々。〕が首を梟(けう)す。是れ、金吾將軍〔賴家。〕の御息、母は賀茂六郎重長が女〔爲朝の孫女なり。〕。公胤僧正に入室、貞曉僧都受法の弟子なり。定景、彼(か)の首を持ちて皈(かへ)り畢んぬ。即ち義村、京兆の御亭に持參す。亭主、出で居(ゐ)にて其の首を見らる。安東次郎忠家、指燭(しそく)を取る。李部、仰せられて云はく、

「正しく未だ阿闍梨の面(おもて)を見奉らず。猶ほ疑貽有り。」

と云々。

「吾妻鏡」では、実は当時の幕府の要人が阿闍梨の顔を誰も知らなかったと推測されることが首実検に立ち会った「李部」(式部省の唐名。当時の泰時の経官歴は式部丞)北条泰時(当時満二十一歳)が本当に公暁の首であるかどうかに疑義を挟んでいるのが注目される。話として頗る面白い(肝心の実朝の首は見つからず、謀叛人の首が残るとは如何にも不思議ではないか)が、通史としての「北條九代記」では、何やらん、判官贔屓の実朝トンデモ生存説(大陸に渡って実は知られた○〇禅師こそが実朝だった! なってえのはどうよ?)でも臭わせそうな雰囲気になるから、やっぱ、カットやろうなぁ……。

・「備中阿闍梨」彼の名は、この後、三日後の三十日の条に彼の雪ノ下(後の二十五坊ヶ谷である)の屋敷が没収されたという条、翌二月四日にその屋敷地が女官三条局の望みによって付与された旨の記載を以って一切載らない。怪しいではないか。

・「彌源太兵衞尉〔闍梨の乳母子。〕」ここで「乳母子」とあるということは次に示す「駒若丸」北条光村の兄弟(恐らく弟)でなくてはならない。

・「義村息男駒若丸、門弟に列するに依つて、其の好みを恃まるる」「駒若丸」は三浦義村の四男三浦光村(元久元(一二〇五)年~宝治元(一二四七)年)の幼名。後の三浦氏の当主となる三浦泰村の同母弟。早い時期に僧侶にさせるために鶴岡八幡宮に預けられたらしく、この頃は公暁の門弟であった。「吾妻鏡」では建保六(一二一八)年九月十三日の条で、将軍御所での和歌会の最中、鶴岡八幡宮境内に於いて月に浮かれ出た児童・若僧が鶴岡廻廊に配されていた宿直人に乱暴狼藉を働き、その不良少年団の張本人として挙げられ、出仕を止められる、という記事を初見とする。暗殺当時でも未だ満十四歳である。後に実家である三浦氏に呼び戻され、兄泰村とともに北条氏と並ぶ強大な権力を有するようになったが、後の宝治元(一二四七)年の宝治合戦で北条氏によって兄とともに滅ぼされた。小説家永井路子氏が実朝暗殺三浦氏説の最大の根拠(乳母の家系はその養育した家系の子を殺めることはないという不文律)とするように、公暁の乳母は三浦義村の妻であり、その子であったこの駒若丸は公暁の乳兄弟であって門弟でもあった。一方、実朝の乳母は北條時政の娘で政子や義時の姉妹で兄弟である阿波局である。但し、私はこの歴史学者の支持も多い永井説には全く組出来ない。私は北条義時策謀張本説を採る(三浦は北条の謀略に気づいてはいた)。この時の義時の壮大な謀略計画の体系(後の北条得宗の濫觴となるような)の中では、乳母―乳母子血脈説なんどという問題は容易に吹き飛んでしまうと考えているのである。私のその考えは、私が二十一歳の時に書いた噴飯小説「雪炎」以来、今も一貫して変化していない。よろしければ、御笑覧あれ。……あの頃……どこかで小説家になりたいなどと考えていたことをむず痒く思い出した……。

・『使者退去の後、義村、使者を發し、件の趣を右京兆に告ぐ。京兆、左右無く、「阿闍梨を誅し奉るべし』この下りが、私のとって永い間、疑問なのである。真の黒幕を追求すべき必要性が少しでもあるとならば、義時は生捕りを命ぜねばならない。しかも(と同時に、にも拘わらず)源家の嫡統である公暁を「左右(さう)無く」(ためらうことなく)「誅し奉」れ、というのは如何にも『変』である。そのおかしさには誰もが気づくはずであり、それがやる気がない理由があるとすれば、ただ一つ、謀略の総てを義時が最早、知尽していたから以外にはあり得ない。だからこそ彼は危機一髪、『難』を逃れているのだ。これについては「吾妻鏡」の事件直後、翌二月八日の条に早くも弁解染みて奇妙に示されていることは知られた話である。

〇原文

八日乙巳。右京兆詣大倉藥師堂給。此梵宇。依靈夢之告。被草創之處。去月廿七日戌尅供奉之時。如夢兮白犬見御傍之後。御心神違亂之間。讓御劍於仲章朝臣。相具伊賀四郎許。退出畢。而右京兆者。被役御劔之由。禪師兼以存知之間。守其役人。斬仲章之首。當彼時。此堂戌神不坐于堂中給云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

八日乙巳。右京兆、大倉藥師堂に詣で給ふ。此の梵宇は、靈夢の告げに依つて、草創せらるるの處、去ぬる月廿七日戌の尅、供奉の時、夢のごとくにして、白き犬、御傍に見るの後、御心神違亂の間、御劍を仲章朝臣に讓り、伊賀四郎許りを相ひ具して、退出し畢んぬ。而るに右京兆は、御劔を役せらるるの由、禪師、兼て以つて存知するの間、其の役の人を守りて、仲章の首を斬る。彼の時に當りて、此の堂の戌神(いぬがみ)、堂中に坐(おは)しまし給はずと云々。

というあからさまなトンデモな霊験譚である。大倉薬師堂は既に見た通り、義時が大方の反対を押し切って前年に私財を擲って建立した『変』な寺なのだ。さて――拝賀の式の行列が鶴岡社頭にさしかかった際、彼にだけ白い犬が自分の傍へやってくるのが見え、俄に気分が悪くなって、内々に急遽、実朝の御剣持を仲章に代行してもらうこととして、たった一人の従者を連れてこっそりと自邸へ戻ったが、仲章が代役になっていることを知らずに、事前に何者かに知らされていた通り、御剣持役の人間を義時と信じて疑わずに今一つのターゲットとして首を刎ねた――というのである。しかも――その拝賀の式当日、不思議なことに大倉薬師堂の十二神将の戌神の像だけが、忽然と消えており、事件後には再び戻っていた――というのである。――この話、読み物としてはそれなりに面白いはずなのに「北條九代記」の作者は採用していない。大倉薬師堂の建立の事実をわざわざ書いておきながら、である。わざわざ書いたということは、私は恐らく筆者はこの後日譚を書くつもりだったのだと思う。ところが、どうにもこの如何にも『変』な作話ばればれの話に、筆を進めて行くうちに、筆者自身があきれ返ってしまい、結局、書かず仕舞いとなったのではなかったか? 逆に私の肯んじ得ない三浦陰謀説に立つならば、ここで義村が期を見極め(義時に謀略がばれたことの危険性が最も高いであろう)公暁の蜂起に利あらずと諦めたのならば、義時に伺いを立てる前に、自律的に公暁の抹殺を計ればよい(実際の公卿の行動やそれを追撃する三浦同族の長尾定景という絶妙の配置からも、義村は失敗した謀略ならばそれを簡単に総て抹消することが出来たのである。義時から万一、事後に抗議や疑義があったとしてもそれらは、公暁は将軍家を放伐した許し難い賊であり、公暁が抗った故に仕方なく誅殺した当然の処置であったと答えればよいのである)。その「不自然さ」を十全に説明しないで、乳母一連托生同族説から三浦陰謀説(中堅史家にも支持者は多い)を唱える永井路子氏には、私は今以って同調出来ないでいるである。

・「長尾新六定景」(生没年不詳)既に暗殺直後にテロリスト探索に名が挙がっているがここで注す。石橋山の合戦では大庭景親に従って平家方についたが、源氏勝利の後、許され、和田合戦で功を立てた。ここで公暁を打ち取った時には既に相当な老齢であったと考えられる。今、私の書斎の正面に見える鎌倉市植木の久成寺境内に墓所がある。

『義村、聞きて、「先此方へ來り給へ。御迎の兵士を參すべし」とて、使者を歸し、右京〔の〕大夫義時に告げたり。公曉は直人にあらず、武勇兵略勝れたれば、輒(たやす)く謀難かるべしとて、勇悍の武士を擇び、長尾新六定景を大將として、討手をぞ向けられける』この部分、「北條九代記」の筆者は、「吾妻鏡」にある、重要な義時の即決部分を省略してしまっている。即ち、

京兆、左右無く、

「阿闍梨を誅し奉るべし。」

の由、下知し給ふの間、一族等を招き聚めて、評定を凝らす。

の部分がないのである。これは如何にも不審である。そもそもこれでは公暁誅殺の合議をし、長尾を選抜したのが北条義時であるかのようにさえ誤読されてしまう危険性さえあるのだ。私はこの違和感は実は、「北條九代記」の筆者が、この北条義時の即決の台詞に対して強烈な、私と同じ違和感を感じたからではないか、と考えている。これを記すと「北條九代記」はその輝かしい北条の歴史の当初於いて血塗られた疑惑を読者に与えてしまうからに他ならない。

……そうである。この「吾妻鏡」の伝える部分こそが私の昔からの違和感としてあるのである。――真の黒幕の可能性の追求すべき必要性がある以上、義時は生捕りを命ぜねばならない。にも拘わらず、現在唯一残っている源家の嫡統である公暁を、有無を言わせず、しかも自身の手ではなく、三浦氏に命じて「誅し奉」ったのは何故か? また、逆に私の肯んじ得ない三浦陰謀説に立つならば、ここで義村が期を見極め、公暁蜂起に利あらずと諦めたのならば、義時に伺いを立てる前に、自律的に公暁の抹殺を計らねばならない(実際の公卿の行動やそれを追撃する三浦同族の長尾定景という絶妙の配置や事実結果からみても、義村は失敗したと判断する謀略ならばそれを簡単に総て抹消させることは極めて容易であったはずである)。そうしなければ、普通なら当然の如く行われると考えるはずの公暁への訊問によって三浦謀略の全容が明らかになってしまうからである。にも拘わらず、三浦は義時に伺いを立て、義時は捕縛ではなく誅殺を命じている。義時が潔白であるなら、公暁の背後関係を明らかにし、それらを一掃させることが最大の利となるこの時にして、これは不自然と言わざるを得ない。寧ろ、これはこの実朝暗殺公暁誅殺という呪われた交響詩のプログラムが、総演出者・総指揮者たる北条義時によって組み立てられたものであったことを示唆すると私は考えるのである。そこでは多くの役者が暗躍した。実際にこの後の「吾妻鏡」を見ると、実に怪しいことに気がつく。この実朝暗殺に関わった人間たちの殆んどすべての関係者が、簡単な訊問の後、無関係であるとか、誤認逮捕であったとかという理由で、さりげなく記載されているのである。そして誰もいなくなって、殆んど公暁一人が悪者にされている。こうした関係者までもが皆、三浦氏の息のかかったものであって、三浦の謀略指示について幕府方の訊問でも一切口を割らず、事件が速やかに終息するというのは、この方が如何にも考えにくいことではないか? 寧ろ、総ての駒の動きがフィクサーとしての義時によって神のように管理されていたからこその、鮮やかにして速やかな終息であったと考えた方が自然である。三浦義村は確かに和田合戦でも同族の和田氏を裏切っており、千葉胤綱から「三浦の犬は友を食らうぞ」と批判された権謀術数に長けた男ではある。しかしだからこそ、義時の想像を絶する策謀をもいち早く見抜くことが出来、三浦一族の危機を回避するために、同族乳母子の公暁をも――義時の謀略にはまらないために――蜥蜴の尻尾切りした、とも言えるのである。

「雜賀次郎」三浦の被官であるが、「吾妻鏡」ではここにしか見えない。紀伊国南西の雑賀荘を領有したか。

「公曉は鶴ヶ岡の後の峰に登りて義村が家に至らんとし給ふ途中にして、長尾定景、行合ひて、太刀おつ取りて御首を打落しけり」それでなくても、実朝殺害直後の公暁の行方は不明で神出鬼没なればこそ、これは三浦義村が予め、使者であった北弥源太兵衛尉に援軍の移送経路は間道の峯筋であると指示したものと考えなければ、こんなに都合よく行くはずがない。なお、この部分「北條九代記」の作者は「吾妻鏡」のこの場面の「定景と途中に相ひ逢ふ。雜賀次郎、忽ちに阿闍梨を懷き、互ひに雌雄を諍ふの處、定景、太刀を取り、闍梨が首を梟す」という立ち回りシーンを浄瑠璃風に簡略化している。

「素絹」素絹の衣(ころも)。素絹で作った白い僧服。垂領(たりくび:襟を肩から胸の左右に垂らし、引き合わせるもの。)で袖が広くて丈が長く、裾に襞がある。

「腹卷」鎧の一種で、胴を囲み、背中で引き合わせるようにした簡便なもの。次のシークエンスの広元の台詞でも重要な単語として登場する。

 

以下、実朝暗殺のコーダ部分を「吾妻鏡」で見る。

〇原文

抑今日勝事。兼示變異事非一。所謂。及御出立之期。前大膳大夫入道參進申云。覺阿成人之後。未知涙之浮顏面。而今奉昵近之處。落涙難禁。是非直也事。定可有子細歟。東大寺供養之日。任右大將軍御出之例。御束帶之下。可令著腹卷給云々。仲章朝臣申云。昇大臣大將之人未有其式云々。仍被止之。又公氏候御鬢之處。自拔御鬢一筋。稱記念賜之。次覽庭梅。詠禁忌和歌給。

 出テイナハ主ナキ宿ト成ヌトモ軒端ノ梅ヨ春ヲワスルナ

次御出南門之時。靈鳩頻鳴囀。自車下給之刻被突折雄劔云々。

又今夜中可糺彈阿闍梨群黨之旨。自二位家被仰下。信濃國住人中野太郎助能生虜少輔阿闍梨勝圓。具參右京兆御亭。是爲彼受法師也云云。

〇やぶちゃんの書き下し文

抑(そもそも)、今日の勝事(しようし)、兼ねて變異を示す事一(いつ)に非ず。所謂、御出立の期(ご)に及びて、前大膳大夫入道、參進し申して云はく、

「覺阿成人の後、未だ涙の浮ぶ顏面を知らず。而るに今、昵近(ぢつきん)奉るの處、落涙禁じ難し、是れ、直(ただ)なる事に非ず。定めて子細有るべきか。東大寺供養の日の、右大將軍御出の例に任せ、御束帶の下に、腹卷を著せしめ給ふべし。」

と云々。

仲章朝臣、申して云はく、

「大臣大將に昇るの人、未だ其の式有らず。」

と云々。

仍つて之を止めらる。又、公氏、御鬢(ごびん)に候ふの處、御鬢より一筋拔き、

「記念。」

と稱し、之を賜ふ。次いで、庭の梅を覽ぜられて、禁忌の和歌を詠じ給ふ。

 

 出でていなば主(ぬし)なき宿と成りぬとも軒端(のきば)の梅よ春をわするな

 

次いで、南門を御出の時、靈鳩、頻りに鳴き囀(さへづ)り、車より下り給ふの刻(きざみ)、雄劔(ゆうけん)を突き折らると云々。

又、今夜中に阿闍梨の群黨を糺彈すべきの旨、二位家より仰せ下さる。信濃國住人中野太郎助能(すけよし)、少輔阿闍梨勝圓を生虜(いけど)り、右京兆の御亭へ具し參る。是れ、彼の受法の師たるなりと云云。

・「中野助能」(生没年未詳)幕府御家人。信濃出身。「吾妻鏡」では本件以外に、寛喜二(一二三〇)年二月八日の条で承久の乱での功績により、領していた筑前勝木荘の代わりに筑後高津・包行(かねゆき)の両名田を賜るという記事で登場する。

・「少輔阿闍梨勝圓を生虜」公暁の後見人であったこの勝円なる人物は同月末日の三十日に義時の尋問を受けるが、申告内容から無罪となって、本職を安堵されている。一方、「吾妻鏡」同条には、公暁が最初に逃げ込んだ同じく「後見」の「備中阿闍梨」については、先に掲げた通り、雪の下宅地及び所領の没収が命ぜられている(但し、この備中阿闍梨にしても、その後の本人の処罰内容は掲げられていない。おかしくはあるまいか? 犯行後に真っ先に逃亡した先の住僧であり、同じく公暁の後見人である。如何にも怪しいではないか)。

「勝事」快挙の意以外に、驚くべき大事件の意があり、ここでは後者。

「仲章朝臣」文書博士源(中原)仲章(なかあきら/なかあき ?~建保七(一二一九)年一月二十七日)。元は後鳥羽院近臣の儒学者であったが、建永元(一二〇六)年辺りから将軍実朝の侍読(教育係)となった。「吾妻鏡」元久元(一二〇四)年一月十二日の条に『十二日丙子。晴。將軍家御讀書〔孝經。〕始。相摸權守爲御侍讀。此「僧」儒依無殊文章。雖無才名之譽。好集書籍。詳通百家九流云々。御讀合之後。賜砂金五十兩。御劔一腰於中章。』(十二日丙子。晴。將軍家御讀書〔孝經。〕始め。相摸權守、御侍讀をたり。此の儒、殊なる文章無きに依りて、才名の譽無しと雖も、好んで書籍を集め、詳かに百家九流に通ずと云々。御讀合せの後、砂金五十兩、御劔一腰を中章に賜はる。)と記す。御存知のように、彼は実朝と一緒に公暁によって殺害されるのであるが、現在では、彼は宮廷と幕府の二重スパイであった可能性も疑われており、御剣持を北条義時から譲られたのも、実は偶然ではなかったとする説もある。

「宮田兵衞尉公氏公氏」宮内公氏が正しい。実朝側近。秦姓とも。

 

又、御出の時、(きんうぢ)、御鬢(ぎよびん)に候(こう)ず。實朝公、自(みづから)鬢(びんのかみ)一筋(すぢ)を拔きて御記念(かたみ)と稱して賜り、次に庭上の梅を御覽じて、

  出でていなば主なき宿と成りぬとも軒端の梅よ春を忘るな

其外商門を出で給ふ時、靈鳩(れいきう)、頻(しきり)に鳴騷(なきさわ)ぎ、車よりして下(お)り給ふ時、御劍(ぎよけん)を突折(つきをり)候事、禁忌、殆ど是(これ)多し。後悔せしむる所なり」とぞ語られける。

「御臺所……」以下は、「吾妻鏡」の翌一月二十八日の条の基づく。以下に示す。

〇原文

廿八日。今曉加藤判官次郎爲使節上洛。是依被申將軍家薨逝之由也。行程被定五箇日云云。辰尅。御臺所令落飾御。莊嚴房律師行勇爲御戒師。又武藏守親廣。左衞門大夫時廣。前駿河守季時。秋田城介景盛。隱岐守行村。大夫尉景廉以下御家人百餘輩不堪薨御之哀傷。遂出家也。戌尅。將軍家奉葬于勝長壽院之傍。去夜不知御首在所。五體不具。依可有其憚。以昨日所給公氏之御鬢。用御頭。奉入棺云云。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿八日。今曉、加藤判官次郎、使節と爲し上洛す。是れ、將軍家薨逝の由、申さるるに依つてなり。行程五箇日と定めらると云云。

辰の尅、御臺所、落飾せしめ御(たま)ふ。莊嚴房(しやうごんばう)律師行勇、御戒師たり。又、武藏守親廣・左衞門大夫時廣・前駿河守季時・秋田城介景盛・隱岐守行村、大夫尉景廉・以下の御家人百餘輩、薨御の哀傷に堪へず、出家を遂ぐるなり。戌の尅、將軍家、勝長壽院の傍らに葬り奉る。去ぬる夜、御首の在所を知ず、五體不具たり。其の憚り有るべきに依つて、昨日、公氏に給はる所の御鬢(ごびん)を以つて、御頭(みぐし)に用ゐ、棺に入れ奉ると云云。

・「辰の刻」午前八時頃。

・「御臺所」坊門信子(ぼうもんのぶこ 建久四(一一九三)年~文永一一(一二七四)年)。実朝正室。西八条禅尼と通称された。出家後の法名は本覚尼。父は公卿坊門信清。元久元(一二〇四)年に実朝の正室となって鎌倉に赴いた。実朝との仲は良かったといわれるが、子は出来なかった。出家後は京に戻った。当時、満二十六歳であった。その後、承久三(一二二一)年五月に起こった承久の乱では兄坊門忠信・坊門忠清らが幕府と敵対して敗北するも、彼女の嘆願によって死罪を免れている。九条大宮の地に夫の菩提寺遍照心院(現在の大通寺)を建立。享年八十二で亡くなった。なお、「北條九代記」では信子及び次の御家人らの出家は当日中となっている。

・「武藏守親廣」源親広。以下、「左衞門大夫時廣」は大江時広、「前駿河守季時」は中原季時、「秋田城介景盛」は安達景盛、「隱岐守行村」は二階堂行村、「大夫尉景廉」は加藤景廉。

 

実朝の首は一体、何処へ行ってしまったのだろう?

現在、秦野市東田原に「源実朝公御首塚(みしるしづか)」なるものがあるが、同市観光協会の記載などには、『公暁を討ち取った三浦氏の家来、武常晴(つねはる)』や大津兵部『によってこの秦野の地に持ちこまれ』、『当時この地を治める波多野忠綱に供養を願い出て、手厚く葬られたと伝えられ』とするが、これは到底、信じ難い。……失われた実朝の首の謎……彼はそれ故に顔なき悲劇の貴公子であり――puer eternus――プエル・エテルヌスであり続ける……]

 

■やぶちゃん現代語訳(各パートごとに分けてそれぞれにオリジナルな標題を附し、御列記載は「吾妻鏡」の記載方式に准じた。誤りと思われる部分でもそのまま訳した。但し、一部に敷衍訳を施してある)

 

      〇実朝公右大臣に任ぜらる事

        付けたり 同拝賀の式の事

        並びに  同拝賀の式にて、禅師公暁、実朝を討つ事

〈右大臣叙任の段〉

 同建保六年十二月二日、将軍実朝公は、遂に正二位右大臣に任ぜられた。

 「明年正月には、鶴ヶ岡の八幡宮に於いて、右大臣拝賀の儀を執り行なう」と決し、同拝賀の式次第奉行として大夫判官二階堂行村が、これを承って、供奉(ぐぶ)の随兵以下の人員及びその選抜をお定めになられる。

 御装束及び御牛車以下の調度類はその総てが仙洞御所の後鳥羽院様より下し賜わられた。

 右大将故頼朝卿の右大将拝賀の御時に随兵を定められた際には、かねてより代々、将軍家に仕えた勇士にして、弓馬の達人であって、且つ、容姿端麗なることという、三徳を兼ね備えた者を選んで、拝賀の供奉をお勤めさせなされた。――あの頃は、まっこと、古き良き時代で御座った。……

 しかるに――この度は世も移り変わったとは申せ、この三徳兼備とは言い難き者も含まれて御座った――まあ、それは謂うまい……ともかくも、

「この度の右大臣拝賀の儀は、これ、関東にては未だ例(ためし)なき晴れの儀式である。」

ということなれば、早い時点に、あらかじめ、その参加すべき人員の選抜を行われ、お定めになられた。

 建保七年正月二十七日のこと、今日はまさに儀式を執り行うに相応しき吉日なり、とのことなれば、

――将軍家右大臣御拝賀の式は酉の刻――

との触れられて御座った。

 

〈右大臣拝賀行列の段〉

 拝賀の路次(ろし)の行列の装備は華麗荘重にしてしかも厳重である。

 まず、

 居飼(いかい)四人

 舎人(とねり)四人、

 次に、一員(いちいん)は二列に連なって、

将曹(しょうそう)菅野景盛・府生(ふしょう)狛(こまの)盛光・将監(しょうげん)中原成能(なりよし)

 の三名が束帯で続いている。

 次に、殿上人、

一条侍従能氏(よしうじ)・伊予(いよの)少将実雅(さねまさ)・中宮権亮(ごんのすけ)信義以下の五人

 が各々、随身四人を伴っている。

 次に、

藤勾当(とうのこうとう)頼隆以下、前駆(まえがけ)の十八人

 が二列を組んで進む。

 次に、官人、

秦兼峰(はたのかねみね)・番長下毛野敦秀(なんちょうしもつけのあつひで)。

 次に、

将軍家実朝卿。

 将軍家の御乗物は檳榔毛(びろうげ)の牛車。

 車副(くるまぞえ)四人、

扈従(こじゅう)は坊門大納言忠信卿。

 次に随兵十人、

 皆、甲冑を帯びている。

 次に雑色(ぞうしき)二十人、

 検非違使(けびいし)一人、

  その検非違使の供奉として、

   調度懸(ちょうどがけ)一人、

   小舎人童(こどねりわらわ)一人、

 看督長(かどのおさ)二人、

 火長(かちょう)二人、

 放免(ほうめん)五人。

 次に、将軍家御調度懸、

佐々木五郎左衛門尉義清

 次に、随身(ずいじん)六人。

 次に、

新大納言忠清・宰相中将国道以下

 公卿五人

 が、各々、前駆と随身を伴う。

 次に、

受領(ずりょう)の大名三十人。

 行列掉尾には、

 路次(ろし)の随兵一千騎

が、それぞれに花を飾り、色鮮やかに着こなして、道中辻々警護を厳しく致して、御所より鶴岡八幡宮まで、大河の如くにねり廻り出でて赴き遊ばされる絢爛は、とても想像だにし得ず、また、筆舌にさえ尽くし得ぬほどのもので御座る。

「前代にもかくなる盛大なる儀式は例(ためし)、これなく、後代にも二度とはあるまじい。」

とて、貴賤上下の見物人は、なおますます膨れ上がって、立錐の余地もないほどで御座る。

 道中の路次(ろし)は両側ともに何処(いずこ)も混み合って、その中でも特に押し合いへし合いしおる場所にては、

「万一、乱暴狼藉等、出来(しゅったい)致いては。」

と、警備の兵どもが駆け回っては騒ぎを静めるのに躍起で、落ち着いている暇もない。

 

〈鶴岡八幡宮社前の段〉

 まさに拝賀の行列が鶴岡八幡宮寺の楼門にお入りにならんとした、丁度その時、右京大夫(うきょうのだいふ)義時殿、俄かに御気分が悪くなられ、御剣持(みけんもち)を仲章朝臣殿に急遽、譲られて退出なされる。

 

〈右大臣拝賀の段〉

 右大将実朝公は小野の御亭より八幡の社前に参向なされ、夜に入って、参拝の儀式を終えられ、楽人(がくじん)が楽を奏し、祝部(ほうり)が鈴を持って鳴らしつつ最後に、実朝卿に右大臣の拝賀に際しての心構えや禁制と思しい神の思し召しをお伝え申し上げた。

 

〈鶴ヶ岡石階(いしだん)の段〉

 上宮(かみのみや)での式次第を滞りなく終えられ、二尺ほども積もった雪の中、清浄に雪の除かれた社前の道をお下りになられた。

 その時、当八幡宮の別当、阿闇梨公暁殿、秘かに下る石階(いしだん)の辺りにて隙を覗い、ぱっと飛び出でたかと思うと、剣を抜き放って、右大臣実朝公の首を一太刀に打ち落とした。

――白き雪に真っ紅な血の華が飛び散った……

……公暁殿は、その御頭(みぐし)を乱暴に引っ提げると、電光の如、素早く逃げて行方を眩ました。

 

〈鶴岡境内の段〉

 闇夜の混乱の中、武田五郎信光を先頭に、大声を張り上げては互いに味方を確認し合いつつ、随兵らが四方八方へ走り散って、逃げた賊を探し求めたが、暗中の模索なればこそ、一体、実朝公暗殺、これ誰人(たれびと)の仕出かしたことかさえも相い分からぬ。

 

〈別当本坊の段〉

 暫くして、

「――これ、別当坊公暁の所為じゃ!――」

と、誰ともなく口に出し、それが知れ渡ったによって、別当職となれば! とて、雪ノ下の公暁の本坊に方々、押し寄せてはみたものの、公暁殿はおわさぬ。

 

〈鶴岡社頭の段〉

 かくも盛大荘厳であった行列の順列なんども、これ、みるみるうちに乱れに乱れ、公卿・殿上人は裸足のままに逃げ惑い、束帯の冠なんども脱げてどこぞに落ち失せる。

 一千余騎の随兵らは、皆、馬手(めて)を絞って馬を廻しては馳せ、雲霞の如くなだれ込んで来る。

 暗夜の騒擾なれば、逃げ遅れ、前へと突き出だされた貴賤を問わざる見物の人々は、これ、多くが兵馬に踏み殺され、或いは鎮圧のために不用意に抜き振られた太刀に打ち倒されて、これ、鎌倉中、目にも心にも全き闇(やみ)と相い成って、

「……これは……そ、そもそもが……一体、何が如何(いかが)致いたことなるぞ!?」

と、人々は魂消(たまげ)、ただただ呆然とするばかりであった。

 

〈三浦屋敷の段〉

 その頃、公暁禅師は後見人であられた備中阿闍梨殿の雪ノ下の坊にお入りになっていた。

 ともかくもと、ともにここまで連れ逃げて参った乳母子(めのとご)の弥源太兵衛尉(みげんたひょうえのじょう)を使者として、三浦左衛門尉義村殿に仰せ遣わせられた御消息には、

「……今は以って将軍の官職は欠員となった。我は関東の武門棟梁のの嫡孫である。速やかに将軍職就任への企計を廻らすがよい――ともかくも委細面談の上――」

とあった。

 なお、ここで何故三浦義村殿の元へ消息を送って事後を頼んだのかと申せば、義村の子息 である駒若丸は、かの公暁殿の門弟であったればこそ、その好(よし)みを頼んで、かくも言いやられたので御座った。

 さて、義村、これを聞いて、

「――まずは――拙宅へと来たり給え。――御迎えの護衛の兵士を追っ付け、差し向けますれば――」

と返答して、使者の弥源太をば帰し、そのそばから直ちに右京大夫義時殿に、以上の経緯を急告致いた。

 そうして――義時邸からの返事は――これ――「左右(そう)なく誅し奉るべし」――で御座った。――

 そこで義村は、

「……公暁は並みの人物にては、これ、御座ない!……武威も蛮勇も兵法も功者なればこそ……そう容易くは我らが謀りごとには載って参るまい。……」

と評議一決、彼に劣らぬ蛮勇にして精悍なる武士を選び、長尾新六定景を大将として、万全の誅殺部隊を組織して討手(うって)として備中阿闍梨の坊へと直ちに向けられた。

 

〈鶴岡後背大臣山峰の段〉

 定景は黒皮縅(くろかわおどし)の鎧を着し、無双の大力を誇る強者(つわもの)雑賀(さいか)次郎以下、郎従五人を引き連れて、公暁のおわす備中阿閣梨の坊へと向かう。

 公暁殿はと言えば、三浦の兵の迎えの来ぬに痺れを切らし、指示通り鶴岡の後ろの峰に登って、そこから間道を義村の家の方へを迂回して向かおうとなさっておられたが、まさしくその途次にて、長尾定景と行き合った。

 公暁殿は定景に尋常ならざる気配を見抜きはした。――が――しかし――それは遅過ぎたのだった。

 定景、太刀をすかさず抜き取り、あっと言う間に御頭(みぐし)を打ち落とし申し上げたのであった。

 その場で探り見ると、公暁殿は、素絹(そけん)の法衣の下に腹巻(はらまき)をしっかりとなさっておられた。

 長尾は、そこで公暁の御頭を持って馳せ帰って、三浦義村、そして北条義時とがこれを実検した。

 

〈大江広元の証言〉

 前(さき)の大膳大夫(だいぜんのだいふ)大江広元入道覚阿殿の語り。

「……今日の恐るべき出来事は、拙者には何か、かねてより予感さるるところが、これ、御座ったように思わるる。……今朝、将軍家が御所を御出立するの時に臨んで、我ら、直(じき)に申し上げたことには、

『……この覚阿、成人してよりこの方、今日(こんにち)に至るまで遂に、涙の面(おもて)に浮かびしことは、これ、一度として御座らなんだ。……しかるに、只今――御前に参って――かくもしきりに涙の出ずる……これ、ただ事とも思われませぬ。――定めて、何か深い因縁のあるものかとも存じ奉る。――さればこそ――東大寺供養の砌り、右大将家の御出座の際の先例に倣い、御束帯の下に腹巻を御着帯下さいまするように――』

と申し上げたのであった。ところが、その場にあった、かの将軍家とともに右京兆(うきょうのちょう)殿の身代わりとして亡くなられた源仲章朝臣殿が、

『――大臣・大将に昇った人にあっては未だ嘗て腹巻を着帯なされたという例式は、これ、御座らぬ。』

と口を挟まれた。

 されば、その仲章殿の一言によって、その腹巻の着用は沙汰止みとなったて御座ったのじゃ。……

 また、御出立の直前には、宮田兵衞尉公氏(きんうじ)が御調髪をし申し上げて御座ったが、その折り、実朝公は、自ら御自身の鬢(びん)の御髪(みぐし)を一筋お抜きになられ、

『――これを形見に――』

とおっしゃっられて、公氏にお授けになられ、そうして……次に、縁端(えんばな)へとお歩み寄りになられると庭の梅をご覧になられ、

 

  出ていなば主なき宿となりぬとも軒端の梅よ春を忘るな

   ――私が出で去ってしまったならば……

   ――この宿居は主人(あるじ)がおらぬ屋敷となって……

   ――誰からも忘れ去られてしまって浅茅が宿と化すにしても……

   ――しかし……そうなったとしても……

   ――お前、軒端に美しく咲く梅よ、……

   ――この世の春を……忘れずに……

   ――いつまでも……咲いて……いよ……

 

とお詠みになられた。……

 その他にも、例えば、南門を出られ際には、白き霊鳩(れいきゅう)がしきりに鳴き騒ぎ、また、鶴岡社頭にて牛車よりお降りになられた時には、お佩きになられておられた礼式の御剣(ぎょけん)を突き折られてしまわれるなど……これ、禁忌に触るる、不穏にして不吉なる出来事が、まっこと、多くに御座った。……返す返すも……我らさえ、後悔致いておるところにて御座る。」

と語られたと申す。

 

〈葬儀埋葬次第〉

 その日の内に、故将軍家御台所坊門信子(ぼうもんのぶこ)様が落飾なされる。

 御家人百余名も、これ、同時に出家致いた。

 翌二十八日、御葬礼を営まんとしたが、御頭(みぐし)は未だに御所在、これ、不明なれば、

「五体不具のままにては、葬送の事、甚だ、差支え、これ、あり。」

とのことなれば、昨日、公氏に賜わられたところの鬢(びん)の髪一筋を、これ、御頭(みぐし)と擬(なぞら)えて、棺に納め申し上げ奉り、勝長寿院の傍らに葬り申し上げたは、……ああぁ! これ、何たる、哀れなるかな!……

 

 その初め、建仁三年に実朝卿の将軍に任ぜられなさってよりこのかた、今年に至るまで、治世十七年、御年二十八歳にして白刃の一閃に中(あた)って黄泉(こうせん)へとう埋もれなさって、人間(じんかん)を辞して幽冥の途次(とじ)へと隠れになられ、紅いの華麗な花の如き栄華も、瞬く間に、枯れ落ち朽ち尽きてしまわれた。

 頼朝公・頼家公・実朝公――これを源家三代将軍と称す。その治世の間、合わせて四十年。公暁殿は頼家公の子息にて、四歳にして父に死に別れ、この年、未だ十九歳、僅かの間(ま)に亡んでしまわれたのであった。――

 

[やぶちゃん補注:今回、現代語訳をしながら、私の若書きの駄作「雪炎」の考証上の問題点が幾つか浮かび上がってきたのを感じた。特に最大の誤りは「前駈(まえがけ)の列の先頭に加わっていた右京兆が」の部分で、「吾妻鏡」によれば、北條義時は二列の恐らくは右の最後尾であること、そうするとその前の集団の殿上人のやはり恐らく右の最後尾にいた源仲章がリアル・タイムで義時の体調不良の演技の瞬間の傍らに、たまたまいるという設定はあり得ない。そもそも御剣持の大役の交代がそんな場当たり的に行われることなどあり得ないから、これは噴飯なこの小説でも、実は最も噴飯物のシーンであると言える。寧ろ、近年の仲章朝廷方スパイ説を踏まえるなら、一石二鳥で義時が仲章を指名して自分の身代わりとしたという設定の方が説得力を持つであろう。それにしても広元の言にダメ出しした仲章が、哀れ、犠牲となる図式は、すこぶる附きで、偶然とは思えなくなってくる。更に言えば、この事件では、

――首のない実朝の一人分の胴体

があり、遂に実朝の首は発見されない。一方、首実検の際に北条泰時が「これが本当に公暁殿の御首級であると、一体、どなたが断言出来ると申さるるのか? 誰(たれ)も彼の顔を見知った者など、おらぬというに!」(ちょっと脚色した)と言った、

――公暁のものと称する一人分の首

という奇体な設定だ!(考えて見ると公暁の胴体や墓はどうしたんだろう?)……私は今、既に一杯呑んでこれを書いている……その酩酊の意識の中で……実は死んでいるのは一人なんじゃないか?……殺されたのは実朝ではなくって……実は公暁なんであって……その遺体がそれぞれ二人分を演出しているとうのはどうだ!?……というかの「相棒」でさえも採用して呉れそうもない、トンデモ偽装殺人トリックという仮説も面白い……なんどいう気がしてきたりしている……

……ともかくも……実朝の死は未だに古くて新しい、謀殺という現象の、悪魔的な『魅力』を持続しているのだと言えよう。]

〇公右大臣に任ず 付 拜賀 竝 禪師公曉實朝を討つ 全現代語訳

■やぶちゃん現代語訳(各パートごとに分けてそれぞれにオリジナルな標題を附し、御列記載は「吾妻鏡」の記載方式に准じた。誤りと思われる部分でもそのまま訳した。但し、一部に敷衍訳を施してある)

      〇実朝公右大臣に任ぜらる事
        付けたり 同拝賀の式の事
        並びに  同拝賀の式にて、禅師公暁、実朝を討つ事
〈右大臣叙任の段〉
 同建保六年十二月二日、将軍実朝公は、遂に正二位右大臣に任ぜられた。
 「明年正月には、鶴ヶ岡の八幡宮に於いて、右大臣拝賀の儀を執り行なう」と決し、同拝賀の式次第奉行として大夫判官二階堂行村が、これを承って、供奉(ぐぶ)の随兵以下の人員及びその選抜をお定めになられる。
 御装束及び御牛車以下の調度類はその総てが仙洞御所の後鳥羽院様より下し賜わられた。
 右大将故頼朝卿の右大将拝賀の御時に随兵を定められた際には、かねてより代々、将軍家に仕えた勇士にして、弓馬の達人であって、且つ、容姿端麗なることという、三徳を兼ね備えた者を選んで、拝賀の供奉をお勤めさせなされた。――あの頃は、まっこと、古き良き時代で御座った。……
 しかるに――この度は世も移り変わったとは申せ、この三徳兼備とは言い難き者も含まれて御座った――まあ、それは謂うまい……ともかくも、
「この度の右大臣拝賀の儀は、これ、関東にては未だ例(ためし)なき晴れの儀式である。」
ということなれば、早い時点に、あらかじめ、その参加すべき人員の選抜を行われ、お定めになられた。
 建保七年正月二十七日のこと、今日はまさに儀式を執り行うに相応しき吉日なり、とのことなれば、
――将軍家右大臣御拝賀の式は酉の刻――
との触れられて御座った。

〈右大臣拝賀行列の段〉
 拝賀の路次(ろし)の行列の装備は華麗荘重にしてしかも厳重である。
 まず、
 居飼(いかい)四人
 舎人(とねり)四人、
 次に、一員(いちいん)は二列に連なって、
将曹(しょうそう)菅野景盛・府生(ふしょう)狛(こまの)盛光・将監(しょうげん)中原成能(なりよし)
 の三名が束帯で続いている。
 次に、殿上人、
一条侍従能氏(よしうじ)・伊予(いよの)少将実雅(さねまさ)・中宮権亮(ごんのすけ)信義以下の五人
 が各々、随身四人を伴っている。
 次に、
藤勾当(とうのこうとう)頼隆以下、前駆(まえがけ)の十八人
 が二列を組んで進む。
 次に、官人、
秦兼峰(はたのかねみね)・番長下毛野敦秀(なんちょうしもつけのあつひで)。
 次に、
将軍家実朝卿。
 将軍家の御乗物は檳榔毛(びろうげ)の牛車。
 車副(くるまぞえ)四人、
扈従(こじゅう)は坊門大納言忠信卿。
 次に随兵十人、
 皆、甲冑を帯びている。
 次に雑色(ぞうしき)二十人、
 検非違使(けびいし)一人、
  その検非違使の供奉として、
   調度懸(ちょうどがけ)一人、
   小舎人童(こどねりわらわ)一人、
 看督長(かどのおさ)二人、
 火長(かちょう)二人、
 放免(ほうめん)五人。
 次に、将軍家御調度懸、
佐々木五郎左衛門尉義清
 次に、随身(ずいじん)六人。
 次に、
新大納言忠清・宰相中将国道以下
 公卿五人
 が、各々、前駆と随身を伴う。
 次に、
受領(ずりょう)の大名三十人。
 行列掉尾には、
 路次(ろし)の随兵一千騎
が、それぞれに花を飾り、色鮮やかに着こなして、道中辻々警護を厳しく致して、御所より鶴岡八幡宮まで、大河の如くにねり廻り出でて赴き遊ばされる絢爛は、とても想像だにし得ず、また、筆舌にさえ尽くし得ぬほどのもので御座る。
「前代にもかくなる盛大なる儀式は例(ためし)、これなく、後代にも二度とはあるまじい。」
とて、貴賤上下の見物人は、なおますます膨れ上がって、立錐の余地もないほどで御座る。
 道中の路次(ろし)は両側ともに何処(いずこ)も混み合って、その中でも特に押し合いへし合いしおる場所にては、
「万一、乱暴狼藉等、出来(しゅったい)致いては。」
と、警備の兵どもが駆け回っては騒ぎを静めるのに躍起で、落ち着いている暇もない。

〈鶴岡八幡宮社前の段〉
 まさに拝賀の行列が鶴岡八幡宮寺の楼門にお入りにならんとした、丁度その時、右京大夫(うきょうのだいふ)義時殿、俄かに御気分が悪くなられ、御剣持(みけんもち)を仲章朝臣殿に急遽、譲られて退出なされる。

〈右大臣拝賀の段〉
 右大将実朝公は小野の御亭より八幡の社前に参向なされ、夜に入って、参拝の儀式を終えられ、楽人(がくじん)が楽を奏し、祝部(ほうり)が鈴を持って鳴らしつつ最後に、実朝卿に右大臣の拝賀に際しての心構えや禁制と思しい神の思し召しをお伝え申し上げた。

〈鶴ヶ岡石階(いしだん)の段〉
 上宮(かみのみや)での式次第を滞りなく終えられ、二尺ほども積もった雪の中、清浄に雪の除かれた社前の道をお下りになられた。
 その時、当八幡宮の別当、阿闇梨公暁殿、秘かに下る石階(いしだん)の辺りにて隙を覗い、ぱっと飛び出でたかと思うと、剣を抜き放って、右大臣実朝公の首を一太刀に打ち落とした。
――白き雪に真っ紅な血の華が飛び散った……
……公暁殿は、その御頭(みぐし)を乱暴に引っ提げると、電光の如、素早く逃げて行方を眩ました。

〈鶴岡境内の段〉
 闇夜の混乱の中、武田五郎信光を先頭に、大声を張り上げては互いに味方を確認し合いつつ、随兵らが四方八方へ走り散って、逃げた賊を探し求めたが、暗中の模索なればこそ、一体、実朝公暗殺、これ誰人(たれびと)の仕出かしたことかさえも相い分からぬ。

〈別当本坊の段〉
 暫くして、
「――これ、別当坊公暁の所為じゃ!――」
と、誰ともなく口に出し、それが知れ渡ったによって、別当職となれば! とて、雪ノ下の公暁の本坊に方々、押し寄せてはみたものの、公暁殿はおわさぬ。

〈鶴岡社頭の段〉
 かくも盛大荘厳であった行列の順列なんども、これ、みるみるうちに乱れに乱れ、公卿・殿上人は裸足のままに逃げ惑い、束帯の冠なんども脱げてどこぞに落ち失せる。
 一千余騎の随兵らは、皆、馬手(めて)を絞って馬を廻しては馳せ、雲霞の如くなだれ込んで来る。
 暗夜の騒擾なれば、逃げ遅れ、前へと突き出だされた貴賤を問わざる見物の人々は、これ、多くが兵馬に踏み殺され、或いは鎮圧のために不用意に抜き振られた太刀に打ち倒されて、これ、鎌倉中、目にも心にも全き闇(やみ)と相い成って、
「……これは……そ、そもそもが……一体、何が如何(いかが)致いたことなるぞ!?」
と、人々は魂消(たまげ)、ただただ呆然とするばかりであった。

〈三浦屋敷の段〉
 その頃、公暁禅師は後見人であられた備中阿闍梨殿の雪ノ下の坊にお入りになっていた。
 ともかくもと、ともにここまで連れ逃げて参った乳母子(めのとご)の弥源太兵衛尉(みげんたひょうえのじょう)を使者として、三浦左衛門尉義村殿に仰せ遣わせられた御消息には、
「……今は以って将軍の官職は欠員となった。我は関東の武門棟梁のの嫡孫である。速やかに将軍職就任への企計を廻らすがよい――ともかくも委細面談の上――」
とあった。
 なお、ここで何故三浦義村殿の元へ消息を送って事後を頼んだのかと申せば、義村の子息 である駒若丸は、かの公暁殿の門弟であったればこそ、その好(よし)みを頼んで、かくも言いやられたので御座った。
 さて、義村、これを聞いて、
「――まずは――拙宅へと来たり給え。――御迎えの護衛の兵士を追っ付け、差し向けますれば――」
と返答して、使者の弥源太をば帰し、そのそばから直ちに右京大夫義時殿に、以上の経緯を急告致いた。
 そうして――義時邸からの返事は――これ――「左右(そう)なく誅し奉るべし」――で御座った。――
 そこで義村は、
「……公暁は並みの人物にては、これ、御座ない!……武威も蛮勇も兵法も功者なればこそ……そう容易くは我らが謀りごとには載って参るまい。……」
と評議一決、彼に劣らぬ蛮勇にして精悍なる武士を選び、長尾新六定景を大将として、万全の誅殺部隊を組織して討手(うって)として備中阿闍梨の坊へと直ちに向けられた。

〈鶴岡後背大臣山峰の段〉
 定景は黒皮縅(くろかわおどし)の鎧を着し、無双の大力を誇る強者(つわもの)雑賀(さいか)次郎以下、郎従五人を引き連れて、公暁のおわす備中阿閣梨の坊へと向かう。
 公暁殿はと言えば、三浦の兵の迎えの来ぬに痺れを切らし、指示通り鶴岡の後ろの峰に登って、そこから間道を義村の家の方へを迂回して向かおうとなさっておられたが、まさしくその途次にて、長尾定景と行き合った。
 公暁殿は定景に尋常ならざる気配を見抜きはした。――が――しかし――それは遅過ぎたのだった。
 定景、太刀をすかさず抜き取り、あっと言う間に御頭(みぐし)を打ち落とし申し上げたのであった。
 その場で探り見ると、公暁殿は、素絹(そけん)の法衣の下に腹巻(はらまき)をしっかりとなさっておられた。
 長尾は、そこで公暁の御頭を持って馳せ帰って、三浦義村、そして北条義時とがこれを実検した。

〈大江広元の証言〉
 前(さき)の大膳大夫(だいぜんのだいふ)大江広元入道覚阿殿の語り。
「……今日の恐るべき出来事は、拙者には何か、かねてより予感さるるところが、これ、御座ったように思わるる。……今朝、将軍家が御所を御出立するの時に臨んで、我ら、直(じき)に申し上げたことには、
『……この覚阿、成人してよりこの方、今日(こんにち)に至るまで遂に、涙の面(おもて)に浮かびしことは、これ、一度として御座らなんだ。……しかるに、只今――御前に参って――かくもしきりに涙の出ずる……これ、ただ事とも思われませぬ。――定めて、何か深い因縁のあるものかとも存じ奉る。――さればこそ――東大寺供養の砌り、右大将家の御出座の際の先例に倣い、御束帯の下に腹巻を御着帯下さいまするように――』
と申し上げたのであった。ところが、その場にあった、かの将軍家とともに右京兆(うきょうのちょう)殿の身代わりとして亡くなられた源仲章朝臣殿が、
『――大臣・大将に昇った人にあっては未だ嘗て腹巻を着帯なされたという例式は、これ、御座らぬ。』
と口を挟まれた。
 されば、その仲章殿の一言によって、その腹巻の着用は沙汰止みとなったて御座ったのじゃ。……
 また、御出立の直前には、宮田兵衞尉公氏(きんうじ)が御調髪をし申し上げて御座ったが、その折り、実朝公は、自ら御自身の鬢(びん)の御髪(みぐし)を一筋お抜きになられ、
『――これを形見に――』
とおっしゃっられて、公氏にお授けになられ、そうして……次に、縁端(えんばな)へとお歩み寄りになられると庭の梅をご覧になられ、

  出ていなば主なき宿となりぬとも軒端の梅よ春を忘るな
   ――私が出で去ってしまったならば……
   ――この宿居は主人(あるじ)がおらぬ屋敷となって……
   ――誰からも忘れ去られてしまって浅茅が宿と化すにしても……
   ――しかし……そうなったとしても……
   ――お前、軒端に美しく咲く梅よ、……
   ――この世の春を……忘れずに……
   ――いつまでも……咲いて……いよ……

とお詠みになられた。……
 その他にも、例えば、南門を出られ際には、白き霊鳩(れいきゅう)がしきりに鳴き騒ぎ、また、鶴岡社頭にて牛車よりお降りになられた時には、お佩きになられておられた礼式の御剣(ぎょけん)を突き折られてしまわれるなど……これ、禁忌に触るる、不穏にして不吉なる出来事が、まっこと、多くに御座った。……返す返すも……我らさえ、後悔致いておるところにて御座る。」
と語られたと申す。

〈葬儀埋葬次第〉
 その日の内に、故将軍家御台所坊門信子(ぼうもんのぶこ)様が落飾なされる。
 御家人百余名も、これ、同時に出家致いた。
 翌二十八日、御葬礼を営まんとしたが、御頭(みぐし)は未だに御所在、これ、不明なれば、
「五体不具のままにては、葬送の事、甚だ、差支え、これ、あり。」
とのことなれば、昨日、公氏に賜わられたところの鬢(びん)の髪一筋を、これ、御頭(みぐし)と擬(なぞら)えて、棺に納め申し上げ奉り、勝長寿院の傍らに葬り申し上げたは、……ああぁ! これ、何たる、哀れなるかな!……

 その初め、建仁三年に実朝卿の将軍に任ぜられなさってよりこのかた、今年に至るまで、治世十七年、御年二十八歳にして白刃の一閃に中(あた)って黄泉(こうせん)へとう埋もれなさって、人間(じんかん)を辞して幽冥の途次(とじ)へと隠れになられ、紅いの華麗な花の如き栄華も、瞬く間に、枯れ落ち朽ち尽きてしまわれた。
 頼朝公・頼家公・実朝公――これを源家三代将軍と称す。その治世の間、合わせて四十年。公暁殿は頼家公の子息にて、四歳にして父に死に別れ、この年、未だ十九歳、僅かの間(ま)に亡んでしまわれたのであった。――

〇公右大臣に任ず 付 拜賀 竝 禪師公曉實朝を討つ〈コーダ〉 附やぶちゃん注 了

○實朝公右大臣に任ず 付 拜賀 竝 禪師公曉實朝を討つ

〈コーダ〉

前〔の〕大膳〔の〕大夫中原(なかはらの)廣元入道覺阿、申されけるは、「今日の勝事(しようじ)は豫て示す所の候。將軍家御出立の期(ご)に臨みて申しけるやうは、覺阿成人して以來(このかた)、遂に涙の面に浮ぶ事を知らず。然るに、今御前に參りて、頻に涙の出るは是(これ)直事(たゞごと)とも思はれず。定(さだめ)て子細あるべく候か。東大寺供養の日、右大將家の御出の例(れい)に任せて、御束帶(ごそくたい)の下に腹卷(はらまき)を著せしめ給へと申す。仲章朝臣、申されしは、大臣、大將に昇る人、未だ其例式(れいしき)あるべからずと。是(これ)に依(よる)て止(とゞ)めらる。又、御出の時、宮田兵衞〔の〕尉公氏(きんうぢ)、御鬢(ぎよびん)に候(こう)ず。實朝公、自(みづから)鬢(びんのかみ)一筋(すぢ)を拔きて御記念(かたみ)と稱して賜り、次に庭上の梅を御覽じて、
  出でていなば主なき宿と成りぬとも軒端の梅よ春を忘るな
其外商門を出で給ふ時、靈鳩(れいきう)、頻(しきり)に鳴騷(なきさわ)ぎ、車よりして下(お)り給ふ時、御劍(ぎよけん)を突折(つきをり)候事、禁忌、殆ど是(これ)多し。後悔せしむる所なり」とぞ語られける。御臺所、御飾(かざり)を下(おろ)し給ふ。御家人一百餘輩、同時に出家致しけり。翌日、御葬禮を營むといへ共、御首(おんくび)は失せ給ふ、五體不具にしては憚りありとて、昨日(きのふ)、公氏に賜る所の鬢(びんのかみ)を御首に准(じゆん)じて棺に納め奉り、勝長壽院の傍(かたはら)に葬りけるぞ哀(あはれ)なる。初(はじめ)、建仁三年より、實朝、既に將軍に任じ、今年に及びて治世(ぢせい)十七年、御歳(おんとし)二十八歳、白刃(はくじん)に中(あたつ)て黄泉(くわうせん)に埋(うづも)れ、人間を辭して幽途(いうと)に隱れ、紅榮(こうえい)、既に枯落(こらく)し給ふ。賴朝、賴家、實朝を源家三代將軍と稱す、其(その)間、合せて四十年、公曉は賴家の子、四歳にて父に後(おく)れ、今年十九歳、一朝に亡び給ひけり。
以下、実朝暗殺のコーダ部分を「吾妻鏡」で見る。
〇原文
抑今日勝事。兼示變異事非一。所謂。及御出立之期。前大膳大夫入道參進申云。覺阿成人之後。未知涙之浮顏面。而今奉昵近之處。落涙難禁。是非直也事。定可有子細歟。東大寺供養之日。任右大將軍御出之例。御束帶之下。可令著腹卷給云々。仲章朝臣申云。昇大臣大將之人未有其式云々。仍被止之。又公氏候御鬢之處。自拔御鬢一筋。稱記念賜之。次覽庭梅。詠禁忌和歌給。
 出テイナハ主ナキ宿ト成ヌトモ軒端ノ梅ヨ春ヲワスルナ
次御出南門之時。靈鳩頻鳴囀。自車下給之刻被突折雄劔云々。
又今夜中可糺彈阿闍梨群黨之旨。自二位家被仰下。信濃國住人中野太郎助能生虜少輔阿闍梨勝圓。具參右京兆御亭。是爲彼受法師也云云。
〇やぶちゃんの書き下し文
抑(そもそも)、今日の勝事(しようし)、兼ねて變異を示す事一(いつ)に非ず。所謂、御出立の期(ご)に及びて、前大膳大夫入道、參進し申して云はく、
「覺阿成人の後、未だ涙の浮ぶ顏面を知らず。而るに今、昵近(ぢつきん)奉るの處、落涙禁じ難し、是れ、直(ただ)なる事に非ず。定めて子細有るべきか。東大寺供養の日の、右大將軍御出の例に任せ、御束帶の下に、腹卷を著せしめ給ふべし。」
と云々。
仲章朝臣、申して云はく、
「大臣大將に昇るの人、未だ其の式有らず。」
と云々。
仍つて之を止めらる。又、公氏、御鬢(ごびん)に候ふの處、御鬢より一筋拔き、
「記念。」
と稱し、之を賜ふ。次いで、庭の梅を覽ぜられて、禁忌の和歌を詠じ給ふ。

 出でていなば主(ぬし)なき宿と成りぬとも軒端(のきば)の梅よ春をわするな

次いで、南門を御出の時、靈鳩、頻りに鳴き囀(さへづ)り、車より下り給ふの刻(きざみ)、雄劔(ゆうけん)を突き折らると云々。
又、今夜中に阿闍梨の群黨を糺彈すべきの旨、二位家より仰せ下さる。信濃國住人中野太郎助能(すけよし)、少輔阿闍梨勝圓を生虜(いけど)り、右京兆の御亭へ具し參る。是れ、彼の受法の師たるなりと云云。
・「中野助能」(生没年未詳)幕府御家人。信濃出身。「吾妻鏡」では本件以外に、寛喜二(一二三〇)年二月八日の条で承久の乱での功績により、領していた筑前勝木荘の代わりに筑後高津・包行(かねゆき)の両名田を賜るという記事で登場する。
・「少輔阿闍梨勝圓を生虜」公暁の後見人であったこの勝円なる人物は同月末日の三十日に義時の尋問を受けるが、申告内容から無罪となって、本職を安堵されている。一方、「吾妻鏡」同条には、公暁が最初に逃げ込んだ同じく「後見」の「備中阿闍梨」については、先に掲げた通り、雪の下宅地及び所領の没収が命ぜられている(但し、この備中阿闍梨にしても、その後の本人の処罰内容は掲げられていない。おかしくはあるまいか? 犯行後に真っ先に逃亡した先の住僧であり、同じく公暁の後見人である。如何にも怪しいではないか)。
「勝事」快挙の意以外に、驚くべき大事件の意があり、ここでは後者。
「仲章朝臣」文書博士源(中原)仲章(なかあきら/なかあき ?~建保七(一二一九)年一月二十七日)。元は後鳥羽院近臣の儒学者であったが、建永元(一二〇六)年辺りから将軍実朝の侍読(教育係)となった。「吾妻鏡」元久元(一二〇四)年一月十二日の条に『十二日丙子。晴。將軍家御讀書〔孝經。〕始。相摸權守爲御侍讀。此「僧」儒依無殊文章。雖無才名之譽。好集書籍。詳通百家九流云々。御讀合之後。賜砂金五十兩。御劔一腰於中章。』(十二日丙子。晴。將軍家御讀書〔孝經。〕始め。相摸權守、御侍讀をたり。此の儒、殊なる文章無きに依りて、才名の譽無しと雖も、好んで書籍を集め、詳かに百家九流に通ずと云々。御讀合せの後、砂金五十兩、御劔一腰を中章に賜はる。)と記す。御存知のように、彼は実朝と一緒に公暁によって殺害されるのであるが、現在では、彼は宮廷と幕府の二重スパイであった可能性も疑われており、御剣持を北条義時から譲られたのも、実は偶然ではなかったとする説もある。
「宮田兵衞尉公氏公氏」宮内公氏が正しい。実朝側近。秦姓とも。

又、御出の時、(きんうぢ)、御鬢(ぎよびん)に候(こう)ず。實朝公、自(みづから)鬢(びんのかみ)一筋(すぢ)を拔きて御記念(かたみ)と稱して賜り、次に庭上の梅を御覽じて、
  出でていなば主なき宿と成りぬとも軒端の梅よ春を忘るな
其外商門を出で給ふ時、靈鳩(れいきう)、頻(しきり)に鳴騷(なきさわ)ぎ、車よりして下(お)り給ふ時、御劍(ぎよけん)を突折(つきをり)候事、禁忌、殆ど是(これ)多し。後悔せしむる所なり」とぞ語られける。
「御臺所……」以下は、「吾妻鏡」の翌一月二十八日の条の基づく。以下に示す。
〇原文
廿八日。今曉加藤判官次郎爲使節上洛。是依被申將軍家薨逝之由也。行程被定五箇日云云。辰尅。御臺所令落飾御。莊嚴房律師行勇爲御戒師。又武藏守親廣。左衞門大夫時廣。前駿河守季時。秋田城介景盛。隱岐守行村。大夫尉景廉以下御家人百餘輩不堪薨御之哀傷。遂出家也。戌尅。將軍家奉葬于勝長壽院之傍。去夜不知御首在所。五體不具。依可有其憚。以昨日所給公氏之御鬢。用御頭。奉入棺云云。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿八日。今曉、加藤判官次郎、使節と爲し上洛す。是れ、將軍家薨逝の由申さるるに依つてなり。行程五箇日と定めらると云云。
辰の尅、御臺所、落飾せしめ御(たま)ふ。莊嚴房(しやうごんばう)律師行勇、御戒師たり。又、武藏守親廣・左衞門大夫時廣・前駿河守季時・秋田城介景盛・隱岐守行村、大夫尉景廉・以下の御家人百餘輩、薨御の哀傷に堪へず、出家を遂ぐるなり。戌の尅、將軍家、勝長壽院の傍らに葬り奉る。去ぬる夜、御首の在所を知ず、五體不具たり。其の憚り有るべきに依つて、昨日、公氏に給はる所の御鬢(ごびん)を以つて、御頭(みぐし)に用ゐ、棺に入れ奉ると云云。
・「辰の刻」午前八時頃。
・「御臺所」坊門信子(ぼうもんのぶこ 建久四(一一九三)年~文永一一(一二七四)年)。実朝正室。西八条禅尼と通称された。出家後の法名は本覚尼。父は公卿坊門信清。元久元(一二〇四)年に実朝の正室となって鎌倉に赴いた。実朝との仲は良かったといわれるが、子は出来なかった。出家後は京に戻った。当時、満二十六歳であった。その後、承久三(一二二一)年五月に起こった承久の乱では兄坊門忠信・坊門忠清らが幕府と敵対して敗北するも、彼女の嘆願によって死罪を免れている。九条大宮の地に夫の菩提寺遍照心院(現在の大通寺)を建立。享年八十二で亡くなった。
・「武藏守親廣」源親広。以下、「左衞門大夫時廣」は大江時広、「前駿河守季時」は中原季時、「秋田城介景盛」は安達景盛、「隱岐守行村」は二階堂行村、「大夫尉景廉」は加藤景廉。

実朝の首は一体、何処へ行ってしまったのだろう?
現在、秦野市東田原に「源実朝公御首塚(みしるしづか)」なるものがあるが、同市観光協会の記載などには、『公暁を討ち取った三浦氏の家来、武常晴(つねはる)』や大津兵部『によってこの秦野の地に持ちこまれ』、『当時この地を治める波多野忠綱に供養を願い出て、手厚く葬られたと伝えられ』とするが、これは到底、信じ難い。……失われた実朝の首の謎……彼はそれ故に顔なき悲劇の貴公子であり――puer eternus――プエル・エテルヌスであり続ける……]

○實朝公右大臣に任ず 付 拜賀 竝 禪師公曉實朝を討つ〈第4パート〉 附やぶちゃん注

○實朝公右大臣に任ず 付 拜賀 竝 禪師公曉實朝を討つ

〈第4パート〉


禪師公曉は、御後見(ごこうけん)備中阿闍梨の雪下の坊に入りて、乳母子(めのとご)の彌源太(みげんだ)兵衞尉を使として、三浦左衞門尉義村に仰せ遣されけるやう、「今は將軍の官職、既に闕(けつ)す。我は關東武門の長胤(ちやういん)たり。早く計議(けいぎ)を廻らすべし。示合(しめしあは)せらるべきなり」とあり。義村が息駒若丸、かの門弟たる好(よしみ)を賴みて、かく仰せ遣(つかは)さる。義村、聞きて、「先(まづ)此方(こなた)へ來り給へ。御迎(おんむかひ)の兵士(ひやうし)を參(まゐら)すべし」とて、使者を歸し、右京〔の〕大夫義時に告げたり。公曉は直人(たゞびと)にあらず、武勇兵略(ぶようひやうりやく)勝れたれば、輒(たやす)く謀難(はかりがた)かるべしとて、勇悍(ようかん)の武士を擇び、長尾〔の〕新六定景を大將として、討手をぞ向けられける。定景は黑皮威(くろかはおどし)の胄(よろひ)を著(ちやく)し、大力(だいりき)の剛者(がうのもの)、雜賀(さいがの)次郎以下郎従五人を相倶して、公曉のおはする備中阿闍梨の坊に赴く。公曉は鶴ヶ岡の後(うしろ)の峰に登りて義村が家に至らんとし給ふ途中にして、長尾定景、行合ひて、太刀おつ取りて御首を打落しけり。素絹(そけん)の下に腹卷をぞ召されける。長尾御首を持ちて馳歸り、義村、義時是を實檢す。

〈第4パート注〉

[やぶちゃん注:以下、公暁誅殺までを「吾妻鏡」で見る。

○原文

爰阿闍梨持彼御首。被向于後見備中阿闍梨之雪下北谷宅。羞膳間。猶不放手於御首云々。被遣使者弥源太兵衞尉〔闍梨乳母子。〕於義村。今有將軍之闕。吾專當東關之長也。早可廻計議之由被示合。是義村息男駒若丸依列門弟。被恃其好之故歟。義村聞此事。不忘先君恩化之間。落涙數行。更不及言語。少選。先可有光臨于蓬屋。且可獻御迎兵士之由申之。使者退去之後。義村發使者。件趣告於右京兆。京兆無左右。可奉誅阿闍梨之由。下知給之間。招聚一族等凝評定。阿闍梨者。太足武勇。非直也人。輙不可謀之。頗爲難儀之由。各相議之處。義村令撰勇敢之器。差長尾新六定景於討手。定景遂〔雪下合戰後。向義村宅。〕不能辞退。起座著黑皮威甲。相具雜賀次郎〔西國住人。強力者也。〕以下郎從五人。赴于阿闍梨在所備中阿闍梨宅之刻。阿闍梨者。義村使遲引之間。登鶴岳後面之峯。擬至于義村宅。仍與定景相逢途中。雜賀次郎忽懷阿闍梨。互諍雌雄之處。定景取太刀。梟闍梨〔着素絹衣腹卷。年廿云々。〕首。是金吾將軍〔頼家。〕御息。母賀茂六郎重長女〔爲朝孫女也。〕公胤僧正入室。貞曉僧都受法弟子也。定景持彼首皈畢。即義村持參京兆御亭。亭主出居。被見其首。安東次郎忠家取指燭。李部被仰云。正未奉見阿闍梨之面。猶有疑貽云々。

○やぶちゃんの書き下し文

爰に阿闍梨、彼(か)の御首を持ち、後見(こうけん)備中阿闍梨の雪下(ゆきのした)北谷の宅に向はる。膳を羞(すす)むる間、猶ほ手を御首より放たずと云々。

使者弥源太兵衞尉〔闍梨(じやり)の乳母子(めのことご)。〕を義村に遣はさる。

「今、將軍の闕(けつ)有り。吾れ專ら東關の長に當るなり。早く計議を廻らすべし。」

の由、示し合はさる。是れ、義村息男駒若丸、門弟に列するに依つて、其の好(よし)みを恃(たの)まるるの故か。義村、此の事を聞き、先君の恩化を忘れざる間、落涙數行、更に言語に及ばず。少選(しばらく)あつて、

「先づ蓬屋(ほうおく)に光臨有るべし。且つは御迎への兵士を獻ずべし。」

の由、之を申す。使者退去の後、義村、使者を發し、件(くだん)の趣を右京兆に告ぐ。京兆、左右(さう)無く、

「阿闍梨を誅し奉るべし。」

の由、下知し給ふの間、一族等を招き聚めて、評定を凝らす。

「阿闍梨は、太(はなは)だ武勇に足り、直(ただ)なる人に非ず。輙(たやす)く之を謀るべからず。頗る難儀たり。」

との由、各々相ひ議すの處、義村、勇敢の器(うつは)を撰ばしめ、長尾新六定景を討手に差す。定景、遂に〔雪下の合戰後、義村が宅へ向ふ。〕辞退に能はず、座を起ち、黑皮威の甲を著し、雜賀(さひか)次郎〔西國の住人、強力の者なり。〕以下郎從五人を相ひ具し、阿闍梨の在所、備中阿闍梨が宅に赴くの刻(きざみ)、阿闍梨は、義村が使ひ、遲引の間、鶴岳後面の峯に登り、義村が宅に至らんと擬す。仍つて定景と途中に相ひ逢ふ。雜賀次郎、忽ちに阿闍梨を懷き、互ひに雌雄を諍ふの處、定景、太刀を取り、闍梨〔素絹の衣、腹卷を着す。年廿と云々。〕が首を梟(けう)す。是れ、金吾將軍〔賴家。〕の御息、母は賀茂六郎重長が女〔爲朝の孫女なり。〕。公胤僧正に入室、貞曉僧都受法の弟子なり。定景、彼(か)の首を持ちて皈(かへ)り畢んぬ。即ち義村、京兆の御亭に持參す。亭主、出で居(ゐ)にて其の首を見らる。安東次郎忠家、指燭(しそく)を取る。李部、仰せられて云はく、

「正しく未だ阿闍梨の面(おもて)を見奉らず。猶ほ疑貽有り。」

と云々。

「吾妻鏡」では、実は当時の幕府の要人が阿闍梨の顔を誰も知らなかったと推測されることが首実検に立ち会った「李部」(式部省の唐名。当時の泰時の経官歴は式部丞)北条泰時(当時満二十一歳)が本当に公暁の首であるかどうかに疑義を挟んでいるのが注目される。話として頗る面白い(肝心の実朝の首は見つからず、謀叛人の首が残るとは如何にも不思議ではないか)が、通史としての「北條九代記」では、何やらん、判官贔屓の実朝トンデモ生存説(大陸に渡って実は知られた○〇禅師こそが実朝だった! なってえのはどうよ?)でも臭わせそうな雰囲気になるから、やっぱ、カットやろうなぁ……。

「備中阿闍梨」彼の名は、この後、三日後の三十日の条に彼の雪ノ下(後の二十五坊ヶ谷である)の屋敷が没収されたという条、翌二月四日にその屋敷地が女官三条局の望みによって付与された旨の記載を以って一切載らない。怪しいではないか。

「乳母子の彌源太兵衞尉」ここで「乳母子」とあるということは次に示す「駒若丸」北条光村の兄弟(恐らく弟)でなくてはならない。

「義村が息駒若丸、かの門弟たる好」「駒若丸」は三浦義村の四男三浦光村(元久元(一二〇五)年~宝治元(一二四七)年)の幼名。後の三浦氏の当主となる三浦泰村の同母弟。早い時期に僧侶にさせるために鶴岡八幡宮に預けられたらしく、この頃は公暁の門弟であった。「吾妻鏡」では建保六(一二一八)年九月十三日の条で、将軍御所での和歌会の最中、鶴岡八幡宮境内に於いて月に浮かれ出た児童・若僧が鶴岡廻廊に配されていた宿直人に乱暴狼藉を働き、その不良少年団の張本人として挙げられ、出仕を止められる、という記事を初見とする。暗殺当時でも未だ満十四歳である。後に実家である三浦氏に呼び戻され、兄泰村とともに北条氏と並ぶ強大な権力を有するようになったが、後の宝治元(一二四七)年の宝治合戦で北条氏によって兄とともに滅ぼされた。小説家永井路子氏が実朝暗殺三浦氏説の最大の根拠(乳母の家系はその養育した家系の子を殺めることはないという不文律)とするように、公暁の乳母は三浦義村の妻であり、その子であったこの駒若丸は公暁の乳兄弟であって門弟でもあった。一方、実朝の乳母は北條時政の娘で政子や義時の姉妹で兄弟である阿波局である。但し、私はこの歴史学者の支持も多い永井説には全く組出来ない。私は北条義時策謀張本説を採る(三浦は北条の謀略に気づいてはいた)。この時の義時の壮大な謀略計画の体系(後の北条得宗の濫觴となるような)の中では、乳母―乳母子血脈説なんどという問題は容易に吹き飛んでしまうと考えているのである。私のその考えは、私が二十一歳の時に書いた噴飯小説「雪炎」以来、今も一貫して変化していない。よろしければ、御笑覧あれ。……あの頃……どこかで小説家になりたいなどと考えていたことをむず痒く思い出した……。

『使者退去の後、義村、使者を發し、件の趣を右京兆に告ぐ。京兆、左右無く、「阿闍梨を誅し奉るべし』この下りが、私のとって永い間、疑問なのである。真の黒幕を追求すべき必要性が少しでもあるとならば、義時は生捕りを命ぜねばならない。しかも(と同時に、にも拘わらず)源家の嫡統である公暁を「左右(さう)無く」(ためらうことなく)「誅し奉」れ、というのは如何にも『変』である。そのおかしさには誰もが気づくはずであり、それがやる気がない理由があるとすれば、ただ一つ、謀略の総てを義時が最早、知尽していたから以外にはあり得ない。だからこそ彼は危機一髪、『難』を逃れているのだ。これについては「吾妻鏡」の事件直後、翌二月八日の条に早くも弁解染みて奇妙に示されていることは知られた話である。
〇原文
八日乙巳。右京兆詣大倉藥師堂給。此梵宇。依靈夢之告。被草創之處。去月廿七日戌尅供奉之時。如夢兮白犬見御傍之後。御心神違亂之間。讓御劍於仲章朝臣。相具伊賀四郎許。退出畢。而右京兆者。被役御劔之由。禪師兼以存知之間。守其役人。斬仲章之首。當彼時。此堂戌神不坐于堂中給云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
八日乙巳。右京兆、大倉藥師堂に詣で給ふ。此の梵宇は、靈夢の告げに依つて、草創せらるるの處、去ぬる月廿七日戌の尅、供奉の時、夢のごとくにして、白き犬、御傍に見るの後、御心神違亂の間、御劍を仲章朝臣に讓り、伊賀四郎許りを相ひ具して、退出し畢んぬ。而るに右京兆は、御劔を役せらるるの由、禪師、兼て以つて存知するの間、其の役の人を守りて、仲章の首を斬る。彼の時に當りて、此の堂の戌神(いぬがみ)、堂中に坐(おは)しまし給はずと云々。
というあからさまなトンデモな霊験譚である。大倉薬師堂は既に見た通り、義時が大方の反対を押し切って前年に私財を擲って建立した『変』な寺なのだ。さて――拝賀の式の行列が鶴岡社頭にさしかかった際、彼にだけ白い犬が自分の傍へやってくるのが見え、俄に気分が悪くなって、内々に急遽、実朝の御剣持を仲章に代行してもらうこととして、たった一人の従者を連れてこっそりと自邸へ戻ったが、仲章が代役になっていることを知らずに、事前に何者かに知らされていた通り、御剣持役の人間を義時と信じて疑わずに今一つのターゲットとして首を刎ねた――というのである。しかも――その拝賀の式当日、不思議なことに大倉薬師堂の十二神将の戌神の像だけが、忽然と消えており、事件後には再び戻っていた――というのである。――この話、読み物としてはそれなりに面白いはずなのに「北條九代記」の作者は採用していない。大倉薬師堂の建立の事実をわざわざ書いておきながら、である。わざわざ書いたということは、私は恐らく筆者はこの後日譚を書くつもりだったのだと思う。ところが、どうにもこの如何にも『変』な作話ばればれの話に、筆を進めて行くうちに、筆者自身があきれ返ってしまい、結局、書かず仕舞いとなったのではなかったか? 逆に私の肯んじ得ない三浦陰謀説に立つならば、ここで義村が期を見極め(義時に謀略がばれたことの危険性が最も高いであろう)公暁の蜂起に利あらずと諦めたのならば、義時に伺いを立てる前に、自律的に公暁の抹殺を計ればよい(実際の公卿の行動やそれを追撃する三浦同族の長尾定景という絶妙の配置からも、義村は失敗した謀略ならばそれを簡単に総て抹消することが出来たのである。義時から万一、事後に抗議や疑義があったとしてもそれらは、公暁は将軍家を放伐した許し難い賊であり、公暁が抗った故に仕方なく誅殺した当然の処置であったと答えればよいのである)。その「不自然さ」を十全に説明しないで、乳母一連托生同族説から三浦陰謀説(中堅史家にも支持者は多い)を唱える永井路子氏には、私は今以って同調出来ないでいるである。

「長尾新六定景」(生没年不詳)既に暗殺直後にテロリスト探索に名が挙がっているがここで注す。石橋山の合戦では大庭景親に従って平家方についたが、源氏勝利の後、許され、和田合戦で功を立てた。ここで公暁を打ち取った時には既に相当な老齢であったと考えられる。今、私の書斎の正面に見える鎌倉市植木の久成寺境内に墓所がある。

『義村、聞きて、「先此方へ來り給へ。御迎の兵士を參すべし」とて、使者を歸し、右京〔の〕大夫義時に告げたり。公曉は直人にあらず、武勇兵略勝れたれば、輒(たやす)く謀難かるべしとて、勇悍の武士を擇び、長尾新六定景を大將として、討手をぞ向けられける』この部分、「北條九代記」の筆者は、「吾妻鏡」にある、重要な義時の即決部分を省略してしまっている。即ち、

京兆、左右無く、

「阿闍梨を誅し奉るべし。」

の由、下知し給ふの間、一族等を招き聚めて、評定を凝らす。

の部分がないのである。これは如何にも不審である。そもそもこれでは公暁誅殺の合議をし、長尾を選抜したのが北条義時であるかのようにさえ誤読されてしまう危険性さえあるのだ。私はこの違和感は実は、「北條九代記」の筆者が、この北条義時の即決の台詞に対して強烈な、私と同じ違和感を感じたからではないか、と考えている。これを記すと「北條九代記」はその輝かしい北条の歴史の当初於いて血塗られた疑惑を読者に与えてしまうからに他ならない。

……そうである。この「吾妻鏡」の伝える部分こそが私の昔からの違和感としてあるのである。――真の黒幕の可能性の追求すべき必要性がある以上、義時は生捕りを命ぜねばならない。にも拘わらず、現在唯一残っている源家の嫡統である公暁を、有無を言わせず、しかも自身の手ではなく、三浦氏に命じて「誅し奉」ったのは何故か? また、逆に私の肯んじ得ない三浦陰謀説に立つならば、ここで義村が期を見極め、公暁蜂起に利あらずと諦めたのならば、義時に伺いを立てる前に、自律的に公暁の抹殺を計らねばならない(実際の公卿の行動やそれを追撃する三浦同族の長尾定景という絶妙の配置や事実結果からみても、義村は失敗したと判断する謀略ならばそれを簡単に総て抹消させることは極めて容易であったはずである)。そうしなければ、普通なら当然の如く行われると考えるはずの公暁への訊問によって三浦謀略の全容が明らかになってしまうからである。にも拘わらず、三浦は義時に伺いを立て、義時は捕縛ではなく誅殺を命じている。義時が潔白であるなら、公暁の背後関係を明らかにし、それらを一掃させることが最大の利となるこの時にして、これは不自然と言わざるを得ない。寧ろ、これはこの実朝暗殺公暁誅殺という呪われた交響詩のプログラムが、総演出者・総指揮者たる北条義時によって組み立てられたものであったことを示唆すると私は考えるのである。そこでは多くの役者が暗躍した。実際にこの後の「吾妻鏡」を見ると、実に怪しいことに気がつく。この実朝暗殺に関わった人間たちの殆んどすべての関係者が、簡単な訊問の後、無関係であるとか、誤認逮捕であったとかという理由で、さりげなく記載されているのである。そして誰もいなくなって、殆んど公暁一人が悪者にされている。こうした関係者までもが皆、三浦氏の息のかかったものであって、三浦の謀略指示について幕府方の訊問でも一切口を割らず、事件が速やかに終息するというのは、この方が如何にも考えにくいことではないか? 寧ろ、総ての駒の動きがフィクサーとしての義時によって神のように管理されていたからこその、鮮やかにして速やかな終息であったと考えた方が自然である。三浦義村は確かに和田合戦でも同族の和田氏を裏切っており、千葉胤綱から「三浦の犬は友を食らうぞ」と批判された権謀術数に長けた男ではある。しかしだからこそ、義時の想像を絶する策謀をもいち早く見抜くことが出来、三浦一族の危機を回避するために、同族乳母子の公暁をも――義時の謀略にはまらないために――蜥蜴の尻尾切りした、とも言えるのである。

「雜賀次郎」三浦の被官であるが、「吾妻鏡」ではここにしか見えない。紀伊国南西の雑賀荘を領有したか。

「公曉は鶴ヶ岡の後の峰に登りて義村が家に至らんとし給ふ途中にして、長尾定景、行合ひて、太刀おつ取りて御首を打落しけり」それでなくても、実朝殺害直後の公暁の行方は不明で神出鬼没なればこそ、これは三浦義村が予め、使者であった北弥源太兵衛尉に援軍の移送経路は間道の峯筋であると指示したものと考えなければ、こんなに都合よく行くはずがない。

「素絹」素絹の衣(ころも)。素絹で作った白い僧服。垂領(たりくび:襟を肩から胸の左右に垂らし、引き合わせるもの。)で袖が広くて丈が長く、裾に襞がある。

「腹卷」鎧の一種で、胴を囲み、背中で引き合わせるようにした簡便なもの。次のシークエンスの広元の台詞でも重要な単語として登場する。]

曉の香料 大手拓次

   黄色い帽子の蛇

 曉の香料

みどりの毛、
みどりのたましひ、
あふれる騷擾のみどりの笛、
木の間をけむらせる鳥の眼のいかり、
あけぼのを吹く地のうへに匍ひまはるみどりのこほろぎ、
波のうへに祈るわたしは、
いま、わきかへるみどりの香料の鐘をつく。



ここより「黄色い帽子の蛇」の章。

鬼城句集 夏之部 夏の月

夏の月  麥飯に何も申さじ夏の月
       長々と蜘蛛さがりけり夏の月

マーラー アダージェット 交響曲 第5番から

マーラー アダージェット 交響曲 第5番から
ノイマン指揮 チェコ・フィルハーモニー管弦楽団 1977年

ああ……僕はヴィスコンティの「ヴェニスに死す」を観るずっと前から……この曲を聴くと涙が止めどなく出てくるのですよ……

ラムネ・他四編 萩原朔太郎

 ラムネ・他四編

 

       ラムネ

 

 ラムネといふもの、不思議になつかしく愉快なものだ。夏の氷屋などでは、板に丸い穴をあけて、そこに幾つとなく、ラムネを逆さにして立てて居る。それがいかにも、瓦斯(ガス)のすさまじい爆音を感じさせる。僕の或る友人は、ラムネを食つて腹が張つたと言つた。あれはたしかに瓦斯で腹を充滿させる。

 だがこの頃、ラムネといふものを久しく飲まない。僕の子供の時には、まだシヤンパンサイダといふものがなく、主としてラムネを飲用した。この頃では、もうラムネが古風なものになり、俳句の風流な季題にさへもなつてしまつた。それで僕が上野に行くと、あの竹の臺の休み茶屋でラムネを飲む。それがいかにも、僕を田舍者らしく感じさせ、世間を離れた空の上で、旗のへんぽんたるものを感じさせる。僕はラムネを飮むと、ふしぎに故郷のことを聯想するから。

 

 

       アイスクリーム

 

 帝劇にバンドマン歌劇が來た時、二階も棧敷も、着飾つた西洋人で一杯だつた。女たちは黑い毛皮の外套を着て、棧敷の背後から這入つて來た。連れの男がそれを脱ぐと、皆眞白な肌を出した。牛裸體の彫像だづた。

 この裸體の人魚たちが、幕間にぞろぞろと廊下を歩いた。白皙の肌の匂ひと、香水の匂ひとでぎつちりだつた。ところどころに、五六人の女が集まり、小さな群圃をつくつてゐた。一人がアイスクリームのグラスを持ち、皆がそれを少し宛、指につまんで喰べてるのである。その女たちの指には、薄い鹿皮の手袋がはめてあつた。

 僕は始めて知つた。アイスクリームといふものは、鹿皮の手袋をした上から、指先でつまんで食ふものだといふことを。女たちは嬉々としてしやべつてゐた。

 

       ソーダ水

 

 ソーダ水に麦稈(むぎわら)の管をつけて吸ふこと、同じやうに西洋文明の趣味に屬する。あれは巴里の珈琲店で、若い女と氣の輕い話をしつつ、靜かに時間を樂しんで吸ふべきものだ。日本の慌ただしい生活と、東京の雜駁なる市街の店で、いかにあの麦稈は不調和なるかな! 僕は第一にソーダ水から、あの『腹の立つもの』を取り捨ててしまふ。

 

      玉露水

 

 昔は玉露水といふのがあつた。厚い錫の茶碗の中に、汲み立ての冷水を盛つて飮むのである。いつか遠い昔のことだ。死んだ祖母に連れられて伊香保から榛名を越えた。山の中腹の休み茶屋で、砂糖の少し入つた玉露水を飮んだ。

 玉露水は、今の氷水よりもずつとつめたく、淸水のやうに澄みきつてゐる。

 

      麥酒

 

 瀧を見ながら麥酒が飮みたい。

 

[やぶちゃん注:「令嬢界」第七巻第八号・昭和三(一九二八)年八月号に掲載された。太字は底本では傍点「ヽ」。

「竹の臺」上野公園のほぼ中央部にある、知られた大噴水を中心とした広場のある所の地名。江戸時代にはここに東叡山寛永寺の中心であった根本中堂の大伽藍があったが戊辰戦争で失われた(明治一二(一八七九)年に現在地である旧子院大慈院跡に寺とともに復興再建)。名称は両側に慈覚大師が唐の五台山から竹を根分けして持ち帰って比叡山に移植したものが更に根分されて、当時の寛永寺のこの付近に植えられたことに由来するものと思われる。

「バンドマン歌劇」バンドマン喜歌劇団、インドのカルカッタで活躍したイギリスの興行師バンドマン(Maurice E.Bandmann 一八七二年~一九二二年)が東洋巡業のためにロンドンで編成した歌劇団で、五十人前後のキャスト・スタッフに加えて、十人前後の弦楽器とピアノ・管楽器を数本加えた小編成のオーケストラも持っていた。三九(一九〇六)年五月が初来日でその後、毎年一回十年に亙って定期的に来日、浅草オペラへも大きな影響を与えたと考えられている劇団である。参照した個人のジョアン・ロドリゲス・ツヅの顕彰ページ「tsuzuのページ」内の浅草オペラ前史明治時代における外国人によるオペラ・オペレッタ上演の記録―」を見る限りでは明治四四(一九一一)年二月に開場した帝国劇場での上演は、翌四五(一九一二)年六月二十四日の七回目の来日(同年表による)の際の『大阪・京都・東京で公演』とあるものを指す。底本の筑摩版全集第十五巻の年譜の同明治四五(一九一二)年(この年は大正元年である)には、五月二十一日~三十日に『帝國劇場にバンドマン一座のコミックオペラ上演され、一度ならず觀劇した模樣』とある(リンク先と月の齟齬があるが朔太郎の観劇の事実情報としては問題がない)。この時のバンドマンの上演したもの、萩原朔太郎が観たものが何であったかは不明であるが、リンク先の年譜を見ると、同歌劇団の十八番にはフランツ・レハール(一八七〇年~一九四八年)のオペレッタ「メリー・ウィドウ」(陽気な未亡人)があったことは分かる。

「瀧を見ながら麥酒が飮みたい。」萩原朔太郎は遙か昔にコピーライターであった。]

喪服の魚 大手拓次

 喪服の魚

透明の水はうすあをい魚をはらみました。
ともしびはゆらゆらとして星のまばたく路をあゆみつづける。
こがねいろの波は香氣をふき、
あさみどりの葉はさびしいこゑをあげる。
ゑみわれる微笑の淵におぼれる魚のむれは、
たたまれてゐる秋の陶醉のなかににげてゆきます。

これをもって「濕氣の小馬」の章を終わる。

2013/05/22

草の葉を追ひかける眼 大手拓次

 草の葉を追ひかける眼

ふはふはうかんでゐる
くさのはを、
おひかけてゆくわたしのめ。
いつてみれば、そこにはなんにもない。
ひよりのなかにたつてゐるかげろふ。
おてらのかねのまねをする
のろいのろい風(かざ)あし。
ああ くらい秋だねえ、
わたしのまぶたに霧がしみてくる。

鬼城句集 夏之部 天文 五月雨

  天文

五月雨  五月雨や起き上りたる根無草
     水泡立ちて鴛鴦の古江のさみだるゝ
[やぶちゃん注:「鴛鴦」はオシドリの古名で「をし」と読む。]
     五月雨のふる潰したる藁家かな
     五月雨や松笠燃して草の宿
     鹽湯や朝からけむる五月雨
[やぶちゃん注:「鹽」は底本では「皿」の上部が〔「土」(左)+「鹵」(右)〕の字体。「塩」の正字である「鹽」の異体字であるのでかく表字した。「鹽湯」は塩水を含んだ温泉若しくは塩水を沸かした風呂で「しほぶろ」と当て読みしているか。識者の御教授を乞う。]
     五月雨や浮き上りたる船住居
[やぶちゃん注:「船住居」は「ふなずまひ」と読んでいるか。識者の御教授を乞う。]

2013/05/21

○實朝公右大臣に任ず 付 拜賀 竝 禪師公曉實朝を討つ 〈第3パート〉 附やぶちゃん注

〈パート3〉

當宮(たうぐう)の別當阿闍梨公曉、竊(ひそか)に石階(いしばし)の邊(へん)に伺來(うかゞひきた)り、劍(けん)を取りて、右大臣實朝公の首、打落(うちおと)し、提(ひつさ)げて逐電(ちくてん)す。武田〔の〕五郎信光を先として、聲々に喚(よばは)り、隨兵等(ら)走散(はしりち)りて求むれども誰人(たれびと)の所爲(しよゐ)と知難(しりがた)し。別當坊公曉の所爲ぞと云出しければ、雪下の本坊に押(おし)寄せけれども、公曉はおはしまさず。さしも巍々(ぎゞ)たる行列の作法(さはふ)も亂れて、公卿、殿上人は歩跣(かちはだし)になり、冠(かうふり)ぬけて落失(おちう)せ、一千餘騎の随兵等、馬を馳(はせ)て込來(こみきた)り、見物の上下は蹈殺(ふみころ)され、打倒(うちたふ)れ、鎌倉中はいとゞ暗(くらやみ)になり、これはそも如何なる事ぞとて、人々魂(たましひ)を失ひ、呆れたる計(ばかり)なり。

〈パート3注〉

[やぶちゃん注:以下、この公暁による暗殺及びその直後のパートを「吾妻鏡」より示しておく。

及夜陰。神拜事終。漸令退出御之處。當宮別當阿闍梨公曉窺來于石階之際。取劔奉侵丞相。其後隨兵等雖馳駕于宮中。〔武田五郎信光進先登。〕無所覓讎敵。或人云。於上宮之砌。別當阿闍梨公曉討父敵之由。被名謁云々。就之。各襲到于件雪下本坊。彼門弟惡僧等。籠于其内。相戰之處。長尾新六定景与子息太郎景茂。同次郎胤景等諍先登云々。勇士之赴戰場之法。人以爲美談。遂惡僧敗北。闍梨不坐此所給。軍兵空退散。諸人惘然之外無他。

夜陰に及びて、神拜の事終り、漸くに退出せしめ御(たま)ふの處、當宮別當阿闍梨公曉、石階(いしばし)の際(きは)に窺ひ來たり、劔を取つて丞相を侵し奉る。其の後、隨兵等、宮中に馳せ駕すと雖も、〔武田五郎信光、先登に進む。〕讎敵(しうてき)を覓(もと)る所無し。或る人の云はく、

「上宮(かみのみや)の砌りに於いて、『別當阿闍梨公曉、父の敵を討つ。』の由、名謁(なの)らると云々。

之に就き、各々、件(くだん)の雪下(ゆきのした)の本坊に襲ひ到る。彼の門弟惡僧等、其の内に籠り、相ひ戰ふの處、長尾新六定景・子息太郎景茂・同次郎胤景等と先登を諍(あらそ)ふと云々。

勇士の戰場に赴くの法、人、以つて美談と爲す。遂に惡僧、敗北す。闍梨、此の所に坐(おは)し給はず。軍兵、空しく退散し、諸人、惘然(ぼうぜん)の外、他(ほか)無し。

「武田五郎信光」(応保二(一一六二)年~宝治二(一二四八)年)は甲斐源氏信義の子。治承四(一一八〇)年に一族と共に挙兵して駿河国に出陣、平家方を破る。その後、源頼朝の傘下に入って平家追討戦に従軍した。文治五(一一八九)年の奥州合戦にも参加するが、この頃には安芸国守護となっている。その後も阿野全成の捕縛や和田合戦などで活躍、この後の承久の乱の際にも東山道の大将軍として上洛している。弓馬に優れ、小笠原長清・海野幸氏・望月重隆らとともに弓馬四天王と称された。当時五十七歳(以上は「朝日日本歴史人物事典」及びウィキ武田信光を参照した)。

「巍々たる」雄大で厳かなさま。]

○實朝公右大臣に任ず 付 拜賀 竝 禪師公曉實朝を討つ 〈第2パート〉 附やぶちゃん注

○實朝公右大臣に任ず 付 拜賀 竝 禪師公曉實朝を討つ〈第2パート〉

既に宮寺(きうじ)の樓門に入り給ふ時に當りて、右京〔の〕大夫義時、俄に心神違例(ゐれい)して、御劍をば仲章朝臣(なかあきらのあそん)に讓りて退出せらる。右大臣實朝公、小野(をのゝ)御亭より、宮前(きうぜん)に參向(さんかう)し給ふ。夜陰に及びて、神拜の事終り、伶人(れいじん)、樂(がく)を奏し、祝部(はふり)、鈴を振(ふり)て神慮をいさめ奉る。

〈第2パート注〉

[やぶちゃん注:「宮寺の樓門」これによって当時の鶴岡八幡宮寺の入り口には二階建ての門があったことが分かる。
「右大臣實朝公、小野御亭より、宮前に參向し給ふ」不審。実朝は無論、御所から拝賀の式に向かったはずである。ここは思うに「吾妻鏡」の筆者の誤読であるように思われる。「吾妻鏡」の行列の列序の詳細記載の後には、
令入宮寺樓門御之時。右京兆俄有心神御違例事。讓御劔於仲章朝臣。退去給。於神宮寺。御解脱之後。令歸小町御亭給。及夜陰。神拜事終。
宮寺の樓門に入らしめ御(たま)ふの時、右京兆、俄かに心神に御違例の事有り。御劔を仲章朝臣に讓り、退去し給ふ。神宮寺に於て、御解脱の後、小町の御亭へ歸らしめ給ふ。
とあり、
拝賀の行列が鶴岡八幡宮寺楼門に御参入なされたその直後、前駈しんがりを勤めていた右京兆義時殿が俄かに御気分が悪くなるという変事が出来(しゅったい)した。そこで急遽、御剣持を前方の一団である殿上人のしんがりを勤めていた文章博士源仲章朝臣に譲って、退去なさり、神宮寺門前に於いて直ちに行列から離脱された後、そのまま小町大路にある御自宅にお帰った。
とあるのを、文字列を読み違えた上に、「小町」を「小野」と誤読したのではあるまいか? 識者の御教授を乞うものである(増淵氏の訳では特に注がない)。
「伶人」雅楽を奏する官人。楽人(がくにん)。
「祝部」禰宜の下に位置する下級神職。「はふり」は「穢れを放(はふ)る」の意ともするが語源未詳。
「神慮をいさめ奉る」この「いさむ」は、忠告するの意で、実朝卿に右大臣の拝賀に際しての心構えや禁制などの神の思し召しをお伝え申し上げた、という意。]

○實朝公右大臣に任ず 付 拜賀 竝 禪師公曉實朝を討つ 〈第1パート〉 附やぶちゃん注

○實朝公右大臣に任ず 付 拜賀 竝 禪師公曉實朝を討つ〈第1パート〉

同十二月二日、將軍實朝公既に正二位右大臣に任ぜらる。明年正月には、鶴ヶ岡の八幡宮にして、御拜賀あるべしとて、大夫判官行村、奉行を承り、供奉の行列隨兵(ずゐびやう)以下の人數を定めらる、御装束(ごしやうぞく)御車以下の調度は、仙洞より下されける。右大將頼朝卿の御時に隨兵を定められしには、譜代の勇士(ようし)、弓馬の達者、容儀美麗の三德の人を撰びて、拜賀の供奉を勤させらる。然るにこの度の拜賀は、關東未だ例なき睛(はれ)の儀なりとて、豫てその人を擇(えら)び定めらる。建保七年正月二十七日は、今日良辰(りやうしん)なりとて、將軍家右大臣御拜賀酉刻(とりのこく)と觸れられけり。路次(ろじ)行列の裝(よそほひ)、嚴重なり。先づ居飼(ゐかい)四人、舍人(とねり)四人、一員(ゐん)二行に列(つらな)り、將曹菅野景盛(しやうざうすがのかげもり)、府生狛盛光(ふしやうこまのもりみつ)、中原成能(なかはらのなりより)、束帶して續きたり。次に殿上人(でんじやうびと)北條〔の〕侍従(じじう)能氏、伊豫(いよの)少將實雅、中宮權亮(ごんのすけ)信義以下五人、随身(ずゐしん)各四人を倶す。藤勾當(とうのこいたう)賴隆以下前驅(ぜんく)十八人二行に歩む。次に官人秦兼峰(はたのかねみね)、番長下毛野敦秀(ばんちやうしもつけのあつひで)、次に將軍家檳榔毛(びりやうげ)の御車、車副(くるまそひ)四人、扈從(こしよう)は坊門(ぼうもんの)大納言、次に隨兵十人、皆、甲胄を帶(たい)す。雜色(ざつしき)二十人、檢非違使(けんびゐし)一人、調度懸(てうどかけ)、小舎人童(こどねりのわらは)、看督長(かどのをさ)二人、火長(かちやう)二人、放免(はうべん)五人、次に調度懸佐々木〔の〕五郎左衞門尉義淸、下﨟の隨身(ずいじん)六人、次に新大納言忠淸、宰相中將國道以下、公卿五人、各々(おのおの)前驅隨身あり。次に受領の大名三十人、路次の隨兵一千騎、花を飾り、色を交へ、辻堅(つじがため)嚴しく、御所より鶴ヶ岡まで、ねり出て赴き給ふ裝(よそほひ)、心も言葉も及ばれず。前代にも例(ためし)なく後代も亦有べからずと、貴賤上下の見物は飽(いや)が上に集りて錐(きり)を立る地もなし。路次の両方込合うて推合(おしあ)ひける所には、若(もし)狼藉もや出來すべきと駈靜(かりしづ)むるに隙(ひま)ぞなき。

〈第一パート〉注
[やぶちゃん注:遂に実朝が暗殺され、源家の正統が遂に滅ぶ。そうしてこれを以って「卷第四」は終わっている。「吾妻鏡」巻二十三の建保六(一二一八)年十二月二十日・二十一日・二十六日、同七年一月二十七日・二十八日の条に基づく。

「同十二月二日、將軍實朝公既に正二位右大臣に任ぜらる」という記事は「吾妻鏡」では二十日の政所始の儀式の冒頭にある。

「大夫判官行村」二階堂行村。

「仙洞」後鳥羽上皇。

「右大將頼朝卿の御時」建久元(一一九〇)年十月三日、上洛中の頼朝は右近衛大将を拝賀し、仙洞御所に参向して後白河法皇に拝謁したが、ここはその際の随兵を指す。「吾妻鏡」建久元(一一九〇)年十二月一日の条によれば、例えば前駈の中には異母弟源範頼がおり、頼朝の牛車のSPの一人は八田知家、布衣の侍の中には三浦義澄や工藤祐経らが、扈従に附くのは一条能保と藤原公経、最後の乗馬の儀杖兵七人に至っては北条義時・小山朝政・和田義盛・梶原景時・土肥実平・比企能員・畠山重忠という、鎌倉幕府創生の錚々たるオール・スター・キャストで固められていた。因みにこの時、頼朝は右大将と権大納言に任ぜられたが、二日後の十二月三日に両官を辞している。これは望んだ征夷大将軍でなかったことから両官への執着(幕府自体にとっては実質上何の得にもならない地位であった)が頼朝に全くなかったこと、また両官が朝廷に於ける実際的公事の実務運営上の重要なポストであるために形式上は公事への参加義務が生ずることを回避したためと考えられている。

「譜代の勇士、弓馬の達者、容儀美麗の三德の人」通常、「三德」の基本は「中庸」で説かれている智・仁・勇であるが、ここは武家に於ける、代々嫡流の君子に仕える家柄の勇者であること、弓馬術の達人であること、容姿端麗であることの三つを指す。中でも「吾妻鏡」建保六(一二一八)年十二月二十六日の条には、わざわざ、

亦雖譜代。於疎其藝者。無警衞之恃。能可有用意云々。

亦、譜代と雖も、其の藝に疎きに於いては、警衞の恃(たの)み無し。能く用意有るべしと云々。

あって、本来の坂東武士にとっての「三德」の内、弓馬の名人であることは必要十分条件であったことが分かる。しかも注意せねばならぬのは、ここで作者は『然るに』という逆接の接続詞を用いている点にある。実は、「吾妻鏡」のこの前の部分には、

兼治定人數之中。小山左衞門尉朝政。結城左衞門尉朝光等。依有服暇。被召山城左衞門尉基行。荻野二郎景員等。爲彼兄弟之替也。

兼ねて治定(ぢじやう)する人數(にんず)の中(うち)、小山左衞門尉朝政・結城左衞門尉朝光等、服暇(ふくか)有るに依つて、山城左衞門尉基行・荻野二郎景員等を召さる。彼(か)の兄弟の替と爲すなり。

という事態が記されているのである。「服暇」とは近親の死による服喪を指す。問題はこの代替要員として指名された二人なのである。増淵氏はここの現代語訳に際し、ここに『しかるに(今回は三徳兼備でない者も入ったが)「このたびの大臣の拝賀は……』とわざわざ附加されておられるのに私は共感するのである。筆者は恐らくまずは「吾妻鏡」のこの二十六日の条の後に続く二件の記載が気になったのである。その冒頭は『而』で始まるが(以下の引用参照)、これは順接にも逆接にも読めるものの、私は逆接以外にはありえないと思うのである。何故なら、この後に書かれるこの二人の代替対象者についての解説には、実は微妙に「三德」を満たさない内容が含まれているからなのである。一人目の荻野影員というのは、実は父が梶原景時の次男梶原景高なのである。

而景員者去正治二年正月。父梶原平次左衞門尉景高於駿河國高橋邊自殺之後。頗雖爲失時之士。相兼件等德之故。被召出之。非面目乎。

而るに、景員は、去ぬる正治二年正月、父梶原平次左衞門尉景高、駿河國高橋邊に於いて自殺するの後、頗る時を失ふの士たりと雖も、件等(くだんら)の德を相ひ兼ぬるの故、之を召し出ださる。面目に非ずや。

ここで「件等の德を相ひ兼ぬる」とするが、そうだろうか? 弓馬と容姿は優れていたに違いない。梶原景時は確かにかつての「譜代の勇士」ではあった。しかし、その後にその狡猾さが祟って謀叛人として(というより彼を嫌った大多数の御家人の一種のプロパガンダによって)滅ぼされた。だからこそ景員はその梶原一族の血を引くという一点から全く日の目を見ることがなかった。とすれば彼には源家嫡流に対する遺恨さえもあって当然と言える。されば、この時点では彼は第一条件である嫡流君子の代々の忠臣という「譜代の勇士」足り得ない。

二人目は二階堂基行である。彼は、

次基行者。雖非武士。父行村已居廷尉職之上。容顏美麗兮達弓箭。又依爲當時近習。内々企所望云。乍列將軍家御家人。偏被定號於文士之間。並于武者之日。於時有可逢恥辱之事等。此御拜賀者。關東無雙晴儀。殆可謂千載一遇歟。今度被加隨兵者。子孫永相續武名之條。本懷至極也云々。仍恩許。不及異儀云々。

次に基行は、武士に非ずと雖も、父行村、已に廷尉の職に居るの上、容顏美麗にして弓箭にも達す。又、當時の近習たるに依つて、内々に所望を企てて云はく、

「將軍家の御家人に列し乍ら、偏へに號(な)を文士に定めらるるの間、武者に並ぶの日、時に於いて恥辱に逢ふべきの事等(など)有り。此の御拜賀は、關東無雙の晴の儀、殆んど千載一遇と謂ひつべきか。今度(このたび)の隨兵に加へらるれば、子孫永く武名のを相續せんの條、本懷至極なり」

と云々。仍て恩許、異儀に及ばずと云々。

とあるのである。彼二階堂基行(建久九(一一九八)年~仁治元(一二四〇)年)は代々が幕府実務官僚で評定衆あった二階堂行村の子である。父行村は右筆の家柄であったが京都で検非違使となったことから山城判官と呼ばれ、鎌倉では侍所の検断奉行(検事兼裁判官)として活躍した人物であり、また祖父で二階堂氏の始祖行政は、藤原南家乙麿流で、父は藤原行遠、母は源頼朝の外祖父で熱田大宮司藤原季範の妹である(その関係から源頼朝に登用されたと考えられている)。無論、基行も評定衆となり、実質的にも実朝側近の地位にあったことがこの叙述からも分かる。当時満二十歳。武家の出自でないが故に、今まで色々な場面で何かと屈辱を味わってきたのを、この式典を千載一遇のチャンスとして武家連中の若侍等と対等に轡を並べて、必ずや、子孫に二階堂家を武門の家柄として継承させん、という強い野心を持って実朝に直願して、まんまと許諾を得たというのは、これ、「三德」の純粋にして直(なお)き「譜代の勇士」とは到底言えぬと私は思うのである。……そうして民俗学的には、土壇場の服喪の物忌みによる二名もの変更(兄弟であるから仕方がないとしても二名の欠員はすこぶるよろしくない。これはまさに以前の「吾妻四郎靑鷺を射て勘氣を許さる」でも実朝自身が口をすっぱくして言った問題ではないか)や、「三德」の中に遺恨や実利的な野望を孕ませた「ケガレ」た者が参入する、これ自体がハレの場を穢して、実朝を死へと誘う邪悪な気を呼び込むことになったのだとも、私は読むのである。

実際、彼ら二人は目出度く、右大臣拝賀の式当日の実朝の牛車の直後の後方の随兵に以下のように名を連ねている(「吾妻鏡」建保七年一月二十七日の条より)。

  次隨兵〔二行。〕

 小笠原次郎長淸〔甲小櫻威〕   武田五郎信光〔甲黑糸威〕

 伊豆左衞門尉賴定〔甲萌黄威〕  隱岐左衞門尉基行〔甲紅〕

 大須賀太郎道信〔甲藤威〕    式部大夫泰時〔甲小櫻〕

 秋田城介景盛〔甲黒糸威〕    三浦小太郎時村〔甲萌黄〕

 河越次郎重時〔甲紅〕      荻野次郎景員〔甲藤威〕

   各冑持一人。張替持一人。傍路前行。但景盛不令持張替。

  次に隨兵〔二行。〕。

 小笠原次郎長淸〔甲(よろひ)、小櫻威(おどし)。〕   武田五郎信光〔甲、黑糸威。〕

 伊豆左衞門尉賴定〔甲、萌黄威。〕  隱岐左衞門尉基行〔甲、紅。〕

 大須賀太郎道信〔甲、藤威。〕    式部大夫泰時〔甲、小櫻。〕

 秋田城介景盛〔甲、黑糸威。〕    三浦小太郎時村〔甲、萌黄。〕

 河越次郎重時〔甲、紅。〕      荻野次郎景員〔甲、藤威。〕

   各々冑持(かぶともち)一人、張替持(はりかへもち)一人、傍路に前行(せんかう)す。但し、景盛は張替を持たしめず。

この「冑持」は兜を持つ者(これによってこの式典の行列では兜を外して参加することが分かる)、「張替」は弓弦が切れた際の予備の弓持ちであろう(景盛が張替持を附けていないのには何か意味があるものと思われるが分からぬ。識者の御教授を乞う)。

「良辰」吉日。「辰」は「時」の意。古くは「良辰好景」「良辰美景」とも言った。

「居飼」牛馬の世話を担当する雑人。

「舎人」牛車の牛飼いや乗馬の口取りを担当した雑人。四

「將曹菅野景盛」近衛府の主典(さかん)。普通は「しやうさう」と濁らない。

「府生」六衛府(りくえふ)・や検非違使庁などの下級職員。「ふせい」「ふそう」とも。

「狛盛光」建久四(一一九三)年頃に八幡宮の楽所の役人に任ぜられていることが鶴岡八幡宮公式サイトの宝物の記載に見える。

「勾當」「勾当内侍(こうとうのないし)」。掌侍(ないしのじょう)四人の内の第一位の者で天皇への奏請の取次及び勅旨の伝達を司る。

「前驅」古くは「せんぐ」「ぜんぐ」とも読んだ。行列などの前方を騎馬で進んで先導する役。先乗り。先払い。先

「秦兼峰」「吾妻鏡」の「下臈御隨身」には、秦兼村の名でかの公氏と並んで載る。

「番長下毛野敦秀」「番長」は諸衛府の下級幹部職員のことを指す。上﨟の随身である。やはり「吾妻鏡」の「下臈御隨身」には下毛野敦光及び同敦氏という名が載る。

「檳榔毛の御車」通常は「檳榔毛」は「びらうげ(びろうげ)」と読む。牛車の一種で白く晒した檳榔樹(びんろうじゅ)の葉を細かく裂いて車の屋形を覆ったものを指す。上皇・親王・大臣以下、四位以上の者及び女官・高僧などが乗用した。

「扈從」朝廷からの勅書に随行してきた公卿の筆頭の意で述べているようだが、以下の「殿上人」とダブるのでここに示すのはおかしい。

「坊門大納言」坊門忠信(承元元(一一八七)年~?)。建永二(一二〇七)年に参議、建保六(一二一八)年に権大納言。後鳥羽天皇及び順徳天皇の寵臣として仕えた。妹の信子が実朝の妻であるから実朝は義弟に当たる。因みに、この後にある「隨兵」が先の注で示した十人の武者となる。

「調度懸」武家で外出の際に弓矢を持って供をした役。調度持ち。

「小舎人童」本来は近衛中将・少将が召し使った少年を指すが、後、公家・武家に仕えて雑用をつとめた少年をいう。

「看督長」検非違使庁の下級職員。役所に付属する獄舎を守衛したり、犯人追捕の指揮に当たった。かどのおさし。

「火長」検非違使配下の属官。衛門府の衛士(えじ)から選抜され、囚人の護送・宮中の清掃・厩の守備などに従事した。彼等は課役を免除されており、身分としては低い役職ながら、宮中への出仕であることから一定の権威を有した。

「放免」「ほうめん」とも。検非違使庁に使われた下部(しもべ)。元は釈放された囚人で、罪人の探索・護送・拷問・獄守などの雑務に従事したが、先の火長よりも遙かに下級の官吏である。

「次に新大納言忠淸、宰相中將國道以下、公卿五人」建保七年一月二十七日には、

  次公卿

 新大納言忠信〔前駈五人〕    左衞門督實氏〔子随身四人〕

 宰相中將國道〔子随身四人〕   八條三位光盛

 刑部卿三位宗長〔各乘車〕

  次に公卿。

 新大納言忠信〔前駈五人。〕    左衞門督實氏〔子、随身四人。〕

 宰相中將國道〔子、随身四人。〕   八條三位光盛

 刑部卿三位宗長〔各々乘車。〕

「子」というのは、殿上人に従う者、という意味であろうか。ここの先頭を行くのが先に出た坊門忠信である。]

胸をうつこの引金をひく人を得んとばかりにわれ戀を戀ふ 萩原朔太郎

胸をうつこの引金をひく人を
得んとばかりにわれ戀を戀ふ

[やぶちゃん注:底本の「萩原朔太郎全集」第十五巻所収の自筆自選歌集「ソライロノハナ」の歌集群「何處へ行く」の巻頭の一首。「ソライロノハナ」のみに載る短歌。]

森のうへの坊さん 大手拓次

 森のうへの坊さん

坊さんがきたな、
くさいろのちひさなかごをさげて。
鳥のやうにとんできた。
ほんとに、まるで鴉(からす)のやうな坊さんだ、
なんかの前じらせをもつてくるやうな、ぞつとする坊さんだ。
わらつてゐるよ。
あのうすいくちびるのさきが、
わたしの心臟へささるやうな氣がする。
坊さんはとんでいつた。
をんなのはだかをならべたやうな
ばかにしろくみえる森のうへに、
ひらひらと紙のやうに坊さんはとんでいつた。

鬼城句集 夏之部 四月

四月   納豆をまだ食ふ宿の四月かな
[やぶちゃん注:「納豆」は本来の旬から冬の季語である。]



以上で「鬼城句集」の「夏之部」の「時候」は終わる。

湯治にて御心配をおかけした

昨日より一泊で伊豆に妻と湯治に出掛けて御座った。何人かの方からのメールへの返信を致さず、昨日出発前に「北條九代記」の注に没頭してしまい、出立が遅れそうになったため、ばたばたとして更新の停止も示さずに御心配をお掛けした。ここにお詫び申し上げる。

2013/05/20

濕氣の小馬 大手拓次

 濕氣の小馬

かなしいではありませんか。

わたしはなんとしてもなみだがながれます。

あの うすいうすい水色をした角をもつ、

小馬のやさしい背にのつて、

わたしは山しぎのやうにやせたからだをまかせてゐます。

わたしがいつも愛してゐるこの小馬は、

ちやうどわたしの心が、はてしないささめ雪のやうにながれてゆくとき、

どこからともなく、わたしのそばへやつてきます。

かなしみにそだてられた小馬の耳は、

うゐきやう色のつゆにぬれ、

かなしみにつつまれた小馬の足は

やはらかな土壤の肌にねむつてゐる。

さうして、かなしみにさそはれる小馬のたてがみは、

おきなぐさの髮のやうにうかんでゐる。

かるいかるい、枯草のそよぎにも似る小馬のすすみは、

あの、ぱらぱらとうつ Timbale(タンバアル) のふしのねにそぞろなみだぐむ。

[やぶちゃん注:「うゐきやう色」「うゐきやう」はフェンネル(Fennel)。セリ目セリ科ウイキョウ Foeniculum vulgare。茴香。花は黄白色であるが、この場合、生薬として知られる実の薄い茶褐色を指しているように私は思われる。

Timbale(タンバアル)」T先行する「慰安」に既出。フランス語で打楽器のティンパニのこと。ティンパニは英語では“timpani”、本来の語源であるイタリア語では“timpani ”又は“timpano”と綴る。]

鬼城句集 夏之部 秋近し

秋近し  秋近し土間の日ひさること二寸
[やぶちゃん注:「ひさる」は「退(しざ)る」の転訛で後退するの意。]
     秋近しとんぼう蛻けて橋柱
[やぶちゃん注:言わずともお分かりなると思うが、「蛻けて」は「ぬけて」と読み、脱皮羽化したことをいう。]

柴の戸に君を訪ひたるその夜より戀しくなりぬ北斗七星 萩原朔太郎

柴の戸に君を訪ひたるその夜より
戀しくなりぬ北斗七星

[やぶちゃん注:昭和五三(一九七八)年筑摩書房刊「萩原朔太郎全集」第十五巻所収の自筆自選歌集「ソライロノハナ」の歌集群「若きウエルテルの煩ひ」の巻頭の一首。「ソライロノハナ」のみに載る短歌。]

2013/05/19

北條九代記 實朝公右大臣に任ず 付 拜賀 竝 禪師公曉實朝を討つ (まずは本文)

僕の好きな実朝の死である。まずは本文を示す。以降、煩を厭わず、注釈を附したものを順次公開する予定である。


      ○實朝公右大臣に任ず 付 拜賀 竝 禪師公曉實朝を討つ

同十二月二日、將軍實朝公既に正二位右大臣に任ぜらる。明年正月には、鶴ヶ岡の八幡宮にして、御拜賀あるべしとて、大夫判官行村、奉行を承り、供奉の行列隨兵(ずゐびやう)以下の人數を定めらる、御装束(ごしやうぞく)御車以下の調度は、仙洞より下されける。右大將頼朝卿の御時に隨兵を定められしには、譜代の勇士(ようし)、弓馬の達者、容儀美麗の三德の人を撰びて、拜賀の供奉を勤させらる。然るにこの度の拜賀は、關東未だ例なき睛(はれ)の儀なりとて、豫てその人を擇(えら)び定めらる。建保七年正月二十七日は、今日良辰(りやうしん)なりとて、將軍家右大臣御拜賀酉刻(とりのこく)と觸れられけり。路次(ろじ)行列の裝(よそほひ)、嚴重なり。先づ居飼(ゐかい)四人、舍人(とねり)四人、一員(ゐん)二行に列(つらな)り、將曹菅野景盛(しやうざうすがのかげもり)、府生狛盛光(ふしやうこまのもりみつ)、中原成能(なかはらのなりより)、束帶して續きたり。次に殿上人(でんじやうびと)北條〔の〕侍従(じじう)能氏、伊豫(いよの)少將實雅、中宮權亮(ごんのすけ)信義以下五人、随身(ずゐしん)各四人を倶す。藤勾當(とうのこいたう)賴隆以下前驅(ぜんく)十八人二行に歩む。次に官人秦兼峰(はたのかねみね)、番長下毛野敦秀(ばんちやうしもつけのあつひで)、次に將軍家檳榔毛(びりやうげ)の御車、車副(くるまそひ)四人、扈從(こしよう)は坊門(ぼうもんの)大納言、次に隨兵十人、皆、甲胄を帶(たい)す。雜色(ざつしき)二十人、檢非違使(けんびゐし)一人、調度懸(てうどかけ)、小舎人童(こどねりのわらは)、看督長(かどのをさ)二人、火長(かちやう)二人、放免(はうべん)五人、次に調度懸佐々木〔の〕五郎左衞門尉義淸、下﨟の隨身(ずいじん)六人、次に新大納言忠淸、宰相中將國道以下、公卿五人、各々(おのおの)前驅隨身あり。次に受領の大名三十人、路次の隨兵一千騎、花を飾り、色を交へ、辻堅(つじがため)嚴しく、御所より鶴ヶ岡まで、ねり出て赴き給ふ裝(よそほひ)、心も言葉も及ばれず。前代にも例(ためし)なく後代も亦有べからずと、貴賤上下の見物は飽(いや)が上に集りて錐(きり)を立る地もなし。路次の両方込合うて推合(おしあ)ひける所には、若(もし)狼藉もや出來すべきと駈靜(かりしづ)むるに隙(ひま)ぞなき。既に宮寺(きうじ)の樓門に入り給ふ時に當りて、右京〔の〕大夫義時、俄に心神違例(ゐれい)して、御劍をば仲章朝臣(なかあきらのあそん)に讓りて退出せらる。右大臣實朝公、小野御亭より、宮前(きうぜん)に參向(さんかう)し給ふ。夜陰に及びて、神拜の事終り、伶人(れいじん)、樂(がく)を奏し、祝部(はふり)、鈴を振(ふり)て神慮をいさめ奉る。當宮(たうぐう)の別當阿闍梨公曉、竊(ひそか)に石階(いしばし)の邊(へん)に伺來(うかゞひきた)り、剣(けん)を取りて、右大臣實朝公の首、打落(うちおと)し、提(ひつさ)げて逐電(ちくてん)す。武田〔の〕五郎信光を先として、聲々に喚(よばは)り、隨兵等(ら)走散(はしりち)りて求むれども誰人(たれびと)の所爲(しよゐ)と知難(しりがた)し。別當坊公曉の所爲ぞと云出しければ、雪下の本坊に押(おし)寄せけれども、公曉はおはしまさず。さしも巍々(ぎゞ)たる行列の作法(さはふ)も亂れて、公卿、殿上人は歩跣(かちはだし)になり、冠(かうふり)ぬけて落失(おちう)せ、一千餘騎の随兵等、馬を馳(はせ)て込來(こみきた)り、見物の上下は蹈殺(ふみころ)され、打倒(うちたふ)れ、鎌倉中はいとゞ暗(くらやみ)になり、これはそも如何なる事ぞとて、人々魂(たましひ)を失ひ、呆れたる計(ばかり)なり。禪師公曉は、御後見(ごこうけん)備中阿闍梨の雪下の坊に入りて、乳母子(めのとご)の彌源太(みげんだ)兵衞尉を使として、三浦左衞門尉義村に仰せ遣されけるやう、「今は將軍の官職、既に闕(けつ)す。我は關東武門の長胤(ちやういん)たり。早く計議(けいぎ)を廻らすべし。示合(しめしあは)せらるべきなり」とあり。義村が息駒若丸、かの門弟たる好(よしみ)を賴みて、かく仰せ遣(つかは)さる。義村、聞きて、「先(まづ)此方(こなた)へ來り給へ。御迎(おんむかひ)の兵士(ひやうし)を參(まゐら)すべし」とて、使者を歸し、右京〔の〕大夫義時に告げたり。公曉は直人(たゞびと)にあらず、武勇兵略(ぶようひやうりやく)勝れたれば、輒(たやす)く謀難(はかりがた)かるべしとて、勇悍(ようかん)の武士を擇び、長尾〔の〕新六定景を大將として、討手をぞ向けられける。定景は黑皮威(くろかはおどし)の胄(よろひ)を著(ちやく)し、大力(だいりき)の剛者(がうのもの)、雜賀(さいがの)次郎以下郎従五人を相倶して、公曉のおはする備中阿闍梨の坊に赴く。公曉は鶴ヶ岡の後(うしろ)の峰に登りて義村が家に至らんとし給ふ途中にして、長尾定景、行合ひて、太刀おつ取りて御首を打落しけり。素絹(そけん)の下に腹卷をぞ召されける。長尾御首を持ちて馳歸り、義村、義時是を實檢す。前〔の〕大膳〔の〕大夫中原(なかはらの)廣元入道覺阿、申されけるは、「今日の勝事(しようじ)は豫て示す所の候。將軍家御出立の期(ご)に臨みて申しけるやうは、覺阿成人して以來(このかた)、遂に涙の面に浮ぶ事を知らず。然るに、今御前に參りて、頻に涙の出るは是(これ)直事(たゞごと)とも思はれず。定(さだめ)て子細あるべく候か。東大寺供養の日、右大將家の御出の例(れい)に任せて、御束帶(ごそくたい)の下に腹卷(はらまき)を著せしめ給へと申す。仲章朝臣、申されしは、大臣、大將に昇る人、未だ其例式(れいしき)あるべからずと。是(これ)に依(よる)て止(とゞ)めらる。又、御出の時、宮田兵衞〔の〕尉公氏(きんうぢ)、御鬢(ぎよびん)に候(こう)ず。實朝公、自(みづから)鬢(びんのかみ)一筋(すぢ)を拔きて御記念(かたみ)と稱して賜り、次に庭上の梅を御覽じて、
  出でていなば主なき宿と成りぬとも軒端の梅よ春を忘るな
其外商門を出で給ふ時、靈鳩(れいきう)、頻(しきり)に鳴騷(なきさわ)ぎ、車よりして下(お)り給ふ時、御劍(ぎよけん)を突折(つきをり)候事、禁忌、殆ど是(これ)多し。後悔せしむる所なり」とぞ語られける。御臺所、御飾(かざり)を下(おろ)し給ふ。御家人一百餘輩、同時に出家致しけり。翌日、御葬禮を營むといへ共、御首(おんくび)は失せ給ふ、五體不具にしては憚りありとて、昨日(きのふ)、公氏に賜る所の鬢(びんのかみ)を御首に准(じゆん)じて棺に納め奉り、勝長壽院の傍(かたはら)に葬りけるぞ哀(あはれ)なる。初(はじめ)、建仁三年より、實朝、既に將軍に任じ、今年に及びて治世(ぢせい)十七年、御歳(おんとし)二十八歳、白刃(はくじん)に中(あたつ)て黄泉(くわうせん)に埋(うづも)れ、人間を辭して幽途(いうと)に隱れ、紅榮(こうえい)、既に枯落(こらく)し給ふ。賴朝、賴家、實朝を源家三代將軍と稱す、其(その)間、合せて四十年、公曉は賴家の子、四歳にて父に後(おく)れ、今年十九歳、一朝に亡び給ひけり。

[やぶちゃん注:遂に実朝が暗殺され、源家の正統が遂に滅ぶ。そうしてこれを以って「卷第四」は終わっている。「吾妻鏡」巻二十三の建保六年十二月廿日及び同七年正月二十七日・二十八日の条に基づく。]

耳嚢 巻之七 疝痛を治する妙藥の事

 疝痛を治する妙藥の事

 

 またゝびの粉を酒又砂糖湯にて用ゆれば、其いたみ去る事妙のよし。營中にて我(われ)症を愁ふるを聞(きき)て傳授なしけるが、予(よの)元へ來る藥店(くすりみせ)を職として眼科をなしける者、疝氣にて腰を痛め候事度々成しが、またゝびを壹匁(もんめ)、酒を茶碗に一盃用ひて即效を得しが、素より酒量なき故、酒(さけ)茶碗に一盃呑(のむ)事甚だ苦しきゆへ、年も老(おい)ぬれば茶湯又砂糖湯にて用(もちゐ)見るに、酒にて用ゆるより、其功はおとりぬと語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:一つ前とその前の咳に続く民間療法シリーズ。根岸が疝気持ちであったことは既に「耳嚢 巻之四 疝氣呪の事」で明らかになっている。「疝気」については、リンク先の私の注を参照されたい。

・「またゝび」双子葉植物綱ツバキ目マタタビ科マタタビ Actinidia polygamaウィキの「マタタビ」によれば、『蕾にタマバエ科の昆虫が寄生して虫こぶになったものは、木天蓼(もくてんりょう)という生薬である。冷え性、神経痛、リューマチなどに効果があるとされる』とあり、ここで「粉」と称するのもこれであろう。「木天蓼」と書き、「もくてんりょう」とも読む。夏梅という別名もある。他にもこのウィキの記載は短いながら興味深い箇所が多い。脱線であるが幾つか引用すると、六月から七月にかけて開花するが、『花をつける蔓の先端部の葉は、花期に白化し、送粉昆虫を誘引するサインとなっていると考えられる。近縁のミヤママタタビでは、桃色に着色する』とあり、所謂、ネコとの関係については、『ネコ科の動物はマタタビ特有の臭気(中性のマタタビラクトンおよび塩基性のアクチニジン)に恍惚を感じ、強い反応を示すため「ネコにマタタビ」という言葉が生まれた』。『同じくネコ科であるライオンやトラなどもマタタビの臭気に特有の反応を示す。なおマタタビ以外にも、同様にネコ科の動物に恍惚感を与える植物としてイヌハッカがある』とし、和名の由来については、『アイヌ語の「マタタムブ」からきたというのが、現在最も有力な説のようである』。「牧野新日本植物図鑑」(一九八五年北隆館刊/三三一頁)によると、『アイヌ語で、「マタ」は「冬」、「タムブ」は「亀の甲」の意味で、おそらく果実を表した呼び名だろうとされる。一方で、『植物和名の研究』(深津正、八坂書房)や『分類アイヌ語辞典』(知里真志保、平凡社)によると「タムブ」は苞(つと、手土産)の意味であるとする』。『一説に、「疲れた旅人がマタタビの実を食べたところ、再び旅を続けることが出来るようになった」ことから「復(また)旅」と名づけられたというが、マタタビがとりわけ旅人に好まれたという周知の事実があるでもなく、また「副詞+名詞」といった命名法は一般に例がない。むしろ「またたび」という字面から「復旅」を連想するのは容易であるから、典型的な民間語源であると見るのが自然であろう』とある。博物学と民俗学が美事に復権した素晴らしい記載である。

「一匁」現在は三・七五グラムに定量されているが、江戸時代はやや少なく、近世を通じた平均値は三・七三六グラムであったとウィキ匁」にはある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 疝痛を癒す妙薬の事

 

 またたびの粉を酒または砂糖湯にて服用すれば、その痛みがすっと引くこと絶妙の由。

 御城内にて、私が疝痛に悩まされているというのを聞いた、さる御御仁が伝授して下されたことである。

 その後、私の元へ来たる薬屋を本職としつつ、眼科をも兼ねておる者も、疝気にて腰を痛ぬることが、これ、度々御座ったが、その都度、またたびを一匁、酒を茶碗に一杯用いて即効を得る由、聞いた。

 ただ、この者、平素より酒が呑めぬ性質(たち)なれば、この、酒を茶碗に一杯呑みほすことがこれ、以前よりはなはだ苦しゅう御座ったと申す。

 最近では年もとったことと相俟って、すこぶる酒での服用が困難になって御座ったゆえ、今は茶湯または砂糖湯を用いて服用しておるとのこと。

「……但し、酒で服用した場合に比べますると、その効果は、これ、劣りますな。……」

と、本人が語って御座った。

栂尾明恵上人伝記 26

この明恵の手紙文、比喩が面白い。悟りを糞で比喩するというのはカッキ的である。



上人の御消息に云はく、〔遣はされる處、未だ之を勘へ出さず、或る人云はく湯淺權守の許へと云々。〕[やぶちゃん注:「勘へ」は「かんがへ」と読む。宛先が不明であることをいう。以下の明恵の言葉は、底本では全文が一字下げである。]

如來の在世に生れ遇はざる程に、口惜しき事は候はざるなり。我も人も、在世若しくは諸聖(しよしやう)の弟子迦葉・舍利弗・目連等のいませし世に、生れたらましかば、隨分に生死の苦種(くしゆ)を枯らし、佛道の妙因を植ゑて、人界に生れたる思ひ出とし候べきに、如來入滅の後、諸聖の弟子も皆失せ給へる世の中に生れて、佛法の中において一(いつ)の位を得たることも無くて、徒に死する程悲しき事は候はず。昔佛法の盛りに流布して候ひし世には、在家の人と申すも皆或は四菩提の位を得て、近く聖果(しやうくわ)を期するもあり。或は見道(けんだう)と云ひ、無漏(むろ)の智惠を起して三界の迷理(めいり)の煩惱を斷ち盡して、預流果(よるか)と云ふ位を得るもあり、或るは進みて欲界の六品の修惑(しゆわく)を盡して、一來果(いちらいくわ)と云ふ位を得るもあり。是までは在家の人も得る位なり。此の位に至りぬれば、欲界の煩惱を斷ち盡して、不還果(ふげんくわ)と云ふ位を得て、其の次に色界・無色界の煩惱を斷ち盡して、阿羅漢果(あらかんくわ)を得るなり。或は隨分に修行して菩薩の諸位に進むもあり。人間界に生れたらば、此の如き所作を成したらばこそいみじからめ、煩惱惡業にからめ纏(まと)はれて徒に老死にするは、何事にも合はずしてのどかに老死にに死ぬとても、思ひ出であるにも候はざるなり。皆前の世に業力(ごふりき)の催し置きたるに隨つて、今生安くして死ぬる樣なれ共、さりとても、やがて進みて生死を出でて佛に成らんずるにてもなし。只靜かに飯打ち食つて、きる物多くきて、年よりて死ぬる事は、犬・鳥の中にもさる物は多く候なり。今生(こんじやう)安きと云ふも、又實にも非ず。只覺りも無くして、淺間しく穢(きたな)き果報、骨肉を丸がし集めたる身の、流るゝ水の留ることなきが如くして、念々に移り來て生れ出で來ては死なんずることの近付なる間、其の程の月日の重なるに隨つて、一より二に至り、二より三に至る間を、盛(さかり)なると云ひていみじく悦べども、覺り深き聖者の前には、有爲(うゐ)の諸行は轉變無常なりと云ひて、是を大なる苦しみとせり。年若く盛なりと雖も、誇るべきにあらず。喩へば遠き道を行くに、日の午の時に成りぬれば、日盛(さかり)なれども、巳に日たけぬと云ふが如し。午の時程なく過ぎ行きて、日の暮れんことの近付くなるが故に、日盛りなりとても憑(たの)むべからず。若き齡常ならず。念々に衰へ行きて終に盡くることあり。念々生滅の苦しみは、上界の果報も下界の果報も、皆同じ事なり。惣じて有爲の諸法の中心はこき味のなきに、凡夫愚((おろか)にして、嗜みて味を求む。三界の中に眞の樂みなし。凡夫迷ひて苦しみの中に於てみだりに樂を求む。喩へば火の中に入りて凉しきことを求め、苦(にが)き物の中に於て甘きを求めんに、惣(そう)じて得べからざるが如し。凡夫無始(むし)より以來、生るゝ所ごとに夢の中の假(かり)の身を守りて、幻(まぼろし)の如くなる樂を求むれども、生死海の中に本より樂なければ、得たることもなくして、終に苦しみ、愁の中にのみ沈みて、安き事なし。さればかゝる果報を厭はずしては、惣じて安き事を得べからざるなり。佛、是を悲みて、諸行は無常なり皆悉く猒離(おんり)せよ、と勸め給へるなり。法華經に云はく、世(よ)皆(みな)牢固(らうこ)ならず、水沫泡炎(すいまつほうえん)の如し、汝等咸(ことごと)く應に(まさ)に疾(はや)く猒離の心を生ずべしと。此の文の意(こころ)は、世間は皆破れ行く物なり。水に聚(あつま)れる沫(あわ)の如し。此(かく)の如くあやふき世間の中に於て樂の思ひを成すこと勿れ、皆猒離すべしと云へるなり。世間無常なりと云ふことは只此の人間の果報のみにあらず。惣じて四靜慮(じやうりよ)・四無色界(むしきかい)の諸天も、皆行苦(ぎやうく)の悲みを離れず、有頂天の八萬劫の果報も皆念々生滅の苦しみを離れたること無きなり。一人在りて、一室の床の上に眠りて千萬の苦樂の境界を夢に見れ共、夢中の事は皆うつゝの前には無きが如し。根本無明(こんぽんむみやう)の眠(ねむり)深くして、動轉四相(どうてんしさう)の夢の念を起す。其の中の苦樂の境界(きやうがい)は皆實ならざるなり。かゝる處にかゝる果報を受けたれば、惣じて愛着(あいじやく)する所なけれども、凡夫無始生死より以來、性體(しやうたい)も無き煩惱業苦(ぼんのうごふく)の中に於て我(が)・我所(がしよ)、執(しふ)して分別(ふんべつ)深くして、はかなく假(かり)の身を惜しみ、露の命を守ることたえず。地獄・餓鬼・畜生は淺ましき果報なれども、其も皆我が果報を惜しむことは同事なり。如來態(わざ)と世に出で有りのまゝに道理を説きて、生死を出でよと勸め給ふ。跡形(あとかた)もなき緣なる相續(さうぞく)の假(かり)なる法を執(しふ)して、我・我所とすること勿れ。此の所は只苦のみ多し。是に居たらん限りは苦患(くげん)たゆべからず。かゝる苦しみの境を、捨て離れよと教へたまへり。かゝる果報を受けたるは悲みなれども、快きかなや、我等無明の卵殼(らんごく)未ださけずと雖も、幸いに佛の御法(みのり)の流布せる世に生れ遇ひて、終に生死の苦患を盡して、佛果無上(ぶつくわむじやう)の樂を得んずる期在りと云ふことを知りぬ。大なる悦(よろこび)をなすべきなり。亦、生死の苦しみは、我が受くる果報なれども、無明の睡眠(すゐみん)の醉(ゑひ)深くして、此の果報の拙(つたな)く苦なることをも悟らず。大聖慈父無上大覺世尊(だいしやうじふだいがくせそん)世に出でて慇(ねんごろ)に教へ給へり。教への如くに猒(いと)ふべし。愚なる者の思ふべき樣は、諸行無常、有爲皆苦(うゐかいく)の道理は、佛の教ならずともなどかは悟らざるべき。華開きては必ず散り、果結びては定めて落つ。盛なる者は衰へ、生ある者は死す。是等は無常なり。亦打縛殺害(だばくせつがい)等の不可意の心に叶はぬことあり。是は苦なりとなどかは知らざらんなど思ひつべきことなれども、凡夫は一分の覺りもなし。只無始薫習(むしくんじう)の妄識種子(まうしきしゅじ)より現行(げんぎやう)の識體(しきたい)おこり、妄りに虛妄(こまう)の境界(きやうがい)を分別(ふんべつ)して、境界に於て、妄識の動轉(どうてん)するを以て凡夫の分別と名づけたり。是は酒に醉ひたる時の人の狂へる心の如し。眞(まこと)の覺りにあらざるなり。去れば、諸法の實理(じつり)におきては實の如く分別することなきなり。位(くらゐ)無餘(むよ)に入りぬれば、二乘(じじやう)の聖者(しやうじや)すら、猶(なほ)變易微細(へんやくみさい)の苦を知らずして、増上慢(ざうじやうまん)のとがに堕ちぬ。況や凡夫、實の如く如來所知(によらいしよち)の法印を知るこ難かるべし。又諸の外道論師(げだうろんじ)の中に教法あり。其の中にも分々(ぶんぶん)に常(じやう)・無常(むじやう)等の道理をば説けども、其も佛法の實理をば究めずして、或は無想天(むさうてん)を計(けい)して實(まこと)の解脱處(げだつしよ)とし、或は眞義(しんぎ)を立てゝ常住(じやうじゆう)の體(たい)とす。我が本師釋尊の説き給ふ、諸行無常の法印の道理は、三界所繫(さんがいしよけい)の法皆是れ無常なり。一法として常住なるはなし。亦皆悉く實ならざるが故に、一法として苦に非ざるはなきなり。涅槃は寂靜なり。若し人是を證しつれば、即ち法身(ほつしん)の體(たい)を得、又退(たい)することなし。彼の外道論宗(げだうろんしゆう)の中に、冥性(めいしやう)に歸して後、猶返りて衆生と成ると云ふには同じからず。此の如きの正見(しやうけん)は、佛法の力を離れては爭(いか)でか發(おこ)すことを得べき。さればこの諸行無常の道理一を聞きたりとも、無量劫(むりやうこふ)の中の思ひ出でとすべし。昔大王ありき。身に千の穴をゑりて、油を盛りて火を燃(もや)して婆羅門を供養して、此の道理を聞き給へりき。聖教に説きて云はく、若し人生きて百歳にして生滅の法を解(げ)せざらんよりは、如かず、生きて一日にして而して之を解了(げりやう)することを得んにはと。實に朽木(くちき)の如くして何(いつと)なく生(い)けらんよりは、覺り深くして一日生けらんに比ぶべからざるなり。巳に佛の御教(みをしへ)を受けて、有爲(うゐ)の果報は皆(みな)苦(く)なりと知りなば、速に是を捨離(しやり)すべき思ひをなすべし。我等無始より以來生死に輪廻せし間、此の身を痛(いた)はり惜みんで相離れず。徒に苦患(くげん)の中に沈み、妄(みだ)りに樂を求む。喩へば敵(かたき)を養ひて家に置いて、常に敵に惱まされんが如し。早く生死の果報を思ひ捨てゝ佛の位を求め賴むべし。かゝる果報を捨てずば、生々世々の中に苦みの多かるべし。佛の眞實の利益(りやく)は、只是の果報を捨てしめて、大涅槃の樂を與へ給ふなり。有爲生死界の中に於て、衆生の願に隨ひて、隨分に命をのべ官位を與へ給ふと云ふとも、其は只人の願ふことなれば、假令(かりそめ)にすかしこしらへて、其の心をゆかしめて終には佛になさんが爲に、暫く與へ給へども其れを終(つひ)の利益にして、さてやみ給ふ事は無きなり。終には必ず有爲生死の境をこしらへ出して、我と等しき無上の樂を與へ給はんとなり。されば今生(こんじやう)の事に於ては宿報決定(しゆくはうけつぢやう)して、佛菩薩(ぶつぼさつ)の御力も及ばせ給はぬことあれども、一度も佛を緣として心を起して名號をも念ずる功德(くどく)は、必ず有爲生死の中にして朽ちやむことはなきなり。喩へば人の食物は必ず米一粒も栗(くり)柿(かき)一顆(くわ)にても、腹中に入りぬれば、定めて屎(し)となりて腹を通りて出づるが如し。佛の處に於て作る功德は、小さきも大なるも、必ず有爲煩惱の腹を通りて、終に生死を盡す極めとなるなり。名聞利養(みやうもんりやう)の爲に作る功德も終には佛の種(たね)となるなり。されば佛菩薩の利生(りっしやう)によりて現世の願を滿てたりと云ひても、是に依(よつ)てさてやまんずるにてもなし。喩へば幼き赤子愚(おろか)にして土塊(つちくれ)を翫(もてあそ)びたがるには、其の父母慈(いつくし)み深き故に、土塊をば寶とは思はねども、赤子の心をゆかさんが爲に、暫く士くれを與へて其の心をゆかす。後におとなしく成りて實の銀金(しろがねくがね)など云ふ寶を與ふるが如し。終に土くれを翫ばしめてさてやむことはなきなり。只一向(ひとむき)に諸法の眞實の因果は只佛のみ知り給へり。我等が思ひ計るべき處に非ずと信じて、其の心に道理を失はず、生々世々に必ず無理なる果報をば得べからざるなり。亦、頻婆婆羅王(びんばしやらわう)、佛を深く念じ奉りしに依て、忽に七重(なゝへ)の室を出でざれども、如來の光明に照らされて不還果(ふげんくわ)を得たりき。打ちまかせて人の思へるは、如來の神力、などか七重の室を破りて、彼の王を取り出し給はざりしと。然れども諸佛慈悲はたゆることなけれども、三惡道の果報充滿せり。實に諸法の因果の道理は佛の始めて作り出し給へるにも非ず。慈悲深くいますとても法性(ほつしやう)を轉變し給ふべきにあらず。佛の自らの位も皆無量の功德の造り成せる果報なり。因果の道理を破りて推してし給へるにもあらず。只一切世間の所歸依(しよきえ)の處として、衆生の爲に増上緣(ぞうじやうえん)となりて、苦を拔き樂(らく)を與へ給へり。頻婆婆羅王、七重の室を出づべからざりし、因緣難ければ、室を出でずといへども、佛の御力にて斷ち難き欲界の煩惱を斷ち盡して、出で難き欲界を出で、登り難き聖位に登る事を得たり。さりとて佛の位に自在ならざる事のあるにはあらず。凡夫有相(ぼんぷうさう)の分別の前の苦樂の境界は、皆善惡の有漏識(うろしき)の種子現行(しゆじげんぎやう)するが故に、事理(じり)の二位深く隔たり、假實(けじつ)の差別同じからずして、病などするに橘の皮を煎じて飮むには其の病愈ゆることあれれども、經を誦し佛を禮するには愈えざるが如し。皆、無始より以來虚僞(こけ)の妄執深くして、眞理を隔て正智を遠ざかりしに依て、増上の意樂(いげう)を起さざれば、眞法は身に合ひ難きなり。喩へば夢の中に羅刹(らせつ)の姿を見て恐れをなさんに、傍に人有りて此の事を證知(しようち)して、是は羅刹に非ず、恐るゝこと勿れといへども、此の眠らん者の恐れやまじ、只自ら夢の中に、此の羅剃走りぬと見ば、其の恐れやむべし。傍に人有りて實事を示せども、睡覺めての位異なるが故に聞くことなし。眞妄實躰(しんまうじつたい)同じからざるが故に、其の恐れやまず、自ら夢の中にして、羅刹の姿實ならざれども恐れ深し。羅刹の逃げ去りぬるも實ならざれども悦びあり。一種性(いつしゆしやう)の心(こゝろ)相續して起るが故に、不同類(ふどうるい)の心現行(げんぎやう)せざるが故なり。されば善根に串習(げんじふ)せし人などの、増上の意樂(いげふ)を起して經卷を讀誦し佛を念ずるに、現前の災障(さいしやう)を破りて怨敵(ゑんてき)をも降伏(がうぶく)することのあるは、此の人の心力、道理に融(ゆう)するが故に、自ら發(おこ)す所の善根の相用(さうゆう)、佛の増上緣力を感ずるが故に、速疾(そくしつ)の利益は有るなり。是も此(かく)の如くなるべき道理をあやまたざるなり。惣じて諸法の中に道理と云ふものあり。甚深微細(じんじんみさい)にして輙(たやす)く知り難し。此の道理をば佛も作り出し給はず、天・人(にん)・修羅等も作らず。佛は此の道理の善惡の因果となる樣(やう)を覺(さと)りて、實の如く衆生の爲に説き給ふ智者なり。諸佛如來、衆生の苦相を觀じて、利益方便(りやくほうべん)を儲(まう)け給ふ事隙(ひま)なし。人こそ愚にして、俄に病などの發りたるをば、苦みと思ひて、自ら苦聚(くじゆ)に埋(うづ)もれたるをば知らず。喩へば犬のよき食物をば得ずして屎を食はんとするに、こと犬の來て屎を奪つて食せしめざるをば苦と思ひて、屎を食ひ得つれば樂(らく)の思ひをなして、自らの果報のあさましく、心拙(こゝろつたな)きをば苦しみと思はざるが如し。是は其の心拙くして苦聚の中に埋もれたるをば知らざるなり。諸佛如來の衆生を緣として、大悲を發し給ふ事は、必ずしも病などするを絲惜しがり給ふにもあらず。有爲有漏(うゐうろ)の業果(ごふくわ)の境界を出でずして、はかなく愚なるを深く哀み給ふ。されば定性二乘(ぢやうしやうにじやう)の聖者は無餘依(むよえ)の位に至りて、永く分段(ぶんだん)の果報を盡すといへども、深教大乘(じんけうだいじやう)の心によるに、反易生死(へんやくしやうし)の報(むくい)未だ免れず。されば如來の慈悲も救ひ給ふ事無くして、必ず八萬大劫の滿位(まんゐ)を待ちて、佛乘の法門を授けて究竟(くきやう)の位(くらゐ)に導き給ふ。何(いか)に况(いはん)んや生、死の苦海に輪轉(りんてん)し、出づる事を得ぬ衆生に於てをや。縱(たと)ひ病もせずいみじくて國王の位に登り、天上の果報を受くとも、佛の少しきも樂なりと思召して、たゆませ給ふ事はなきなり。只法性の因果改まらずして因緣を待つことばかりなり。されば佛の、我が名を念ぜば我れ行きて救はんと仰せらるゝは、流れの畔(くろ)の渡守(わたしもり)などの舟貸(ふなちん)を取りて人を渡すが如くにはあらず。只佛に不思議の功德います。其の名を念ずるに力を得て、増上緣と成りて、衆生を助け給ふなり。喩へば飯の、人に向ひて、我を食ふべし、汝が命を延べんと云ふが如し。是は飯が我が身を嫌ふことはなけれども、飯を身の中に食ひ入れつれば増上緣と成りて人の命を延ぶ。されば我を食へといはんが如し。諸佛の甚深の道理は、只佛のみ能く知り給へり。仰ぎて信をなすべきなり。なまこさかしく兎角我とあてかふことはわろきなり。如來は是れ我が父母なり。衆生は子なり。六道四生に輪轉するとも、如來と衆生とは親子の中かはることなし。世間の親子は生を替(か)ふるに隨つて替はりもてゆく。六道の衆生は皆三種の性德(しやうとく)の佛性(ぶつしやう)有るが故に、皆佛子なり。故に如來自ら、我れは父なり、汝は子なりと契り給へり。我等大聖慈父の御貌(おんかほ)をも見奉らずして、末代惡世(まつだいあくせ)に生るゝことは、先の世に佛の境界に於て、このもしく願はしき心も無かりし故なり。一向に渇仰(かつがう)をなさば、必ず諸佛に親近(しんごん)し奉りて、不退(ふたい)の益を得べきなり。生死の果報を得るも、生死の境界を願ふ心の深ければこそ、生死界にも輪轉するやうに、佛の境界を願ふ心の深ければ、亦佛の智惠を得るなり。只生死界をば惡(わろ)き大願を以て造り、涅槃界をばよき大願を以て造るなり。されば華嚴經に、淸淨(しやうじやう)の欲を起して、無上道(むじやうだう)を志求(しぐ)すべしと云へり。淸淨の慾といふは、佛道を願ふ心なり。佛道に於て欲心深き者、必ず佛道を得るなり。されば能々(よくよく)此の大欲を起して、是を便(たより)として生々世々(しやうじやうせゝ)値遇(ちぐう)し奉りて、佛の本意(ほんい)を覺り明らめて、一切衆生を導くべきなり。此の理を知り終りなば、何事かはわびしかるべき。欲に淸淨の名を付ることは、世間の欲の名利(みやうり)に耽りて何(いつ)までも心に持ちひつさぐる欲の如くにはなし。佛の境界を深くこのもしく思ふ大欲なければ、佛法に遇ふことなし。佛法に遇はざれば、生死を出づることなし。かゝる故に、暫く此の大欲にすがりて佛法を聞きあきらむれば、自ら祕藏しつる佛法も、大切なりつる大欲も、共に跡を拂ひてうするなり。かやうに跡もなき事をば淸淨と云ふなり。仍(よつ)て淸淨の欲と名づけたるなり。急がしければ、筆に隨ひ口に任せて申すなり。恐惶謹言。

    建仁二年十月十八日   高辨〔時に紀州在田郡糸野の山中なり〕

[やぶちゃん注:「猶(なほ)變易微細(へんやくみさい)の苦を知らずして」の「猶(なほ)」の部分は、底本では一字分が空きになっており、明らかな植字ミスと判断される。「猶」の字は複数の諸本から、「なほ」の読みは私の判断で補った(諸本はこう訓じてはいない)。大方の御批判を俟つ。

「昔大王ありき。身に千の穴をゑりて」の句点は私が打ったもの。底本では「昔大王ありき身に千の穴をゑりて」と繋がっており、如何にも読みにくい。]

大磯ノ海 萩原朔太郎 (自筆自選歌集「ソライロノハナ」より)

 

 

愚ろかなる叛逆心と、耐え難い孤獨の寂寥と自殺的の腦鬱と、忌はしい情慾の刺激と失意と煩悶と總てさういふ混亂(こんが)らかつた心の壓迫が私を海の方へと導いた。

 

 

 大磯よ汽車にのりたくなりたれば

 

 海が戀しくなりたればきぬ

 

 

冬の磯邊には靜寂の境趣が漂ふて居た。

 

力のない午後の日光を浴びながら漁師の家族はそここゝに投網を編んで居た。病人らしい都の人が物憂げに遠い濱邊を步いて居るのも淋しく思はれた。

 

 

 氷りたる二月の海の潮鳴を

 

 泣きて聽かんと來しにあらねど

 

 

 怖れつつ都をのがれ海に來て

 

 潮鳴る音に心悲しむ

 

 

疲れたる漂泊者のする樣に私は例の砂山に寢ころんで海を眺めた、

 

空はよく晴れ渡つて生ぬるい砂は擽るやうに私の掌の中から指の間をすべり落ちた、

 

 

 死ぬること思ふ哀しさ生くること

 

 思ふさびしさ海に來て泣く

 

 

 海の音きゝつゝ砂に寢ころびて

 

 空を見て居れば泣きたくなりぬ

 

 

海には帆を張つた漁船も二つ三つならずはしつて居た

 

あはれその蒼々たるわだつみの色よ

 

 

 砂山にまろびて我が思ふこと

 

 知れば鷗も哀しみて鳴く

 

 

砂丘をつたはつて小磯へ行つた

 

 

 砂原の枯れ艸の上をわが行けば

 

 虫力なく足もとに飛ぶ

 

[やぶちゃん注:この一首は、朔太郎満二十四歳の時、『スバル』第三年第四号(明治四四(一九〇三)年四月発行)の「歌」欄「その四」に「萩原咲二」名義で掲載された五首の内の一首、

 

 砂山の枯草の上を我が行けば蟲力なく足下に飛ぶ

 

相似歌である。] 

 

音もなく影もない小磯の濱には干からびた筆草ばかりが昔ながらに生へて居た。私はその赫土の上に身を投げて稚子のやうに聲をあげて啜り泣いた

 

いつのまにかたそがれ時のうすら寒い潮風が淚にぬれた私の頰を吹いて居た

 

 

 小磯なるかの砂山に忘れしは

 

 草も棝るべきつめたき淚

 

 如何ならん小磯が濱の筆くさは

 

 根を絕えぐさと思はざりしを

 

 

五年まへの夏、希望に輝やく瞳を以て此處の松林の中から太洋の壯嚴を祝した紅顏の少年は頽唐の骸骨となつて長い漂泊の旅から歸つて來た。今見る海の色にもまして靑ざめたるその顏色よ。

 

 

 きのふまで少女の群とバルコンに

 

 歌をうたひし我ならなくに

 

 

 五(いつ)とせのむかし女を戀したりき

 

 その頃のことすべて美くし

 

 

 海ちかき濤龍館のおばしまに

 

 立つは月の出待つに似たれど

 

 

 不孝なる繼子(まゝこ)の如く世を怖れ

 

 かつは怨みて仇をたくらむ

 

 

さびれきつた冬の海水浴町にも流石に夜の灯(ともしび)は紅くにほつた

 

ところの流行唄を彈くとき何故(なぜ)か悲しい眼附をして私にあることを訴へたのである

 

 

 かの少女唄をうたへば悲しめる

 

 我も冷えたる盃をあぐ

 

 

 うれひつゝある少年と知るよしも

 

 なければ彼はいそしみて彈く

 

 

 少年の心をそゝる仇言も

 

 たゞに悲しみ空耳にきく

 

 

 美しき言葉すくなの少年よ

 

 かく言ひかれは嫋(なま)めきてきぬ

 

 

 海に來て泣きてかへらん我ぞとは

 

 いかで知るらん昨夜の少女は

 

 

 美しき海の少女と寢し故に

 

 潮の香あびしにほひこそすれ

 

 

されど飽和したやうな重い心の沈滯を海へ來て釋かうとしたのは愚かであつた

 

翌る朝、私は漂然として其處を立つた。どこまでも靜をいとふて動を愛する私は生れながらに漂泊の運命をもつて居るのではあるまいか、

 

それは兎も角、此の氷れる冬の海に來て悲しむよりは、熱鬧の巷の中に耽溺の痛ましい快樂を貪(むさぼ)つて居る方が、まだしも幸福といふものであろう、

 

一夜にして私は大磯の海に告別した

 

 そのかみの虎が淚も悲しめる

 

 この少年を濡すよしなし

 

               (大磯ノ海、完)

 

[やぶちゃん注:昭和五三(一九七八)年筑摩書房刊「萩原朔太郎全集」第十五巻所収の自筆自選歌集「ソライロノハナ」の一九一一年二月のクレジットを持つ「二月の海」より(同章は、この後に、先に示したエレナ追悼の「平塚ノ海」という作品と二つで構成されている)。以上の通り、末尾に「(大磯ノ海、完)」として前に標題を置かない。取消線は抹消を示す(くどいがこの歌集は自筆肉筆本である)。太字「あること」は底本では傍点「ヽ」。概ね自筆本そのままに電子化することを目指し、「耐え」「腦鬱」「そういふ」「生へて」「輝やく」「太洋」「漂然」「といふものであろう」といった文脈からあまり違和感なく読めてしまう誤字や句読点及びその有無も多くはママとした(底本の校訂本文では仮名遣や送り仮名・漢字の誤りは勿論のこと、句読点もすべて『完璧に』整序されてしまっている)が、この詩にはかなり鑑賞に際して著しい違和感を生ずる誤字誤用が認められるため、私の判断で次の十一箇所十二点について以下のように変更した(なお、この変更は総て底本の校訂本文でも採用されているものであるから、殊更に独断的な変造とは思っていない)。上が底本で(→)以下が訂正したものである。

 

●禺ろかなる→愚ろかなる(萩原朔太郎の自筆稿にしばしば見られる誤字である。以下にももう一箇所ある)

 

●矢意→失意

 

●※車(「※」=(へん)「米」+(つくり)「気」)→汽車(次の「平塚ノ海」でも用いられている奇体な字体)

 

●そここゝに投網を編んで居た→そここゝに投網を編んで居た。(句点なしでは極めて読みにくい)

 

●干からびた筆草ばかりが昔ながらに生へて居た→干からびた筆草ばかりが昔ながらに生へて居た。(句点なしでは極めて読みにくい)

 

●棝るべき→枯るべき(「棝」は音「コ・ク」訓「ねずみおとし」で鼠を捕る仕掛けの謂いで枯れる・涸れる(朔太郎はしばしば枯れるの意に「涸れる」を用いる)の謂いはない)

 

●寄望→希望

 

●嫋(なま)めてきぬ→嫋(なま)めきてきぬ(音数律からも脱字と判断される)

 

●海へ來て釋かうとしたのは禺かであつた→海へ來て釋かうとしたのは愚かであつた

 

●翠る朝→翌る朝

 

●貧(むさ)つて居る→貪(むさぼ)つて居る(漢字の誤りとルビの脱字の二箇所)

 

 以下、老婆心ながら語注しておく。

 

○「擽る」は「くすぐる」と読む。

 

○「筆草」単子葉植物綱イネ目カヤツリグサ科スゲ属コウボウムギ Carex kobomugi の和名異名。

 

○「濤龍館」底本には『これは「濤瀧館」の誤記かも知れない』という注があるが、その根拠(平塚に濤瀧館という旅館があったというような事実)は示されていない。

 

○「釋かうとした」は「とかうとした」と読み、「解こう」(散らす・消す)の意である。

 

○「熱鬧」は「ねつたう(ねっとう)」と読み、人が込みあって騒がしい、の意である。

 

 本作と次に掲げる「平塚ノ海」との関係に関心のある向きには、この部分に就いて久保忠夫氏が「萩原朔太郎歌集『空いろの花』贅注――「大磯ノ海」の少女」(『短歌』昭和五六(一九八一)年三月)で行った論考を批判する形で書かれた渡辺和靖氏萩原朔太郎――「詩篇」ら「浄罪詩篇へ」(一九九〇年刊愛知教育大学研究報告三十九所収)の『(4)「二月の海」の少女』を参照されるとよい。]

母韻の秋 大手拓次

 母韻の秋

ながれるものはさり、
ひびくものはうつり、
ささやきとねむりとの大きな花たばのほとりに
しろ毛のうさぎのやうにおどおどとうづくまり、
寶石のやうにきらめく眼をみはつて
わたしはかぎりなく大空のとびらをたたく。

鬼城句集 夏の之部 土用

土用   でゝ虫の草に籠りて土用かな

2013/05/18

海産生物古記録集■5 広瀬旭荘「九桂草堂随筆」に表われたるホヤの記載

 

[やぶちゃん注:広瀬旭荘(ぎょくそう 文化四(一八〇七)年~文久三(一八六三)年)は儒学者で漢詩人。豊後国日田郡豆田町(現在の大分県日田市)の博多屋広瀬三郎右衛門桃秋の八男として生まれた(兄の淡窓も知られた儒学者で漢詩人である)。生来、記憶力が抜群に良く、師亀井昭陽に「活字典」と称えられ、交遊を好んで各地に旅をした。勤王の志士との交わりも知られ、蘭学者も多くその門を訪れている。詩作にすぐれ、詩文の指導には規範を強いず、個性を尊重した。清代末期の儒者兪曲園は旭荘のことを「東国詩人の冠」と評している。著述も多く、とくに二十七歳から始めて死の五日前まで書き続けた日記「日間瑣事備忘(にっかんさじびぼう)」は江戸後期の貴重な資料とされる(以上はウィキの「広瀬旭荘」に拠った)。

 「九桂草堂随筆」(安政二(一八五五)年~同四(一八五七)年成立)は大阪で書かれた。底本は国立国会図書館デジタル化資料の国書刊行会大正七(一九一八)年刊「百家随筆」冒頭にある「九桂草堂随筆」の当該画像(コマ番号80と81)を視認した。私の訓読と合わせながら、一見、人工物のような印象さえ与える特異なホヤ(厳密には乾燥した皮革質部分の一部)の附図も合わせて見て頂きたい〔*注〕。【二〇一四年十月十四日追記】国立国会図書館の二〇一四年五月一日からのサイトポリシー改訂により保護期間満了であることが明示された画像については国立国会図書館への申込が不要となったので、ここに上記当該画像(80・81コマ全部)を掲げるものとする。

Kokkaitosyokan_maboya

〔*注:しかし後に成田亨がウルトラマンで超変り種の四次元怪獣ブルトンを「ホヤ(マボヤ)」から造形設定(製作は高山良策)したように――多くの記載がブルトンの造形をイソギンチャクから発想したとするが、仮に成田の言がそうであっても(事実、彼がそう述べているのを読んだような記憶はある。なお、鼓動のようなブルトンの音は今一つの着想モデルとされる「心臓」に由来するものであろう)これはイソギンチャクではなくホヤ、それもマボヤを着想元とすることは最早、疑いない。円谷関連のブルトンの各種記載はそうした方向で訂正されるべきであると私は強く思っている――のブルトンには四次元繊毛という明らかに人工的な金属機械部分が複数個内部に配されてあったのを懐かしく思い出すのだ。心情的にはこの附図も、私の中では何かそうした怪獣少年へのフィード・バックが自動作用としてかかってしまい、何故か、ひどく懐かしい錯覚がしてくる図なのである。〕]

 

一、房州三田尻に柏吉と云者あり、頗風雅の志を存して漁獵を業とせり、臘月余之を訪ひしに、魚骨瓦石の類室中に充滿せり。主人云、此皆我網にて引上げたる物なり、此内より一物を擇取り玉へと挨拶しける故、一物を取れり、此物形ち圖の如くにして、中は空洞水三升を入るべし、其質石に似て石に非ず、陶器に似て陶器にあらず、蓋し細沙聚りて凝冱し、鐡より剛なるもの、背に一口あり、長さ三寸、徑り一寸、尻に又一口あり、小にして三の一に當らず、而て塞りて通ぜず、外面は蠣殻粘結せり、博物の人是を知るものなし、浪華の田邊守瓶が説に、是はホヤなり、ホヤとは老海鼠の化するところ、海鼠海底に蟄すること數百年、土沙その體に粘して陶器の狀をなす、唯口と尻との二口を以て呼吸を通ず、既にして化して龍の如き物となる、一旦風雷に乘じて其殼を破りて出づ、松前の人是を海鐡砲と名づく、漁舟頗る是を恐る、今まで見しホヤは常に二三寸に過ぎず、此は數十倍、何れ海鼠中の王なるべし、誠に希代の珍物なりと、初め柏吉余に贈りしとき、是は六百尋ほどの海底に手繰網を下して挂りたる物なり、何れ蟲魚の窠殼ならんと云へり、守瓶が説疑ふべしと雖ども、外に説あるものなし、故に記す、

 

□附図について

 画像は底本とした国立国会図書館デジタル化資料国書刊行会大正七(一九一八)年刊「百家随筆」冒頭にある「九桂草堂随筆卷之七」の当該画像(コマ番号80)を参照されたい(転載には手続きが必要なため、今回は見合わせる)。

 底本附図は左右二図からなる。推測するにどうもこれはマボヤ若しくはハルトボヤ(注冒頭の同定を参照)の皮革質部分の乾燥した一部のように思われ、右側が上部の、左側がそれを逆様にしたもののように見える。左の図を見ると、大きな開口部があり、これが本文の「背に一口あり」であるとすれば、これは附着していた仮根を生ずる柄部が欠損して出来た、皮革質の最下部に開いた大きな破損穴であると推察出来る。すると右手の上部中央に突出したものは入水管か出水管ということになるが、これが一本しか記されていないというのはやや不審である。内臓の脱落の際にどちらか一方が皮革部に陥没して塞がってしまい、乾燥の過程で皮革部と判別がつかなくなったものと思われる。そういう推理でこの右の図をもう一度よくみると(当初、一見、何かの金具のようにさえ見えるこれらの雲形の模様を本文にある附着した牡蠣殻と見ていたが)、有意な突出部の右下方に何か独特の模様を持った箇所が見える。この模様は先の有意な突出部の尖端にもわざわざ描いてある。仔細に見るとこの右下方のそれは、上のそれよりも複雑な皺のような感じで描かれているところをみると、実は上部の有意な突起がマイナス形の出水口の塞がった跡であり、この右下方の皮革に埋没した部分に実はプラス形の口を持った入水管が存在したのではないかと思えてくる。この推理は生物学的な配置関係からみても問題がない。右図にはその外、左下方に数箇所、突起様の、また左図にも全体に有意な凹凸をしめす描画がなされているが、これらがホヤの皮革外皮の突起や凹凸を示すものなのか、はたまた附着した牡蠣殻なのかは判然としない(但し、右図の右下最下部の滑らかな複数の襞の膨らみはマボヤの皮革の外観を尤もうまく伝えているように思われる)。

 

□やぶちゃん注

○本種は、

脊索動物門尾索動物亜門海鞘(ホヤ)綱壁性(側性ホヤ)目褶鰓亜目ピウラ(マボヤ)科マボヤ属マボヤ Halocynthia roretzi

若しくは

同ピウラ(マボヤ)科ハルトボヤ属ハルトボヤ Microcosmus hartmeyer

の超大型個体を同定候補としたい。保育社平成七(一九九五)年刊西村三郎編著「原色検索日本海岸動物図鑑[Ⅱ]」では前者の体長を一五〇ミリメートルとし、後者を一六〇ミリメートルと有意に違えてあるところからも、ハルトボヤがマボヤよりも大型個体を生じやすいと読め、更に本文でも優位に皮嚢の皮革質が非常に堅牢であると述べている点で、ハルトボヤ Microcosmus hartmeyeri の可能性が高まるようには思われる。「原色検索日本海岸動物図鑑[Ⅱ]」の記載に基づいて以下にハルトボヤについて記載しておく(これも丘浅次郎先生の命名である)。

   *

ハルトボヤ

Microcosmus hartmeyeri Oka

体長一六〇ミリメートルに達する。被嚢は厚くて堅く、表面にはしわが多い。生時は黄褐色や赤橙色を呈する。水管の内部は鮮やかな赤橙色に染まっており、時に淡い筋が不規則に見られる。水孔周辺に一七〇マイクロメートル以下の微小棘が密生する。富山湾及び房総半島以南の本州(瀬戸内海を除く)と玄海沿岸で、潮下帯から一五〇メートルの深さに棲息する。福岡では被嚢を味噌漬などにして祝いの席で食べる。

   *

グーグルの「ハルトボヤ」の画検索で分かる通り、外観は相当にがちゃがちゃしており、附図が分かり難いのもこういう状況を写そうとしたのであろうと合点がゆく。ご覧あれ。それにしても、ハルトボヤの皮の味噌漬け……劇しく食いたい!

・「房州三田尻」不詳。安房には田尻という地名は、少なくとも現在は確認出来ない。一つ気になるのは「三田尻」ならば周防国(長州藩)にあることで(現在の防府市)、周防国は別名「防州」である点である。但し、本種がハルトボヤ Microcosmus hartmeyeri であるとすれば、上記の記載から周防誤記説は誤りとなる。大方の御批判を俟つ。現代語訳では安房ととった。

・「柏吉」不詳。「頗風雅の志を存して」とあるから、所謂、市井の漁師ではあるが、相応の裕福な網元クラスの、所謂、物産愛好の好事家の一人と思われ、するとこれも本名ではなく、一種の雅号である可能性が高く、その場合は恐らく音読みして「ハクキツ」と読むかと思われる。

・「頗」「すこぶる」と読む。

・「臘月」陰暦十二月の異名。

・「擇取り」「えらみとり」と読むかと思われる。選び取る。

・「水三升」これは無論、小型の一合枡で三合入るということであろう。それでも非常に大きい。

・「細沙聚りて凝冱し、鐡より剛なるもの」「凝冱」は「ぎようご」と読み、冷えて凍り固まることをいう。後で深海からの採取であることが明らかにされるが、あたかもそれに合わせたような、細かな砂が強烈な水圧と非常な低温によって凝結して、鉄よりも「剛(こう)」なる硬い物質に変成した、とでも言いたそうな文脈部分ではある。

・「長さ三寸、徑り一寸」「徑り」は「さしわたり」と読んでいるか。直径が約三センチで円周が約九センチということであろう。

・「小にして三の一に當らず」これは前の数値を元に述べているから、図の右に有意に突出するも部分は直径は一センチメートルほどで、円周も三センチメートル足らずであることをいう。入出水孔の形状として全く問題がない。

・「田邊守瓶」不詳。「しゆびん」と読んでおく。物産家らしいが、以下のトンデモ説を開陳するところは、かなり怪しい人物である。識者の御教授を乞う。

・「ホヤとは老海鼠の化するところ」「老海鼠(らうなまこ)」と読んでおく。これで「ほや」と読むがそれでは文意が通じないからである。

・「松前」北海道南部の現在渡島総合振興局管内にある松前町(まつまえちょう)。渡島半島南西部に位置する。かつては松前藩の城下町として栄えた。

・「海鐡砲」このようなあやかしは不詳。叙述からその昇龍の如き変態変生の噴出に打たれると船は沈み、人の命はない、というニュアンスである。識者の御教授を乞う。ただ、生時には出水孔からかなり強く海水を吹き出すし、ホヤの調理では最初に入水孔の突起部を切除するのが一般的であるが、その際、生きが好ければ好いほど、鉄砲のように勢いよく海水が吹き出ることは事実である。

・「今まで見しホヤは常に二三寸に過ぎず、此は數十倍」個体の丈け(高さ)を言っているのであろうが、これでは少なくとっても二寸の二十倍としたって1メートルを有に超えることになってしまい、前の実測数値とも甚だしい齟齬を生ずる(そもそもそんなでかいものを「一物を取れり」とは表現しない)。こんな誇張をここで用いるのは正直、如何にも変といわざるを得ない。「數百年」の辺りから、この御仁、信用に措けぬ。……が……おもろいやないかい!

・「六百尋」一尋(ひろ)は約一・八メートルであるから、約一〇八〇メートルに相当する超深海底(現在は通常二〇〇メートル以深を深海と呼称する)である。これも妙に誇張的ではある。但し、ここでは「手繰網を下して」とあることから誇張とも言えない。手繰網(たぐりあみ)は底引寄せ網の一種で、網は一袋両翼型で、袋網の網口両側に袖網(そであみ)がつき、その先端に引綱がつくタイプをいう。錨を降ろして船を固定した上で網が海底から離れないように引き寄せて獲る。おもな漁獲魚種はイワシ・シラス・イカナゴ・アジ・カレイ等が主で、沿岸域の水深二〇~四〇メートルが主漁場であるが、この引綱の長さは水深の十五倍程度が必要で、最初に投網(とうもう)した位置前面の海底に群生する魚群を左右の引綱で囲む形からまず始まって、次第にその囲みを長楕円形に変じて、引綱で脅かしながら目的の魚群を袋網の真正面に駆り集めさせ、そこで急に網を引いて漁獲する(以上は小学館「日本大百科全書」に拠る)。以上の現在の手繰網の記載から、実際にはこの当時の古いタイプの場合は六〇〇~一〇〇〇メートル繰り出したとしてもおかしくないように思われるからである。

・「挂りたる」「かかりたる」と訓じている。ひっかかるの意。

・「蟲魚の窠殼」「窠殼」は「くわかく(かかく)」と読み、魚その他の何らかの海産動物の棲み家の殻(から)の意。

 

■やぶちゃん現代語訳(読み易くするために適宜改行した)

 

一、安房国の三田尻(みたじり)に柏吉(はくきつ)と申す同好の士がおる。

 すこぶる風雅の道を好み、詩歌などをものし、平素は漁労を生業(なりわい)と致いておる。

 昨年の十二月、私、初めて彼の邸(やしき)を訪ねたのだが、これがまあ、奇体な魚の骨やら、得体の知れぬかわらけのようなるもの、異形(いぎょう)の岩石の類いなんどが、これ、「所狭し」どころか、室内にまさに「充満しておる」のであった。

 主人云わく、

「これは皆、我らが網にて引上げたる物で御座る。さて――このうちより、どうぞ、お好きなものを、これ一品、お選び下されよ。差し上げまする。」

とのことゆえ、とりあえず目を引いた不可思議なる物体を一つ取った。

 この物の形態は、以下の図の如きものである。

――中は空洞にして、見たところ、水三合は軽く入るであろうと思われる。

――その材質は石に似て石ではなく、陶器に似て陶器でもない。

――思うに、非常に細かい砂が、何らかの強い力で集められて凝結し、鉄よりも遙かに堅い物質に変成(へんせい)したかのような印象を与える素材である。

――背部に有意に大きな口が一箇所あり、その開口部は円周が凡そ三寸、直径が約一寸。

――その反対の側の尻の部分にもまた、口が一つあるが、こちらはぐっと小振りもので、前記の背部の口の三分の一にも満たない。しかも塞ってしまっており、中には通じていない。

――総体の外面部分には牡蛎殻が夥しく附着している。

 これを持ち帰って複数の博物の知を標榜せる御仁に見てもろうが、誰(たれ)一人として、これが何物であるかを知る者は御座らんなんだ。

 やっと大坂の田邊守瓶(しゅびん)に見せたところが、

「これはホヤで御座る。ホヤとは老いた海鼠(なまこ)が化したものにて、海鼠(なまこ)が生き永らえて、これ、海底にて凝(じ)っとしておること、数百年!……土砂がその体に粘着して……時を経て遂には、これ、陶器の如き体(てい)を成すに至るので御座る。……ただ、口と尻との二つの口を以って呼吸(いき)を通ずるに過ぎぬ摩訶不思議なものと成った……かと思えば! 既にして! 遂には化して! 龍の如きものとなる! かくして! 一旦、嵐や雷の劇しきに乗じ、その鉄の如き殼を破り! いや、サ! 海の上へと! ばっと! 飛び出る!……松前の人などはな、これを『海鉄砲』と名づけて、の! 漁師やその舟は、これをすこぶる恐れて御座るものじゃ!……それにしても……今まで拙者が見たホヤは、これ、常にせいぜいが、二、三寸のものに過ぎぬ小粒なものじゃったが……これは実に、その数十倍はあろうかという代物! これはまっこと、海鼠(なまこ)の中の王なるもののホヤに化したものの、その海鉄砲の化成(かせい)を遂げし後(のち)の、殻に相違御座らぬ! まことに以って! 稀代(きだい)の珍物(ちんぶつ)じゃて!」

とのことで御座った。

 しかし当初、柏吉から私に贈られた際には、柏吉は、

「これは六百尋(ひろ)ほどの海底に手繰網(たぐりあみ)を下(おろ)した際に掛かってきた物にて、孰(いず)れ、海産の魚介の類いの古き棲み家の抜け殻か何かで御座ろう。」

と申しておったもので御座る。

 この守瓶の説、すこぶる疑はしいものと思えども、他に納得し得る説を示すことの出来る者もおらぬによって、ここにとりあえず記しおくことと致す。

耳嚢 巻之七 俠女の事

 俠女の事

 去る御旗本の次男にて部屋住(へやずみ)の徒然(つれづれ)、召仕(めしつか)ふ女に通じけるが、某容儀美成(びな)るにはあらず、淨瑠璃三味線抔わ能(よく)なしける。然るに彼女、子細や有けん、暇出(いとまいだし)て宿へ下りしに、彼(かの)次男も其跡をしたひて家出せしが、彼女、店(たな)をかりて母幷(ならびに)右の男三人にて暮し、三味せん淨瑠璃指南をなし、屋敷方へも立入(たちいり)、右女壹人にて母夫を養ひ、遖(あつぱ)れにくらしけるが、彼男の親元より、何共(なんとも)町方におきては他の批判外分も不宜敷(よろしからず)とて、長や内へ三人とも引取(ひきとり)女は是迄の通り通ひ弟子、出張稽古、座敷勤(ざしきづとめ)なしけるが、子供兩人出生なしけるを、右女の働にて相應に夫々え片付(かたづけ)ける。然るに彼男、生德(しやうとく)樂弱成(なる)性質なれども、他へ遊興等は彼(かの)女防ぎける樣、其養育にや恥けん愼居つつしみゐ)たりし。親元へ立歸りし後、例のだじやくの病(やまひ)再發(さいほつ)して、内藤宿成(なる)喰賣女(めしうりをんな)に馴染(なじみ)、度々通ひて歸らざりしを、彼(かの)女が不憤(いきどほらず)、彼(かの)座しき勤(づとめ)、三味せん師匠の所德や金五十兩才覺して、右喰賣の身受をさせて彼(かの)男へ與へ、御身最早我にあきて遊興なし給ふ事、心も變じたれば、此女を召仕ひて、我には緣を切給へとて再應申ければ、男も恥入ながら其旨にまかせ、今は町宅(まちたく)して專ら右の師範をなし、至(いたつ)ての座持(ざもち)にて諸家へ立入(たちいり)、母を養ひ立派にくらし居(をり)ける。則(すなはち)、我知れる人も知る人も一座なし、委細譯もしりけると語りぬ。彼(かの)男は名幷親元も當時は兄の代にて、名も知りければあからさまに語(かたら)んも面流しと、あからさまにあかさざりける。

□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。義理に厚いしっかりものの粋な姐さんと旗本惰弱男の物語である。
・「部屋住」次男以下で分家独立をせず、親または兄の家に留まっている者をいう。但し、この語自体は家督相続前の嫡男のことを指す場合もある。
・「某容儀」底本には「某」の右に『(其カ)』と傍注する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『其容儀』。「其」で採る。
・「遖(あつぱ)れ」は底本のルビ。
・「外分」底本には「某」の右に『(外聞)』と傍注する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『外見』。
・「樂弱」底本には「某」の右に『(惰弱カ)』と傍注する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『柔弱』。「惰弱」「柔弱」ともに、気持ちに張りがなく、だらけていること、意気地のないことをいう。
・「喰賣女(めしうりをんな)」若しくは単にこれで「女」を読まずに「めしうり」とも呼んだ。飯盛女(めしもりおんな)。旅籠(はたご)で客に飯を盛る給仕女の謂いながら実態は売春婦であった。幕府が各宿場に遊女を置くことを禁じたため、非合法に発生した私娼である。幕府公文書では本文同様、殆んどがこの「食売女(めしうり)」で表現されている。
・「彼女が不憤」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『彼女聊不憤(いささかいきどおらず)』。ここは後者を採る。
・「我知れる人も知る人も一座なし」底本には「知る人」の右に『(ママ)』と傍注する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『我知れる人も知る人にて一坐もなし』。ここもバークレー校版に準じて訳す。
・「面流し」底本には右に『(汚カ)』と傍注する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版も『面泥し』で右に『(汚)』と傍注する。「面汚(つらよごし)」で採る。

■やぶちゃん現代語訳

 侠女(きょうじょ)の事

 さる御旗本の次男にて部屋住みの徒然(つれづれ)に、召し仕(つこ)うておった下女に馴染んで御座った。
 しかしその容儀は、これ、お世辞にも美しくもあらなんだ。
 ただ、浄瑠璃や三味線等なんどは、これ、なかなか巧みにこなす才を持って御座った。
 ところがこの女、何か子細があったものか、暇(いと)まを申し出て、町方の実家へと下がったところが、あろうことか、かの次男坊もその後を慕って、これ、家を出でてしもうたと申す。
 そこでかの女は、お店(たな)を借り、実の母とその次男坊の三人にて暮らし、
――三味線浄瑠璃指南――
の看板を掲げて才覚なし、たちまち、その技の評判となったればこそ、お武家の屋敷方へもしばしば出入りをなすに至り、かの女一人で母と夫を養い、まっこと、しっかと、ちゃあんとちゃちゃんと暮しなして御座ったと申す。
 ところが、かの次男坊の親元より、
「……なんとも……町方にかくなしておったのでは……噂や外聞、これ、宜しからざれば……」
と、屋敷内の長屋へ、三人ともに引き取ったと申す。
 女はこれまで通り、通い弟子や出張稽古及び座敷勤めを致いて御座った。
 そのうちに子供が二人生まれた。されど――部屋住みの次男に賤婢の母の三人の経済――なればこそ、また、かの女一人の才覚にて、二人とも相応の方へと養子に出してやり、片付けて御座ったと申す。
 ところが……かの次男坊……この男、生得、惰弱なる性質(たち)なれども、町方にあった折りまでは、他所(よそ)へ遊興なんど致すこと、かの女がなんとか防いで御座って、その骨身を惜しまぬ働きやら心配りやらに、これ、男も恥じる思いがあったものか……自(おの)ずから慎んで静かにしては御座ったようであった。……ところが、じゃ……親元へと立ち帰った後は……またしても例の惰弱の病いが再発致いて……今度は内藤新宿とか申すところの……なんとまあ、飯盛女(めしもりおんな)に馴染み……度々通って……遂にはとんと家にも帰らずなったと申す。
 ところが、かの女は、これをいささかも憤ることなく、今まで通りの座敷勤めに三味線師匠の所得を、これ、こつこつこつこつと貯めに溜めたものでもあったものか――何と――金五十両を揃え、その飯盛女の身受をさせた上、夫へその女を与えて、
「――御身は最早、我らに飽きて遊興なされしこと、これ、我らへの心も変じたものなれば、この女を召し仕われて、我らには緣を切るとの仰せを給え!――」
と、何度も申したによって――男も内心、己れの不甲斐なさに恥じ入りながらも、そのおいしい申し出の儘に任せて――離縁して御座った。
 されば彼女は、今は町屋に暮して、専ら、かの三味線浄瑠璃の師範をなし、その技の上手なは勿論のこと、酒席宴席にては、これ、すこぶる座持ち上手にても御座ったればこそ、ますます諸家へ出入り致いては、実母を養い、町方にても随分、立派に暮して御座ると申す。……

 私の知っている御方の話しによれば、その我らが知人の知人と申す御方の実談として、
「……この女とは、確かに、その女の招かれたる座興の席にて逢(お)うて、その愚かなる次男坊や養子に出だいた二人の子(こお)のその後、内藤新宿の飯盛女身受けの顛末なんど……これ、その委細の訳も皆、訊いて御座いました。……」
とのことで御座った。
 その次男坊なる駄目男についても、名並びに親元も、実はその知人の知人なる人物は、これ、訊いて御座ったようであるが、今現在、その武家、まさにその男の兄の代となって御座ればこそ……実名、これ、口に出ださば……『ええッツ?! あの○×様の!?』……ということになりかねるような、すこぶる附きに知られたる、さろ名家で御座るによって……あからさまに名を語らんも、これ、先様への面汚しとなればこそ……と、あからさまには私の知人には明かさなんだ、とのことで御座ったよ。

平塚ノ海 萩原朔太郎 (自筆自選歌集「ソライロノハナ」より)

平塚の病院に昔知れる女の友の病むときいて長い松林の小路をたどつて東へ東へと急いだ。

海に望む病院のバルコニイに面やつれした黑髮の人と立つてせめて少年の時の追憶を語り合ひたかつたのである。音もない病室のカアテンの影に啜り泣く哀れの少女が思ひがけない昔の友の音づれをきいたとき、どんなにか驚きかつは悅ぶであろうといふ事も私の果敢ない驕樂の幻影であつた

けれども既にそこには待つ人は居なかつたのである、

あはれの人妻は一と月ほどまへ影のやうに此の世から消えてしまつたのである、

私は消然としてふたゝび海の方へさまよひ出た

 

 病院の裏門を出て海岸へ

 つゞける路のコスモスの花

 

 平塚の佐々木(さゝき)病院のバルコンに

 海を眺めてありし女よ

 

 月光に魚の鱗(うろこ)のひかるとき

 窓にもたれて泣く人を見き

 

平塚の海はあはれにも痛ましいものであつた、

濱邊には誰れ一人さまよふ者もなく、海には一つの帆影も見えない

其處にはただ松籟と濤聲とが何時もの哀歌をうたつて居るばかりであつた

鷗の一群が私の前をよぎつて遙か先の波うち際に展開した

數十羽の白い鳥は兵士のする樣に散兵線を張つて沖の方へ沖の方へと進んで行く

 

 悲しみて二月の海に來て見れば

 浪うち際を犬の步るける

[やぶちゃん注:この一首は、朔太郎満二十四歳の時、『スバル』第三年第四号(明治四四(一九〇三)年四月発行)の「歌」欄「その四」に「萩原咲二」名義で掲載された五首の内の一首、

 悲しみて二月の海に來て見れば浪うち際を犬の步ける

標記違いの相同歌である。]

 

 かくばかり悲しき海にたゞ一つ

 鷗のとぶは耐えがたきかな

 

其所の海岸の砂山にイスパニヤ形のベンチが置かれてあつた、

あはれ此の寂しい砂汀の上にたつた一個(ひとつ)のベンチ、その骨は銹びそのペンキは禿げ落ちてからそも幾年の間、あんどろめだの樣に御前は海ばかり眺め暮らして居たのか、その片隅に腰かけた時、私は何處からともなく運命の痛ましい訴へを聽いた、

 

 人もなき砂山の上に置かれたる

 べンチは如何にさびしからずや

 

 幾人の肺病患者が來て息みけん

 平塚の濱のあはれベンチよ

 

 かのベンチ海を見て居りかのベンチ

 日每悲しき人を待ち居り

 

「一人ぼつち」元氣のない旅びとは自分の指で砂に書いた文字を見つめながら、ぐつたりと疲れはてゝ其處に橫はつて居た、

何時までも、何時までも……

 

 砂山にうちはら這ひて煙草のむ

 かつはさびしく海の書きく

 

急にけたゝましい汽笛の音が眞晝の沈獸を破つてうら佗しいそこらの漁村に響き渡つた、

長い長い急行列車は冬枯れの木立の間をかすめるやうにして走り去つた。

私はまた立上つて松林の中をさまよつた、停車場の方へ出る路を急いだのでたどつて居るのである

海よ、さらば、

都の人は都へかへり、旅人は旅を急がなければならぬ、

 

 何となく泣きたくなりて海へきて

 また悲しみて海をのがるゝ

              (平塚ノ海、完)

 

[やぶちゃん注:昭和五三(一九七八)年筑摩書房刊「萩原朔太郎全集」第十五巻所収の自筆自選歌集「ソライロノハナ」の一九一一年二月のクレジットを持つ「二月の海」より(同章はこの前の「大磯ノ海」という作品と二つで構成されている)。以上の通り、末尾に「(平塚ノ海、完)」として前に標題を置かない。取消線は抹消を示す(くどいがこの歌集は自筆肉筆本である)。ほぼ自筆本そのままに電子化した。従って「悅ぶであろう」「消然」「步るける」「耐えがたきかな」や句読点及びその有無も多くはママである(底本の校訂本文では仮名遣や送り仮名・漢字の誤りは勿論のこと、句読点もすべて『完璧に』整序されてしまっている)。但し、次の三箇所については鑑賞に際して著しい違和感を生ずると考え、私の判断で変更した。

・第二文「海に望む病院のバルコニイに面やつれした黑髮の人と立つてせめて少年の時の追憶を語り合ひたかつたのである。」とした末の句点は底本ではない。文意から打った。底本校訂本文でも同じく句点を打つ。

・「イスパニヤ形のベンチ」は自筆本では「ペンチ」。誤記。底本校訂本文でも同じく「ベンチ」に改めてある。

・「急にけたゝましい汽笛の音が」の「汽笛」の「汽」は自筆本では『(へん)「米」+(つくり)「気」』という奇体な字である。「氣」と配することも考えたが、それでも奇体な誤字印象を拭えないので、普通に「汽笛」の「汽」で配した。底本校訂本文でも同じく「汽」に改めてある。]

ジヤスミンのゆめ 大手拓次

 ジヤスミンのゆめ

 

うすあをいふぢいろのはだへのもや、

うつとりと上気した女へびの眼のやうに

みだらにしたたる香氣をはく。

つよいつよいジヤスミンのねむりの香氣、

ちやうどそれはひたひをおさへてうなだれる尼僧のひとりごと、

ああ つよいつよいねむりの香氣。

鬼城句集 夏之部 短夜

短夜   短夜や枕上なる小蠟燭

     短夜や簗に落ちたる大鯰

     短夜や舟してあぐる鰻繩

     夏の夜や遠くなりたる箒星

     家鳩や二三羽降りて明昜き

[やぶちゃん注:「昜」の字はママ。但し、この字は陽が上がるの意で、強ち誤字とも言えぬが、無論、「やすき」とは読めない。]

2013/05/17

公益財団法人文楽協会創立五〇周年記念・竹本義太夫三〇〇回忌記念平成二十五年五月公演についての雑感

12日に第二部、昨日13日に第一部を観劇した。特に昨日の第一部がいろいろな意味で印象深かった。

「一谷嫩軍記」は私の好きな熊谷直実の出家に纏わる真相譚で、実は敦盛は後白河院の落胤で、直実は自分の長男小次郎直家を身代わりとした、それを命じたのは判官贔屓のチャンピオン義経であったという浄瑠璃にありがちな設定が如何にも面白い(このやはり判官贔屓の敦盛不死伝説については実際に広島県庄原市に『古くから「敦盛さん」という民謡(市の無形民俗文化財)が伝わっている。それによると敦盛の室(玉織姫、庄原では「姫御さん」と呼ばれる)が、敦盛は生きているとの言い伝えを頼りに各地を巡り歩き、庄原に至ってそこに住んだ、という。庄原市春田にはその玉織姫の墓といわれるものが残ってる』。これが『どのような経緯で伝承が生まれたのかは定かではなく、全国各地に見られる平家の落人伝説の一種と見られる。しかし敦盛を討ったとされる熊谷直実は安芸国に所領を与えられており、また熊谷氏は戦国時代に至るまで安芸に土着していることから、その点と何らかの関係がある可能性も考えられる』とウィキの「平敦盛」にある)。事実は父直実が大叔父久下直光との所領争いに敗れて尻捲くりして出家した後、家督が直家に安堵されており、父祖伝来の武蔵大里郡熊谷郷を領して承久の乱でも活躍しているから、確かに直実の出家を件の敦盛の話だけを主因とすると今一つ解せないところを、敦盛・義経のダブル貴子流離譚妙に絡めて贔屓側の大多数の庶民を妙に納得させてしまう話柄となっているところが、如何にも面白いのである。「熊谷桜の段」の弁慶筆の高札の謎という推理ドラマが、「熊谷陣屋の段」の障子に映る敦盛の霊(実はそれは生きた敦盛であるのだが、同時にまた身代わりとなった小次郎の霊でもあるように私には感じられた)の出現から、クライマックスの小次郎の首級が披露され――それぞれの断腸の思いを孕みながら、遂にをあくまで場の人々が「敦盛」として語り切る悲泣――そして下がった直実が墨染めの衣となって語る直実の、
「ヤア何驚く女房。大将の御情けにて、軍(いくさ)半ばに願ひの通り、お暇を賜りし我が本懐。熊谷が向かふは西方弥陀の国。倅(せがれ)小次郎が抜駆けしたる九品蓮台(くぼんれんだい)。一つ蓮(はちす)の縁を結び、今よりわが名も蓮生(れんしょう)と改めん。一念弥陀仏即滅無量罪。十六年も一昔。夢であったなあ」
の台詞に、私は思わず心中、横手を打って、大きく頷いてしまったのであった。
玉女の直実は、何時もながら、まっこと、玉男の正統の弟子ならではのダイナミックな男のエロティシズムを発散させて、感嘆するばかりである(*注1)。
(*注1:但し、ここで一言贅沢を言うなら、どうも玉男は出遣いで出た際に、こうした荒事の立役の強さにすこぶる附きでマッチして「しまう」がゆえに、若男の心中物などでは、その熱気ときりっとし「過ぎた」玉夫の表情がつい、人形のイメージにも滲み出してしまうという欠点があるように思われる。しかし、玉男の禅坊主のようなあの不敵なポーカー・フェイスは、一朝に真似できるものではないことも分かっている。)
久々に見た紋壽の、直実妻相模も振幅の大きい老女形の頭(かしら)の情を美事に生かしていた。ただ、紋壽は、動きのない時にも、一挙手一投足にふうふうと荒い息を吐いて歩く僕の妻のように(変形股関節症で最近骨盤に変形が生じて、具合は今一つよくない)、如何にも苦しそうに息をされており、恐らく足遣が気遣ったのに対して大丈夫といった頷きをされていた。出遣なだけに、これは非常に気になってしまった。芝居としてどうこうではなく、紋壽の体調がどうしても気になってしまうのである。こればかりは何とも曰く言い難いのである。

「曽根崎心中」は今回、「生玉社前の段」「天満屋の段」が主遣も黒子であったが、私はどこぞのアブナい知事が言ったように、初めて文楽を(実は生ではなく栗崎碧監督の映画「曽根崎心中」(昭和五六(一九八一)年の十一月で、これは全篇が黒子であった)見て以来、実際に生で見るようになった後も暫くの間は出遣に違和感があったことは告白しておく。しかし、今回見て、私はかえって違和感を覚えたのが面白い。お初は今回、「生玉社前の段」が一輔であったから、彼のお初を満を持して待っていたのであるが、どうも人形への私の貫入が今一つなのであった。それは、一輔のやるお初を見ているけれど、本当に主遣いは一輔なのか、という自動作用が邪魔をするのであった。同様の妙な紗幕が心に掛って「天満屋の段」の愛する蓑助の振りにも集中出来なかったことを自白する。これは全く以って僕の側の、さもしい雑念なのであるが、生じてしまうと、いっかな払拭出来ぬようになってしまったのであった。
しかも「天満屋の段」にはどうしても言わずばならぬ不幸が付随した。「天満屋の段」の大夫は源大夫であったが、全く声が通らないのである。
今回は珍しく6名の重要文化財保持者が総出演で一人の休演もなかった。昨日は録音も入っていた。今年の文楽協会創立五〇周年記念と竹本義太夫三〇〇回忌記念でもあり、これは寿ぐべきことではあった。しかし――源大夫のそのパワーの減衰は流石の僕も驚天動地であった。「曽根崎」でも最大のクライマックスがあれでは話にならない。三味線の音に遂に掻き消えて聴こえなくなる箇所さえあり(僕らは最前列のズバり舞台中央位置の座席であったにも拘わらず、である)、何より悪役の九平次が少しも悪役に見えなくなってしまうほどなのであった。終わった幕間、私の隣にいた御婦人二人も、「歌舞伎じゃ、いいシーンなのに失望だわ。私もう、寝ちゃったわ。」と喋っているのが聴こえた(事実、この御婦人は舟を美事に漕いでいた。但し、彼女は「一谷嫩軍記」の際にも寝ておられたようだから、あんまり信用にはおけない)。
はっきり言うと、最早、不平・不満の域ではなく、哀れに悲しい気がしてきたのであった。源大夫、しっかり休養されてまた元気に床に戻ってこられるのを望むばかりである(但し、ネット上の書き込みなどをみると、源大夫のそれは相当にクセのある義大夫らしく、過去の「曽根崎」でも台無しだったという不評も散見される。ともかくも腹に力の入らないあれでは客にも失礼である)。
徳兵衛の勘十郎は危なげなくこなしている(妻曰く、少し疲れている感じがするとのこと。彼女曰く、新聞の小さな記事で今秋、文楽の欧州公演があるらしいがその記者発表を勘十郎がしていた、一部で徳兵衛、二部で小春をこなした上に海外ツアーの企画を担っているとすると相当疲れてるに違いないと。これはホームズ並みに鋭いと僕は感嘆した)。先の注の反対に、総合的に見ると女形をも荒事の立役をも難なくこなし得る名手がまさに勘十郎であると言える。彼のやや優男の二枚目役者みたような面相(玉女の方が任侠物の名優のように苦み走っている)が心中物の若男の頭(かしら)にすこぶるマッチするので、彼のこの手の役は出遣いこそが効果的なのである(これは人形遣いそのものとは、本来は無縁などうでもいいことなのであろうが、煩悩多き僕にはやはり気になることなのである)。
しかし、一つ気になった。
「天満屋の段」の、縁の下で、徳兵衛がお初の足を自らの首に「足刀」として当てて、心中を誓うシーンである。
――足刀に見えないのだ。
――フェティシストが女の足に縋りついてるようにしか見えなかったのだ。
これは玉男は勿論、玉女でも感じたことのない、はっきり言うと――気持ちの悪い違和感――であった。
この場面は先に見た玉女のそれでも苦言を呈した箇所ではあり、基本一人遣いで身動きの取れない特殊な状況下(*)、非常に難しい場面ではある(玉男もかつてそう言っていた)。玉女も勘十郎も、ポスト玉男徳兵衛としての精進が続く。
(*注2:添えの黒子が奥から一人降りて附くことはつく。因みに、妻曰く、今回の降りてきた黒子はお初の左手を遣っているはずの一輔だったという。黒子の面部の皺で一輔だと確認したというのだ。これもホームズ並!)
蓑助は言うまでもない。4名の大夫と人形遣の人間国宝のうち、何の心配もなく完璧に感銘出来たのは、彼ただ独りであった(三味線の上手さは今一つ耳の肥えておらぬ僕の意識の中では評のしようがないのであえて外す)。――何度も似たようなことを繰り返すが――蓑助はお初と肉と魂で繋がっているのだ。――お初が蓑助であり、蓑助がお初なのである。――「僕」は「蓑助」を通してのみ、「お初に惚れている」ことを告白する。――

どうも書き始めるときりがない。二部については一言二言だけにする。
「寿式三番叟」二人三番叟のパートを基にしたものは、以前に教え子の日本舞踊の発表会で見たことがある。その時の演出との比較を言えば、チャリ場がもっと派手であってよいと思われた。本来は祝祭的外題であるのは分かるが、現代ではもっとチャリを膨らませた方が観客受けする。
勘彌の美少年の千歳がすこぶる印象的であった。
和生の翁もいつもながら優雅を湛えて手堅い。

「心中天網島」は初見であったが、流石は近松の名品でしみじみと心うたれた。今回用の特別折り込み(これがすこぶる良い出来である)とパンフレットからの受け売りであるが、これは、治兵衛と小春の悲恋物語である以上に治兵衛の妻おさん哀惜の物語であると言える。
おさんが哀しくも限りなく美しい。
しかも、治兵衛に最後には小春とは別に首を縊らせるという、近松のおさんへの愛と、その反面である厳しい治兵衛への断罪というコンセプトもショッキングであると同時に、一見、忘れ難いエンディングと言えるのである。
僕はこの「おさんに惚れた」。――文楽だけが「役」に恋させる魔法を持っている、としみじみ思う今日この頃である。……
文雀のおさんは燻し銀の老女形の複雑な心理の影を頭の翳によく表現していた(文雀、こころなしか少しお体が小さくなってしまったような気がした)。
なお特に、意外なことに、僕は、

「天満紙屋内より大和屋の段」この「紙屋」から「大和屋」への大道具の動きのダイナミズムの持つ効果

に劇しく心を揺すぶられた。

治兵衛と二人の頑是ない子を後におさんが父五左衛門に引っ立てられてゆく――呆然とする治兵衛と子ら――その紙屋の額縁が後ろに急速に後退――バレの暗闇が額縁となる――その左右と上から大和屋のセットが繰り出す……

その急速に舞台奥に小さくなってゆく操る玉女と治兵衛(この日も最前列であったため少し伸びあがってもそれしか目に入らなかった。この場面転換は是非、有意に観客席の中央寄りで見て最大の効果を持つものと思う)……

この映画のようなシーンは、まさにカタストロフへと堕ちてゆく治兵衛の宿命の闇の深さを恐ろしいまでに予兆させる、ヴィジュアライズさせているのである。これには心底、舌を巻いたのであった。

ともかくも高齢の方々の健康が心配である。
それだけに否応なしにやってくる世代交代の一つの大事な時期にきていることを僕は今回の公演に強く感じた。

耳嚢 巻之七 又同法の事

 又同法の事

 

 水飴の中へ大根を薄く切りて一切れ入(いれ)置き、右大根の水不殘(のこらず)飴え吸(すい)候比(ころ)、大根を取出し、右水飴用ひて咳を留(とむ)る奇妙の由、人の語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:民間治療薬鎮咳(ちんがい)薬の二連発。この大根あめは私も聴いたことがある。現在でもその効用は謳われている。美麗なる個人サイト「母の手仕事・台所の知恵」の「大根あめの作り方~咳やのどの痛みにおすすめのレシピ」などを参照されたい。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 また同じく咳を止める薬法の事

 

 水飴の中へ大根を薄く切って一切れ入れ置き、その大根の水が残らず飴の方へ吸い出された頃、その大根は取り出し、かの水飴を服用すれば、咳を止めること、これ、絶妙の効果がある由、人の語って御座った。

大和田建樹「散文韻文 雪月花」より「鎌倉の海」(明治二九(一八九六)年の鎌倉風景) 4~了 

磯におりては、我もまた蟻になりて貝あさりゆくを、山より見る人ありやなしや。後よりさくら見えたりと叫び、帆立貝ひろへりと呼ぶ。辨當はおのおの結びつけて腰にあり。あの岩蔭やよからん、此木蔭はいかにとて、つひに森戸の明神まで來にけり。はじめ江の島の右に見つるふじ、今ははるかにわかれて江の嶋の左に立てり。鎌倉の海はわがすむ光明寺のあたりをのこして、親しくわれと相對す。木のもとに茶店あり、田舍娘ゐて茶をすゝむ。此磯には酢貝多しとて子供は渚に下りぬ。父は賴朝の遊びしといふ菜嶋ながめつゝ、茶碗を取りぬ。歌いまだ成らざるに、貝は手に手にはこばれて前にあり。あはれ足をいためてかまくらにのこれる母上に、早くこれをみせばやと、かれもこれもいふ。

[やぶちゃん注:「酢貝」正式な標準和名としては現在、ニシキウズガイ超科 Trochoidea サザエ科 Turbinidae のスガイTurbo (Lunella) coronatus coreensis に与えられている。本種の蓋(厳密には褐色のクチクラ層の部分が真の蓋で、盛り上がった石灰質の部分は炭酸カルシウムが二次的に沈着したもの)の外側(半球側)を下にして皿等に入れた酢の中に置くと、酸で炭酸カルシウムが溶解して二酸化炭素が発生、旋回することが和名の由来であるが、ここでは広義に通常のサザエなどの死骸から脱落した上記と同じ石灰質の円盤状の遺物を指している。これについては民俗誌なども含み、私の和漢三才圖會 介貝部 四十七 寺島良安の「郎君子(すがひ)」の本文及び私の注を参照されたい。

「菜嶋」「新編鎌倉志卷之七」の「杜戸明神」の項の最後に、

名島(なじま) 杜戸(もりど)の西の海濵、六町ばかりにあり。賴朝、遊興の所なりと云傳ふ。賴朝の腰掛石とてあり。賴朝卿杜戸へ遊興の事、【東鑑】に往々見へたり。

とある。現在は大和田の記すように「菜島」と地図上に明記されてある。]

光明寺はものしつかなる大寺なれば、朝飯まつとてもあそび、夕飯をはるとてもまづあそびしところ、山門高く松の木の間に聳えて、日ぐらしの聲遠く、苔むす石佛の前には風のもてこし落葉かさなりて、夏秋しらぬ世界にも似たり。さはいへど本堂は陸軍幼年學校生徒にかりとられて、今は讀經の聲よりも喇叭の響く處となりぬ。夕日かげれば、いでゝ相撲取るもあり、擊劍つかふもあり。これを見るとて集まり來る女子供は、撞樓のあたりをみたしぬ。夜に入れば濱涼し。兵士は多く砂ふみに出でゝ佛前の燈ひとり寺を守る。

[やぶちゃん注:「撞樓」私の記憶に誤りがなければ、この鐘はこの後の太平洋戦争に供出されて鋳潰されたはずである。それだけに私はこの場面がひどくリアルに読まれて仕方がないのである。

以下、この「鎌倉の海」と題した紀行は、大和田の短歌群を以って擱筆される。以下では有意に行空けを行った。]

 

   鎌倉にてよめる歌ども八月ばかり

 

前に見し島は後になりにけり

     はまづたひして貝ひろふまに

 

たちいでゝいざ我かげをくらべみん

     あさ日は杉のうへにのぼれり

 

朝霧にぬれつゝ行くもうれしきは

     まめのはなさく畑のなかみち

 

人ひとりすむとも見えぬ大寺の

     松くれそめて日ぐらしのなく

 

日にいくたび出でゝ見るらん心なく

     よせてはかへる波のけしきを

 

[やぶちゃん注:底本「いくたひ」。]

 

今日もまた人よりさきにふみにけり

     ねれたる磯の朝月のかげ

 

[やぶちゃん注:「ねれたる」はママ。「ぬ」の誤植とも考えられる。]

 

にぎはひし濱邊も人の跡たえて

     夕立くらしかまくらのうみ

 

墨筆をなげちらしたる心地して

     すごくも雲のちる夕かな

 

波の上をちぎれちぎれに行く雲の

     なでてはみがく月のかげかな

 

[やぶちゃん注:「ちぎれちぎれ」底本では後半は踊り字「〱」。]

 

行けば行きとまればとまる我影も

     月のさづけし友にぞありける

 

あら波のよせてかへりし砂の上に

     くだけぬ月のかげぞのこれる

 

鎌倉のはかめぐりして今日もまた

     折りくらしけり夏草のはな

 

浦波はいざとまねけど鶴が岡

     とりゐのかげもたちうかりけり

 

[やぶちゃん注:「たちうかりけり」は鳥居が「立つ」と「浮かれ立つ」を掛けたものであろう。荘厳な鳥居が立っていて、その面白さにも心奪われることよ、の謂いと読む。]

 

磯寺のせがきの鉦もひゞき來て

     夜かぜ身にしむ波のうへかな

 

月は入りぬ月は登りぬ濱にいでゝ

     海みつゝ居れば物おもひもなし

 

名殘をば濱にのこしてかへりしを

     閨にまちをる月もありけり

 

ともし火を吹きけされても中々に

     うれしかりけり月にとはれて

 

ちる浪にぬれて沖ゆくわが舟を

     けしきのうちに人やみるらん

 

夕日かげ片帆にうけてくる舟を

     いつまでおのがものと見るらん

 

くれにけりひる遊びつる江の島の

     あたりに見ゆるともし火のかげ

 

別れつゝ人は濱路やたどるらん

     あさ月たかしいなむらがさき

 

いにしへの夕日は今ものこるなり

     まつばがやつの松のこずゑに

 

ひるもなほ虫の聲きく古寺の

     きしの秋草さきそめにけり

 

[やぶちゃん注:「きし」崖。これは泊まっているから夜の虫の音(ね)も知っての「ひるもなほ」を含意すると私は考えるので、宿の正面の光明寺での詠と考えてよかろう。]

 

砂の上に指のさきしてかく歌を

     直すとならし波の洗ふは

 

小壺坂のぼれば涼し松かげに

     沖の帆舟も見えかくれして

 

[やぶちゃん注:「小壺坂」小坪に抜ける飯島ヶ崎の鼻の部分を通った道と思われる。私の電子テクスト鎌倉攬勝考卷之九の「古城址」に載せた「三浦陸奧守義同人道道寸城跡分圖」を参照されたい。今は失われたその雄大なロケーションがお分かり戴けるものと思う。]

 

折り持ちし花はいづくにすてつらん

     海見えそむるやまごえのみち

 

寺山に賤のをとめが刈る草の

     にほひすゞしき朝風ぞふく

 

[やぶちゃん注:掉尾に相応しい飾らぬよい和歌である。]


この大和田建樹の「散文韻文 雪月花」、その文体が大いに気に入った。向後も鎌倉とは無関係にご紹介したいと考えている。

何となく泣きたくなりて海へきてまた悲しみて海をのがるる 萩原朔太郎

何となく泣きたくなりて海へきて

また悲しみて海をのがるる

 

[やぶちゃん注:底本の「萩原朔太郎全集」第十五巻所収の「ソライロノハナ」の歌群「何處へ行く」の章の「その日頃」という下位歌群標題の巻頭の一首。「ソライロノハナ」のみに載る短歌。短歌を配した散文「二月の海」(一九一一年二月のクレジットを持つ)の掉尾に配された「平塚ノ海」の正真正銘最後に置かれた「ソライロノハナ」のみに載る短歌。しかもこの「平塚ノ海」は、エレナ(朔太郎の妹ワカの友人で本名馬場ナカ(仲子とも 明治二三(一八九〇)年~大正六(一九一七)年五月五日)。「エレナ」は彼女の後の洗礼名(受洗は大正三(一九一四)年五月十七日)。朔太郎が十六歳の頃に出逢い、十九で恋に落ちた。後、ナカは明治四二(一九〇九)年に高崎市の医師と結婚して二人の子も儲けたが、結核に罹患、転地療養の末に没した。この自選歌集「ソライロノハナ」を捧げたヒロインである。萩原朔太郎が生涯、永遠の聖少女として追い続けることとなるファム・ファータルである)を訪ねたが、既に彼女は一月前に亡くなっていた、その寂寥を叙景するものである(但し、ご覧の通り、ここには馬場ナカの死との大きなタイム・ラグが存在する。これについて不学な私は現在、読者を納得させるべき知見を持たない。同時に識者のご教授を乞うものである)。これは近い将来、全文を電子化したい。]

ヒヤシンスの唄 大手拓次

 ヒヤシンスの唄

 

ヒヤシンス、ヒヤシンス、

四月になつて、わたしの眠りをさましてくれる石竹色のヒヤシンス、

氣高い貴公子のやうなおもざしの靑白色のヒヤシンスよ、

さては、なつかしい姉のやうにわたしの心を看(み)まもつてくれる紫のおほきいヒヤシンスよ、

とほくよりクレーム色に塗つた小馬車をひきよせる魔術師のヒヤシンスよ、

そこには、白い魚のはねるやうな鈴が鳴る。

たましひをあたためる銀の鈴が鳴る。

わたしを追ひかけるヒヤシンスよ、

わたしはいつまでも、おまへの眼のまへに逃げてゆかう。

波のやうにとびはねるヒヤシンスよ、

しづかに物思ひにふけるヒヤシンスよ。

鬼城句集 夏之部 夏の夕

夏の夕  夏夕蝮を賣つて通りけり

2013/05/16

自分を見失うと……

……何故か――雨の音が――聴こえる……

大和田建樹「散文韻文 雪月花」より「鎌倉の海」(明治二九(一八九六)年の鎌倉風景) 3 / 本日閉店

本日は日曜に続き、文楽に参ればこそ早々に店仕舞いと致す。悪しからず。   店主敬白



けふは叔母さま東京よりをはすとて、子供ら朝はやくより起きてさわぐ。午後の滊車は待ちつる人をのせて停車塲につきぬ。やがてうちつれ鶴が岡にのぼる。今を盛の池の蓮は、かうばしき風を送りて、銀杏のもとにたゝずむ人を吹くもきよし。子供はあるじぶりして、こゝかしこをしへめぐりつゝ口々にいふ。叔母さま明日もおはせ、明後日までもおはせと。

一日小坪より山越して逗子に遊びし事もあり。坂つきて松の間より弓の如き入海を見おろしたるけしきは、又たぐふべきものをしらず。砂白く波きよき渚に添ひたる家のさまもおもしろきに、之を境として莚の如き靑田のうしろに廣がるあり。渚の方には貝ひろふ人蟻の如く、潮あむ人水馬の如し。かなたに山のそがれたるやうなるは鎧摺なるべし。それより右につゞきては葉山の村里より、森戸明神の松林までまがふべくもあらず。子供よあの松の右なるが、をとゞし休みて茶をのみたる處なるぞ。

[やぶちゃん注:「鐙摺」葉山町堀内にある鐙摺山。旗立山とも呼ぶ。NPO葉山まちづくり協会公式サイト「葉山地域資源MAP」の葉山文化財 58 旗立山(鐙摺山)によれば、伊豆蛭ヶ小島に配流されていた源家の嫡流頼朝が、治承元年(一一七七)、三浦微行(びこう)の折り、鐙摺山城に登る際に、馬の鐙(あぶみ)が地に摺れたのでこの名が付いたと言われる(この記載は蜂起以前のことととれる)。「源平盛衰記」では、『石橋山に旗上げした頼朝に呼応した三浦一族の三浦党は、この鐙摺の小浜の入江から援軍として出陣したとしている』。『この合戦で頼朝は敗走するが、三浦党も酒匂川畔まで行き、敗戦を聞き引き返す途中、小坪あたりで畠山重忠軍と遭遇したとき、お互いの誤解から合戦になるが、この時、鐙摺山城にいた三浦党の』惣領『三浦義澄はこの様子を望見し援軍を送ったが、和解が成立し、再び軍をこの鐙摺山城に引きかえした』。『鐙摺山城を旗立山(はたたてやま)と呼ぶのはこのためである』。また、「曽我物語」によれば、『伊豆伊東の豪族伊東祐親は、頼朝配流中は、頼朝の暗殺を図ったため、鐙摺山上で自刃、現在その僕養塔が山上に祀られている』。また、「吾妻鏡」によれば『頼朝の籠女亀(かめ)の前(まえ)が、小坪飯島』の伏見広綱の邸内『にかくまれていたのを、北條時政の妻牧(まき)の方(かた)に見つかり、牧の方はこれを頼朝の御台所政子に告げたため、憤激した政子は、牧の三郎宗親に命じて』広綱邸を破却させたが、『広綱はいち早く亀の前を大多和義久の鐙摺山城へ逃亡させ、事なきを得た』(この一件については引用元に脱文が認められるので私が補った)が、その後今度は頼朝が『鐙摺山城を訪れ、牧の三郎宗親を呼び「お前の主人はこの頼朝か政子か」と迫り、宗親の元結(もとゆい)を切った。このため、義父の北條時政は怒って伊豆へ引き揚げるという一幕もあった』。歌人佐佐木信綱によれば、建保五(一二一七)年に実朝が『この地に観月し、「大海の磯もとどろに寄する波 われてくだけてさけて散るかも」と詠んだと』する。現在、山上には三〇〇坪に『余る平坦があり、ここから見る景色は富士、箱根、江の島など、抜群である』とある。

「をとゞし休みて茶をのみたる處」「汐なれごろも」八月二十五の「逗子にて休みたる處は、入江を隔てゝ養神亭といふ旅館と相對し、風景やゝ晴れやかなるを肴にして、携へたる瓢箪を傾け握飯の包を打開く」で休憩した茶屋(私は柳屋旅館を候補に挙げた)である。森戸まで見えたとあるから長者園を指しているようにも見えるが、彼等はあの時ここで宿泊しているから違う。]

耳囊 卷之七 咳の藥の事

 

 咳の藥の事

 

 多喜安長の家に、咳の妙藥とて人にも施せしに、ある人諸人の爲なれば傳法を乞ひしに、用あらばいつにても可被申越(まうしこさるべし)、法を傳(つたへ)ん事をいなむにあらずといへ共、其法を聞(きき)ては信仰も薄きと斷りしに、切に乞(こひ)求めければ、無據(よんどころなく)傳達せしに、黑砂糖に胡桝を配劑して與ふるよし。〔或人曰、半□を少(すこし)加(くはへて)猶(なほ)よし。〕 

 

□やぶちゃん注

 

○前項連関:特になし。〔 〕は「耳囊」では珍しい割注であるが、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では本文に含まれている。民間療法シリーズの一つ。

 

・「多喜安長」不詳。戦国時代の甲賀武士に多喜氏がいる。

 

・「胡桝」。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『胡椒』である。これを採る。但し、この時代には唐辛子の葉のことを指す。

 

・「半□」□は判読不能を示す。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『半(はん)げ』とし、長谷川氏が注して『半夏。漢方でからすびしゃくの根を乾燥させたものらしい』とある。これを採る。「からすびしゃく」とは単子葉植物綱ヤシ亜綱サトイモ目サトイモ科ハンゲ属カラスビシャク Pinellia ternata。参照したウィキの「カラスビシャク」によれば、北海道から九州まで広く分布するが人為的なものと考えられえおり、中国から古くに帰化した史前帰化植物と考えられている。『コルク層を除いた塊茎は、半夏(はんげ)という生薬であり、日本薬局方に収録されている。鎮吐作用のあるアラバンを主体とする多糖体を多く含んでおり、半夏湯(はんげとう)、半夏瀉心湯(はんげしゃしんとう)などの漢方方剤に配合される。他に、サポニンを多量に含んでいるため、痰きりやコレステロールの吸収抑制効果がある。なお、乾燥させず生の状態では、シュウ酸カルシウムを含んでおり食用は不可能』とある。「半夏」とはカラスビシャクが生える七月二日頃が「半夏生」という雑節になっていることに由来するか、とも書かれている。 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 

 咳の薬の事

 

 

 多喜安長殿の家に、咳の妙薬と称するものが伝えられてあり、人にも施して御座ったところ、ある人が、

 

「諸人(もろびと)のためなれば一つ製法の伝授を。」

 

と乞うたところが、安長殿、

 

「必要とあらば、何時にてもお求めに参られるがよかろうと存ずる。製法を伝うるは、これを否む訳では御座らねど、拙者の思うに、具体な原料や製法を、これ、聴き知るらば、薬の効験への期待もこれ薄まってしまうように存ずれば……。」

 

と一度は断られたとのことであったが、先方が切(せち)にと乞い求めたによって、よんどころなく伝授致いたと申す。

 

 その製法は

 

――黑砂糖に唐辛子の葉

 

を配剤して処方するとの由。

 

[根岸注:この話、別な人から同じ話訊いた際には、半夏を少し加えると、なほ効き目がよくなるとの由。]

 

わが少女捕虜のごとくくゝられて鞭もて打たれ泣きたしといふ 萩原朔太郎

わが少女捕虜(とりこ)のごとくくゝられて
鞭もて打たれ泣きたしといふ

[やぶちゃん注:底本の「萩原朔太郎全集」第十五巻所収の「ソライロノハナ」の歌群「何處へ行く」の章の「その日頃」という下位歌群標題の巻頭の一首。「ソライロノハナ」のみに載る短歌。]

つめたい春の憂鬱 大手拓次

つめたい春の憂鬱

にほひ袋(ぶくろ)をかくしてゐるやうな春の憂鬱よ、
なぜそんなに わたしのせなかをたたくのか、
うすむらさきのヒヤシンスのなかにひそむ憂鬱よ、
なぜそんなに わたしの胸をかきむしるのか、
ああ、あの好きなともだちはわたしにそむかうとしてゐるではないか、
たんぽぽの穗(ほ)のやうにみだれてくる春の憂鬱よ、
象牙のやうな手(て)でしなをつくるやはらかな春の憂鬱よ、
わたしはくびをかしげて、おまへのするままにまかせてゐる。
つめたい春の憂鬱よ、
なめらかに芽生(めば)えのうへをそよいでは消えてゆく
かなしいかなしいおとづれ。

鬼城句集 夏之部 夏の朝

夏の朝   出産
     男子生まれて靑山靑し夏の朝

2013/05/15

海産生物古記録集■4 後藤梨春「随観写真」に表われたるボウズボヤ及びホヤ類の記載

このテクストの訓読と評釈には非常に手こずった(延べ三日はかかってしまった)。それだけになんとも愛着のあるものともなったように感じている。但し、訓読の一部や解釈に自信のない部分も残る。お読み頂き、何か気づかれた御方は、是非、御一報戴きたい。よろしくお願い申し上げる。




後藤梨春「随観写真」に表われたるボウズボヤ及びホヤ類の記載

 

[やぶちゃん注:宝暦七(一七五七)年序・安政五(一八五八)年写の後藤梨春「随観写真」の「介部六」(一巻)の「甫夜」より。

 後藤梨春(ごとうりしゅん 元禄九(一六九六)年~明和八(一七七一)年)は江戸の本草学者・蘭学者で町医。本姓は能登国七尾城主多田氏であったが、父義方の時に後藤に改姓、本名は光生。江戸生。長じて田村藍水に本草学を修学、宝暦七(一七五七)年から同一〇年にかけて江戸と大坂で催された物産会に出品、明和二(一七六五)年には江戸の私立医学校躋寿館躋寿館(せいじゅかん)で都講(教頭)となって本草学を講じている。オランダの地理・暦法・物産・科学機器などを紹介した「紅毛談」は本邦初の電気文献とされる。これにアルファベットを載せたために幕府に絶版を命ぜられたとも伝えられるが、検討の余地がある。著書に「本草綱目補物品目録」「春秋七草」「震雷記」等(主に「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。荒俣宏「世界大博物図鑑別巻2 海産無脊椎動物」の索引「博物学関係人名」の後藤梨春の項には、『栗本丹洲によると、梨春は盲目の鍼灸医だった。本草、物産の書を多数記し、非常な博才のもち主として知られ、草木の葉をもってきて鑑定を求めるものがいると、指先でなでるだけで解答することができた。それにはわずかな誤りもなかったという』という驚天動地の事実が記されている(引用に際してコンマ・ピリオドを句読点に変更した)。

 本未刊の名著「随観写真」は動植物全体を収めた図譜であったが、現在流布しているのは魚部二百八十八品と介部六十八品を掲載する六冊のみ。当該「介部六」の掉尾には動植物を好んだ信濃須坂藩主堀直格(なおただ)の識語が附されている。

 底本は国立国会図書館デジタル化資料の「随観写真」「介部1巻」の当該画像(コマ番号25)を視認した。私の訓読と合わせながら、紅色鮮やかな附図を是非観賞されたい。【二〇一四年十月十四日追記】国立国会図書館の二〇一四年五月一日からのサイトポリシー改訂により保護期間満了であることが明示された画像については国立国会図書館への申込が不要となったので、ここに上記当該画像(25コマ全部)を掲げるものとする。

Kokkaitosyokan_bouzuboya

 なお、底本では二行目以下は全体(一部挿絵に合わせて一行字数に長短有り)が一字下げで、一切の訓点がない。従って訓読は全くの我流で、しかも私には今一つ自信のない部分がある。誤読・誤訳の御指摘は、恩幸これに過ぎたるはない。識者の御教授を、よろしくお願い申し上げる次第である。]

 

甫夜 用老海鼠之字又用梅于之字此物東奥多出而中國海西稀也鹽藏而送于四方其形如白梅色紫蘇葉色容故書用梅于之字載本草綱目介部所載※蛤類石蜐是乎和名鈔以老海鼠入魚部今按貝類也肉味似海鼡膓而香亦如海鼠而氣烈著圖如蔕處性如鰒耳形如粟粒以如毛物錣成而包此貝矣此貝或二或三又如花物形似海鼡有疣色赤以刀截之則出水亦海鼡剝赤皮則中有肉浸醋以生薑番椒食之形味香與貝肉全同也貝肉者差少而不堪食此物有不知而食赤皮物甚硬海俗亦不食之野必大以石蜐爲甫夜今按石蜐春而發花之諸説者貝肉之精液春吐出而可謂凝成此物乎假今鹽膚子生五倍子及諸樹生贅瘤之理乎

[やぶちゃん字注:「※」=「虫」+「午」。]

 

□附図について

 画像は底本とした国立国会図書館デジタル化資料の「随観写真」「介部1巻」のコマ番号25を参照されたい(転載には手続きが必要なため、今回は見合わせる)。なお、以下の語注に示した通り、小振りながら、底本とは異なる鮮やかな彩色の写本が「世界大博物図鑑別巻2 海産無脊椎動物」(平凡社一九九四年刊)の二八六頁に所収する。合わせて見られることをお薦めする。

 底本附図では全体図の球状の冠部の個虫(かなり誇張されて描かれている)の鮮やかな描写もさることながら、円柱状の柄部の下端(本文の「蔕」)の多くの根状突起の描写が、草葉の文様のようで、すこぶる美事である。左下には摘出した可食部の筋帯と思われるもの二個が左右対称形に並んで描かれているが、その下部の陰影は立体感を出すと同時に、ホヤの内臓の色彩変位や消化管内の残渣体を示してのようにも見受けられる。

 

■やぶちゃんの訓読(読み易くするために適宜改行を施した)

 

甫夜(ほや) 「老海鼠」の字を用ひ、又、「梅于」の字を用ふ。

 此の物、東奥(とうおう)に多出して中國や海西には稀なり。

 鹽藏して四方に送る。

 其の形、白梅ごとくにして色は紫蘇葉色(しそばいろ)、容(かたち)故に「梅于」の字を用ひて書く。

 載(すなは)ち、「本草綱目 介部」所載の「※蛤類」の「石蜐」は是れか。

 「和名鈔」は「老海鼠」を以つて魚の部に入る。[やぶちゃん字注:「※」=「虫」+「午」。]

 今、按ずるに貝類なり。

 肉味、海鼡膓(このわた)に似て、香りも亦、海鼠(なまこ)のごとくして、氣、烈たり。

 圖に著はす蔕(へた)のごとき處は、性、鰒(あはび)の耳の形のごとく、形、粟粒のごときは、毛のごとき物を以つて錣(しころ)と成して此の貝を包む。

 此の貝、或いは二つ、或いは三つ、又、花のごとき物、形、海鼡(なまこ)に似る疣有り。色、赤。刀を以つて之を截るに、則ち、水、出づ。

 亦、海鼡赤皮(なまこあかがは)を剝げば、則ち、中は肉有り。

 醋(す)に浸(ひた)して以つて生薑(しやうが)・番椒(ばんせう)にて之を食ふに、形・味・香り、貝肉(かひにく)と全く同じなり。貝肉は差少にして食ふに堪へず。此の物の有ること、知らずして食ふ。

 赤き皮なる物は甚だ硬し。海俗も亦、之は食はず。

 野必大(やひつだい)、「甫夜」を以つて「石蜐」と爲す。

 今、按ずるに、『石蜐は春にして花を發す』との諸説、『貝肉の精液、春、吐き出でて凝り成る』と謂ふは、此の物か。假りに今、鹽膚子(えんふし)が五倍子(ふし)を生じ、及び、諸樹が贅瘤(ぜいりう)を生ずるの理(ことわり)か。

 

□やぶちゃん注

○まず最初に附図にある本種の同定であるが、実は既に荒俣宏氏が本文附の「随観写真」の当該箇所の画像(但し、既に述べた通り、私が底本とした国立国会図書館のものとは挿絵の彩色もより鮮やかで、本文の字配も全く異なる別な写本である)を「世界大博物図鑑別巻2 海産無脊椎動物」のホヤの図版に採られて、そのキャプションで本種をボウズボヤ(アンチンボヤ) Syndiazona grandis に同定されておられ、本種の特異な形状からも、また、以下に示す二種しかない同属のSyndiazona chinesis 採取記載例からも、問題のない同定である(カラー生体画像の例は個人サイト「さかなまにあ」にあるこの写真が上部部分をよくとらえている)。以下、

脊索動物門尾索動物亜門海鞘(ホヤ)綱腸性(マメボヤ)目管鰓(マメボヤ)亜目ユウレイボヤ科ボウズボヤ

について、まず最初に、本種の生物学的な最新解説記載と考えてよい保育社平成七(一九九五)年刊西村三郎編著「原色検索日本海岸動物図鑑[Ⅱ]」の記載に基づいたものを示す(一部の表記や専門的で分かり難い部分に手を加え、私が補足した部分もあるが、記載主旨を曲げた部分はないと信ずる。学術記載としては当該資料に必ず当たられたい)。

   *

ボウズボヤ

Syndiazona grandis Oka(この学名は何と、私が電子化を行っている「生物學講話」の著者丘浅次郎先生の命名である)

群体はほぼ球状の冠部(大きな個体では直径二〇センチメートルに達し、重量も二キログラムを遙かに越えるまで成長する)と、太く長い柄部からなるのが一般的であるが、個体変異の幅が広い。生体では被嚢は淡黄色から褐色で、個虫胸部(本体から突出した個々の尖頭部分)は鮮やかな赤橙色である(但し、標本保存後には群体部全体が緑色に変色する場合もある)。個々の個虫は全長四〇ミリメートルに達し、その場合の胸部部分は約一五ミリメートルに及ぶ。胸部の筋肉は縦及び横に走っている。能登半島以南の日本海沿岸及び千葉館山以南の太平洋岸の、約二〇メートル以深に棲息する。漁網に掛かって網干し場で採取されることも多い。東シナ海にも分布する。ボウズボヤ属 Syndiazona Syndiazona grandis とヒラボウズボヤ Syndiazona chinesis Tokioka の二種のみで、後者は個虫胸部に縦走筋のみで横走筋が全くないことによって識別され、島根県沿岸の水深一五メートル地点の他、紀伊半島・東シナ海・フィリピン・バンダ海の水深三〇~一二〇メートル附近での棲息が記録されている。

   *

次に、私が永く愛用して来た海岸動物図鑑のチャンピオン(と私は思っている)保育社昭和五一(一九七六)年刊の内海富士夫「原色日本海岸動物図鑑」(改訂三版)の記載に基づいたものを掲げておきたい(素人の見かけ上は上記の「原色検索日本海岸動物図鑑[Ⅱ]」とはやや記載内容が異なって見えるので参考までに示したい)。

   *

ボウズボヤ Syndiazona grandis Oka 〔Cionidae(ユウレイボヤ科)〕

群体は茸状を呈し、球状の冠部と円柱状の柄部からなり、下端は多くの根状突起に分かれて他の物に附着する。長さ二〇センチメートルで最大直径は一七センチメートルに達する。色彩は変異が多いが、多くは灰褐色。個虫は赤紅色で、上端を表面に現わして冠部の中に束状に配列する。甲殻綱十脚目短尾亜目カイカムリカイカムリ科カイカムリ属オオカイカムリ Dromidiopsis dormia やカイカムリ Dromia dehaani が背面上に背負っているものは広い円盤状を呈する。水深五〇~一〇〇メートルの砂泥中に棲息する。分布域は相模湾・紀州沿岸・東シナ海(当該底本の図版も標本であるため、全体に灰色で赤色部分は脱色して認められない)。

 

 

   *
 

 

 なお、荒俣氏がキャプションに括弧書きで附しておられるアンチンボヤという異名と思われる呼称はなかなかネット検索でもかかってこない。……しかし、かつて荒俣氏の小さいながらも鮮やかな図版を見た瞬間、道成寺フリーク(リンク先は私の道成寺物集成「道成寺鐘中」の頁)の私は横手を打ったものだ。突き出る個虫は鐘乳にも似るが、何より、蛇体となった清姫の恨みの火炎によって真っ赤に灼けて紅蓮の焰を上げている安珍の隠れた鐘に確かに見えるではないか! しかも上記の二書の分布記載を見るがよい。そこにはしっかりと名指しで紀伊半島・紀州沿岸と記されている!……この異形にして奇体な正体不明の生き物を、かの紀州日高周辺の人々がアンチンボヤと呼んだとして、何の不思議もない。寧ろ、正式和名の一見、如何にもなボウズボヤのボウズは、その茸状の剃髪した僧の頭(内海氏の図鑑では確かにそう見えるが)のような形状の譬えというよりも、実は僧侶であった安珍のそれがルーツであったのではないか?……鮮やかな紅色の個虫が火が燃え立つ如く見えた生体をもって名付けられたアンチンボヤこそが最初の本種の正統な和名であったのではないか?(これは実に私の勝手な願望であることは無論である)……などと、つい、夢想してしまうのであった……が……荒俣氏も私も残念なことにボウズボヤとアンチンボヤは別種であること、しかも亜目(Suborde)レベルで異なることが分かってしまった。JAMSTEC(独立行政法人海洋研究開発機構)の「深海映像・画像アーカイブス データセット」に見つけた。それによればアンチンボヤは、

 

マメボヤ目マンジュウボヤ亜目マンジュウボヤ科イチゴボヤ属アンチンボヤPseudodistoma antinboja Tokioka

 

なのであった。しかも、さらに和名ではなく、この学名で検索をしてゆくと幾つかの画像にも辿り着く。例えば「近海モノコレクション (Sasakic's Web Site)」の「原索動物 PROTOCHORDATA」、「美しい海が永遠でありますように」のここ。撮影者は何れもダイバーの方である。特に前者ではボウズボヤ Syndiazona grandis が並んで挙がっており、キャプションには『オレンジ色のキノコ型群体ボヤ。伊豆ではあんまり見ないかも。南勢には結構おりました』とあり明らかに本ボウズボヤとは異なるホヤであることが見てとれた。私の安珍夢想も残念ながらここで美事に焼け死んで灰としまったのであった。……

 

 以下、本文の御注に入る。

 

・「甫夜」「甫」は見かけない当て字である。通常の「ほや」という音への当字は「保夜」である。なお、「ほや」については、精力剤になるから「夜を保つ」で「保夜」と書くとか、夜を通して保つランプのほやと形が似ているからとか、語源説はやたらにあるが、そもそも「ほや」という語は、『「筠庭雑録」に表われたるホヤの記載』の注で示した通り、「土佐日記」に既に「老海鼠(ほや)のつまの貽鮨(いずし)」として現われており、孰れも後世の牽強付会としか私には思えず、肯んじ得ない。

 

・「老海鼠」人口に膾炙する当て字であるが、ここで注しておくと、本文にもある通り、「和漢三才図会」(正徳二(一七一二)年頃成立)の「介貝部 四十七」の「老海鼠〔和名、保夜。〕」に『「和名抄」は魚類に入る。以て海鼠の老いたる者と爲すか。』と割注し、広瀬旭荘の「九桂草堂随筆」(安政二(一八五五)年~同四(一八五七)年成立)にも『浪華の田邊守瓶が説』と断りながら、『ホヤとは老海鼠の化するところ、海鼠海底に蟄すること數百年、土沙その體に粘して陶器の狀をなす、唯口と尻との二口を以て呼吸を通ず』とする。実はこれはまだ先があって、以下、龍の如きものとなって殻を破り出て暴れ回る云々というとんでもないことが書いてある(これは面白いので後日ここで電子化して注したい)。ともかくもナマコの老成してホヤ化するという説は、この「老海鼠」という当て字とともに広く信じられていたのではないかと感じさせはする。

 

・「梅于」恐らくお読みになる諸君は、これは「容(かたち)故に」と私が訓じているなら、このボウズボヤや知られたマボヤ・アカボヤの色と形状から、当然、これは「梅干」ではないのか、「于」ではなく「干」であろう、と疑義を持たれるかも知れない。当初、私もそう読もうと思ったのであるが、どうもしっくりこないのである。もし、直に換喩としてこの字を当てたならば、筆者はきっと「ウメボシ」と例外的にルビを振りそうな気がするのである。また、底本及び荒俣版の図を仔細に見てもこの字、明らかに最終三画目の縦棒は最後に左に撥ねているのである(但し、二回目に出るものは底本では極めて少ししか撥ねていないが、それでも完全に止めているわけでもない。荒俣版は明白に二箇所とも撥ねている)。更に、実はその間に既にお気づきのことと思われるが、この二箇所の間には「送于四方」(四方に送る)という場所を示す語の前に配する前置詞としての助字である「于」があるが、この字と「梅」の後の字は全く区別して書かれていない。即ち、この三つは同じ漢字として書かれているとしか思えないのである。従って音で読むならこれは「バイウ」である。では「于」とは何ぞやということになろう。ここが私の苦しいところであるが、敢えてこじつけのように聞こえるが、この場合の「于」は疑問・感嘆を表わす助字としての意を含ませているのではないか、と推測しているのである。但し、『「梅于」の字を用ひて書く』とあり、この字の読みを示す必要はないと考えた。但し、「梅干」ではおかしいかというと、実はおかしくはないのである。「世界大博物図鑑別巻2 海産無脊椎動物」の「ホヤ」の項で荒俣氏は、松浦武四郎の「知床日誌」(万延元(一八六〇)年の成立とされる)に、『津軽では、ホヤの皮をはぎとり、腸を食べる。その肉皮の水晶のように透明な部分を味噌漬けにしたものを〈琥珀漬〉という。これは塩漬けにして三~四年してから用いるとよろしい。なお当今津軽南部では、ホヤを〈梅干〉と書くが、おそらくこれは、栂干という当て字が時へて誤って伝えれたものだろう。そう言えば近ごろ、これの味噌漬けを』〈生梅干味噌漬(スホヤミソ)〉『と上書きして、江戸に贈ったのだが、邸のほうではそれがなんだかわからずに、梅干だと思ってある寺に贈った。そるとその寺の和尚は、(それが生臭物であるとはつゆ知らず)その美味を賞して、また贈ってほしいと江戸邸に乞うたという話がある。じつにおかしいことではないか』と記しているのである(文中の「栂干」の「栂」は裸子植物門マツ綱マツ目マツ科ツガ属 Tsuga sieboldii を指す。「栂干」の謂いはよく分からないが、ウィキの「ツガ」には、『建材として用いられるほか、樹皮からタンニンを取り、漁網を染めるのに使われた』とあって、「栂干」とはそのタンニンを採取するために樹皮を乾かした際の色(柿渋色)の感じ及びホヤの皮革部分の触感が似ているからではなかろうか? なお、「漁網に掛かって網干し場で採取されることも多い」とする、「原色検索日本海岸動物図鑑[Ⅱ]」の記載と『漁網を染めるのに使われた』というウィキの記載の不思議な一致もとても面白い(と私は思う)。ともかくも、私の「于」「干」の字の同定及びそれに付随する推理については、大方の御批判を俟つものである。

 

・「東奥」東の奥の地方で奥州地方を指す。「とうおく」と読んでもよい。

 

・「中國や海西」本邦の中国地方や九州を含む西日本の謂い。但し、ボウズボヤの分布域からすると不審である。

 

・「紫蘇葉色」双子葉植物綱シソ目シソ科シソ属エゴマ変種シソ Perilla frutescens var. crispa の中でも栽培品種である「狭義のシソ」であるアカジソ Perilla frutescens var. crispa forma purpurea の葉の色であろう。赤紫蘇は葉の両面ともに赤色で、縮れないことを特色とする。

 

・「本草綱目」明の李時珍の薬物書。五十二巻。一五九六年頃の刊行。巻頭の巻一及び二は序例(総論)、巻三及び四は百病主治として各病症に合わせた薬を示し、巻五以降が薬物各論で、それぞれの起源に基づいた分類がなされている。収録薬種一八九二種、図版一一〇九枚、処方一一〇九六種にのぼる。

 

『※蛤類の「石蜐」は是れか』[字注:「※」=「虫」+「午」。]この「※」は「蚌」の誤りであろう。「本草綱目」にあっては「蚌蛤(ぼうごう)」は、広く淡・海水産の二枚貝を指している。「石蜐」は「せきこふ(せきこう)」または「せきけふ(せききょう)」と読む。「和漢三才図会 介貝部 四十七」の「石蜐」には(私の電子テクストより当該を引用)、

 

   *

 

「本綱」に『石蜐、東南海中に生ず。石上の蚌蛤の屬。形、龜脚のごとく、亦、爪有り。状、殻、蟹の螯(はさみ)のごとし。其の色、紫にて、食ふべし。長さ八、九寸の者有り。春雨を得れば、則ち節に應じて花を生ず。』と。

 

   *

 

とあり、これは節足動物門甲殻類の蔓脚類に属するフジツボ目ミョウガガイ科カメノテ Pollicipes mitella を指していることが明らかで、「蚌蛤の屬」というのは生物学的には誤りである。「春雨を得れば、則ち節に應じて花を生ず。」という叙述も不審で、満潮に応じて蔓脚を出す捕食行動か、放精放卵行動を誤認したものかと思われる。

 

 しかしながらここで後藤梨春が「甫夜」を「石蜐」に同定候補しているのはどうも解せない。しかも記述の末尾でも人見必大の同定に力を得て、『「石蜐」は、春にして花を發すとの諸説は、貝肉の精液、春、吐き出でて凝り成ると謂ふは、此の物か』と一貫してこの同定を支持している様子が窺える。これは一つの推理であるが、後藤は目が不自由であった。ホヤの入水管や出水管を触れてみた場合、亀の首や手に似ていないとは言えない。また、ホヤ類の下部、仮根の生える部位の形状は(特にこの附図では特に)亀の手の甲の石畳状のざらついた質感に似てないとは言えない気がするのである。但し、第一義的には他の健常な本草学者や好事家が「石蜐」に同定していることがその主因であり、後藤の目の不自由さとこの同定は無関係であるとも言い得る。謂わば私にとっては、当時の多くの識者がこれをカメノテの仲間と誤認したことの根底にある、対象認識への集団的無意識構造が大いに気になる、と言った方が正確であろう。

 

・「和名抄」正しくは「倭(和とも表記)名類聚鈔(抄とも表記)」で、平安時代中期に源順(したごう)によって編せられた辞書。

 

・「今、按ずるに貝類なり」早々に後藤はホヤを貝類と断定している。以前にも述べたが、現在でも、私の知り合いの物理の大学教授や年季の入った寿司屋の大将、果ては町の魚屋でさえ、「ホヤガイ」と呼称して貝類だと思っていたり、イソギンチャクの仲間だと言って見たりと、かなり最近は市民権を獲得して、市場に出回っているにも関わらず、誤認している人が多いから、ここでは後藤の誤りを特に論う必要はあるまい。

 

・「海鼡膓」海鼠腸(このわた)。「和漢三才図会 巻第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「海鼠」に(ここで寺島良安は「和名抄」同様に、魚類に分類していることに注意)、

 

   *

 

海鼠腸(このわた)は、腹中に黄なる腸三條有り。之を腌(しほもの)とし、醬(ひしほ)と爲る者なり。香美、言ふべからず。冬春、珍肴と爲す。色、琥珀のごとくなる者を上品と爲す。黄なる中に、黑・白、相交る者を下品と爲す。正月を過ぐれば、則ち味、變じて、甚だ鹹(しほから)く、食ふに堪へず。其の腸の中、赤黄色くして糊(のり)のごとき者有りて、海鼠子(このこ)と名づく。亦、佳なり。

 

   *

 

とある(私の同巻の電子テクストから、やや改変して示した)。「腌」は塩漬けのこと。

 

・「蔕のごとき處は、性、鰒の耳の形のごとく」最下部の仮根を発芽している部分は、その触感はアワビの外套膜辺縁部(因みに私の大々大好物の部位である)に似ている、というのである。『いや! 実に言い得て妙だ! その通り!』と快哉を叫びたい気が、ホヤ・フリークであると同時に鮑の耳フリークでもある私にはしてくるほどに、美事な記述である。

 

・「錣」兜(かぶと)の鉢の左右・後方につけて垂らし、首から襟の防御とするもの。多くは札(さね)または鉄板を三段ないし五段下りとして縅(おどし)つけるが、この場合、個虫が札(さね)のように見える(生体がというよりこの附図の誇張描写が特にそうである)ことを言ったものと推定される。

 

「此の貝、或いは二つ、或いは三つ、又、花のごとき物、形、海鼡に似る疣有り」これは入水管と出水管を言っていると断定出来るが、「三つ」というのは不審である。皮革部に散在する突出部をも含めて言っているのであろうか。なお、この辺りからはボウズボヤではなく、私たちの知っている海鞘(ホヤ)綱壁性(側性ホヤ)目褶鰓亜目ピウラ(マボヤ)科マボヤ Halocynthia roretzi かアヤボヤ Halocynthia aurantium の記載になっているとしか読めない点は注意が必要である。なお、群体ボヤであるボウズボヤやアンチンボヤはそれぞれの小さな個虫にちゃんと(当然のことながら、やはり事実を知ると「へえっ!」となる)この入水管と出水管がある。

 

・「貝肉は差少にして食ふに堪へず。此の物の有ること、知らずして食ふ。」この部分、訓読に自信がない。一応、食い物とするにはあまりに肉部分が少ない。多量に採取して、その肉(筋帯部)を塩蔵品として各地に送るために、元はこのように奇体な「貝」(後藤の言い方に倣う)であることを知らずに何か普通の貝類の塩蔵品として知らずに食っているのである、という意でとった。ここまで読まれた方はお分かり頂けると思うが、私のこの読みは先の注に示した荒俣氏が紹介された松浦武四郎の「知床日誌」の記述内容に触発されたものである。是非とも識者の御教授を乞うものである。

 

・「海鼡赤皮」海鼠のような外側の皮革質部分という意味であろう。

 

・「番椒」唐辛子。

 

・「野必大」本草学者人見必大(寛永一九(一六四二)年?~元禄一四(一七〇一)年)。幕府の侍医随祥院元徳の子。小野必大が本名であったが中国風に野必大とも名乗った。先祖が源頼朝から人見姓を与えられたとの伝承により人見姓を通称し、千里・丹岳とも号した。食生活が豊かになり、食物と健康の関係に関心が集まった元禄期に、本格的な食物本草の書「本朝食鑑」(元禄一〇(一六九七)年)を刊行した。同書は多数の食品を健康への良否を中心に解説、民間行事や民間伝承の紹介も多く、民俗学的にも重要視されている書である。延宝元(一六七三)年に禄三〇〇石を継いで幕府の医官として波乱なく過ごした(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠ったが、書名を「本草食鑑」とするのを改めた)。

 

・「『石蜐は春にして花を發す』との諸説、『貝肉の精液、春、吐き出でて凝り成る』と謂ふは、此の物か。」ここも訓読に自信がない。識者の御教授を乞う。

 

・「鹽膚子」塩膚木。双子葉植物綱ムクロジ目ウルシ科ヌルデ Rhus javanica のこと。フシノキ・カチノキとも呼ぶ。ウィキの「ヌルデ」によれば、『ヌルデの名は、かつて幹を傷つけて白い汁を採り塗料として使ったことに由来するとされる。フシノキは後述する生薬の付子がとれる木の意である。カチノキ(勝の木)は聖徳太子が蘇我馬子と物部守屋の戦いに際し、ヌルデの木で仏像を作り馬子の戦勝を祈願したとの伝承から』とある。この葉に昆虫綱有翅亜綱半翅(カメムシ)目腹吻亜目アブラムシ上科アブラムシ科の『ヌルデシロアブラムシ Schlechtendalia chinensis が寄生すると大きな虫癭(ちゅうえい)を作る。虫癭には黒紫色のアブラムシが多数詰まっている。この虫癭はタンニンが豊富に含まれており皮なめしに用いられたり黒色染料の原料になる。染め物では空五倍子色(うつふしいろ)とよばれる伝統的な色をつくりだす。インキや白髪染の原料になるほか、かつては既婚女性』および一八歳以上の未婚女性の『習慣であったお歯黒にも用いられた』。『また生薬として五倍子(ごばいし)あるいは付子(ふし)と呼ばれ腫れ物、歯痛などにもちいられた。但し、猛毒のあるトリカブトの根も付子であるので、混同しないよう注意を要する。(トリカブトの方は「ぶし」または「ぶす」と読む。「付子」よりも「附子」の字を当てるのが多い。)』とある。

 

・「五倍子」「ごばいし」とも読み、「付子」「附子」とも書く。ヌルデの若芽や若葉などにアブラムシが寄生してできる虫こぶのことで、紡錘形を成しており、タンニンを多く含むために採取してインクや染料の原材料とする。この当時は「お歯黒」の素材として盛んにに利用された。

 

・「贅瘤」贅疣(ぜいゆう)と同じで疣(いぼ)や瘤(こぶ)状の余計な突起物をいう。ここでは先に示した植物の虫こぶのことを指している。今では如何にもなトンデモ学説ながら、当時、まことしやかに語られていた無生物から生物が生まれるとした化生説などに比べれば、まだしもな説ではあるまいか。

 

○なお、「世界大博物図鑑別巻2 海産無脊椎動物」の図では、最終行の後に朱書きで、

 

 石勃卒 雨航雜錄

 

と記されてある。これは『「筠庭雑録」に表われたるホヤの記載』に注した通り、「石勃卒」は平安初期の本邦の記載に既に見られるとするホヤの古名称、「雨航雜錄」は明代後期の文人馮時可(ひょうじか)が撰した雑文集。魚類の漢名典拠としてよく用いられ、四庫全書に含まれている書である。後藤梨春が指示して書き入れさせた追記か、当該写本の持主の覚書きかは不明。「石」の字の筆跡を本文と比べると、有意に異なり、少なくとも本文の右筆とは異なる人物による書き入れと思われる。

 

 

 

◆やぶちゃん現代語訳(一部に敷衍・意訳を含む)

 

 

 

甫夜(ホヤ) 「老海鼠」の字を当て、又、「梅于」の字をも当てる。

 

 この生物は東北地方に多く産出して、中国地方や西日本では稀にしか産しない。

 

 塩蔵して、食物として四方に搬送する。

 

 その形は、白梅のようで、色は紫蘇葉色(しそばいろ)、その形ゆえに「梅于」の字を当てて品名を記す。

 

 まさに、これは「本草綱目」の「介部」に所載するところの、「蚌蛤(ぼうごう)類」の「石蜐(せきこう)」こそがこれではなかろうか。

 

 但し、「和名鈔」は、この「老海鼠」を以って魚の部に入れている。

 

 今、考えるに、これは貝類である。

 

 その肉の味は、海鼠腸(このわた)に似て、香りもまた、海鼠(なまこ)にそっくりであり、しかもその独特の磯臭さは、かなり強烈である。

 

 図に著わした下部の蔕(へた)のような部分は、質感・形状ともに鮑の耳のそれに似ており、上部の粟粒の形をした部分は、毛のような物を以って造られた、いわば鎧兜(よろいかぶと)の錣(しころ)の札(さね)そっくりの形状で、この貝の上部全体を包んでいる。

 

 この貝には、二つ若しくは三つ、有意に大きい花のような、形が海鼠に似た、疣状の突起がある。その色は特に赤く、小刀を以ってその突出した箇所の先端を切除すると、勢いよく水が噴き出る。

 

 また、海鼠に類似した赤い皮革を総て剥離すると、まさに中から肉が現われる。

 

 酢に浸して、以って生姜や唐辛子を添えてこれを食するに、形・味・香り、これ、他の貝の肉と全く変わらない。但し、このホヤの貝の肉は極めて少量しか採れず、一個体では食うには足らない。そこで多量に採取したものを塩漬けにして各所に送るのであるが、このような奇体なる貝がいることを知らず、それを普通の貝の肉と思って人々は食っているのである。

 

 赤い皮革のような部分は非常に硬い。漁民でさえも、この部分は食わない。

 

 野必大(やひつだい)氏も「甫夜」を以って「石蜐」と同定されている。

 

 今、考えるに、「本草綱目」にあるような『石蜐は春になると花を咲かせる』という諸説や、『貝肉の精液は春に吐き出されて凝り固まって花のようなものとなる』という言説の「花」とは、実は、このホヤのことを指しているのではなかろうか。仮に今、例証を挙げるならば、ヌルデの木が五倍子(ふし)を生じ、また、諸々の樹がいろいろな虫瘤(むしこぶ)を生じるのと同様の理窟、とも言えるのではなかろうか。

 

大和田建樹「散文韻文 雪月花」より「鎌倉の海」(明治二九(一八九六)年の鎌倉風景) 2

 

 

おのが生活は家こぞりて六人、みづから炊きみづから煮るをもてたのしみとす。平生魚のあたひしらざる主人も、濱にいでゝはいさきべらなどいふもの提げかへり、みづから庖刀とりてまないたに向ふ。鱗は逆にとび鰭は半ばちぎれたり。笑ふなよ是も社會の一進歩なるを。

 

沖の片帆にのこりたる夕日も、いつしか影ををさめて雲を染めたり。染められて立てる富士、忽ち紅に、忽ち紫に、忽ち黑く、忽ち薄く、遂に姿をかくして止みぬ。天女の額か造花の影か、抑も美の神の弄びけん筆か。

 

うしろの山は月になりぬ。數へ出ださるゝ松のひまより、黄金の盃はきらめきのぼりぬ。波ところどころ白く光りて、やうやうに銀をちらし、又黄金をちりばめゆく。

 

夜もふけぬ。月をふみて遠くあるけば、我かげあざやかに砂にあり。興に乘じてあくがるゝ人、我と影とのみならず、詩を吟ずる聲はかしこの岩の上にも起れり。

 

時としては朝霧を分けて山路にあそぶをりもあり。姉なる子は妹の手を引きて從ひ來りぬ。末の弟は父の肩を輿にしてにこにこといさむ。いざ花のあらんかぎり集めてみんといへば、姉と妹ははやおくれじと摘みはじめたり。螢草、野菊、蚊屋草などを始とし、名も知らぬ花さへ小さき手にあまりぬ。肩なる子のあれよあれよと指さすをみれば、岸のひたひに咲きほこる姫百合、のぞみは高けれど、とゞかぬをいかにせん。

 

[やぶちゃん注:「蚊屋草」単子葉植物綱イネ目カヤツリグサ科カヤツリグサ属 Cyperus の一種を指していよう。中でもハマスゲ Cyperus rotundus が、名と言い、風情と言い、このシーンには相応しい気がする。ハマスゲは初夏から秋にかけて真っ直ぐな花茎を出して立ち、やや細くて深緑、強い照りを持つ。その先端に花序が付き、基部の苞は三枚ほどで長いものは花序より長いが、あまり目立たない。花序は一回だけ分枝する。小穂は線形で長さ一・五~三センチメートル程度で、互いにやや寄り合って数個ずつの束を作る。小穂の鱗片は血赤色で艶があるが、やや色が薄い場合もある(以上はウィキの「ハマスゲ」に拠る。但し、同記載には『乾燥に強く、日ざしの強い乾いた地によく成育する。砂浜にも出現し、名前もこれによるものであるが、実際には雑草として庭や道端で見かけることの方が多い』とあることを附言しておく)。

 

「岸の額」崖の突き出ている部分のこと。]

 

畑にいづれば、赤き毛を垂れたる玉蜀黍あり。綠の弓を掛けたる十六大角豆あり。此中道を急ぐとなしにうねりゆけば、穗にいでたる粟は頭うちたれて送り迎へす。

 

[やぶちゃん注:「十六大角豆」は「じゅうろくささげ」と読む。双子葉植物綱マメ目マメ科ササゲ属亜種ジュウロクササゲ
Vigna unguiculata Var. sesquipedalis。参照したウィキの「ジュウロクササゲによれば、『かつては日本でも広く栽培されていたが、現在では愛知県と岐阜県を中心とした地域で生産されている。食されるのもこの地方が中心である。あいちの伝統野菜、飛騨・美濃伝統野菜である』とあり、『栽培を始めた時期は不明であるが、大正時代以前といわれている』ものの、実際に本格的に栽培され始めたのは昭和二〇年以降とする。和名は莢(さや)の中に豆が十六個あることによる。豆は熟すと赤褐色となる。草丈は二~四メートルで、高温や乾燥に強く、真夏に結実する。莢の長さは三〇~五〇センチメートルで、形はインゲンマメに似て細い(だから大和田は「綠の弓」と表現した)が、柔らかいのが特徴である。]

耳嚢 巻之七 漬物に聊手法有事

 漬物に聊手法有事

 

 奈良漬を漬(つけ)るに、瓜を貮つに割(わり)、中に種を拔(ぬき)、鹽を詰(つめ)を下とし、上に酒糟を厚く塗詰(ぬりつめ)て、糟を下に置(おき)、右上へ瓜をうつ向(むけ)に伏せ、又糟を詰て順々に詰る事也。心得ぬ人、右糟鹽を詰し瓜を仰向(あふむけ)に漬掛(つけかけ)、功者成(なる)者見て大(おほひ)に笑(わらひ)ぬ。其譯を尋(たづね)しに、糟の氣は上へ上へと拔(ぬけ)るもの故、うつ向(むけ)にして可(か)也(なり)。又味噌漬は是に反する事と也と人の語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。食には秘かに一家言あったと思しい根岸の食味譚の一つ。

・「奈良漬」白瓜・胡瓜・西瓜・生姜などの野菜を塩漬けにし、何度も新しい酒粕に漬け替えながら製する漬物。以下、参照したウィキの「奈良漬け」によれば、奈良漬けは西暦七百年代から『「かす漬け」という名で存在しており、平城京の跡地で発掘された長屋王木簡にも「粕漬瓜」と記された納品伝票らしきものがある。なお、当時の酒といえばどぶろくを指していたため、粕とは搾り粕ではなくその容器の底に溜まる沈殿物のことであったようである。また、当時は上流階級の保存食・香の物として珍重されていたようで、高級食として扱われていたという記録がある』。『その後、奈良漬けは江戸時代に入ると幕府への献上や奈良を訪れる旅人によって普及し、庶民に愛されるようになる。「奈良漬け」へ変わったのは、奈良の漢方医糸屋宗仙が、慶長年間』(一五九六年 ~一六一五年)『に名付けたからである。現在では一般名詞化し、奈良県以外で製造したものも奈良漬けと呼ばれる。奈良県以外では、灘五郷(兵庫県神戸市灘区)などの酒粕を用いた甲南漬、名古屋市周辺で収穫される守口大根を用いた守口漬などもある』。『鰻の蒲焼きに奈良漬けの組み合わせは定番となっている。鰻を食べた後に口に残る脂っこさを奈良漬けが拭い去り、口をさっぱりとさせる効果があ』り、他にも『胃の働きを活発にし胸焼けを抑えたり、脂肪の分解、ビタミンやミネラルの吸収を助けるなどの効果があるとされている』とある。

・「鹽を詰を下とし、上に酒糟を厚く塗詰て」この部分、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、『塩を詰(つめ)候上酒糟(さけかす)を厚塗(あつくぬり)つめて』となっている。こうでないと文意が摑めない。これで訳した。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 漬物にも聊かの手法がこれあるという事

 

 奈良漬けを漬ける際には、瓜を二つに割り、中の種を抜き、塩を詰めた上、その上に酒糟を厚く塗り重ねて、樽の底に糟をまんべんなく敷き詰め、その上へ、瓜を――切った方を下に――俯(うつぶ)せに伏し、またその上から糟を詰めて、これを繰り返して、順々に詰めるのだそうである。

 それを知らぬある者が、その糟塩を詰めた瓜を――切った方を上にして――仰向(あおむ)けに漬けかけたところ、奈良漬の名人なる者がそれを見て、大いに笑った。

 笑った訳を訊ねたところが、

「酒糟の気は上へ上へと抜けるもので御座るのじゃ。さればこそ、俯けにして詰めるがよろしいのじゃて。但し、味噌漬けの場合は、この逆じゃが、の。」――

 これは、さる人の語って御座った話である。

(「ソライロノハナ」の「若きウエルテルの煩ひ」序詩) 萩原朔太郎

過ぎし日よ
樂しき十六と事多かりし十九の思ひ出よ
心ざま素直にして容姿また美しかりし我が少年の日の
戀ひしさよ
ああ忘れがたきその頃の少女等よ

[やぶちゃん注:底本の「萩原朔太郎全集」第十五巻所収の「ソライロノハナ」の歌群「若きウエルテルの煩ひ」の章の標題頁の裏に掲げられている序詩。「戀ひしさよ」はママ。]

黑い手を迎へよ 大手拓次

 黑い手を迎へよ

小雨(こさめ)をふらす老樹(らうじゆ)のうつろのなかに
たましひをぬらすともしびうまれ、
野のくらがりにゐざりゆく昆蟲の羽音をつちかふ。
かなしげに身をふるはせる老樹よ、
しろくほうけたる髮もなく、
風のなかによそほひをつくる形(かたち)もなく、
ただ、つみかさなる言葉のみがのつかつてゐる。
老樹はめしひの手をあげてものをささげる。
その手はふくろふの眼のやうにうすぐらく、時として金光(きんくわう)をおび、
さわだてる梢(こずゑ)のいただきにかがやく。

鬼城句集 夏之部 凉 (残り九句)

     草刈の凉しき草の高荷かな

 

     雜兵の兜かむらぬ凉しさよ

 

     弟子達に問答させて凉みかな

 

     凉しさや犬の寐に來る藏のかげ

 

     布衣の身の勤め凉しや黄帷子

 

[やぶちゃん注:江戸時代に武士の大紋に次ぐ四番目の礼服を「布衣(ほい)」といい、それを着る御目見(おめみえ)の身分のことをここではいう。それに縁語のように「黄帷子」の実装を配したところの、江戸の一人の武士を描いた先の「雜兵の」の句と同じく一種の夢想句である。鬼城は慶応元(一八六五)年に鳥取藩士小原平之進の長男として江戸に生まれたが、八歳(明治五(一八七二)年)の時に群馬県高崎市に移り住み、十一歳で母方の村上家の村上源兵衛の養子となって村上姓を名乗っている(事蹟はウィキの「村上鬼城」に拠った)。但し、次に示す注も必ず参照のこと。]

 

     凉しさや梧桐もまるゝ闇の空

 

     鳴かねども河鹿凉じき座右かな

 

     そこそこに都門を辭して逃げ歸る

 

[やぶちゃん注:ウィキの「村上鬼城」によれば、明治一七(一八八四)年、二十歳の時、高崎から東京へ赴いて軍人を志したものの、耳疾のために断念、明治法律学校(現在の明治大学の前身)で法学を学びながら、司法代書人(現在の司法書士の前身)となり、父の勤務先である高崎裁判所司法代書人となって以後、亡くなるまでの一生を高崎で過ごした、とある。この句はその、錦を飾らずに帰郷した折りの自身の印象を自嘲的に詠んだものと推測される。但し、この鬼城の「父」というのが実父であるのか養父であるのかが、今一つ、よく分からない。「高崎新聞」公式サイトの「近代高崎150年の精神 高崎人物風土記」にある村上鬼城」の非常に詳しい事蹟を読んでも、かなり微妙だからである。そこでは、鬼城は鳥取藩江戸邸で藩士小原平之進長男として出生、彼の祖父小原平右衛門は大坂御蔵奉行を務めた家禄五百石取りであったものの、その後三代養子が続いて禄を減らされ、父平之進の時には三百五十石であったとし、続けて、『明治維新後に父が県庁官吏の職を得て、前橋に移住。一年ほど後に高崎に居を移し』(下線やぶちゃん。以下同じ)たとあり、更に二十四の時に結婚した妻スミとの間に『二人の娘を授かったのも束の間、父を亡くすとすぐにスミも』二十七の若さで病死し(この「父」は文脈上は実父としか読めない。なお、ウィキの方には、鬼城は八人の娘と二人の息子を儲けて子宝に恵まれたものの、生活は常に貧窮していたという記載があり、「高崎新聞」版にも三十二『歳でハツと再婚し、二男八女の子宝に恵まれますが、生活は楽では』なかったと、所謂、鬼城=〈境涯の俳人〉の如何にもな強調がなされてある。私の〈境涯俳句〉批判は拙攷「イコンとしての杖――富田木歩偶感―藪野直史を参照されたい)、『耳の状態が悪化し悲嘆にくれる中で、司法官も断念した荘太郎は、法律の知識を生かし、高崎裁判所の代書人(現在の司法書士)とな』ったとあるからである。ここでは一貫して実父は彼の傍におり、養父の影はまるで見えないかのように読める。則ち、どうも養父というのはただの縁組上のものに過ぎないように思われ、実父とともに生活はしていたように感じられるからである。ただ、この記載とウィキの記載とを並べてみると妙な齟齬が感じられるのである。それはウィキに出る『父の勤務先である高崎裁判所司法代書人となる』という部分で、「父の勤務先である」と話柄内同時時制で言っている以上、これは前掲の「高崎新聞」の叙述によって実父が既に亡くなった後のことであるから、この「父の勤務先である」の「父」は「養父」でなくてはならないことになるからである。どうも私は孰れの記載も何とも言えない言い足りていない違和感を覚えるのである。鬼城研究家の御教授を是非乞いたいところである。]

 

     凉しさや小便桶の並ぶところ

 

     凉しさや茸がはえてぬるゝ塀

2013/05/14

大和田建樹「散文韻文 雪月花」より「鎌倉の海」(明治二九(一八九六)年の鎌倉風景) 1

 

[やぶちゃん注:前回に引き続き、大和田建樹「散文韻文 雪月花」に載る今一つの鎌倉紀行、明治二七(一八九四)年八月の「汐なれごろも」の二年後の鎌倉遊覧記である「鎌倉の海」を電子化する。

 底本は同じく早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」の同図書館蔵の明治三〇(一八九七)年博文館刊行の「散文韻文 雪月花」のPDF版を視認して用いた。但し、句読点は底本では総てが句点であるため、適宜、読点への変更を施した。踊り字「〱」「〲」は正字化した。歴史的仮名遣の誤りはママであるが、草書の崩し字(「江(え)「於(お)」等)は再現していない。一部の語句について当該段落の後に改行して注を附した。] 

 

    鎌倉の海 明治三十九年八月 

 

ことしもかまくらに遊ぶ事二十日になりぬ。明暮友となりたる波の聲、山の姿、砂の色、貝の光、わすれんとしてもわすられず。

 

宿りとするところは材木座光明寺の前、ゐながらにして鎌倉の海を一目に望むべく、向には靈山崎につゞきて江の島の浮べるあり、少し右にはなれて雲まに富士の資聳ゆるあり、それより長谷の村里、由井の松原、たゞ手にとる如く汝をへだてゝ打ちむかはるゝもおもしろきに、南の方には伊豆の大島さへ、晴れたる日には鯨のしほふく心地して向ひたてるよ。左の方に隣してつきいでし浦里は飯島とぞよぶなる。

 

[やぶちゃん注:思い出して戴きたい……

 

『私は其晩先生の宿を尋ねた。宿と云つても普通の旅館と違つて、廣い寺の境内にある別莊のやうな建物(たてもの)であつた。其處に住んでゐる人の先生の家族でない事も解つた。私が先生々々と呼び掛けるので、先生は苦笑ひをした。私はそれが年長者に對する私の口癖(くちくせ)だと云つて辯解した。私は此間の西洋人の事を聞いて見た。』……

 

無論、「こゝろ」で初めて「私」が「先生」の鎌倉での借家を訪ねたシーンである。この「廣い寺の境内」について、かつて私は初出版「心」テクストで、現在の神奈川県鎌倉市材木座六―一七―一九にある天照山光明寺であるとし、『浄土宗関東大本山。本尊阿弥陀如来、開基北条経時、開山浄土宗三祖然阿良忠(ねんなりょうちゅう)。漱石がこの寺の奥にある貸し別荘にしばしば避暑したことは、全集の注を始め、多くの資料に示されている。鎌倉から逗子へ抜ける街道沿いにあり、材木座海岸に近い。鎌倉の繁華街からは最も遠い「邊鄙(へんぴ)」な位置にある』と注した。大和田氏はまさにそのすぐ近くに居るのである。]

 

 

朝とくおきて渚にいづれば、貝は打ちよせられて砂の上にあり。薄紅にて花の如きもの、眞白にして鳥の如きもの、帆立貝めきたるもの、月日貝らしきもの、ぬれたる色のうつくしさよ。子供は走りよりて拾はんとするに、波は來りて拾はせじとすまふ。

 

[やぶちゃん注:「月日貝」二枚貝綱カキ目イタヤガイ亜目イタヤガイ科ツキヒガイ Amusium japonicum japonicum。殻長・殼高ともに一一センチメートル程度で本邦の普通の砂浜海岸に漂着する斧足類の貝殻としては大きい方に属する。幅は約二センチメートル。綺麗な円形を成し、膨らみは弱く、貝の表面は平滑で光沢がある。右殻が淡黄白色で左殻が赤紫色を呈するのを特徴とする。和名はこれを月と太陽に見立てた。

 

「すまふ」はハ行四段活用の動詞「争(すま)ふ」で抗う、反抗するの意。]

 

磯にひるがへる赤旗は海のあるゝをつげ、靑旗はなぎたるを知らすなり。今日も靑旗なりとてよろこぶ子供は、潮あびんとて勇むなるべし。朝けの煙こゝかしこにのぼりて、日影はやうやう我もとに來りぬ。白布の筒袖、麥はらの帽子、ものゝぐはよし、いざ汝とけふも戰はん。戰ひつかれては、磯にあがりて砂に臥し砂に座す、又たのし。子供は工兵となりて山を築けば、波また大擧し來りて一打に奪ひ去るもにくからず。

 

[やぶちゃん注:お気づき戴きたい……僕らの「こゝろ」の冒頭の、あの鎌倉材木座海岸の砂浜に、鮮やかな青旗が飜えるのを。……]

 

板を浮べて双の手に持てるは、およがんとする人、手を引きつれて舞踏しつゝあるは、波を飛びこす人、世にものおもひなしとほかゝる境界にやあらん。見る人も見らるゝ人も、罪なく慾なく又憂なし。

 

[やぶちゃん注:私は思い出す……私のブログ・カテゴリ何故か一番人気の「忘れ得ぬ人々」の巻頭に配した少女のことを……。ブログを始めて五日後に記した二〇〇五年七月十日の「忘れ得ぬ人々 1」を引用しておく。

 

   *

 

不思議にその想い出はモノクロームだ。

 

僕は、はしかからやっと本復したばかりの痩せた体で、父や親戚の者達からはぐれて、海水浴客の間をおどおどとうろついていた。

突然、目の前に水着を着けた、よく焼けた活発そうな少女が立っていた。同年か一つ上か。彼女は鮮やかにきっぱりと「一緒に泳がない?」と僕に声をかけた。まだあの頃、純情で引っ込み思案だった僕にとって、この見知らぬ少女の誘いは言葉通り、七年の人生で初めての青天の霹靂だった(記憶がモノクロなのはその閃光のせいなのか)。

 

僕は手を捕られて、ずんずん海へ入った。泳ぎの苦手な僕は、時々不思議な微笑で振り返る少女に導かれるように、沖へと向かう。足が立たないところで、全く恐怖を感じずにいられたのは、生涯の中で、実はあの瞬間だけだったように思われる。

 

僕は攣りそうになる手足を必死に動かして、無様な犬掻きを繰り返して、かろうじて浮いていた。うねる波間に、彼女の笑顔が見えては隠れる。それは、今も鮮やかな映像。

 

遂にたっぷりと海水を飲み込んで咽せかえった時には、少女は僕の手を捕って、既に海岸へと向かって泳いでいた。ものの数メートルも泳ぐと、足は着いたのだった。上がった浜で、僕は自分の情けなさに、ただでさえ病み上がりの青白い顔を、一層青白くして突っ立ていたに違いない。

 

少女は「またね!」というと、人ごみの中へ、鮮やかに消えてゆく。一度だけ振り返った。その手を振る微笑、紺色のあの頃の安っぽい水着、濡れて額にはりついた黒髪、肌の小麦色、肩の種痘の痕……スローからストップモーション、そうしてホワイトフェードアウト……

小学校二年生、夏の日差しのハレーション。鎌倉、材木座海岸。一九六四年の七月。四一年前の記憶。 

 

後年、「こゝろ」の上三を読んだ折、僕は強烈なフラッシュバックを起こした。

 

二丁程沖へ出ると、先生は後を振り返つて私に話し掛けた。廣い蒼い海の表面に浮いてゐるものは、其近所に私等二人より外になかつた。さうして強い太陽の光が、眼の屆く限り水と山とを照らしてゐた。私は自由と歡喜に充ちた筋肉を動かして海の中で躍り狂つた。先生は又ぱたりと手足の運動を已めて仰向になつた儘浪の上に寐た。私も其眞似をした。青空の色がぎら/\と眼を射るやうに痛烈な色を私の顏に投げ付けた。「愉快ですね」と私は大きな聲を出した。しばらくして海の中で起き上がる樣に姿勢を改めた先生は、「もう歸りませんか」と云つて私を促がした。比較的強い體質を有つた私は、もつと海の中で遊んでゐたかつた。然し先生から誘はれた時、私はすぐ「えゝ歸りませう」と快よく答へた。さうして二人で又元の路を濱邊へ引き返した。(夏目漱石「こゝろ」) 

 

僕には、学生と先生を包み込む、この緩やかな海の「うねり」が確かに、見えるのだ。この海岸が、同じ鎌倉の材木座海岸であるという単純な事実からだけでは、なく。

 

カタストロフは、しかし、まだ待っていた。漫画家つげ義春の「海辺の叙景」だ。これは、語ってはなるまい。未見の方は、是非、ご覧あれ。僕の魂の致命傷が、如何に深いか、お分かりになるはずである。トラウマとしての妖精、無原罪のファム・ファータル、僕の忘れ得ぬ人々の一人。 

 

→僕は著作権を犯してもその最終コマをここに示したい欲求を押え難いが、次のサイト(高田馬場つげ義春研究会内)の「つげ義春ラストシーン考2 第2回 生理的感覚としての音」で、小さいが、当該作品の最終コマを見るに留めよう。【2017年7月15日削除・追加:この時にリンクした記事が消失しているので、新たに『清水正氏のつげ義春評論―(2)「海辺の叙景」』をリンクさせることとした。最初に示されるのが見開きの最終コマである。】

耳嚢 巻之七 唐人醫大原五雲子の事

 唐人醫大原五雲子の事

 

 三田大乘寺といへる寺に、大原五雲子が墓あり。森雲禎など其流れを汲(くみ)て、今以(もつて)右流下の者訪ひ弔ひも致候よし。則(すなはち)、五雲子は雲南と言し故、雲禎が跡當時雲南と名乘(なのり)候。右五雲子は、明末の亂に彼(かの)地の王子の内壹人、樂官(がくくわん)のもの壹人、都合三人漕流なし來て、五雲子は醫を以(もつて)業とし高名をなし、彼王子は出家して、禪宗にて祥雲寺といふに住職し、みまかりしよし。樂人は大原勘兵衞と名乘、喜多座の役者と成り、雲子牌名に、東嶺院晴雲日輝居士、萬治三子(ね)年四月廿六日と記し、大乘寺に有之(これある)由人の語りぬ。

 

[やぶちゃん注:「三田大乘寺」底本の鈴木氏注に、『誤りであろう。三田には同名寺院はなく、大の字のつく寺名は大松寺、大聖院(伊皿子寺町)、大増寺(三田台町)、大信寺(北代地町)など』とされる。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、本文が『三田小山大乗寺』となっており、長谷川氏はこの寺について、現在の港区三田の『小山にある大松寺(黄鴿山、浄土宗)であろう』と注されておられる。但し、ネット上ではここに大原五雲子の墓が現存するかどうかは確認出来なかった。当時の亡命皇族の近臣で、本邦で大々的に医術を広めた(次注参照)事蹟墓碑まで明らかなのに、鈴木氏が寺も墓所を同定出来なかったというのはやや不審である。郷土史研究家の方の御教授を乞うものである。

「大原五雲子」底本の鈴木氏注に、『明の福建出身。初名は珪、字は寧字、姓は王氏。帰化して大原と称し、紫竹道人と号す。明国から朝鮮を経て長崎に来り、明人の名医一庵について医学を学んだ。後、諸国を旅行し、寛永万治年間医名が高かった。その学は、襲延賢、皇甫中を主とした。その門下の森雲竹(正徳二年没、八十二)は、さらに昔に遡って研讃し、名医であったが、世間に出ることを好まず、塾生を教育し、その数は首百を以て算えた』とある(「研讃」はママ)。「寛永万治年間」西暦一六二四年~一六六一年。

・「森雲禎」前注の鈴木氏注にある直弟子であった森雲竹本人か(叙述では生前の直弟子の門下生の医名と読める)、その門下の、当代(「卷之七」の執筆推定下限の文化三(一八〇六)年夏頃)の襲名医師であろう。

・「明松の亂」一六三一年に勃発した李自成の乱以下の明王朝の滅亡に至った内乱。

・「漕流」底本には右に『(漂カ)』と注する。

「祥雲寺」岩波版で長谷川氏は、『瑞鳳山祥雲寺(曹洞宗、小石川)、瑞泉山祥雲寺(臨済宗、渋谷)などあり』と注されておられるが、「DEEP AZABU.com 麻布の歴史・地域情報」の「むかし、むかし8」の「奇妙な癖のある人」(これは「耳嚢」巻之八の「奇成癖有人の事」の紹介記事である。こちらの記事群には「耳嚢」の話が多く掲載されており、考証も充実している。必見である)で、当該話の文中に登場する、長谷川氏注の後者の「麻布祥雲寺」ついて、これは『現在渋谷区広尾(広尾商店街突き当たり)にある祥雲寺だと思われるが、この寺は鼠塚(明治三三年~三四年、東京に伝染病が流行し、その感染源として多くのネズミが殺された。その慰霊碑)、曲直瀬流一門医師の墓などがある。由来は、豊臣秀吉の天下統一に貢献し、後に福岡藩祖となる黒田長政は、京都紫野大徳寺の龍岳和尚に深く帰依していたので、元和九年(一六二三)に長政が没すると、嫡子忠之は龍岳を開山として、赤坂溜池の自邸内に龍谷山興雲寺を建立した。寛文六年(一六六六)年には麻布台に移り、瑞泉山祥雲寺と号を改め、寛文八年(一六六八)の江戸大火により現在の地に移った』とし、この記事が書かれた頃(これは「卷之八」の謂いであるが、「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏であるから同じである)『にはすでに広尾にあった』とされておられる(アラビア数字を漢数字に代えさせて頂いた)。しかし、明から亡命した皇族が住持となっているのに、それが現在確認出来ないというのは(寺伝に載ることは勿論のこと、その住持していた寺に当然の如く墓があるはずであるのに)、私には不審である。識者の御教授を乞うものである。

・「喜多座」能の喜多流。

・「樂人は大原勘兵衞と名乘、喜多座の役者と成り、雲子牌名に、」この部分、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では(恣意的に正字化した)、

樂人は大原勘兵衞と名乘、喜多座の役者と成る。今も勘兵衞とて弓町に町屋敷など望(のぞみ)しと也。五雲子碑銘に、

となっていて、文脈上でも内容でもこの方が質がよい。ここの部分の現代語訳は、このバークレー校版で行った。「弓町」は現在の本郷三丁目附近。それにしても、この楽人も五雲子と同じく日本名で「大原」姓を名乗っているのは気になる。「大原」は大本という原義もいいが、それ以外に現在の山西省省都で古都の太原や、周代の宣王の御料地であった山西省大原市陽曲などの地名と彼らの主君たる王子若しくは彼等自身の出自や領地と関係があるのかも知れない。

・「万治三子」万治三(一六六〇)年庚子(かのえね)。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 唐人医師大原五雲子(おおはらごうんし)の事

 

 三田小山の大乗寺と申す寺に大原五雲子の墓が御座る。

 当代の医師森雲禎(もりうんてい)など、その五雲の流れを汲む者も多く、今以って森流医術門下の者が参拝供養致いておる由。

 五雲子は雲南とも号したによって、雲禎に医師の名跡を嗣がせた隠居後は、專ら、雲南と名乗って御座ったとも申す。

 この五雲子と申すは、明末の乱の際、かの地の王子の内の一人、楽官(がっかん)の者一人と、都合、三人して大陸より漂流致いて御座った者らにて、この五雲子は、医を以って本邦での生業(なりわい)と成し、高名を博して御座った。

 なお、王子は出家して、禅宗なる祥雲寺という寺の住職を成し、そのまま身罷った由。

 今一人の楽人は大原勘兵衛と名乗り、能楽の喜多座の役者と相い成った。――今もその子孫が「勘兵衛」と称して、弓町に町屋敷など賜わっておる大層な家柄として残っておる由。

 因みに、かの五雲の碑銘には、

――東嶺院晴雲日輝居士 万治三子(ね)四月二十六日――

と記し、大乗寺に今もある由、人の語って御座った。

鬼城句集 夏之部 凉 死に死にてこゝに凉き男かな

  目から死に耳から死で暮の春と其角の言へるに答ふ

死に死にてこゝに凉き男かな

[やぶちゃん注:底本では「死に死に」の後半は踊り字「〱」。]

窓わく 大手拓次

 窓わく

あをい菊、
きいろい菊、
菊は影のいのちである。
菊はふとつてゆく、
菊は裂けてゆく、
菊は死人の魂をよんで、
おほきな窓わくをつくる。
その窓わくに鳥(とり)がきてとまる。
窓わくは鳥(とり)と共寢(ともね)する。
鳥は足をたて、
羽(はね)をたて、
くちばしをたてたが、
眼(め)のさきがくらいので、そこにぢつとしてゐる。
永遠は大地の鐘(かね)をならしてすぎてゆく。

[やぶちゃん注:これはアンドレイ・タルコフスキイの「鏡」(Зеркало 1975 私はタルコフスキイの、映画のベスト1をと言われれば躊躇なく「鏡」を挙げる)や、つげ義春の「窓の手」(私はつげ義春の、忘れ難い近年の作品――それでも一九八〇年である。彼は一九八七年の「別離」以降、筆を執っていない――の一本をと言われれば躊躇なく「窓の手」を挙げる)……でも……なく……寧ろ、さえも……これはマルセル・デシャンの「フレッシュ・ウィドウ」(Fresh Widow 1920)である、とさえ……]

どこへ行くこの旅びとのせはしなきあとに光れる靑き貝がら 萩原朔太郎

どこへ行くこの旅びとのせはしなき
あとに光れる靑き貝がら

[やぶちゃん注:底本の「萩原朔太郎全集」第十五巻所収の「ソライロノハナ」の「何處へ行く」の章の標題頁の裏に単独で掲げられているもの。「ソライロノハナ」のみに載る短歌。]

2013/05/13

耳嚢 巻之七 戲場役者も其氣性有事

 戲場役者も其氣性有事

 

 元祖坂田藤十郎和事師(わごとし)の名人にて、若者殿役旦那役或は堂上(たうしやう)方の眞似なす、誠に眞をなして、京地に其名高し。中村七三郎も是又和事師にて、上手の名(な)江戸に賑ふ。或年、七三郎上京せしに、京地の役者ども打寄り、七三郎も丈(たけ)のしれたる役者なり、新上(しんのぼ)りの事故、客座の上座に付(つき)て年比(としごろ)は功者に見ゆれど、京地には坂田藤十郎といへる和事師の名人あり。大坂へ成(な)り共(とも)先(まづ)登らばよかるべし。京地え來りし所は大概其樣子も知れたりと取々申ければ、藤十郎是を聞(きき)て、夫(それ)は大き成(な)る推量違ひ、我(われ)先年江戸に七三郎とも出合(であは)せしに、中々我など始終可及(およぶべき)者にはあらず、顏見せは、馴染もなければ格別の評判も有(ある)まじ。春狂言には果して評判宜しからんと、上方の評判なりしと也。其(その)暮(くれ)七三郎は江戸へ下りけるに、藤十郎も厚(あつく)暇乞(いとまごひ)し立別れぬ。京地の役者共も、餞別又は江戸表えも夫々贈り物抔して、七三郎とちなみのよし。是にても七三郎が上手成(なる)事評判せしが、藤十郎は餞別抔も贈らざりしが、江戸表え着せし後、或時藤十郎の狀相添(あひそへ)て、菰(こも)かぶりの樽を七三郎方え贈りしに、右狀を切解(きりとき)て見ければ京地にての事ども書(かき)綴り、江戸下り以來嘸(さぞ)榮(さかえ)ならん、此一樽(そん)は加茂川の水也、來春の大ぶくに用ひ給へといへる事故、七三郎殊の外感心して、賤しき我々の身分なれど、和事を相連(あひづれ)に勤(つとむ)る身故、志す處高貴富貴の贈り物感ずるに絶たりと、藤十郎が意氣地を深(ふかく)稱しけると也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:技芸譚直連関。

・「戲場」岩波版では「しばい」とルビが振られている。

・「元祖坂田藤十郎」歌舞伎役者初代坂田藤十郎(正保四(一六四七)年~宝永六(一七〇九)年)。俳号は冬貞、車漣。定紋は丸に外丸。元禄を代表する名優で上方歌舞伎の始祖の一人に数えられる。「役者道の開山」「希代の名人」などと呼ばれた。以下、参照したウィキの「坂田藤十郎初代から引用する(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更した)。『京の座元だった坂田市左衛門(藤右衛門とも)の子。延宝四年(一六七六)一一月京都万太夫座で初舞台。延宝六年(一六七八)「夕霧名残の正月」で伊左衛門を演じ、人気を得た。この役は生涯に十八回演じるほどの当たり役となり「夕霧に芸たちのぼる坂田かな」と謳われ、「廓文章」など、その後の歌舞伎狂言に大きな影響を与えた。その後、京、大阪で活躍近松門左衛門と提携し「傾城仏の原」「けいせい壬生大念仏」「仏母摩耶山開帳」などの近松の作品を多く上演し、遊里を舞台とし恋愛をテーマとする傾城買い狂言を確立。やつし事、濡れ事、口説事などの役によって地位を固め、当時の評判記には「難波津のさくや此花の都とにて傾城買の名人」「舞台にによつと出給ふより、やあ太夫さまお出じゃったと、見物のぐんじゅどよめく有さま、一世や二世ではござるまい」とその人気振りが書かれている』。『和事芸の創始者で、同時期に荒事芸を創始した初代市川團十郎と比較される。金子吉左衛門著の芸談集「耳塵集」によれば、藤十郎の芸は写実性さを追究したもので「誉められむと思はば、見物を忘れ、狂言は真のやうに満足に致したるがよし」という藤十郎自身の言葉がある。ただし、徹底的な写実性を求めるものでなく、見た目重視のところもあった。「夕霧」の伊左衛門が舞台で履物を脱ぐとき、「もし伊左衛門の足が不恰好に大きかったら客が失望する」と言って裏方に小さめの履物を用意させた』。『時代物や踊りは不得手であった。「松風村雨束帯鑑」の中納言行平を演じたが不評で、行平が髪結いにやつしている場面だけが好評だった。また、怨霊物では、踊らずにひたすら手を合わせて逃げ回る演技がよかったという。そのかわり話術が巧みで女性を口説くときの場面は抜群であった』。『「傾城仏の原」で、梅永文蔵を演じた藤十郎が恋人逢州の心底をたしかめるべく、わざと世間話をする場面で、あまりの冗長さに客席から苦情が出た。台詞を短くしようという忠告に、藤十郎はもう一日だけ同じやり方にしてくれをと頼み込み、昨日よりもゆっくりと世間話をすると好評だった。「昨日は、見物を笑わせる所だと思って演じた。それでいけなかった。あの場面は、逢州の心地を聞こうとしてわざと暇取らせているわけだから、そのつもりですればいいのだ。今日は長くやっても、こっちの気持ちが昨日とちがっていたから、よかったのだ」と藤十郎は成功の秘訣を語っている』。『芸に対しても真摯な姿勢を崩さず、後輩の役者が、「先日あなたの通りに演じたら好評でした」と礼を述べたが、藤十郎は誉めずに、「私のままに演じたら、生涯わたしを越えられませんよ、しっかりおやりなさい」と忠告した』という。これは如何にも凄い人物である。

・「和事師」歌舞伎で和事を得意とする役者。「和事」は柔弱な色男の恋愛描写を中心とした演技及びそうした演出様式をいう。元禄期(一六八八年~一七〇四年)に発生して主に上方の芸系に伝わった。江戸歌舞伎の特色で、武士や鬼神などの荒々しさを誇張して演じる演出様式(初世団十郎を創始と伝える)「荒事」、また役柄の分類上の、判断力を備えた人格的に優れた人物の精神や行動を写実的に表現する「実事」の対義語である。

・「中村七三郎」(寛文二(一六六二)年~宝永五(一七〇八)年)元禄期に活躍した江戸和事の祖と称された歌舞伎役者。俳号は少長。父は延宝期の初期中村座を支えた歌舞伎役者天津七郎右衛門、妻は座元の家柄である二代目中村勘三郎娘はつ。初舞台の役柄の記録は「女形・若衆形・子共」の三種で、後に若女形となった。貞享三(一六八六)年以後は没するまで立役を全うし、小柄で、「好色第一のつや男」、また、当代随一の美男の意で「わたもちの今業平」と評判され、ぞくっとするような魅力を発散したという。諸芸に通じ、ことに濡れ事・やつし事などの和事芸を得意とし、荒事の名人初代市川団十郎と並び称された名優であった。江戸下りの女形の相手役をすることにより、上方歌舞伎の柔らかい芸を取り込んで独自の芸風を確立した。この芸風を決定的なものにしたのが元禄元(一六八八)年に市村座で上演された「初恋曾我」(四番続)の十郎役で、曾我兄弟はこれまで荒事式で演じられていたが、この時、十郎を和事の演出で見せ、大評判を取り、以後は江戸の曾我狂言では十郎は和事の風で演じる決まりとなった。元禄一一(一六九八)年に京にのぼり、「傾城浅間岳」の小笹巴之丞役を演じて一二〇日のロングランの大当たりを取り、上方和事の祖坂田藤十郎を呻らせたという。この役を七三郎は一代の当たり役とした(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。以下、底本では鈴木棠三氏が本話に即した絶妙な注を附しておられ、これは引用せずんばならず! 長いが、例外的に全文引用をさせて頂く。
   《引用開始》

 俳名少長。江戸劇壇における随一の和事師として、初代市川団十郎の荒事と対照せられた名優。宝永五年没、四十七。七三郎が元禄十年上京、四条山下半左衛門座に出演したとき、藤十郎の評判は圧倒的で、江戸でやつしの名人と好評だった七三郎も、馬の後足とまで酷評された。上方役者たちの間では、江戸からわざわざ京に上ってやつし事をする七三郎はそもそも了簡違い、そこが下手のしるしであるなどとそしった。それを聞いた藤十郎は、いや七三郎は上手である、これが刺激になって自分の芸も進歩しよう、顔見世ではこちらが勝ったが、二の替りとなると負けるかも知れぬといった。その昔の通り七三郎は『傾城浅間嶽』の巴之丞の役で、割れるような大評判を取った。その後、替り日ごとに藤十郎は七三郎の舞台を見物して、両人は親密な間柄となった。十二年の暮七三郎は江戸山村座に出演ときまって東下した。七三郎が藤十郎に置土産を贈ったのに対し、折返し餞別を贈ってはしっぺ返しで面白くないと、藤十郎からはわざと何も贈らず、極月廿九日に加茂川の水を送った。以上は『賢外集』にあり、本書の一条もこの書物から採ったものであろう。なお藤十郎が大坂出演のとき、京から水を樽詰にして取寄せて使用したという話も、同書に載っている。それほど養生に留意したという逸話である。

   《引用終了》

彼は坂田藤十郎より十五年下であった。

・「客座」歌舞伎俳優の順位の一つ。一座の俳優のうち、座頭・書き出し・立女形などの俳優と同等同位の客員待遇を受ける者をいう。七三郎は江戸からの初上りの新鋭人気歌舞伎役者ということで優待された。

・「顏見せ」顔見世。一座の役者が総出演する芝居。顔触れ。面見世。

・「春狂言には果して評判宜しからんと、上方の評判なりしと也」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、ここが、

 春狂言には果してよろしからん」といひしが、其通り二ノ替り狂言より、和事師の名人なりと、上方の評判なりしと也。

となっている。「二ノ替り」について、長谷川氏は、『顔見世狂言をとり替えてそれに次いで正月に上演する狂言』と注されておられる。このバークレー校版の方が分かりがよい。現代語訳では、その雰囲気を敷衍した。

・「大ぶく」大服茶・大福茶のこと。元日の若水で点てた煎茶。小梅・昆布・黒豆・山椒などを入れて飲み、一年の邪気を払うとする。福茶。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 歌舞伎役者もそれなりの心立てがある事

 

 元祖坂田藤十郎は和事師(わごとし)の名人にて、若者・殿役・旦那役、或いは堂上(とうしょう)方を演(や)らいたならば、まっこと、本物より本物らしゅう演じなして、京にてはすこぶる高名なる役者で御座った。

 かたや、中村七三郎(なかむらしちさぶろう)も、これまた、和事師として、名手の名、江戸に知れ渡っておったもので御座った。

 ある年、七三郎が上京致いて芝居を打った。

 京の役者ども、楽屋内にてうち寄っては噂致すに、

「……七三郎も高が知れた役者でおますな。……新上(しんのぼ)りのことやさかい、客座の上座を張って、今日(きょうび)は達者のように見えますけど、京には坂田藤十郎という和事師の名人が、これ、あらっしゃいます。……江戸の新進の和事師と言わはるんなら……これ、まあ、大坂なんどへなりと……まずは登らるるがよろしゅうおますやろ……。それを、あろうことか、名手の藤十郎はんのおらるる京へ来なはるとは……これ、ほんまに――あほ――や。おおよそ、そのお人の、『技』といわはるも……これ、知れたもんやおまへんか。……」

とさんざんな申しよう。

 ところが、そこにたまたま、当の藤十郎がおって、これを小耳に挟んだと申す。

 すると藤十郎、

「……それは大きな見当違いでおます。……我ら、先年、江戸へ下向致いて、かの七三郎はんとも逢(お)うておりますれど……いや! なかなか!……我らなんど、そう、始終はためをはる者(もん)にてはこれ、あらしまへん。……今度の顔見世にては、七三郎はんの馴染みの方も、これ、当然のことながら、あらしまへんによって、格別の評判も、これ、ないに等しいものではありましたが……春狂言には、きっと、評判よろしゅうあろうとは、これ、上方の、専らの、評判でおます、え。……」

と、かばっておった申す。

 さても、その暮れになって、藤十郎の言う通り、すこぶるよき評判をも得、七三郎は江戸へと戻り下ることと相い成り、藤十郎も厚く、別れの挨拶を交わして立ち別れたと申す。

 さても……当初は、あれほど辛辣な陰口をたたいておった京役者どもさえ、大層なる餞別を渡し、また、江戸表へも七三郎気付で、それぞれに贈り物なんどまで致いては、七三郎と昵懇になることを望んだ者も多くあったとのこと。……そうして、偏えに――七三郎は和事の美事な上手なり――と、頻りに評判致いたとも聴いて御座る。

 さて、藤十郎は、といえば、その折り、ろくな餞別なども贈らずに御座った。

 しかし、七三郎が江戸表へ着き、暫く致いたある日のこと、藤十郎の書状をともに添え、菰(こも)被りの大きなる樽が一つ、七三郎宛に贈られて参った。

 七三郎、その消息の封を切って読んでみたところが――過日の京にての七三郎が芝居のよき仕草を褒め綴った上、

 

……江戸へお下り以来、さぞ、御繁昌のことと存じ、お悦び申上げ奉りまする……

……さて、この一樽(いっそん)は加茂川の水にて御座る……

……一つ、来春元旦の大福茶(だいぶくちゃ)にでもお遣い下さるれば、これ、幸い……

 

との文なれば、七三郎、殊の外、心うたれ、

「……賤しき我らが身分なれど……和事をともに精進致す身の上なればこそ……志すところの魂の響き合い……かくも高貴にして富貴なる贈り物……何とも、はや!……これ以上の……至福の感は……まずは御座らぬ!……」

と、藤十郎の芸人の気構え、これ、深(ふこ)う感じ入って、賞賛畏敬致いたとのことにて御座った。

北條九代記 鎌倉怪異 附 北條義時藥師堂建立供養

もう……実朝の現世の時間は……残り僅かとなった……



      ○鎌倉怪異 附 北條義時藥師堂建立供養

同六月八日の夜、白虹(はくこう)、東方に見ゆ。片雲競(きそひ)集り、萬星希(まれ)なり。夜半に及びて、雨降りければ、虹は消えて跡なし。人々、恠(あやしみ)思ふ所に、又、同十一日、卯刻(うのこく)ばかりに、五色の虹立ちて、西方に見ゆ。上は黄にして次は赤し。その次は靑く、内のかたは紅梅の如し。その光、天地に映じて輝き、小時(しばらく)して黑雲(くろくも)一天に渡り、風、吹(ふき)起りて、後(のち)、雨降りたり。かゝる虹霓(こうげい)は前代にも傳へず、珍怪(ちんかい)の天變(てんぺん)なりと、諸人、私語(さゝや)きて、いかさま、世の中穩(おだし)かるまじき前兆かと思はぬ者はなかりけり。將軍家、大將に任ぜられ鶴ヶ岡にして拜賀の神賽(じんさい)行はる。參向(さんかう)の數輩(すはい)、各(おのおの)華美を盡す。庶民の費勞(ひらう)、幾何(いくばく)と云ふ事なし。同二十八日戌刻(いぬのこく)には、流星、乾(いぬゐ)の方より巽(たつみ)を指して飛び渡る。大さ滿月の如く光輝き、見る人、魂(たましひ)を消して怪みけり。同十月十日、實朝卿、内大臣に任ぜられ、大將は元の如し、同十三日尼御臺政子、三品を從二位に叙せらる。北條義時は右京〔の〕大夫に補(ふ)せられたり。將軍家、内大臣拜賀の爲に鶴ヶ岡に參り給ふ。壯観の裝(よそほひ)、美を盡さる。還御の後、義時休息して眠られける所に、夢ともなく現(うつゝ)ともなく、薬師如來の眷屬十二神將の中、戌神杜羅(いぬがみとら)大將來りて、義時に告げ宣(たま)はく、今年の神拜(じんはい)は事故なく共、來歳(らいさい)の拜賀の日は供奉せば、悔むべき者なり」と慥(たしか)に仰(おほせ)を蒙りて、夢は即ち覺めたり。奇異、更に明(あきら)めす。然るに、義時、壮年の比より、醫正善逝(ゐわうぜんせい)の誓願を仰ぎ、二六神將(じんしやう)の威力に歸し、信心を凝(こら)し給ふ所に、今この告(つげ)を蒙り給ふ。その事となく、大倉郷の南の山際に、一宇を建立して、藥師の像を安置すべしとて、指圖を出し、土木の功を勵(はげま)さる。各(おのおの)諫め申されけるは、「今年、將軍家、御神拜の事に依て、雲客(うんかく)以下、京都より參向(さんかう)あり。その間、御家人と云ひ、土民等(ら)と云ひ、財産多く費(ついえ)て、疲勞、此所(こゝ)に極り、愁(うれへ)痛みて未だ休(きう)せず。又、打(うち)續きて大造(たいざう)の營(いとなみ)を思召し立ち給ふ事、撫民政理(ぶみんせいり)の義なき歟」と申されければ、義時、仰せけるは、「是は一身安全の宿願なり。更に百姓土民の煩(わずらひ)を假(か)るべからず」とて、番匠を召(めし)て營作を催し給ふ。同十二月二日に、大倉郷新御堂、落慶供養あり。本尊の藥師如來は雲慶(うんけい)の造る所、烏瑟(うしつ)の髻(もとどり)には、萬德究竟(ばんとくくきやう)の光(ひかり)、明(あきらか)に、輻輪(ふくりん)の趺(あなうら)には、四智圓滿の相、濃(こまやか)なり。柔和(にうわ)の白毫(びやくがう)、眉間(みけん)に廻り、慈悲の靑蓮(しやうれん)、面貌(めんめう)に開く。供養の導師は、壯嚴房(しやうごんばう)律師行勇、呪願は(じゆがん)は園如房(ゑんによばう)阿闍梨遍曜(へんえう)、堂達(だうたつ)は頓覺房(とんかくばう)良喜なり。施主右京〔の〕大夫義時、夫婦簾中に座し、一族門葉の輩は正面の廣廂(ひろひさし)に座せらる。信濃守行光、大夫判官竹村以下の御家人等、結緣(けちwん)の爲に群參し、男女老少參詣の輩、袖を連ねて、市の如し。導師、高座に上りて供養の式を行ひ、宣説(せんぜつ)の辯を現(あらは)さる。されば、法雨を法界に降

くだ)して、災糵(さいげつ)の垢穢(くゑ)を洗ふには、醫王善逝(ゐわうぜんぜい)の威力、殊に勝れ、梵席(ぼんせき)に梵風(ぼんぷう)を扇(あふ)ぎて、短縮の壽命を延(のぶ)る事は、藥師如來の本願、最(もつとも)妙なり。藥草、藥樹の甘露、瀼々(じやうじやう)として、不老不死の靈方、幽々たり。説法、既に終(をはり)て、導師、座を下られしかば、布施物(ふせもつ)を積む事、山の如し。誠に殊勝の建立かなと、參詣の貴賤、隨喜の思を致されたり。

 

[やぶちゃん注:鎌倉の天変地異については「吾妻鏡」巻二十三の建保六(一二一八)年六月八日・十一日・二十八日を、実朝の左大将・内大臣叙任等の部分は同年正月二十一日、六月二十七日・十月十九日・二十六日を、義時が夢想によって大倉薬師堂(現在の覚園寺)を建立する一件は同年七月九日及び十二月二日に基づく。最後のそれは、私が義時の謀略の金のかかった大道具と断じるものである(私の昔の駄作「雪炎」など、お暇ならばお読みあれ)。

「北條義時は右京大夫に補せられたり」誤り。右京権大夫になったのは前年建保五(一二一七)年一月のことである。

「戌神杜羅大將」十二神将の対応には諸説あって招杜羅(しょうとら)大将は戌にも丑にも当てる。同様に別説では戌神は伐折羅(ばさら・ばざら・ばきら)大将(金剛力士)を丑にも戌にも当てる。因みに招杜羅ならば本地仏は大日如来、伐折羅ならば勢至菩薩である。

「烏瑟(うしつ)の髻」「烏瑟膩沙(うしちにしゃ)」のこと。仏の三十二相の一つ。仏の頂に多数突起している髻(もとどり)状の肉髻(にくけい)を指す。

「輻輪の趺」「輻」は車輪の中心部の轂(こしき)から放射状に並んだ「や」(矢)のことで「輻輪」は車輪やそれを象った武器や装飾品及び文様を指す。ここはその紋様が印されているといわれる如来の「趺」、足の裏のことを指す。やはり、仏の三十二相の一つ。

「靑蓮」青蓮華(しょうれんげ)青色の蓮華の意であるが、仏菩薩の目の譬えである。

「廣廂」広庇とも書く。寝殿造りで庇の外側に一段低く設けた板張りの吹き放しの部分。この外側に簀子縁がつく。広縁。広軒(ひろのき)。

 

以下、義時の大倉薬師堂建立の顛末を「吾妻鏡」で見る。まず七月九日の条。実朝の直衣始(のうしはじめ:関白や大臣などが勅許を受けて初めて直衣を着用する儀式。「ちょくいはじめ」ともいう)の儀が鶴岡八幡宮で行われた翌日の記事である。

○原文

九日戊寅。晴。未明。右京兆渡御大倉郷。於南山際。卜便宜之地。建立一堂。可被安置藥師像云々。是昨將軍家御出鶴岳之時被參會。及晩還御亭。令休息給。御夢中。藥師十二神將内戌神來于御枕上曰。今年神拜無事。明年拜賀之日。莫令供奉給者。御夢覺之後。尤爲奇異。且不得其意云々。而自御壯年之當初。專持二六誓願給之處。今靈夢之所告。不可不信仰之間。不及日次沙汰。可被建立梵宇之由被仰。爰相州。李部等不甘心此事給。各被諫申云。今年依御神拜事。雲客以下參向。其間。云御家人。云土民等。多以費産財。愁歎未休之處。亦被相續營作。難協撫民之儀歟云々。右京兆。是一身安全宿願也。更不可假百姓之煩。當矧八日戌剋。有醫王善逝眷屬戌神之告。何默止所思立乎之由被仰。仍召匠等。被下指圖也。

○やぶちゃんの書き下し文

九日戊寅。晴る。未明、右京兆、大倉郷に渡御す。

「南山(なんざん)の際(あひだ)に於いて、便宜(びんぎ)の地を卜(ぼく)して、一堂を建立し、藥師像を安置せらるべし。」

と云々。

是れ、昨(きのふ)の將軍家鶴岳へ御出の時、參會せられ、晩に及びて御亭へ還り、休息せしめ給ふ、御夢中に、藥師十二神將の内、戌神(いぬがみ)、御枕上(まくらがみ)に來たりて曰はく、

「今年の神拜は無事、明年の拜賀の日、供奉せしめ給ふこと莫かれ。」

てへれば、御夢、覺(さ)むるの後、尤も奇異と爲す。且つは其の意(こころ)を得ずと云々。

而るに御壯年の當初(そのかみ)より、專ら二六の誓願を持ち給ふの處、今、靈夢の告ぐる所、信仰せざるべからずの間、日次(ひなみ)の沙汰に及ばず、梵宇を建立せらるべきの由、仰せらる。爰に相州・李部等、此の事を甘心(かんしん)し給はず、各々諫じ申されて云はく、

「今年は御神拜の事に依て、雲客(うんかく)以下、參向(さんかう)す。其の間、御家人と云ひ、土民等と云ひ、多く以つて産財を費し、愁歎未だ休まずの處、亦、營作を相ひ續けらる。撫民の儀に協(かな)ひ難きか。」

と云々。

右京兆、

「是は一身の安全の宿願なり。更に百姓の煩ひを假(か)るべからず。當つて、矧(いはん)や八日戌の剋、醫王善逝(いわうぜんぜい)の眷屬戌神の告、有り。何ぞ思ひ立つ所を默止せんや。」

の由、仰せらる。仍つて匠(たくみ)等を召して、指圖を下さるるなり。

・「南山の際」御所からの位置関係に於いて、これは南の山の意味ではあり得ない(現在の覚園寺は北に当たる)。従ってこれは、私は南山の別称を持つ「あずち」(堋・安土・的山(まとやま)・射(あむつち))、即ち、御所内の弓場の、的をかけるために土または細かい川砂を土手のように固めた盛り土のことを指すのではないかと思う。陰陽道に則って地を占うには相応の広いハレの場所が必要であり、弓場はそれに相応しいように思われる。識者の御教授を乞う。

・「醫王善逝」薬師如来を意味する漢訳語の一つ。「醫王」は優れた医師で、衆生の病いとしての無明煩悩を癒すために法薬を与える仏を医師に譬えたもの。「善逝」は仏・如来の意。

ここで問題なのは、幕府財政が逼迫している中での、しかも彼以外の要人で肉身である姉政子・弟時房・長男泰時に至るまで、悉くが反対している中で、義時独りがすこぶる個人的な希求から薬師堂建立を訴えている点にある。私には如何にもな霊験譚を事前に作為するための見え見えのものとしか思われないのである。

 

次に建保六(一二一八)年十二月二日の条。

○原文

二日庚子。晴。右京兆依靈夢所令草創給之大倉新御堂被安置藥師如來像。〔雲慶奉造之。〕今日被遂供養。導師莊嚴房律師行勇。咒願圓如房阿闍梨遍曜。堂達頓覺房良喜〔若宮供僧。〕也。施主幷室家等坐簾中。相州。式部大夫。陸奥次郎朝時被坐正面廣廂。信濃守行光。大夫判官行村。大夫判官景廉已下御家人爲結緣群參。源筑後前司賴時。美作左近大夫朝親。三條左近藏人親實。伊賀左近藏人仲能。安藝權守範高等爲布施取。各參候于堂南假屋。戌剋事終。導師已下被引御布施。

〇やぶちゃんの書き下し文

二日庚子。晴る。右京兆、靈夢に依つて草創せしめ給ふ所の大倉新御堂、藥師如來像を安置せらる〔雲慶、之を造り奉る。〕。今日、供養を遂げらる。導師は莊嚴房律師行勇、咒願は圓如房阿闍梨遍曜、堂達は頓覺房良喜〔若宮の供僧。〕なり。施主幷びに室家等、簾中に坐す。相州・式部大夫・陸奥次郎朝時、正面の廣廂(ひろびさし)に坐せらる。信濃守行光・大夫判官行村・大夫判官景廉已下の御家人、結緣の爲に群參す。源筑後前司賴時・美作左近大夫朝親・三條左近藏人親實・伊賀左近藏人仲能・安藝權守範高等、布施取りとして、各々、堂の南の假屋に參候す。戌の剋、事、終はり、導師已下に御布施を引かる。]

中島敦漢詩全集 九 「春河馬」 二首

   九

 

  春河馬 二首

 

悠々獨住別乾坤

美醜賢愚任俗論

河馬檻中春自在

團々屎糞二三痕

 

 

春晝悠々水裡仙

眠酣巨口漫垂涎

佇眄河馬偏何意

閑日閑人欲學禪

 

○やぶちゃんの訓読

 

  春の河馬(かば) 二首

 

悠々たるかな 獨住(どくぢゆう) 別乾坤(べつけんこん)

美醜賢愚 俗論に任(まか)す

河馬(かば) 檻中(かんちう) 春 自在

團々たるかな 屎糞(しふん) 二三痕(にさんこん)

 

 

春晝 悠々たり 水裡仙(すいりせん)

眠酣(みんかん) 巨口(きよこう) 漫(そぞ)ろ垂涎(すいぜん)

佇眄(ちよべん)せる河馬よ 偏へに何をか意(おも)ふ

閑日閑人 禪を學ばんと欲す

 

〇T.S.君原案(一部は藪野補筆)の中国語を踏まえた語釈

・「悠々遥か長い、遥か遠い、悠然としたさま、凡庸なさま、憂愁を含んださま、自在なさまなど、多くのニュアンスを有する。ここは俗世間の瑣事から超然としたカバの悠然たる様子を形容する。なお、鈍重さや、そこに漂う可笑しみまで感じ取っても許されよう。

・「」独りで、孤独に。ひとりで自足した佇まいを見せていると取りたい。

・「別乾坤」「乾坤」は天地、世の中を指す。「別」はここでは、他のという意。すなわち、通常の世界とは異なる、まさに「別天地」のことである。

・「俗論」世俗的な議論のこと。

・「河馬」カバ。現代中国語でも「河馬」である。

・「」飼育している動物を囲う檻(おり)のこと。

・「自在」自由であり束縛されないこと、若しくは、束縛されない無碍な状態を身も心も心地良く感じている状態のこと。

・「團々」丸い様子、丸く膨れた様子、群れたさまなどを表す。ここは糞が丸く団子のように落ちているさまを表す。「團」は「団」の正字である。

・「屎糞」大便。「屎」も「糞」も、うんこ、クソのことである。

・「」本来は、元通りに治癒せず残った傷あとのこと。ここでは、糞を掃除した痕ではなく、糞『らしき』ものが二つ、三つ、丸い塊りとして地面に落ちたままと捉えたい。

・「水裡仙」水の裡(うち)の仙人。一般的熟語としては使われない。造語であろう。

・「眠」「酣眠」ぐっすり眠る、熟睡するという意味の熟語があり、その倒置形か。なお「」単体では、心地よく思うままに酒を飲むことである。

・「」水などが満ち溢れるさま。よだれが口から垂れるまで溢れ出るさまを指す。

・「垂涎」文字通り垂涎(すいぜん)。よだれが垂れること。

・「佇眄」佇んで眺めること。詩人がカバを眺めると取るのが自然であろう。しかし「佇」には長時間立つこと、「眄」には横目で見ることという意がある。じっと突っ立って横目でこちらを見るというイメージがカバに相応しいため、動作の主をカバであると理解した。

・「」カバが何かをじっと考えているようであり、その状況を「偏(ひと)へに」と形容したものであろう。

・「閑日」何も用事のないのんびりとした日のこと。

・「閑人」何もすることのない暇な人のこと、若しくは特定の事柄に対し、用のない人のこと。ここでは前者。「閑日」と併せ、カバではなく、詩人自身のことを指すと思われる。

・「欲」行動への欲求をあらわす。~したい。

・「學禪」禅の境地を知ること、学ぶこと。

 

T.S.君による現代日本語訳


Kaba3

 

おおい、カバよ――

お前はひとり悠然として

桃源郷にでもいるんかね

美醜や賢愚の議論なんぞ

俗な奴らに任せておくさ

いいなあ、ひとり別天地

気ままな春を謳歌してる

……ところで……

おおきなまあるい糞団子

そこらに二三落ちてるぞ

 

 

おおい、カバよ――

のどかな春のひるさがり

さながら水中仙人だねえ

午睡ぐっすり思うがまま

でかい口から涎も垂れる

横目で此方を見たりして

一体なにを考えてんのさ

……ところで……

することもないこの日長

禅でも教えてくんないか

 

〇T.S.君とやぶちゃんの協働取組みによる評釈

 のどかな春の昼下がりの、悠然自在たるカバへの賛歌である。

 星を詠った幾篇かの詩と異なり、詩人の身体にも心にも特に緊張の高まりは見られない。最初から最後まで肩の力は抜きっぱなしである。最後に「欲學禪」というが、ここにおける「」は、禅宗が持つ厳しい自己修練の世界ではなく、老荘思想に見るような融通無碍な世界観や生き方のことである。それも、半ば以上は人間が到達し得る禅的境地さえも超えたところにある、カバの究極的な自然体のことを指している。さらにはそれを「」と表現することにどこか漂う滑稽を感じ取っても構わないだろう。

 しかし忘れてはならない。詩人は決して冗談を言っているのではない。諧謔の言葉を口にしているのでもない。心の底では実に真摯な願いが渦巻いている。

 詩人はなぜこのカバに共感するのか、なぜカバの境地に憧れるのか。それは詩人が、生きているこの娑婆で、日頃様々な不如意に苛まれているからである。大きく言えば人生そのものに。卑近なところで言えば仕事における人間関係から家庭での小さな軋轢までのあらゆる不本意に。詩人はその都度、つい本気で、時には感情をむき出しにして立ち向かってしまう。そして後で反省するのだ、――ああするべきでなかった。こう言うべきではなかった――と。自分が取った対応によって、自分自身が更に惨めになってしまった――と。詩人はとうの昔に分かっている。宇宙は広大無辺なのだ。一時の浮付いた感情に任せてはいけない。身をかわすのだ。聞き流すのだ。それこそがあるべき姿だ。しかしそれが本当に出来れば世話はない。そんな境地に到達するのは、どれほど難しいことだろう……。

 人は、どうしてそんなことが分かるのかと私に問うかもれない。それなら私は(こっそり胸を張って)言おう。私も詩人と同じだから。詩人と同じようにくよくよ悩んでいるから……だと。

 

 これは恐らく動物園だろう。私は想像してみる。詩人は春の休日の昼下がり、動物園にやってきた。実は昼前に面白くないことがあったのだ。私がここでどうしても想起してしまうのは、漱石の「こゝろ」の以下の部分である。詩人のこの時の精神状態と、こゝろ」のこの日の先生の情緒が、私には二重映しになってしまうのである。

[やぶちゃん注:T.S.君の指定に基づき、私の初出形「心」の「先生の遺書(一)~(三十六)」の「(九)」より引用した。]

 

 當時の私の眼に映つた先生と奧さんの間柄はまづ斯んなものであつた。そのうちにたつた一つの例外があつた。ある日私が何時もの通り、先生の玄關から案内を賴まうとすると、座敷の方で誰かの話し聲がした。能く聞くと、それが尋常の談話ではなくつて、どうも言逆(いさか)ひらしかつた。先生の宅は玄關の次がすぐ座敷になつてゐるので、格子の前に立つてゐた私の耳に其言逆ひの調子丈は略(ほゞ)分つた。さうして其うちの一人が先生だといふ事も、時々高まつて來る男の方の聲で解つた。相手は先生よりも低い音(おん)なので、誰だか判然しなかつたが、何うも奧さんらしく感ぜられた泣いてゐる樣でもあつた。私はどうしたものだらうと思つて玄關先で迷つたが、すぐ決心をして其儘下宿へ歸つた。

 妙に不安な心持が私を襲つて來た。私は書物を讀んでも呑み込む能力を失つて仕舞つた。約一時間ばかりすると先生が窓の下へ來て私の名を呼んだ。私は驚ろいて窓を開けた。先生は散歩しやうと云つて、下から私を誘つた。先刻(さつき)帶の間へ包(くる)んだ儘の時計を出して見ると、もう八時過であつた。私は歸つたなりまだ袴を着けてゐた。私は夫なりすぐ表へ出た。

 其晩私は先生と一所に麥酒(ビール)を飮んだ。先生は元來酒量に乏しい人であつた。ある程度迄飮んで、それで醉(ゑ)へなければ、醉ふ迄飮んで見るといふ冒險の出來ない人であつた。

 「今日は駄目です」と云つて先生は苦笑(くるせう)した。

 「愉快になれませんか」と私は氣の毒さうに聞いた。

 私の腹の中(なか)には始終先刻(さつき)の事が引つ懸つてゐた。肴(さかな)の骨が咽喉(のど)に刺さつた時の樣に、私は苦しんだ。打ち明けて見やうかと考へたり、止した方が好からうかと思ひ直したりする動搖が、妙に私の樣子をそは/\させた。

 「君、今夜は何うかしてゐますね」と先生の方から云ひ出した。「實は私も少し變なのですよ。君に分りますか」

 私は何の答もし得なかつた。

 「實は先刻(さつき)妻(さい)と少し喧嘩をしてね。それで下らない神經を昂奮させて仕舞つたんです」と先生が又云つた。

 「何うして‥‥」

 私には喧嘩といふ言葉が口へ出て來なかつた。

 「妻が私を誤解するのです。それを誤解だと云つて聞かせても承知しないのです。つい腹を立てたのです」

 「何んなに先生を誤解なさるんですか」

 先生は私の此問に答へやうとはしなかつた。

 「妻が考へてゐるやうな人間なら、私だつて斯んなに苦しんでゐやしない」

 先生が何んなに苦しんでゐるか、是も私には想像の及ばない問題であつた。

 

この詩において、詩人は麦酒を飲む替わりに、カバを見たのだという気がする。彼はカバの檻の前で足が止まった。彼の横に妻や子供を思い描いても無理ではないだろうが、少なくとも彼の意識からは、妻が消える。子供が消える。そしてカバとの対話が始まる。

 実際に彼が到達できるのか、そもそも到達したいのかは別問題であるが、彼が理想と観じた境地とはどのようなものだったか。私は自分の中のイメージを自分の言葉で表現しきれない苦しさに数日間藻掻いた。どうか、愛しいカバよ、何か語っておくれ……。

 

……まず例として頭に浮かんだのは、山村暮鳥の長大な連作詩「雲」であった。以下に該当箇所を引用する。[やぶちゃん注:T.S.君の指定に基づき、昭和三九(一九六四)年弥生書房刊「山村暮鳥全詩集」の詩集『雲』より、当該詩を引用した。]

 

  雲

 

丘の上で

としよりと

こどもと

うつとりと雲を

ながめてゐる

 

  おなじく

 

おうい雲よ

ゆうゆうと

馬鹿にのんきさうぢやないか

どこまでゆくんだ

ずつと磐城平(いはきだいら)の方までゆくんか

 

……しかし……違う。中島敦はこの詩のような悠然たる心の平安だけを求めているのではない。もっと深い、もっと虚無さえも存分に呑みこんでしまったような、世俗が信じる美醜や賢愚の判断を全く超越した世界を、求めているのだ……。

 

……次に浮かんだのが、人口に膾炙した宮澤賢治である。涎を垂らす『でく』のようなカバとこの詩のイメージが繋がった。詩全体を掲げるまでもなかろう。カバと並べ得て吟味し得る部分を抜き出したい。[やぶちゃん注:T.S.君の指定に基づき、筑摩書房昭和五一(一九七六)年刊「宮澤賢治全集 第六巻 補遺詩篇Ⅰ」より、当該箇所を引用したが、底本は新字体採用であるため、私のポリシーに則り、恣意的に正字化して示した。]

 

東ニ病氣ノコドモアレバ

行ッテ看病シテヤリ

西ニツカレタ母アレバ

行ッテソノ稻ノ朿ヲ負ヒ

南ニ死ニサウナ人アレバ

行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ

北ニケンクヮヤソショウガアレバ

ツマラナイカラヤメロトイヒ

ヒドリノトキハナミダヲナガシ

サムサノナツハオロオロアルキ

ミンナニデクノボートヨバレ

ホメラレモセズ

クニモサレズ

サウイフモノニ

ワタシハナリタイ

 

……いや……これは「雲」以上に、違う。積極的行動者としての『でく』になりたいなどとは、詩人は夢にも思っていない。社会との係わりを肯定的に受け入れ、自分の中の仏性に従い、無私を貫き、その結果として善根を積み重ねて生きる。そんな生き方など、左伝や史記などの、原色で正直で鮮烈な人間ドラマが無意識の深層に刻み込まれた詩人にとっては、ただ息苦しいだけだ(実は、私にとっても同様に窒息しそうだ)。……

 

 最後に私が辿りついたのは、まさに『燈台下暗し』、詩人の手になる小説「名人伝」であった。そう、これだ。これに違いない。なぜすぐに気づかなかったのだろう。そのくせ、私の無意識の中には、この詩を読んだ当初から、この紀昌の姿があったような気がするのである。

[やぶちゃん注:T.S.君の指定に基づき、筑摩書房昭和五一(一九七六)年刊「中島敦全集 第一巻」より、当該箇所を引用した。「こ」を潰したような繰り返し記号は「々」に代えた。「とぼけ」の下線は底本では傍点「ヽ」である。]

 

 雲と立罩める名聲の只中に、名人紀昌は次第に老いて行く。既に早く射を離れた彼の心は、益々枯淡虛靜の域にはひつて行ったやうである。木偶の如き顏は更に表情を失ひ、語ることも稀となり、ついひには呼吸の有無さへ疑はれるに至つた。「既に、我と彼との別、是と非との分を知らぬ。眼は耳の如く、耳は鼻の如く、鼻は口の如く思はれる。」といふのが、老名人晩年の述懷である。

 甘蠅師の許を辭してから四十年の後、紀昌は靜かに、誠に煙の如く靜かに世を去つた。その四十年の間、彼は絶えて射(しや)を口にすることが無かった。口にさへしなかった位だから、弓矢を執つての活動などあらう筈が無い。勿論、寓話作者としてはここで老名人に掉尾の大活躍をさせて、名人の眞に名人たる所以を明らかにしたいのは山々ながら、一方、又、何としても古書に記された事實を曲げる譯には行かぬ。實際、老後の彼に就いては唯無爲にして化したとばかりで、次の樣な妙な話の外には何一つ傳はつてゐないのだから。

 その話といふのは、彼の死ぬ一二年前のことらしい。或日老いたる紀昌が知人の許に招かれて行つたところ、その家で一つの器具を見た。確かに見憶えのある道具だが、どうしても其の名前が思出せぬし、その用途も思ひ當らない。老人は其の家の主人に尋ねた。それは何と呼ぶ品物で、又何に用ひるのかと。主人は、客が冗談を言つてゐるとのみ思つて、ニヤリととぼけた笑い方をした。老紀昌は眞劍になって再び尋ねる。それでも相手は曖昧な笑を浮べて、客の心をはかりかねた樣子である。三度紀昌が眞面目な顏をして同じ問を繰返した時、始めて主人の顏に驚愕の色が現れた。彼は客の眼を凝乎(じつ)と見詰める。相手が冗談を言つてゐるのでもなく、氣が狂つてゐるのでもなく、又自分が聞き違へをしてゐるのでもないことを確かめると、彼は殆ど恐怖に近い狼狽を示して、吃りながら叫んだ。

「ああ、夫子(ふうし)が、――古今無雙の射の名人たる夫子が、弓を忘れ果てられたとや? ああ、弓という名も、その使い途も!」

 其の後當分の間、邯鄲の都では、畫家は繪筆を隱し、樂人は瑟の絃を斷ち、工匠は規矩を手にするのを恥じたといふことである。

 

 この小説のテキストを求めてネット上を彷徨っていた時、この作品の意味するところを解説した、とある書き込みが目に留まった。そこには『究極的には、生きていることも含め、あらゆることに意味はないということだ』というような言葉があった。――ふざけてはいけない!――「名人伝」における中島敦も、この漢詩における中島敦も、生をこれっぽっちも否定してなんかいない。生きていることを満喫しなければ嘘なのだ。そもそもこの考え方自体、意味の有無を云々する価値判断の世界から一歩も踏み出してはいないではないか。有限の存在である人ごときに、一体何が分かるというのか。人は、底無しの星空のような境地で、身の程知らずのおこがましい意味づけを去って、与えられた生を伸びやかに享受しなければならない。いや……、享受したい。その思いが、詩人の心の底にしっかりとあった。そうである限り、表面でいくらのんびりとしていても、いくら滑稽な雰囲気が漂っていても、この詩の重心はあくまでも低いのである。

 

……ところで、詩人がカバを見たのはどこだったのだろうか。この詩を横浜に住んでいた時期と仮定すると、カバが見られた所といえば……。歴史ある野毛山動物園はまだ開園していなかった。上野動物園はやや遠すぎよう。……私は未だにそのカバの居場所を見つけられないでいるのだ……私も……そのカバに逢いたいのに…………

[やぶちゃ補注:可能性としては上野動物園が最有力であろうと思われる。明治一五(一九一一)年に農商務省所管の博物館付属施設として開園した日本で最初の動物園である。明治四四(一八八二)年にカバを購入し、これがカバの本邦初渡来でもあった。以上は上野動物園公式サイトの「上野動物園の歴史」に拠った。T.S.君が言うように、やや遠いとも感じられるが、中島敦が私立横浜高等女学校の教師(国語と英語)をしていた(昭和八(一九三三)年~昭和一六(一九四一)年の九年間)ことを考えると、奉職中の社会見学や家族との行楽で訪れた可能性はすこぶる高かったであろうと思われる(その場合でもT.S.君の評釈にある通り、「少なくとも彼の意識からは、妻が消える。子供が消え」「そしてカバとの対話が始ま」ってよい。いや、そうした対位法(コントラプンクト)的効果はこの詩に寧ろ、相応しいとさえ私は思う)。筆者の住所からは野毛山動物園が想起されるが、残念ながらあそこはT.S.君の記す通り、戦後の昭和二〇年代の創立である(野毛山動物園公式サイト「沿革」参照)。途中に挿入した河馬はT.S.君が上海動物園で本評釈後の2013年7月6日に撮ったもの。本詩に相応しい眼をしている。]。

大和田建樹「散文韻文 雪月花」より「汐なれごろも」(明治二七(一八九四)年及び二九(一八九六)年の鎌倉・江の島風景) 6/了

滑川の景色は妙本寺の門前にありと人のいふに、さらば見にゆかんとて、一日由井が濱より八幡一の鳥居を拔け、材木座の方へと小橋を一つ渡らんとす。橋のたもとに茶店あれば、腰うちかけて見わたす景色まづすぐれたり。芦しげく生ひたる中をうねりゆく水の上には、白鷺の影を認めざりしを惜む。澁茶を汲み來る老婆に橋の名を問へば、誠は海岸橋なれど、閣魔川にかゝれるをもて人骨閣魔橋と稱ふといふ。あな恐ろし閤魔川の橋守るお姿々ならば、衣をや剝がれんなど戲むるれば、老婆眞顏になりて觀き出でけらく、昔は此地に新居の閣魔樣のおはせしが、或年のつなみに川上まで流され給ひしにより、今は山内の新居に祭られて、再び歸り給はず。されば此邊にては昔の儘に閻魔川とこそ稱ふるなれと、うれしくも一章の活風土記にあひたるものかなとて、茶碗を取れば、老婆また茶をさしかへて、あれに櫻の木の見えたるは誰々の別莊ぞなど語る。

我は比企谷の抄本寺に行かんとせしに、人の教へたるは松葉谷の妙法寺なりしにや、遂にまた誤りて其隣なる安國寺にぞたどりつきぬる。此寺は日蓮上人の立正安國論を草せしところとて、其ために九日籠居せしといふ遺跡もあり。苔むす石ぶみ蔦はふ松など、おのづから古色蒼然たるを覺えしむ。本堂の前に立ちてこゝかしこながめゐたるをりしも、廊下づたひに人の走りくる音して、旦那樣にはおはさずやといふ。見れば七八年前我家に居たる下婢なり。いざこなたへといふに、先づ堂の傍に座を占めたれば、茶菓などすゝめつゝ、其身の變遷を言葉みじかに打ち語り、かへすがへすも不思議なるところにて再會せしを喜ぶ。あはれ余をして小説家たらしめば、何かの好き材料ともなるべきに。これより志しつる妙本寺に至れば、谷更に深うして山更に靜なり。杉の梢は天をおほひて夕陽影を地に引かず。百日紅の花うつくしくこぼれて、僧の箒を怠らしむることもしばしばなり。實に其境内の淸淨なる、其堂殿の壯嚴なる、觀て以て宗祖を欽仰せしむるに足るものあり。豪傑の遺業豈大なりと謂はざるべけんや。あゝ此寺をして壯宏隆盛かくの如くならしめしものは、皷聲和するの題目に因るか。抑も一篇の立正安國論に在るか。

古跡は未だ探り盡さねども、我とゞまるべき日は盡きたり。三十日には東京に歸らざるを得ず。朝に夕に通りぬけたる權五郎の社は、寫眞にのみ親しき影を留め、夜に晝に聞きなれたる觀音の鐘は、夢ならで又いつかは其聲を數へん。あはれ由井が濱風よ。我は汝に別るゝを哀しむと共に、又汝に顏色を黑くせしを謝す。

[やぶちゃん注:作品冒頭「鎌倉の山鎌倉の海、吾一たび汝を知りしより、殆んど來り遊ばざる年とてはあらず。然れども夏日三旬の浮生を汝に寄せて、明暮相かたり相したしまんとするは、今年こそ始なれ」と恋人に対するように筆を起こした大和田は、同じく限りない哀惜をもって愛人鎌倉への恋文の筆を擱く。私はこの電子化が終わってしまったことが、限りなく淋しいほどに――。]

君が手に銀貨はなるる一切刹浪にかくれぬ黑き男は 萩原朔太郎

君が手に銀貨はなるる一切刹

浪にかくれぬ黑き男は

             (江の島にて即興)

 

[やぶちゃん注:昭和五三(一九七八)年筑摩書房刊「萩原朔太郎全集」第十五巻所収の「ソライロノハナ」より。「一切刹」はママ。この歌集は当該底本で初めて公開され、知られるようになった自選歌集で、確か、この全集の発刊された前年の昭和五二年、萩原家が発見入手したもので、それまで知られていなかった自筆本自選歌集である(死後四十年、製作時に遡れば実に六〇余年を経ての発見であった)。存在の可能性は同全集第二巻にある「習作集第八卷(愛憐詩篇ノート)」にある、以下の詩(この決定稿が「ソライロノナ」の序詩である)によって知られてはいた。

 

寫真に添へて

 歌集「空いろの花」の序に

 

 

たはかれどきの薄らあかりと

空いろの花の我(ア)れの想ひを

たれ一人知るひともありやなしや

廢園の石桓にもたれて

わればかりものを思へば

まだ春あさき草のあはひに

蛇いちごの實の赤く

かくばかり嘆き光る哀しさ

              (一九一三、三)

 

「石桓」はママ。「石垣」の誤記であろう(同三巻では冒頭の「たはかれ」を「かはたれ」、「石桓」を「石垣」とした校訂本文が載り、同第十五巻所収の「ソライロノハナ」の序詩である「空いろの花」の校訂本文も同じである。即ち、「ソライロノハナ」の原本は題名を「空いろの花」としただけで以下は上記「習作集第八卷(愛憐詩篇ノート)」通りの表記であることを意味している(私は復刻本を所持しているはずなのだが見当たらないので全集記載からかく記した)。なお、同初出形の後の注記(三七五頁)には底本同ノート『卷末の目次では「空色の花の序に」との題名を附している』とある。
 同歌集自序には『一九一三、四』のクレジットがあり、大正二(一九一三)年四月頃に製作された歌集と考えられている。序詩と自序に、「自敍傳」と題する散文・短歌を配した歌物語風の「二月の海」・歌集群「若きウエルテルの煩ひ」「午後」「何處へ行く」「うすら日」の本文六章からなる。底本解題によれば収録短歌数は全四二三首、内、同歌集内で二首が重複し、それを除く四二一首の内で既発表のものは八五首のみである。上記の一首はこの「ソライロノハナ」のみに載るものである。当該自選歌集は二〇一三年五月十三日現在、ネット上では電子化されていないものと思われる。]

鬼城句集 夏之部 凉 凉しさや白衣見えすく紫衣の僧

凉    凉しさや白衣見えすく紫衣の僧
[やぶちゃん注:「白衣」言わずもがなであるが「びやくえ(びゃくえ)」と読む。実は僧が、プライベートに黒衣(こくえ)を着用せずに白い下着だけでいることを「白衣」と言い、転じて、礼にそむく、非礼の謂いでもある。但し無論、そこまでこの句を深読みする必要はなく、鬼城の視線はその色彩の玄妙な美しさに涼を感じて素朴にうたれているのでる。]

めくらの蛙 大手拓次

 めくらの蛙

 

闇のなかに叫びを追ふものがあります。

それはめくらの蛙です。

ほのぼのとたましひのほころびを縫ふこゑがします。

 

あたまをあげるものは夜(よる)のさかづきです。

くちなし色の肉(にく)を盛(も)る夜(よる)のさかづきです。

それはなめらかにうたふ白磁のさかづきです。

 

蛙の足はびつこです。

蛙のおなかはやせてゐます。

蛙の眼(め)はなみだにきずついてゐます。

2013/05/12

明恵上人夢記 13

13

元久元年

一、同七日、地藏堂より還る。月暗くして、瀧四郎之許(もと)に宿る。夢に、春日の御社に參らむと欲(ほつ)するは今日也と思ひて、將に行水せむとすと云々。

 

[やぶちゃん注:「元久元年」西暦一二〇四年。なお、底本のここの注に、以下「16夢」までは『掛軸装の一幅。箱書きに「明恵上人夢記」とある』とする。

「還る」帰還先は筏立と思われる。

「地藏堂」底本注に、『泉州・紀州の境界地にある雄の山地蔵堂か』とある。「雄の山」は雄ノ山峠(おのやまとうげ)で現在の和歌山県和歌山市と岩出市にある峠(標高一八〇メートル)。京と熊野三山を結ぶ熊野街道の途中にあり、峠の北側は紀伊国と和泉国の界(現在は和歌山県と大阪府の境界)となっている、とウィキの「雄ノ山峠にある。現在、大阪側の阪南市にある峠の登り口に地蔵堂王子跡というのがあるが、ここか。

「瀧四郎」底本注に、「明恵上人行状」『に建久八年(一一九七)明恵が淡路島に同行したとある多喜四郎重保のことか』とある。多喜四郎重保については高山公式サイトによれば、その宝物中に重要文化財に指定された「春和夜神像」なるものがあり、その解説によると『春和夜神像(しゅんわやしん)は、華厳経入法界品に見える善財童子が歴訪する善知識の一人である。本図は華厳経に「形貌端厳」と表現される夜神の姿を絵画化したものであり、虚空の宝楼閣に座す夜神に対し善財童子が合掌恭敬して立つ。元久元年(一二〇四)、明恵の紀州(和歌山県)での庇護者、多喜四郎重保の妹の一周忌にあたり、明恵は婆沙陀天を図絵する。婆沙陀天とはすなわち春和夜神であることから、あるいは本図も明恵と関わりをもつものかもしれない』(アラビア数字を漢数字に代えた)とある。

「春日の御社」奈良の春日大社。底本注に、『天竺渡航の志を春日明神の神託によって思い止まるほか、春日明神を高山寺内にも祀るなど、明恵との関係は深い』とある。神託による一回目の中止は先立つ前年の正月のことであり、この翌年元久二(一二〇五)年にも重い病いとともに、同じ神託が下って断念することとなる。]

 

■やぶちゃん現代語訳

 

13

元久元年

一、同七日夜、地藏堂より戻ろうとしたが、月があまりに暗いので、瀧四郎の屋敷に泊まった。その時の夢。

「『春日大社の御社に参詣しようと思ったのは今日だった。』と思いついて、今、まさに潔斎のための行水をしようとする――。」

耳嚢 巻之七 夢に亡友の連歌を得し事

 夢に亡友の連歌を得し事

 

 一橋公の御醫師に、町野正庵といへるあり。常に連歌を好みて同友も多かりしが、悴は洞益とて是は連哥抔は心掛ざりしが、或夜洞益夢に、親の連哥の友長空と言て三年以前身まかりしに與風(ふと)出會し、長空申けるは、我此(この)程連歌一句案じ出せしが、餘程よきと思ふなり、親人(おやびと)正庵え咄し相談給はれと言ける故、しらるゝ通り洞益は連歌に携(たづさはり)の事なし、認(したため)給はれと答へければ、矢たて取出し、

  花の山むれつゝ歸る夕がらす

 斯(かく)認め渡しけるを、請取(うけとり)見て夢覺ぬ。不思議にも其句を覺へ、殊に文字のかきやふ迄覺(おぼえ)けると、起出(おきいで)て紙のはしに夢みし通りを書(かき)て、親正庵に見せければ正庵横手(よこで)を打(うち)て、誠に長空今年三年季也、汝が寫せし文字の樣子の内、花といふ字は常に長空が人に違(たが)ひて書しさまなりと封して、同士を集め右の夕からすの句を發句として百員(ひやくゐん)を綴り、長空が追福(ついぶく)をなしけると也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:夢告霊異譚で直連関。一つ前の「伎藝も堪能不朽に傳ふ事」とも、尺八と連歌の技芸譚として繋がる。

・「町野正庵」不詳。幕末から明治にかけての華道家に同姓同号の人物がいるが、全くの偶然か。

・「洞益」不詳。号からして医師を継いでいるようである。

・「請取見て」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『請取(うけとる)と見て』。

・「横手を打て」感心したり、思い当たったりした際、思わず両方の掌を打ち合わすことをいう。

・「封して」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『歎じて』。そちらで採る。

・「百員」百韻。連歌・俳諧で百句を連ねて一巻きとする形式。懐紙四枚を用いて初折(しょおり)は表八句に裏十四句、二の折と三の折は表裏とも各十四句、名残の折は表十四句に裏八句を記す。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 夢に亡き友の連歌を得た事

 

 一橋公の御医師(おんいし)に町野正庵殿と申される御仁があられる。

 常に連歌を好み、同好の知音(ちいん)も多かったが、その倅(せがれ)は洞益と号したが、こちらは連歌なんどは全く嗜まず御座ったと申す。

 ある夜のこと、その倅洞益殿、夢の中にて、親の連歌の友であった長空と申し、三年以前に身罷った御仁に、ふと出会った。

 夢の中の長空が言うことには、

「……我れら、この度(たび)、連歌を一句、案じ出だいて御座るが、よほどよきものと存ずるによって、親人(おやびと)の正庵殿へお咄し頂き、よろしゅうにご相談の儀、これ、給わらんことを……」

とのことで御座った。

[根岸注:既に示した通り、この洞益は連歌に関わったことは一切ない。]

 そこで洞益殿、

「認(したた)めたものをお下し下さいませ。」

と応じたところ、長空はやおら矢立(やたて)を取り出だし、

  花の山むれつゝ帰る夕がらす

と、認めて渡いたによって、それを受け取った――

――と見て、夢が醒めた。

 不思議なことには、目覚めた後(のち)もその句をしっかりと覚えており、殊に文字の書きようまでもちゃんと記憶していたによって、即座に起きなおって、近くに御座った紙の端に、夢に見た通りのものを書いて、それを親の正庵に見せたと申す。

 すると、正庵殿、

――ぱん!

と横手(よこで)を打って、

「……まことに! 今年は長空が三年忌じゃった! そなたが写したこの文字(もんじ)の様子のうち……ほれ! この「花」といふ崩し方を見ぃ! これは常に長空が人と殊更に違(たが)えて書いて御座ったのと、これ、全く! 同じ、じゃ!」

と殊の外、感嘆致いて……その日うちに旧知の同好の士をも集め、この「夕からす」の句を発句として百韻を綴り、長空の追善供養を成した……とのことで御座る。

大和田建樹「散文韻文 雪月花」より「汐なれごろも」(明治二七(一八九四)年及び二九(一八九六)年の鎌倉・江の島風景) 5

僕はこの紀行文、電子化を終るのが惜しくなるくらい、気に入ってしまっている……



廿五日は、舟にて小坪より逗子のあたりに遊ばんと約したるに、風出でたればせんかたなく、汽車にてする事に議をかへたり。逗子にて休みたる處は、入江を隔てゝ養神亭といふ旅館と相對し、風景やゝ晴れやかなるを肴にして、携へたる瓢箪を傾け握飯の包を打開く。心まづうかれたり。それより徒歩にて磯におりたち、帆立貝の殼をさがすもあれば、歌の種や落ちてあると、波打際を見あるくもあり。子供は傍の松陰に外國婦人が風景を油繪に寫してゐたるに見とれつゝ行かんともせず。かくて葉山を過ぎ御用邸の前を通りて長者園に着きたるは五時にやありけん、園は眺望最もすぐれたる處に位置を占め、右には葉山の浦里より、逗子の出鼻を隔てゝ鎌倉の山つゞき、七里濱片瀨までも烟の中に姿を見せ、藍一色に畫がゝれたる江の島は近く白波の末に立ちたり。左のかた漫々たる海上に、雲の如く霞の如く見え隱れする影を認め得たるは、伊豆なるべし。夕陽漸く落ちて殘紅雲を染め、又水を色どるも美しきに、墨繪の富士こそ水か空かの間にあらはれたれ。少女浴衣を持ち來りて風呂にめせといへば、我まづ入りつ。膳を運びて銚子を向くれば、猪口をも取りつ。海老は皿に盛られて新しく、鯛は椀に浮びてあざやかなり。波いよいよ高うして、風ます涼しく、少女が捧げ出だせる燈を吹き消すこと、幾度なるを知らず。

[やぶちゃん注:「養神亭」先に公開した田山花袋の「一日の行楽」の「逗子の海岸」に既出。「現在の逗子市新宿一丁目六-一五(現在の京浜急行新逗子駅から徒歩十分ほどの田越川に架かる河口近くの渚橋とその上流にある富士見橋の西岸一帯と推測される)にかつてあった旅館。徳富蘆花が「不如帰」を執筆した宿として知られた。逗子の保養地としての開発に熱心であった元海軍軍医大監で帝国生命取締役矢野義徹の出資で、明治二二(一八八九)年に内海用御召船蒼龍丸の司厨長であった丸富次郎が逗子初の近代旅館として創業したもの。昭和五九(一九八四)年に廃業し、建築物は現存しない。庭園だけで千坪余りあったといい、花袋が「一日の行楽」を発表した大正七(一九一八)年前後には『高級旅館として名を馳せ、名刺あるいは紹介がなければ宿泊ができない存在となっていたという』とある(主にウィキの「養神亭」に拠った)。ここで大和田は「入江を隔てゝ養神亭といふ旅館と相對し、風景やゝ晴れやかなる」とあるから、彼らが休憩したのは位置関係から見て、現在の逗子市桜山に現存する、やはり「一日の行楽」に出る柳屋旅館が有力な候補のようには思われる。

「長者園」葉山長者ヶ崎にあった旅館兼料亭。山野光正氏のブログ「Kousyoublog」の三浦半島八景のひとつ、葉山の長者ヶ崎海岸に、『現在の長者ヶ崎海岸に併設する県営駐車場の付近に明治に入って長者園という旅館兼料亭があり、葉山御用邸の建設頃から観光客や天皇行幸の際の随行団のお泊り所として繁盛しており、いつしか、その長者園の名にちなんで長者ヶ崎と呼ばれるようになったという』。『長者園は長蛇園とも呼ばれ、それにあわせて長蛇ヶ崎と呼ばれたこともあった。その長蛇園の方の由来として、当初長蛇園と名づけたが気持ち悪いので長者園に改めたとされ、その名付の基として東宮侍講として明治天皇に仕えた漢学者三島中洲の詠んだ漢詩に由来するともいう。また、その岬が大蛇の蛇の背のように見え、大蛇が棲んでいたという伝承もあり、そこに由来するとも呼ばれる』とあり、この『長者園には志賀直哉も泊まったといい、与謝野晶子もこの地を歌に詠んでいる』とある。リンク先には山野氏の撮影になる美しい風景写真の他、長者ヶ崎の伝承やここを舞台とした泉鏡花の「草迷宮」についての記載などがあり、すこぶる附きで必見である。

夜半に目ざめて時計を見れば、一時も過ぎぬ。いでや起き出でゝ月の出を待たんとて、戸を開き庭に出づるに、虫の聲しげく聞えて、星の光に黑く見えすく小松原も面白し。海上には一點の漁火もなく、唯目前に碎くる汲の白くきらめくあるのみ。

夜も鎖さぬ門を出でゝ露ふみあるくほどに、うしろの山際あからみたるは、月の出でんとするなるべし。松の枝ぶりまでよくわかれて、銀の雲に金の光をこきまぜつゝ、やうやう舟形の月はさしのぼれり。海か山か岩か島か、見わたすかぎり月の夜霧に包まれて江の島も知られず、鎌倉も知られず、興に乘じて山道づたひを吟じ來れば、月はますます親しみて我と共に遊び我と共に語る。天地六合わが外に又人間の影もなし。紫の霞は潮と空との境を隈どりて夜は明けんとす。江の島は薄墨色に又あらはれたり。葉山の漁村は煙の絶間に見えかくれたり。きのふに引きかへて波おだやかなる海の上、箱庭に似たりとて小兒も喜ぶ。群靑の上に胡粉もて畫がきしやうなる帆の影は、幾つともなく波に浮びて、日ははや島のあたりを彩色せり。こなたにも小舟のりいだして生簀の魚を捕りにゆくは、我等が今朝の命なるらし。いざ朝飯前に一潮あびてこん。子供よ母の髮むすび終るまで砂に手習して暫し待て。

[やぶちゃん注:「天地六合」「てんちりくがふ(てんちりくごう)」と読み、天地と上下四方。天下・世界・全宇宙の意。六極(りっきょく)ともいう。]

歸りの道も又徒歩と定めたり。園のあるじは妻と共に門まで送り、下婦は蠣幅傘を一つに持ち出でゝ一々にわたす。是等の愛相は東京に似たれど、似もつかぬものは浦のながめなり。茶店あるごとに必ず休みて、父は山の名を問ひ、子は舟の數をかぞふ。店は富士を窗に入れて作れるもあり。松と岩とを軒にして葺きおろしたるもあり。芦の壁黑木の柱、いたる處に趣味多し。汽車は煙を噴きて横須賀より逗子に來り、我はトンネルをくぐりて逗子より鎌倉に向ふ。今朝は遠かりし鎌倉山もわがものとなりて、砂踏み遊びし長者園はまた霞の外になりぬ。

夏帽子 萩原朔太郎

 夏帽子

 

 靑年の時は、だれでもつまらないことに熱情をもつものだ。

 その頃、地方の或る高等學校に居た私は、毎年初夏の季節になると、きまつて一つの熱情にとりつかれた。それは何でもないつまらぬことで、或る私の好きな夏帽子を、被つてみたいといふ願ひである。その好きな帽子といふのはパナマ帽でもなくタスカンでもなく、あの海老茶色のリボンを卷いた、一高の夏帽子だつたのだ。

 どうしてそんなにまで、あの學生帽子が好きだつたのか、自分ながらよく解らない。多分私は、その頃愛讀した森鷗外氏の『青年』や、夏目漱石氏の學生小説などから一高の學生たちを聯想し、それが初夏の靑葉の中で、上野の森などを散歩してゐる、彼等の夏帽子を表象させ、聯想心理に結合した爲であらう。

 とにかく私は、あの海老茶色のリボンを考へ、その書生帽子を思ふだけでも、ふしぎになつかしい獨逸の戲曲、アルトハイデンベルヒを聯想して、夏の靑葉にそよいでくる海の郷愁を感じたりした。

 その頃私の居た地方の高等學校では、眞紅色のリボンに二本の白線を入れた帽子を、一高に準じて制定して居た。私はそれが厭だつたので、白線の上に赤インキを塗りつけたり、眞紅色の上に紫繪具をこすつたりして、無理に一高の帽子に紛らして居た。だがたうとう、熱情が押へがたくなつて來たので、或夏の休暇に上京して、本郷の帽子屋から、一高の制定帽子を買つてしまつた。

 しかしそれを買つた後では、つまらない悔恨にくやまされた。そんなものを買つたところで、實際の一高生徒でもない自分が、まさかに氣恥しく、被つて歩くわけにも行かなかつたから。

 私は人の居ないところで、どこか内所に帽子を被り、鷗外博士の『靑年』やハイデンベルヒを聯想しつつ、自分がその主人公である如く、空想裡の悦樂に耽りたいと考へた。その強い欲情は、どうしても押へることができなかつた。そこで、或夏、七月の休暇になると同時に、ひそかに帽子を行李に入れて、日光の山奥にある中禪寺の避暑地へ行つた。もちろん宿屋は、湖畔のレーキホテルを選定した。それは私の空想裡に住む人物としても、當然選定さるべきの旅館であつた。

 或日私は、附近の小さな瀧を見ようとして、一人で夏の山道を登つて行つた。七月初旬の日光は、靑葉の葉影で明るくきらきらと輝やいて居た。

 私は宿を出る時から、思ひ切つて行李の中の帽子を被つて居た。こんな寂しい山道では、もちろんだれも見る人がなく、氣恥しい思ひなしに、勝手な空想に耽れると思つたからだ。夏の山道には、いろいろな白い花が咲いて居た。私は書生袴に帽子を被り、汗ばんだ皮膚を感じながら、それでも右の肩を高く怒らし、独逸學生の靑春氣質を表象する、あの浪漫的の豪壯を感じつつ歩いて居た。懷中には丸善で買つたばかりの、なつかしいハイネの詩集が這入つて居た。その詩集は索引の鉛筆で汚されて居り、所々に涸れた草花などが押されて居た。

 山道の行きつめた崖を曲つた時に、ふと私の前に歩いて行く、二個の明るいパラソルを見た。たしかに姉妹であるところの、美しく若い娘であつた。私は何の理由もなく、急に足がすくむやうな羞しさと、一人で居るきまりの惡るさを感じたので、歩調を早めながら、わざと彼等の方を見ないやうにし、特別にまた肩を怒らして追ひぬけた。どんな私の樣子からも、彼等に對して無関心で居ることを裝はふとして、無理な努力から固くなつて居た。そのくせ内心では、かうした人氣のない山道で、美しい娘等と道づれになり、一口でも言葉を交せられることの悦びを心に感じ、空想の有り得べき幸福の中でもぢもぢしながら。

 私は女等を追ひ越しながら、こんな絶好の場合に際して機會(チヤンス)を捕へなかつたことの愚を心に悔いた。

 だが丁度その時、遇然のうまい機會が来た。私が汗をぬぐはうとして、ハンケチで額の上をふいた時に、帽子が頭からすべり落ちた。それは輪のやうに轉がつて行つて、すぐ五六歩後から歩いて來る、女たちの足許に止まつた。若い方の娘が、すぐそれを拾つてくれた。彼女は羞ぢる樣子もなく、快活に私の方へ走つて來た。

『どうも……どうも、ありがたう。』

 私はどぎまぎしながら、やつと口の中で禮を言つた。そして急いで帽子を被り、逃げ出すやうにすたすたと歩き出した。宇宙が眞面に廻轉して、どうすれば好いか解らなかつた。ただ足だけが機械的に運動して、むやみに速足で前へ進んだ。

 だがすぐ後の方から、女の呼びかけてくる聲を聞いた。

『あの、おたづね致しますが……』

 それは姉の方の娘であつた。彼女はたしかに、私よりも一つ二つ年上に見え、怜悧な美しい瞳(め)をした女であつた。

『瀧の方へ行くのは、この道で好いのでせうか?』

 さう言つて慣れ慣れしく微笑した。

『はあ!』

私は窮屈に四角ばつて、兵隊のやうな返事をした。女は暫らく、ぢつと私の顔を眺めてゐたが、やがて世慣れた調子で話しかけた。

『失禮ですが、あなた一高のお方ですね?』

 私は一寸返事に困つた。

『いいえ』といふ否定の言葉が、直ちに瞬間に口に浮んだ。けれども次の瞬間には、帽子のことが頭に浮んで、どきりと冷汗を流してしまつた。私は考へる餘裕もなく、困亂して曖昧の返事をした。

『はあ!』

『すると貴方は……』

 女は浴せかけるやうに質問した。

『秋元子爵の御子息ですね。私よく知つて居ますわ。』

 私は今度こそ大さな聲で、はつきりと返事をした。

『いいえ。ちがひます。』

 けれども女は、尚疑ひ深さうに私を見つめた。或る理由の知れないはにかみと、不安な懸念とにせき立てられて、私は女づれを後に殘し、速足で先にずんずんと先に行つてしまつた。

 

 私がホテルに歸つた時、偶然にもその娘等が、隣室の客であることを發見した。彼等はその年老いた母と一緒に、三人で此所に來て居た。いろいろな反覆する機會からして、避けがたく私はその女づれと懇意になつた。遂には姉娘と私だけで、森の中を散歩するやうな仲にもなつた。その年上の女は、明らかに私に戀をして居た。彼女はいつも、私のことを『若樣』と呼んだ。

 私は最初、女の無邪氣な意地惡から、悪戲に言ふのだと思つたので、故意と勿體ぶつた樣子などして、さも貴族らしく返事をした。だが或る時、彼女は眞面目になつて話をした。ずつと前から、自分は一高の運動會やその他の機會で、秋元子爵の令息をよく知つてること。そして私こそ、たしかにその當人にちがひなく、どんなにしらばくれて隱してゐても、自分には解つてるといふことを、女の強い確信で主張した。

 その強い確信は、私のどんな辯駁でも、徹回させることができなかつた。しまひには仕方がなく、私の方でも好加減に、華族の息子としてふるまつて居た。

 最後の日が迫つて來た。

 かなかな蟬の鳴いてる森の小路で、夏の夕景を背に浴びながら、女はそつと私に近づき、胸の祕密を打ち明けようとする樣子が見えた。私はその長い前から、自分を僞つてゐる苦脳に耐へなくなつてた。自分は一高の生徒でもなく、況んや貴族の息子でもない。それに圖々しく制帽を被り、好い氣になつて『若樣』と呼ばれて居る。どんなに辯護して考へても、私は不良少年の典型であり、彼等と同じ行爲をしてゐるのである。

 私は悔恨に耐へなくなつた。そして一夜の中に行李を調へ、出發しようと考へた。

 翌朝早く、私は裏山へ一人で登つた。そこには夏草が繁つて居り、油蟬が木立に鳴いて居た、私は包から帽子を出し、雙手に握つてむしり切つた。

 麥藁のべりべりと裂ける音が、不思議に悲しく胸に迫つた。その海老茶色のリボンでさへも、地面の泥にまみれ、私の下駄に踏めつけられてゐた。

 

[やぶちゃん注:『若草』第五巻第七号・昭和四(一九二九)年七月号に掲載された。底本は筑摩書房版萩原朔太郎全集第八巻「隨筆」所収のものを用いたが、同巻巻末の校異に従って、校訂本文を初出形に復元した。従って、「内所に」「涸れた」「惡るさ」「裝はふとして」「遇然」「眞面」「ぢつと」「困亂」「先にずんずん先に」(初出では「ずんずん」の後半は踊り字「〱」であるが正字化した)「徹回」(「回」も「囘」ではない)「苦腦」「踏めつけられ」等は、総てママである。文中の太字は底本では傍点「ヽ」。なお、校異の最後には、本作は初出は総ルビであること(これは校訂本文自体がパラルビ化されているので復元不能である)と、作中で主人公が泊まる日光のホテル『「レーキホテル」は「レークサイド・ホテル」のことか。』という編者注が附されてある。

「その頃、地方の或る高等學校に居た私」底本全集第十五巻の年譜の明治四一(一九〇八)年の二十三歳(数え)の項の八月に、『一家で鹽原温泉へ行く。一人で日光へ廻り、中禪寺湖畔に泊る。』とある。同年譜によれば当時、朔太郎は熊本の第五高等学校の学生であったが、同年七月に第一学年を落第、同月中にに岡山の第六高等学校を受験合格しているが、五高の退学は九月八日附であるから、この時点ではまだ五高の学生ということになる(朔太郎は翌明治四二年に六高第一学年も落第、同年六、七月頃にはここも退学している)。

「アルトハイデンベルヒ」はドイツの小説家で劇作家のマイヤーフェルスター(Wilhelm Meyer-Frster 一八六二年~一九三四年)が、自身が書いた青春の甘美な感傷を綴った小説「カール・ハインリッヒ」を自ら脚色した戯曲「アルト・ハイデルベルク」。私はこれをパロッた太宰の「老ハイデルベルヒ」(ドイツ語の「アルト」“alt”は「老いた」)は読んだが、原作は怠惰にして知らない。梗概が株式会社旅行綜研公式サイト内のに詳しい。

「レーキホテル」全集の注は上記のように「レーキ」を朔太郎の誤記のように注しているが、現在もある「日光レークサイドホテル」の公式サイトの記載を見ると、明治二七(一八九四)年に故坂巻正太郎氏が「レーキサイドホテル」として創業したとあり、「レーキホテル」でいいのである。同記載によれば、本邦のリゾートホテルの歴史は明治六(一八七三)年に最初の洋式ホテルとして開業した日光金谷ホテル(金谷カティジイン)を濫觴とするが、この「レーキサイドホテル」はその後の開業になる箱根富士屋ホテル(一八七八年開業)や軽井沢万平ホテル(一八九四年開業)と並ぶ日本で最も歴史のあるホテルの一つで、当時は国際的観光地日光に訪れる外国人のための避暑地ホテルとして世界的にもその名を馳せていたとある。当時のここが超高級ホテルであり、そこに何日も逗留している二十三の学生という設定自体が既に『若樣』のお話であるということは認識しておかねばなるまい。

「秋元子爵」恐らくは外交官で貴族院議員であった子爵秋元興朝(あきもとおきとも 安政四(一八五七)年~大正六(一九一七)年)を指すものと思われる。以下、ウィキ秋元興朝を参考に事蹟を記しておく(華族が何をしたかなどということはこんな注でもしなければ調べることもなく、知りたくもないからである)。戸田忠至(宇都宮藩家老間瀬和三郎)次男、正室南部利剛の娘、宗子。継室は山内豊信の娘、八重子。明治四(一八七一)年に旧館林藩主秋元礼朝(ひろとも)の養子となり、同年、養父の隠居により家督を継いだ。明治一六(一八八三)年、外務省書記生としてフランスの在パリ公使館勤務となるが、間もなく職を辞して欧州各地を遊学、二年後に帰国した。この間、明治一七(一八八三)年に子爵が授けられている。明治二二(一八八九)年十月には北海道土地払下規則によって公爵三条実美(さねとみ 天保八(一八三七)年~明治二四(一八九一)年:彼はこの月に内閣総理大臣に就任している。)を中心に興朝ら華族組合で北海道庁の土地五万町歩の貸下げを申請、華族組合雨竜農場を創設している(米式の大農場経営による開墾を行ったが軌道に乗らず明治二四年に三条が没すると求心力を失って明治二六(一八九三)年に解散している)。外務官僚として明治二五(一八九二)年十二月より弁理公使、明治二八年三月には特命全権公使に昇進したが、健康が優れず、任地に赴かずに辞職した。明治三三(一九〇〇)年、伊藤博文が立憲政友会を結成するとこれに参加、東京支部長を務めた。本話のエピソードの翌年である明治四二(一九〇九)年には貴族院内に「談話会」を作って政友会の重鎮となる(このグループは貴族院院内会派の「茶話会」とともに貴族院内の有力会派となった)。東洋商業学校校長(明治四二年博文館刊「最近調査男子東京遊学案内」に校長と記載)。東京駿河台の邸宅のほかに旧領地館林にも別邸を持ち、同地の城沼の新田開墾事業などにも尽力した。娘光子の婿の徳山藩主毛利元功の三男春朝が遺蹟を継いだ。相撲道の発展にも寄与し、常陸山の後援会「常陸山会」の会長も務めた。]

花をひらく立像 大手拓次

 花をひらく立像

 

手をあはせていのります。

もののまねきはしづかにおとづれます。

かほもわかりません、

髮のけもわかりません、

いたいたしく、ひとむれのにほひを背(せ)おうて、

くらいゆふぐれの胸のまへに花びらをちらします。

鬼城句集 夏之部 日盛

日盛   日盛や合歡の花ちる渡舟

2013/05/11

耳嚢 巻之七 市陰の外科の事

 市陰の外科の事

 

 或諸侯痙瘡(けいさう)を愁ひて、衆醫師其法を施せども驗(しるし)なし。或時夢に、吉永正庵といふを以(もつて)療治せば快驗(くわいげん)あるべしと夢見ぬ。おぼろげの事ながら、其名をも正しく覺(おぼえ)、是より東北の方と告(つげ)ある事なれば、若しやかゝる事あるまじきにもあらずと、家來手わけして所々聞合(ききあは)せ尋(たづね)しに、吉永正庵と言(いふ)者なし。或時、輕き者兩國邊を廻り、見せ物辻賣(つじうり)抔一見して歩行(ありき)しが、楊弓店(やうきゆうば)近所に筵(むしろ)を敷(しき)、賣藥致候(いたしさふらふ)者、其看板を見るに吉永正庵とありし故、住居等尋しに本所邊の裏住(うらずみ)のよし。然れども餘り賣藥躰(てい)の者友(とも)なひてゆかん如何(いかが)と、屋しきへ戻りかくかくと語りしゆへ主人えも告(つげ)けるに、素より夢を信んじての事なれば、左も有(ある)べしと、何歟(か)くるしからんと、呼(よべ)とありしより招きしに、彼(かの)者陰(いん)もつを見て品々早速療治すべしと、其藥を施しけるに、不思議に彼(かれ)吉永にて快驗を得たると也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に感じさせない。根岸の好きな医事医薬関連に夢告譚を交えた都市伝説である。

・「市陰」は「しいん」と読み、「市隠」に同じ。官職に就かず、またはれっきとした生業を営まずに市井に隠れ住むこと、また、その人。

・「外科」は「耳嚢」にはしばしば出るが、外科(げか)のこと乍ら、読みは「ぐわいれう(がいりょう)」であるので注意。

・「痙瘡」岩波版長谷川氏注には『痙は筋がひきつること。何病か未詳』とあるのである。確かに「廣漢和辭典」にも、「痙」にはそれ以外の意味は示されていない。さて、ところが、この「痙瘡」という熟語でネット検索をかけるとかなりのヒットがある。ところが、それらを個々に見てゆくと、これはどうも、その多くは「痤瘡」(顔面に出来る点のような腫物)即ち、“acne”(アクネ)、面皰(にきび)の意で用いていることが判明した。しかし、「痙を愁ひて」「衆醫師其法を施せども驗なし」という部分を読むに、多発性のにきびの悪化したものという雰囲気よりも、遙かに重い感じを受ける。そこで今度はその「痤」の字義を見てみると、以下のような興味深い多様な意味持っていることが分かる(意味の一部は当該辞書以外に別に私が調べて補填してある)。

①はれもの。小さな腫瘍。

②ひぜん。ひぜんがさ。疥癬。

③ねぶと(根太)。かたね(固根)。癤(せつ:これは血管内に生じた腫瘤をいう場合もある。)。

④よう(癰)。背中や項(うなじ)などに発生する悪性の腫瘍。

この中で、本話の諸侯が罹患している病気の有力な候補として着目されるのは寧ろ、②以下なのである。

 まず、②では過角化型疥癬(ノルウェー疥癬)と呼ばれる疥癬の重症感染例が疑われる。何らかの原因で免疫力が低下している人にヒゼンダニが感染したときに発症し、通常の疥癬ならばせいぜい一患者当たりの保虫数は千個体程度であるものが、この症例では一〇〇万~二〇〇万個体に達し、患者の皮膚の摩擦を受けやすい部位には、汚く盛り上がり、牡蠣の殻のようになった角質が厚く付着するに至るのである。

 次の③は、大腿部や臀部などの脂肪の多い部分に出来る化膿性の痛みを伴う腫れ物を指す。私のように体質上、粉瘤(アテローム)が出来やすいタイプの人は、そこに細菌感染が起こって化膿し、しばしば熱と痛みを伴う粉瘤腫に悪化する(二十代の私の右腹部に出来たそれは化膿が真皮にまで達し、外科手術で摘出せねばならなかった)。

 最後の④は必ずしも癌とは限らない。所謂、性感染症の多くはリンパ節の腫脹を伴うのだが、私は本話のこの「痙瘡」という字を見た際、寧ろ、「頸」の「もがさ」(腫れと瘡蓋)を連想したため、実は最初にこれをイメージしたのであった。

 どれと断定は出来ないが、実は岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では最後に『彼(かの)もの腫もつを見て』とあること(後述する)、②の過角化型疥癬は感染力(ヒゼンダニの接触感染による)が強いので、別に、お傍の者や家内の者への感染拡大の描写が付随するであろうと考えられるから除外するとして、

③アテロームが化膿して大きくなったもの(これは実体験からいうと結構痛む)

か、

④の性病類の一症状としての慢性的リンパ節腫脹の大きなもの

であろうと推定出来る。④の場合は大きくても必ずしも痛みを伴わないが、大きければ場所によっては外分も悪く、日常生活にも支障が出、「愁ひて」という描写も不自然ではない。

・「是より東北の方」で後に吉永正庵を発見するのが「兩國」、彼の住まいが「本所」となれば、この「東北」は当たっていなくては記載の意味がないから、この大名の上屋敷は、日本橋北・内神田・八丁堀・京橋・築地・鉄炮洲辺りにあったと考えられる。

・「友なひて」底本では「友」の右に『(伴)』と注する。

・「彼者陰もつを見て」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『彼(かの)もの腫もつを見て』。こちらの方が意味が腑に落ちる。これで採る。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 市井に隠れた外科医の事

 

 ある大名、腫脹を伴う「痙瘡(けいそう)」と呼ばれる厄介な病いを患って困憊なされ、何人もの医師がそれぞれのよしとする療法を施術致いたけれども、これ、効果が全く御座らなんだ。

 そんなある夜のこと、患者御当人が、

~吉永正庵と申す者を以って療治致さば……これ……快癒するであろう……~

と何者かののたまう夢を見られた。

 夢の内の朧げのことながらも、翌朝、目覚められた後も、その

――吉永正庵――

と申す名をも正しく覚えておられた。しかも、

~……この者……これより東北の方に……あり……~

と、お告げのうちに妙に具体な事柄のあったことも、ここで思い出されたによって、

「……もしや……このような不可思議なること……これ……全くあり得ぬということも……これ、あるまい……」

と、命令一下、家来の者どもは手分けして方々(ほうぼう)聴き込みに回ったものの、これ、吉永正庵と申す者、どこにも、御座らんだ。……

 それからほどなくした、ある日のことで御座った。

 家中の、身分の低いさる者、非番なればとて両国辺りを廻(めぐ)って、見せ物や辻売りなんどを冷やかしてそぞろ歩き致いて御座ったが、ふと、さる行きつけの矢場(やば)の近所で、筵(むしろ)を敷いて、売薬なんどを致しておる者を見かけたによって、その看板を見てみたところが、そこには

――吉永正庵――

と書かれてあったによって吃驚仰天、ともかくもと、住居なんど訊ねたところ、本所辺りの裏店住(うらだなずま)いの由。

 かの者、しかし、

『……あそこは貧乏長屋で知られた辺りじゃ……それに、このあまりに賤しき田舎回りと思しい、薬売りの風体(ふうてい)にては……これ、直ちに伴(ともの)うて連れ帰るというも……如何なものか……』

と、その場は別れて、屋敷へととって返し、かくかくしかじかと語って御座った。

 されば、家人、このことをすぐに主人(あるじ)へ告げたところ、もとより、先の探索も己れの夢のお告げを信じて命じたことで御座ったればこそ、

「……やはりそうであったかッ!……両国本所は確かに東北じゃ!……何か、苦しきことのあろう! 今直ぐに、呼べッ!」

と命ぜられたによって、直ちに招いたところが、かの者、その腫れ物を見るや、

「――思い当る種々の施法、これ、御座いますれば、早速に療治を始めましょうぞ。」

と申し、その調合致いた薬の処方を受けたところが、不思議に、みるみるうちに軽快なされ、この吉永なる人物の施術によって全快をみた、とのことで御座った。

大和田建樹「散文韻文 雪月花」より「汐なれごろも」(明治二七(一八九四)年及び二九(一八九六)年の鎌倉・江の島風景) 4

廿四日は昨夜の雨の名殘にて曇りがちなれば、後は晴るべきかいかにと問ひしに、里人こたへて今日は石割開山なれば必ずあがるべしといふ。そは又いかなる事ぞと問ひかへせば、建長寺の開山忌にて昔より降りたる例なしとて、頻りに參詣せよとすゝむ。村角力もあり古代の行裝にて開山の御わたりもありと語りつゞくるに、物見ずきなる性質のそれがし、いかでか以て猶豫すべき、日も誠に快く晴れたれば、午後三時過たゞひとり車にて出かけたり。車夫は處の歴史家にて、道すがら名所古蹟の物語など得意らしく説き出だすを、聞く聞く行くも徒然ならず。曰く鎌倉の七處の切通は朝夷三郎が一夜の間に作りしなり、曰く稻村崎は新田義貞の太刀を投げて潮をひかせたる處なりなど、村學教師の黑板の前に立ちたるもかくやとおもはるゝこそをかしけれ。山の内の切通にかゝる頃は、老少男女の喘ぎ喘ぎ登りくるもの數を知らず。兩肌ぬぎて娘に汗をふかする母もあれば、風呂敷を木の枝にかけて涼み居る若者もあり。黄なる日傘は赤き裳裾と相映じて、田舍の花は山道を裝ひたり。建長寺は山門を入るより、賑はしき事かの盆の十六日にも過ぎたる中に、種ものゝ店の多く出でたるは、都に見なれぬことなればいとめづらし。向ひは飴屋酸醬屋の花やかなるこなたに、練馬大根天王寺蕪など札を立てたるが並びゐたり。本堂の傍に人の集まるを何ぞとうかゞへば、四五十人の老若男女ども、何れも鉦と本とを前におきて、御詠歌などいふものにや、鉦にて拍子を取りつゝ皆同音におもしろく歌ふなり。あはれ老後のたのしみは、孫と是との二つにやとおもひやらるゝに、立ち聞く人は評して、何兵衞どのゝかみさまはよき聲よ、誰作さんのおふくろは感心なりなどいふをきけば、是また一夜づくりにはできぬものなるべし。さはいヘ口を開き目を見合せて唱ふる處は、馬鹿げたさまかなと獨言にいへば、同じく口を開き目を見はりて見物するさまこそ猶まさりたれと、彼等は答へんとすらん。さて角力はと問へばなしといひ、おわたりはと問へば或は暮るべしなどいふに、せんかたなく草を歸路にめぐらしたり。葭簀のかげに梨子の皮むく娘づれなど見つゝ歸るも、一幅の名所圖會めきていと樂し。車夫は又講釋をはじめていよいよ興に入る。

[やぶちゃん注: この建長寺開山忌の描写もすこぶる貴重である。そもそもがかくもリアルにこうした臨済宗建長寺派鎌倉流の御詠歌場面、それを面白半分に見物する筆者大和田を含めた聴衆の語り口など、こうしたスカルプティング・イン・タイムは他の紀行文では滅多にお目にかかれないもののように思われる。

 

「石割開山」建長寺の開山蘭渓道隆の忌日。円覚寺の開山無学祖元の忌日(現在十月三日に実施)は「泣き開山」と称して例年よく雨が降るが、蘭渓道隆のそれは「石割開山」と称して炎暑となると伝えられている。「石割」とは、一滴の雨も降らず、石も干からびて割れるほどの炎天という謂いか? 識者の御教授を乞うものである。

「葭簀」の「葭」の字は、底本では(くさかんむり)の下が「叚」ではなく、右の部分が「殳」になった字体である。]

淺草公園の夜 萩原朔太郎

 

 夜の淺草公園の夜→女

 

     ――散文詩――

 

淺草は大きなへ行つてみろ、

電流コイルの旋囘だ、亂無二の乞食紳士のゔあるつらんさあだ、汝の圓筒帽をして白日まつぴるまのやうに輝かしめる世界だ、淺草だ、兄弟、おい腕をかせ、醉つぱらつて街を步かう、二人で一所に步かう、

みろ、窓の上には憔悴した螢が居る、汝の圓筒帽を捧げ光らせ、巷路ぢうにぴよぴよいちめん光る裸體ガラスの菫百合を見よ、ぴいぴいと鳴いて居る菫のあまつちよにキスきすを送れ、兄弟、腕をかせ、二人で一所に歩かう、

それみよ、汝のすきな裸體がある、すつぱなで靴をはいて居る狼の幽靈だ、→《》三角帽子の御姬の行列を拜みませう→三角帽子の御姬樣の行列だ、玉乘の御姬樣だ、ふんすゐが消えてしまつた、まつくらなみろ、純銀のよつぱらひの哀しい、むらさきの遠い路だ、淺草公園、活動寫眞、疾患いるみねえしよんの疾患齒痛の遠い遠い路だ、兄弟、おい腕をかせ、二人で一所におい步かうぜ、

塔はエレキだ、十二階みろ、尖塔の上で殺人事件が行はれる、靈性の精靈エレキの感電だ、あぶないから逃げろ、早く逃げろ、やせぎすの狼を飢えた狼が聖

みろこのすばらしい淺草公園六區の尖塔の夕晩景を、遠いエレベータアは夢遊病者の→はで滿員です

逆かにつる

きけおれの生れない息子が泣いて居る、生れない息子が

おゝ兄弟、汝の機械を出た、それへビイを指をあてろ

琲珈の美女をして長い淫行に絕息せしむこのるところの鋼鐡の機械はいぷだ、秘密觀樂

おどれ、おどれ、電燈を椅子をひつくり返しておどれ、お前の指は血だらけだ、みんなが女の乳に抱きついてタンゴをやれ、女のさかづき女の金粉のヒソを光らせ、タンゴをやれ、光るどの娘の手も血だらけだ、

汝の肉感纖細なそして肉感的の足どりでタンゴをやれああ

ああ兄弟、貴樣は怖るべき殺リク者だ、

みろ、その靑白い手が血だらけだ、

ああ兄弟、御前の殺リクをやめろ

公園六區の月夜を怖れる、疾患から、

みろ靑白い月夜に

世界公園中は螢だ、

いちめんの靑い螢だ、

兄弟、腕をかせ、哀しいけれどから池をこゑて二人して步かうぜ、

汝の圓筒帽がまつぴるまのやうにかゞやく、 

 

[やぶちゃん注:底本第三巻「未發表詩篇」の「散文詩・詩的散文」冒頭に所収。底本第三巻「未發表詩篇」の「散文詩・詩的散文」に所収。取り消し線は抹消を示し、下線部はそれに先立って抹消されたものである。「→」の末梢部分は、ある語句の明らかな書き換えがともに末梢されたことを示す。「きす」の太字は底本では傍点「ヽ」。なお、「汝の肉感纖細なそして肉感的の足どりでタンゴをやれああ」から「いちめんの靑い螢だ、」までは、セットでそれ全体が全抹消されてあるらしい(底本ではそのような記号になっている)。

「圓筒帽」これは一般にはシルクハットの和訳である。しかし、室生犀星の写真で平日にシルクハットを被った写真は私は知らない。和服で帽子の頂きが尖った円錐形に見える中折れ帽を被ったものを被った写真があるが、これを円筒帽とは言わないだろう。思うに、所謂、俳人がよく被るシンプルな円筒形の宗匠頭巾(そうしょうずきん)のことではないかと思う。俳人でもあった犀星にはよく似合うと私は思う。

 

 内容からもその直後に載る、先に掲げた「螢狩」と同時期と思われ、底本解題によれば大正三(一九二八)年頃の製作と推定されている。萩原朔太郎は前年大正二年に北原白秋の雑誌『朱欒(ザンボア)』に初めて「みちゆき」他五編の詩を発表して詩人として出発、また、室生犀星とも邂逅している。「月に吠える」の刊行はこの二年後のことである。

 

 今回は試みに、抹消部分を除去しつつ、底本の校訂本文とはまた一部違った方法で私の校訂本文を以下に示したいと思う。まず、底本の編者は当然の如くに行っている句読点や仮名遣の誤りはそのままとし(後者はまず正当乍ら、句読点の変更については私は到底、肯んじ得ないのである)、明らかな誤りとしか思えない「ゔあるつらんさあ」・「琲珈」・「いるみねえしよんのの」(「の」の抹消し忘れ)・「はいぷ」を補正、読みにくい「みろこのすばらしい」に読点を施し、漢字が思い出せなかった可能性が考えられるカタカナ表記の「ヒソ」を漢字化した(以上の五箇所は底本校訂本文も実施している)。加えて意味不明な「すつぱなで靴」の「で」を衍字として除去してある。また、読み易さを狙って段落間に一行空けた。

 

   *

 

 淺草公園の夜

     ――散文詩――

 

淺草へ行つてみろ、

 

電流コイルの旋囘だ、乞食紳士のゔあるつだんさあだ、汝の圓筒帽をしてまつぴるまのやうに輝かしめる世界だ、淺草だ、兄弟、おい腕をかせ、醉つぱらつて街を步かう、二人で一所に步かう、

 

みろ、窓の上には憔悴した螢が居る、汝の圓筒帽を捧げ光らせ、巷路いちめん光るガラスの百合を見よ、ぴいぴいと鳴いて居る菫のあまつちよにきすを送れ、兄弟、腕をかせ、二人で一所に步かう、

 

それみよ、汝のすきな裸體がある、すつぱな靴をはいて居る玉乘の御姬樣だ、みろ、純銀のよつぱらひの哀しい、むらさきの遠い路だ、淺草公園、活動寫眞、疾患いるみねえしよんの遠い遠い路だ、兄弟、腕をかせ、二人で一所に步かうぜ、

 

みろ、尖塔の上で殺人事件が行はれる、精靈エレキの感電だ、あぶないから逃げろ、早く逃げろ、

 

みろ、このすばらしい淺草公園六區の晩景を、エレベータアは夢遊病者で滿員です

 

おゝ兄弟、汝の機械に指をあてろ、

 

珈琲の美女をして長い淫行に絕息せしむるところの鋼鐡のぱいぷだ、

 

おどれ、おどれ、椅子をひつくり返しておどれ、みんなが乳に抱きついてタンゴをやれ、女のさかづきに砒素を光らせ、タンゴをやれ、光るどの娘の手も血だらけだ、

 

兄弟、腕をかせ、哀しいから二人して步かうぜ、

 

汝の圓筒帽がまつぴるまのやうにかゞやく、

 

 

   *

 

大方の御批判を俟つ。]

螢狩――愛人室生犀星に 萩原朔太郎

 

 

 螢狩

      ――愛人室生犀星に

 

醉つぱらつて街をあるけ、夜おそくあるけ、

 

ああ、窓の上には憔悴した螢が居る、汝の圓筒帽を捧げ光らせ、巷路にひろごり輝くところの菫を見よ、いとしい私の醉つぱらひの息子兄哥よ、 

 

しんあいなる私の息子兄弟よ、生れない不具の息子よ、お前のダンスの纖細なそして優美な足どり、みろ、珈琲の美女をして絕息せしむるところのお前の汝の肉感的なそして詠嘆風な奇怪なダンスの足どり、靴の底を見たまへ、更に天井の蜂巢臘燭を見たまへ、汝は怖るべき殺 者だ、それ見ろ、貴樣は指は血だらけだ、 

 

つつしんで故に浸禮聖號を捧ぐ、汝の名覺ある淫行のために、わが擬人の→をしての額に我れの螢を光らさしめよ、

 

淫行の長い沈默から月夜を恐れる。

 

螢だ、

 

螢だ、いちめんの靑い螢だ、

 

これが別れだ、息子兄哥よ、愛人よ、戀魚よ、おんみよ、遠くから私の疾患の靑い手を吸つて呉れ、手はしなへほろびてゆく、遠くにらじらうまちずむの墓場がある。光る、大理石の墓標だ、ああ、淚が凍る、なんといふ傷ましい別れだ、か細い指の先で、つぶされた螢が泣いて居るよ 

 

[やぶちゃん注:底本第三巻「未發表詩篇」の「散文詩・詩的散文」に所収。取り消し線は抹消を示し、「→」の末梢部分は、ある語句の明らかな書き換えがともに末梢されたことを示す。太字「らうまちずむ」は底本では傍点「ヽ」。「臘燭」「名覺」はママ。底本校訂本文の方ではそれぞれ「蠟燭」「名譽」と改変されている。第二連終わりの方の「殺 者」の字空けもママ。これについても底本では、『著者が後で漢字を入れるために空けておいたものと思われるので、前後關係や著者の慣用を考え合わせて決定稿には「戮」を補った』と補注され(「前後關係や著者の慣用」の部分については次に掲げる「淺草公園の夜」を参照)、この部分も上の校訂本文の第二連は、 

 

   *

 

しんあいなる私の兄弟よ、生れない不具の息子よ、お前のダンスがの纖細なそして優美な足どり、みろ、珈琲の美女をして絕息せしむるところの汝の肉感的なそして詠嘆風な奇怪なダンスの足どり、靴の底を見たまへ、更に天井の蜂巢蠟燭を見たまへ、汝は怖るべき殺戮者だ、それ見ろ、指は血だらけだ。

   *

と補正されてある(最後の読点の句点変更も編者による)。なお、底本にはもう一つの注が附されており、それによれば、この詩篇の記載の後に『「習作集第九卷」の「おもひで」の草稿「菊」と、銀杏の實のデッサンが同一用紙に續けて記されている』とある。以下に底本同巻の『草稿詩篇「習作集第八卷・第九卷」』から当該詩を示しておく。記号は上に準ずる。 但し、これは全篇が抹消されている。

   *

 

  菊 

 

 

うすらひに

 

魚(いさな)さやぎ

 

まつの葉に

 

こなゆきのふ

 

冬のはつしも

 

あさのしらじら

 

あさのひびき 

 

   *

試みに抹消部分を除去すると、 

   *

 

  菊

 

うすらひに

 

魚(いさな)さやぎ

 

まつの葉に

 

ゆきのふる

 

はつしも 

 

 

   *

となる(全抹消であり、抹消除去詩形は底本には載らない)。

 

 なお、筑摩版全集第三巻の『草稿詩篇「未發表詩篇」』には、『螢狩 (本稿原稿二種三枚)』として、無題の一種が載る。以下に示す。以下、二段落から成るが、各段落の二行目以降は、底本では一字下げとなっている。太字は底本では傍点「﹅」。

   * 

  ○ 

醉つぱらつて街を步け、よるおそく、あるけ。

ああ、窓の上には憔悴した螢が居る、街中いつぱいに汝の圓筒帽を捧げ光らせ、巷路(まち)いちめんに輝くところの裸體の菫を見よ、ぴいぴいと鳴いて居る菫のあまつちよにきすを投げろ、まつくろな、醉つぱらひの路だ、哀しい紫の、醉ひどれの路だ、淺草公園活勣寫眞い るみねえしよんの細長い齒痛の路だ、光る日輪、 

   *

編者注があり、『末尾「光る日輪、」以下はない。「未發表詩篇」の散文詩「淺草公園の夜」と類似の句がある。』とある。「淺草公園の夜」はこちらで電子化注している

怪物 大手拓次

 怪物

 

からだは翁草(おきなぐさ)の髮のやうに亞麻色の毛におほはれ、

顏は三月の女鴉(をんなからす)のやうに憂鬱にしづみ、

四つの足ではひながらも

ときどきうすい爪でものをかきむしる。

そのけものは ひくくうめいて寢ころんだ。

曇天の日沒は銀のやうにつめたく火花をちらし、

けもののかたちは 黑くおそろしくなつて、

微風とともにかなたへあゆみさつた。

 

[やぶちゃん注:「翁草」双子葉植物綱キンポウゲ目キンポウゲ科オキナグサ Pulsatilla cernua。葉や花茎など全体的に白い長い毛に被われており。花茎の高さは花期の頃で一〇センチメートル程。花後の種子が付いた白い綿毛が附く頃には三〇~四〇センチメートルになる。花期は四~五月で、暗赤紫色の花を花茎の先端に一個宛附ける。開花の頃はうつむいて咲くが、後に上向きに変わる。花弁に見えるのは萼片で、その外側はやはり白い毛で被われる。白く長い綿毛がある果実の集まった姿を老人の頭に譬え、和名をオキナグサ(翁草)とする。ネコグサという異称もある。全草にプロトアネモニン・ラナンクリンなどを含む有毒植物で、植物体から分泌される汁液に触れれば皮膚炎を引き起こすこともあり、誤食して中毒すれば腹痛・嘔吐・血便のほか痙攣・心停止(プロトアネモニンは心臓毒)に至る可能性もある。漢方においては根を乾燥させたものが白頭翁と呼ばれ、下痢・閉経などに用いられる。本邦では北海道を除く各地に普通に自生していたが、農家によって手入れされていた植生する草地が荒廃したことや開発の進行・山野草としての栽培目的の採取によって各地で激減、現在、環境省レッドリスト絶滅危惧Ⅱ類(VU)に指定されている。(以上はウィキの「オキナグサ」に拠った)。]

鬼城句集 夏之部 炎天

炎天   炎天や天火取たる陰陽師

[やぶちゃん注:「天火」は「てんくわ」と読み、「天火日(てんかにち)」の略。暦注の一つで天に火気が盛んであるとする日を指す。屋根葺き・棟上げ・竈造り・種蒔きなどを忌む。「取る」は解釈するの謂いであろう。炎天下、ゆれる陽炎の中にでも平安の昔の妖しい一齣を幻想した句と私は読む。]

栂尾明恵上人伝記 25

 文覺上人、常に人に逢ひて仰せられけるは、在世の舍利弗(しやりほつ)・目連(もくれん)等は證果(しようくわ)の聖者(しやうじや)なれば、三昧解脱戒(ざんまいげだつかい)定惠(じやうゑ)の德はさる事にて、心の佛法におきて潔(いさぎよ)くけだかく優(やさ)しき事は、明惠房の心緒(こゝろばへ)に過ぎては、いかに御坐(おはしま)しけんとも覺えず」と云々。
[やぶちゃん注:この師文覚の言葉は凄い。何せ、釈迦二大弟子の智慧第一の舎利弗と神通第一の目連でさえ、明恵の仏法信仰(しんぎょう)の心の、その素直さや優しさに於いては凡そ遠く及ばぬ、と喝破しているのである。]

2013/05/10

明恵上人夢記 12

12

 元久元年九月三日、紀洲より移りて、神護寺(じんごじ)の槇尾房(まきのをばう)に還住(げんぢう)す。

同十一日、學問、之を始む。未だ書籍を取り寄せざる間、一兩の同行とともに香象(かうざう)の密嚴(みちごん)の疏(しよ)を讀み始む。其の夜、夢に云はく、紀洲蕪坂(かぶらざか)と覺しき所に、成辨が居處と思しき庵室(あんじつ)あり。わりなく之を造れり。此の房の處は以ての外の高處也。其の下に大きなる湯屋(ゆや)あり。然も、成辨、或るところに於いて、一部の書上中下三卷〔本經の儀軌(ぎき)かとも覺ゆ。〕を借り得たり。一處に置かむと欲す。此の湯屋に到り、止まり息(いこ)ひて、此の本の庵室を見擧げ、此處に居らむと思ふ。心に思はく、我が前の房、巳に破れにき。然れども此の庵室故(もと)の如し。敢て拘勞(くらう)を用ゐず、須(すべから)く之に居るべしと。此の思惟(しゆい)を作(な)す際、一つの雀有り。二つの鴿鳥(かふてう)飛び來る。雀は灰の中に落ち、鴿鳥は樹に居り。成辨、此の雀を取り、又、鴿鳥に向ひて言はく、「願はくは來りて我が手に居よ。」即ち、飛び下りて手に入る。此の雀死に了んぬ。彼(か)の庵室の邊に佛頂房有りて、云はく、「此の鴿(いへばと)、變じて涌(よう)とならむ」と云ふ。成辨、之を聞きて思はく、此の鳥、雲霞の如くなる物に成るべきか。即ち涌〔此の字かと思ふ〕。此の鴿、片目にしのづきの如くなる物あり。而も、死するかと思ふ程に、手を放ちて之を見るに、飛びて外に去りて近き邊に居たり。又之を呼べば、來りて手に居る。今度、靑き鳥と成る。糸にて組みつくれるが如し。漸く靑雲と成りて空に上る。成辨、手を擧げて此の雲を取り、漸々に之を飮む。次第に空に上るを次第々々に之を取りて飮む。後は白雲にして上る。之を取りて飮む。皆、飮み巳(をは)る樣に思ふ。之を飮む間に此の事を思ふ。一切を利益(りやく)せむ。

 

[やぶちゃん注:「元久元年」西暦一二〇四年。

「神護寺(じんごじ)の槇尾房」現在、京都市右京区にある真言宗大覚寺派槇尾山西明寺(まきのおさんさいみょうじ)。京都市街の北西、周山街道から清滝川を渡った対岸の山腹に位置する。周山街道沿いの高雄山神護寺、栂尾山高山寺とともに三尾(さんび)の名刹として知られる。寺伝によれば天長年間(八二四年~八三四年)に空海の高弟智泉大徳が神護寺別院として創建したと伝える。その後荒廃したが、建治年間(一一七五年~一一七八年)に和泉国槙尾山寺の我宝自性上人が中興、本堂・経蔵・宝塔・鎮守等が建てられた。後、正応三(一二九〇)年に神護寺から独立した(以上はウィキの「西明寺」に拠る。

「香象」法蔵(六四三年~七一二年)は唐代の華厳宗の第三祖。大師号は賢首又は香象。姓は康。長安出身。華厳の第二祖智儼に学んでその教学を集大成する。則天武后の勅で入内した際、側にあった金獅子の像を例にとって本質と形相の関係を五つに分け、華厳の教学を体系化して示したといわれる。「華厳五教章」「探玄記」「起信論疏」(ここで明恵の言う「疏」とはこれか)などの著があり,実叉難陀とともに「新華厳経」八十巻の漢訳を完成した(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

「密嚴の疏」法蔵作「密厳経疏」。「大乗密厳経」の注釈。同経では大日如来がいる三密で荘厳された浄土(密厳国・密厳仏国ともいう)について説かれている。因みに真言宗では、このけがれた国土そのものが密厳仏国であると説いている。

「紀洲蕪坂と覺しき所に、成辨が居處と思しき庵室あり」という謂いからは、そこは蕪坂に似ている場所であり、明恵は実際には蕪坂に庵室は持っていなかった、というあくまでも夢中内での実感を述べているように感じられる。「蕪坂」熊野古道の一壺王子と山口王子の間、現在の有田市宮原町畑字白倉の蕪坂王子跡近くにある坂。 「栂尾明恵上人伝記」によれば、建久四(一一九三)年に紀州に遁世した明恵は(リンク先は私の電子テクスト)、「湯屋」浴場のある建物。特に社寺などに参籠する際に斎戒沐浴したり、休息するために設けられたもので、「斎屋(ゆや)」とも書く。

 

 湯淺(ゆあさ)の楢原村白上(ならはらむらしらがみ)の峰に、一宇の草庵を立て、居(きよ)をしむ。其の峰に大盤石(だいばんじやく)、左右に聳えて、小(ちいさ)き流水前後に出づ。彼の高巖(かうがん)の上に二間(ふたま)の草庵を構へたり。前(まへ)は西海(せいかい)に向へり。遙(はるか)に淡路島を望めば、雲晴れ浪靜かにして、眼(まなこ)窮(きはま)り難し。北に亦谷(たに)あり、鼓谷(つゞみだに)と號す、溪嵐(けいらん)響(ひゞき)をなして、巖洞(がんどう)に聲(こゑ)を送る。又草庵の緣(えん)を穿(うが)ちて、一株(ひとかぶ)の老松(おいまつ)あり。其の下に繩床(じやうしやう)一脚(きやく)を立つ。又西南の角(すみ)二段ばかり下に當つて、一宇の草庵を立つ。是は同行來入(どうぎやうらいにふ)の爲なり。此の所にして、坐禪・行法・寢食を忘れて怠りなし。或時は佛像に向ひて、在世(ざいせい)の昔を戀慕し、或時は聖教(しやうげう)に對して、説法の古(いにしへ)をうらやむ。

 

とある。この「湯淺の楢原村白上の峰」とは、講談社学術文庫版の平泉洸氏の訳注によれば、『和歌山県有田郡湯浅町栖原に施無畏寺(せむいじ)があって』、『その後ろの山が白上の峰である』と注されている。この夢のモデルもこれであろう。

「本經」文脈からは「大乗密厳経」と読める。

「儀軌」密教で如来・菩薩・諸天などを念誦供養する際の方法や規則を記した典籍。

「佛頂房」天台僧仏頂房隆真か。彼は明恵と同じく法然の念仏に破折を加えた、定照の「弾選択」二巻に奥書を加えている(「赤鬼のブログ」の浄土九品の事 第四章 天台宗の高僧らの対応」を参照した)。

「涌とならむ」底本注に、『あわのようになるだろうの意か』とある。現代語訳はそれで訳した。]

「即ち涌〔此の字かと思ふ〕。」この部分、よく分からない。即座に泡となったと一応、解釈した。以下の割注については、「涌」という変わった字で仏頂房の台詞を示したけれども、実際に夢の中で私は彼の言う「よう」という発音を「涌」とほぼ直観していたのだ、確かにこの「涌」という字であったという確信に近い感覚があるのである、という意味で採った。

「しのづき」「篠突」で、篠(細い針のような竹)で突いたように、傷や病変によって生じた角膜上の白濁した点のこと。

「之を飮む間に此の事を思ふ。一切を利益せむ。」このコーダも難解である。私はこれを夢の中のエンディングに於ける明恵の意識の自問自答と解釈した。覚醒直前のことと思われ、あるいは覚醒後の夢解釈が夢記述に影響を及ぼした可能性も否定出来ないが、「之を飮む間に此の事を思ふ」の部分は確かな夢内として示されているから、あえて最後の「一切を利益せむ」を夢の中の明恵の覚悟と読む。「此の事を思ふ」の「此の事」は、実は前の雲を食うことを指すのではなく、「一切を利益せむ」ということを雲を食っている間に思ったという意味にも採れる(寧ろ、その意で覚醒時の明恵は記述している可能性の方が強いようにも私は思っている)が、話の分かり易さという点でかく採った。

「利益」仏菩薩が人々に恵みを与えること。仏の教えに従うことによって幸福や恩恵が衆生にもたらされることの意から、一切衆生利益の謂いを私なりに解釈して訳のように示した。大方の御批判を俟つものではある。

 

■やぶちゃん現代語訳

12

 元久元年九月三日、紀州より移り、神護寺に戻って、槇尾房(まきのおぼう)に還住(げんじゅう)した。

一、移って八日後の同月十日のこと、やっと気持ちが落ち着いたので、学問を始めたが、未だ、紀州からの書物の荷が届いていないため、同行(どうぎょう)の一僧とともに、賢首香象大師(けんしゅこうぞうだいし)の「密厳経疏(みつごんきょうしょ)」を読み始める。その夜の夢。

 

 紀州蕪坂(かぶらざか)と思しい所に、私のずっと以前の居所と思われる庵室(あんじつ)がある。思い起こせば、この庵室は私が、ある止むを得ぬ気持ちから造ったものではあった。しかも、この庵室が建っているのは、これ、とんでもない高所なのであった。

 その断崖の直下には大きな湯屋(ゆや)があった。

 しかも、私はこの時、ある所に於いて、全一部の上・中・下の三巻から成る仏典[明恵注:この時の夢の中の私は、それらを「大乗密厳経」に関わる儀軌(ぎき)について記した書であったように認識していたように思われる。]を借り受けて来たばかりで、何としてもこの大部の仏典総てを同じ一つのところに置いておきたいという強い希望を持っていた。

 そこで、この湯屋に立ち寄って、一息ついた。

 そうして、ふと、このずっと以前に住みなした、かの庵室を見上げた。

 すると、

『……やはり、ここに棲もう!』

という強い思いが湧き起った。

 そして、さらに心中、思ったことは、

『……私がこの前まで住んでいた住房は既に壊(く)えてしまった。――しかれども、ここのあの庵室は、今も、もとのように在るではないか! あえて奇態なる拘束や苦労をせず――なすべきことは、これ、ここに棲むことである!』

という感懐であった。

 こんなことを考えていた、丁度、その時である。

 一羽の雀が、傍にいた。

 また、そこに、一羽の山鳩が飛んできた。

 雀は、湯屋の火焚きの灰の中に落ち、山鳩は、樹にとまった。

 私は、この雀を灰の山の中から掬い取ってやり、また、山鳩に向かって語りかけた。

「願わくは、羽ばたききたって私の手にとまれ。」

と。

 すると、山鳩は、たちまち飛び下りてきて、私の掌(てのひら)の中におさまった。

 この時、さっき救ってやった雀は地面の上で死んでしまっていた。

 はっと気づいて見上げてみると、かの遙か上の庵室の辺りに知人の仏頂房が佇んでいるのが見えた。そうして彼が、眼下の私に向かって、

「その山鳩は、変じて『涌(よう)』となるであろう。」

と叫んだ。

 私は、それを聴いて思った。

『この生きた山鳩が、雲や霞の如き物に変成(へんじょう)しようはずもあるまい。』

――ところが

――山鳩は私の掌の中で、たちまち、涌(泡)に変じてしまったのであった!……

[明恵注:夢の中の私は、その時の『よう』という彼の発音を、確かに泡を意味する『涌』という、この「字」として認識していたように思われる。]

 なお、この私の掌の中にいた山鳩には、片方の目に白濁した星のような跡があった。

……ところが、泡になってしまったから、死んだものかと思っていたところが――

――ぱっ

と手を開いてこれを見てみると、元の山鳩の形のままに、

――さっ

と掌から飛び去って、すぐ近くに降り立った。

 また、これに呼びかけた。

 すると、再び飛びきたって、私の掌の中におさまった。

 ところが、それをよく見てみると、今度はさっきとは全く違った、青い見慣れぬ鳥となっている。

 まるで青染めの糸を組み紐にして編んだかのようであった。

 しばらくすると、その青い鳥は、私の掌の中で、青みがかった雲と変じて、空へ空へと、ゆっくりと昇ってゆく、また変じては昇ってゆく、のであった。

 私はすばやく手を挙げて、この彩雲を摑み取り、徐ろにこれを――飲んだ。

 次々に空へ昇り行かんとする青い雲を――次々に摑み取っては――飲む。

 遂に最後のそれは、白雲となって、やはり空に昇ろうとする。

 私は遂にそれをも取って――飲んだ。

 即ち、私は、その――すべてを飲みきり終わったように――思うのである。

 そして――これを飲んでいた、その間中……

――私は、

『……これら、不思議なることは……一体……如何なる意味を……持っているのだろう?……』

と考えた。

 そして、その答えは、

「一切は他者のために!」

であった。

 

[やぶちゃん補注:読解に難解な個所が多いが、サンボリズムかシュールレアリスムの散文を読むような極めて幻想的魅力に富んだ夢記述で、明恵の夢の中でも私の好きな一篇である。断崖、その頂上に建つ庵室、湯屋、雀、鳩、その泡のメタモルフォーゼ、青い鳥、青い雲、白い雲、それを飲み続ける自分、そしてコーダの「一切を利益せむ」と――解釈学をそそるシンボルが目白押しであるが、私はこのまんまの夢の情景が、何故かは分からないが、すこぶる直感的に心地よいのである。仏頂房の登場も唐突で、パースペクティヴが利いていて素晴らしい。 

 あえて言うなら、私はこの夢には、明恵の信条であった個としての極楽往生を願わないところのゾルレンの思想「あるべきやうは」に基づく、謂わば浄土教に於ける一度極楽浄土に往生しながら衆生済度のために再び生死(しょうじ)の現世へと還ってくるところの還相廻向に類似した意識が表わされているのではないかと読み解いている。明恵の「あるべきやうは」の思想については私の『栂尾明恵上人伝記 24 「あるべきやうは」――ゾルレンへの確信』を参照されたい。

 また私にはこの夢が、タルコフスキイの「鏡」ラスト・シーン、瀕死の詩人が死の床で死んだ小鳥の遺骸を優しく握ってやる――そうして――それをゆっくりと空へ放つ――小鳥が元気よく飛び立つ……というシーンを、何故か、強烈にフラッシュ・バックさせるのである……]

栂尾明恵上人伝記 24 「あるべきやうは」――ゾルレンへの確信

 或る時、上人語つて曰く、我に一の明言(めいげん)あり。我は後生(こうしやう)資(たす)からんとは申さず、只現世(げんぜ)に有るべきやうにて有らんと申すなり。聖教の中にも、行すべきやうに行じ、振舞ふべき樣に振舞へとこそ説き置かれたれ。現世にはとてもかくてもあれ、後生計(はか)り資(たす)かれと説かれたる聖教は無きなり。佛も戒を破りて我を見て、何の益かあると説き給へり。仍て阿留邊幾夜宇和(あるべきやうわ)と云ふ七字を持(たも)つべし。是を持つを善とす。人のわろきは態(わざ)とわろきなり、過ちにわろきには非ず。惡事をなす者も善をなすとは思はざれども、あるべきやうにそむきてまげて是をなす。此の七字を心にかけて持たば、敢えて惡き事有るべからずと云々。

[やぶちゃん注:「阿留邊幾夜宇和(あるべきやうわ)」遂にここに明恵の思想の核心が出現する。まさに「ある」こと、ザイン(Sein:実在・存在の)に反定立するところの「あるべき」ようにあること――ゾルレン(Sollen:当為)――である。しかもその前提於いて明恵は「我は後生資からんとは申さず」(後世に於いて極楽往生したい/しようなどとは言わぬ)というのである。まさに親鸞や日蓮といった鎌倉新仏教の強烈な個性に対等に並ぶ宗教者としての毅然たる若々しい自意識が、この「阿留邊幾夜宇和」(「在るべき樣は」)という七字の教えに晶結しているではないか。]

大和田建樹「散文韻文 雪月花」より「汐なれごろも」(明治二七(一八九四)年及び二九(一八九六)年の鎌倉・江の島風景) 3

降るにもあらず、晴るゝにもあらぬ空のけしきに抑へられて、濱にも得出でぬ日あり。つれづれのあまり、鎌倉名勝誌やうのもの繰返し見るに、ふと尋ねて見たくなりたるは、十六夜日記にて親しまれたる月影谷なり。極樂寺うしろの山續きなりとあるを案内にして探りたれど、村人も知らずといへば、推量にこゝかかしこかなど定めおきて歸りくる折しも、片瀨より訪ひ來れる友あり。共にしばしば此地に遊びたる同士なれど、互に見たる處見ぬ處あればとて、閑窓の興をそなたに轉ずる事になりぬ。

扇谷の壽福寺より車を下りて、實朝の墓を訪ふ。穗のなき薄は道を埋めて、踏み折りたる蹟もなきに、山水の音ひとり筧に溢れたるもゝのさびし。されど墓には錠のかゝりゐて、外より窺はるべくもあらざるこそ失望なれ。五六年あとまでは、道行く人も自由に花折り手向けつるものをと、打ちつぶやけど誰かは答へん。寺に歸りて僧に請ふまでの事もなければと、友のいふにまかせて、山道をあとへと下る。

次に十大の井戸を見んとす。我は始めてなれば、殊に心すゝみて行くほどに、海藏寺といふ寺に着きぬ。門前に浮草青く鎖したる水のあるは、名の高き底拔の井なるべし。かの『水たまらねば月もやどらず』の歌を、石に彫りて建てたるにて知りぬ。寺にて案内の人やあると尋ぬれば、片足みじかき寺男の掃除してゐたるが、箒を置きていざこなたへといふ。岩根づたひに猶のぼりゆけば、岩屋の戸を引きあけて是なりといふ。見れば恰も紺屋の藍壺をならべたるやうに、十二の井戸はならびゐたり。されど水なきに非ずやと語りつゝ、蝙蝠傘のさきをさし入れたれば、ぬれたるこそ道理なれ、水は透きとほる如き淸さにて、なみなみとたゝへゐたるぞかし。奧の壁には觀音と大師の立像ありて、薄暗き中に拜まるゝもそゞろ寒し。傳へいふ、弘法大師の加治水なりと。眞僞は知らねど、珍らしき見ものゝには洩るべからず。

寺男に別れんとして爲相卿の墓を問へば、網引地藏といふて尋ね給ふべし、其石段の上こそ卿の御墓なれと教ふ。猶道すがら村人に問ひつつたどりゆけば、露ふかき谷ふところに淨光明寺といふ寺あり。其奧なる山道を蜘妹の巣かき拂ひつゝ分け登れば、聞きしにまがはぬ墓こそ立ちたれ。五輪の文字は幾星霜の雨に打たれて形を見せねど、玉垣に彫れる冷泉家門人の文字は新しくして、歌道の絶えざるを知らせたり。雪の如き苔は燈籠を封じて石いよいよ白く、蓑の如き蔦は松を圍みて風ますます綠なるに、斜陽うすくこぼれて人影の塔より長きも、身にしむ山の夕暮なり。遠くは由井が濱より三浦のかたまで、たゞ一望の下に來りて、歸帆の影と夕波の聲と、今も歌人の幽魂を慰むるに似たり。卿の歌はまた聞く能はず。日ぐらしひとり昔の聲に鳴く。

耳嚢 巻之七 伎藝も堪能不朽に傳ふ事

 伎藝も堪能不朽に傳ふ事

 

 京橋邊に、琴古(きんこ)とて尺八の指南をして、尺八をひらく事上手也。其業をなす者に尋(たづね)しに、琴古が拵へし竹(ちく)は、格別音整調子共宜敷(よろしき)よし也。元祖琴古竹を吹(ふき)て國々を扁歷(へんれき)し、或(ある)在郷の藪にて與風(ふと)名竹と思ふを見出し、せちに乞求(こひもとめ)て是を竹に拵へ吹ければ、在方なれば唄口へ入(いる)べき品もなく、唯切そぎて唄口を拵へ吹けるに、其音微妙にして可稱(しようすべく)、是を以日本國中を修行せしに、尺八の藝も琴古に續(つづく)ものなく、長崎にて一圭といへる者、其藝堪能なりしに、其比(そのころ)是も出會(であひ)のうへ兩曲合せけるが琴古には及ざる由。今に右の竹は當琴古が家に重物(じふもつ)として、執心の者には見せもするよし。元租琴古も當時の琴古より貮三代も以前のよし。元祖のひらきし竹も今に世に流布し殘ると也。裏穴際に琴古と代々名彫(なぼり)をなす由人の語りける。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特にないが、何か、鉄棒と尺八、裄を切るのと竹を切る仕草、「貮三代以前」と「貮三代も以前」の言葉遣いなど、不思議にしっくりと繋がる。「耳嚢」に多い技芸譚である。

・「堪能不朽」「堪能」は「かんのう」(「たんのう」とも読む)で、深くその道に通じていることをいう。

・「ひらく」岩波版で長谷川氏は、『初めて使うこと。後文のように竹を見立てて尺八に仕立てることをいうか』と注されておられる。これを現代語訳では頂戴した。

・「竹(ちく)」タケ製の笛。無論、「たけ」と読んでも同じ意味があるので構わないが、私の好みでは「ちく」である。

・「音整」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『音声』であるが、この字面であると音色とその調べ(調性)などの意へと膨らんでいる感じがする。

・「元祖琴古」初代黒沢琴古(宝永七(一七一〇)年~明和八(一七七一)年)本名黒沢幸八。黒田美濃守家臣であったとされる。若くして普化宗に入り、一月寺、・鈴法寺の指南役を務め、曲の収集整理を行って、琴古流として三十余りの曲を制定、普化宗尺八の基礎を築いた。実子が二代目琴古、弟子には一閑流の宮地一閑がいる(以上はウィキ黒沢琴古に拠る。二代三代はリンク先を参照されたい。ただ、そこにはこの尺八家元の名跡琴古流は四『代目が没して以降途絶えているがその後も何人か継いだが何代続いたか不明』とあって、「堪能不朽」の語がやや淋しく感じられはする)。

・「扁歷」底本には「扁」の右に『(遍)』と傍注する。

・「與風(ふと)」は底本のルビ。

・「是を竹に拵へ吹ければ」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では。『是を竹に拵へけれど』で、文脈上はこちらがよい。ここはそれで訳した。

・「唄口」この当時、尺八の唄口(歌口)に何を挟んでいたかは分からない(文脈上はもとは尺八には歌口に何かを挟まねばならなかったようにしか読めない)。しかし、「泉州尺八工房」の歌口研究 1には、本来、尺八は元々自然の形状を利用して作られており、歌口近辺が二〇ミリメートル程度の内径を持った竹の節を抜いただけの単純な楽器で、『歌口開口部も竹の自然な形状によって様々な形になっていた。近年大量生産をするようになり内部に施した「地」と呼ばれるパテ状の漆を一回で削り取る器具を使うようになると、開口部は円である必要が出てきた』とあるから、尺八の原型では実は歌口には何も挟まなかったように読める(ケーナの古形のものを見てもそれを私も支持する)。同記載にはさらにまた、歌口は現代では『竹まかせの時代から形状の統一の時代にはなったが、いずれにしても演奏上の人間の立場に立った変化ではなく、あくまで制作上の都合である』とある。ウィキ尺八によると、『歌口は、外側に向かって傾斜がついている。現行の尺八には、歌口に、水牛の角・象牙・エボナイトなどの素材を埋め込んである』そうである。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 技芸も堪能(かんのう)不朽に伝えるものであるという事

 

 京橋辺に、『琴古』(きんこ)と称する、尺八の指南を致いて、尺八を「ひらく」こと――原木の竹を見立てて、尺八に仕立てる上手が御座る。

 尺八で生業(なりわい)をなす者に尋ねたところ、『琴古』が拵えた尺八は、音色やその調べ、吹き具合ともに、格別によろしい由、聞いて御座る。

 元祖琴古は尺八を吹いて諸国を遍歴致いて御座ったが、ある在郷の藪の中(うち)にて、ふと、名竹と思わるる一本を見出し、切(せち)に乞い求めて、これを尺八に拵えてみたが、出先の田舎でのことなれば、歌口へ入るることの出来る品も、これ、御座なく、ただ切り削いで歌口を拵え、そのままに吹いたところ、その音(ね)、微妙にして、美事なるもので御座ったゆえ、これを持って日本国中を修行して巡ったと申す。

 具体な尺八の吹奏術の技芸に於いても、この琴古に匹敵する者は御座らなんだ。

 長崎にて一圭(いっけい)と申す者が、深く尺八の芸に通じておると評判で御座ったが、その頃、この者とも出会(でお)うたによって、二人それぞれに曲を奏して競うてはみたものの、一圭も流石、この琴古には及ばなんだ由にて御座る。

 今にその尺八は、当琴古が宗家に重物(じゅうもつ)としており、尺八に精進する者には見せもする、とのことで御座る。

 元租琴古と申すは、これ、現在の琴古よりも二、三代も以前の御仁なる由。

 元祖が製したところの、この自然な竹をそのままに用いた尺八――歌口に何も挟まぬ尺八も、これ、今の世に流布して残っておるとのことで御座る。この形の、宗家にて製する尺八の裏穴の際(きわ)には、代々、必ず『琴古』と名彫(なぼ)りをなす由、人の語って御座った。

我等何をなすべきか――靑年の爲に―― 萩原朔太郎

 我等何をなすべきか

       ――靑年の爲に――

 

 我等何を爲すべきかといふ疑問は、ひとり靑年だけの疑問ではない。既に世に出てゐる壯年者も中年者も、今日共に皆惱んでゐる疑問である。しかし就中、それが最も痛切に靑年を惱ますのは、今日の時代が靑年の受難時代であるからである。

 靑年の生命は、高遠な理想と純潔な戀愛だと言はれて居る。然るに現代の靑年は、その二つの物を、共に持ち得ないのである。かつて明治時代の學生たちは、天下の總理大臣になることを理想とした。大正時代の學生たちは、財界の巨人になることを理想にした。ところで今日の學生たちは、小會社の重役になることさへも夢想しない。夢想しないのではなく、現實の社會事情が、夢想することを許さないのである。彼等の悲しい願望は、とにかくにも學校を卒業して、食ひはぐれのない仕事にありつき、平凡無爲の一生を終りたいといふ一事である。かつて昔の學生たちは、天下の豪傑を以て自ら任じ、牛肉屋の二階に國家の經營を論じて痛飮した。今日の卒業を經えた學生たちは、喫茶店の一隅に小さくかたまり、如何にして持參金付の妻をもらふべきか、いかにしてサラリーマンの一椅子を買ふべきかを相談してゐる。理想が奪はれるどころではない。理想といふ言葉自身が、空虛なナンセンスになつてるのである。今日天下の豪傑を以て任ずる男は、今の學生の仲間からは、應援團長的ユーモアの喜劇人物として嘲笑される。靑年にとつて、これほど悲慘な時代がどこにあるか。

 ヤングライフから理想を除けば、後に殘る生命は戀愛だけだ。しかもその戀愛すらが、今の靑年には無所有なのだ。何よりも不幸なことには、今の若い娘自身が、靑年を對手にしないのである。かつて昔は、大學生がすべての娘たちの戀人だつた。明治の小説「金色夜叉」では、第一高等學校の生徒でさへが娘たちの戀人として表象されてゐる。所で今の若い女には、その小説が不思議でたまらないのだ。大學生でさへも、彼等は子供扱ひにして對手にしない。況んや中學生に毛の生えた一高の生徒なんかチヤンチヤラ可笑くつてと、彼等はその芝居を見ながら座席でゲラゲラ笑ひこける。それが皆女學校を出たばかりの小娘なのだ。靑年にとつて、これほど悲慘な時代がどこにあるか。

 今の靑年に、もし何かの理想することがあるとすれば、重役の娘を妻にもらひ、郊外の小さな借家に住み、蓄音機の一臺でも買ひ、そして絶えず新妻の御機嫌をとり、持參金付の尻の下にしかれて滿悦しながら、エロチックな性的遊戲をして平凡無事に暮したいのだ。雜誌「主婦之友」の口繪に描く田中比佐良のエロ漫畫は、かうした現代靑年の悲しい理想を現實して居り、それによつて學生の讀者を多分に收得してゐるのである。そして町に唄ふ流行歌は、

「あなたと呼べば、あなたと答へる。山のこだまの樂しさよ。あなた。何だい。後は言へない、二人は若い。」

 と、「主婦之友」口繪のエロ漫畫を、そつくりその音樂で唄ふことで、理想を持たない靑年の悲しい腋の下を擽つて居る。制服をきた學生たちが、町にこの唄を唄ふのを聽く時ほど、今の世が情なくなる時はない。靑年は何所に居るのだ。高邁な理想も持たず、純潔な戀愛も知らず、功利的打算によつて結婚し、女房の尻にしかれてデレデレしながら、「あなた!」「何だい」と答へるやうな靑年が、しかも自ら「二人は若い」と誇らしげに言ふのを聞いては、げに淺ましさを通り越して、人類の猿猴的墮落といふ思ひがする。

 まことに今日の日本は、靑年といふ言葉がそのイデーを失ひ、單に「二人は若い」の猿猴的思春期を意味する言語に變つてしまつた。しかし社會の實相といふものは、常にいかなる場合に於ても、互に矛盾する二つの反流が交叉してゐるのである。靑年をかかる悲境のどん底に陷入れた現代社會は、今や一方で靑年を聲高く呼び求め、すべての希望を若者の奮起にかけてゐるのだ。「靑年」といふ言葉、「靑年的」といふ言葉が、今日の如く諸方で呼ばれ、時代の熱情的詩語となつてゐる時代はない。例へば僕等の文壇に於てさへも、今日最もパツシヨネートの刺戟を與へてゐる文藝思潮は、靑年の純潔性とロマンチシズムとを同復しようとしてゐるところの、日本浪曼派等の運動であり、そしてこの同じ日本浪曼派は、今日の日本のあらゆる社會――政界にも、財界にも、教育界にも、宗教界にも――至るところに呼びあげられ、潮流されてゐる傾向なのだ。

 今や靑年の時代は來た。すくなくとも時代と文化が、それを熱意し、呼び求めて居るのである。そして人心の求めるものは必ず現實に如實さるべき筈である。物究まれば此所に通ず。失意の谷底に突き落され、その純眞性もヒユーマニチイも、共にその靑春から奪略された靑年等が、今や時代と文化に要求されて、社會の第一線に奮起すべき秋は來た。遂に昨日の失意者は明日の大得意者になるであらう。靑年の受難日は既に終つた。よろしく諸君の憂愁を捨て、欣舞して盃をあぐべきである。

 しかしながら人々の求めるものは只今有る如き「現實の靑年」ではない。なぜならその現實の靑年、「主婦之友」のエロ漫畫を見てヨダレを垂らし、持參金付の嫁探しに夢中となり、煩悶もなく猜疑もなく、無神經の動物的安易さを樂しんでる如き若者は單なる年齡上の若者である以上、眞の意味での「靑年」でないからである。時代と文化が求めてるものは、生活上の靑年でなくして、イデーとしての靑年なのだ。即ち言へば、靑年の特色とすべき諸性情――純潔性や、情熱性や、ロマンチシズムや、高邁な理想や――を持つてるところゐ靑年なのだ。

 我等何を爲すべきか? といふ靑年への提案は、此所に至つて明白である。即ち今日の失意した靑年が、明日の希望ある靑年として生きる爲には、現に今日の彼等が生活してゐるところの、一切の惡しき環境、習俗、流行、輿論、常識等に反抗し、かかる者から一人孤立して新生せねばならないのである。例へば諸君の友人と、諸君の常識と、諸君の環境とは、今旦講高遠な理想を語つたり、純潔な戀愛を説いたりする男を見て、仲間中の物笑ひにし、時代遲れの馬鹿者として嘲笑する。そして諸君が、かかるグループの一員に居り、かかる輿論の環境に住んでる限り、諸君は永久に「墮落した靑年」であり、永久に沒落の谷底から浮べないのだ。なぜなら今日の文化と社會が呼んでゐるものは、諸君が「馬鹿者」として嘲笑するところの、眞の純潔性や高い理念を持つた靑年、即ち眞の靑年らしき靑年、イデーとしての靑年であるからである。即ち言へば、諸君はその自ら嘲笑愚弄する者の側へ、諸君自身を逆に轉進させ、認識價値のコペルニクス的轉囘をせねばならないのだ。

 

[やぶちゃん注:本作は初出誌紙名も年月日も一切が不明である。底本は筑摩版萩原朔太郎全集第十一巻の「隨筆」所収のものを用いた。本文中には昭和一〇(一九三五)年にディック・ミネが歌ってヒットした「二人は若い」(作詞サトウ・ハチロー/作曲古賀政男)が引用されているのが、そのヒントとなろう。本作はある種の、銃口から立ち上る黒ずんだ硝煙のキナ臭さと同時に、全く対極の不思議に透明な何ものかをも感じさせもする。そしてこの当世青年批判は、多様な意味を持って亡霊のように現代にも蘇ってくるであろう。]

靑白い馬 大手拓次

 靑白い馬

 

いちはやく草(さう)は手をたれて祈りをささげた。

靑白い馬は水にうつる頭(あたま)の角(つの)に恐れて、草のなかをかけめぐり、

そのあへぐ鼻息は死人の匂ひのやうに萬物をくさらせる。

眼は沼のをどみのやうにいきれて泡だち、

足は銀の細工のやうにうすぐもる光をはなつ。

靑白い馬は

黑(くろ)の馬よろひをつけて、ふたたび水のうへに嘆息をふきかける。

その あたまのうへに芽(め)をだした角(つの)は

惡のよろこびにいきいきとして 食物(しよくもつ)をとる。

鬼城句集 夏之部 暑 

 夏之部

  時候

暑    麥飯のいつまでも熱き大暑かな

     暑き日や簾編む音ばさりばさり

[やぶちゃん注:底本では「ばさりばさり」の後半は踊り字「〱」。]

     念力のゆるめば死ぬる大暑かな

     暑き日や立ち居に裂ける古袴

     衝立に隱れて暑き食事かな

     暑き日や雜仕が着たる古烏帽子

     暑き日や家根の草とる本願寺

     暑き日やだしぬけことの火雷

     暑き日や鰌汁して身をいとふ

     暑き日や古竹燃してはぬる音

海産生物古記録集■番外 後藤梨春「随観写真」の「鯛之福玉」の記載

fishinfish2010氏のブログ「魚のサカナ(鯛のタイ)図鑑」の「【番外編】鯛の九つ道具(その2)」に、「随観写真」の「鯛福玉」の記載を発見(リンクも充実していて即原画像に辿り着けるのもハゲシク、ミリキ的!)。このブログも『鯛の鯛』を語って凄絶にして素敵! 憧れちゃう!
 
   《引用開始》
 
◎『随観写真(ズイカンシャシン) 魚部2巻』に「鯛之福玉」の図と説明がある(リンク先の左にある「目次・巻号」> 魚部2巻 [39] > 上のページ数「34/39」に「鯛之福玉」の図譜と説明、また「目次・巻号」> 魚部1巻[36] > 上のページ数「7/36」に「棘鬣魚(タヒ)」の説明あり)。ちなみにこのリンクから見られるのは安政5(1858)年の写本である。

長州之俗謂之鯛之咽虱而甚賞味如鯛在于鯛魚之口中呼福玉者含玉之畧語乎

漢字を追うだけでもある程度の意味は伝わってくるが、門外漢の筆者が我流で訳すと「長州の俗、之を鯛の咽虱(のどしらみ)と謂、鯛の如くこれを賞味す。鯛魚の口中にあり、これを福玉、略語で玉と呼ぶ」といったところか(専門家の方がいらっしゃったら是非お助け下さい)。また後述する『水族写真鯛部』の「鯛之福玉」の欄には上の文章がそのまま写されている。ちなみに『随観写真』の「棘鬣魚(タヒ)」の説明の項には「『周防国』で初めて採られたために『周』の魚となった」旨などが記載されている。周防国は現在の山口県東南部にあたり、「鯛の咽虱」を賞味していたという長州藩に属していたというのも(偶然の一致かも知れないが)興味深い。
 
   《引用終了》
 
博物学古記録の読みが鮮やかに拡大してゆくところなど、まさに垂涎必見のブログである。
因みに当該白文は、

長州の俗、之を鯛の咽虱と謂ひて、甚だ賞味すること、鯛のごとし。鯛魚の口中に在り。「福玉」と呼ぶは「含み玉」の畧語か。

と訓読するものかと思われる。

本書の著者後藤梨春(ごとうりしゅん 元禄九(一六九六)年~明和八(一七七一)年)は江戸の本草学者・蘭学者で町医。本姓は能登国七尾城主多田氏であったが、父義方の時に後藤に改姓、本名は光生。江戸生。長じて田村藍水に本草学を修学、宝暦七(一七五七)年から同一〇年にかけて江戸と大坂で催された物産会に出品、明和二(一七六五)年には江戸の私立医学校躋寿館躋寿館(せいじゅかん)で都講(教頭)となって本草学を講じている。オランダの地理・暦法・物産・科学機器などを紹介した「紅毛談」は本邦初の電気文献とされる。これにアルファベットを載せたために幕府に絶版を命ぜられたとも伝えられるが、検討の余地がある。著書に「本草綱目補物品目録」「春秋七草」「震雷記」等(主に「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。本書「随観写真」は動植物全体を収めた図譜であったが、現在流布しているのは魚部二百八十八品と介部六十八品を掲載する六冊のみ。当該「介部六」の掉尾には動植物を好んだ信濃須坂藩主堀直格(なおただ)の識語が附されている。

ああ……こうしているうちにもタイノエ食いたくなったわい!

「瀬戸内海のウオノエ科魚類寄生虫」

「瀬戸内海のウオノエ科魚類寄生虫」山内健生・大塚 攻・仲達宣人(広島大学大学院生物圏科学研究科附属瀬戸内圏フィールド科学教育研究センター)

古記録もカバーした学術論文として必読である。

特に「随観写真」(後藤, 1771 頃) には「鯛之福玉 (たひのふくだま)」という名称でタイノエが登場し,「長州の俗之れを鯛の咽虱と謂ひて甚だ賞味すること鯛の如し」という記述がみられる

僕は未だタイノエを純粋に食する機会に恵まれていないが、これはそそられる記載ではないか(「随観写真」のそれについては近いうちにテクスト化してみたい)。

昔なら図書館で孤独に調べていても、とても出逢える文献ではない。こういうものが在野の凡人でも手軽に読めるようになったのはネットの至福である。

2013/05/09

大和田建樹「散文韻文 雪月花」より「汐なれごろも」(明治二七(一八九四)年及び二九(一八九六)年の鎌倉・江の島風景) 2

 

 

鎌倉に歸れば盆の十六日になりぬ。けふは閻魔まゐりをするとて、漁夫の娘も相應に晴着よそほひつゝ、手を引き引かれねりゆくなり。處はと問へば山の内なりといふに、例の物見ずきなる癖とて、喜ぶ子供を先に立てゝ雪の下へと道を急ぐ。鶴岡の八幡宮を知らぬもあれば、先づ之に詣で、それより繩手めきたる道を田舍娘の群れ行く方にとたどり行けば、蟻の行列は遂に左手の高き處にぞとまりける。寺は圓應寺とかいひけらし、人は新居の閻魔樣と呼ぶ。賑は何くも同じ事にて、飴賣る店、氷賣る店など、立ち竝びつゝ聲々にすゝめたつれば、汐風に吹き黑まされたる美人は、首に掛けたる財布の紐を解きかけつゝ、土產の品を直切るもあり。堂に入りて見れば、正面の閻魔王をはじめとして有らゆる木像、すべて古色の掬すべきあるを覺えしは、運慶の作と人はかたれり。石段を下りて猶人の西へと行くは、ものこそあらめと坂を下りゆくに、建長寺さして又蟻の道はつきたり。門を入れば、辻占入の菓子に天狗の羽團扇つけたるを賣る店など立ちならぶ。何故けふはかゝるものを賣るぞと問へば、旦那は御存じなきか、半僧樣とて東京からさへ參詣し給ふ人もあるをといふ。さてはよき折に來つるなり。今日のみは人まねの効能あやまたぎりきと笑ひあひつゝ、本堂を右に見て山道を奧へ奥へと入る。道すがら赤く白く竹の筒のふとさに卷きたるものを賣るを、線香にやと問へば、一束百本づゝの旗なり、旦那も御心願の叶ほせらるゝやうに、立てゝ奉納し給へとすゝめて止まず。さらば武運長久の御祈願にもなど戲れつゝ、いざ立てよといへば、小兒は石垣木の根ともいはず、おもしろがりてこゝにもここにもと突きさしくうかれゆく。坂いよいよ急にして山ますます嶮しく、遂に同行の中二人は途中に殘されたり。此間に休め休めと呼びたつる茶店處々にありて、鮨飯餅氷水などを出だしたるも、大方は殘り少なになれるほどの繁昌なり。腕まくりに尻はしよりなる娘は、燃えたつ顏を汗にしつゝ、腰うちかけては柄杓に汲みだす釜の茶を吹き吹き飮む。からうじて奧の院までのぼりはてぬ。堂は大きからぬが極めて險しき坂の上に立てり。祭らるゝは天狗にて半僧大權現とぞよばれたる。堂のうしろには一の茶店ありて眺望打開けたり。是に一休みして茶をもてくる老婆に問へば、あれなるは戶塚程谷、右の端の平たきところが神奈川なりなど、指さし示す。蟬の聲も何となく涼しきに、鶯さへ法法華經と鳴き出でたり。下りはいとやすやすとはやくも建長寺に來りぬ。こゝにて本堂など見物しありきて雪の下に歸りし頃は、夕陽八幡の森に落ちて風やゝ涼し。さても閻魔にひかれて半僧まゐりとは今日なるべしと笑へば、小兒は坂のこはかりし事など今も忘れずして語る。

 

[やぶちゃん注:雪ノ下から巨福呂坂(この道は明治一九(一八八六)年に明治政府が新たに開鑿した新道で現在の車道と同じ位置にあった)への「繩手」(田の畦道)めいたところを、田舎娘たちがぞろぞろと向かう様子、円応寺及び建長寺境内から半僧坊へ至る道筋の茶店や土産物店の賑わい、殊に既に占い+天狗の羽団扇というオプション戦略の銘(?)菓や、小さな旗竿を地面に立て挿して天狗へ奉納祈請するという当時の風俗など、近代鎌倉紀行やガイドブックには見られないリアルな情景がすこぶる面白い。私は読みながら、大和田家族の書生になった気分で歩く自分を実感したものである。……私は思い出す……そこで、この坂下の、晴着を着た「汐風に吹き黑まされた」小麦色のぱんとした張りのある頬の漁師の娘に……「首に掛けたる財布の紐を解きかけつゝ、土産の品を直切る」小娘に……何故か、うたかたの恋をしたのだった。……そうだ……建長寺奥の急坂で顎を出しかけている私を尻目に、元気よく、「よつこらしよ! よつこらしよ!」と声を掛けながら――「書生さあ! もうじきじゃ!」――と……「腕まくりに尻はしより」している彼女を、少し顔を赤らめながら眩しそうに見上げている私が、いる……ほうほうの体(てい)で辿り着いた半僧坊の茶屋で、「燃えたつ顏を汗にしつゝ、腰うちかけては柄杓に汲みだす釜の茶を吹き吹き飮」んでいるその娘を、何か、限りなく愛おしいものに感じながら、黙って笑って見ている私が、そこに、いる――のである……。

 

「直切る」「ねぎる」(値切る)と読む。

 

「武運長久の御祈願」この旅は明治二七(一八九四)年八月十六日であるが、まさにこの前月七月二十三日に日本は漢城に侵攻、朝鮮王宮を三時間に亙って攻撃し、占領、七月二十五日には日本艦隊と清国艦隊が朝鮮半島西岸沖の豊島(ほうとう:現在の京畿道安山市檀園区内)沖で海戦(豊島沖海戦)となり、大日本帝国海軍が圧勝、八月一日には遂に日清両国が宣戦布告し、「日清戦争」が勃発し、この七月十六日頃には、同戦争における最初の本格的な陸戦である「平壌の戦い」(九月十五日)に向けての動きが既に始まっていた。]

耳嚢 巻之七 鐡棒大學頭の事

 鐡棒大學頭の事

 

 松平大學頭、貮三代以前大學頭、常々杖に鐵棒を被用(もちゐられ)し故、俗に鐵棒大學と評判せしが、至て賢直剛器の人にて、松平安藝守懇意なりしが、子息但馬守初(はじめ)て御目見(おめみえ)の節、何分年若の者、行末の所を御師範賴み存(ぞんず)るよし、安藝守懇(ねんごろ)に被賴(たのまれ)し故、承知の由にて、則(すなはち)藝州□え被招(まねかれ)て但馬守を被引合(ひきあはせられ)しに、遖(あつぱれ)能き生(うま)れ立(たち)末(すゑ)賴母(たのも)しく、殊外(ことのほか)賞翫せしが、安藝守も此間申候通(このあひだまうしさふらふとほり)、彌相賴(いよいよあひたのむ)よし被申(まうされ)ければ、夫(それ)に付(つき)御招(おんまねき)故(ゆゑ)心掛(こころがけ)の所を不申(まうさず)は如何也(いかがなり)、先(まづ)着服の術甚(はなはだ)長く武士風になし迚(とて)、小刀を以(もつて)振袖の袖口貮三寸切縮(きりちぢめ)、扨(さて)大小の拵(こしらへ)も不宜(よろしからず)とて、持參致(いたし)候大小を取出(とりいだ)し被渡(わたされ)しが、刀は永く脇差は如何にも短く太く、たくましき拵にて有(あり)しと也。但馬守生涯帶刀、右大學頭被申候(まうされさふらふ)通りの刀脇差にて、今に大學頭送りし由、大小は藝州の家に殘りしと也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:本格武辺物で連関。

・「銀棒大學頭」は「かなぼうだいがくのかみ」と読む。

・「松平大學頭」松平頼慎(よりよし 明和七(一七七〇)年~文政一三(一八三〇)年)。陸奥守山藩第四代藩主。水戸藩支流松平家五代。守山藩四代藩主松平頼亮(よりあきら)次男。官位は従四位下大学頭で侍従。享和元(一八〇一)年、大学頭であった父頼亮の死により家督を相続、死去後は長男頼誠(よりのぶ)がやはり大学頭を継いでいる(ウィキの「松平頼慎」に拠る)。やや分かり難いが、本話の主人公はこの松平頼慎である。

・「貮三代以前大學頭」松平頼慎の曽祖父であった、同じく従四位下大学頭で侍従・少将の守山藩初代藩主松平頼貞(よりさだ 寛文四(一六六四)年~延享元(一七四四)年)を指す。常陸額田藩初代藩主松平頼元の長男として生まれ、水戸徳川家初代徳川頼房の孫に当たる。元禄六(一六九三)年、父の死去により家督を継いで常陸額田藩の第二代藩主となったが、元禄一三(一七〇〇)年に陸奥守山に移封されて守山藩主となった。元文四(一七三九)年の尾張藩主徳川宗春に対する蟄居の申し渡しでは使者を務めている。寛保三(一七四三)年に家督を三男頼寛(よりひろ)に譲って隠居した(ウィキの「松平頼貞」に拠る)。

・「剛器」底本には右に『(剛毅)』と補正注がある。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『剛気』。

・「松平安藝守」安芸広島藩第五代藩主で浅野家宗家第六代浅野吉長(よしなが 天和元(一六八一)年~宝暦二(一七五二)年)。元禄八(一六九五)年の元服に際して将軍綱吉より偏諱を受けて吉長と改名、宝永五(一七〇八)年に家督を継いでいる。享保一〇(一七二五)年には広島藩藩校として「講学所」(現在の修道中高等学校)を創始し、元文四(一七三九)年には宮島の大鳥居を再建、各種藩政改革で成功を収めたことから「江戸七賢人」の一人に数えられ、広島藩中興の英主名君と称される。参照したウィキの「浅野吉長」のよれば、『浅野家は、豊臣秀吉正妻(北政所)高台院の妹である弥々の子孫であり、吉長は、祖母九條八代を通じて秀吉の姉日秀尼の血を受け継いでいる。つまり、秀吉と寧々の傍系の血統である。また吉長の母は尾張二代藩主徳川光友の娘貴姫であり、曾祖母の前田萬は前田利家の直系の孫でもある。吉長は、徳川家康と前田利家の直系の血統も受け継いでいる。特に家康の血は尾張藩初代徳川義直と、二代将軍徳川秀忠の二つの流れを受け継いでいる』(アラビア数字を漢数字に代えた)とあり、江戸時代のとびきりの名門の血脈であることが分かる。

・「子息但馬守」安芸広島藩の第六代藩主で浅野家宗家七代浅野宗恒(むねつね 享保二(一七一七)年~天明七(一七八八)年)。吉長の長男として江戸桜田の上屋敷で生まれた。広島藩の財政は父の時代からすでに悪化していたが、宗恒の時代にも幕命による比叡山延暦寺堂塔修復による十五万両の出費に加えて、領内で凶作や大火が相次いで財政が窮乏化した。このため、宝暦三(一七五三)年には家臣団の知行を半減、宝暦四(一七五四)年には永代家禄制度の廃止、能力制による家禄の改正など、世襲制の一部廃止を断行する一方で、自ら倹約に努め、さらに役人の不正摘発や裁判制度の公正化を行うなど、様々な藩政改革に着手して、改革をほぼ成功させた名君であった(ウィキの「浅野宗恒」に拠る)。

・「□え」判読不能か。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『亭』とある。これで採る。

・「遖(あつぱれ)」は底本のルビ。

・「着服の術」の「術」には底本では右にママ注記を附す。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『裄(ゆき)』とある。「裄」は和服の着物の背の縫い目から袖口及びその長さをいう。現代語訳ではこれを採った。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 鉄棒大学頭(かなぼうだいがくのかみ)の事

 

 松平大学頭頼慎(よりよし)殿――二、三代以前より大学頭であられた――は、常々、愛用されておられた杖に、鉄棒(かなぼう)を用いられておられたゆえ、俗に『鉄棒大学』様と評判せられておられたが、至って賢直剛毅の御仁であられた。

 松平安芸守浅野吉長(よしなが)殿と御懇意であられたが、吉長殿御嫡男但馬守宗恒(むねつね)殿、初めての将軍家御目見(おめみえ)の際には、

「何分、年若(としわか)の者なれば、行末の所を、これ、御師範、よろしゅう、お頼み申す。」

と、父君(ちちぎみ)より、懇(ねんご)ろに『鉄棒大学』様へ御頼みがあられたと申す。

 即座に承知の旨、御座ったによって、安芸守殿は『鉄棒大学』様を直ちに御屋敷に招かれ、子息但馬守殿にお引き逢わし申し上げなされた。

 『鉄棒大学』様、但馬守殿を御一見なさるるや、

「――遖(あつぱ)れ! よき性(しょう)にお生まれなさった御仁じゃ! 末、頼もしゅう存ずる!」

と、殊の外、賞賛なされた。

 父安芸守殿、

「先般、お頼み申した通り、いよいよ、よろしゅうに、お頼み申し上ぐる。」

と申されたところが、『鉄棒大学』様、

「――それにつき、わざわざの御招きまで頂戴致いたゆえ、取り急ぎ、心に掛かって御座る所を申さぬは、これ、よろしゅう御座るまい。――まず、貴殿の着服の裄(ゆき)――これ、はなはだ――長(なご)う御座る。まずは武士風になすがよろしい。――」

とお答えになったかと思うと、御自身の小刀を以って、目の前の、但馬守殿の振袖の袖口を

――シャッ! シャッ!

と、いとも簡単に二、三寸、切り縮められた上、

「――さても――大小のその拵え、これも、はなはだ、宜しゅうない。――」

と、予め用意持参なされて御座った大小を取り出だされ、但馬守殿へ直々にお渡しになられた。

 その太刀は――これ、如何にも長いもので、対する脇差と言えば、これ如何にも短く太うて、ごつごつとした逞しい拵えのもので御座ったと申す。

 ……但馬守殿は、このいかもの造りの大小を、生涯、帯刀なされた。

 この大小は、如何にも『鉄棒大学』頭殿が、宜しい、と申さるるに相応しき、異形(いぎょう)の刀脇差にて、今に、代々の浅野当家大学頭殿へ送り伝えておらるる由にて、安芸国の宗家屋敷に今も伝えられておる、とのことで御座る。

(無題「ああ遠き室生犀星よ……」) 萩原朔太郎

 

 

 

 

ああ遠き室生犀星よ

 

ちかまにありてもさびしきものを

 

肉身をこえてしんじつなる我の兄

 

しんじつなる我の兄

 

君はいんらんの賤民貴族

 

魚と人との私生兒

 

人間どもの玉座より

 

われつねに合掌し

 

いまも尙きのふの如く日々に十錢の酒代をあたふ

 

遠きにあればいやさらに

 

戀着せち日々になみだを流す

 

淚を流す東京麻布の午後の高臺

 

かがふる怒りをいたはりたまふえらんだの椅子に泣きもたれ

 

この遠き天景の魚鳥をこえ

 

狂氣の如くおん身のうへに愛着す

 

ああわれ都におとづれて

 

かくしも痴禺とはなりはてしか

 

わが身をくゐて流涕す

 

いちねん光る松のうら葉に

 

うすきみどりのいろ香をとぎ

 

淚ながれてはてもなし

 

ひとみをあげてみわたせば

 

めぐるみ空に雀なき

 

犀星のくびとびめぐり

 

めぐるみ空に雀なき

 

犀星のくびとぶとびめぐり

 

淚とゞむる由もなき

 

淚とゞむる由もなき。 

 

[やぶちゃん注:底本第三巻「未發表詩篇」に所収する一篇。無題である。ところが、底本では、これを校訂したものを本文として、以下のものを以上の未発表原稿の上に本文として掲げている。 

 

 室生犀星に

     ――十月十八日、某所にて――

 

ああ遠き室生犀星よ

 

ちかまにありてもさびしきものを

 

肉身をこえてしんじつなる我の兄

 

君はいんらんの餞民貴族

 

魚と人との私生見

 

人間どもの玉座なり

 

われつねに合掌し

 

いまも尙きのふの如く日々に十錢の酒代をあたふ

 

遠きにあればいやさらに

 

戀着せち日日になみだを流す

 

淚を流す東京麻布の午後の高臺

 

たかぶる怒りをいたはりたまふえらんだの椅子に泣きもたれ

 

この遠き天景の魚鳥をこえ

 

狂氣の如くおん身のうへに愛着す

 

ああわれ都におとづれて

 

かくしも痴愚とはなりはてしか

 

いちねん光る松のうら葉に

 

うすきみどりのいろ香をとぎ

 

淚ながれてはてもなし

 

ひとみをあげてみわたせば

 

めぐるみ空に雀なき

 

犀星のくびとびめぐり

 

めぐるみ空に雀なき

 

犀星のくびとびめぐり

 

淚とゞむる由もなき

 

 

編者注によれば、この、

 

「日々」→「日日」

 

「かがふる」→「たかぶる」

 

「痴禺」→「痴愚」

 

とし、しかも少なくとも私には不審のある、「たかぶる」の後の、

 

怒りをいたはりたまふえらんだの椅子に泣きもたれ

 

をそのままにした校訂本文の、その題名「室生犀星に」及び附記「――十月十八日、某所にて――」について『は別稿にもとづき附した』とある。この注記から、この詩には、この無題の詩と全く同じか若しくは極めて酷似した未発表詩原稿があり(掲げるほどの異同がないことを意味している)、それには題名と附記がついていた、ということを意味している。しかし、では何故、その題名と附記まで採った『別稿』の方を未発表詩の元として挙げなかったのかが説明されていない。この詩には二つ以上の酷似した原稿があり、何らかの推定に基づき、これがより早期に書かれたものであり、その別稿には詩句上の異同が全くと言っていいほどに認められない、若しくは除去部分が無駄に残されていて、詩としての体裁をなしていないから没にしたということか?……分からない……そういうところをブラック・ボクッスにしたままに、編者によって『矯正』された(なお、私は「かがふる怒りをいたはりたまふえらんだの椅子に泣きもたれ」の一行は矯正しそこなった可能性さえ感じている)『唯一正当校訂本文』が最大活字ででんと坐っている……どうも私には、やっぱり、この筑摩版萩原朔太郎全集の校訂基準が、今一つ不審であり、不透明なのである。しかも、同全集は後の投げ込みで、本文六行目の「玉座より」の「よ」を誤字と断じて(まあ、その方がしっくりはくる)、校訂本文を「玉座なり」に修正している。

 

 しかし……萩原朔太郎がイエスに擬えた室生犀星……その首が……あの異形(いぎょう)の顔(嘗て私の同僚は犀星の顔を古武士のような立派な顔だと言ったが、私は朔太郎が最初に犀星に逢った時の――かの抒情詩から、美少年を彼は想像しており、内心、激しく失望している――烈しい驚愕と全く同じものを始めて彼の写真を見た際に味わった感覚を忘れない)が飛頭盤の如くに空中を乱舞する――朔太郎の禁断の新たな犀星への熱愛の情が伝わってくる素敵に慄っとする詩ではないか。]

虛言への情熱家 萩原朔太郎

     ●虛言への情熱家

 

 正直者とは、僞(うそ)をつかない人ということではない。僞(うそ)でさえも、利己的な打算や懸引(かけひき)でなく、無邪氣な純一の心を以て、情熱から語る人を言うのである。

 芸術の天才等は、気質の正直さにかかわらず、概ね僞つきの名人であり、虛言することに熱意を持つてる。

 

[やぶちゃん注:昭和四(一九二九)年十月第一書房刊のアフォリズム集「虚妄の正義」の「著述と天才」の掉尾に配されたもの。]

むらがる手 大手拓次

 むらがる手

 

空(そら)はかたちもなくくもり、

ことわりもないわたしのあたまのうへに、

錨(いかり)をおろすやうにあまたの手がむらがりおりる。

街(まち)のなかを花とふりそそぐ亡靈のやうに、

ひとしづくの胚珠(はいしゆ)をやしなひそだてて、

ほのかなる小徑(こみち)の香(か)をさがし、

もつれもつれる手の愛にわたしのあたまは野火(のび)のやうにもえたつ。

しなやかに、しろくすずしく身ぶるひをする手のむれは、

今(いま)わたしのあたまのなかの王座をしめて相姦(さうかん)する。

 

[やぶちゃん注:私はこの最終行を無類に偏愛する。]

鬼城句集 春之部 要の花 ~ 「春之部」了

要の花  かなめ咲いておのづと風に開く門

以上を以って「鬼城句集」は「春之部」を終る。公開と季節感を今少し保持するため、季語群公開方式を暫く続けようと思う。

2013/05/08

大和田建樹「散文韻文 雪月花」より「汐なれごろも」(明治二七(一八九四)年及び二九(一八九六)年の鎌倉・江の島風景) 1

[やぶちゃん注:作者大和田建樹(おおわだたけき 安政四(一八五七)年~明治四三(一九一〇)年)本名晴太郎は国文学者で詩人・作詞家としても知られる。その名を思い出せる方は少ないかも知れないが、彼の作詞になる曲は誰もが実は知っている。実は人口に膾炙した「鉄道唱歌」(多梅稚(おおのうめか)・上眞行(うえさねみち)作曲)や「青葉の笛」(田村虎蔵作曲)、そしてスコットランド民謡の「故郷の空」作詞は彼の手になるものである(海軍教育本部から嘱託されて各種の公式軍歌の作詞等も手掛けている)。

 大和田建樹は現在の愛媛県宇和島市に宇和島藩士大和田水雲の長男として生また。幼少の頃から神童と称えられ、十四歳で藩公に召され四書を請進したと伝えられる。広島外国語学校で英語を学び、明治一二(一八七九)年に上京、東京大学古典講習科講師、明治一九(一八八六)年には東京高等師範学校(後の東京教育大学・現筑波大学)教授に就任するが、明治二四(一八九一)年退職、多彩な作家活動を始め、数々の国文学に関する著作の他、作歌・作詞・紀行文・謡曲の註釈・辞典編集等々幅広く手がけた。この間、明治女学校・青山女学院・跡見女学校・早稲田中学校などの講師を歴任している(以上はウィキの「大和田建樹」及び、たむたむ氏のHP内の「大和田建樹」のページを参照した)。

 底本は早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」の同図書館蔵の明治三〇(一八九七)年博文館刊行の「散文韻文 雪月花」のPDF版を視認して用いた。但し、句読点は底本では総てが句点であるため、適宜、読点への変更を施した。踊り字「〱」は正字化した。歴史的仮名遣の誤りはママであるが、草書の崩し字(「江(え)「於(お)」等)は再現していない。一部の語句について当該段落の後に改行して注を附した。ブログでは分割公開する。]

 

   汐なれごろも 明治二十七年八月

 

鎌倉の山鎌倉の海、吾一たび汝を知りしより、殆んど來り遊ばざる年とてはあらず。然れども夏日三旬の浮生を汝に寄せて、明暮相かたり相したしまんとするは、今年こそ始なれ。

同行は妻子に書生下婢を合せて六人、八月一日の五番汽車に運ばれて八幡前の停車塲に着きたるは、午後二時なり。是より更に人力車に乘りかへて、燒砂の道をうねりうねりゆくに、由井が濱の松風、はや我ために來り迎へて先導す。

遠くながめし長谷寺の山も來りぬ。車は門前にて楫棒をおろしぬ。黑くふすぶりたる表札に前田喜八と讀まれたるは、わが兼て約しおきたる假の宿の家主の名なり。樓上は八疊と四疊半、束京の家に比べては狹けれど、六人の膝を容るゝには餘あり。況んや欄干に凭れば、右には稻村が崎まぢかく立ち、左には三浦三崎の山々まで呼べば應ふるの絶景あるをや。況んや前は漁村を隔てゝ烟波萬里の海天を望み、後は晩鐘霞を破るの幽趣ある山寺を背おひたるをや。斜陽波を射て吟情まづ孤帆の邊に在り。

木魚の聲枕に落ちて眠はさめたり。蚊屋をくゞりて起きいづれば、日ははや靈山崎の松を半ば黄に染めたり。海老賣る男、松魚賣る男など、出で入るさわぎも靜まりて、朝飯やうや熟しぬ。一つの廣蓋を中央にして、肩をあはせ膝を交へつゝ箸を取る。小兒はめづらしとて喜び、下婢は世話なしとて打ち笑む。

[やぶちゃん注:「廣蓋」「ひろぶた」と読む。縁のある漆塗りの大きな盆。]

海は二町内外の距離にあり。浴客男女の別なく麥藁笠を深くかぶり、白き肌着を身にまとひて入るを常とす。われらも朝夕に此制服を着して、農家の庭を縫ひあるきつゝ近道づたひに徃來す。鳥追めきたる姿よと女を笑へば、さては床屋を其まゝかなと嘲り返さるゝも隔てぬ中なり。波も日毎になれなれて、朝には迎へて歌ふが如く、夕には送りて語るが如し。

[やぶちゃん注:本作の二十年後の大正三(一九一四)年に発表された夏目漱石の「こゝろ」の冒頭では、主人公の学生(当時は旧制高校生)の「私」が泊まっていた『宿は鎌倉でも邊鄙(へんぴ)な方角にあつた。玉突だのアイスクリームだのといふハイカラなものには長い畷(なはて)を一つ越さなければ手が屆かなかつた。車で行つても二十錢は取られた。けれども個人の別莊は其處此處にいくつでも建てられてゐた。それに海へは極近いので海水浴を遣るには至極便利な地位を占めてゐた』とある。以下に引用する部分からも、彼の宿は大和田が借りた長谷の別荘とは滑川を挟んで対称位置にある材木座海岸側の大町・材木座周辺と推定される。『私は毎日海へ這入りに出掛けた。古い燻(くす)ぶり返つた藁葺(わらふき)の間を通り拔けて磯へ下りると、此邊にそれ程の都會人種が住んでゐるかと思ふ程、避暑に來た男や女で砂の上が動いてゐた。ある時は海の中が錢湯の樣に黑い頭でごちやごちやしてゐる事もあつた。其中に知つた人を一人も有(も)たない私も、斯ういふ賑やかな景色の中に裹(つゝ)まれて、砂の上に寐そべつて見たり、膝頭を波に打たして其處いらを跳ね廻るのは愉快であつた』と述懐する中で、『私は實に先生を此雜沓の間(あひだ)に見付出したのである。其時海岸には掛茶屋(かけちやや)が二軒(のき)あつた。私は不圖(ふと)した機會(はづみ)から其一軒(けん)の方に行き慣れてゐた。長谷(はせ)邊(へん)に大きな別莊を構へてゐる人と違つて、各自(めいめい)に專有の着換塲(きがへば)を拵えてゐない此處いらの避暑客には、是非共斯うした共同着換所(きようどうきがへしよ)といつた風なものが必要なのであつた』と記し、大和田一家の借りた別荘の高級感がそれなりに知れよう。また続く第二回では、西洋人を連れた「先生」との、初めての邂逅シーンでは、『私は其二日前に由井(ゆゐ)が濱(はま)迄行つて、砂の上にしやがみながら、長い間西洋人の海へ入る樣子を眺めてゐた。私の尻を卸した所は少し小高い丘の上で、其すぐ傍(わき)がホテルの裏口になつてゐたので、私の凝としてゐる間(あひだ)に、大分多くの男が鹽(しほ)を浴びに出て來たが、いづれも胴と腕と股(もゝ)は出してゐなかつた。女は殊更肉を隱し勝であつた。大抵は頭に護謨製(ごむせい)の頭巾を被つて、海老茶や紺や藍の色を波間に浮かしてゐた。さういふ有樣を目撃した許(ばか)りの私の眼には、猿股一つで濟まして皆(みん)なの前に立つてゐる此西洋人が如何にも珍らしく見えた』と記す。この部分の「私」が観察しているのは、まさにこの部分で大和田が描写する長谷の坂下(さかのした)海岸なのである(「こゝろ」の引用は私の初出形注釈電子テクストより一部を改変して示した)。この「私」と「先生」の邂逅エピソードは作品内時間では、明治四一(一九〇八)年の七月下旬か八月、第一高等学校第二学年終了後の暑中休暇と私は推定している(その根拠や詳細は私のマニアックス」を参照されたい)が、私の推定が正しいとすれば、この大和田の記録とはもっと縮まって十四年前となる。――私はこの大和田の眺めた由比ヶ浜のその視野の端に――「私」と「先生」の姿を、確かに見るのである――。]

身を躍らせて折りかへる波を避くるもあれば、足を空にして碎くる波を蹴ゆくもあり。板を前にしておよぐ人、身をかゞめて貝ほる人、さては砂を塗られ永をかけられて爭ふ人など、磯に海に麥藁笠の數を集めて由井が濱こそ賑はしけれ。父は蟹を捕へて持ち來れば、小兒は砂地に池を作りて脇目もふらず。時々潮來りて築きし山を洗ひ去れば、小兒はあれよあれよと叫ぶ。

[やぶちゃん注:「避くるもあれば」の末尾は底本「あれは」。誤植と見て訂した。]

夕陽影を地に引きて、汐馴衣は窓毎に風に飜る。寢ころびて新聞の帶を解く頃、むかひの家にて唱歌の聞ゆるは、是も親子づれの旅人なるべし。新聞よみあきて窓によれば、大山參りの一群集は八幡前にや急ぐらん、岩本ゑびすやなどいふ赤き團扇をかざしつれつゝ、今ぞ觀音の石段を下り來る。

[やぶちゃん注:「新聞の帶」当時の新聞は郵便で配達されていたため帯封があった。

「岩本ゑびすや」ともに江の島の旅館名。]

明日は江の島につれゆかんといへば、小兒は喜びて早く目のさめざらん事を心配す。夜は明けたり、願ひし空は快晴を見せて、黄なる雲こそ棚引きたれ。運動がてら徒歩にて行かんと、極樂寺切通より七里が濱にかゝるに、雪と碎け霧と散る波、おなじ相模の海とはいへど、興更に深し。小兒は花よ紅葉よと名をつけて、貝を集め、女どもは波に追はれて砂路を遠く逃げくるふ。

見よあれに浮びたるが江の島よといへば、一しほの勇氣を鼓して、いつしか腰越にも着きぬ。片瀨は一昨年わが潮あびし處なれば、小兒なほ覺えゐて、こゝよかしこよと指さしかたるほどに、小さく見えたる島の鳥居は、目の前にせまりぬ。

岩屋におりんとする處に茶屋あり。人々腰うちかけてラムネを拔かせ、榮螺を燒かせなどす。われらも床几の一方に座を占めたり。見おろす方は岩屋の道にて、もぐりどもの身を逆さまにして飛びこむも、唯目の前なり。遠くは烏帽子岩を中にして、右の方には大磯より箱根のあたり、左には三崎の鼻より大島まで、霞みながらに指ざゝるゝこそ心ゆく限なれ。

長き日を此島に送りて歸らんとすれば、三日月高く岩根の松にかゝれり。七里が濱も見えずなりぬ。片瀨の山も黑くなりぬ。いづかたの里ぞ、海士が燒火の闇を焦がして見えたるも、面白き夜のさまなり。海は廣し空は暗し。波の音すごく響きて、七里が濱また晝に似ず、たゞ江の島の火影の長く跡にかへりみらるゝあるのみ。

朝よりもよほしつる雨は、嵐となりて降りあかし又吹きくらす。舟はのこらず引きあげられたり。漁村はいづくもとざゝれたり。また一人の磯邊に出づる旅客を見ず。日も暮れんとする頃、ながめしさまこそ物凄けれ。一度にくづるゝ氷の山は、萬雷の聲と爲つて天に震ひ、白煙たてゝ山を呑み巖を奪ひ、勝鬨あぐるも勇ましきに、數千の白蛇は頭をそろへて磯を圍み、去り又來る。見る見る三崎の山影は海底に葬られぬ。知らず靈山が崎も陷れらるゝこと今夜の中にやあらん。かへりみれば礫の如き雨に顏を打たれて、此晦冥の中に立つもの唯吾と踏みしめたる松が根とのみ、歌にもよまれず畫にもかゝれず。

[やぶちゃん注:暴風雨と荒れ狂う海の活写が独特の比喩によって印象的に示されてある。

「畫にもかゝれず」の「畫」の字は底本では下部(あしの部分)が(「田」+「一」)ではなく「回」である。]

かねて此旅寢のひまに訪はんと約しつる浦賀の妹をさして、鎌倉の停車塲を出でたるは十二日の朝なり。山の綠、水の藍、すゞしげに送り迎へて、逗子の停車塲も過ぎぬ。小兒の舟よ舟よと喜び叫ぶは、はや横須賀の來れるなり。こゝよりは皆々衣の裾ひきからげて、暑さも厭はで興じゆくを、車に居眠りして團扇おとすには優れりと慰めあふも、負惜みとや人は聞くらん。玉なす汗のたらたらと落ちくるも物かは、帆影おだやかに浮びたる東京灣の朝なぎこそ面白けれ。浦賀にも着きぬ。入海につどふ蒸氣の煙、汽笛の聲、更にものめづらしき女どもを喜ばせたり。小兒は頻りに父母の手を引きたてゝ、叔母樣の家は何くぞと急ぐ。我もまだ知らぬものをとて尋ぬるほどに、町盡きて千代崎の砲臺にかゝらんとする、少し前に見出だしたり。小兒は門より走り入れども、さすがに耻かしきにや物もいはず。先づ何よりの饗應は風と月なりと、主人の誇るも憎からぬ住居なり。余は猶つかれてもあらねば、主人と共に海邊など遊びめぐる。木の葉の如き漁舟の夕日を乘せて歸りくるも心地よげなるに、かなたには鋸山のまがはぬ影を煙の外に見つけたるは、盡せぬながめなり。夜に入れば東の窓に月を入れながら、盃をさしかはす。叔父樣いつまでもおはせ

よといふ兒もあれば、叔母樣を東京につれかへらんといふ兒もあり。

[やぶちゃん注:この次の段落もそうだが、小津安二郎の映画のワン・シーンででもあるかのような錯覚さえ覚える、何かしみじみとした日本の失われた情景のように私には思われるのである。

「千代崎の砲臺」千代ヶ崎砲台は燈明ヶ崎の灯明堂から海岸沿いに少し南に行った海に突き出た所にあった江戸幕府の江戸湾防備用旧西浦賀千代崎砲台をルーツとし、後にこの周辺が旧陸軍千代ヶ崎砲台となった。現在、自衛隊通信基地が隣接、遺跡の一部が同敷地内に含まれる。とのたま氏の「Digital Artworks TeeART Blog.」の「[戦跡]千代ヶ崎砲台跡周辺探索」ではスリリングに、その現状が分かる。必見である。]

 翌日は公園に登り、又主客うちつれて磯邊に貝拾ひに行く。袋を提げておくれたるは、岩にすべるなと注意せられ、草履を捨てゝさきだてるは、牡蠣を踏むなと戒めらる。紅葉の如き貝、櫻の如き貝、あるは薄紫の藤に似たるもあれば、眞白に雪をあざむくもありて、彼も捨てじ是も殘さじとするほどに、袋もハンケチも滿腹ならぬものなし。されど風こゝちよく汗を拂ひては波をさへ吹き散らすに、猶しばしは歸らんともせず、岩に砂に腰うちかけて沖ゆく汽船を數ふれば、三艘は影を絶やさぬやうなり。あれは神戸通ひならん、いや北海道ならんなど、理窟もなき品定めする傍には、たゞ一心に砂山つくる小兒もあり。大島は見えねど、洲の崎の鼻はあれなりと指し示さるゝステツキの先に眼を移せば、げにも薄墨もて書き流したる一の字の山は現れたり。またの朝名殘をのこして歸さに向ふに、送る人々は遠く追ひ來りて影見えぬまで街に立てり。叔父樣さらばとやいふらん、彼の小兒は母の肩にか一りて頻りに打ち招く。あはれ浦賀の海とこしへに靑く、房總の山ながく綠なり。來ん秋も又來ん春も我は訪ひこん。

[やぶちゃん注:「公園」現在の京急浦賀駅の西北三〇〇メートルほどのところにある浦賀公園か(神奈川県横須賀市浦上台)。標高四七メートル。

「洲の崎の鼻」房総半島の最西南端である千葉県館山市洲崎。試みに浦賀湾の入口の先の砲台下にある燈明ヶ崎から計測すると、洲崎までは海上を直線で二八・五キロメートル程ある。]

本日閉店

これより妻の美術館行きにつき添うによって本日暫く閉店と致す。

なお、今夕には新しい近代の鎌倉の紀行文の電子化に着手したいと考えている――

螢狩 萩原朔太郎 (草稿)

 螢狩

 

御前のくちびるから一疋

フウテン病院の窓から一疋

妹の額から一疋

おばあさんの死□墓場から一疋

室生→犀星エス樣の素足から一疋

夜の世界で一疋

ああそしてまあ御覽んごらんよ

2なんといふたくさんの螢だ

1なんといふ可愛い奴らだ

もうどこにも螢は一疋だつて居ない

今夜はよつぴとへ

御前にも

そしてまあ御きゝ

今夜はよつぴとへ

わたしのひとりのある不思議な仕事がある、

わたしと螢 蛍の情熱の瞳だけがそれを知つて居る、

そしてあしたのあさになると

創造

何人も知らない不思議な大仕組の祕密な仕事があるのだ、

御覽ん

もうこの世界に螢は居ないのか

 

[やぶちゃん注:底本『草稿詩篇「拾遺詩篇」』に所収する「螢狩」の草稿。「2」「1」は編集記号ではなく、朔太郎によるナンバリングである。取り消し線は抹消を示し、「→」の末梢部分は、ある語句の明らかな書き換えがともに末梢されたことを示す。「□」は判読不能字。ナンバリング行は私の趣味から言うと「2」だが、詩の繋がりから見ると断然、「1」であろう。試みに「1」を残して抹消部分を消去して示してみよう。

 

 螢狩

 

御前のくちびるから一疋

フウテン病院の窓から一疋

妹の額から一疋

おばあさんの墓場から一疋

エス樣の素足から一疋

夜の世界で一疋

ごらんよ

なんといふ可愛い奴らだ

もうどこにも一疋だつて居ない

そしてまあ御きゝ

今夜はよつぴとへ

わたしのひとりのある不思議な仕事がある、

何人も知らない大仕組の祕密な仕事があるのだ、

御覽ん

もうこの世界に螢は居ないのか

 

「よつぴとへ」は一晩中、夜どおしの意の「夜一夜(よっぴとい)」(「夜一夜(よひとよ)」の変化した語。「よっぴと」とも)の転訛。ここでは何より、決定稿のイエスが実は元室生犀星であったというのは、いろいろな意味で興味深いではないか。]

螢狩 萩原朔太郎

 螢狩

 

愛妹(いもうと)のえりくびから一疋、

瘋癲病院の窓から一疋、

血(けち)ゑんのつかあなから一疋、

いえすの素足から一疋、

魚の脊筋から一疋、

殺人者の心臟から一疋、

おれの磨いた手から一疋、

遠い夜の世界で螢を一疋。

 

[やぶちゃん注:底本第三巻「拾遺詩篇」より。『異端』第二巻第二号・大正四(一九一五)年一月号掲載。「いえす」の下線は底本では傍点「ヽ」。二行目「血ゑん」はママ。老婆心ながら「血緣(けちえん)の塚穴」である。]

夜會 大手拓次

 夜會

 

わたしの腹のなかでいま夜會がある。

壁にかかる黄色(きいろ)と樺(かば)とのカアテンをしぼつて、

そのなかをのぞいてみよう。

まづ第一におほきな眼をむきだして今宵(こよひ)の主人役(あるじやく)をつとめてゐるのは焦茶色(こげちやいろ)の年とつた蛇である。

そのわきに氣のきいた接待ぶりをしめしてゐるのは白毛の猿である、

(猿の眼からは火花のやうな眞赤な閃光(ひらめき)がちらちら走る)

それから、古(ふる)びた頭巾(づきん)をかぶつた片眼の法師、

秋のささやきのやうな聲をたてて泡をふく白い髯をはやした蟹、

半月の影をさびしくあびて、ひとりつぶやいてゐる金(きん)の眼(め)のふくろふ、

ゐざりながらだんだんこつちへやつてくるのは足をきられた鰐鮫(わにざめ)だ。

するとそよそよとさわだつて、くらいなかからせりあがるのはうす色の幽靈である、

幽靈はかろく會釋して裾をひくとあやしい樂のねがする。

かたりかたりといふ扉(とびら)のおと、

ちひさな蛙ははねこみ、

すばしつこい蜥蝪(とかげ)はちよろりとはひる。

またしても、ぼさぼさといふ音がして、

鼬(いたち)めが尻尾(しつぽ)でおとづれたのである。

やがて車(くるま)のかすれがきこえて、

しづかに降りたつてきたのは、あをじろい顏の少女(せうじよ)である、

この少女こそ今宵の正客である。

少女はくちをひらいて、おそなはつた詫(わび)をいふ。

その馬車の馬のいななきが霧(きり)をよんで、ますます夜はくらくなる。

さて何がはじまるのであらう。

 

[やぶちゃん注:「おそなはつた」は「遅なわった」で、「おそなはつ」はラ行五段活用「おそなはわる(おそなわる)」(古語「おそなはる」は四段)の、「遅くなる」の意の自動詞「遅なはる」の連用形である「おそなわり」の促音便である。]

鬼城句集 春之部 茅花

茅花   川霧に日の出て咲ける茅花かな

2013/05/07

萩原朔太郎 無題(夢みる/とほいとほい/とほくより/死病の月夜に/たまらなく生ぐさい/にほひ)

 

 

夢みる

くらげ

とほいとほい

とほくより

たまらなく生ぐさい

春の夜死病の月夜に

たまらなく生ぐさい

にほひ 

 

[やぶちゃん注:底本の第三巻『未發表詩篇』(三五五頁)に載るもの。無題。抹消部分を除去すると、 

 

夢みる

とほいとほい

とほくより

死病の月夜に

たまらなく生ぐさい

にほひ 

 

となる。

 なお、底本には『本稿は』の『「穴」と同一の用紙に書かれている。』という編者注がある。]

 

 

祈禱 萩原朔太郎

 祈禱

 

ぴんと光つた靑竹

そこいらいちめん

ずばすば生えたやぶの中

おれはぎりぎりはぎしりをした

おれはすつばたかでつつ立つて

おれはいのちかげ死にものくるひの懺悔キトーをするのだした

笹のすきまからみえる

まつかの太陽地面の下での下で上で

おれぎりぎり齒ぎしりをして祈つた、きちがひの狂氣の齒がみをした

みろすつぱだかで立つて居る

みろ笹のすきまから、

天がまつさほにぴるまのやうに光つてみえる

まひまつぴるまの天が光が光つてみえる、

おれは指をとがらして

眞額からすつぱりと

靑竹の□□幹を切りつけた、

 

[やぶちゃん注:底本の第三巻『草稿詩篇「未發表詩篇」』(四六二五頁)に載るもの。「祈禱」と題する草稿。取り消し線は抹消を示し、その抹消部の中でも先立って推敲抹消された部分は下線附き取り消し線で示した。「□□」は判読不能の抹消字を示す。抹消部分を除去すると、

 

 祈禱

 

ぴんと光つた靑竹

そこいらいちめん

ずばすば生えたやぶの中へ

おれはすつばたかでつつ立つて

死にものくるひのキトーをした

まつかの地面の上で

ぎりぎり狂氣の齒がみをした

みろ笹のすきまから、

まつぴるまの天が光が光つてみえる、

おれは指をとがらして

眞額からすつぱりと

靑竹の幹を切りつけた、

 

「ずばすば」「眞額」は底本編者は「ずばずば」「眞向」の誤字とするが、ママとした。なお、こうした除去詩形は底本では示されいない。]

(無題)・祈禱 萩原朔太郎 (未発表詩「祈禱」草稿二篇)

 

 

すつぱりすつきりとがつた光つて→直立して靑竹

 

ぴんと光つた靑竹

 

眼のそこいらいちめんそこでもこゝでも

 

ずばすば生えたヤブの中でも

 

おれはぐんぐんつきおれほぐんくつきやぶつてすゝんだ

 

ひつそりして立とまると

 

┃ぴいぴい鳥がないてゐる

 

いちめんにかさなつた笹の隙間から

 

┃いちにち鳥が鳴いて居る

 

笹葉の隙間から

 

天がまつさをに光つてみえた

 

 

[やぶちゃん注:底本の第三巻『草稿詩篇「未發表詩篇」』(四六三頁)に載るもの。無題であるが、底本では「祈禱」と題するものの草稿とする。取り消し線は抹消を示し、その抹消部の中でも先立って推敲抹消された部分は下線附き取り消し線で示した。「→」の末梢部分は、ある語句の明らかな書き換えがともに末梢されたことを示す。「┃」は実際には繋がっており、これは編者の附したもので、最終的には、

 

ぴいぴい鳥がないてゐる

 

かさなつた笹の隙間から

 

いちにち鳥が鳴いて居る

 

の三行が、詩句推敲に於ける候補として並列して残存しているということを指す。とりあえず、以上のテクストの抹消部分を除去して示す。 

 

ぴんと光つた靑竹

 

そこいらいちめん

 

ずばすば生えたヤブの中で

 

┃ぴいぴい鳥がないてゐる

 

┃かさなつた笹の隙間から

 

┃いちにち鳥が鳴いて居る

 

天がまつさをに光つてみえた 

 

「ずばすば」は底本編者は「ずばずば」の誤字とするが、ママとした。また、最後の四行もこうして見ると決して平行した重複の詩句のようには見えない。なお、こうした除去詩形は底本では示されいない。しかし、これでそれなりに完成された詩形として我々はこれを読むことが出来るように私には思われるのである。

 

 なお、この後に「祈禱」と題した以上をブラッシュ・アップしたと思われる別草稿も載る。以下に示す。誤字・歴史的仮名遣の誤りはママ。「■■」は判読不能字の抹消字。

 

  祈禱

ぴんと光つた靑竹

そこいいちめん

ずばすば生えたヤブの中

おれはぎりぎりはぎしりをした

おれはすつぱたかでつつ立つて

おれはいのちかげ死にものくるひの懺悔キトーをするのだした

笹のすきまからみえる

まつかの太陽地面の下での下で上で

おれぎりぎり齒ぎしりをして祈つた、きちがひの狂氣の齒がみをした

みろすつぱだかで立つて居る

みろ笹のすきまから、

天がまつさほにびるまのやうに光つてみえる

まひまつぴるまの天が光が光つてみえる、

おれは指をとがらして

真額からすつぱりと

靑竹の■■幹を切りつけた、

 

整序してみると、

 

  祈禱

ぴんと光つた靑竹

そこいいちめん

ずばすば生えたヤブの中へ

おれはすつぱたかでつつ立つて

死にものくるひのキトーをした

まつかの地面の上で

ぎりぎり狂氣の齒がみをした

みろ笹のすきまから、

まつぴるまの天が光が光つてみえる、

おれは指をとがらして

真額からすつぱりと

靑竹の幹を切りつけた、

 

となる。]

穴 萩原朔太郎 (「竹」詩想篇)

 

 

 

かたい地面を掘つくり返して

そつくりあんずのきを植えつけた

穴の中に風ありかぢこんでゐる

《に》の中に風あり

ぐんぐんつきや

おれはまつ四角さきにきりふみこんだぎりぎり齒ぎりしをした

おれのあたまの上にかさなつた天

ぐんぐんふみつける

あのおれは死を血みどれの死體からどこまでも逃げてゆくのだ生きて居るのだ

みろああみろ、おれはいのちがけのおれの懺悔をするのだ

おれは血を吐きくちびるから

くさつた地べたへ血を吐きつけて

力いつぱいにのびあがつたふみつけた

おれのそのとき肩の上から

ぴんと光つた靑竹が生えた

おれは人さし指をとがらして

眞額からすつぱりと

{するどい光線の反流を畫いた、}

{するどい光線の脈を畫いた、}

{するどい靑竹の脈をきりつけた、}

{靑竹の線脈をきりつけた、}

 

[やぶちゃん注:底本の第三巻『未發表詩篇』(三〇四~三〇五頁)に載るもの。〈「竹」詩想〉篇の一つ。取り消し線は抹消を示し、その抹消部の中でも先立って推敲抹消された部分は下線附き取り消し線で示した。{ }で示したものは、

 

「するどい」の下に「光線の」と「靑竹の脈をきりつけた」が、

 

「光線の」の下に「反流」と「脈」が、

 

更に、その

 

「するどい」以下の全体と「靑竹の線脈をきりつけた」が、

 

並置されて、いずれも残っているのを、私なりの方法で表現したものである(底本のような大丸括弧による行に渡る表示がブラウザでは面倒なためである)。以上の抹消部を除去し、明らかな意味の通じない誤植部分(「齒ぎりし」)を補正し、最終行の候補を「or」で並べると、

 

 

 

穴おれはぎりぎり齒ぎしりをした

おれのあたまの上にかさなつた天

ああみろ、おれはいのちがけの懺悔をするのだ

くさつた地べたへ血を吐きつけて

力いつぱいにふみつけた

そのとき肩の上から

ぴんと光つた靑竹が生えた

おれは人さし指をとがらして

眞額からすつぱりと

するどい光線の反流を畫いた、

or

するどい光線の脈を畫いた、

or

するどい靑竹の脈をきりつけた、

or

靑竹の線脈をきりつけた、 

 

となる。底本校訂本文は「眞額」を「眞向」とするが、採らない。なお、底本には『本篇は「未發表詩篇草稿」の「祈禱」と関係あり。』とある。次でそれを示す。]

(無題) 萩原朔太郎 (「竹」詩想篇)

 

 

私ガ疾患スルトキ

スベテ見エザルモノガ見エ

 

タトヘバ私ガ疾患スルトキ

竹ノ根ニハ毛ガムラガル見エザル毛ガ絹ノ如ク煙ノゴトクニ生エテ見エ

草ノ莖ニハサビシキ產毛ガ生エテ見エ

菊ハ蝕光シソノ指ニモ淫水ニシタシシノイタミヲシタヽラシ

龜ハ白金トナリ、天ニハアンチピリンの雪ガフル、

狼ハ硝酸銀松ニハ靑イ

倂シ、スベテコレラノ物ハ健康ニ有害デアリ、倂シスベテノコレラノモノハ光リ、酸蝕性金屬デアル光デアル

況ンヤソノ形狀ヲ見レバ多角形デアル、

私ノ佛ハ疾患佛、昆虫ノヤウナ靑イ血肉ト、銀齒金ノヤウアナセキズイ心棒ヲモチ給フ、ソノセキズイたるや眞に怖るべし。

ラジウムの如く肉身ヲ透シテ

 

 

[やぶちゃん注:底本の第三巻『未發表詩篇』(三〇三~三〇四頁)に載るもの。無題。編者注があり、『ノートより』とある。私の感じる〈「竹」詩想〉の一篇である。取り消し線は抹消を示す。仮名遣の誤りや平仮名部分はママ。「倂シ」は「しかし」と読む。抹消部分を除去すると、

 

 

私ガ疾患スルトキ

スベテ見エザルモノガ見エ

 

タトヘバ

竹ノ根ニハムラガル見エザル毛ガ煙ノゴトクニ生エテ見エ

草ノ莖ニハサビシキ產毛ガ生エテ見エ

菊ハ蝕光シソノ指ニモ淫水ノイタミヲシタヽラシ

龜ハ白金トナリ、天ニハアンチピリンの雪ガフル、

倂シ、スベテコレラノ物ハ健康ニ有害デアリ、倂シスベテノコレラノモノハ光リ、酸蝕性金屬光デアル

況ンヤソノ形狀ヲ見レバ多角形デアル、

私ノ佛ハ疾患佛、昆虫ノヤウナ靑イ血肉ト、金ノヤウアナセキズイ心棒ヲモチ給フ、ソノセキズイたるや眞に怖るべし。 

 

となる。底本の校訂本文では何故か「龜ハ白金トナリ、」の読点を除去している。次の一行の文中の読点を残しているにも拘わらず、である。私はどうもこの筑摩版全集の校訂基準の徹底のなさが頗る気に入らないのである。]

栂尾明恵上人伝記 23 生きとし生けるものあらゆる対象に仏性は「ある」

 建仁元年二月の比、如心偈(によしんげ)の釋(しやく)竝に唯心義二卷之を作る。

 

 紀州保田(ほだ)庄の中に、須佐(すさ)の明神の使者といふ者の、夢の中に來りて、住處の不淨を歎き、又一尊の法、傳受の志甚だ深きの由を述べらる。然りと雖も、無沙汰にて心中計(ばか)りに存ぜられて、日を送られける程に、或時人に託して此の趣を託宣あり。先の夢に異ならず。不思議に思ひ合せられけり。爰に、身に於て其の憚りあり。授法の器(うつは)に非ずと云ひて固く辭せられければ、泣く泣く餘りに歎き申されける間、阿彌陀の印・眞言計りを傳授す。歡喜悦豫して去りぬ。此の如く靈物歸依渇仰(れいぶつきえかつごう)して、値遇(ちぐう)の志を述ぶる輩其の數を知らず。又石垣の地頭職違亂の事出で來りしかば、保田(やすた)の星尾(ほしを)と云ふ處に移り任し給ひぬ。

[やぶちゃん注:私の所持する、久保田淳・山口明穂校注岩波文庫版「明恵上人集」では「紀州保田(やすだ)庄」とし、末尾にはルビを振らず、平泉洸全訳注「明惠上人伝記」の原文パートでもともに「やすた」とし、両書ともにこの「保田」を現在の和歌山県有田市にあった庄名と採っている。]

 

 建仁年中に春日大明神御降託あり。事多きに依りて別に之を註す。

 

 或る時云(のたま)はく、末世の衆生、佛法の本意を忘れて、只法師の貴きは光るなり、飛ぶなり、穀を斷つなり、衣を着ざるなり、又學生(がくしやう)なり、眞言師なりとのみ好みて、更に宗(むね)と貴むべき佛心を極め悟る事を辨ぜざるなり。上代大國(じやうだいたいごく)猶此の恨みあり。况んや末世邊州(へんしう)何ぞ始めて驚くべきや。

 

 上人常に語り給ひしは、「光る物貴くは、螢・玉蟲貴かるべき。飛ぶ物貴くは、鵄(とび)・烏貴かるべし。食はず衣ず貴くば、蛇の冬穴に籠り、をながむしのはだかに、腹ばふも貴かるべし。學生貴くば、頌詩(じゆし)を能く作り、文を多く暗誦したる白樂天・小野篁(をのゝたかむら)などをぞ貴むべき。されども詩賦の藝を以て閻老(えんろう)の棒を免るべからず。されば能き僧も徒ら事なり、更に貴むに足らず。只佛の出世の本意を知らることを勵むべし。文盲無智(もんまうむち)の姿なりとも、是をぞ梵天帝釋も拜し給ふべき。

 

 凡そ此の上人、蟻螻(ぎろう)・犬・烏・田夫・野人に至るまで、皆是れ佛性を備へて、甚深(じんじん)の法を行ずる者なり、賤しみ思ふべからずとて、犬の臥したる傍にても、馬牛の前を過ぎ給ふとても、さるべき人に向へるが如く、問訊(もんじん)し、腰を屈めなどしてぞ通り給ひける。物を荷(にな)ふ朷(あふこ)をらも是は人の肩に置く物なり、笠は首に被(かつ)く具なりとて越え給ふ事なし。墻壁(しやうびやく)を隔つといへども、人の臥したる方へ足を伸ぶることなし。貴賤違順(ゐじゆん)、敢えて差異なし。惡人猶隱れたる德あり、況んや一善の人に於いてをや。善を聞いては心を快くして、他の普く聞かざらん事を恨む。されば集會講法(しふくわいかうはう)の次(ついで)には語り弘め給ひけり。又三寶・堂塔伽藍に向ひ奉りての禮儀、三業淸淨(さんごふしやうじやう)なること云ふに及ばずして御坐(おはしま)しける。諸堂の前にて馬・輿に乘り給ふ事なし。賤しき路の畔の草堂に指入(さしい)るまでも、正しき生身(しやうしん)の如來の御前に臨み給ふ體(てい)も、かくぞあらんずるぞと見え給ひける。行路の間にも堂塔の古き跡、又正しき佛座の跡など、踏み給ふことなし。又袈裟懸けずして假借(かしろめ)にも聖教を手に取り給ふことなし。經・律・論・聖教(しやうげう)次第を正してぞ重ねおき給ひける。まして高き物の上ならで見給ふこと更になし。

北條九代記 尼御臺政子上洛 付 三位に叙す

 

      ○尼御臺政子上洛 付 三位に叙す

 

建保六年二月四日、尼御臺所政子御上洛あり。その次(ついで)に紀州熊野山抖藪(とそう)あるべしとて、相摸守時房を召連らる。同じき四月二十九日、南山巡禮の望を遂(とげ)て、京都に下向し給ふ。仙洞より勅ありて、尼御臺政子を從三位に叙せらるべき由、宣下せらる。上卿(しやうけい)は三條中納言なり。凡そ出家の人の叙位のことは弓削道鏡の外に其例なし。女の叙位は安德天皇の外祖母二位尼を初とす。その例に準據せらる。重ねて仙洞より尼御臺所に御對面あるべしと仰せ下さる。勅答申されけるやう、「關東邊鄙の老尼の身として、龍顏に咫尺(しせき)し奉らんは其益なきに似たり。憚り存ずる所なり。只、諸寺禮佛の志を遂げ奉る計(ばかり)なり」とてやがて鎌倉に歸り給ふ。

 

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻二十三の建保六(一二一八)年二月四日及び四月二十九日の条に基づく。筆者は「北條九代記」の各所で女性である政子が政務を牛耳ることに対し辛辣であるが、ここでも筆致にそうした臭いがする。

 

「抖藪」「抖擻」とも書く。梵語“dhūta”の訳で音字は「頭陀」。衣食住に対する欲望を払い除けて身心を清浄に保つこと、また、その修行を指す。

 

「相摸守時房」鎌倉幕府初代連署北条時房は時政の三男で、政子や義時の異母弟である。

 

「上卿」「じやうけい(じょうけい)」とも読む。朝廷の諸行事や会議などに於ける執行責任者として指名された公卿のこと。列席した公卿中の首席の者が選ばれた。

 

「三條中納言」藤原頼房(安元二(一一七六)年~建長五(一二五三)年)か? 参議藤原頼定の次男で、越後守在任中の建久六(一一九五)年には源頼朝の石清水八幡宮参拝や東大寺供養の供をしている。斎院長官や右近衛中将を歴任し、この建保六年に同じく従三位に敍せられていることからの推定であるが、彼が「三條中納言」と呼ばれいたかどうか不明。そう呼ばれていた人物では藤原長兼がいるが、彼は建暦元(一二一一)年に辞しており、また建保二(一二一四)年に出家していて、ここには相応しくない気がする。識者の御教授を乞う。

 

「咫尺」「咫」は中国の周の制度で八寸に、「尺」は十寸に当り、元来は距離が非常に近いことを言い、転じて、貴人の前近くに出て拝謁する意となった。

 

「吾妻鏡」を以上の二日分を本作のようにカップリングして示しておく。

 

○原文

(二月)四日丙午。快霽。尼御臺所御上洛。相州扈從。是爲熊野山御斗藪也。以此次。令伴故稻毛三郎重成入道孫女〔年十六。綾小路三品師季卿女。〕給。依可被嫁于土御門侍從通行朝臣也。〔同廿一日入洛給云々。〕

(四月)廿九日庚午。晴。申剋。尼御臺所御還向。南山御奉幣無爲。御在京之間有珍事等。去四日御幸于大秦殿。仍立御車於三條河原邊。令見物給。因茲。御幸之儀殊被刷之云々。同十四日可令敍從三位之由宣下。上卿三條中納言。〔參陣。〕即以淸範朝臣。被下件位記於三品御亭。此事儀定及細碎歟。出家人敍位事。道鏡之外無之。女敍位者。於准后者有此例。所謂。安徳天皇御外祖母也。亦知足院殿御母儀准后事。適出家以後也。仍以彼准據被敍之云々。同十五日自仙洞可有御對面之由雖被仰下。邊鄙老尼咫尺龍顏無其益。不可然之旨被申之。抛諸寺礼佛之志。即時下向給云々。

 

○やぶちゃんの書き下し文

(二月)四日丙午。快霽(くわいせい)。尼御臺所、御上洛。相州、扈從(こしよう)す。是れ、熊野山御斗藪(ごとさう)の爲なり。此の次でを以つて、故稻毛三郎重成入道が孫女〔年十六。綾小路三品師季卿女(むすめ)。〕を伴はしめ給ふ。土御門侍從通行朝臣に嫁せらるべきに依りてなり。〔同廿一日、入洛し給ふと云々。〕

(四月)廿九日庚午。晴る。申の剋、尼御臺所、御還向(ごげかう)。南山の御奉幣、無爲(ぶゐ)なり。御在京の間、珍事等、有り。去ぬる四日、大秦殿(うづまさどの)に御幸あり。仍つて御車を三條河原邊に立てて、見物せしめ給ふ。茲(これ)に因つて、御幸の儀、殊に之を刷(かいつくろ)はると云々。

同十四日、從三位に敍せしむべきの由、宣下。上卿(しやうけい)は三條中納言〔參陣。〕。即ち、淸範(きよのり)朝臣を以つて、件(くだん)の位記を三品の御亭へ下さる。此の事、儀定細碎(さいさい)に及ぶか。出家人の敍位の事、道鏡の外、之無し。女敍位(によじよゐ)は、准后(じゆんこう)に於いては、此の例有り。所謂、安德天皇の御外祖母なり。亦、知足院殿の御母儀准后の事は適(たまたま)出家以後なり。仍つて彼(か)の准據を以つて之を敍せらると云々。

同十五日、仙洞より御對面有るべきの由、仰せ下さると雖も、

「邊鄙の老尼、龍顏に咫尺は其の益(やく)無し。然るべからず。」

の旨、之を申され、諸寺礼佛の志を抛(なげう)ち、即時に下向し給ふと云々。

 

・「稻毛三郎重成」彼は政子の妹を妻としていたから、この孫娘は北条時政の外曾孫に当たる。

・「綾小路三品師季」原姓は源氏である。

・「土御門侍從通行朝臣」は土御門(源)通親五男。なお、「愚管抄」ではこの時、後鳥羽上皇の子を実朝の養子としようと画策した、と記す。

・「大秦殿」広隆寺の太秦殿。秦氏名残りの漢織女(あやはとりめ)・呉秦女(くれはとりめ)・太秦明神を祀る。

・「淸範朝臣」能筆で知られた高倉清範か。然るべき官位の人間ではないようにも思われるが、彼は後鳥羽院の母兼子の甥に当たる。

・「件の位記を三品の御亭へ下さる」従三位に敍す旨の書面を三位政子の宿所へ下賜なされた、の意。

・「此の事、儀定細碎に及ぶか」この敍位に就いてはその決定に至るまで相当にもめたものらしい、の意。

・「知足院殿の御母」関白藤原忠実の母藤原全子(ぜんし/またこ 康平三(一〇六〇)年~久安六(一一五〇)年)。彼女は天永三(一一一二)年に摂政の母として従三位、更に永久三(一一一五)年に従一位に叙され、久安六(一一五〇)年には准三宮となっている(ウィキ藤原子」に拠る)。]

逗子の海岸 田山花袋

逗子の海岸   田山花袋

 

[やぶちゃん注:大正七(一九一八)年博文館刊の田山花袋「一日の行楽」より。底本は国立国会図書館近代ジタルライブラリーの画像(コマ番号227)を視認してタイプした。親本は総ルビであるが、読みの振れそうなものと難読語のみのパラルビとした。踊り字「〱」は正字に直した。なお、親本には途中に「相模海岸」のキャプションを持つ当時の写真が挿入されてある。漁師の地引網風景のようである。]

 

   逗子の海岸

 

逗子の海岸は、江の島を前にして、富士山を見るに好(よ)いところである。この眺望は三浦半島の西海岸(せいかいがん)から何處でも見らるゝやうな眺めであるけれど、逗子葉山あたりが一番整つてゐて好い。それに逗子から葉山にかけての海岸は、半(なかば)は徙崖(しがい)で、松原にもちょっとしたのがある。生魚も多い。こゝは鎌倉見物の次手(ついで)に訪ねて來(くる)べきところであるが、大抵は江の島の方へ廻つて了ふので、此方(こつち)にやつて來る客は少ない。

 停車場(ていしやぢやう)から海岸までは、ちよつと十二三町ある。停車場の前は町を成してゐて、何でも大抵なものは間に合ふ。別莊があつたり、横須賀通ひの海軍の軍人が住んでゐたりするので、海水浴場と言ふよりも、何方(どちら)かと言へば、別莊地である。六代御前の悲劇のあとを語る御最期川(ごさいごがは)には、芦荻(ろてき)などが生えてゐる。養神亭のあるところまで行くには、路はかなりに折れ曲つて、川に添つたり橋を渡つたりしてゐる。たしか葉山、堀内の方まで通ふ乘合馬車がある筈である。養神亭へ行くには、海から深く入り込んでゐる汐入川(しほいりがは)の橋をわたらなければならない。この汐入川は泥川(どろがは)で、餘り綺麗でない。

 柳屋や日蔭茶屋のある方は、養神亭と反対の方で、汐入川に添つて、徙崖の裾のやうなところになつてゐる。そこはやゝ町らしい形を成してゐる。徙崖の上には松が潮風に鳴つてゐる。

 養神亭の海に面した廣間は中々好い。こゝから下駄を突かけて、芝生の庭の敷石づたひに海岸に出ると、此方(こちら)の鼻とは向ふの鼻とが相對して彎形(わんけい)をなした砂濱を抱(いだ)いてゐて、江の島の姿の浮んでゐるのが手に取るやうに見える。しかし、此處では波の高いのなどを見ることは出來ない。

 浪切不動は『不如歸』のために、今は浪子不動と言はれて、逗子の景物の一つになつてゐる。不動もさぞ驚いてゐることであらう。此地には德富蘇峯氏の別莊があるので、蘆花氏はよく此處にやつて來た。氏の『自然と人生』の中の此地に關する寫生は、頗ぶる眞に迫つた好いものがある。それから、國木田獨歩(くにきだどくほ)に取つても、この地は忘れることの出來ない土地であつた。かれは前の細君信子と蜜のやうな半年を此處に送つた。確か柳屋にゐた筈であつた。

 こゝから徙崖をめぐつて、葉山の方に行く。いくらかひろびろとする。それに松林が多い。御用邸のあるあたりは、流石にすぐれた風景である。

 湘南の海岸では、規模は小さいが、景色に變化があつて、鵠沼、茅ケ崎あたりよりも此方(こちら)の方が好い。鎌倉の海岸よりも或(あるひ)は此方が好いかも知れない。概して、小ぢんまりとしてゐる。料理店、旅館などにも、氣の利いたのが多い。

 朝も好い。夕べも好い。月の夜(よ)などは殊に好い。波の音(おと)に低く囁くやうなのも、戀を語るには最も適してゐる。

 こゝから金澤へ二里半ほど。

 

[やぶちゃん注:「徙崖」「杉田の梅花」にも出たが、後退する海食崖という意味で用いているように思われる。

「六代御前の悲劇のあとを語る御最期川」「六代御前」は平高清(承安三(一一七三)年~建久十(一一九九)年)。平重盛嫡男維盛の嫡男で平清盛曾孫。六代は幼名で平正盛から直系六代に当たることからの命名。「平家物語」の「六代斬られ」等、「平 六代」で記載されることが殆どである。寿永二(一一八三)年の都落ちの際、維盛は妻子を京に残した。平氏滅亡後、文治元(一一八五)年十二月、母とともに.嵯峨大覚寺の北の菖蒲谷に潜伏しているところを北条時政の探索方によって捕縛された。清盛直系であることから鎌倉に護送・斬首となるはずであったが、文覚上人の助命嘆願により処刑を免れて文覚預りとなった。文治五(一一八九)年に剃髪、妙覚と号し、建久五(一一九四)年には大江広元を通じて頼朝と謁見、二心無き旨を伝えた。その後は回国行脚に勤しんだが、頼朝の死後、庇護者文覚が建久十(一一九九)年に起こった三左衛門事件(反幕派の後鳥羽院院別当たる土御門通親暗殺の謀議疑惑)で隠岐に流罪となるや、六代も捕らえられて鎌倉へ移送、この田越川河畔で処刑された。享年二十七歳であった。没年は建久九(一一九八)年又は元久二(一二〇五)年とも言われ、斬首の場所も「平家」諸本で異なっている(以上は主にウィキの「平高清」を参照した)。彼及び御最期川(現在の田越川)については「新編鎌倉志卷之七」の「多古江河〔附御最後川〕」及び「六代御前塚」の条と私の注を参照されたい。

「養神亭」現在の逗子市新宿一丁目六-一五(現在の京浜急行新逗子駅から徒歩十分ほどの田越川に架かる河口近くの渚橋とその上流にある富士見橋の西岸一帯と推測される)にかつてあった旅館。徳富蘆花が「不如帰」を執筆した宿として知られた。逗子の保養地としての開発に熱心であった元海軍軍医大監で帝国生命取締役矢野義徹の出資で、明治二二(一八八九)年に内海用御召船蒼龍丸の司厨長であった丸富次郎が逗子初の近代旅館として創業したもの。昭和五九(一九八四)年に廃業し、建築物は現存しない。庭園だけで千坪余りあったといい、花袋がこの記事を記した前後には『高級旅館として名を馳せ、名刺あるいは紹介がなければ宿泊ができない存在となっていたという』とある(主にウィキの「養神亭」に拠った)。

「養神亭の海に面した廣間」先に参照したウィキの「養神亭」の沿革の中に、『富次郎は旅館創業以前から同地で茶店ないしは休憩所を営んでいたようで、それより海側にあった貸別荘を買い取り、廊下でつないで宿屋として営業を始めたのが前述の』一八八九年であろうとホテル養神亭社長であった吉田勝義は推測しており、この別荘は後に取り壊されたが、富次郎没後の明治四二(一九〇九)年十二月八日に、『その跡地に百畳敷の大広間宴会場が建設された』とあるのがこれであろう。

「汐入川」これは田越川が富士見橋の上流で大きく西に蛇行したところから西北に分岐し、現在逗子開成高校の北東部へと続く久木川があるが、この川のことをかく呼称しているように私には思われる。識者の御教授を乞う。

「柳屋」現在の逗子市桜山に現存する旅館。やはり蘆花所縁の宿とある。但し、ネット上の情報から見ると、行きたいのであれば早目に訪ねた方がよさそうだ。

「日蔭茶屋」江戸中期に料理茶屋として創業した日本料理屋。現在も手広く繁昌しているのは周知の通り。

「不動もさぞ驚いてゐることであらう」この叙述からは田山花袋が空前絶後の大ベストセラーであった「不如帰」を、実はそれほど評価していないようにも思われなくもない。また逆に彼が私の偏愛する「自然と人生」を高く評価しているのも合点出来るのである。

「浪切不動」「浪子不動」は正式には高養寺という。逗子市商工会公式サイトの「浪子不動と高養寺」には、

  《引用開始》

 今から600年以上も昔のこと、披露山あたりの山から毎晩ふしぎな光がさすようになり、それまでたくさんとれていた魚がとれなくなってしまいました。鎌倉の補陀落寺(ふだらくじ)の頼基法印(らいきほういん)というお坊さんが人々のなげきを聞き、そのあたりを調べると、岩のほらあなの中に石の不動尊を発見しました。村人が大切に祭ったところ、また魚がとれるようになったという話が残っています。

 この祠(ほこら)は、小坪の船を暴風雨から守ったところから「浪切不動」とか、後ろに滝があるので「白滝不動(しらたきふどう)」とか呼ばれ、漁村の信仰を集めるようになりました。そして徳富蘆花の小説「不如帰(ほととぎす)」がここを舞台にしていたので主人公の「浪子」にあやかり、今では「浪子不動」と呼ばれるようになりました。

 高養寺という名は、寺の建物を作るのを援助した政治家、高橋是清(たかはし これきよ)・犬養毅(いぬかい つよし)の名をとってつけられたものです。また、お堂のそばには重要文化財指定を受けている石造りの五輪塔がありましたが、現在は東昌寺(とうしょうじ)に移されています。

 昭和8年(1933)、お堂の前に海中に蘆花の兄、蘇峯の筆による「不如帰」の碑が建てられました。この碑に使われた石材は大崎の先にころがっていた鍋島石(なべしまいし)です。江戸城を築くために九州鍋島藩が伊豆から運んできた石垣用の石が、船の難破で大崎の海に落ちたと言い伝えられていたものです。

   《引用終了》

とある。従って、本作がものされた当時はまだ、例の海中の碑は建っていない。]

耳嚢 巻之七 始動 / 名人の藝其練氣別段の事

 耳 嚢 卷之七

 

 名人の藝其練氣別段の事

 

 小野流一刀の始祖にて神子上(みこがみ)典膳と云しは、御當家へ被召出(めしいだされ)、小野次郎右衞門と名乘る。其弟は小野典膳忠也(ただなり)と名乘り、諸國遍歷して、藝州廣嶋に沒す。依之(これによつて)藝州にては忠也(ちゆうや)流といひて、右忠也の弟子多(おほく)、國主も尊崇して今に其祭祀を絶(たえ)ず。十人衆とて、忠也を修行する者右の祭祀の事抔取扱ふ者、右十人の内に間宮五郎兵衞といえるは、別(べつし)て其藝に長じ、同輩家中えも師範なして、其比(そのころ)の國守但馬守も武劔(ぶけん)を學(まなび)給ふ。然るに五郎兵衞不幸にして中年に卒去せしが、悴市左衞門十六歳にて跡式相續致(いたし)ける處、則(すなはち)但馬守は五郎兵衞免許の弟子故、悴市左衞門えも傳達の趣(おもむき)段々傳授のうへ、其業ばつぐん故免狀も被渡(わたされ)んと有(あり)し時、市左衞門退(の)ひて其斷(そのことわり)を述(のべ)ければ、如何(いかが)の存寄成(ぞんじよりな)る哉(や)と尋有(たづねあり)しに、一躰(いつたい)親の義にて候え共、流義の心得をば五郎兵衞甚(はなはだ)未熟に致(いたし)、逸々(いちいち)其修行違(たが)ひ申(まうし)候。依之右の誘引故、國中の一刀流いづれも下手(へた)にて候へば、五郎兵衞師範の御家中何れも未練の稽古に御座候と申ければ、但馬守以の外憤り、汝が父の教方不宜(おしへかたよろしからず)と申(まうす)も緩怠(くわんたい)なり、殊に其方へは予致し太刀筋也、夫(それ)を不宜(よろしからず)と申(まうす)は主人え對し若(もしくは)父を嘲(あざけ)るに相當り、旁(かたがた)不屆也、子細有哉(あるや)と尋られければ、武藝の儀惡敷(あしき)とぞんずるを、若(もし)父のなし給ふ事とて不申(まうさざる)、不忠也(なり)、某(それがし)あしきと存候(ぞんじさふらふ)所、御疑ひも候はゞ同衆の手前にて御立合せらるべしと答ふ。但馬守、彌(いよいよ)奮怒の餘り、小悴迚無用捨(とてようしやなく)、立合申(たちあひまうす)べしとて、彼(かの)十人の内に勝れたる同流のもの撰(えらみ)、勝負被申付(まうしつけられ)しに、右十人は不及(およばず)とて、一家中心得有る者ども立合けるが、獨りも市右衞門に勝(かつ)ものなし。但馬守も自身立合被申(まうされ)しに是(これ)又負(まけ)られければ、但州甚(はなはだ)賞翫して、親を誹(そし)り候所は當座の咎め申付(まうしつけ)、忠也流の稽古、萬事市左衞門に差圖可致(いたすべき)と被申付、殊の外家中に名譽の者出來(いでく)と也。可惜(をしむべし)、市左衞門三十歳に不成(ならず)して卒去して、當時其子(そのこ)跡相續なしけると也。但馬守殊の外惜しと也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:「卷之六」掉尾との連関性はない。本格武辺物で巻頭を飾るには相応しい。

・「小野次郎右衞門」小野忠明(永禄一二(一五六九)年又は永禄八(一五六五)年~寛永五(一六二八)年)のこと。将軍家指南役。安房国生。仕えていた里見家から出奔して剣術修行の諸国行脚途中、伊藤一刀斎に出会い弟子入り、後に兄弟子善鬼を打ち破って一刀斎から一刀流の継承者と認められたとされる。以下、ウィキの「小野忠明」によれば、二文禄二(一五九三)年に徳川家に仕官、徳川秀忠付となり、柳生新陰流と並ぶ将軍家剣術指南役となったが、この時、それまでの神子上典膳吉明という名を小野次郎右衛門に改名した。慶長五(一六〇〇)年の関ヶ原の戦いでは秀忠の上田城攻めで活躍、「上田の七本槍」と称せられたが、忠明は『生来高慢不遜であったといわれ、同僚との諍いが常に絶えず、一説では、手合わせを求められた大藩の家臣の両腕を木刀で回復不能にまで打ち砕いたと言われ、遂に秀忠の怒りを買って大坂の陣の後、閉門処分に処せられた』とある。「耳嚢」では「卷之一」の冒頭から三番目に配された、「小野次郎右衞門出世の事 附伊藤一刀齋の事」のことに既出する。ここで彼に纏わる剣豪譚をここに記したことに私は、改めて「耳嚢」の初心に帰ろうとする根岸の心意気を感じるものである。

・「小野典膳忠也」前の小野忠明の弟小野忠也。一刀流流派小野派忠也流(おのはちゅうやりゅう)開祖。

・「間宮五郎兵衞」間宮久也(ひさなり ?~延宝六(一六七八)年)。幕臣間宮庄五郎次男で、一刀流の伊藤忠也に学び、間宮一刀流を立てた。安芸広島藩剣術師範となり、晩年には高津市左衛門と改名している(以上は講談社「日本人名大辞典」に拠った)。

・「其比の國守但馬守」安芸国広島藩浅野家初代藩主浅野長晟(ながあきら 天正一四(一五八六)年~寛永九(一六三二)年)。浅野長政次男。叔母寧子(北政所)が豊臣秀吉の正妻であった縁で早くから秀吉の近侍となり、秀吉没後は徳川家康に従って京にいた寧子の守護を命じられ、備中国蘆森(現在の岡山市足守)で二万余石を与えられた。慶長一八(一六一三)年に兄幸長が嗣子なく没したことから和歌山城に入り、紀伊国三十七万余石を領した。大坂冬・夏の陣では大功を立てる一方、この間に大坂城と通じた国内の熊野・新宮などの一揆をも平定している。元和二(一六一六)年には家康の三女振姫を妻に迎えて同五年に改易となった福島正則の跡、安芸・備後に四十二万余石を領することとなって広島城に移った。ここでも地域の慣行を重んじて諸制度を整え、藩政を確立した(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

・「武劔」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『舞剣』。

・「ばつぐん」底本では左に『(拔群)』と傍注する。

・「逸々(いちいち)」は底本のルビ。

・「其修行違(たが)ひ申(まうし)候」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『其条行違(ゆきちが)ひ申(もうし)候』。前者の方が決定的で強烈な感じのする謂いである。

・「右の誘引」岩波版で長谷川氏は『五郎兵衛の指導』と注されておられる。

・「緩怠」①いいかげんに考えてなまけること。②失敗すること。過失。手落ち。③無礼・無作法なこと。ここでは無論、③の意。

・「夫を不宜と申は主人え對し若(もしくは)父を嘲るに相當り」「若(もしくは)」は底本のルビ。ここ、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『夫を不宜と申は主人え對し候て主人をそしるに相当り』である。後者の方が屋上屋でなく自然である。ただ、怒った但馬守の謂いとしては、前者の方がリアルな気もしないではない。順列を恣意的に変更して、混淆して訳してみた。

・「旁(かたがた)」は底本のルビ。

・「御疑ひも侯はゞ」底本は「御競ひも侯はゞ」であるが、意味が通じない。ここ部分のみ、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版を採った。

・「右十人は不及とて」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『右十人は不及申(もうすにおよばず)』。現代語訳はバークレー校版に従った。

・「但馬守殊の外惜しと也」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『但馬守殊之外愎しみ被申しとや』とあり、長谷川氏は「愎」の右に補正注『〔惜〕』を配しておられる。現代語訳はバークレー校版に従った。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 名人の芸というものはその修練に対する気合覚悟が如何にも格別である事

 

 小野一刀流の始祖にして神子上典膳(みこがみてんぜん)と申すは、御当家徳川家に召し出だされ、小野次郎右衛門と名乗られた。

 その弟は小野典膳忠也(ただなり)と名乗り、武者修行に諸国遍歴を致し、安芸国は広島にて亡くなられた。

 これによって安芸国にては忠也流(ちゆうやりゅう)と称し、かの忠也殿(ただなり)の御弟子が殊の外多く、代々の国主も尊崇して、剣術家にあっては、今に忠也(ただなり)殿を奉って礼を尽くす祭祀(さいし)の習慣が、これ、絶えずある。

 十人衆と申し――これは忠也流を修行する達者で、その宗主の日々の大切なる祭祀のことなどにも従事致す者で御座る――その十人の内でも間宮五郎兵衛と申す者は、別(べっ)してその技に長じて御座ったゆえ、同輩の家中の者どもへも剣術の師範を成し、その頃の国守であられた但馬守浅野長晟(ながあきら)公も、剣術をこの間宮五郎兵衛に学ばれた。

 然るに五郎兵衛殿は不幸にして中年にて早々に卒去せられた。

 されば、子息市左衛門が十六歳にて跡式を相続致いたが、長晟公におかせられては、御自身も五郎兵衛免許の御弟子であられたゆえ、この市左衛門へ、その技の仔細をお教えになられ、だんだんに奥義も伝授なされた上、その手技も抜群で御座ったればこそ、市左衛門を親しくお召しになられ、間宮五郎兵衛直伝の忠也流の正統なる免状をも渡さんとなされた。

 すると、市左衛門は身を引き、それを固辞致す旨、申し上げた。

 されば、不審なる長晟(ながあきら)公の、

「――一体、如何なる所存にて、かく辞退致すものか?」

とのお訊ねに対し、市左衛門は、

「……一体、親の義にては御座いまするが――忠也流流義の心得をば、かの父五郎兵衛は、これ、甚だ未熟なままに誤って受け継ぎ――その具体な手技(しゅぎ)から修業入魂の仕儀に至るまで――これ――悉く誤って御座る。――かくなる五郎兵衛の指南を受けて御座ればこそ――御家中の一刀流の達者と呼ばるる御仁は、これ、孰れも『下手(へた)』にて御座れば――五郎兵衛を師範と致いて参った御家中と申す者は、これ、孰れも、はなはだ未熟未練の者にて御座る。……」

と答えたから堪らない。

 但馬守様は、これ、以ての外に憤られ、

「……な、汝が父の教え方が宜しからずと申すも……こ、これ、ぶ、無礼千万じゃ!……こ、ことに、その方へは、この予が、直々に教えた太刀筋であるぞッ!……そ、それを宜しからずと申すは……こ、これ、父に対して嘲(あざけ)る……いや!……これは!……その、なんじゃ?!……この我ら……し、主君を謗(そし)っておるのと、ま、全く以って同じことではないかッ! こ、悉く不届き者じゃッ!! 弁解の余地もあるまいがッ!?!」

と劇しく糺された。

 すると、市左衛門、これ、平然と、

「――武芸の儀は全く『悪(あ)し』と存ずるものあるに、これもし、我が父のなし給うたことなればとて、それを口に申さざるということあらば――これ――不忠で御座る。……某(それがし)が『悪(あ)しきもの』と存じまするところにつき、お疑いの儀、これ、御座いまするとならば、御家中御一同の御面前にて御立合(おんたちあい)の儀、ご命じ下されい。――」

と答えた。

 されば但馬守様、怒髪天を衝き、

「あ、青侍の、こ、小悴(こせがれ)とて、よ、容赦致さず、立ち合い申せえッ!!」

と、その場にて即座に、かの忠也十人衆直系のうちでも、特に技量の勝れたる同流の手練れを選び、急遽召し出だいて御前試合を申し付けられた。

 ところが……

……その十人は言うに及ばず

……御家中にても他流の心得ある者どもまで、悉く立ち合い致いたのだが

……誰一人として

……市右衛門に勝てる者は、これ、御座らなんだ。……

 遂には、立ち合いの相手が誰もおらずなったによって、但馬守様御自身も、立ち合いなされた。

……が

……これもまた

……お負けになられた。……

 されば、但馬守様、一転、はなはだ賞美なされ、

「……親を誹(そし)ったるは、これ、当座の咎めを申し付けおく。……が――忠也流の稽古は向後、万事、市左衛門に指南さするように!」

と申し付けられ、

「――いや! 殊の外、家中に名誉の者が出来(しゅったい)致いたわい!」

とご満悦であられたと申す。

 惜しいかな、この市左衛門殿は三十歳にならずして卒去なされ、その時はまた、その子息が名跡(みょうせき)を相続致いたと聞いて御座る。

 但馬守様は、この市左衛門殿の夭折を、殊の外、惜しまれた、とのことで御座る。

大手拓次氏著「藍色の蟇」 萩原朔太郎

 大手拓次氏著「藍色の蟇」

 

「藍色の蟇」の詩は、全くその作者大手君の特異な性格と、特異な生活とから生れたものであり、その人とその生活を考へないでは、十分に理解ができないやうなものである。

私がその詩集の跋文に書いた通り、この異常な詩人の生涯といふものは、日本人の常識ではちよつと想像できないほど變つたものである。但し表面上の生活としては、彼は十年一日の如くライオン齒磨の本社に出勤し、模範店員としての一生を終つた一サラリイマンにすぎない。

 この點から見れば、彼ほど平凡無爲な生活をした詩人は他にないだらう。しかしその内面生活を探る時に、これほどまた異常なロマンチツクな一生を終つた詩人は、かつて日本に類例がないほどである。

 最近四十八歳で死んだこの詩人は、その五十に近い晩年まで、生涯を通じてプラトニツクな聖母戀愛をし、對手にさへ祕密にして、苦しい片戀を思ひ續けて居たのである。明けて暮れても、日夜に彼はその戀人の姿を夢に描き、イメーヂの中で接吻したり、抱擁したり、泣いたり、悲しんだり、悶えたりして居たのである。

 特に死前四年間の日記は、毎日毎頁、其止みやらぬ悶々の情を繰返し、綿々盡きるなきの恨みを敍べて居たといふに至つては、全く日本人の常軌を逸した西洋人的情熱家であり、カトリツク教的ロマンチストと言はねばならない。(彼は實際にも、生涯を童貞不犯の獨身で終つた。)

 彼の異常な詩篇は、すべてかうした生活から生れた情怨の蒼白い火焰であつて、病理學的に觀察しても、ずゐぶん不思議な研究興味になると思ふ。とにかく「藍色の蟇」は、その點の特異性に於て、日本文學史中に無類である。

 

[やぶちゃん注:昭和一二(一九三七)年四月五日附『東京朝日新聞』に掲載された。大手拓次の詩集「藍色の蟇」(北原白秋の序と萩原朔太郎の跋の他、編者にして装幀者である版画家で大手拓次の友人であった逸見享の「編者の言葉」や死顔のグラビアを附す)は、アルスより昭和一一(一九三六)年十二月三十日に発行されている。しかし――あの――萩原朔太郎に「病理學的に觀察しても、ずゐぶん不思議な研究興味になると思ふ」なんどとは言われたくないね……。]

鬼城句集 春之部 忘勿草

忘勿草  小さう咲いて忘勿草や妹が許

足をみがく男 大手拓次

 足をみがく男

 

わたしは足をみがく男である。

誰のともしれない、しろいやはらかな足をみがいてゐる。

そのなめらかな甲(かふ)の手(て)ざはりは、

牡丹の花のやうにふつくりとしてゐる。

わたしのみがく桃色のうつくしい足のゆびは、

息(いき)のあるやうにうごいて、

わたしのふるへる手(て)は涙をながしてゐる。

もう二度とかへらないわたしの思ひは、

ひばりのごとく、自由に自由にうたつてゐる。

わたしの生の祈りのともしびとなつてもえる見知らぬ足、

さわやかな風のなかに、いつまでもそのままにうごいてをれ。

2013/05/06

中島敦漢詩全集 八

  八

平生懶拙瞻星悦

半夜仰霄忘俗説

銀漢斜奔白渺茫

天狼欲沍稀明滅

 

○やぶちゃんの訓読

 

平生 懶拙(らんせつ) 星を瞻(み)ては悦ぶ

半夜 霄(おほぞら)を仰ぎて 俗説を忘る

銀漢 斜めに奔(はし)り 白(むな)しく 渺茫(べうばう)

天狼 沍(こほ)らんと欲して 明滅 稀(まれ)なり

 

〇T.S.君原案(一部は藪野補筆)の中国語を踏まえた語釈

・「平生」終生という意味と、平素という意味がある。ここでは素直に平素と取る。ただし、中島敦と星との関係には何か宿命的なものがあるため、「人生を通して、ずっと」という感覚を加味しても許されるだろう。

・「懶拙」怠惰でありかつ魯鈍なこと。往々にして、富や名誉に恬淡として大らかで悠々として迫らない態度を指す。

・「」前方もしくは上方を眺めること。

・「」愉快であること。

・「半夜」夜半、深夜零時頃。

・「」雲、若しくは天空。ここは天空を指すのであろう。

・「俗説」巷の俗説や俗諺。詩意から判断して「世間諸々の俗なこと全て」という語気である。

・「銀漢」銀河、天の川の書面語(中国語に於ける文章語。本邦でいえば文語、若しくは文語的表現というものに近い)。冬の夜空に天狼が南中するその時、銀河は南南東の地平から立ち上がり、仰角約四十五度に煌く天狼と天頂の間を抜け、北北西の地平に注ぎ込んでいる。

・「」走ること、若しくは一気に向かうこと。詩では「銀河が斜めに走る」、すなわち「銀河が天空を大胆にも斜めに横切っている」のを表現したものであろう。

・「白」白色のという意味と、明るい、清純な、夾雑物のない、相当する対価のない等、そこから派生した複数の意味を持つ。この詩では、少なくとも銀河が白くぼんやりとした光を放っている様子を指してはいる。但し、憧れだけで満たされたミルクのような白ではない。どこかで虚無に通じるイメージである。そこにこそ、「むなしく」と訓じた意味がある。

・「渺茫」曖昧模糊としていること。従って、ここでは銀河が白くぼんやりと伸び、広がっている様子を表現している。

・「天狼」シリウス。

・「」ここでは、もう少しでそのような状態になる、との意。

・「」塞がること、若しくは凍結すること。ここでは後者。

・「稀」文字通り、まれであること。なお中国語では、古今を通じて原則として空間的に離れていることを指す。もし中国語だけで理解するなら、この一字で時間的に離れていることや頻度が低いことをあらわすのは、やや無理がある。しかしここで詩人は明らかに明滅の頻度の低さをうたっている。そしてさらに言えば、天狼が凍り付いて瞬きが停止していることこそ、この詩の眼目なのである。

・「明滅」明るくなったり暗くなったりすること。

 

T.S.君による現代日本語訳

 

塵埃に塗れた俗世間から逃れ……深夜、

星に心を慰め独り現実を去る……銀河、

白く滲む帯が天空を斜断する……天狼!

 …

沈黙の宇宙に

汝の燦めきが

凝結していく

 …

ああ、何という輝度

また、何という硬度

 …

汝と私以外の

あらゆる物が

徐々に消え失せていく

 さあ!

ジリジリと燃えさかる

汝の、その蒼白い光よ

私を照射せよ!

私の胸を貫け!

 

〇T.S.君とやぶちゃんの協働取組みによる評釈

 初見、私はまず躓いてしまった。「俗説」……。何という無神経な言葉遣いだろう。俗世間から顔を背けることを述べるにしても、もっと典雅な用語を使えば良いものを……。つまり、私はまず詩世界の門にはじき返されたのだ。いや、正確には、自分から入るのを拒否してしまったのだ。そしてそのまま転結句の上っ面を撫でた私の中では、銀河と天狼が全く共鳴しなかった。というより、天狼に集中しようとすると銀河が邪魔になった。なぜこんなところに銀河を持ち出したのか。銀河に何の意味があるのか。そこから詩に一歩も近づいて行くことができなくなった。数日間の呻吟が始まった。

 この詩の眼目が結句にあることはすぐに分かった。まるで心臓が、左の心房と心室、右の心房と心室の四つの部分で機能を果たしているように、「欲」「」と「稀」「明滅」が連携して詩を生かしていることに気づくのも、時間は掛らなかった。しかし天狼は、銀河とはなかなか同居しなかった。ましてや起承句と転結句の間には、不協和音という逆説的なハーモニーすら聞き取ることができなかった。

 

 そして数日後のことである。ふと気づいたのだ。この詩を書いた彼と、私自身の一種の相似を!

 私は悩んでいた。そして粗暴で投げ遣りな自分の感情に、自分自身で傷ついていた。そんな状態に私を引き込むもの、それは心の中に蟠る様々な俗世間の悩みだった……。

――そうだ!

これこそ「俗説」ではないのか!?

『もっと典雅な用語を使えば良い』などと私もよく考えたものだ!

『無神経な言葉遣い』だって?

私の心こそ無神経にささくれ立っていたではないか!――

 私は、足元の、生々しく活きた自分自身の憤懣によって、その時初めて、詩人の息が聞える距離にまで一気に近づくことができたのだ。

 

 恐らく彼が抱えていたのは、高尚な形而上の美しい悩みなどではなかった。もっと卑近な、くだらない、日常生活の断片から生起するところの、汚濁に塗れた、腐臭を発する、低次元の苦悶から発する呻きだったに違いない。だからこその、「俗説」なのだ。

 

 そして「平生懶拙」という言葉。この、何の力も入らず、拘りない言葉に対して抱えていた違和感も、そのときふっと消えた。質(たち)の悪い現実の矛先をかわすには、鋭い刃も柔らかく受け止めることができ、決して切り込まれないような、この太平然とした呑気な物言いこそが相応しいのだ。

 

 天狼との共鳴を感ずることができずに悩んでいた転句の銀河の描写。

 これについても、天狼に視線を集中した際の効果を強めるものとして、決して欠かせないということに気づいた。結句で天狼の輝きに最大の輝度と硬度を持たせるためには、まず、全天を斜めに横断するような銀河をさえ収容してしまえる、広大で底無しの宇宙と、虚無の影を宿した、闇に柔らかく白く滲む天の川が必要であったのだ。

 誰もが幼い頃に試したことがあろう、虫眼鏡で太陽光線を一点に集めて何かに火を附けた、あの時のことを想像してもらいたい。まず、対象物と太陽の間に虫眼鏡を差し出す。始めは焦点がまるで合っていない。しかし虫眼鏡と対象物との距離を調整する。すると、虫眼鏡を通過する太陽光の丸い円が、対象物を中心としてその半径を縮めてくる。

 面積の縮小に反比例して劇的に強まる円内の輝度と熱量!

 この詩における天と銀河は、そんな働きをしている。そうであればこその、贅沢に全天をキャンバスにした天の川なのである。

 

 しかも、この詩の眼目は、そこにある天狼が凍りつき、瞬きを殆ど停止することにある。

 ジリジリと焼ける天狼は、このとき詩人の心の中で、輝度が最大になる。蒼白い光に目が眩むほどに。

 では、なぜ瞬きは止まらなければならなかったのか?

 それは、詩人が全力で、全存在をかけて、星と対峙したからである。瞬くなどという悠長な姿では、詩人の集中力、そして激情と均衡することは、決してできないからである。

 詩人は、かの凝結した、凄絶といっても良いような輝きに、彼の全存在を照射させたのだ。生きていることを、強力に、かつ劇的に燃焼させたのだ。

 このとき、当然ながら詩人の視界には、最早、俗世間はもとより――天空も、銀河も――ない。

 あるのは――天狼からの強烈な光の放射と――それに真正面から対峙する、自分の生命ばかり――であったはずだ。

 

 私は、まだ悩んでいた。私の筆力では結句の灼(や)け付くような詩人と天狼の一騎打ちを表現しきれない……。

 そこで、結句に詩の心臓があることに気づいたときから私の中に始終鳴り響いている、ある音楽をここで提示し、その詩境を私なりに再現してみることにした。

 

 武満徹の、ピアノとオーケストラのための音楽「Riverrun(*)である。この曲に初めて接した十八年前の私は、タイトルを知らなかった。そして恥ずかしいことに、川の流れをイメージしなかった。ただ、底無しの宇宙、そして生きていることの不思議を感じた。そして、全曲十二三分のこの曲の、冒頭から四、五分程度のところに現れる全楽器の強奏部分に、宇宙を司る力の集中と解放を感じた。

(*)[やぶちゃん補注:一九八四年作。「リヴァラン」と読む。意味は「リバー・ラン」で「川の流れ」の意であろう。因みに関係があるかどうかは不学にして不明であるが、ジェイムズ・ジョイス最後の小説「フィネガンズ・ウェイク」(Finnegans Wake)の冒頭はまさにこの綴りの単語で始まる。これについてウィキの「フィネガンズ・ウェイク」には、『小説の冒頭は riverrun, と小文字ではじめられるが、これは第4巻最終章「アナ・リヴィア・プルーラベル」と対応している。「アナ・リヴィア・プルーラベル」は、意識の流れの手法によりアナの独白によって構成される章である。夫や家族についてのアナ・リヴィアの呟きは、そのままにダブリンを貫流して大西洋へ滔々と流れ行くリフィー川の呟きとなり、やがて短い切れ切れの緊張した語の断片の配列となって、人類の覚醒を予感させる昂揚した ALP の意識の高まりのうちに『フィネガンズ・ウェイク』は終わるが、その最後にはピリオドを伴わずに定冠詞 the がおかれ、この定冠詞が第1巻冒頭の語 riverrun にそのまま続いており、作品全体が人類の意識の流れの終わりなき円環をなすことが示される』とある(「ALP」は登場人物の女性アナ・リヴィア・プルーラベル。小説ではこの略号で示される)。参考までに引いておく。なお、リンク先は YouTube MrBWV1080 氏提供になる小川典子ピアノ J.Mena 指揮BBCフィルによるものを私が附した。]

 そもそも宇宙の不可思議な深さを感じさせる曲想自体が、中島敦が見た星空そのもののようだ。そして、まさに四、五分程度のところの強奏部分こそ、天狼が『沍(こほ)らんと欲して 明滅 稀(まれ)』となった姿そのものに聞えないだろうか?!

 私にこの詩を紹介する映像を撮影する機会が与えられたなら、バックに必ずやこの音楽を用いるであろう。

 戦前に生き、漢学に培われたある詩人の抱えた星空と、現代日本を代表する作曲家の持っていた宇宙は、実はその性質において極めて近いものであったと、私は今思うのである。

 

 蛇足となるが、私は二十七年前の夏、旅行で訪れた山西省大同郊外で、夜汽車の窓から、生れて初めて星粒ひとつひとつに遠近感を感じるような満天の星空を目にして衝撃を覚えた。それ以来、ただの一度も、本物の星空に接していない。私たちは、本物の夜空を、実は自分たちの手で、抹殺してしまったのである……

杉田の梅花 田山花袋

[やぶちゃん注:大正七(一九一八)年博文館刊の田山花袋「一日の行楽」より。底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの画像(コマ番号233)を視認してタイプした。親本は総ルビであるが、読みの振れそうなものと難読語のみのパラルビとした。踊り字「〱」は正字に直した。] 

 

     杉 田 の 梅 花

 

 東京の近郊に、梅の名所は澤山ある。近くでは、蒲田(かばた)、池上、久地(くぢ)、向島、遠くては、吉野、起生(おごせ)その他(た)にも澤山にあるであらう。しかし、多くは野か山だ。海に近い梅林では、今でも矢張(やはり)杉田に指を屈しなければならない。

 

 こゝは、德川時代にもかなり江戶から行つて遊んだ所である。佐藤一齋の紀行文などは殊に著名である。私も最初、漢學者の兄につれられて行つた。汽車にも乘らず、東海道をずつと步いて行つて、歸つて來てから、漢文や漢詩を作らせられた。

 

 しかし、別にさう大(たい)してすぐれて好(よ)いところとも思はない。海も平凡だし、梅のある寺も平凡だ。

 

 そこに行くには、橫濱まで行つて、それから電車で、西の橋まで行く。こゝから橋を渡つて右に川に添つて中村から屛風が浦に行く。このあたりは海の眺めがやゝ好い。

 

 これを過ぎて、大きなトンネルを越えると、杉田の梅のあるところは、もうすぐだ。漁村らしい感じと、藻の匂ひと、靜かに打寄(うちよ)ずる波と、日にかゞやく海と、何處となく氣が暢々(のびのび)する。

 

 梅は妙法寺といふ寺の境內から山畠(やまはた)にかけて一面に植ゑられてある。後(うしろ)は小高い丘になつてゐて、そこから見下(みおろ)すと、梅花を下(した)に、向うに海が一目(め)に見えて好い。佐藤一齋時代には、古木も多く、珠簾梅(しゆれんばい)などゝいふのは、中でも、有名であつたが、今は唯(ただ)その朽ちた株のあとを留めてゐるばかりである。料理屋、茶店などもあるから、靜かに一酌を催して來(く)ることも出來る。

 

 こゝからは、上總(かずさ)の山がかなりにはつきりと見渡される。正面に向つたのは、鹿野山(かのうさん)あたりである。海は何方(どちら)かと言へば極めて明るい鮮やかな海である。

 

 金澤の方(はう)に行つても好(よ)い。また引返して、本牧(ほんもく)の十二天社あたりに遊んで見るのも好い。この本牧の徙崖(しがい)は、東京灣を航行して來ると、赤ちやけたかなりに長い絕壁で、外國人は、これをミズシツピーベイと呼んでゐる。

 

 橫濱では、棧橋附近、公園、野毛山(のげやま)などに登つて見ても興味が多い。

 

[やぶちゃん注:杉田梅林は現在、横浜市磯子区杉田の梅林小学校近くの高台に広さ二七〇〇平方メートルの「杉田梅林ふれあい公園」として名を残すが、そこには僅かに八本の梅が植えられているに過ぎない(以上は磯子区公式サイトの記載を参考にした)。私はかつての同僚女性の御尊父がこのかつての杉田梅林の梅を自ら復元され、その実で梅酒を造られたのを、少し分けて戴いたことがあった。私は、そのえも言われぬ芳醇な香りと味を、十年近く経った今も――彼女の面影とともに――忘れることが出来ない。

 

「久地」は現在の神奈川県川崎市高津区久地。ウィキの「久地」によれば、同地を流れる『新平瀬川が流れる先は、かつては久地梅林(くじばいりん)と呼ばれる花の名所であり、往時は稲田堤の桜とともに花見の名所として親しまれていたという』。『徳川吉宗が治世した享保年間に、久地村の庄屋の川辺森右衛門は幕府に梅樹種の改良を命じられ、屋敷の内外に梅の木数百本を植えたのが、久地梅林の始まりである。』この梅林は私有地であるが、昭和二(一九二七)年『に開通した南武鉄道が「久地梅林駅」(現在の久地駅)と称し、玉川電車も沿線観光絵はがきなどで宣伝したことで、一層有名になった』。『しかし戦争中の食糧増産、戦後の近代化に伴う工場進出や宅地化に伴い、梅林は次第に削られ、現在は限られた私有地敷地内に極わずかに残るのみになっている。付近のバス停や交差点名に「梅林」の名が現在も残る。近年になって新平瀬川沿いに川崎市が「久地梅林公園」を設置し、その中に新たに梅の木を植え』、『往時の面影を今後に伝えるための準備をしている』とある。

 

「吉野」現在の東京都青梅市にある梅園吉野梅郷。関東地方でも有数の観梅の名所。現在、凡そ二万五千本の梅が植えられており、同地区一帯には青梅市梅の公園の他にも個人の梅園が多く点在する(ウィキの「吉野梅郷」に拠る)。

 

「越生」現在の埼玉県入間郡越生町(おごせまち)にある梅林。

 

「佐藤一齋」(安永元(一七七二)年~安政六(一八五九)年)は美濃国岩村藩出身の著名な儒学者で昌平黌の儒官(総長)となり、広く崇められた。門下生三千人と言われ、佐久間象山や渡辺崋山らは彼の弟子である。本文から見ると、彼はこの杉田梅林を殊に好んで訪れたものと見受けられる。

 

「漢學者の兄」次男であった田山花袋の六歳年上の長兄は『大日本地震資料』・『大日本古文書』等の編纂に関わった田山實(みのる)。本名は実彌登(みやと)。田山花袋(明治四(一八七二)年~昭和五(一九三〇)年)は栃木県邑楽郡館林町(現在の群馬県館林市)出身であるが、田山家は代々、館林藩藩士であった。花袋は十二歳の時に旧藩儒吉田陋軒の漢学塾「休々塾」(この兄が二十一歳で塾頭となった)に入って漢詩文を学び、十四歳の時には漢詩集を編み、桂園派の和歌や西洋文学にも親しんでいる。その後、兄に従って上京、明治二三(一八九〇)年に柳田國男を知り、翌年、尾崎紅葉に入門、その指示によって、江見水蔭の指導を受け、同年に「瓜畑」(「古桐軒主人」名義)を初めて発表、その翌明治二五(一八九二)年から「花袋」と号している。この兄は花袋の小説「生」の「鐐」、「時は過ぎゆく」の「實」のモデルである(以上はウィキの「田山花袋」に拠る)。高校の付け焼刃授業で、花袋を、ただのロリコン中年小説家とばかり思っていると、痛い目に合うことは請け合いである。私は、高校時代、彼の小説を貪るように読んだのを、懐かしく思い出す。

 

「妙法寺」先に示した「杉田梅林ふれあい公園」の二百五十メートル程北にある。江戸時代から梅の名所として広く知られていた「杉田梅林」の中心として観梅客で賑わった寺で、この梅林の生みの親である間宮信繁の菩提寺である。早春には境内にある名木「照水梅」(しだれ梅)をはじめとする五十本余りの梅の木が咲き、今も訪れる人々を楽しませている(以上は磯子区公サイトの記載に拠った)。

 

「鹿野山」「かのさん」とも。千葉県君津市にある房総丘陵の一角を成す千葉県で三番目に高い山で上総地方では最高峰。標高は最も高い白鳥峰(東峰)で三七九メートル(ウィキ鹿野山に拠った)。

 

「徙崖」「しがい」。「徙」は、「移る・渡る・過ぎる」などの意であるが、どうもここは、海波によって形成されたる海食崖の突先」という意味で用いているように思われる。

 

「外國人は、これをミズシツピーベイと呼んでゐる」現在の杉田から磯子・根岸の湾岸線はかつては切り立った断崖の連続であった。嘉永六(一八五三)年、かのペリー艦隊が来航し、この沖を通過した際、ミシシッピー出身の船員たちが故郷を思い出し、「ミシシッピ・ベイ」と名附けた。現在の本牧にある三溪園の松風閣(海側の見晴台)の下の切岸や、間門(まかど)から根岸駅方向への海食崖に、その面影が残る。懐かしい。八年前、糖尿病克服の運動療法のために、毎日、通勤の途次、私は、あの根岸の、あの崖を、嬉々として上り下りしていたものだったから。


【二〇一三年五月六日 22:46 追記】:ブログで公開した直後に、これを読んだ私の古い教え子から以下の消息を頂戴した。


   《引用開始》

 

(前略)僕の記憶を強く喚起する文章です。ある種の、私の中にある追憶の持つ淋しさを埋め合わせて、まだ余りある懐かしい記述でした。特に千代本、九覧亭など、この四月に私自身の足で約四十年ぶりに歩き回っただけに、感慨もひとしおです。


 ところで「杉田の梅花」で、ひとつ、分からないことがあります。

 

『こゝから橋を渡つて右に川に添つて中村から屛風が浦に行く。このあたりは海の眺めがやゝ好い。/これを過ぎて、大きなトンネルを越えると、杉田の梅のあるところは、もうすぐだ。』

 大きなトンネルとはどこのことでしょうか。屏風ヶ浦から杉田の梅林までは、横浜市提供の昭和初期の地図上では、どこにもトンネルなどありませんし、現在の中原(僕が通った願行寺の中原幼稚園があります)から杉田駅あたりにかけて、大きなトンネルなど見当たりません。地形の上からも、トンネルを通さねば交通に支障をきたすようなところはないように思えます。

 それに因んで思い出すのは、浜中学校から京急杉田駅に下りてくる道にある、長さ二百メートルほどの直線の坂道の切通しのことです。この切通し、明治の頃は、栗木や峰や大岡の里と杉田を結ぶトンネルであり、それが関東大震災で崩れたために、以後は切通しとして改修され、今に至るとのことです。この旧トンネルが、記述にある大きなトンネルであるとは、位置関係から到底思えませんが、著しく僕の記憶を刺激してくれました。

 僕が幼稚園入学前から年少まで住んでいた家は、浜中の正門から斜向かいにある細い路地を十五メートルほど入った平屋建ての一軒家でした(今現在は整地されて駐車場になっています)。そこから路地を更に三十メートルほど上がると、僕の母の実家がありました(母の兄の奥さんとその長男、つまり伯母と従兄弟が今も住んでいます)。僕の最も古い記憶の中に、両親や祖父母に手を繋がれて、または両親におんぶされて、その切通しを上り下りした光景が残っています。夜ですと、自分を追い越す車のヘッドライトでできる自分の影が、切通しの崖の表面を、物凄い速度で近づいてきて、自分の真横で少しゆっくりになったかと思うと、思い切り加速して後方の夜の闇に消えていく……。それが何度見ても興味深く、幼い僕はそれを見て、いつでも飽きることなく面白がり、何度でも笑ったのです。京急杉田駅の踏み切りで祖父母の家の犬が轢かれて死んだこと。浜中正門の向かいに小さな雑貨店があり、僕を可愛がってくれたご夫妻が住んでいたけれど、或る晩の火災でふたりとも亡くなったこと(一旦逃げ出したおじさんは、妻が中にいるといって再び飛び込んだそうです)。今考えれば私の住んだ平屋建てには雨樋がついてなかったのでしょう。雨垂れが軒下の土を穿つのを何十分でも見つめていたこと。向かいの家に井戸があり、洗濯などに利用していたこと。家で母に叱られるとすぐに泣きながらとぼとぼ坂を上り祖父母の家に行ったこと。毎朝、幼稚園で母と別れるたびに、黙ってポロポロと涙を落とし、母や先生を困らせたこと……。

 母、祖母、祖父の笑顔と共に、全てが、もう、遠い遠い昔のことになってしまいました……。


   《引用終了》

 私はこの消息に、トンネルの同定なんぞよりも、その詞の持つ限りない郷愁と聖痕(スティグマ)としての心傷(トラウマ)の痛みを劇しく感じた。当人の許可を得たので、ここに附記することとしたい。]

金沢八景 田山花袋

金沢八景   田山花袋

 

[やぶちゃん注:大正七(一九一八)年博文館刊の田山花袋「一日の行楽」より。底本は国立国会図書館近代ジタルライブラリの画像(コマ番号231)を視認してタイプした。親本は総ルビであるが、読みの振れそうなものと難読語のみのパラルビとした。踊り字「〱」は正字に直した。なお、親本には途中に「金澤稱名寺」及び「金澤海岸」のキャプションを持つ当時の写真が挿入されてある。特に後者は最早、幻となった当時の趣のある海浜風景をよく伝えている。]

 

 金澤八景

 

 金澤は私は杉田の方から來た。

 杉田の梅を看て、それから金澤に行つて鎌倉に方へ出て行つた。しかし、鎌倉からでも逗子からでも行ける。横須賀から舟で行くことも出來る。

 金澤は昔榮えたところらしい。鎌倉幕府の榮えた時分には、人々は皆な此處に遊びに來た。武將の別莊なども澤山にあつたらしかつた。歷史にも金澤八景の名はかなりによく出てゐるが、それを見ても、鎌倉に來た上方(かみがた)の人達(ひとだち)は、皆な此處に遊びに來たものらしい。それでおのづから人工にも膾炙した譯だ。稱名寺金澤文庫なども出來たわけだ。

 それに、昔は今から比べると、もつと風景がよかつたらうと思はれる理由がある。昔はもつと入江が深く入り込んでゐた。折れ曲つた入江の形が面白かつた。それが年月を經て、すつかり水が引いて田や畠(はたけ)になつてしまつた。能見堂(のうけんだう)あたりから見下すと、今でもその昔の勝景(しようけい)のさまがそれと指(ゆびさ)して見ることが出来るのである。

 兎に角、金澤は今日は衰えへた。それに、交通も不便だ。何方(どちら)から行つても、二里か三里は入つて行かなければならない。それから、横須賀が海軍の軍港になつて、水雷(すゐらい)が長浦(ながうら)に置かれたといふことも、土地の衰へて行つた一つである。そのため、魚類なども非常に少くなつた。

 杉田の方から行くと、路(みち)は能見堂の裏の方へ出て來るやうになつてゐる。筆捨松といふ松がそれでも今日でも形ばかりを殘してゐる。茶店もある。松風の音(おと)がさびしく鳴つてゐる。

 稱名寺、金澤文庫の址、さういふものも見るべきものだ。そこから海岸の方へ出て來ると、村があつて、汐入川(しほいりがは)が深く入り込んでゐて橋などがかゝうつてゐる。そこに東屋(あづまや)、千代本(ちよもと)といふ旅館がある。靜かに一夜泊つて見たいやうなところだ。

 一覽亭、九覽亭の眺望は何方(どちら)かと言へば九覽亭の方が好(よ)い。扇形に海が展開されて行つてゐる形が好い。

 この他、此處には、泥龜新田(でいきしんでん)に、有名な牡丹園がある。其處の豪農が經營してゐるもので、ちよつと他(ほか)にはこの位(くらゐ)の牡丹園はあるまいと思はれる位で、花時(はなどき)には、東京あたりからもわざわざ見に行くほどである。しかし今は何(ど)うだか。

 八景の目(もく)は、洲崎晴嵐(すさきせいらん)、瀨戸秋月(せとのしうげつ)、小泉夜雨(いうづみよざめ)、乙艫歸帆(おつともきはん)、稱名晩鐘(しようめうのばんしよう)、平潟落雁(ひらかたらくがん)、内川暮雪(うちかはのぼせつ)、野島夕照(のしませきせう)である。この名目は、明(みん)の大越禪師(だいえつぜんし)が支那の西湖(せいこ)に似てゐると言ふところからつけたものであるさうだが、今日では、そんな趣(おもむき)はとても見ることが出来ない。

 しかし、杉田の梅を見物しただけでは物足らないから二里の路を此處に來て、千代本あたりで、午飯(ごはん)を食つて、朝比奈切通(あさひなきりどほし)を鎌倉の方へ拔けて行くのも、一日の行樂としては面白いであらうと思ふ。但し、梅の頃はやゝ寒い。

 

[やぶちゃん注:「水雷が長浦に置かれた」この「水雷」は大日本帝国海軍の水雷術(魚雷・機雷・爆雷などによる雷撃術やその敷設及び掃海術、水雷艇や駆逐艦の操艦術、後に登場するせ潜水艦への対潜哨戒及び掃討術の技能習得、以上の防潜兵器や策敵兵器の開発研究)指揮官や技官を養成する軍学校である海軍水雷学校を指す。海軍通信学校が開校するまではこの水雷学校で無線電信技術の習得と研究をも推進した。明治一二(一八七九)年に水雷術練習所として横須賀に開所、明治一六(一八八三)年に水雷術練習所を廃止して水雷局が長浦に設置され、明治一九(一八八六)年には水雷局が廃されて代わりに長浦湾に水雷術練習艦「迅鯨(じんげい)」が設置された(「迅鯨」は元外海用御召艦で二檣木造外輪船。後に同名の潜水母艦が造られた)。後、水雷術練習所として明治二六(一八九三)年に開校後、明治四〇(一九〇七)年に海軍水雷学校となり、横須賀長浦に新校舎が建てられたが、直後に田浦に移転している模様である(以上はウィキの「海軍水雷学校」及び個人サイト「大東亜戦争で散華した英霊に捧ぐ 殉國之碑/祖国日本」の「海軍水雷学校等を参照したが、長浦から田浦への移設については資料によって記述に違いがある)。何れにせよ、国家最高機密に属する海軍重要機関の設置によって、この周辺海域での漁師の操業が著しく制限され、しかも広域の軍港化及び付帯施設の建造によって明治の末には既に大規模な環境破壊や水質汚染が進行したことを花袋は述べているように思われ、興味深い。

「一覽亭」「鎌倉攬勝考卷之十一附錄」の「六浦」の「山川」の項に、

一覽亭山 瀨ケ崎村の南にある山峰なり。六浦の庄を眼下に望み、南の方三浦郡浦賀并三崎・房・總の山海を、悉く眺望し盡せり。

とある。現在は開発によって変貌が著しく、この記載ではよく分からないが、現在の六浦東にある瀬ヶ崎神社か、隣接する追浜本町の雷神社一帯に丘陵上の痕跡が見える。識者の御教授を乞うものである。

「九覽亭」楠山永雄氏の「ぶらり金沢散歩道」の「眺望絶佳の九覧亭」に『九覧亭とは、瀬戸・金龍院境内の裏山にあった展望台で、金沢八景に富士山の一景を加えて九覧亭と名付けられた。だが、今、この九覧亭に立っても、周辺のマンション群に視界を遮られ、昔日の景観をイメージするのは難しいことである』とある。金龍院は現在の金沢八景駅から南東に二〇〇メートル程の位置にある。楠山氏によれば江戸後期、『金沢の内海が泥亀新田の開発で埋立てられ、金沢眺望の中心は能見堂から次第に「九覧亭」などに移ってゆく。文化文政の頃には、江戸っ子の間で鎌倉・江ノ島・大山などのパック旅行が盛んになり、金沢はたいへんな賑わいを見せ』、『観光名所も金沢八景の風光だけでなく、金沢名八木・金沢七井・金沢四石など名数をそろえ観光スポットを宣伝。幕末から昭和初期にかけて、観光客を誘致する絵図や絵はがき・ガイドブック類が数多く刊行された』とあり、その『なかでも九覧亭発行のものが種類も数も驚くばかりに多い』とされ、『その頃、九覧亭には多くの文人墨客、高官貴人、外国人などが訪れ、風光を絵画や写真、紀行文に描写している』と記しておられる。リンク先には九覧亭から瀬戸橋方面を望む明治中期の彩色写真が載る。かつては平潟湾を見下ろす風光明媚な景勝地であったことが偲ばれる。

「八景の目は、洲崎晴嵐……」この「目」は内訳の意。以下、金沢八景やその漢詩及び歌川広重の錦絵の画像は私の電子テクスト「鎌倉攬勝考卷之十一附録」の「金澤」の項の「八景」を是非、参照されたい。

明恵上人夢記 11

11

 

一、同四年正月、夢に云はく、二條の大路、大水出でたり。成辨、將に之を渡さむとす。前山(さきやま)兵衞殿、馬に乘りて、來りて將に之を渡さむとし給ふ。成辨、彼と共に將に之を渡さむとす。教へて云はく、「一町許りの下を渡すべし。」即ち、指を以て之を指し示し給ふ。成辨、教へに依りて之を渡す。深さ馬の膝の節に到る。心に思はく、廣くは出でたれども淺かりけりと思ふ。即ち、安く之を渡して向ひに付き畢(をは)んぬ。

 

 

 

[やぶちゃん注:「同四年」建仁四(一二〇四)年。明恵は満三十一歳であった。

 

「二條の大路」二条大路は平安京大内裏の南端を東西に走る、内裏では朱雀大路に次いで広い通りである。中央で南北に走る朱雀大路と接し、そこに朱雀門がある。まさに平安京のx軸に相当する。

 

「前山兵衞殿」明恵の養父であった崎山良貞(?~元久元(一二〇四)年)。明恵の母の妹(伯母とする記載もある)信性尼(湯浅宗重娘)の夫。紀州有田川下流域を支配した豪族で、明恵の庇護者でもあり、死後の承元二(一二〇八)年には未亡人によって彼の屋敷が寺として明恵に寄進されている。彼の死去は元久元(一二〇四)年十二月十日で(建仁四年は二月二十日に元久に改元している)、この夢はその没年のまさに年初に見たものである。明恵にとっては、後年になっても忘れ難い「父」の象徴夢であったことは想像に難くない。

 

「一町」約一〇九メートル。

 

「下」現在の京都では「下ル」「上ル」はそれぞれ南及び北に行くことを指すが、ここは東西の二条大路であるから、それに対応する「西入ル」「東入ル」であるとすれば、西方向に一一〇メートル程という謂いであろうか。一応、そう訳しておいた。もしかするとこの不審な「下」という字(言葉)には何か別な重要な意味が隠されているのかも知れない。]

 

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

11

 

 建仁四年正月の夢。

 

「二条大路が出水(でみず)ですっかり冠水してしまっている。

 

 私は、今まさに、そこを渡渉せんとしているのであった。

 

 そこに我が養父(ちち)前山(さきやま)兵衛良貞殿が馬に乗ってこられ、その養父(ちち)も、同じ如、そこでまさに、その大路を渡渉せんとなさるのであった。

 

 私は、その養父(ちち)と一緒に、まさに大路を渡ろうとした。

 

 すると、養父(ちち)が、私にお教えになられることに、

 

「――そちが今渡ろうと考えている『そこ』よりも、これ、一町ばかり西へ下がったところを向こうへ渡るのがよいぞ。」

 

と仰せられて、同時に御自身の指を以って、その確かな場所をはっきりとお示しになられた。

 

 私は、その教えに従ってそこへ向かい、騎馬の養父(ちち)と一緒に、そこを渡渉する。

 

 水の深さは、馬の膝の関節程度のものであった。

 

 私は、心の中で、

 

『……なあんだ。……広うに出水(でみず)致いてはおれど、その深さは、存外、浅かったんじゃないか――』

 

と思った。

 

 そのまま、難なく無事、大路を渡って向こう岸に容易く辿り着くことが出来た。――」

 

 

 

[やぶちゃん補注:養父との極めて親密にして良好な関係性が見て取れる(薬師丸(明恵の幼名)は七歳で父を亡くしている)。画面では男性原理の父性権威の象徴性が騎馬の義父に示されており、そこに扈従する明恵は、私には、初読の最初から、若武者――少年の面影を湛える青年の明恵(私には十代にしか見えない)が――手にした弓を以って水深を測っている映像が既にして決定(けつじょう)してしまっていて、変更出来ない。僧としての『人生の此岸』から『人生の彼岸』の渡渉点にあって、この義父の存在は極めて大切な存在であったことが窺われる、短いが映像化し易い、一読、印象に残る夢である。]

 

 

眞似 萩原朔太郎

 眞似(まね)

 

はらきりの眞似をするとて

弟の木刀を折りてしまひけり

くびつりの眞似をするとて

妹の人形をこわしてしまひけり

もはやせんなし

父の顏歪(ゆが)まぬうち

はやく家を逃げださん。

 

[やぶちゃん注:底本第三巻の『草稿詩篇「原稿散逸詩篇』に収録する一篇。「こわして」はママ。]

ふくらんだ寶玉 大手拓次

 ふくらんだ寶玉

 

ある夕方、一疋のおほきな蝙蝠が、

するどい叫びをだしてかけまはつた。

茶と靑磁との空は

大口をあいてののしり、

おもい憎惡をしたたらし、

ふるい樹のうつろのやうに蝙蝠の叫びを抱(だ)きかかへた。

わたしは眺めると、

あなたこなたに、ふさふさとした神のしろい髮がたれてゐた。

幻影のやうにふくらんだ寶玉は、

水蛭(みづびる)のやうにうごめいて、

おたがひの身(み)をすりつけた。

ふくらんだ寶玉はおひおひにわたしの腦をかたちづくつた。

 

[やぶちゃん注:「水蛭」環形動物門ヒル綱ヒルド科ウマビル(馬蛭) Whitmania pigra のこと。日本全国の水田・池や沼などに広く分布する。体は扁平で長さ一〇~一五センチメートル、幅は体幹の最も広い箇所で一七~二五ミリメートルで背面はオリーブ色、五本の縦線模様が入る。体側縁は淡黄色、腹面は淡色で小さい暗色の斑点が縦に並ぶ。体環は明瞭で体の中央部では一体節に五体環を有する。前吸盤は小さく、その底に口が開く。口には三つの顎(あご)があるが小さく、名前からもしばしば吸血蛭として誤解されているが(但し、この「馬」も恐らくは大きいの謂いであろう)、動物の体に傷をつけて吸血することは出来ず、タニシなどの淡水産腹足類などを捕食している(以上は平凡社「世界大百科事典」の記載を参考にした)。]

忘勿草  小さう咲いて忘勿草や妹が許

忘勿草  小さう咲いて忘勿草や妹が許

2013/05/05

森川許六 風俗文選 より 鎌倉ノ賦 幷序

[やぶちゃん注:「風俗文選」十巻は蕉門十哲の一人彦根藩士森川許六(きょりく 明暦二(一六五六)年~正徳五(一七一五)年)が芭蕉の遺志を継ぐ最初の俳文集として宝永三(一七〇六)年、京都井筒屋庄兵衛から当初は「本朝文選」と題して刊行した俳文集。巻頭に李由序・去来序・支考序・許六序・作者列伝・目録を配し、本文の最後に汶村後序、巻末に許六門人孟遠らの跋を持つ。本文は蕉門俳人二十八名の作品約一二〇編を「古文真宝後集」などに倣って、辞・賦・譜等二十一類に分類して収めてある。「鎌倉ノ賦 並序」は、その「卷之二 賦類」の二番目に配された許六自身の賦(この場合の「賦」は漢文で対句を多用して句末で韻を踏む文体に擬えたもの。原文は以下の通りで漢文ではない)。

 底本は早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」の同図書館蔵の寳永三年跋の坪内逍遙旧蔵本を画像を視認、不分明な個所については岩波文庫一九二八年刊の伊藤松宇校訂「風俗文選」及び吉川弘文館昭和六〇(一九八五)年刊の「鎌倉市史 近世近代紀行地誌編」に載る同部分を対照資料として字を確定した。なお、底本は片仮名による総ルビであるが、五月蠅いので読みの振れそうなものだけ限って、平仮名で示した。底本の「。」は適宜、読点に代え、一部に記号を追加してある。それらの記号の選択には特に本作の「賦」に擬えた巧みな対句表現を意識して配したつもりである。踊り字「〱」は正字化若しくは「々」とした。「冠(くはん」「郡(こをり)」「境(さかい)」などの歴史的仮名遣の誤りもそのまま再現した。底本では枠で囲まれた標題中の「幷序」は有意に小さく、序(○の前の部分)は底本では全体が一字半下げである。底本では本文頭の「〇」は、その半分が本文全体より上に飛び出している。標題と序と本文の間を一行空けた。読みがやや五月蠅く感じられる向きの方のために、直後に読みを排除したものを載せ、最後に注を附した。]

 

 

   鎌倉ノ賦 幷序   許六

 

夫(それ)相摸國(さがみのくに)、鎌倉は、郡(こをり)の名にして、大職冠鎌子丸(だいしよくくはんかまこまる)の時、靈夢によつて、鎌を理(うづ)むの地也。このゆゑに郡の名とす。染屋の時忠、總追捕使(そうついほし)として、文武の御宇より、聖武の神龜年中まで、こゝに居す。それより上總介平直方(かづさのすけたいらのなをかた)、これに住して、八幡太郎義家朝臣(はちまんたらうぎかのあそん)より、源家代々居住の地なり。賦して曰、

 

○三代の將軍、九代の執權、春の花さけば、秋の紅葉と變ず。柳のみやこ・もろこしの里、鶴が岡(をか)・雲井の嶺(みね)。下(しも)の若宮は、賴義(らいぎ)朝臣の建立にして、上(かみ)の若宮は、源(げん)二位(い)の勸請なり。宮柱(みやばしら)ふとしき立(たて)て、民の戶烟(けふり)にぎはへり。江の島は、三辨財天。三浦三崎に、杜戸(もりと)の明神あり。鳥合(とりあはせ)が原は、相摸入道が鬪犬の地。由井の濱は、下河邊(しもかうべ)の庄司が、笠懸(かさかけ)を射初(いそむ)る。小袋坂(こぶくろざか)・稻村が崎・七里が濱。月かげが谷(やつ)には、暦(こよみ)を作り、扇が谷には、佐竹の紋(もん)の、畦(うね)あり。腰越(こしごえ)の寺には、辨慶が申狀(まうしじやう)の下書を殘し、兒(ちご)が渕(ふち)には、白菊(しらぎく)が最期の哥をとゞむ。片瀨川には、宗尊親王(そうぞんしんわう)の影をうつし、滑川(なめりがは)には、青砥(あをと)が錢(ぜに)を搜す。日蓮・盛久が首の座、景清・からいとが籠(ろう)のあと。大塔(おほたう)の宮は、侫臣(ねいしん)の讒(ざん)にくるしみ、實朝の卿は、公曉が爲に拭(しい)せらる。勝長壽院には、義朝の髑髏(どくろ)を葬(はうふ)り、法華堂には、賴朝の墳墓を築く。西行上人は、三夜に軍法を説(とき)、定家の卿は、七年和歌を談ず。化粧坂(けはひざか)は、少將に名高く、神前の舞臺は、靜(しづか)が舞をはやす。和田・畠山、千葉・北條。管領屋敷・梶原屋敷。佐々木屋敷には、馬ひやし場の水あり。正宗が舊跡には、刄(やいば)をきたふ泉を見る。花が谷(やつ)・蛇が谷。梅が谷・松葉が谷、建長寺・最明寺、圓覺寺(えんかくじ)・壽福寺。海藏寺は、石割玄翁(いしわりげんをう)の開基。松が岡は、實朝の尼寺也。籠釋迦(かごじやか)・鐵地藏(てつぢざう)、深澤(ふかざは)の大佛・長谷の觀音、金洗澤・星月夜の井。橋の下の小哥は、あめ牛めくらが威勢をそしり、小栗(ぐり)の說經は、横山が強盜(がうどう)を語る。阿佛・長明(めい)が日記、重衡・俊基の紀行。春は雪の下に花を蹈(ふん)で惜(をし)み、夏は山の内に鵑(けん)を待て眠る。美奈能瀨(みなのせ)川の月、御輿(こし)が嶽の雪。礎(いしづへ)のあとは、感慨の情をまし、鳩の聲は、懷舊の腸(はらはた)を斷(たつ)。鰹(かつを)は兼好が筆にいやしめ、左蒔(ひだりまき)の榮螺(さゞい)は、實平(さねひら)が麁相(そさう)を殘す。苔(のり)・磨砂(みがきずな)、海老・柴胡(さいこ)。すべて魚鼈(ぎよべつ)の類(たぐひ)、あまかづきいとまあらず、高瀨(たかせ)おしおくり、かよはぬ日なし。名(な)にしの地藏は、武相(ぶさう)の境(さかい)にして、六浦(むつら)・金澤は、むさしの地なり。瀨戶の明神には、四橋(きやう)一覽の眼(まなこ)をさき、能見堂(のうけんだう)には、八景惣詠(そうえい)の詩を見る。照手(てるて)の松、筆捨(ふですて)の松、金澤の文庫といふは、稱名寺にあつて今はなし。文珠像・普賢像、こく梅(むめ)・櫻梅(さくらむめ)、せいこ梅(むめ)・靑葉(あをば)の紅葉(もみぢ)。わづかに西湖(さいこ)・さくらの二梅(ばい)をとゞむ。大きなるものは、賴朝のかうべにたとへ、廣き所は、かまくら海道に比す。今の戸塚は、いにしへの材木町といひ、大磯の宿は、遊女町の沙汰なり。されど、東南に海(うみ)近く、西北(せいぼく)に山つらなれり。境地(けうち)狹(せまく)してすでに谷々(やつやつ)の號あり。むかしの繁花繁榮を論ぜば、なんぞ今の泰平不易の江戶に及ばむや。 

 

■読み排除版

 

   鎌倉ノ賦 幷序   許六

 

夫相撲國、鎌倉は、郡の名にして、大職冠鎌子丸の時、靈夢によつて、鎌を理むの地也。このゆゑに郡の名とす。染屋の時忠、總追捕使として、文武の御宇より、聖武の神龜年中まで、こゝに居す。それより上總介平直方、これに住して、八幡太郎義家朝臣より、源家代々居住の地なり。賦して曰、

 

○三代の將軍、九代の執權、春の花さけば、秋の紅葉と變ず。柳のみやこ・もろこしの里、鶴が岡・雲井の嶺。下の若宮は、賴義朝臣の建立にして、上の若宮は、源二位の勸請なり。宮柱ふとしき立て、民の戶烟にぎはへり。江の島は、三辨財天。三浦三崎に、杜戶の明神あり。鳥合が原は、相摸入道が鬪犬の地。由井の濱は、下河邊の庄司が、笠懸を射初る。小袋坂・稻村が崎・七里が濱。月かげが谷には、曆を作り、扇が谷には、佐竹の紋の、畦あり。腰越の寺には、辨慶が狀の下書を殘し、兒が渕には、白菊が最期の哥をとゞむ。片瀨川には、宗尊親王の影をうつし、滑川には、青砥が錢を搜す。日蓮・盛久が首の座、景清・からいとが籠のあと。大塔の宮は、侫臣の讒にくるしみ、實朝の卿は、公曉が爲に拭せらる。勝長壽院には、義朝の髑髏を葬り、法華堂には、賴朝の墳墓を築く。西行上人は、三夜に軍法を説、定家の卿は、七年和歌を談ず。化粧坂は、少將に名高く、神前の舞臺は、靜が舞をはやす。和田・畠山、千葉・北條。管領屋敷・梶原屋敷。佐々木屋敷には、馬ひやし場の水あり。正宗が舊跡には、刄をきたふ泉を見る。花が谷・蛇が谷。梅が谷・松葉が谷、建長寺・最明寺、圓覺寺・壽福寺。海藏寺は、石割玄翁の開基。松が岡は、實朝の尼寺也。籠釋迦・鐵地藏、深澤の大佛・長谷の觀音、金洗澤・星月夜の井。橋の下の小哥は、あめ牛めくらが威勢をそしり、小栗の說經は、横山が強盜を語る。阿佛・長明が日記、重衡・俊基の紀行。春は雪の下に花を蹈で惜み、夏は山の内に鵑を待て眠る。美奈能瀨川の月、御輿が嶽の雪。礎のあとは、感慨の情をまし、鳩の聲は、懷舊の腸を斷。鰹は兼好が筆にいやしめ、左蒔の榮螺は、實平が麁相を殘す。苔・磨砂、海老・柴胡。すべて魚鼈の類、あまかづきいとまあらず、高瀨おしおくり、かよはぬ日なし。名にしの地藏は、武相の境にして、六浦・金澤は、むさしの地なり。瀨戶の明神には、四橋一覽の眼をさき、能見堂には、八景惣詠の詩を見る。照手の松、筆捨の松、金澤の文庫といふは、稱名寺にあつて今はなし。文珠像・普賢像、こく梅・櫻梅、せいこ梅・靑葉の紅葉。わづかに西湖・さくらの二梅をとゞむ。大きなるものは、賴朝のかうべにたとへ、廣き所は、かまくら海道に比す。今の戸塚は、いにしへの材木町といひ、大磯の宿は、遊女町の沙汰なり。されど、東南に海近く、西北に山つらなれり。境地狹してすでに谷々の號あり。むかしの繁花繁榮を論ぜば、なんぞ今の泰平不易の江戶に及ばむや。

 

[やぶちゃん注:なお、これが錯文でないとすれば、前後から建仁三(一二〇三)年十月から十二月の間で見た可能性が大きい。本作に登場する地名旧跡は筆者の錯誤によるもの以外は、概ね「新編鎌倉志」に記載するので「新編鎌倉志總目錄(やぶちゃん電子版」で検索、確認されたい。

 

「大職冠鎌子丸」藤原鎌足。彼は初め、中臣鎌子(なかとみのかまこ)と名乗っていたが、後に中臣鎌足に改名、天智天皇八年(六六九)年の臨終に際して史上藤原鎌足だけに授けられた最上位「大織冠」(大化三(六四七)年に制定された冠位十三階の制で設けられたもの)とともに「藤原」姓を賜った。

 

「柳のみやこ」鶴岡八幡宮舞殿の辺りから東を柳原と呼んだが、印象的な位置としては古都鎌倉の中心と言えぬことはない。

 

「もろこしの里」片瀬川の東の原をかつて「唐原(もろこしがはら)」と呼称した。ここは江戸時代の鎌倉への一般的観光ルートの経由地である。前の「柳原」と位置はめちゃくちゃであるが、ここは都の原とその周縁の田舎の原を対句仕立てで示したとすれば納得がゆくように私には思われる。

 

「雲井の嶺」「鶴が岡」に完全なる対句といたものならば固有名詞でなくてはならないが、そのような名の峰はない(少なくとも私の知見にはない)。但し、鶴が(舞降りる)岡という解字的意味に、雲居の峰ととれば、如何にも綺麗な対句となる。

 

「宮柱ふとしき立て」「大宮柱太敷立」は大祓詞(おおはらえのことば。中臣祓(なかとみのはらえ)ともいう)祝詞に現われる台詞。

 

「相摸入道」北条高時。

 

「下河邊の庄司」頼朝の近臣にして弓矢の名手下河辺行平。

 

「月かげが谷には、曆を作り」極楽寺境内の西の谷。「十六夜日記」を記した阿仏尼が住んだ場所として知られるが、「新編鎌倉志卷之六」の「月影谷」の項には、「昔は曆を作る者居住せしとなり」とある。

 

「扇が谷には佐竹の紋の、畦あり」佐竹氏の定紋は「扇に月」(日の丸扇)である。佐竹氏第三代当主である佐竹秀義は頼朝に従って奥州合戦に加わったが、その際に伝家の無地の白旗を持参したところ、頼朝から源家の旗と紛らわしいとして扇を白旗の上に付けるよう命じられた。この扇は月を描いており、以後、佐竹氏は家紋として「扇に月」(日の丸扇)を用いるようになった。但し、室町期の佐竹氏本家当主佐竹義人は山内上杉家の出身で、扇谷に居住した上杉氏とは同族内対立にあり、この「扇が谷には」というのは不審。また「畦」人工的に作られた水を溜める溝のおとと思われるが、該当するような構造物や地形は扇ヶ谷には現在、認められない。実は現在、佐竹屋敷跡するものが大町名越の大宝寺のある谷にあるのであるが、これは「相模風土記」に『土人の傳に此地は佐竹常陸介秀義以後、數世居住の地にて、今猶當所を佐竹屋鋪と字するは此故なり』とあって、参照した東京堂出版の白井永二編「鎌倉事典」ではそれに続けて、この大宝寺のある『谷は五本骨の扇形で、これにより佐竹の紋所が生まれたとも』いう、という記載がある。更に私はこれと、扇ヶ谷飯盛山の麓にある鎌倉十井の一つで、開いた扇の形に掘削された扇ノ井(現在は私邸地所内で見学は出来ない)とがごっちゃになって許六が錯誤したものではなかなろうかと推理した。「畦」は水路や井戸と連想が繋がるからである。大方の御批判を俟つものである。

 

「定家の卿は、七年和歌を談ず」言わずもがなであるが、これは京の定家と実朝が和歌や歌学の遣り取りをしたことを指していよう。実朝は承元三(一二〇九)年に藤原定家に自らが詠んだ和歌三十首の評を請うており、建保元(一二一三)年十一月二十三日は定家から相伝の「万葉集」を受け取っており、現在ではその前後に「金槐和歌集」が纏められたと考えられているから、実朝の死去は建保七(一二一九)年一月二十七日であるから、定家と親交を九年とするのはすこぶる自然な表現ととれる。

 

「化粧坂は、少將に名高く」歌舞伎や舞踊の一つに「帯引物」というのがあり、そこでは仇討ちで知られる曾我五郎が親しく通う大磯の廓の傾城「化粧坂(けわいざか)の少将」が、五郎の父の仇敵工藤祐経が廓内にありと聞きつけて女だてらに勇み立って駆けこもうとするのを小林朝比奈が少将の帯を捕らえて引き止めるという設定になっている。彼女はその名から、恐らくは初め、この鎌倉の化粧坂下(遊廓として知られた、というか伝承の一つにある)出身の遊女であったという元設定なのであろう。それを許六は謂ったものと推測する。因みに、「少将」と名乗るのは、彼女が元は平家のやんごとない姫であったというような原設定でもあろう。

 

「佐々木屋敷には、馬ひやし場の水あり」「鎌倉攬勝考卷之九」によれば、「佐々木屋敷」跡と称する知られたものは「佐々木壹岐前司泰綱第跡」及び「佐々木三郎昌寛法橋第跡」であるが前者は二階堂の東、後者は塔の辻近辺と思われ、浄妙寺の東の公方屋敷跡とする野原の岩窟にあった「馬ひやし場」(「新編鎌倉志卷之二」では『又此の公方屋敷東の山際に、御馬冷場(をんむまひやしば)とて、巖窟(いはや)の内に水あり。賴朝の馬、生唼(いけづき)・磨墨(するすみ)の、すそしたる所なりと云(いひ)傳へて二所(ふたところ)あり。淨妙寺より此邊まで、足利家の屋敷と見へたれば、賴朝に限るべからず、馬も二疋のみならんや。鶴が岡の鳥居の前より此地まで十五町あり』とある)と一致しない。これは単純に許六の公方屋敷の錯誤ではないかと私は判断する。

 

「正宗が舊跡には、刄をきたふ泉を見る」「正宗」は鎌倉末期から南北朝初期にかけて活躍した刀工五郎入道正宗。新藤五国光に師事して諸国を修行行脚、鎌倉で「相州伝」を完成させた鍛治師である。現在、佐助ヶ谷の入口近くに正宗の井戸及び正宗稲荷と呼ばれる刃稲荷がある。因みに彼の墓は本覚寺にある。

 

「橋の下の小哥は、あめ牛めくらが威勢をそしり」これについて、ネット検索をかけた結果、大森隆子氏の論文「保育のための“遊び”研究考(Ⅷ)―「草履隠し」について―」The Bulletin of Toyohashi Junior College 1996, No. 13, 61-75)に以下の内容を披見出来た(表記及び記号・字空けの一部を改変省略した)。下線は私の附したものである。

 

   《引用開始》

 Ⅰ
「草履隠し」の発祥と展開

 

伝承歌謡の研究者であった志田延義は,その著『続日本歌謡圏史』の中で,「草履隠し」の歌と「徒然草野槌所載巷歌」との関係に関心を寄せて考察をなさっておられる.結論からいえば,このわらべ歌は「これら二首の巷歌を子供の世界に摂取して伝承したものである」と相互の密接な関係を認められた。元歌として考えられたその二首とその意の解釈も含めて、氏の言葉を借りながら紹介しておきたい。

 

『国文論纂』所収、目黒和三郎の「第五十俗謡巷歌」には、「徒然草野槌に、頼朝の時、俗間に謡へりとて、左の二ツのものをいだせり、」といって、

 

一りけんちやう、二けんちやう、三里けんちやう、四けんちやう、しこのはこの上には,ゑもはもおとり、十万鵯、豆なかえたよ、黒虫は源太よ、あめ牛めくらが、杖ついてとほるところ、それはそこへつんのけ、橋の下の菖蒲は,折れどもをられず,かれどもかられず、伊東殿、土肥殿土肥がむすめ、梶原源八、介殿、のけ太郎殿、を掲げ、解を試みて、一りけんちやう云々、こは一間町二間町などといふ義にて、鎌倉の町割をいふなり、(中略)蒲の御曹子の、御連枝なれども、弱きにも、強きにも、何の用にたち給はぬを、菖蒲のをれどもをられず、かれどもかられずといふなり、

 

とある。すなわち元歌の二首とは、「一りけんちやう、二けんちやう…」と「橋の下の菖蒲…」をいう。

 

現在、伝承遊び研究の第一人者でおられる梶原氏も今日に伝わる草履隠し歌の代表例を数種あげ、それらはいずれも「鎌倉時代の俗謡から派生した<ぞうりかくし>の歌です」と、『徒然草野槌』の記述を引用して志田氏と同様の説を発表されている。

 

   《引用終了》

 

同論文によれば、この「草履隠し」という童子らの遊びは、論文冒頭に『まず全員が履物の片方を差し出して一列に並べ、その上を親が唱句に合わせて順番に指差してゆく。歌の終に当たった履物の持ち主は、その瞬間に鬼と化し、履物を隠す<隠し鬼>へと移行する』とある。「土肥」に下線を附したのは、後掲される土肥「實平」との関係性を強く示唆する部分でもあるからである。

 

「小栗の説經は、横山が強盜を語る」小栗判官と照手姫の話は説経節で知られるが、そこでは藤沢俣野の盗賊横山の館に宿をとった小栗を、その財宝を狙う横山から救うのが、横山に養われていた照手姫であったという設定となっている。

 

「重衡・俊基の紀行」「重衡」は平清盛五男平重衡。平家滅亡後、鎌倉に護送され、頼朝がその潔さに助命を考えるも、南都焼討の因によって木津川畔にて斬首、奈良坂般若寺門前で梟首された(享年二十九歳)。「俊基」は日野俊基。元徳三・元弘元(一三三一)年に発覚した討幕計画の画策による元弘の乱で捕縛され、葛原岡で処刑された。但し、これら二人が実質的な幕府の裁きのための下向に際し、紀行を残したというのは初耳である。識者の御教授を乞う。ただの辞世的伝承叙述を指すものか。

 

「鵑」ホトトギス。杜鵑。

 

「左蒔の榮螺は、實平が麁相を殘す」頼朝が石橋山の戦いの後に敗走、辛くも三浦半島から房総に落ちのびた際、実平の操った船を降り立った際(若しくは後日の物見遊山の時とも)、頼朝がサザエの角で足を怪我して貝を叱責、それよりここのサザエには角がないという伝承はあるようである。これはしかし、後の日蓮の(逆に)三浦上陸の際の霊験としてもあり、後世の作話であろう。

 

「苔」アサクサノリやイワノリの類、更には高い確率でワナメなども含むものと思われる。以下、鎌倉名産尽くしである。

 

「磨砂」関東ローム層の火山灰地層から、鍋などを磨くものとして採取販売されていたものと思われる。

 

「海老」鎌倉海老。イセエビ。

 

「柴胡」「鎌倉攬勝考卷之一」に、

 

柴胡 藥品、鎌倉柴胡の名あれど、多くは龜井野、長五等の野原より堀出す。

 

とある。双子葉植物綱セリ目セリ科ミシマサイコ Bupleurum scorzonerifolium(亜種としてBupleurum falcatum var. komarowi と記載するものもあり)の根。漢方で柴胡と呼ばれる生薬であり、解熱・鎮痛作用がある。大柴胡湯(だいさいことう)・小柴胡湯・柴胡桂枝湯といったお馴染みの、多くの漢方製剤に配合されている。和名は静岡県の三島地方の柴胡がこの生薬の産地として優れていたことに由来する。

 

「龜井野、長五」は現在の藤沢市亀井野(六会附近)と長後を言う。

 

「あまかづき」「海人潜」と書き、海人(あま)が水に潜ること。講談社「日本国語大辞典」の用例には、まさにここが引用されている。

 

「高瀨おしおくり」「高瀨」は川船の一種の高瀬舟。古代から中世にかけては小形で底が深かったが、近世になってからな大形で底が平たく浅いものになった。「おしおくり」も「押し送り船」で、帆をあまり使わず、数人で櫓を漕いで進める船のこと。特に獲れた魚類を魚市場に運んでいた早船のことをこう言った。

 

「名にしの地藏は、武相の境にして」鼻欠地蔵のことを指している。

 

「四橋一覽の眼をさき」?。全く分からない。識者の御教授を乞うものである。

 

「文珠像・普賢像、こく梅・櫻梅、せいこ梅・靑葉の紅葉。わづかに西湖・さくらの二梅をとゞむ」これは「新編鎌倉志卷之八」に示されてある、金沢八木〔靑葉楓・西湖の梅・櫻梅・文殊梅・普賢象梅、是は稱名寺境内にあり。黑梅今は絶たり。蛇混柏、瀨戸の神社に有。外に雀ケ崎の孤松、是を八木といふ。〕の内の、称名寺境内にあった六種を指している。「文珠像・普賢像」前者は「文殊梅」の、後者は「普賢象梅」の誤りであるが、好意的に考えれば、「像」はそれぞれの菩薩名を模(かたど)る、模すの意で用いているのようである。許六の時代にあってもこの六つの内、四種が既に失われていたことが分かる。

 

「大きなるものは、賴朝のかうべにたとへ、廣き所は、かまくら海道に比す」古来、頼朝の頭は大きいとされてきた。また、平賀源内の「源氏大草紙」の「四」に「物事の廣き譬に言ひ傳ふ實に鎌倉の海道筋」とあって、広い譬えとして鎌倉街道が一般的によく使われていたらしいことも分かる。面白い俚諺である。

 

「今の戶塚は、いにしへの材木町といひ」そう呼称した記録を今のところは見出せないが、戸塚は材木商が多かったものか。因みに戸塚からは大分離れるが、現在の横浜駅近くの平沼町には材木町の旧名がある。]

明恵上人夢記 10

10

一、我が周圍に石を疊みて鎭護す。富貴の相也と云ふ事、大菩薩の御加護也。

一、勝れて夢を畏るべき事、別なる事有るべからず。而も、吉事か、剩(あまつさ)へ吉慶の相有るべき也。

 

[やぶちゃん注:二つめ条は「10」の夢の自己理解を受けて、明恵独特の夢解釈理論が示される頗る興味深い部分である。玄室のような石室(いしむろ)の中に居る一見恐ろしものにも見える夢を菩薩の鎮護とポジティヴに解釈した自分の解釈法への補足である。但し、そこではその積極的な陽性の解釈が、ややもすると「畏れ」を失って都合のいい牽強付会に陥ることをも戒めているようである(後掲のやぶちゃん補注も参照)。なお、これが錯文でないとすれば、前後から建仁三(一二〇三)年十月から十二月の間で見た可能性が大きい。]

 

■やぶちゃん現代語訳

 

「私は、周囲に石畳み重ねた堅固な構造物の中に居て、完全に鎮護されてある。――」

〈私明恵の夢解釈〉

 これは精神的な意味に於いて、富んで貴(とうと)き吉相であって、私が尊(たっと)き菩薩様たちの御加護を受けていることを意味しているのだ。

〈私明恵の夢解釈理論〉

 夢というものに対する時、私たちは、私たちが日常に於いて神仏を畏れ敬うのと同じように接すべきことは言うまでもない(夢を、下らぬ、意味のない、若しくは不気味で、不快なもの、或いは一方的な『覚醒時の自分の』願望充足の代償やその成就の安易な予兆などとして、接するようなことがあってはならない)。いや、寧ろ、その夢の世界には、『覚醒時の自分が予期もしていない』真に素敵な素晴らしいことが、そこに隠されて「在る」――そればかりか、実は『覚醒時の自分が予期もしていない』、真の自分にとって目出度く喜ばしいことが、これ真直に近づいているのだということの、さりげない前兆さえもそこに黙示されて「在る」――と解釈するのがよいのである。

 

[やぶちゃん注:この部分叙述が本邦のユング派の代表者である河合隼雄氏を歓喜させたことは想像に難くない。ここで明恵が言っている夢分析理論はまさに七〇〇年後にユングが提唱した夢理論と美事に合致するからである。河合氏は「明惠 夢に生きる」で、この部分について(一五四頁。「第四章 上昇と下降」の掉尾に当たる)、

   《引用開始》

明恵がわざわざ「畏る」という文字を用いているのは、神に対するように夢に対するべきことを表わしたいからだと思われる。夢に対するこのような敬虔な態度は、現代においての夢分析を行うものにとっても必要なことであろう。明恵は、夢を見る者の根本的態度によって、夢の内容も意味も異なるものになることをよく知っていたのであろう。このような態度をもっていないと、たとえば「筏立の夢」[やぶちゃん注:私のテクストの「9」の夢を指す。]などによって喜んでしまい、自我肥大を起こしてしまうことだろう。夢に関心をもつ危険性のひとつは、自我肥大が起こりやすいことであるが、その点で明恵はまったく心配がなかったということができる。

   《引用終了》

と述べておられる。私の現代語訳の〈私明恵の夢解釈理論〉の部分の補足敷衍は、この河合氏の見解に負うところが多い。ここに引用して謝意を表するものである。]

(無題) 萩原朔太郎 (「月に吠える」時代の最古草稿)

 

 

 

 

悲しみにたえざるものが夕べである

 

ああわたしはしづかにギタルの胴ををかゝへながら

ああわたしはかのひと遠き低き家屋の列を→の窓を→をさし→を遠見にねむらしめたながめた 

 

[やぶちゃん注:底本第三巻の「未發表詩篇」の巻頭を飾る萩原朔太郎の最古の未発表詩の一つ(大正三年頃の製作と推定される「月に吠える」時代の草稿)。無題。「たえ」はママ。取り消し線は抹消を示し、その抹消部の中でも先立って推敲抹消された部分は下線附き取り消し線で示した。「→」の末梢部分は、ある語句の明らかな書き換えがともに末梢されたことを示す。抹消部分を消去すると、 

 

悲しみにたえざる夕べである

 

しづかにギタルをかゝへながら

 

かの低き家屋をながめた

 

となる。]

日輪草 大手拓次

 日輪草

 

そらへのぼつてゆけ、

心のひまはり草(さう)よ、

きんきんと鈴(すゞ)をふりならす階段をのぼつて、

おほぞらの、あをいあをいなかへはひつてゆけ、

わたしの命(いのち)は、そこに芽をふくだらう。

いまのわたしは、くるしいさびしい惡魔の羂(わな)につつまれてゐる。

ひまはり草よ、

正直なひまはり草よ、

鈴のねをたよりにのぼつてゆけ、のぼつてゆけ、

空(そら)をまふ魚(うを)のうろこの鏡(かゞみ)は、

やがておまへの姿をうつすだらう。

 

[やぶちゃん注:「日輪草」拓次は標題にはルビを振らない。従ってこれを「にちりんさう」と「ひまはりさう」の孰れで読んでいるかは不明である。詩中で一貫して「ひまはりさう」と読んでおり、その可能性の方が強いとは言える。「羂」は罠に同じ意で用いている。狭義に言えば、本字は網や紐のようなもので括る罠という意である。]

鬼城句集 春之部 木瓜の花

木瓜の花 岨道を牛の高荷や木瓜の花

[やぶちゃん注:「岨道」「そばみち」(古くは「そはみち(そわみち)」)と読む。険しい山道。]

美人陰有水仙花香 一休宗純

   
         美人陰有水仙花香

楚臺應望更應攀

半夜玉床愁夢間

花綻一莖梅樹下

凌波仙子遶腰間

○やぶちゃんの訓読

     美人の陰(ほと)に水仙花の香(か)有り
                       
楚臺(そだい) 應(まさ)に望むべく 更に應(まさ)に攀(よ)づべし
半夜 玉床(ぎよくしやう) 愁夢(しうむ)の間(くわん)
花は綻(ほころ)ぶ 一莖 梅樹の下(もと)
凌波(りようは)の仙子(せんし)  腰間(えうくわん)を遶(めぐ)る

[やぶちゃん注:原文は国立国会図書館近代デジタルライブラリー「国訳禅学大成 第十九卷」の「狂雲集下巻」を視認した。底本では詩末に「遶一作逵。」(「遶」、一つに「逵」に作る。)とある。もし、これだと、ここは、

 腰間(えうくわん)に逵(かく)る

と訓ずることになろうか。
 実はこの詩の紹介はこれが初めてではない。既に「耳嚢 巻之二 一休和尚道歌の事」の注で示している。……時々……僕は……思い出すのである……]

2013/05/04

孤獨の旅人 萩原朔太郎

 孤獨の旅人 

 

 苦惱時代について書けといふことだが、私の生涯は永遠の苦惱時代だ。しかも永遠に、だらだらと續いてゐる苦惱時代であるから、山頂もなく峠もなく、無限につづく恐ろし曠野のやうなものである。私は時々、この曠野の中に立つて考へる。見渡す限り、涯しもない地平の向うを眺める時、言ひやうもない恐怖に慄然としてしまふ。

 私の生涯の運命は、友もなく仲間もなく、ただ一人で曠野をさまよふ孤獨の旅人のやうなものである。いつも人生は、私にとつて荒寥としたものに感じられる。どうして、何故に、私はこんな悲觀的な景色ばかりを見るのだらう。種々な複雜な事情が、それの原因として考へられる。だが私の場合についてみれば、あらゆる運命悲劇の第一基因は人の生れついた氣質性格に屬して居り、環境の變化にかかはらず、宿命的に一貫してゐる如く思はれる。換言すれば、私のやうな性格氣質に生れついた人生は、どんな惠まれた境遇の下にあつても、常に一貫して苦惱時代のみを續けるだらう。

 私の場合について見れば、悲劇的性格の主なる特色は、人と變つてゐるといふことにあるらしい。融合は多數の人の共同組合であるから、萬事の組織が多數決によつて出來あがつてゐる。たとへば衣服の風俗、家具の形狀等のやうな些々たる日常品ですらが、大多數の人々の利便に適するやうに、即ち一般の利便『一般の趣味』を標準として作られてゐる。だから人と變つた特殊の人間、たとへば身長のズバぬけた巨人にとつては、普通の衣服や家具は使用に通せず、汽車に乘つても頭がつかへ、戸口をくぐるにも窮屈であり、萬事不愉快な生活をせねばならぬ。

 ただ身長が高いといふこと、肉體の大きさが少しばかり一般人(大多數者)と變つてゐるといふだけで、これだけにも不快不便の生活をせねばならぬ。況んや氣質や性格の本質で多少一般人と變つた人は、生活のあらゆる點で根本から不幸であり、絶えず社會と衝突し、大多數者と反目し合はねばならなくなる。何となれば今日の社會は、組織のあらゆる隅々まで、常に『公衆』と稱する大多數者の共有利便を主としてゐるからである。之れが『個人主義の社會』と言はれる、今日の資本主義的社會に於てさへさうである。況んや大多數者の平等利便を説く共産主義や社會主義の世になつたら、私のやうな人間は自殺するより他に道がなからう。

 それはとにかくとして、所詮私の生涯は苦惱時代の連續である。それは無限に連續した曠野の道で、どこが終りといふこともなく、どこが始めといふこともないけれども、時に或は多少の高低や凹凸がある。しかもその高低凹凸は、時々の事情によつて内容の種類を異にしてゐる。即ち或る時は家庭上の問題で、或る時は結婚や異性との問題で、或る時はまた藝術上や思想上やの問題で、夫々苦惱の内容を別にしてゐるが、畢竟ずるにどの場合も、根本におけるものは同じ私の性格であり、同じ一貫した運命主題のバリエーションに外ならない。ただ時々の環境と事情によつて、直接ぶつかつて來る題目の形がちがふばかりである。最近二三年間の私は、種々な意味で生活上の重大な過渡期に立つてる。東京に移つて來てから、故郷の田舍に居た時のやうな安靜と平和とが、物質的にも精神的にも、生活のあらゆる樣式から消えてしまつた。(したがつて私には、もはや昔の『靑猫』のやうな詩を書くことはできないだらう。)私の内的心境は、今や何かの新しき轉磯に向はうとして、混亂動搖の極に達してゐる。今の私の生活は、美や藝術を生むべくあまりに雜音的のものである。私は嵐の中にゐる。何物も創造されない所の、藝術前派の動搖期にゐる。實に最近二三年間、私は殆んど全く詩を作らず、何等の藝術品らしきものを書いて居ない。今後と雖も、私の中の嵐がしづまり、生活が創造的に完成するまで、決して私は藝術を生まないだらう。

 苦惱時代。もしその言葉が適應であるならば、或る意味で最近の私は、正に最も強いアクセントをそこにつける。

 

[やぶちゃん注:『若草』第四巻第二号・昭和三(一九二八)年二月号に掲載された。初出形では三箇所の違いがあるが、総て誤植と判断されるので、底本(筑摩版全集第八巻)の本文に従った。本作は同雑誌の特集「私の苦惱時代」中の一篇である旨の注記が底本の初出雑誌一覧に附されてある。朔太郎はこれに先立つ三年前の大正一四(一九二五)年二月に妻子と上京している(身邊雜記の私の注を参照)。この年の十二月に、構想草案から十年に及んだ「詩の原理」を上梓しているが、本格的な詩歌群の発表は、最後となった詩集「氷島」(この六年後の昭和九(一九三四)年刊)までなかった。

……朔太郎よ……君は日本主義者の仮面をつけることで、「自殺するより他に道がな」いはずの国粋主義の社会さえしぶとく生き抜いたではなかったか?……「自殺するより他に道がな」いとして、前年に自死した芥川龍之介は……君自身よりも君の節に忠実に従ったということを認めずんばなるまい?……]

蛙にのつた死の老爺 大手拓次

 蛙にのつた死の老爺

 

灰色の蛙の背中にのつた死が、

まづしいひげをそよがせながら、

そしてわらひながら、

手(て)をさしまねいてやつてくる。

その手は夕暮をとぶ蝙蝠のやうだ。

年(とし)をとつた死は

蛙のあゆみののろいのを氣にもしないで、

ふはふはとのつかつてゐる。

その蛙は横からみると金色(きんいろ)にかがやいてゐる、

まへからみると二つの眼(め)がとびでて黑くひかつてゐる。

死の顏はしろく、そして水色にすきとほつてゐる。

死の老爺(おやぢ)はこんな風にして、ぐるりぐるりと世界のなかをめぐつてゐる。

鬼城句集 春之部 松の綠

松の綠  金氣(きんき)吸うて滿山の松の綠かな

[やぶちゃん注:「金氣」は普通、秋の気配、秋気を指す語(秋は五行で金に当たる)であるが、松は常緑樹で秋になっても緑を保つ目出度い常磐木で、その秋の気を十全に吸い取って今この春も相変わらぬ緑の松葉を茂らせているの謂いであろうか。今一つ、ぴんとこない。識者の御教授を乞う。]

2013/05/03

北條九代記 禪師公曉鶴ヶ岡の別當に補す 付 實朝卿の歌

 


      ○禪師公曉鶴ヶ岡の別當に補す 付 實朝卿の歌

 

前將軍賴家卿の御息(ごそく)阿闍梨公曉は、園城寺(をんじやうじ)明王院の僧正公胤(こういん)の門弟となり。學道の爲に暫く寺門に居住ありしが、鎌倉に歸り給ふを、尼御臺政子の計(はからひ)として、建保五年十月十一日、鶴ヶ岡の別當職にぞ補せられける。陸奥守廣元朝臣は病惱危急なるによつて、出家し法名覺阿とぞ號しける。尋(つい)で平愈せしかども、眼精(がんせい)暗くして黑白(こくびやく)を分つ事、能はず。引籠(ひきこも)りてぞおはしける。同十二月二十五日、將軍家、御方違(かたたがへ)として、夜に入りて永福寺の僧坊に渡御あり。結城朝光判官基行等(ら)御供にて、終夜(よもすがら)、歌の御會を興行し、未明に還御あり。御衣二領を僧坊に殘し置かれ、一首の御詠を副(そ)へられけり。

 

  春待ちて霞の袖に重ねよと霜の衣を置きてこそ行け

 

北條右京〔の〕大夫義時を陸奥守に任ぜられ、時房を相摸守に遷任せらる。

 

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻二十三の建保五(一二一七)年六月二十日、十月十一日、十一月八日、十二月十日・二十五日・二十六日の条に基づく。以下、「吾妻鏡」については公暁と実朝の関係性を中心に見る。

 

「園城寺」滋賀県大津市にある天台寺門宗総本山長等山(ながらさん)園城寺。通称、三井寺。現在一般に通称の三井寺で呼ばれることが多い。この通称は寺内に涌く泉が天智・天武・持統三代の天皇の産湯として使われたとする伝承から「御井の寺」が転じたものとされる。

 

 建保五年六月二十日の条から見る。

 

○原文

廿日丙刀。晴。阿闍梨公曉〔賴家卿息。〕自園城寺令下著給。依尼御臺所仰。可被補鶴岳別當闕云々。此一兩年。爲明王院僧正公胤門弟。爲學道所被住寺也。

 

○やぶちゃんの書き下し文

廿日丙寅。晴る。阿闍梨公曉〔賴家卿が息。〕園城寺より下著せしめ給ふ。尼御臺所の仰せに依つて、鶴岳別當の闕(けつ)に補せらるべしと云々。

此の一兩年、明王院僧正公胤が門弟と爲り、學道の爲に住寺せらるる所なり。

 

・「鶴岳別當の闕」鶴岡大別当定暁(平時忠一門の出身。公胤の弟子で公暁は彼の元で出家し、彼に連れられて上洛して園城寺に入った)はこの年の前月五月十一日に帰寂した。

 

続いて、四ヶ月後の同年十月十一日の条。さる宿願のための千日参籠……早くも如何にも不穏な気配がして来るではないか。……

 

○原文

十一日乙夘。晴。阿闍梨公曉補鶴岳別當職之後。始有神拜。又依宿願。今日以後一千日。可令參籠宮寺給云々。

 

○やぶちゃんの書き下し文

十一日乙夘。晴る。阿闍梨公曉、鶴岳別當職に補さるるの後、始めて神拜有り。又、宿願に依つて、今日以後一千日、宮寺に參籠せしめ給ふべしと云々。

 

「陸奥守廣元朝臣は病惱危急なるによつて……」「吾妻鏡」の同年十一月八日に「目所勞。腫物等計會。」(目の所勞、腫物(しゆもつ)等、計會(けいくわい)す。)とあり、眼病と腫れ物の合併症とある(こう書くということは眼の腫れではない感じがする。眼病の方は白内障辺りか。「吾妻鏡」十二月十日の条にも確かに、『但眼精暗兮。不能分黑白云々。』(但し、眼精暗くして、黑白を分つに能はずと云々。)と極度の視力喪失に陥ったように描かれているのであるが、その後の「吾妻鏡」の記載や彼の行動を見ても、この時点で回復不能の失明に至ったという感じは少なくとも私にはしない。大江広元の逝去はこの八年後の嘉禄元(一二二五)年(享年七十八歳)である(この一ヶ月前に政子が死去している。これは私には興味深い事実なのである。それはまた書くこともあろう)。この場面後も実朝暗殺事件ではその計画を事前に知っているかのような意味深長な進言を拝賀の式の朝、実朝にしたりして、最後まで幕閣の重要人物として活躍してくれる(後に掲げる本巻掉尾の章を参照)。私は鎌倉初期の文官の中でも総合的見て好感を持てる人物である。その弱さを含めた人間性に於いて、である。

 

 

同年十二月二十六日は前夜の「續歌(つぎうた)の御會」(「吾妻鏡」二十五日の条。「續歌」は継歌・次歌とも書き、歌会で五十首・百首など一定数の詠題を籤(くじ)などで分けて列座の複数の者が次々に和歌を詠む歌合せの一種。鎌倉中期以降に流行した)で、永福寺に泊まり、その未明の帰還の部分である。

 

○原文

廿六日己巳。霽。未明還御。而被殘置御衣二領於彼僧坊。剩被副一首御詠歌。凡此御時。於事被盡御芳情云々。

 

  春待て霞の袖にかさねよと志もの衣を置てこそゆけ

 

○やぶちゃんの書き下し文

廿六日己巳。霽る。未明に還御。而して御衣(おんぞ)二領を彼(か)の僧坊に殘し置かる。剩(あまつさ)へ一首の御詠歌を副(そ)へらる。凡そ此の御時、事に於いて御芳情を盡さると云々。

 

  春待ちて霞の袖にかさねよとしもの衣を置てこそゆけ

 

 

この和歌は「金槐和歌集」の「巻之上 冬部」に、

 

    建保十二月方違のために永福寺の僧坊にまかりて、

    あしたかへし侍るとて小袖を殘しおきて

 

  春待(まち)て霞の袖に重ねよと霜の衣の置きてこそゆけ

 

の形で載る(引用は岩波古典大系に拠った)。引用本の小島吉雄氏の頭注に、「霜の衣」は『霞の袖に対応させて言った語。今は冬だから「霜の衣」といい、「おきて」の枕詞の如く用いた。吾妻鑑では「霜ノ衣ヲ」とある。意味はその方が明瞭であるが、修辞としては「霜の衣の」とある方が複雑化する』とあり、「おきて」については『「霜」の縁語。「置きて」と「起きて」の掛詞』とある。増淵勝一氏は「現代語訳 北条九代記」この歌を『春を待ちつつ、「重着(かさねぎ)の代わりに霞が袖に重なってほしい」と思うものだから、霜の下りている未明に、下(しも)の方の衣(きぬ)を置いて行くのである』と訳されておられる。
……この歌……しかし私は何か不吉な気がしてならない。……彼は名のみの春の雪降る正月二十七日の拝賀の式の夜に命を絶たれた……彼は春を待つことは出来なかった……いや……それが分かっていた……だから霜のように儚く消えゆく我が身にはもはや不要な衣を……置いてゆくのではなかったか……彼の魂が……まさに滅びの光に包まれた、春霞の中へと遠く消え去ってゆく……実朝にはその景色が見えていたような気が私にはするのである……]

明恵上人夢記 9

 建仁三年十月、夢に云はく、一つの大きなる筏有り。其の筏、白き布を以て帆と爲(せ)り。此の布、圓法房、□舍より持ち來りて懸けられたり。其の筏、數多の高尾(たかを)の人々之に乘る。誠におびたゝしき大瀧、枕に向ひて馳せ流る。成辨、不慮の外(ほか)に又之に乘る。心に思はく、我が頸に舍利を懸け奉れり。恐らく、此の筏、倒れ沈まば、舍利、水に沈み下りなむ。設(たと)ひ沈まずといへども、又、彼の濕潤(しふじゆん)を恐る。水よりおりて舍利を陸地におかばやと思へども、筏をとむべき樣もなし。箭(や)をつくが如くに走りて、惣(すべ)て抑ふべき樣なし。其の瀧は、をふひか瀧なんどの樣にて、それよりも誠にけはし。瀧へ正(まさ)しく筏のおち入る時に當りて、諸人皆、墮ち入りぬ。諸人は高尾におとなしくおはします人々也。餘人は雜(まじ)らず。成辨、舍利を守護して、つよく踏み張りて立てるに、筏、反覆(はんぷく)すといへども、只我一人墮ちずして、遂に淺瀨に行く。我云はく、「筏より降りし諸人は水を行く。足立つ計(ばか)り也。然りといへども、水に降りずして、遂に岸に到る。後、我は陸地に昇れり」と云々。

 

[やぶちゃん注:「筏」明恵はこの夢に先立つ五年前の建久九(一一九八)年秋、高雄から再び紀州白上に帰るが、そこも騒々しいとして生地に近い同じ有田郡の《筏》立(いかだち)に移っている。しかもこの夢の前年建仁二(一二〇二)年には明恵はこの《筏》立近傍の糸野に於いて、宿願であった天竺《渡航》を計画する。ところが、この夢を見る九ヶ月前の建仁三(一二〇三)年正月、春日明神の託宣を受けてこれを断念しているのである。更に言えば、この天竺《渡航》は明恵にとって極めて重要なものであって、実はこの二年後の元久元(一二〇五)年にも再度計画するも重い病いに罹った上、またしても渡航をよしとせぬ春日明神の神託があって、またしても頓挫するのである。この筏で川を下る夢の素材とこれらが無関係であるとは、私には到底思われないのである。

「圓法房」(承安四(一一七四)年~建長二(一二五〇)年)定真。空達房とも号した。高雄神護寺の僧であったが、後に明恵に師事して高山寺(明恵が高山寺を後鳥羽院より賜うのは建永元(一二〇六)年)に住んだ。高山寺方便智院(定真が開いた住房でかつては多くの聖教が所蔵されていた)の開基。明恵より一つ年下である。

「□舍」底本の判読不能字なのか、明恵による伏字なのか、不明。この布のあった場所がもしかすると、夢を解く鍵であった可能性もあるので、訳では伏字風に「■」としておく。

「其の瀧は、をふひか瀧なんどの樣にて、それよりも誠にけはし」「をふひか瀧」は不詳。岩波版にも注せず、那智四十八滝などを管見しても、類似音のものは見当たらない。識者の御教授を乞うものである。このシーンは夢の全能的(映画的)部分で、明恵は別なアングルでこの大瀑布を下から側面から上空から見ているのである。

「諸人は高尾におとなしくおはします人々也。餘人は雜らず」この部分は、後にこの夢記述している覚醒時の明恵による補足のように思われるが、夢の中でこうしたデーティルが意識されたものと考え、現代語訳ではそのままの形で空行を挟んで独立段落で示した。後の明恵自身の描写場面とのジョイントも、こうした方がすこぶるよい。

「又之に乘る」この表現は、現在の整序された底本を読む読者である我々には、明らかに直前に記されてある「7」の師や同行衆と船に乗る夢を指しているとしか思われない。私もそう訳したが、本原本が後に切り張りされたものであることなどを念頭におけば、必ずしもそうとは限らないことは注意せねばなるまい。]

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 建仁三年十月のある日の夢。

「一艘の大きな筏がある。

 その筏は白い布を以って帆としている。この布は円法房がわざわざ、かの■舎より持参して懸けて下さったものである。

 その筏に数多(あまた)の高雄神護寺の僧衆が乗っている。

 まっこと、大きなる滝があって、この川の流れの、その先の方(かた)で、それは烈しく迸(ほとばし)り下っているのである。

 私は思いがけないことに――以前の建仁元年正月の夢と同じように――またしても、この筏に乗り合せている。

 心中、

『……私のこの頸には仏舎利を懸け奉っている。この筏がもしひっくり返って水底(みなそこ)に沈んでしまったとしたならば、仏舎利もまた、水底に沈潜してしまわれることになろう。……たとえ――貴(とうと)き仏舎利なれば――不浄の大海に沈むことはなかったとしても……しかし、かくも有り難き仏舎利が水浸しになってしまわれることを私は恐れる!……ともかくも、この流れより岸へと降りて、尊(たっとき)き仏舎利を陸(おか)に安置し申し上げずんばならず!……』

と頻りに思うのではあったが、これ、筏を止める術(すべ)がない。

 矢を発(はな)ったような恐ろしい速さで筏は走る! 走る!

 止めるもなにも、全く以って、その速度を抑えるべき方途すらないのだ!

 その奔流の先の滝が見えてくる!

 その滝は、かの「をふひが滝」なんどに似ているものの、あれよりも遥かに岨(そばだ)っており、険しい!

――大滝!

――その大滝へ!

――まさしく我らの乗る筏が落ち入らんとする!

――と――その瞬間!

同じく筏に乗っていた高雄の僧衆らは皆、滝壺へと悉く堕ち入ってしまった!

 

 彼らは皆、神護寺にて、素直におとなしくなさっておられた僧衆であった。それ以外の御方は、その滝壺に堕ちた人の中には一人として交じってはいなかった。

 

 一方、私はと言えば、仏舎利を守護し奉って、筏の上にすっくと踏ん張って立っていた。

 筏が転覆した。

――ところが

――ただ私独りだけは

――滝へ落ちずに

――遂に滝上(たきがみ)の巌頭(がんとう)の浅瀬に泳ぎ着いたのであった。

 私は、

「……筏から降(くだ)った諸々(もろもろ)の人々は強い水流に押し流されて底知れぬ冥(くら)い滝壺の底へと転落して行った。――そして私の今さっきまでいたのは――瀬とはいうものの――やっと足の先が水底につくかつかぬかというほどに深い場所であった。――にも拘わらず、私はその圧倒的な水の力に押し流されながらも降(くだ)り堕ちることなく、遂にかくも岸へと到った!そして私は! 確かにこの陸地に昇ったのだ!!……」

と叫んでいた。……」

 

[やぶちゃん補注:本夢ではその用字や表現が実に興味深い。例えば、当時は未だ同行僧であった可能性が高い年下の円法房の実名表示と「られたり」の敬語使用、滝に「落つ」るのを「堕つ」ると表現している点やその「堕ち入」った僧衆は、高雄でもすこぶる優等生で「おとなしくおはします人々」であったという強烈な皮肉(これは明恵が――いっかな俗臭芬々たる高雄にはとてものことに「おとなしく」留まってなどおられぬわ!――という強烈な内向した不満・憤激の表現に外ならない)である「餘人は雜らず」という黙示的な指弾である。

 特に私は、明恵(成弁)がコーダの言上げで「降(くだ)る」「降(お)る」という動詞を用いて、意味を巧妙にずらしながら誇示する言葉を面白く感じる。そこでは――僧衆は筏から「降(くだ)って」(堕ちて)滝壺の奈落へ消えて去って行ったが、私は「水に降(お)」りることなしに、大地にすっくと立った――それも一切水に濡れさせなかった(と明恵は言うはずである)頸に懸けた仏舎利とともに!――と明恵は叫んでいるのである。

 河合隼雄氏はこの夢を「7」と絡めて、大日如来の経の入った袋を忘れたことや仏舎利の濡れることを気にする明恵の中に、『彼にとっての仏教の本質が損なわれることを危惧』する気持ちが働いているとともに(ここまでは誰もがそう容易に解釈するところである)、実は明恵『おそらく、少しの気のゆるみによって』、『容易に「出世」して、俗界に勢力をもつ僧となったり、「学者」として成功したりした』であろう自分を見据えていたに違いないと考えておられる。そう、はっきりと書かれてはおられるわけではないが、そう読め、これこそが非常に大切な明恵の夢分析に於ける眼目である、と私は明恵の夢を「読む」のである。当該書の一五三頁の頭にある。是非、御一読あられたい。まさしく明恵の精進への「上昇と下降」(河合氏の当該書の第四章の標題である)の内的な問題なのである。

 また河合氏は、明恵の高雄神護寺の雰囲気への鬱憤の核を「学問」に見、そこに明恵の批判的な視線として、その「学問」には正しい仏法理解の上での当時の僧の堕し易かった陥穽を以下のように示唆しておられる。

   《引用開始》

『伝記』によると、彼は常々、「慧(え)学の輩は国に満ちて踵(くびす)を継ぐといへども、定(ぢやう)学を好む人、世に絶えたり。行解(ぎやうげ)の知識欠けて、証道の入門拠(よりどころ)を失へり」と歎いた、とのことである。ここに彼が対比して語っている慧学と定学とは、仏教においてすべて必要とされる三学、つまり、戒・定・慧のなかの慧と定とを指している。当時の僧がもっぱら学問の方にのみ傾き、禅定による修行を怠っているので、悟りに至る道にどうして入門してゆくのか、それが一向分からなくなっている、と明恵は慨嘆している。

 夢は明恵のこのような生き方を支持し、「高尾におとなしくおはします人々」は水中に落下してしまうが、彼のみ陸地に至ることを告げている。「筏立」における自分の「定学」の修行が無駄なものでなかったことを、これによって明恵は知ることができたであろう。明恵には、もちろん何人かの若い僧が従っていたとは言え、まったくの孤独の道を歩んでいたので、夢による支持は、彼にとって実に大きな意義があったと思われる。

   《引用終了》

この河合氏の解釈は私には二重に興味深い。一つには、「何人かの若い僧が従っていた」という部分で、夢の中の円法房の存在が際立ってくるからである。もしかすると、この時既に円法房は明恵に従って筏立に来ていたのかも知れない。そうしたシンパシーこそが、筏を走らせるところの帆布(仏法の正しい定学の方向性を共有する者としてのシンボル)をもたらした円法房に具現されている。その証拠に、円法房は帆布を提供しながらも何故か、この筏に乗っていないようであり、従って滝壺に堕ち入る僧衆の一人でもないと読めるからである。今一つは、修行に於ける「学問」の持つところの危険性についてである。これと同じような認識が「一言芳談」に出る同時代の人々の片言に頻りに現われるという点である。伝統の平安旧仏教に属すかと思われた若き華厳僧明恵(当時は未だ満三十歳)の中に、新たな時代のヴィヴィッドな鬱勃たるパトスが湧き起っていたことの証左であると私には思われるのである。]

栂尾明恵上人伝記 22

 建仁元年二月の比、如心偈(によしんげ)の釋(しやく)竝に唯心義二卷之を作る。

 

 紀州保田(ほだ)庄の中に、須佐(すさ)の明神の使者といふ者の、夢の中に來りて、住處の不淨を歎き、又一尊の法、傳受の志甚だ深きの由を述べらる。然りと雖も、無沙汰にて心中計(ばか)りに存ぜられて、日を送られける程に、或時人に託して此の趣を託宣あり。先の夢に異ならず。不思議に思ひ合せられけり。爰に、身に於て其の憚りあり。授法の器(うつは)に非ずと云ひて固く辭せられければ、泣く泣く餘りに歎き申されける間、阿彌陀の印・眞言計りを傳授す。歡喜悦豫して去りぬ。此の如く靈物歸依渇仰(れいぶつきえかつごう)して、値遇(ちぐう)の志を述ぶる輩其の數を知らず。又石垣の地頭職違亂の事出で來りしかば、保田(やすた)の星尾(ほしを)と云ふ處に移り任し給ひぬ。

[やぶちゃん注:私の所持する、久保田淳・山口明穂校注岩波文庫版「明恵上人集」では「紀州保田(やすだ)庄」とし、末尾にはルビを振らず、平泉洸全訳注「明惠上人伝記」の原文パートでもともに「やすた」とし、両書ともにこの「保田」を現在の和歌山県有田市にあった庄名と採っている。]

こういうフリーキーな連中が尋ねて来るというのは、恐らく同時代の鎌倉新仏教の教祖群でも似たり寄ったりなのだろうなあ……

なお、

「明惠上人夢記 やぶちゃん訳注」の冒頭注でも述べた通り、明恵には、『表面的には専修念仏をきびしく非難しながらも浄土門諸宗の説く易行の提唱を学びとり、それによって従来の学問中心の仏教からの脱皮をはかろうとする一面』があり(初期の法然を彼は深く尊崇してもいた)、松尾剛次氏などは『明恵を祖師とする教団を「新義華厳教団」と呼んで』いる(引用はウィキの「明恵」より)など、僕は明恵を平安旧仏教の保守派に分類すべきではなく、法然・親鸞・日蓮と同列の、鎌倉新仏教のチャンピオンの一人と信じて疑わないのである。

(無題 やぶちゃん仮題「進化論」) 萩原朔太郎 (元始(はぢめ)、人が魚になる、……)

 

 

 

元始(はぢめ)、人が魚になる、

 

淫(たの)しい裸體をおよあすための魚になる、

 

魚が鳥になる、

 

その紅いあちこちをついばむための鳥になる。

 

鳥が蛇になる、

 

しとしとした襟くびに卷きつるむための蛇になる。

 

蛇が獅子になる。

 

耐えがたい肉の重みを嚙みしめる淫樂ところの獅子になる。

 

獅子が狼になる、

 

女の、血みどろの裸體(はだか)おんなの。その乳房が。

 

その心臟が喰べたしといふ。淫心兇器の

 

淫心兇器の狼となる。 

 

そうして人間の子供が成長し、進化する。 

 

[やぶちゃん注:底本第三巻の「未発表詩篇」に所収。無題。取り消し線は抹消を示す。「ついばむ」「しとしと」の太字は底本では傍点「﹅」。「元始」の読みの「はぢめ」及び「耐え」「おんな」「そうして」はママ。]

 

 

(無題「戀人よ……」) 萩原朔太郎

 

 

 

 

おんみ自身は健康を信ぜよである

 

戀人よ

 

おんみの病毒をおそるゝ勿れ

 

にんげんの愛愁はつねに疾患の 

 

[やぶちゃん注:底本第三巻の「未発表詩篇」に所収。無題。取り消し線は抹消を示し、その抹消部の中でも先立って推敲抹消された部分は下線附き取り消し線で示した。「愛愁」の「愛」はママ。底本には編者による『「疾患の」で中断したまま以下はない』旨の注記がある。]

 

 

白い象の賀宴 萩原朔太郎

 白い象の賀宴

 

香氣をはく無言のとき、

晝閒(ひるま)は羽團扇(はうちは)のやうに物のかげをおひたてて、

なにごともひとつらに足のあゆみを忍ばせる。

この隱密の露臺のみどりのうへに、

年とつた白い象は謙讓の姿をあらはして、

手(て)もない牙(きば)の樂器をかなでる。

女象(めざう)の足は地をふんで、

あやしい舞踏にふけり、

角笛の麻睡はとほくよりおとづれて、

たのしい賀宴の誇りをちらす。

 

[やぶちゃん注:「麻睡」はママ。

「ひとつら」「一連・一行」で、ひと続きに並ぶさま。一連(ひとつら)なり。一列。

「手もない」特異な用法である。文字通りなら、容易にとか難なくたやすく、若しくはそのままの意の「手も無く」を形容詞とした連体形であるが、用法としては特異で、私は寧ろ、同語又は類似した意味の動詞を並べて強く否定する表現の「ても…ない」の常套例「似ても似つかない」の省略形で、見たこともないような、の意をも(の方を)強く感じる。]

鬼城句集 春之部 李の花

李の花  落花する李かむりて小犬かな

     蜂の巣に落花してゐる李かな

     犬の來て李の落花掘りにけり

2013/05/02

鎌倉世界遺産落選記念 浅井了意「東海道名所記」より 藤沢遊行寺から江の島・腰越を経て鎌倉へ

浅井了意「東海道名所記」より 藤沢遊行寺から江の島・腰越を経て鎌倉へ

[やぶちゃん注:刊年は未詳ながら、「北条九代記」の作者とも目される戯作者浅井了意の万治元(一六五八)年頃の執筆と推定される仮名草子「東海道名所記」(六巻六冊)より。楽阿弥という道心者が主人公で、四国遍路から伊勢熊野、熊野浦から海路江戸へ向かい、鉄砲洲に上陸して江戸見物の後、何故かそこで京へ上って黒谷辺りに住もうと志し、芝口で会った二十四、五の若者(大阪商人の手代で初めて廻船に便乗して来府した)と道連れになって、東海道中の神社仏閣名所旧跡を訪ねてはその由来を述べ、狂歌俳諧をもものしつつ、京へ上るという、やや散漫な構成をとる仮構紀行小説である(以上は平凡社「世界大百科事典」の記載を参考にした)。但し、以下の鎌倉の下りは、実は実際の行程ではなく、戸塚と藤沢の間で若者の求めに応じて、かつて親しく訪ねたことがあるといった感じで楽阿弥が早回しで口上案内する体裁をとっている。なお、二人の会話の場所は、極めて高い確率で、今まさにこれをタイプしている私の書斎からせいぜい二キロ圏内の直近である(遊行寺は直線距離で一六〇〇メートルである)。
 底本は早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」の同図書館蔵の旧小寺玉晁(こでらぎょくちょう 寛政一二(一八〇〇)年~明治一一(一八七八)年:尾張名古屋藩陪臣であったが、百五十余冊に及ぶ著作を残した雑学者として知られる。)蔵本の画像を視認、濁音化不分明な個所については、吉川弘文館昭和六〇(一九八五)年刊の「鎌倉市史 近世近代紀行地誌編」に載る同部分(「温知叢書」第一巻底本)を対照資料として字を確定した。極めて明白な「沢」などの略字以外は基本的に正字を採用した。文意から適宜句読点や会話記号などを配し、濁点を追加して打った箇所もある。踊り字「〱」は正字化するか「々」に代えた。「阿部の貞任」「正長壽院」「寶國寺」「五臺堂」「光澤寺」「名月院」などの漢字表記の誤り、「男(おとこ)」「すへて」「五かいな」「治承(ぢせう)」「ゑがらの天神」「をよそ」などの歴史的仮名遣の誤りなどが散見されるが、すべてママである。読みがやや五月蠅く感じられる向きの方のために、直後に読みを排除したものを載せ、最後に注を附した。]

とつかより藤澤(ふぢさは)へ二里
右のかたに八幡(まん)の宮ゐあり。松山の中に時宗(じしう)の寺あり。はら宿の町はづれより鎌倉(かまくら)山たまなはの城(しろ)みゆ、道のほど一里(り)半ばかりなり。かの男(おとこ)いふやう、「鎌(かま)くら山は程ちかし、是よりゆきてみんも末(すゑ)いそがはし、御房(ごばう)はさこそ見玉ひつらん、鎌(かま)くらのあり樣かたりてきかさせ玉へ」といふ。樂阿彌(らくあみ)、聞(きゝ)て、「それがしも、そのかみ見侍べりしかども、久しく成ぬれば、しかとは、おぼえず。名ある所々あらあらかたり申すべし。鎌(かま)くらの谷(やつ)七郷(がう)すべて三里(り)四方あり。入口あまたあり。中にも、江嶋口より腰越(こしごへ)に出てゆけば、右の方は大海(だいかい)なり。海の中に島あり、江嶋(えのしま)といふ。嶋のあなた、岸(きし)の下に大なる岩(いは)あなあり。續松(ついまつ)をともして、おくふかく入てみれば、一町半ばかりにして、おくはとまりぬ。いにしへ龍神(りうじん)のすみける蹟(あと)なりといひつたへたり。このしまの弁才天(べんざいてん)は、世にかくれなき御事なり。腰越(こしごへ)は、そのかみ、九郎判官(はうぐわん)よしつね、さぬきのやしま壇(だん)のうらにて平家をほろぼし、宗盛父子(むねもりふし)をいけどり、鎌くらに下り、賴朝(よりとも)に奉り、一かどの勸賞(かんじやう)にもあづからんと思ひし處に、梶原(かぢはら)の景時(かげとき)に讒(ざん)せられ、こしごへに關(せき)をすへて、義經(よしつね)をよせられざりけり。今に傳(つた)へて腰越(こしごへ)の狀(じやう)とて、世にうつしよむは、よしつねこゝにて書(かき)つゝ、賴朝(よりとも)につかはされし狀なり。道(みち)の左(ひだり)には、かたせ、うばがふところ、音なしの瀧(たき)あり。行合川(ゆきあひがは)を渡り、極樂寺(ごくらくじ)、新宮(しんぐう)が谷(やつ)、火(ひ)うちが峠(たうげ)を左にみて、西谷よりながるゝ川を渡り、西方寺(さいはうじ)が谷(やつ)、星(ほし)月の井、權五郎景政(かげまさ)がすみける蹟(あと)、はせの觀音(くわんをん)、日蓮(にちれん)上人の寵(ろう)やの蹟を左(ひだり)にみて、かな山が谷(やつ)、かねあらひ沢、ひでの浦(うら)を右(みぎ)の方にみなし、猶大谷の大佛(だいぶつ)より右のかた、盛久(もりひさ)が松とて磯(いそ)にあり。由井(ゆゐ)の濱(はま)を妻手(めて)にみて、長樂寺(らくじ)が谷、あまなはの明神(みやうじん)、みこしがたけ、いた佛の谷、正八幡(しやうはちまん)の谷、稻荷(いなり)の明神(みやうじん)、手(て)さきが谷、かくれ里(ざと)、梅(うめ)が谷、景淸(かげきよ)が篭(ろう)の蹟を左に見て、岩(いは)やの不動(どう)尊が谷を打過、雪のしたをうちながめ、鶴(つる)が岡(をか)に行いたれば、濱(はま)べよりそりはしまで、八幡(まん)の鳥井(とりゐ)、三重(ぢう)あり。橋(はし)を渡りて門に入、右のかたに大塔(とう)あり、左の方に護摩堂(ごまだう)あり。おくにいたりて石だんあり、右には若宮の社(やしろ)、藥師堂(やくしだう)あり、左のかたは輪藏(りんざう)なり。石だんのもとに、左に銀杏(いちやう)の木(き)、ふとさ五かいなばかり也。右のかたには、なぎの木あり。八まんの宮井(みやゐ)、物ふりたり。そもそもこの鶴(つる)が岡の八まんは、そのかみ、源(みなもと)の賴義(よりよし)、阿部(あべ)の貞任(さだたう)・宗任(むねたう)をせめられしとき、康(かうへい)平六年八月にいはしみづの八幡(まん)を勸請(くわんじやう)して、由比(ゆひ)の郷(がう)に宮をたてらる。永保(えいほう)元年に源義家(みなもとのよしいへ)、これをしゆりせらる。今の若宮(わかみや)と申すはこれなり。治承(ぢせう)四年十月に、源賴朝、これを小林(こばやし)の郷(がう)の北(きた)の山にうつし奉らる。今、此御やしろ、これなり。三の鳥井のまへを東にゆきて、景政(かげまさ)が墓所(はかどころ)に石塔(せきとう)あり。八幡(まん)を左にみて西の方に横(よこ)おるゝ道あり。田代(たしろ)の冠者(くわんじや)、北條(はうでう)の四郎がすみける蹟、葛西(かさい)が谷(やつ)を右に見なし、兵衞(ひやうゑ)の佐賴朝(よりとも)のすみ給へるあとゝて、八町四方の所あり。ゑがらの天神、茅(かや)の阿彌陀(あみだ)、龜(かめ)がふちの谷、杉本(すぎもと)の觀音(くわんをん)を左にみて、正長壽院(ちやうじゆゐん)は南(みなみ)のかたなり。こゝはよしとも、鎌だが首をうづまれし所なり。犬かけ山、寶國寺(はうこくじ)、杉(すぎ)が谷(やつ)をうち過て、左のかたは五臺堂(だいだう)、泉(いづみ)が谷(やつ)、東のかたに、あかしが谷(やつ)、光澤寺(くわうたくじ)。この寺(てら)のうちには、むかしかまくらの、町(ちやう)のつぼねといふ女房(にようばう)、思ひの外のとがに落され、そのかほに錢(ぜに)をやきてあてたりしに、つぼね、ふかく彌陀如來(みだによらい)にいのりしかば、身がはりに立(たち)給ひて、佛(ほとけ)のおかほに錢の燒痕(やけあと)つかせ給ひ、膿血(うみち)のながれ給ひしと也。この阿彌陀をほうやけの彌陀(みだ)と名(な)づけて、此寺におはします。かうべ塚(つか)を過ぬれば、金ざは口に出る也。又金澤(かなざは)と申すは、武藏國(むさしのくに)名譽(めいよ)の景(けい)ある所なれば、屏風(びやうぶ)にうつして、これをもてあそぶ。嚴嶋(いつくしま)・あまの橋立(はしだて)のよき景(けい)も、こゝにはまさらじといひあへり。又八幡(まん)の二の鳥居(とりゐ)より東(ひがし)をさしてゆく道あり。どつかうが谷(やつ)、にしが谷、花の谷、日蓮(にちれん)の籠(ろう)のあと有。誠(まこと)にこの上人は、法花宗(ほつけしう)の開山(かいざん)、淨行(じやうぎやう)ぼさつの化身(けしん)として、此經(きやう)をひろめ給ひしに、人みな、これをしんげうせず、とらへて籠(ろう)に入たる事も度々にて、かまくらのうちにも籠(ろう)やのあ二ケ所(かしよ)あり。をよそ一代(だい)のうちに大難(なん)にあふ事、四十八度(ど)、小難(せうなん)はかずをしらず。かゝる苦勞(くろう)の中より、此宗(しう)、あまねくひろまりて、はんじやうするこそたうとけれ。桐(きり)が谷(やつ)をゆんでになし、祝嶋(いはひしま)を右にみて、光明寺(くわうみやうじ)に行道あり。今の世までも淨土宗(じやうどしう)の檀林(だんりん)として、所化(しよけ)あまたありといふ。それより東に行過(ゆきすぎ)て、小坪(こつぼ)口に出る也。又この戸塚(とつか)より、かまくらへ行には、いなりが谷、かな山が谷、松が岡(をか)の比丘尼御所(びくにごしよ)を右になし、比丘尼(びくに)山をゆん手に見やり、山の内の左に圓覺寺(ゑんがくじ)、名月院(めいげつゐん)、六國みの峯(みね)、建長寺(けんちやうじ)、地ごく谷(だに)をうち過、雪(ゆき)の下山、正でん山(さん)を右になし、左は又鶴が岡(をか)なり。八幡(まん)のうしろには、龜山院(かめやまのゐん)より廿五ケゐん院號(ゐんがう)を下され、廿五ケ院(かゐん)いまにあり。西みかど、報恩寺(ほうをんじ)、光福寺(くわうふくじ)、太平寺(たいへいじ)、樂音寺(がくをんじ)、石山(いしやま)が谷、師子舞(ししまひ)が谷、これらの谷々寺々は、そのかず、かぎりはなきぞかし」と、ねんごろにかたりければ、この男(おとこ)、うち聞て、目にみるやうにおぼえて、よろこびつゝうちつれて行。

■読み排除版
とつかより藤澤へ二里
右のかたに八幡の宮ゐあり。松山の中に時宗の寺あり。はら宿の町はづれより鎌倉山たまなはの城みゆ、道のほど一里半ばかりなり。かの男いふやう、「鎌くら山は程ちかし、是よりゆきてみんも末いそがはし、御房はさこそ見玉ひつらん、鎌くらのあり樣かたりてきかさせ玉へ」といふ。樂阿彌、聞て、「それがしも、そのかみ見侍べりしかども、久しく成ぬれば、しかとは、おぼえず。名ある所々あらあらかたり申すべし。鎌くらの谷七郷すべて三里四方あり。入口あまたあり。中にも、江嶋口より腰越に出てゆけば、右の方は大海なり。海の中に島あり、江嶋といふ。嶋のあなた、岸の下に大なる岩あなあり。續松をともして、おくふかく入てみれば、一町半ばかりにして、おくはとまりぬ。いにしへ龍神のすみける蹟なりといひつたへたり。このしまの弁才天は、世にかくれなき御事なり。腰越は、そのかみ、九郎判官よしつね、さぬきのやしま壇のうらにて平家をほろぼし、宗盛父子をいけどり、鎌くらに下り、賴朝に奉り、一かどの勸賞にもあづからんと思ひし處に、梶原の景時に讒せられ、こしごへに關をすへて、義經をよせられざりけり。今に傳へて腰越の狀とて、世にうつしよむは、よしつねこゝにて書つゝ、賴朝につかはされし狀なり。道の左には、かたせ、うばがふところ、音なしの瀧あり。行合川を渡り、極樂寺、新宮が谷、火うちが峠を左にみて、西谷よりながるゝ川を渡り、西方寺が谷、星月の井、權五郎景政がすみける蹟、はせの觀音、日蓮上人の寵やの蹟を左にみて、かな山が谷、かねあらひ沢、ひでの浦を右の方にみなし、猶大谷の大佛より右のかた、盛久が松とて磯にあり。由井の濱を妻手にみて、長樂寺が谷、あまなはの明神、みこしがたけ、いた佛の谷、正八幡の谷、稻荷の明神、手さきが谷、かくれ里、梅が谷、景淸が篭の蹟を左に見て、岩やの不動尊が谷を打過、雪のしたをうちながめ、鶴が岡に行いたれば、濱べよりそりはしまで、八幡の鳥井、三重あり。橋を渡りて門に入、右のかたに大塔あり、左の方に護摩堂あり。おくにいたりて石だんあり、右には若宮の社、藥師堂あり、左のかたは輪藏なり。石だんのもとに、左に銀杏の木、ふとさ五かいなばかり也。右のかたには、なぎの木あり。八まんの宮井、物ふりたり。そもそもこの鶴が岡の八まんは、そのかみ、源の賴義、阿部の貞任・宗任をせめられしとき、康平六年八月にいはしみづの八幡を勸請して、由比の郷に宮をたてらる。永保元年に源義家、これをしゆりせらる。今の若宮と申すはこれなり。治承四年十月に、源賴朝、これを小林の郷の北の山にうつし奉らる。今、此御やしろ、これなり。三の鳥井のまへを東にゆきて、景政が墓所に石塔あり。八幡を左にみて西の方に横おるゝ道あり。田代の冠者、北條の四郎がすみける蹟、葛西が谷を右に見なし、兵衞の佐賴朝のすみ給へるあとゝて、八町四方の所あり。ゑがらの天神、茅の阿彌陀、龜がふちの谷、杉本の觀音を左にみて、正長壽院は南のかたなり。こゝはよしとも、鎌だが首をうづまれし所なり。犬かけ山、寶國寺、杉が谷をうち過て、左のかたは五臺堂、泉が谷、東のかたに、あかしが谷、光澤寺。この寺のうちには、むかしかまくらの、町のつぼねといふ女房、思ひの外のとがに落され、そのかほに錢をやきてあてたりしに、つぼね、ふかく彌陀如來にいのりしかば、身がはりに立給ひて、佛のおかほに錢の燒痕つかせ給ひ、膿血のながれ給ひしと也。この阿彌陀をほうやけの彌陀と名づけて、此寺におはします。かうべ塚を過ぬれば、金ざは口に出る也。又金澤と申すは、武藏國名譽の景ある所なれば、屏風にうつして、これをもてあそぶ。嚴嶋・あまの橋立のよき景も、こゝにはまさらじといひあへり。又八幡の二の鳥居より東をさしてゆく道あり。どつかうが谷、にしが谷、花の谷、日蓮の籠のあと有。誠にこの上人は、法花宗の開山、淨行ぼさつの化身として、此經をひろめ給ひしに、人みな、これをしんげうせず、とらへて籠に入たる事も度々にて、かまくらのうちにも籠やのあと二ケ所あり。をよそ一代のうちに大難にあふ事、四十八度、小難はかずをしらず。かゝる苦勞の中より、此宗、あまねくひろまりて、はんじやうするこそたうとけれ。桐が谷をゆんでになし、祝嶋を右にみて、光明寺に行道あり。今の世までも淨土宗の檀林として、所化あまたありといふ。それより東に行過て、小坪口に出る也。又この戸塚より、かまくらへ行には、いなりが谷、かな山が谷、松が岡の比丘尼御所を右になし、比丘尼山をゆん手に見やり、山の内の左に圓覺寺、名月院、六國みの峯、建長寺、地ごく谷をうち過、雪の下山、正でん山を右になし、左は又鶴が岡なり。八幡のうしろには、龜山院より廿五ケゐん院號を下され、廿五ケ院いまにあり。西みかど、報恩寺、光福寺、太平寺、樂音寺、石山が谷、師子舞が谷、これらの谷々寺々は、そのかず、かぎりはなきぞかし」と、ねんごろにかたりければ、この男、うち聞て、目にみるやうにおぼえて、よろこびつゝうちつれて行。

[やぶちゃん注:以下、多くの固有名詞が表記が不確かであったり、誤りであったり、実在する地名であっても叙述行程から外れる位置にあったりしている。乏しい知識による私の同定の漏れや誤りにお気づきになられた方は、是非とも御一報戴きたい(特に全く不明なものの頭には「★」を附した)。よろしくお願い申し上げる。
★「八幡の宮」不詳。識者の御教授を乞う。現在の横浜市内にある/あった八幡社である。
「松山の中に時宗の寺あり」藤沢市西富にある時宗総本山藤沢山無量光院清浄光寺(しょうじょうこうじ)。代々の遊行上人が法主(ほっす)であるために遊行寺の通称の方が知られている。
「はら宿」神奈川県横浜市戸塚区原宿。古くは相模国鎌倉郡原宿村で、東海道(現在の国道一号線)の戸塚宿と藤沢宿の中間の高台に設けられた間(あい)の宿(宿場としては非公認なもので宿泊は原則禁じられていた)。
「たまなはの城」玉縄城。ウィキの「玉縄城」などによれば、江戸期には家康側近の本多正信の居城となり、その後はその一門の長沢松平氏の居城となったが元禄一六(一七〇三)年に長沢松平正久が上総国大多喜藩へ転封となったのを機に廃城となったが、本記載の頃にはまだ玉縄藩の居城であった。
「かの男」冒頭注で記した楽阿彌の同行者である大阪商人の手代の若者。
「續松」「つぎまつ」(継ぎ松)の音変化。松明(たいまつ)。
「一町半」一町は約一〇九メートルであるから、凡そ一六五メートル弱。
「うばがふところ」は「姥が懐」。現在の江ノ電稲村ヶ崎駅の西の奥の姥ヶ谷(うばがやつ)のこと。元弘三(一三三三)年の鎌倉攻めの際には新田義貞は伏兵を置いたと伝え(「相模風土記」)、古くは姥ヶ懐と呼ばれた。周辺には末期横穴古墳が多数ことと、この不思議な名は何か関係がありそうに私には思われる。
★「新宮が谷」不詳。識者の御教授を乞う。
「西方寺が谷」「西方寺」は廃寺で、もと極楽寺寺内域にあった。「武蔵国風土記」の都築郡新羽村(現在の横浜市港北区新羽町)の条に見える西方寺は、この寺が移転したものともいう。極楽寺切通沿いには現在、西方寺跡として伝関東管領上杉憲方及び同妻の墓などの石塔群が並ぶ。
★「かな山が谷」不詳。識者の御教授を乞う。次に出る金洗沢の奥の谷か。
「かねあらひ沢」金洗沢。行合川の西の海岸を指すが、叙述の順序が後先してしまい、おかしい。
★「ひでの浦」行程からは位置的に由比ヶ浜の西の入り江を指すように読めるが、前注で記したように叙述に齟齬があるから、七里ヶ浜一帯の浦をこう呼称した可能性も否定出来ない。識者の御教授を乞う。
「妻手」馬手。右手のこと。弓道では現在もこう呼んでいるようである。
「長樂寺が谷」現在、乱橋材木座から長谷及び坂ノ下のかなり広い地域の字名として長楽寺が残るが、特に廃寺となった長楽寺という寺があったとする笹目谷辺りがこの谷戸であったと考えると、叙述とは頗るマッチする。
★「いた佛の谷」不詳。識者の御教授を乞う。
★「正八幡の谷」不詳。識者の御教授を乞う。現在の地形から見るととても谷であったとは考えられないが、由比の若宮の元八幡周辺のことを指すものか。
「稻荷の明神」次に「かくれ里」(銭洗弁天)が出るから佐助稲荷のことと思われる。
★「手さきが谷」不詳。識者の御教授を乞う。
「梅が谷」現在は亀ヶ谷切通の下方、薬王寺周辺をこう呼称しているが、古記録では化粧坂下の北の谷とも言い、今以って同定不能である。
「五かいな」「かいな」は「かひな」で腕、肱。腕の肩から肱(ひじ)までの二の腕部分又は肩から手首までの部分を指す。私の腕で図ると凡そ五〇センチメートルであるから、二メートル半程度に相当するか。
「なぎの木」裸子植物門マツ綱マツ目マキ科ナギ Nageia nagi。針葉樹でありながら広葉樹のような卵形の楕円状を成す葉が特徴。雌雄異株。今も鶴岡八幡宮内に現存する。鶴岡八幡宮公式サイトの「樹木物語 《梛》なぎ」に『梛(なぎ)は海の凪(なぎ)に音が通じるところから航海の安全を願う信仰を集めてきた木』であるとし、『大石段の最上段から若宮を結ぶ線の丁度中間あたりにあり』、幹の周囲は約一・一メートル、樹高約二〇メートルとあり、『この木は雄株ですがその隣に一回り小さい雌株もあります。自生地は近畿地方以西ですから野生ではありません』。『この平行脈の走った葉は縦にはなかなか引きちぎれず力がいりベンケイナカセ、センニンリキの別名を持っています。熊野速玉大社のご神木として古来より有名です』。『当宮ではこのナギの木は大切な木だと伝えられてきました。新編相模国風土記の「石階」の段に「階下西方ニ。銀杏ノ老樹アリ。……階下ノ東方ニ。梛樹アリ。」と見えます。現存の位置と同じで大銀杏と同様に扱われていることが分かります。また源実朝公の歌に「み熊野のなぎの葉しだり雪降れば神のかけたる四手にぞ有らし」とあり、ナギの木がご神木であることがはっきり歌われています。この木より、往古の鎌倉人が、航海の安全を祈る姿が鮮やかに想像されます』とある。
「阿部の貞任」「安倍の貞任」の誤り。
「しゆり」修理。
「景政が墓所に石塔あり」これは古地図にも出るが、現存しない。
「茅の阿彌陀」覚園寺の薬師堂にある、旧理智光寺(廃寺)の本尊であった鞘阿弥陀(胎内物があったことに由来する)と称する木像阿弥陀如来坐像のことを指していると考えてよい。
「正長壽院」「勝長壽院」の誤り。
「よしとも、鎌だ」源義朝と命運をともにした乳兄弟の家臣鎌田政清(現在の一般呼称では「かまた」と濁らない)。
「寶國寺」「報國寺」の誤り。
★「杉が谷」現在、先に出た永福寺の奥の谷戸の手前一帯である「龜がふち」(亀ヶ淵)のその更に北のどん詰まりを杉ヶ谷と呼称するが、この叙述とは齟齬する。識者の御教授を乞う。
「五臺堂」「五大堂」明王院の誤り。
「泉が谷」現在の明王院の胡桃川(滑川上流域名)を隔てた南西の谷である泉水ヶ谷のことであろう。
「あかしが谷」明石ヶ谷は光触の手前の金沢街道が大きく北に折れる部分から胡桃川を渡った南の谷戸。
「光澤寺」「光觸寺」の誤り。
「町のつぼねといふ女房、思ひの外のとがに落され、そのかほに錢をやきてあてたりしに、つぼね、ふかく彌陀如來にいのりしかば、身がはりに立給ひて、佛のおかほに錢の燒痕つかせ給ひ、膿血のながれ給ひしと也」伝承の「頬焼阿弥陀縁起」の内容が致命的に誤っている。正しくは町の局が施主の女主人で、彼女が家内盗難の嫌疑をかけられた万歳法師に懲らしめのために焼印を据えるも、跡が附かず、彼女の持仏の阿弥陀像の頬にその焼け跡が顕われ、残虐非道を悔いて法師とともに出家、仏像は何度補修しても頬の焼跡が消えず、奇蹟を永く伝えるためにそのままに残され、頬焼け阿弥陀(本文の「ほうやけの彌陀」)として信仰されるに至ったという設定である。
「かうべ塚」やや谷戸奥で位置関係が難しいものの、所謂、北条一族の首を葬ったと伝わる場所の一つである、お塔が窪のことかと思われる。現在の天園ハイキングコース貝吹地蔵下から東の谷へ下りた十二所へと向かう小道の途中にある。「過ぬれば、金ざは口に出る也」というのは鼻欠地蔵辺りであるとぴったりくるのであるが、「かうべ」(首)と「塚」というのが、かなりはっきりと地蔵像が切岸に見えていたはずの当時の鼻欠地蔵には、そぐわない表現である。
「金澤と申すは、武藏國名譽の景ある所なれば、屏風にうつして、これをもてあそぶ」これより後、「新編鎌倉志」を板行した水戸光圀の保護を受けた、明の渡来僧東皐心越(とうこうしんえつ 崇禎十二(一六三九)年~元禄九(一六九六)年)が金沢を訪れ、自身が暮らした西湖の美景「瀟湘八景」に倣って八景を選んで八首の漢詩を残した。これが金沢八景の由来である(八景やその漢詩及び歌川広重の錦絵は私の電子テクスト「鎌倉攬勝考卷之十一附録」の「金澤」の項の「八景」を是非、参照されたい)が、実はそれ以前から「瀟湘八景」に擬えたプロトタイプの名数はあった。詳しくは私の電子テクスト「新編鎌倉志卷之八」の「能見堂」の項を参照されたい。
★「どつかうが谷」不詳。漢字も思い浮かばぬ。識者の御教授を乞う。
★「にしが谷」不詳。識者の御教授を乞う。現在の西ヶ谷は永福寺の西奥のどん詰まりの谷戸で、位置が全く合わないから違う。
「日蓮の籠のあと」現在の安国論寺境内。
「しんげう」信仰。
★「祝嶋」位置関係から見ると、現存する最古の人口の築港跡である和賀江の島しかない。但し、ここを「祝島」と呼称したという記録は知らぬ。識者の御教授を乞う。
「所化」広く寺に勤める役僧のことも言うが、ここは修行中の学僧の謂いであろう。
★「いなりが谷」不詳。識者の御教授を乞う。叙述順序から見ると現在の鎌倉市内ではなく横浜市内かと思われる。
★「かな山が谷」不詳。識者の御教授を乞う。同前の疑義あり。
「松が岡の比丘尼御所」東慶寺のこと。
★「比丘尼山」不詳。識者の御教授を乞う。「ゆん手に見やり」とあるから、東慶寺背後の松ヶ岡ではあり得ないことになる。
「雪の下山」鶴岡八幡宮後背の大臣山(だいじんやま)のことを指しているか。
★「正でん山」不詳。識者の御教授を乞う。旧巨福呂坂切通の南西の丘陵地(窟不動の北方のピーク)を指すか。
「報恩寺」廃寺。山内若しく名越(移転説あり)にあった。
★「光福寺」不詳。識者の御教授を乞う。廃寺に広福寺という寺があるが、廃寺時期が古くこれではあるまい。現存する光則寺などの誤りの可能性もある。
「太平寺」廃寺。西御門にあったが、同地に江戸時代には高松寺(こうしょうじ)があった。どちらも尼寺である。
「樂音寺(がくをんじ)」音からすると覚園寺の誤記が強く疑われるが、前に同寺蔵のはずの「茅の阿彌陀」が出てはいるから、別な寺の誤記かも知れぬ。
★「石山が谷」不詳。識者の御教授を乞う。
「師子舞が谷」獅子舞谷は別名を紅葉ケ谷(ももみじがやつ)と言い、現在、瑞泉寺の手前一帯から同寺周辺の谷戸をこう呼称している。]

中島敦漢詩全集 七

  七

窗外風聲近

寒燈照瘦人

歳除痾未

烹藥待新春

 

○やぶちゃんの訓読

 

窗外(さうぐわい) 風聲(ふうせい)近く

寒燈 瘦人(そうじん)を照らす

歳除(さいぢよ) 痾(やま)ひ未だ癒えずして

藥(やく)を烹(はう)じ 新春を待つ

 

〇T.S.君原案(一部は藪野補筆)の中国語を踏まえた語釈

・「窗外」窓の外。「窗」は「窓」の正字。高校生でも、この字の部首を「宀」(うかんむり)ととり、四画から七画の部分を「公」と書く生徒が多かった。「窓」は活字を見ても、一目瞭然、また意味を考えて見ても合点がゆくはずであるが、「穴」(あなかんむり)である。「廣漢和辭典」の解字によれば、この字は形声で、「穴」+「悤」(声)、「悤」は「窗」の下部の「囱」に通じ、屋根に空けたまどの意。これらの字体の元となった篆書体では「穴」を付加して意味を明らかにしてあるが、最初の字体は「囱」である、とある。なお、日本語でいう『窓』は、中国語では古来より「」である。

・「風」風の音、噂話、声望などという意味があるが、ここでは普通に、風が何かに当たって立てる音、もしくは風が鳴る音。

・「寒燈」寒い夜の一灯の照明。往々にして孤独でもの寂しいさまを形容する際に使用される。中国古典での用例も比較的多い。

・「瘦人」文字通り、痩せた人である。但し、通常は必ずしも病人を指すものではない。

・「歳除」一年最後の日。大晦日。

・「」病い。

・「烹藥」「」は、煮る、沸かす、他に油を加えて炒めた上で調味料で味付けをするという意味がある。「」と合わせ、ここでは薬を煎じる(煮詰める)という意で取ってよかろう。ちなみにネットで調べたところ、喘息に効果のある漢方の処方として、薬草を煎じる場合も十分あるようである。俳句では、末期の芭蕉が絶賛したという丈草の句に「うづくまる薬の下の寒さ哉」、それをパロディ化した芥川龍之介の句に「藥煮るわれうそ寒き夜ごろ哉」などがある。

・「待新春」文字通り、一種の期待感を持ちつつ新春を待つこと。古くは唐代の詩にも用例を見出すことが出来る。

 

T.S.君による現代日本語訳

 

木枯らしが――

ふと時折、なにか

思い出したかのように

窓の硝子をひとしきり叩き

まるで私を愚弄するかのように

ガタガタとやかましい音を立てている

窓を隔てた向こう、暗闇の立ち籠める戸外では

寒風に嬲られる裸ん坊の木立が「をうをう」と叫んでいる

ほらすぐそこだ! 聞き給え、私を取り囲む冬の無神経で無慈悲な呟きを

一盞(いっせん)の灯(ともしび)が――

私の落ち窪んだ眼窩、削げた頬、尖った顎に深々と陰翳を刻む

もう大晦日だというのに、未だ病は癒えぬ

薬を煎じる音、立ち上る湯気

自分の前に横たわる

遠い運命を想い

目前に迫った

新たな年の

到来を

待つ

 

〇T.S.君とやぶちゃんの協働取組みによる評釈

 難しい用字もない素直な詩である。

 それなのに、起句と承句によって、目に見える範囲の光景を完全に捉え切ってしまう、その描写力に驚かされる。前半の二行だけから把握できることを、まずはシナリオ風に書き記してみよう。

 

――冬の夜、詩人は屋内に独り、仄かな淋しい唯ひとつの燈火の下に佇んでいる。(貧しさのためか病のためかまだ分からぬ)

――彼は非常に痩せ細っている。

――詩人の耳に届くのは、窓の外を吹く冷たい風の音ばかりだ。(密閉性に乏しい日本家屋。窓周りから戸外の騒音を十分に通してしまうような建て付け。)

――窓のすぐ向こうの木立の騒ぐ音、電線の鳴る音だって手に取るようだ。

 

 次に窓そして室内を見てみよう。イメージとしては数十年前迄なら極当たり前だった日本家屋の窓そしてその書斎を想起されたい。私と一緒に、あの頃に、戻ってみよう。

 

――全開口部を覆うような一枚硝子ではない。木製の窓枠の内側に同じく木製の幾つかの格子が設えられた窓。それらの長方形の幾つもの区画には比較的小さな硝子板がひとつずつ嵌め込まれている。それだって、当然ながら充填剤などで周囲を固定された、振動や隙間風を防ぐような洒落た代物であろうはずもない。木製の格子枠に溝が誂えられており、そこに直接、硝子板が嵌め込まれているのである。強い風が当たれば、当然それらは一斉にガタガタと音を立てる。無数の隙間からは冷気が忍び込んでくる。照明は、まさか蝋燭ではないだろうから隙間風で揺らぐようなことはあり得ぬが、現代のような、天井板や家具の蔭まで舐めるような光を投げ掛ける、のっぺりと青ざめた蛍光灯などではない。おそらく白熱電球だ。そのたった一つの光源から四方に照射される減衰率の高い光線に――詩人の身体、そして顔が――照らされている。そうして単調な、しかし彫りの深い陰翳を形作っているのである……。

 

 さて続く転句では詩人が病を患っていることが、結句では薬を煎じていることが明らかとなる。

 何の病なのだろう。

 無論、中島敦が宿痾の喘息を抱えていたことを、私は既に知ってしまっている。が、しかし、私は敢えてこの詩ひいては文学というものに、謙虚な敬意を払って、そうした周縁的予備知識を一度封じて、詩だけに体当たりすることとしたい。

 

――吹きすさぶ木枯らしの音

――薬を煎じる際の湯が煮立つ音と湯気の立ち上る音

――乾燥した冬の大気にあっという間に拡散していく水蒸気

――乾いた空気に痛めつけられる口腔や喉の粘膜

 

この映像には何処となく、呼吸器系の病いのイメージが重なる。木枯らしが直ちに喘息で咳き込む音の象徴であるとまでは言わずとも、ここで聞き取れる幾つかの音に、細い管をシュウシュウと乾いた空気が通過するイメージを喚起されても少しもおかしくない。つまり、詩人が喘息を患っていたことを知らずとも、痩せた身体と風の音に、暗に胸や気管支の疾病を連想することが許される条件が画面に立ち上ってきているのである。

 私にははっきりと、一灯の明かりのもと、

 

――綿入れか何かを羽織り、口を白い布で押さえ、胡坐をかくか正座をするなりしつつ座卓に向かう詩人

 

の姿が見えてくる。

 

 そして最も大切なこと。

 それは(実は当初、私が最も戸惑ったことなのだが)、詩全体の空気に仄かに漂うカラッとした軽妙さである。

  薬を煎じる際の立ち上っていたであろう水蒸気にも侵されることのない――乾性――である。

 その出所は、この詩の生命の在り処とも言えるふたつの語句、転句の「未癒」、そして結句の「待新春」にある。

 病いは「未」だ「癒」えていない――つまり、翻って言えば――病いはいつか癒えるかもしれない――癒えることを予想してもいい――この病は必ずしも死に至らない――のである。そんな期待が、幽かに漂ってくるのである。

 そして、いや、さればこそ、詩の末尾の「待新春」、詩人は「新春」を「待」つのである。決して遠い未来ではない。あと数時間もすれば訪れるはずの、新しい歳を、待つのである。

 しかし、正月が来ると何か変わるとでも言うのであろうか? 病いが快方に向かうとでもいうのであろうか?

 違う! そんな上っ面なことを考えてはいけない。大切なのは、彼の心の持ち様(よう)なのである。

 則ち、

新年が来るということを素直に期待できるという心の状態

である。それも、遠い将来に希望を託すという形而上的な明るさではなく、身近な明日を両手を広げて素直に待ち受けるという、いわば、

今ここに呼吸をし、生きている人間としての心の在り様(よう)

なのだ。

 

 私がこの場面を映像化するなら、最後のカットで詩人の視線と顔の向きを水平よりほんの少しだけ上向きにしたい。能楽では、シテの感情が「陽」にあるときに面(おもて)を水平よりほんの少し上に向ける。これを「テラス」という(それに対して陰にあるときは俯かせ、これを「クモラス」という)。その効果を狙いたいのだ。

 上述した二点の効果の結果、この詩には湿気のある粘着性の暗さが感じられない。

 当たり前のことであるが――魂は孤独である。

 当然ながら淋しさを噛みしめている。

 しかし自らの苦難に進んで溺れていくような弱さや、苦しむ自分を題材に涙を詠うような甘えはこの詩に一切感じられない。

 かといって決して歯を食いしばったり、力んだりもしていない。

 自然体のまま冬に耐えつつ、到来しつつある歳を淡々と想う詩人の姿が見える。

 つまり、この詩の生命は、孤独や病苦の中にあっても抱き続ける、この詩人の生に対する静謐な希望なのである。[やぶちゃん注:私はこの詩やT.S.君の訳に私の偏愛する映像詩人アンドレイ・タルコフスキイの「鏡」の面影を感じてやまない。アンドレイならきっとこの詩も訳も愛して呉れる――否――きっと喜んで撮って呉れる――そんな心躍る確信が私の中にはあるのである。]

 

 ところで、この明るさはどこから来るのであろうか。ここからは中島敦という作家を自分なりに知ってしまった後世の私という立場から言おう。

 南方を題材にした彼の幾編かの小説には、南国特有の陽光に照らされた生命の健康な代謝が感じられるが、その健やかさとこの末尾には何か繋がりがあるのではなかろうか。彼が実はその元来の体質として持っていたところの、生きて躍動する健康な生命力が核にあって、その発露としての明るさがこの結句にこそ顕われたととることは出来ないだろうか。

 ここまで記してきて、私は今、気づいた。

 そういえば、『中国物』も含めて、彼の書く小説には、屈辱や悲憤や絶望や恐怖など、負の情緒の描写が数多い。しかしそこには常に、鍛えられ弾力に富んだ『鋼(はがね)』のような、常に背筋を伸ばした、ある種の強靭な『竜骨』が通っていた。

 詩人に、もし宿痾の喘息がなかったなら、その人生の途上でどんな作品が産まれただろう? 私は独り夢想してみる。……すると……失礼ながら、恐らくは作家として名を成すことはなかったであろうことが見えてくる。なぜなら、理不尽な運命に対峙する彼の鋼のような竜骨は、恐らく彼の宿をこそ最大の糧の一つとして鍛えたものだったことが見えくるからである。

 

 最後に。この詩に関して、今一つ、私がどうしても想起してしまうのが、芥川龍之介の漢詩、芥川龍之介漢詩全集」の「十五」である(私が関わった部分は「芥川龍之介漢詩全集 附やぶちゃん訓読注+附やぶちゃんの教え子T・S・君による評釈」を参照されたい)。

 

 潦倒三生夢

 茫々百念灰

 燈前長大息

 病骨瘦於梅

 

特にその転結句について、私の現代日本語訳を以下に再録する。

 

ほら、厳しい寒気に苛まれ、色褪せて縮込まる、梅の枝のような私の身体……。一灯の下、私の長い歎息が消えていく先は、そこの闇か。それとも、未来か。そして――冬の底の静寂――

 

これはすこぶる中島敦の漢詩と共通する。――病と、痩躯と、冬と――そして冬の向こうに予感される春、控えめにしか匂わされないけれども確かに在る未来への期待――である。

……そして/しかし、そこには――龍之介にあって――中島敦にない、若しくは、殆ど嗅ぎ分けられぬものが、ある。――

……それは藪野先生による評釈を読んだ後、何となく、僅かに感得し得る程度の、頗る幽かな濃度のものではあるのだけれども――

――「梅」が仄めかすところの、在るか無きかの性的な艶(つや)めいたイメージである。

 但し、これについて私は、漢文に徹底的に浸って生きてきた中島敦の中で、無意識に働くところのストイックな抑制効果であって、彼の内部で蠢いていた『性』の生温かさは、龍之介のそれと大きな違いはなかったと思っていることは明記しておきたい。

身邊雜記 萩原朔太郎

身邊雜記

       都會へ來てから

 

 都會に來てから三ケ月あまりになる。

「君! 東京に落つきましたかね。」

と逢ふ人毎に質ねられる。

「さうですね。まだ少しも。」

 さう答へながら、私は反省してみるのである。

 落付くといへば、ほんとに私のやうに落付きのない人間はない。田舍にゐる間は、絶えず焦れついた氣持ちでゐて、一日も生活に落付くことができなかつた。狹い一軒の家の中に、兩親や、兄妹や、それから私の家族子供たちがゴタゴタと棲んでゐるので、机を置くべき居間といふものがなく、一人で物を考へることもできないし、勿論書くこともできなかつた。仕方がなくて長屋の裏二階に間借したり、友人と一室に同居したりしてゐた。

 この住居に落付きがないから、益々私はいらいらしてきた。

「いつそ書齋を建てたらどうです。」

 私の身邊を知つてゐる人たちは皆さう言つて忠告した。しかし收入が全くなく辛うじで衣食の惠を親から受けてる自分に、そんな自由なゼイタクが空想さるべくもないのである。其上私は、郷土に安住しようといふ意志がなかつた。郷土における私は、どうしても周圍と調和できない異人種であつた。無理解な誹謗と侮辱の中で、私は忍從の限りをつくしてゐた。

 

  我れをののしるものはののしれよ

  このままに

  よも故郷にて朽ちはつる我れにてはあらじかし。

 

 北風の寒い日にも、私は齒を喰ひしめながら、心に泣きつつ向町や才川町の場末を彷徨してゐた。落日の家根を越えて利根川がかうかうと鳴つてゐるのである。

 

  ああ生れたる故郷の土を踏み去れよ。

 

 さうして遂に東京へ出て來た。東京は私の戀びと、靑猫の家根を這ふ都會である。しかしながらこの都會が、私に何の落付きをあたへるだらう。まいにち銀座通りを歩いてゐても、心の生活はさらに田舍の時と變りがない。不安と、焦燥と、忌はしい倦怠とは、一日でも私の周圍を離れはしない。いまはとにかく書齋を持つてゐる。書くための机も持つてゐる。けれども長い過去の習慣が、私に浮浪人(ボヘミアン)の氣質をあたへてしまつた。今は周圍に味方もゐる。私をはげましてくれる友人もゐるけれどもそれが何んだらう。依然として。私には何の幸福もなく、何の平和も有りはしない。都會に來てからは、ただ性質が烈しくなつてきた、田舍で抑壓してゐた滿腔の不滿が、噴火口を見つけた火山のやうに、一時に怒りを爆發させる。理由なく、私は怒りつぽくなり、醉つては必ず人を叱罵する。性質がすさんで惡くなつてきた。そして、げにそれだけが、今の生活の變つてきたものにすぎないのだ。

 

  いかならん霙ふる日も

  われは東京を戀しと思ひしに

  雀なきつる街路樹の影にもたれゐて

  このひとの如き乞食は何の夢を夢みるのか。

 

 

 人生はどこも同じことだ。肉體の飢を充すものはあつても、心の飢餓を充す世界はどこにもない。所詮私のやうなものは、さびしい街路の乞食にすぎない。ゴミタメの中の葱でも拾つて居やう。

 都會に來てからは、しかしながら苦痛がすくなくなつた。なぜならば友人や、酒場や、自動車や、玩具や、ゼイタク品や、その他の感覺的事物があつて、それが氣分を紛らしてくれるからだ。そして鬱屈する人生が、次から次へと感覺的刺激の興味に紛れてゆく。しかしながらただ感覺的にである。精神の滿足する如き、ほんとの快樂といふものは全くない。それは田舍に無い如く、都會にも實際無いのである。

 世界が、もしいつまでもこんな風であるならば、世界は破壞した方が好いと思ふ。私は田舍にゐても孤獨であり、都會に來てもまた孤獨である。私が社會主義に反對するのは、いつでも私が一人であり、それ以外に私の居ないことを知つてるからだ。今都會にきて、私の物珍しさが飽きない中は、どこかに「不思議な快樂」を尋ねてゐる。そして何よりも「平和な生活」を待こがれてる。しかしそれが夢であり夢であることを笑ふな。なぜならば私の現在はせめて尚その空想の故に幸福である。すくなくとも今は、この都會に飽きてゐないのだ

から。

 

       さびしき友

 

 私が友人といふものを持たないのは、一には氣質のためであるが一には境遇のせいでもあつた。ただ昔から知つてゐるのは、室生犀星君だけであり、今でもまたその通りである。

 私が東京に出た時、心から私を出迎へ、私の兩手を取つて悦んでくれた人が、またこの唯一の舊友であつた。駄々つ子で世間知らずの私のために、身邊一切の世話をしてくれた。私に對する彼の友情は、いつでも保護者のやうであり、情愛の厚い監督官の樣でもある。

「僕が俗塵を脱れやうとしてゐる時に、君は俗塵の中へ這入つてきた。」

 二人が始めて逢つた時に、私の監督官がさう言つた。この十數年間に於ける、二人の生活の相違がその時始めてしみじみと考へられた。ずつと昔は、ほんとに僕等が一致してゐた。趣味でも、作品でも、思想でも、境遇でも、たいてい二人は類似し合つた。それが今では、むしろ正反對の傾向に行かうとしてゐる。一切が、何もかも逆に食ひちがつてゐる。

「君は風流を理解しない」

と室生が僕を非難する。しかし理解しないものは、單に風流ばかりでない。生活に對する心持ちが互に矛盾してゐるのである。しかしながら友情が、今では同志の關係でなく、肉親の關係に進んでゐるのが、ふしぎに直感されるのである。――愛は、理由なく愛する故に愛である。――

 室生の厭世思想は、けれども私よりずつと暗黑であり、現實に望みなき人々の、はかない嘆息の感傷である。(詩集「高麗の花」と「忘春詩集」を見よ)それに較べてみれば、私の厭世思想には熱と惱みが充ち切つてゐる。何故だらうか? 私と私の舊友とが、靜かな大理石の卓に向つて、いつものやうに沈默しながら、冷たい紅茶を吸つてゐた。我々はいつでもさうして互に話もなく默つて居るのが習慣である。(なぜといつて二人の間には、もはや話すべきこともなく、また話す必要もないから。)

 ふいに疑問がとけ、そして私の提案が解決された。然り、私はまだ『夢』を持つてゐる。あの稚氣のある、くだらない夢を持ちまはつてゐる。所で友人の方は、とつくに其稚氣を脱してしまつてゐる。彼は現實に觸れ實生活の幻滅を知り盡してゐるのだ。それからして彼の悲哀――絶望的な感傷――が湧いてくるのだ。彼の所謂『風流』こそは、彼のあきらめの韻事であり、幻滅の感傷である。私はそれを理解し得ない。それ故にまた彼を理解し得ない。彼は『夢』を失ひそして私は尚『夢』をもつてる。

 ともあれ犀星よ。我等はさびしき友ではないか?

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年五月十八日附『読売新聞』に掲載。底本は筑摩書房版全集第八巻の「隨筆」に所収するものに準拠したが、その校異に基づき、校訂された本文の内、掲載初出と異なる部分を総て復元した。そこには、

 〔校訂本文   →   初出形〕

 依然として、  →  依然として。

 拾つて居よう。 →  拾つて居よう。

 待ちこがれて  →  待こがれて

 脱れようと   →  脱れやうと

 其の稚氣    →  其稚氣

という、一般的通念上は、なされて当然である問題のない校訂があるのであるが(私は実はそう思っていないのであるが)、敢えてその完全初出復元を企図した決定的理由は三つ目の韻文の改変にある。

 実はこの韻文は極めて類似したものが、詩集「青猫」(大正一二(一九二三)年一月新潮社刊)に所収している。以下の、詩集標題と同じ、かなり知られた一篇である。

 

 靑猫

 

この美しい都會を愛するのはよいことだ

この美しい都會の建築を愛するのはよいことだ

すべてのやさしい娘等をもとめるために

すべての高貴な生活をもとめるために

この都にきて賑やかな街路を通るはよいことだ

街路にそうて立つ櫻の竝木

そこにも無數の雀がさへづつてゐるではないか。

 

ああ このおほきな都會の夜にねむれるものは

ただ一匹の靑い猫のかげだ

かなしい人類の歷史を語る猫のかげだ

われらの求めてやまざる幸福の靑い影だ。

いかならん影をもとめて

みぞれふる日にもわれは東京を戀しと思ひしに

そこの裏町の壁にさむくもたれてゐる

このひとのごとき乞食はなにの夢を夢みて居るのか。

 

 ところが全集編集者は何故か、この詩に基づいて、この随筆の初出に引用されている韻文を完全に、以下のように書き換えてしまっているのである。前後を附して示す(物理的な意味での字句変改部に下線を附した)。

   *

(……)理由なく、私は怒りつぽくなり、醉つては必ず人を叱罵する。性質がすさんで惡くなつてきた。そして、げにそれだけが、今の生活の變つてきたものにすぎないのだ。

 

  いかならん影をもとめて

  みぞれふる日にもわれは東京を戀しと思ひしに

  そこの裏町の壁にさむくもたれ

  このひとのごとき乞食はなにの夢を夢みて居るのか。

 

 人生はどこも同じことだ。肉體の飢を充すものはあつても、心の飢餓を充す世界はどこにもない。所詮私のやうなものは、さびしい街路の乞食にすぎない。ゴミタメの中の葱でも拾つて居やう。

   *

 実は底本の凡例の本文中の引用詩文についての記載には以下の下りがある。

『著者自身の作品の引用は、本全集第一卷、第二卷所収のものと照合して訂正し、その異同は校異で示した』

 なるほど、この伝家の宝刀の編集方針に忠実に従ったまでのことらしい。

 しかし……これを読む読者諸君はどう思われるか?

 この校訂方針を絶対的に正しいとする根拠はどこにあるのであろう?

 私はとんでもない馬鹿であるらしい。何故なら、こう校『訂』し、改『正』することが『絶対善』であり、『真』とする根拠も主張も。これ、私には一億分の一も理解出来ないからである。

 そもそも朔太郎は本文中で韻文を示すに当たって、それが自作の引用であるなどとは一言も言っていない(寧ろ、前の短い韻文の印象から、それが挿入された、その稿を記しているその瞬間の、詩人萩原朔太郎の韻文的感懐であった、ととる方が遥かに自然であると私は感じる。そのようなものとして私は読む。

 しかも、この新聞記事は詩集「青猫」発行のたった二年後のものである。

……よろしいか? この底本編者たちは、満三十九歳の萩原朔太郎が最早、標題に用いた代表詩さえろくに思い出せず、思い出せぬままにうろ覚えで「引用を間違え」、しかも「新聞に載るものだから、間違いのまんまでも別にいいや」と、それで良しと、思ったのだと認定する訳である。……しかもそうした、構造的に萩原朔太郎がそうした字句にいい加減な詩人であった、という措定を無意識に是認するのと同義的線上で、編集方針を絶対化し、そうした『採るに足らない萩原朔太郎の誤り』を『正してやること』こそが後代の光栄ある詩人(同全集の監修者と編集者には当代きっての詩人たちが名を連ねている)の正当なる役目である、と覚えたらしい。

 否!

 これを何の躊躇もなく、かくも書き換える神経は、私にはすこぶる非詩的非文学的、であるどころか、非科学的非論理的行為であるとしか思われない。

 そうしたあり得べからざる操作が加えられたものが未来に『唯一正しい萩原朔太郎の随筆「身邊雜記」定本』として残り、読まれ、引用されることになる。そして私のこの五月蠅い注記は、カストリ雑誌のゴシップ記事よろしく泡のように消えてゆくのである。……面白い。実に面白い。……

 最後に。編者ばかりではなく、作者萩原朔太郎にも私の棘を向けておこう。

 朔太郎は、本随筆発表に先立つ二月半ほど前の、大正一四年二月中旬に妻子を伴って上京、東京府下荏原郡大井町(現在の品川区西大井)の借家に転居した。筑摩版全集第十五巻の萩原朔太郎年譜によれば、朔太郎にとっては『これが最初の「貧乏」經驗で、散文詩「大井町」その他で生活の沒落感を訴えている』のであるが、この借家の敷金は百円、父光蔵は転居に際し、椀・小皿・風邪薬に至るまで持たせた上、月々六十円の仕送りまでしているのである。年譜には編者によって『當時の六十圓は、一家四人の生活に必ずしも少ない額ではない』と記されてある。面白い。実に面白い。……]

妬心の花嫁 大手拓次

 妬心の花嫁

 

このこころ、

つばさのはえた、角(つの)の生えたわたしの心は、

かぎりなくも温熱(をんねつ)の胸牆(きようしやう)をもとめて、

ひたはしりにまよなかの闇をかける。

をんなたちの放埓(はうらつ)はこの右の手のかがみにうつり、

また疾走する吐息のかをりはこの左(ひだり)の手のつるぎをふるはせる。

妖氣の美僧はもすそをひいてことばをなげき、

うらうらとして銀鈴の魔をそよがせる。

ことなれる二つの性は大地のみごもりとなつて、

谷間に老樹(らうじゆ)をうみ、

野や丘にはひあるく二尾(ふたを)の蛇をうむ。

 

[やぶちゃん注:「胸牆」敵の矢玉からの防備及び敵に対する射撃の便のために胸の高さほどに築いた盛り土のこと。胸壁。「胸墻」とも書く。]

鬼城句集 春之部 蕗の薹

蕗の薹  蕗の薹二寸の天にたけにけり

     蕗の薹や桐苗植ゑて棒の如し

2013/05/01

ブログ・アクセス460000アクセス記念+結婚23周年記念 萩原朔太郎 小泉八雲の家庭生活

――つい先ほど――
16:52:32

「Blog鬼火~日々の迷走: 明恵上人夢記 2」

Google検索ワード「明恵上人夢記」
で訪ねて下さったあなた――

あなたが、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来の、僕のブログの260000アクセス目の御方でした。

「明恵上人夢記」向後も鋭意頑張りたく存じます。どうぞよろしく。



ブログ460000アクセス記念+私と妻との23回目の結婚記念日記念として「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に萩原朔太郎「小泉八雲の家庭生活」を公開した。

先日、このテクスト作業をしながら――八雲と節子の夫婦愛に――僕は心打たれ、思わず涙してしまった。――

言わずもがなであるが、それでも僕は声を大にして言いたい。

節子なしに「小泉八雲」という存在はなかった――
節子という女性が――かの稀有の小泉八雲の、今や失われてしまった日本の面影を湛えた、珠玉にして愛すべき数多の作品群を――僕たちにもたらしてくれたのであった――と――

白金屍體――天上縊死續篇―― 萩原朔太郎 (「天上縊死」草稿4)

 

 

 天上縊死

   ――第二屍體白金屍體

 白金屍體

   ――天上縊死續扁―― 

 

夕日遠夜の松に首を吊る

 

懺悔にくるゝ→おはれるに果つる人ひとり

 

手に綠金ひとり銀のアルバムをひつさげしが

 

はや頸に靑き紐をまきつけ

 

あはれあはれいまこそはやはや

 

天上の松に首を吊らんと縊ると

 

懺悔に果つる人ひとり

 

そのラジウムの→長き丈高き肢體はしだれ

 

そのラヂウムの瞳はめしひ

 

身内たちどころに電光したゝり宙に吊りあげられ

 

あはれあはれあげられあげられ

 

夕日光さんさんたる松の梢に吊られ

 

この哀しめる、罪人の手はさげらぬ、

 

遠夜の空にうすあかりあかねさし。

 

         ――淨罪詩扁――

 

 

[やぶちゃん注:取り消し線は抹消を示し、その抹消部の中でも先立って推敲抹消された部分は下線附き取り消し線で示した。「→」の末梢部分は、ある語句の明らかな書き換えがともに末梢されたことを示す。二箇所の「扁」「おはれる」「さげらぬ」はママ(最後は「さげられぬ」の脱字であろう)。

 

 なお、底本編者の注によれば、これには別な(重要とは思われずに公開されていない)別稿があり、それには

 

 夜の松縊死屍體の言語

 

という題がある、という注記が附されてある。

 

 これと、この前の無題の草稿は、どうも「天上縊死」には共時的にマルチ・カメラで撮った画像を再編集したような、饒舌な「天上縊死續篇」が目論まれていたようにも見受けられる。 抹消部を除去すると、

 

   *


 白金屍體


   ――天上縊死續扁――


遠夜の松に首を吊る
懺悔に果つる人ひとり
ひとり銀のアルバムをひつさげしが
頸に靑き紐をまきつけ
あはれはや
天上の松に首を縊ると
懺悔に果つる人ひとり
その丈高き肢體はしだれ
そのラヂウムの瞳はめしひ
身内たちどころに宙に吊りあげられ
あげられあげられ
光さんさんたる松の梢に吊られ
この哀しめる、罪人の手はさげらぬ、
遠夜の空にうすあかねさし。
         ――淨罪詩扁――

 

   *


となる。]

 

 

(無題) 萩原朔太郎 (「天上縊死」草稿3)

 

 (無題)〔「天上縊死」草稿の一つ〕

 

夕日の松に首を縊(つ)る

祈り靑ざめ懺悔をはれる人ひとり

手に妖光銀のアルバムを手にさげしが

頸に靑き紐をまきつけ

額の上には

あはれあはれ

天上の松に首を縊るとらんと思ふ

合掌し懺悔おはれるひとひとり

そのはや肢體はしだれ

そのひとの眼はめしひ

松にかかれば

身肉たちどころに電光發し

あはれあはれ

夕日さんさんたる梢につられ

この哀しむ哀しめる、

罪びとの手はあはされぬ、さげられぬ、 

 

[やぶちゃん注:底本第一巻の「草稿詩篇 月に吠える」の『「天上縊死」(原稿七種八枚)』の纏まった三つ目。取り消し線は抹消を示す。「懺悔おはれる」の「お」はママ。抹消部を除去すると、

 

   *

 

夕日の松に首を縊(つ)る

懺悔をはれる人ひとり

銀のアルバムを手にさげしが

頸に靑き紐をまきつけ

あはれあはれ

天上の松に首を縊らんと

懺悔おはれるひとひとり

はや肢體はしだれ

眼はめしひ

松にかかれば

身肉たちどころに電光發し

あはれあはれ

夕日さんさんたる梢につられ

この哀しめる、

罪びとの手はさげられぬ、

 

   *

 となる。]

天上縊死  萩原朔太郎 (「天上縊死」草稿2)

 

 

  屍體

  天上縊死

 

遠夜に光る松の葉に

 

懺悔の淚したゝりて

 

遠夜の空にいちぢるき(しもしろき

 

          つり

天上の松にくびをかけ

          たて

 

天上の松に凍る→戀ふる→こがれ戀ふるより

 

光れる松の木末より

 

合 掌 の

    さまにつるされぬ

いのれる

 

光れる

   松を戀ふるより

天上の

 

いのれるさまにつるされぬ

 

          十二、二十七、 

 

[やぶちゃん注:底本第一巻の「草稿詩篇 月に吠える」の『「天上縊死」(原稿七種八枚)』の纏まった二つ目。「いちぢるき(しもしろき」の「ぢ」と丸括弧トジルの欠落はママ。取り消し線は抹消を示す。「→」の末梢部分は、ある語句の明らかな書き換えがともに末梢されたことを示す。「つり」と「たれ」、「合掌の」と「おのれる」、「光れ」と「天上の」はそれぞれ、原稿では上または下の詩句に並置されてある。最後のは十二月二十七日のクレジット。「月に吠える」初版は大正一一(一九二二)年三月発行であるから、大正一〇(一九二一)年以前である。

 なお、これが私が先に犀星の「月に吠える」の跋健康都市」の注で示唆した草稿である。「天上の松に凍る」という犀星の引用する「凍れる松が枝」という同じイメージが一瞬、朔太郎の詩想を過っていることが分かる。
 抹消部を除去すると、

 

   *


  天上縊死


遠夜に光る松の葉に
懺悔の淚したゝりて
遠夜の空にいちぢるき(しもしろき
        つり
天上の松にくびを
        たて
天上の松に戀ふるより
合 掌 の
    さまにつるされぬ
いのれる
光れる
   松を戀ふるより
天上の
いのれるさまにつるされぬ
          十二、二十七、

 

   *
となる。]

 

 

縊死 萩原朔太郎 (「天上縊死」草稿1)

 

 

  縊死

 

遠夜に光る木々松の木の

 

松にもいのちをかけしめば

 

遠夜の空に光れる柳ちり松をたれかしる

 

もえづるみどりしたゝりて

 

天上の松にくびをかけ

 

     *

 

柳をすぎて

 

くるしむものゝ行く路に

 

松のうら葉をしてを光らしむ

 

遠夜の空に光らしむ

 

     *

 

遠夜の空に

 

白く光れるま白く光る柳の木

 

柳の木ぬれかゞやける

 

そが

 

     *

 

遠樹の上に

 

ほそくくびはさげられをさげ

 

長き手は下にさげらるさげ

 

柳の木ぬれかゞやける

 

     *

 

柳の木ぬれかゞやける

 

遠夜の空にくびをかけ死は光る

 

柳の木ぬれかゞやける

 

ま白き樹々のかゞやける

 

遠夜に人の→夜途に我の死は光る

 

柳の木ぬれかゞやける

 

     *

 

   柳

 

ま白き柳かゞやける

 

遠夜の空に死は光る

 

柳の木ぬれかゞやける

 

[やぶちゃん注:底本第一巻の「草稿詩篇 月に吠える」の『「天上縊死」(原稿七種八枚)』の最初のワン・セット(編者注に以上の六つの断片は一枚の原稿用紙に書かれている旨、注記があるので一纏めとした)。取り消し線は抹消を示す。「→」の末梢部分は、ある語句の明らかな書き換えがともに末梢されたことを示す。最終連の標題のように見える「柳」の字は本文と同ポイントである。抹消部を除去すると、

   ※

  縊死

遠夜に光る松の木の
松にもいのちをかけしめば
遠夜光れる松をたれかしる
もえづるみどりしたゝりて
天上の松にくびをかけ
     *
柳をすぎて
くるしむ
松のうらを光らしむ
遠夜の空に光らしむ
     *
遠夜の空に
ま白く光る柳の木
柳の木ぬれかゞやける
そが
     *
遠樹の上に
くびをさげ
手はさげ
柳の木ぬれかゞやける
     *
柳の木ぬれかゞやける
遠夜の空に死は光る
ま白き柳かゞやける
     *
   柳
ま白き柳かゞやける
遠夜の空に死は光る
柳の木ぬれかゞやける

   ※
となる。]

陸橋 萩原朔太郎 (「蝶を夢む」版)

  陸橋

 

陸橋を渡つて行かう

黑くうづまく下水のやうに

もつれる軌道の高架をふんで

はるかな落日の部落へ出よう。

かしこを高く

天路を翔けさる鳥のやうに

ひとつの架橋を越えて跳躍しよう。

 

[やぶちゃん注:大正一二(一九二三)年七月新潮社刊の詩集「蝶を夢む」所収。初出のくだくだしい説明がばっさりと斬られ、移動の場所を示す格助詞「に」の静的なニュアンスから、「翔けさる」という移動の意を表す動詞に応じた動作の経由する場所を示す、より動的な格助詞「を」への変更も含めて、象徴詩としての美事な眼目が開いている。]

陸橋を渡つて 萩原朔太郎 (「陸橋」初出形)

  陸橋を渡つて

 

陸橋を渡つて行かう

黑くうづまく下水のやうに

もつれる軌道の高架をふんで

はるかな落日の部落へ出よう。

かしこに高く

天路を翔(か)けさる鳥のやうに

いと古色ある思想でさへも

一つの架橋を越えて跳躍しよう。

 

[やぶちゃん注:『表現』第一巻第二号・大正一〇(一九二一)年十二月号に掲載。次に示す大正一二(一九二三)年七月新潮社刊の詩集「蝶を夢む」所収の「陸橋」の初出形。]

金屬の耳 大手拓次

 金屬の耳

 

わたしの耳は

金絲(きんし)のぬひはくにいろづいて、

鳩のにこ毛のやうな痛みをおぼえる。

わたしの耳は

うすぐろい妖鬼の足にふみにじられて、

石綿(いしわた)のやうにかけおちる。

わたしの耳は

祭壇のなかへおひいれられて、

そこに隱呪をむすぶ金物(かなもの)の像となつた。

わたしの耳は

水仙の風のなかにたつて、

物の招きにさからつてゐる。

 

[やぶちゃん注:「隱呪」この熟語は辞書に見えないが、密教にあって印を結び、真言を唱えることを「印呪」と言い、また、神道を始め多くの宗教や信仰の中には、秘かに人に見えぬように体の蔭や手の内に隠して印を結ぶことが普通に行われるから、奇異な熟語には私には見えない。すこぶる腑に落ちる用字である。]

鬼城句集 春之部 蠶豆の花

蠶豆の花 蠶豆を植ゑて住みたる官舍かな

[やぶちゃん注:「蠶豆」「そらまめ」と読む。漢名。]

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