大和田建樹「散文韻文 雪月花」より「汐なれごろも」(明治二七(一八九四)年及び二九(一八九六)年の鎌倉・江の島風景) 6/了
滑川の景色は妙本寺の門前にありと人のいふに、さらば見にゆかんとて、一日由井が濱より八幡一の鳥居を拔け、材木座の方へと小橋を一つ渡らんとす。橋のたもとに茶店あれば、腰うちかけて見わたす景色まづすぐれたり。芦しげく生ひたる中をうねりゆく水の上には、白鷺の影を認めざりしを惜む。澁茶を汲み來る老婆に橋の名を問へば、誠は海岸橋なれど、閣魔川にかゝれるをもて人骨閣魔橋と稱ふといふ。あな恐ろし閤魔川の橋守るお姿々ならば、衣をや剝がれんなど戲むるれば、老婆眞顏になりて觀き出でけらく、昔は此地に新居の閣魔樣のおはせしが、或年のつなみに川上まで流され給ひしにより、今は山内の新居に祭られて、再び歸り給はず。されば此邊にては昔の儘に閻魔川とこそ稱ふるなれと、うれしくも一章の活風土記にあひたるものかなとて、茶碗を取れば、老婆また茶をさしかへて、あれに櫻の木の見えたるは誰々の別莊ぞなど語る。
我は比企谷の抄本寺に行かんとせしに、人の教へたるは松葉谷の妙法寺なりしにや、遂にまた誤りて其隣なる安國寺にぞたどりつきぬる。此寺は日蓮上人の立正安國論を草せしところとて、其ために九日籠居せしといふ遺跡もあり。苔むす石ぶみ蔦はふ松など、おのづから古色蒼然たるを覺えしむ。本堂の前に立ちてこゝかしこながめゐたるをりしも、廊下づたひに人の走りくる音して、旦那樣にはおはさずやといふ。見れば七八年前我家に居たる下婢なり。いざこなたへといふに、先づ堂の傍に座を占めたれば、茶菓などすゝめつゝ、其身の變遷を言葉みじかに打ち語り、かへすがへすも不思議なるところにて再會せしを喜ぶ。あはれ余をして小説家たらしめば、何かの好き材料ともなるべきに。これより志しつる妙本寺に至れば、谷更に深うして山更に靜なり。杉の梢は天をおほひて夕陽影を地に引かず。百日紅の花うつくしくこぼれて、僧の箒を怠らしむることもしばしばなり。實に其境内の淸淨なる、其堂殿の壯嚴なる、觀て以て宗祖を欽仰せしむるに足るものあり。豪傑の遺業豈大なりと謂はざるべけんや。あゝ此寺をして壯宏隆盛かくの如くならしめしものは、皷聲和するの題目に因るか。抑も一篇の立正安國論に在るか。
古跡は未だ探り盡さねども、我とゞまるべき日は盡きたり。三十日には東京に歸らざるを得ず。朝に夕に通りぬけたる權五郎の社は、寫眞にのみ親しき影を留め、夜に晝に聞きなれたる觀音の鐘は、夢ならで又いつかは其聲を數へん。あはれ由井が濱風よ。我は汝に別るゝを哀しむと共に、又汝に顏色を黑くせしを謝す。
[やぶちゃん注:作品冒頭「鎌倉の山鎌倉の海、吾一たび汝を知りしより、殆んど來り遊ばざる年とてはあらず。然れども夏日三旬の浮生を汝に寄せて、明暮相かたり相したしまんとするは、今年こそ始なれ」と恋人に対するように筆を起こした大和田は、同じく限りない哀惜をもって愛人鎌倉への恋文の筆を擱く。私はこの電子化が終わってしまったことが、限りなく淋しいほどに――。]
« 君が手に銀貨はなるる一切刹浪にかくれぬ黑き男は 萩原朔太郎 | トップページ | 中島敦漢詩全集 九 「春河馬」 二首 »

