明恵上人夢記 9
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建仁三年十月、夢に云はく、一つの大きなる筏有り。其の筏、白き布を以て帆と爲(せ)り。此の布、圓法房、□舍より持ち來りて懸けられたり。其の筏、數多の高尾(たかを)の人々之に乘る。誠におびたゝしき大瀧、枕に向ひて馳せ流る。成辨、不慮の外(ほか)に又之に乘る。心に思はく、我が頸に舍利を懸け奉れり。恐らく、此の筏、倒れ沈まば、舍利、水に沈み下りなむ。設(たと)ひ沈まずといへども、又、彼の濕潤(しふじゆん)を恐る。水よりおりて舍利を陸地におかばやと思へども、筏をとむべき樣もなし。箭(や)をつくが如くに走りて、惣(すべ)て抑ふべき樣なし。其の瀧は、をふひか瀧なんどの樣にて、それよりも誠にけはし。瀧へ正(まさ)しく筏のおち入る時に當りて、諸人皆、墮ち入りぬ。諸人は高尾におとなしくおはします人々也。餘人は雜(まじ)らず。成辨、舍利を守護して、つよく踏み張りて立てるに、筏、反覆(はんぷく)すといへども、只我一人墮ちずして、遂に淺瀨に行く。我云はく、「筏より降りし諸人は水を行く。足立つ計(ばか)り也。然りといへども、水に降りずして、遂に岸に到る。後、我は陸地に昇れり」と云々。
[やぶちゃん注:「筏」明恵はこの夢に先立つ五年前の建久九(一一九八)年秋、高雄から再び紀州白上に帰るが、そこも騒々しいとして生地に近い同じ有田郡の《筏》立(いかだち)に移っている。しかもこの夢の前年建仁二(一二〇二)年には明恵はこの《筏》立近傍の糸野に於いて、宿願であった天竺《渡航》を計画する。ところが、この夢を見る九ヶ月前の建仁三(一二〇三)年正月、春日明神の託宣を受けてこれを断念しているのである。更に言えば、この天竺《渡航》は明恵にとって極めて重要なものであって、実はこの二年後の元久元(一二〇五)年にも再度計画するも重い病いに罹った上、またしても渡航をよしとせぬ春日明神の神託があって、またしても頓挫するのである。この筏で川を下る夢の素材とこれらが無関係であるとは、私には到底思われないのである。
「圓法房」(承安四(一一七四)年~建長二(一二五〇)年)定真。空達房とも号した。高雄神護寺の僧であったが、後に明恵に師事して高山寺(明恵が高山寺を後鳥羽院より賜うのは建永元(一二〇六)年)に住んだ。高山寺方便智院(定真が開いた住房でかつては多くの聖教が所蔵されていた)の開基。明恵より一つ年下である。
「□舍」底本の判読不能字なのか、明恵による伏字なのか、不明。この布のあった場所がもしかすると、夢を解く鍵であった可能性もあるので、訳では伏字風に「■」としておく。
「其の瀧は、をふひか瀧なんどの樣にて、それよりも誠にけはし」「をふひか瀧」は不詳。岩波版にも注せず、那智四十八滝などを管見しても、類似音のものは見当たらない。識者の御教授を乞うものである。このシーンは夢の全能的(映画的)部分で、明恵は別なアングルでこの大瀑布を下から側面から上空から見ているのである。
「諸人は高尾におとなしくおはします人々也。餘人は雜らず」この部分は、後にこの夢記述している覚醒時の明恵による補足のように思われるが、夢の中でこうしたデーティルが意識されたものと考え、現代語訳ではそのままの形で空行を挟んで独立段落で示した。後の明恵自身の描写場面とのジョイントも、こうした方がすこぶるよい。
「又之に乘る」この表現は、現在の整序された底本を読む読者である我々には、明らかに直前に記されてある「7」の師や同行衆と船に乗る夢を指しているとしか思われない。私もそう訳したが、本原本が後に切り張りされたものであることなどを念頭におけば、必ずしもそうとは限らないことは注意せねばなるまい。]
■やぶちゃん現代語訳
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建仁三年十月のある日の夢。
「一艘の大きな筏がある。
その筏は白い布を以って帆としている。この布は円法房がわざわざ、かの■舎より持参して懸けて下さったものである。
その筏に数多(あまた)の高雄神護寺の僧衆が乗っている。
まっこと、大きなる滝があって、この川の流れの、その先の方(かた)で、それは烈しく迸(ほとばし)り下っているのである。
私は思いがけないことに――以前の建仁元年正月の夢と同じように――またしても、この筏に乗り合せている。
心中、
『……私のこの頸には仏舎利を懸け奉っている。この筏がもしひっくり返って水底(みなそこ)に沈んでしまったとしたならば、仏舎利もまた、水底に沈潜してしまわれることになろう。……たとえ――貴(とうと)き仏舎利なれば――不浄の大海に沈むことはなかったとしても……しかし、かくも有り難き仏舎利が水浸しになってしまわれることを私は恐れる!……ともかくも、この流れより岸へと降りて、尊(たっとき)き仏舎利を陸(おか)に安置し申し上げずんばならず!……』
と頻りに思うのではあったが、これ、筏を止める術(すべ)がない。
矢を発(はな)ったような恐ろしい速さで筏は走る! 走る!
止めるもなにも、全く以って、その速度を抑えるべき方途すらないのだ!
その奔流の先の滝が見えてくる!
その滝は、かの「をふひが滝」なんどに似ているものの、あれよりも遥かに岨(そばだ)っており、険しい!
――大滝!
――その大滝へ!
――まさしく我らの乗る筏が落ち入らんとする!
――と――その瞬間!
同じく筏に乗っていた高雄の僧衆らは皆、滝壺へと悉く堕ち入ってしまった!
彼らは皆、神護寺にて、素直におとなしくなさっておられた僧衆であった。それ以外の御方は、その滝壺に堕ちた人の中には一人として交じってはいなかった。
一方、私はと言えば、仏舎利を守護し奉って、筏の上にすっくと踏ん張って立っていた。
筏が転覆した。
――ところが
――ただ私独りだけは
――滝へ落ちずに
――遂に滝上(たきがみ)の巌頭(がんとう)の浅瀬に泳ぎ着いたのであった。
私は、
「……筏から降(くだ)った諸々(もろもろ)の人々は強い水流に押し流されて底知れぬ冥(くら)い滝壺の底へと転落して行った。――そして私の今さっきまでいたのは――瀬とはいうものの――やっと足の先が水底につくかつかぬかというほどに深い場所であった。――にも拘わらず、私はその圧倒的な水の力に押し流されながらも降(くだ)り堕ちることなく、遂にかくも岸へと到った!そして私は! 確かにこの陸地に昇ったのだ!!……」
と叫んでいた。……」
[やぶちゃん補注:本夢ではその用字や表現が実に興味深い。例えば、当時は未だ同行僧であった可能性が高い年下の円法房の実名表示と「られたり」の敬語使用、滝に「落つ」るのを「堕つ」ると表現している点やその「堕ち入」った僧衆は、高雄でもすこぶる優等生で「おとなしくおはします人々」であったという強烈な皮肉(これは明恵が――いっかな俗臭芬々たる高雄にはとてものことに「おとなしく」留まってなどおられぬわ!――という強烈な内向した不満・憤激の表現に外ならない)である「餘人は雜らず」という黙示的な指弾である。
特に私は、明恵(成弁)がコーダの言上げで「降(くだ)る」「降(お)る」という動詞を用いて、意味を巧妙にずらしながら誇示する言葉を面白く感じる。そこでは――僧衆は筏から「降(くだ)って」(堕ちて)滝壺の奈落へ消えて去って行ったが、私は「水に降(お)」りることなしに、大地にすっくと立った――それも一切水に濡れさせなかった(と明恵は言うはずである)頸に懸けた仏舎利とともに!――と明恵は叫んでいるのである。
河合隼雄氏はこの夢を「7」と絡めて、大日如来の経の入った袋を忘れたことや仏舎利の濡れることを気にする明恵の中に、『彼にとっての仏教の本質が損なわれることを危惧』する気持ちが働いているとともに(ここまでは誰もがそう容易に解釈するところである)、実は明恵『おそらく、少しの気のゆるみによって』、『容易に「出世」して、俗界に勢力をもつ僧となったり、「学者」として成功したりした』であろう自分を見据えていたに違いないと考えておられる。そう、はっきりと書かれてはおられるわけではないが、そう読め、これこそが非常に大切な明恵の夢分析に於ける眼目である、と私は明恵の夢を「読む」のである。当該書の一五三頁の頭にある。是非、御一読あられたい。まさしく明恵の精進への「上昇と下降」(河合氏の当該書の第四章の標題である)の内的な問題なのである。
また河合氏は、明恵の高雄神護寺の雰囲気への鬱憤の核を「学問」に見、そこに明恵の批判的な視線として、その「学問」には正しい仏法理解の上での当時の僧の堕し易かった陥穽を以下のように示唆しておられる。
《引用開始》
『伝記』によると、彼は常々、「慧(え)学の輩は国に満ちて踵(くびす)を継ぐといへども、定(ぢやう)学を好む人、世に絶えたり。行解(ぎやうげ)の知識欠けて、証道の入門拠(よりどころ)を失へり」と歎いた、とのことである。ここに彼が対比して語っている慧学と定学とは、仏教においてすべて必要とされる三学、つまり、戒・定・慧のなかの慧と定とを指している。当時の僧がもっぱら学問の方にのみ傾き、禅定による修行を怠っているので、悟りに至る道にどうして入門してゆくのか、それが一向分からなくなっている、と明恵は慨嘆している。
夢は明恵のこのような生き方を支持し、「高尾におとなしくおはします人々」は水中に落下してしまうが、彼のみ陸地に至ることを告げている。「筏立」における自分の「定学」の修行が無駄なものでなかったことを、これによって明恵は知ることができたであろう。明恵には、もちろん何人かの若い僧が従っていたとは言え、まったくの孤独の道を歩んでいたので、夢による支持は、彼にとって実に大きな意義があったと思われる。
《引用終了》
この河合氏の解釈は私には二重に興味深い。一つには、「何人かの若い僧が従っていた」という部分で、夢の中の円法房の存在が際立ってくるからである。もしかすると、この時既に円法房は明恵に従って筏立に来ていたのかも知れない。そうしたシンパシーこそが、筏を走らせるところの帆布(仏法の正しい定学の方向性を共有する者としてのシンボル)をもたらした円法房に具現されている。その証拠に、円法房は帆布を提供しながらも何故か、この筏に乗っていないようであり、従って滝壺に堕ち入る僧衆の一人でもないと読めるからである。今一つは、修行に於ける「学問」の持つところの危険性についてである。これと同じような認識が「一言芳談」に出る同時代の人々の片言に頻りに現われるという点である。伝統の平安旧仏教に属すかと思われた若き華厳僧明恵(当時は未だ満三十歳)の中に、新たな時代のヴィヴィッドな鬱勃たるパトスが湧き起っていたことの証左であると私には思われるのである。]