處女の言葉 萩原朔太郎
處女の言葉
處女の言葉といふ課題であるが、處女といふ意味を、此處では一般に「若い娘」として解釋したい。今日の世の中では、若い娘だけが獨り朗らかで快活である。なぜなら今のやうな社會、すべての人が希望を失ひ、就職に窮し、靑年や學生でさへも、老人のやうに意氣消耗してゐる社會に於て、獨り若い女たちは、至る所に就職の道があり、手痛い生活難もなく、前途に花やかな夢を抱いて居られるからである。したがつて今の世の中では、若い娘たちの言葉だけが、いちばんエネルギッシュに生々とし、魚のやうに潑剌として泳いで居る。實際今日に於て、眞に「生きてる言葉」を持つてるものは、街路の若き女性群のみ、他はすべて死語にすぎないといふ觀がある。
今の日本の若い女、特に女學生の言葉については、前にも他の新聞雜誌に書いた通り、アクセントが強く、齒切れの好いことが特色である。齒切れの好いことは、智的で意志の強い性格を反映し、アクセントの強いことは、感情の表出が露骨になつたこと、即ち主觀の主張が強く、エゴイスチックになつたことを實證する。試みに彼等の間の流行語、
「ちやッかりしてンの。」
「モチよ。」
「斷然行くわ。」
等々を聽いて見給へ。いかに言葉の齒切れが好く、アクセントが強いかが解るだらう。日本の若い娘たちが、かうした言葉を使ふといふのは、つまり彼等の感情や思想やが、エゴの主張の強い、個人主義の西洋風になつたからである。日本の傳統的な言葉といふものは、すべて「私」の主觀的エゴを省略する。例へば I love you.(私は君が好きだ)といふ時、日本語では單に「君が好きだ」と言ふ。つまり東洋の文化は、西洋のヒューマニズムと反對に、主觀人のエゴを殺して、自然と同化することを理念するからである。所でまた、人間の言葉といふものは、主觀の感情が強くなるほど、言葉に自然の抑揚がつき、アクセントが強くなつて來る。そこで外國語にはアクセントが強く、日本語にはそれが極めて弱いのである。
今の若い娘たちは、かうした日本語の傳統を破壞し、より西洋語の本質に近い言葉の方へ、日本語を新しく革命しようとして居るのである。その意味に於て、彼等はまことに意識せざる時代の詩人(言葉の革命者)である。そればかりではない。彼等は日本語の本質してゐる、文法そのものさへ變へようとしてゐをのである。
エゴの主張の強い西洋人は、すべて主觀の意欲する感情を先に言ひ、次に目的の事物を言ふ。例へば I want some cakes.(欲しい。菓子が)と言ふ。日本語はこれの反對であり、先づ名詞を先に言ひ、最後に「欲しい」といふ主觀を言ふ。したがつて日本語は、感情の發想が力弱く、主觀の欲望やパッションを、充分に強く表出できないのである。僕等のやうな文學者も、今日の半ば歐風化した日本に生れ、さうした文化的環境に育つた爲に、この點で常に言葉の不自由に苦しんでゐる。今の日本で、僕等の詩文學が畸形的にしか成育し得ないのは、僕等の詩想の内容と、現存する日本語との間に、かうしたギャップの矛盾性があるためである。然るに町の若い娘や女學生やは、彼等一流の無邪氣さと大膽とで、僕等の敢て爲し得ない困難事を、何の苦もなく解決して居るのである。即ち例へば、
「好かんわ。そんな。」
「厭だわ。私。」
「行くわよ。どこでも。あんたと。」
「嫌ひ。そんなの。」
「欲しいわ。私。蜜豆。」
「ねえ。よくつて。」
といふ工合に言ふ。此等の言葉の構成法は、すつかり英語や獨逸語と同じである。即ち主觀の感情を最初に言ひ、次に事物や用件の説明をする。「私はお菓子が欲しい」でなく、「欲しいわ。私。お菓子。」である。
これは驚くべきことである。今の若い娘たちによつて、これほどまで日本語が革命されてるといふことは、現代に於ける何よりも大きな驚異である。何となれば言葉の變化は、それ自ら文化情操の變化であり、社會の根本的改革に外ならないから。日本は何處へ行くか? この問題を思惟する人は、先づ町に出て若い女たちの會話をきけ!
[やぶちゃん注:「婦人畫報」第三九四号。昭和一一(一九三六)年十一月号に掲載され、後、昭和一二(一九三七)年三月第一書房刊のエッセイ集「詩人の宿命」に掲載された。底本は筑摩書房版全集第十巻に拠り、末尾近くの「社會の根本的改革に外ならないから。」については、底本「社會の根本的改革に外ならないから、」であるのを、校訂本文の句点にしたものを採用した以外は、「詩人の宿命」と同じである。この文章をどう読むか? それは貴女や貴方やにお任せしよう。]

