金沢八景 田山花袋
金沢八景 田山花袋
[やぶちゃん注:大正七(一九一八)年博文館刊の田山花袋「一日の行楽」より。底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの画像(コマ番号231)を視認してタイプした。親本は総ルビであるが、読みの振れそうなものと難読語のみのパラルビとした。踊り字「〱」は正字に直した。なお、親本には途中に「金澤稱名寺」及び「金澤海岸」のキャプションを持つ当時の写真が挿入されてある。特に後者は最早、幻となった当時の趣のある海浜風景をよく伝えている。]
金澤八景
金澤は私は杉田の方から來た。
杉田の梅を看て、それから金澤に行つて鎌倉に方へ出て行つた。しかし、鎌倉からでも逗子からでも行ける。横須賀から舟で行くことも出來る。
金澤は昔榮えたところらしい。鎌倉幕府の榮えた時分には、人々は皆な此處に遊びに來た。武將の別莊なども澤山にあつたらしかつた。歷史にも金澤八景の名はかなりによく出てゐるが、それを見ても、鎌倉に來た上方(かみがた)の人達(ひとだち)は、皆な此處に遊びに來たものらしい。それでおのづから人工にも膾炙した譯だ。稱名寺金澤文庫なども出來たわけだ。
それに、昔は今から比べると、もつと風景がよかつたらうと思はれる理由がある。昔はもつと入江が深く入り込んでゐた。折れ曲つた入江の形が面白かつた。それが年月を經て、すつかり水が引いて田や畠(はたけ)になつてしまつた。能見堂(のうけんだう)あたりから見下すと、今でもその昔の勝景(しようけい)のさまがそれと指(ゆびさ)して見ることが出来るのである。
兎に角、金澤は今日は衰えへた。それに、交通も不便だ。何方(どちら)から行つても、二里か三里は入つて行かなければならない。それから、横須賀が海軍の軍港になつて、水雷(すゐらい)が長浦(ながうら)に置かれたといふことも、土地の衰へて行つた一つである。そのため、魚類なども非常に少くなつた。
杉田の方から行くと、路(みち)は能見堂の裏の方へ出て來るやうになつてゐる。筆捨松といふ松がそれでも今日でも形ばかりを殘してゐる。茶店もある。松風の音(おと)がさびしく鳴つてゐる。
稱名寺、金澤文庫の址、さういふものも見るべきものだ。そこから海岸の方へ出て來ると、村があつて、汐入川(しほいりがは)が深く入り込んでゐて橋などがかゝうつてゐる。そこに東屋(あづまや)、千代本(ちよもと)といふ旅館がある。靜かに一夜泊つて見たいやうなところだ。
一覽亭、九覽亭の眺望は何方(どちら)かと言へば九覽亭の方が好(よ)い。扇形に海が展開されて行つてゐる形が好い。
この他、此處には、泥龜新田(でいきしんでん)に、有名な牡丹園がある。其處の豪農が經營してゐるもので、ちよつと他(ほか)にはこの位(くらゐ)の牡丹園はあるまいと思はれる位で、花時(はなどき)には、東京あたりからもわざわざ見に行くほどである。しかし今は何(ど)うだか。
八景の目(もく)は、洲崎晴嵐(すさきせいらん)、瀨戸秋月(せとのしうげつ)、小泉夜雨(いうづみよざめ)、乙艫歸帆(おつともきはん)、稱名晩鐘(しようめうのばんしよう)、平潟落雁(ひらかたらくがん)、内川暮雪(うちかはのぼせつ)、野島夕照(のしませきせう)である。この名目は、明(みん)の大越禪師(だいえつぜんし)が支那の西湖(せいこ)に似てゐると言ふところからつけたものであるさうだが、今日では、そんな趣(おもむき)はとても見ることが出来ない。
しかし、杉田の梅を見物しただけでは物足らないから二里の路を此處に來て、千代本あたりで、午飯(ごはん)を食つて、朝比奈切通(あさひなきりどほし)を鎌倉の方へ拔けて行くのも、一日の行樂としては面白いであらうと思ふ。但し、梅の頃はやゝ寒い。
[やぶちゃん注:「水雷が長浦に置かれた」この「水雷」は大日本帝国海軍の水雷術(魚雷・機雷・爆雷などによる雷撃術やその敷設及び掃海術、水雷艇や駆逐艦の操艦術、後に登場するせ潜水艦への対潜哨戒及び掃討術の技能習得、以上の防潜兵器や策敵兵器の開発研究)指揮官や技官を養成する軍学校である海軍水雷学校を指す。海軍通信学校が開校するまではこの水雷学校で無線電信技術の習得と研究をも推進した。明治一二(一八七九)年に水雷術練習所として横須賀に開所、明治一六(一八八三)年に水雷術練習所を廃止して水雷局が長浦に設置され、明治一九(一八八六)年には水雷局が廃されて代わりに長浦湾に水雷術練習艦「迅鯨(じんげい)」が設置された(「迅鯨」は元外海用御召艦で二檣木造外輪船。後に同名の潜水母艦が造られた)。後、水雷術練習所として明治二六(一八九三)年に開校後、明治四〇(一九〇七)年に海軍水雷学校となり、横須賀長浦に新校舎が建てられたが、直後に田浦に移転している模様である(以上はウィキの「海軍水雷学校」及び個人サイト「大東亜戦争で散華した英霊に捧ぐ 殉國之碑/祖国日本」の「海軍水雷学校」等を参照したが、長浦から田浦への移設については資料によって記述に違いがある)。何れにせよ、国家最高機密に属する海軍重要機関の設置によって、この周辺海域での漁師の操業が著しく制限され、しかも広域の軍港化及び付帯施設の建造によって明治の末には既に大規模な環境破壊や水質汚染が進行したことを花袋は述べているように思われ、興味深い。
「一覽亭」「鎌倉攬勝考卷之十一附錄」の「六浦」の「山川」の項に、
一覽亭山 瀨ケ崎村の南にある山峰なり。六浦の庄を眼下に望み、南の方三浦郡浦賀并三崎・房・總の山海を、悉く眺望し盡せり。
とある。現在は開発によって変貌が著しく、この記載ではよく分からないが、現在の六浦東にある瀬ヶ崎神社か、隣接する追浜本町の雷神社一帯に丘陵上の痕跡が見える。識者の御教授を乞うものである。
「九覽亭」楠山永雄氏の「ぶらり金沢散歩道」の「眺望絶佳の九覧亭」に『九覧亭とは、瀬戸・金龍院境内の裏山にあった展望台で、金沢八景に富士山の一景を加えて九覧亭と名付けられた。だが、今、この九覧亭に立っても、周辺のマンション群に視界を遮られ、昔日の景観をイメージするのは難しいことである』とある。金龍院は現在の金沢八景駅から南東に二〇〇メートル程の位置にある。楠山氏によれば江戸後期、『金沢の内海が泥亀新田の開発で埋立てられ、金沢眺望の中心は能見堂から次第に「九覧亭」などに移ってゆく。文化文政の頃には、江戸っ子の間で鎌倉・江ノ島・大山などのパック旅行が盛んになり、金沢はたいへんな賑わいを見せ』、『観光名所も金沢八景の風光だけでなく、金沢名八木・金沢七井・金沢四石など名数をそろえ観光スポットを宣伝。幕末から昭和初期にかけて、観光客を誘致する絵図や絵はがき・ガイドブック類が数多く刊行された』とあり、その『なかでも九覧亭発行のものが種類も数も驚くばかりに多い』とされ、『その頃、九覧亭には多くの文人墨客、高官貴人、外国人などが訪れ、風光を絵画や写真、紀行文に描写している』と記しておられる。リンク先には九覧亭から瀬戸橋方面を望む明治中期の彩色写真が載る。かつては平潟湾を見下ろす風光明媚な景勝地であったことが偲ばれる。
「八景の目は、洲崎晴嵐……」この「目」は内訳の意。以下、金沢八景やその漢詩及び歌川広重の錦絵の画像は私の電子テクスト「鎌倉攬勝考卷之十一附録」の「金澤」の項の「八景」を是非、参照されたい。]