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2013/05/09

耳嚢 巻之七 鐡棒大學頭の事

 鐡棒大學頭の事

 

 松平大學頭、貮三代以前大學頭、常々杖に鐵棒を被用(もちゐられ)し故、俗に鐵棒大學と評判せしが、至て賢直剛器の人にて、松平安藝守懇意なりしが、子息但馬守初(はじめ)て御目見(おめみえ)の節、何分年若の者、行末の所を御師範賴み存(ぞんず)るよし、安藝守懇(ねんごろ)に被賴(たのまれ)し故、承知の由にて、則(すなはち)藝州□え被招(まねかれ)て但馬守を被引合(ひきあはせられ)しに、遖(あつぱれ)能き生(うま)れ立(たち)末(すゑ)賴母(たのも)しく、殊外(ことのほか)賞翫せしが、安藝守も此間申候通(このあひだまうしさふらふとほり)、彌相賴(いよいよあひたのむ)よし被申(まうされ)ければ、夫(それ)に付(つき)御招(おんまねき)故(ゆゑ)心掛(こころがけ)の所を不申(まうさず)は如何也(いかがなり)、先(まづ)着服の術甚(はなはだ)長く武士風になし迚(とて)、小刀を以(もつて)振袖の袖口貮三寸切縮(きりちぢめ)、扨(さて)大小の拵(こしらへ)も不宜(よろしからず)とて、持參致(いたし)候大小を取出(とりいだ)し被渡(わたされ)しが、刀は永く脇差は如何にも短く太く、たくましき拵にて有(あり)しと也。但馬守生涯帶刀、右大學頭被申候(まうされさふらふ)通りの刀脇差にて、今に大學頭送りし由、大小は藝州の家に殘りしと也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:本格武辺物で連関。

・「銀棒大學頭」は「かなぼうだいがくのかみ」と読む。

・「松平大學頭」松平頼慎(よりよし 明和七(一七七〇)年~文政一三(一八三〇)年)。陸奥守山藩第四代藩主。水戸藩支流松平家五代。守山藩四代藩主松平頼亮(よりあきら)次男。官位は従四位下大学頭で侍従。享和元(一八〇一)年、大学頭であった父頼亮の死により家督を相続、死去後は長男頼誠(よりのぶ)がやはり大学頭を継いでいる(ウィキの「松平頼慎」に拠る)。やや分かり難いが、本話の主人公はこの松平頼慎である。

・「貮三代以前大學頭」松平頼慎の曽祖父であった、同じく従四位下大学頭で侍従・少将の守山藩初代藩主松平頼貞(よりさだ 寛文四(一六六四)年~延享元(一七四四)年)を指す。常陸額田藩初代藩主松平頼元の長男として生まれ、水戸徳川家初代徳川頼房の孫に当たる。元禄六(一六九三)年、父の死去により家督を継いで常陸額田藩の第二代藩主となったが、元禄一三(一七〇〇)年に陸奥守山に移封されて守山藩主となった。元文四(一七三九)年の尾張藩主徳川宗春に対する蟄居の申し渡しでは使者を務めている。寛保三(一七四三)年に家督を三男頼寛(よりひろ)に譲って隠居した(ウィキの「松平頼貞」に拠る)。

・「剛器」底本には右に『(剛毅)』と補正注がある。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『剛気』。

・「松平安藝守」安芸広島藩第五代藩主で浅野家宗家第六代浅野吉長(よしなが 天和元(一六八一)年~宝暦二(一七五二)年)。元禄八(一六九五)年の元服に際して将軍綱吉より偏諱を受けて吉長と改名、宝永五(一七〇八)年に家督を継いでいる。享保一〇(一七二五)年には広島藩藩校として「講学所」(現在の修道中高等学校)を創始し、元文四(一七三九)年には宮島の大鳥居を再建、各種藩政改革で成功を収めたことから「江戸七賢人」の一人に数えられ、広島藩中興の英主名君と称される。参照したウィキの「浅野吉長」のよれば、『浅野家は、豊臣秀吉正妻(北政所)高台院の妹である弥々の子孫であり、吉長は、祖母九條八代を通じて秀吉の姉日秀尼の血を受け継いでいる。つまり、秀吉と寧々の傍系の血統である。また吉長の母は尾張二代藩主徳川光友の娘貴姫であり、曾祖母の前田萬は前田利家の直系の孫でもある。吉長は、徳川家康と前田利家の直系の血統も受け継いでいる。特に家康の血は尾張藩初代徳川義直と、二代将軍徳川秀忠の二つの流れを受け継いでいる』(アラビア数字を漢数字に代えた)とあり、江戸時代のとびきりの名門の血脈であることが分かる。

・「子息但馬守」安芸広島藩の第六代藩主で浅野家宗家七代浅野宗恒(むねつね 享保二(一七一七)年~天明七(一七八八)年)。吉長の長男として江戸桜田の上屋敷で生まれた。広島藩の財政は父の時代からすでに悪化していたが、宗恒の時代にも幕命による比叡山延暦寺堂塔修復による十五万両の出費に加えて、領内で凶作や大火が相次いで財政が窮乏化した。このため、宝暦三(一七五三)年には家臣団の知行を半減、宝暦四(一七五四)年には永代家禄制度の廃止、能力制による家禄の改正など、世襲制の一部廃止を断行する一方で、自ら倹約に努め、さらに役人の不正摘発や裁判制度の公正化を行うなど、様々な藩政改革に着手して、改革をほぼ成功させた名君であった(ウィキの「浅野宗恒」に拠る)。

・「□え」判読不能か。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『亭』とある。これで採る。

・「遖(あつぱれ)」は底本のルビ。

・「着服の術」の「術」には底本では右にママ注記を附す。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『裄(ゆき)』とある。「裄」は和服の着物の背の縫い目から袖口及びその長さをいう。現代語訳ではこれを採った。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 鉄棒大学頭(かなぼうだいがくのかみ)の事

 

 松平大学頭頼慎(よりよし)殿――二、三代以前より大学頭であられた――は、常々、愛用されておられた杖に、鉄棒(かなぼう)を用いられておられたゆえ、俗に『鉄棒大学』様と評判せられておられたが、至って賢直剛毅の御仁であられた。

 松平安芸守浅野吉長(よしなが)殿と御懇意であられたが、吉長殿御嫡男但馬守宗恒(むねつね)殿、初めての将軍家御目見(おめみえ)の際には、

「何分、年若(としわか)の者なれば、行末の所を、これ、御師範、よろしゅう、お頼み申す。」

と、父君(ちちぎみ)より、懇(ねんご)ろに『鉄棒大学』様へ御頼みがあられたと申す。

 即座に承知の旨、御座ったによって、安芸守殿は『鉄棒大学』様を直ちに御屋敷に招かれ、子息但馬守殿にお引き逢わし申し上げなされた。

 『鉄棒大学』様、但馬守殿を御一見なさるるや、

「――遖(あつぱ)れ! よき性(しょう)にお生まれなさった御仁じゃ! 末、頼もしゅう存ずる!」

と、殊の外、賞賛なされた。

 父安芸守殿、

「先般、お頼み申した通り、いよいよ、よろしゅうに、お頼み申し上ぐる。」

と申されたところが、『鉄棒大学』様、

「――それにつき、わざわざの御招きまで頂戴致いたゆえ、取り急ぎ、心に掛かって御座る所を申さぬは、これ、よろしゅう御座るまい。――まず、貴殿の着服の裄(ゆき)――これ、はなはだ――長(なご)う御座る。まずは武士風になすがよろしい。――」

とお答えになったかと思うと、御自身の小刀を以って、目の前の、但馬守殿の振袖の袖口を

――シャッ! シャッ!

と、いとも簡単に二、三寸、切り縮められた上、

「――さても――大小のその拵え、これも、はなはだ、宜しゅうない。――」

と、予め用意持参なされて御座った大小を取り出だされ、但馬守殿へ直々にお渡しになられた。

 その太刀は――これ、如何にも長いもので、対する脇差と言えば、これ如何にも短く太うて、ごつごつとした逞しい拵えのもので御座ったと申す。

 ……但馬守殿は、このいかもの造りの大小を、生涯、帯刀なされた。

 この大小は、如何にも『鉄棒大学』頭殿が、宜しい、と申さるるに相応しき、異形(いぎょう)の刀脇差にて、今に、代々の浅野当家大学頭殿へ送り伝えておらるる由にて、安芸国の宗家屋敷に今も伝えられておる、とのことで御座る。

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