○實朝公右大臣に任ず 付 拜賀 竝 禪師公曉實朝を討つ 〈第3パート〉 附やぶちゃん注
〈パート3〉
當宮(たうぐう)の別當阿闍梨公曉、竊(ひそか)に石階(いしばし)の邊(へん)に伺來(うかゞひきた)り、劍(けん)を取りて、右大臣實朝公の首、打落(うちおと)し、提(ひつさ)げて逐電(ちくてん)す。武田〔の〕五郎信光を先として、聲々に喚(よばは)り、隨兵等(ら)走散(はしりち)りて求むれども誰人(たれびと)の所爲(しよゐ)と知難(しりがた)し。別當坊公曉の所爲ぞと云出しければ、雪下の本坊に押(おし)寄せけれども、公曉はおはしまさず。さしも巍々(ぎゞ)たる行列の作法(さはふ)も亂れて、公卿、殿上人は歩跣(かちはだし)になり、冠(かうふり)ぬけて落失(おちう)せ、一千餘騎の随兵等、馬を馳(はせ)て込來(こみきた)り、見物の上下は蹈殺(ふみころ)され、打倒(うちたふ)れ、鎌倉中はいとゞ暗(くらやみ)になり、これはそも如何なる事ぞとて、人々魂(たましひ)を失ひ、呆れたる計(ばかり)なり。
〈パート3注〉
[やぶちゃん注:以下、この公暁による暗殺及びその直後のパートを「吾妻鏡」より示しておく。
及夜陰。神拜事終。漸令退出御之處。當宮別當阿闍梨公曉窺來于石階之際。取劔奉侵丞相。其後隨兵等雖馳駕于宮中。〔武田五郎信光進先登。〕無所覓讎敵。或人云。於上宮之砌。別當阿闍梨公曉討父敵之由。被名謁云々。就之。各襲到于件雪下本坊。彼門弟惡僧等。籠于其内。相戰之處。長尾新六定景与子息太郎景茂。同次郎胤景等諍先登云々。勇士之赴戰場之法。人以爲美談。遂惡僧敗北。闍梨不坐此所給。軍兵空退散。諸人惘然之外無他。
夜陰に及びて、神拜の事終り、漸くに退出せしめ御(たま)ふの處、當宮別當阿闍梨公曉、石階(いしばし)の際(きは)に窺ひ來たり、劔を取つて丞相を侵し奉る。其の後、隨兵等、宮中に馳せ駕すと雖も、〔武田五郎信光、先登に進む。〕讎敵(しうてき)を覓(もと)る所無し。或る人の云はく、
「上宮(かみのみや)の砌りに於いて、『別當阿闍梨公曉、父の敵を討つ。』の由、名謁(なの)らると云々。
之に就き、各々、件(くだん)の雪下(ゆきのした)の本坊に襲ひ到る。彼の門弟惡僧等、其の内に籠り、相ひ戰ふの處、長尾新六定景・子息太郎景茂・同次郎胤景等と先登を諍(あらそ)ふと云々。
勇士の戰場に赴くの法、人、以つて美談と爲す。遂に惡僧、敗北す。闍梨、此の所に坐(おは)し給はず。軍兵、空しく退散し、諸人、惘然(ぼうぜん)の外、他(ほか)無し。
「武田五郎信光」(応保二(一一六二)年~宝治二(一二四八)年)は甲斐源氏信義の子。治承四(一一八〇)年に一族と共に挙兵して駿河国に出陣、平家方を破る。その後、源頼朝の傘下に入って平家追討戦に従軍した。文治五(一一八九)年の奥州合戦にも参加するが、この頃には安芸国守護となっている。その後も阿野全成の捕縛や和田合戦などで活躍、この後の承久の乱の際にも東山道の大将軍として上洛している。弓馬に優れ、小笠原長清・海野幸氏・望月重隆らとともに弓馬四天王と称された。当時五十七歳(以上は「朝日日本歴史人物事典」及びウィキの「武田信光」を参照した)。
「巍々たる」雄大で厳かなさま。]
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