海産生物古記録集■4 後藤梨春「随観写真」に表われたるボウズボヤ及びホヤ類の記載
このテクストの訓読と評釈には非常に手こずった(延べ三日はかかってしまった)。それだけになんとも愛着のあるものともなったように感じている。但し、訓読の一部や解釈に自信のない部分も残る。お読み頂き、何か気づかれた御方は、是非、御一報戴きたい。よろしくお願い申し上げる。
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後藤梨春「随観写真」に表われたるボウズボヤ及びホヤ類の記載
[やぶちゃん注:宝暦七(一七五七)年序・安政五(一八五八)年写の後藤梨春「随観写真」の「介部六」(一巻)の「甫夜」より。
後藤梨春(ごとうりしゅん 元禄九(一六九六)年~明和八(一七七一)年)は江戸の本草学者・蘭学者で町医。本姓は能登国七尾城主多田氏であったが、父義方の時に後藤に改姓、本名は光生。江戸生。長じて田村藍水に本草学を修学、宝暦七(一七五七)年から同一〇年にかけて江戸と大坂で催された物産会に出品、明和二(一七六五)年には江戸の私立医学校躋寿館躋寿館(せいじゅかん)で都講(教頭)となって本草学を講じている。オランダの地理・暦法・物産・科学機器などを紹介した「紅毛談」は本邦初の電気文献とされる。これにアルファベットを載せたために幕府に絶版を命ぜられたとも伝えられるが、検討の余地がある。著書に「本草綱目補物品目録」「春秋七草」「震雷記」等(主に「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。荒俣宏「世界大博物図鑑別巻2 海産無脊椎動物」の索引「博物学関係人名」の後藤梨春の項には、『栗本丹洲によると、梨春は盲目の鍼灸医だった。本草、物産の書を多数記し、非常な博才のもち主として知られ、草木の葉をもってきて鑑定を求めるものがいると、指先でなでるだけで解答することができた。それにはわずかな誤りもなかったという』という驚天動地の事実が記されている(引用に際してコンマ・ピリオドを句読点に変更した)。
本未刊の名著「随観写真」は動植物全体を収めた図譜であったが、現在流布しているのは魚部二百八十八品と介部六十八品を掲載する六冊のみ。当該「介部六」の掉尾には動植物を好んだ信濃須坂藩主堀直格(なおただ)の識語が附されている。
底本は国立国会図書館デジタル化資料の「随観写真」「介部1巻」の当該画像(コマ番号25)を視認した。私の訓読と合わせながら、紅色鮮やかな附図を是非観賞されたい。
なお、底本では二行目以下は全体(一部挿絵に合わせて一行字数に長短有り)が一字下げで、一切の訓点がない。従って訓読は全くの我流で、しかも私には今一つ自信のない部分がある。誤読・誤訳の御指摘は、恩幸これに過ぎたるはない。識者の御教授を、よろしくお願い申し上げる次第である。]
甫夜 用老海鼠之字又用梅于之字此物東奥多出而中國海西稀也鹽藏而送于四方其形如白梅色紫蘇葉色容故書用梅于之字載本草綱目介部所載※蛤類石蜐是乎和名鈔以老海鼠入魚部今按貝類也肉味似海鼡膓而香亦如海鼠而氣烈著圖如蔕處性如鰒耳形如粟粒以如毛物錣成而包此貝矣此貝或二或三又如花物形似海鼡有疣色赤以刀截之則出水亦海鼡剝赤皮則中有肉浸醋以生薑番椒食之形味香與貝肉全同也貝肉者差少而不堪食此物有不知而食赤皮物甚硬海俗亦不食之野必大以石蜐爲甫夜今按石蜐春而發花之諸説者貝肉之精液春吐出而可謂凝成此物乎假今鹽膚子生五倍子及諸樹生贅瘤之理乎
[やぶちゃん字注:「※」=「虫」+「午」。]
□附図について
画像は底本とした国立国会図書館デジタル化資料の「随観写真」「介部1巻」のコマ番号25を参照されたい(転載には手続きが必要なため、今回は見合わせる)。なお、以下の語注に示した通り、小振りながら、底本とは異なる鮮やかな彩色の写本が「世界大博物図鑑別巻2 海産無脊椎動物」(平凡社一九九四年刊)の二八六頁に所収する。合わせて見られることをお薦めする。
底本附図では全体図の球状の冠部の個虫(かなり誇張されて描かれている)の鮮やかな描写もさることながら、円柱状の柄部の下端(本文の「蔕」)の多くの根状突起の描写が、草葉の文様のようで、すこぶる美事である。左下には摘出した可食部の筋帯と思われるもの二個が左右対称形に並んで描かれているが、その下部の陰影は立体感を出すと同時に、ホヤの内臓の色彩変位や消化管内の残渣体を示してのようにも見受けられる。
■やぶちゃんの訓読(読み易くするために適宜改行を施した)
甫夜(ほや) 「老海鼠」の字を用ひ、又、「梅于」の字を用ふ。
此の物、東奥(とうおう)に多出して中國や海西には稀なり。
鹽藏して四方に送る。
其の形、白梅ごとくにして色は紫蘇葉色(しそばいろ)、容(かたち)故に「梅于」の字を用ひて書く。
載(すなは)ち、「本草綱目 介部」所載の「※蛤類」の「石蜐」は是れか。
「和名鈔」は「老海鼠」を以つて魚の部に入る。[やぶちゃん字注:「※」=「虫」+「午」。]
今、按ずるに貝類なり。
肉味、海鼡膓(このわた)に似て、香りも亦、海鼠(なまこ)のごとくして、氣、烈たり。
圖に著はす蔕(へた)のごとき處は、性、鰒(あはび)の耳の形のごとく、形、粟粒のごときは、毛のごとき物を以つて錣(しころ)と成して此の貝を包む。
此の貝、或いは二つ、或いは三つ、又、花のごとき物、形、海鼡(なまこ)に似る疣有り。色、赤。刀を以つて之を截るに、則ち、水、出づ。
亦、海鼡赤皮(なまこあかがは)を剝げば、則ち、中は肉有り。
醋(す)に浸(ひた)して以つて生薑(しやうが)・番椒(ばんせう)にて之を食ふに、形・味・香り、貝肉(かひにく)と全く同じなり。貝肉は差少にして食ふに堪へず。此の物の有ること、知らずして食ふ。
赤き皮なる物は甚だ硬し。海俗も亦、之は食はず。
野必大(やひつだい)、「甫夜」を以つて「石蜐」と爲す。
今、按ずるに、『石蜐は春にして花を發す』との諸説、『貝肉の精液、春、吐き出でて凝り成る』と謂ふは、此の物か。假りに今、鹽膚子(えんふし)が五倍子(ふし)を生じ、及び、諸樹が贅瘤(ぜいりう)を生ずるの理(ことわり)か。
□やぶちゃん注
○まず最初に附図にある本種の同定であるが、実は既に荒俣宏氏が本文附の「随観写真」の当該箇所の画像(但し、既に述べた通り、私が底本とした国立国会図書館のものとは挿絵の彩色もより鮮やかで、本文の字配も全く異なる別な写本である)を「世界大博物図鑑別巻2 海産無脊椎動物」のホヤの図版に採られて、そのキャプションで本種をボウズボヤ(アンチンボヤ)
Syndiazona grandis に同定されておられ、本種の特異な形状からも、また、以下に示す二種しかない同属のSyndiazona chinesis 採取記載例からも、問題のない同定である(カラー生体画像の例は個人サイト「さかなまにあ」にあるこの写真が上部部分をよくとらえている)。以下、
脊索動物門尾索動物亜門海鞘(ホヤ)綱腸性(マメボヤ)目管鰓(マメボヤ)亜目ユウレイボヤ科ボウズボヤ
について、まず最初に、本種の生物学的な最新解説記載と考えてよい保育社平成七(一九九五)年刊西村三郎編著「原色検索日本海岸動物図鑑[Ⅱ]」の記載に基づいたものを示す(一部の表記や専門的で分かり難い部分に手を加え、私が補足した部分もあるが、記載主旨を曲げた部分はないと信ずる。学術記載としては当該資料に必ず当たられたい)。
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ボウズボヤ
Syndiazona grandis Oka(この学名は何と、私が電子化を行っている「生物學講話」の著者丘浅次郎先生の命名である)
群体はほぼ球状の冠部(大きな個体では直径二〇センチメートルに達し、重量も二キログラムを遙かに越えるまで成長する)と、太く長い柄部からなるのが一般的であるが、個体変異の幅が広い。生体では被嚢は淡黄色から褐色で、個虫胸部(本体から突出した個々の尖頭部分)は鮮やかな赤橙色である(但し、標本保存後には群体部全体が緑色に変色する場合もある)。個々の個虫は全長四〇ミリメートルに達し、その場合の胸部部分は約一五ミリメートルに及ぶ。胸部の筋肉は縦及び横に走っている。能登半島以南の日本海沿岸及び千葉館山以南の太平洋岸の、約二〇メートル以深に棲息する。漁網に掛かって網干し場で採取されることも多い。東シナ海にも分布する。ボウズボヤ属
Syndiazona は Syndiazona grandis とヒラボウズボヤ
Syndiazona chinesis Tokioka の二種のみで、後者は個虫胸部に縦走筋のみで横走筋が全くないことによって識別され、島根県沿岸の水深一五メートル地点の他、紀伊半島・東シナ海・フィリピン・バンダ海の水深三〇~一二〇メートル附近での棲息が記録されている。
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次に、私が永く愛用して来た海岸動物図鑑のチャンピオン(と私は思っている)保育社昭和五一(一九七六)年刊の内海富士夫「原色日本海岸動物図鑑」(改訂三版)の記載に基づいたものを掲げておきたい(素人の見かけ上は上記の「原色検索日本海岸動物図鑑[Ⅱ]」とはやや記載内容が異なって見えるので参考までに示したい)。
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ボウズボヤ Syndiazona grandis Oka 〔Cionidae(ユウレイボヤ科)〕
群体は茸状を呈し、球状の冠部と円柱状の柄部からなり、下端は多くの根状突起に分かれて他の物に附着する。長さ二〇センチメートルで最大直径は一七センチメートルに達する。色彩は変異が多いが、多くは灰褐色。個虫は赤紅色で、上端を表面に現わして冠部の中に束状に配列する。甲殻綱十脚目短尾亜目カイカムリカイカムリ科カイカムリ属オオカイカムリ Dromidiopsis dormia やカイカムリ Dromia dehaani が背面上に背負っているものは広い円盤状を呈する。水深五〇~一〇〇メートルの砂泥中に棲息する。分布域は相模湾・紀州沿岸・東シナ海(当該底本の図版も標本であるため、全体に灰色で赤色部分は脱色して認められない)。
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なお、荒俣氏がキャプションに括弧書きで附しておられるアンチンボヤという異名と思われる呼称はなかなかネット検索でもかかってこない。……しかし、かつて荒俣氏の小さいながらも鮮やかな図版を見た瞬間、道成寺フリーク(リンク先は私の道成寺物集成「道成寺鐘中」の頁)の私は横手を打ったものだ。突き出る個虫は鐘乳にも似るが、何より、蛇体となった清姫の恨みの火炎によって真っ赤に灼けて紅蓮の焰を上げている安珍の隠れた鐘に確かに見えるではないか! しかも上記の二書の分布記載を見るがよい。そこにはしっかりと名指しで紀伊半島・紀州沿岸と記されている!……この異形にして奇体な正体不明の生き物を、かの紀州日高周辺の人々がアンチンボヤと呼んだとして、何の不思議もない。寧ろ、正式和名の一見、如何にもなボウズボヤのボウズは、その茸状の剃髪した僧の頭(内海氏の図鑑では確かにそう見えるが)のような形状の譬えというよりも、実は僧侶であった安珍のそれがルーツであったのではないか?……鮮やかな紅色の個虫が火が燃え立つ如く見えた生体をもって名付けられたアンチンボヤこそが最初の本種の正統な和名であったのではないか?(これは実に私の勝手な願望であることは無論である)……などと、つい、夢想してしまうのであった……が……荒俣氏も私も残念なことにボウズボヤとアンチンボヤは別種であること、しかも亜目(Suborde)レベルで異なることが分かってしまった。JAMSTEC(独立行政法人海洋研究開発機構)の「深海映像・画像アーカイブス データセット」に見つけた。それによればアンチンボヤは、
マメボヤ目マンジュウボヤ亜目マンジュウボヤ科イチゴボヤ属アンチンボヤPseudodistoma antinboja Tokioka
なのであった。しかも、さらに和名ではなく、この学名で検索をしてゆくと幾つかの画像にも辿り着く。例えば「近海モノコレクション (Sasakic's Web Site)」の「原索動物 PROTOCHORDATA」、「美しい海が永遠でありますように」のここ。撮影者は何れもダイバーの方である。特に前者ではボウズボヤ
Syndiazona grandis が並んで挙がっており、キャプションには『オレンジ色のキノコ型群体ボヤ。伊豆ではあんまり見ないかも。南勢には結構おりました』とあり明らかに本ボウズボヤとは異なるホヤであることが見てとれた。私の安珍夢想も残念ながらここで美事に焼け死んで灰としまったのであった。……
以下、本文の御注に入る。
・「甫夜」「甫」は見かけない当て字である。通常の「ほや」という音への当字は「保夜」である。なお、「ほや」については、精力剤になるから「夜を保つ」で「保夜」と書くとか、夜を通して保つランプのほやと形が似ているからとか、語源説はやたらにあるが、そもそも「ほや」という語は、『「筠庭雑録」に表われたるホヤの記載』の注で示した通り、「土佐日記」に既に「老海鼠(ほや)のつまの貽鮨(いずし)」として現われており、孰れも後世の牽強付会としか私には思えず、肯んじ得ない。
・「老海鼠」人口に膾炙する当て字であるが、ここで注しておくと、本文にもある通り、「和漢三才図会」(正徳二(一七一二)年頃成立)の「介貝部 四十七」の「老海鼠〔和名、保夜。〕」に『「和名抄」は魚類に入る。以て海鼠の老いたる者と爲すか。』と割注し、広瀬旭荘の「九桂草堂随筆」(安政二(一八五五)年~同四(一八五七)年成立)にも『浪華の田邊守瓶が説』と断りながら、『ホヤとは老海鼠の化するところ、海鼠海底に蟄すること數百年、土沙その體に粘して陶器の狀をなす、唯口と尻との二口を以て呼吸を通ず』とする。実はこれはまだ先があって、以下、龍の如きものとなって殻を破り出て暴れ回る云々というとんでもないことが書いてある(これは面白いので後日ここで電子化して注したい)。ともかくもナマコの老成してホヤ化するという説は、この「老海鼠」という当て字とともに広く信じられていたのではないかと感じさせはする。
・「梅于」恐らくお読みになる諸君は、これは「容(かたち)故に」と私が訓じているなら、このボウズボヤや知られたマボヤ・アカボヤの色と形状から、当然、これは「梅干」ではないのか、「于」ではなく「干」であろう、と疑義を持たれるかも知れない。当初、私もそう読もうと思ったのであるが、どうもしっくりこないのである。もし、直に換喩としてこの字を当てたならば、筆者はきっと「ウメボシ」と例外的にルビを振りそうな気がするのである。また、底本及び荒俣版の図を仔細に見てもこの字、明らかに最終三画目の縦棒は最後に左に撥ねているのである(但し、二回目に出るものは底本では極めて少ししか撥ねていないが、それでも完全に止めているわけでもない。荒俣版は明白に二箇所とも撥ねている)。更に、実はその間に既にお気づきのことと思われるが、この二箇所の間には「送于四方」(四方に送る)という場所を示す語の前に配する前置詞としての助字である「于」があるが、この字と「梅」の後の字は全く区別して書かれていない。即ち、この三つは同じ漢字として書かれているとしか思えないのである。従って音で読むならこれは「バイウ」である。では「于」とは何ぞやということになろう。ここが私の苦しいところであるが、敢えてこじつけのように聞こえるが、この場合の「于」は疑問・感嘆を表わす助字としての意を含ませているのではないか、と推測しているのである。但し、『「梅于」の字を用ひて書く』とあり、この字の読みを示す必要はないと考えた。但し、「梅干」ではおかしいかというと、実はおかしくはないのである。「世界大博物図鑑別巻2 海産無脊椎動物」の「ホヤ」の項で荒俣氏は、松浦武四郎の「知床日誌」(万延元(一八六〇)年の成立とされる)に、『津軽では、ホヤの皮をはぎとり、腸を食べる。その肉皮の水晶のように透明な部分を味噌漬けにしたものを〈琥珀漬〉という。これは塩漬けにして三~四年してから用いるとよろしい。なお当今津軽南部では、ホヤを〈梅干〉と書くが、おそらくこれは、栂干という当て字が時へて誤って伝えれたものだろう。そう言えば近ごろ、これの味噌漬けを』〈生梅干味噌漬(スホヤミソ)〉『と上書きして、江戸に贈ったのだが、邸のほうではそれがなんだかわからずに、梅干だと思ってある寺に贈った。そるとその寺の和尚は、(それが生臭物であるとはつゆ知らず)その美味を賞して、また贈ってほしいと江戸邸に乞うたという話がある。じつにおかしいことではないか』と記しているのである(文中の「栂干」の「栂」は裸子植物門マツ綱マツ目マツ科ツガ属
Tsuga sieboldii を指す。「栂干」の謂いはよく分からないが、ウィキの「ツガ」には、『建材として用いられるほか、樹皮からタンニンを取り、漁網を染めるのに使われた』とあって、「栂干」とはそのタンニンを採取するために樹皮を乾かした際の色(柿渋色)の感じ及びホヤの皮革部分の触感が似ているからではなかろうか? なお、「漁網に掛かって網干し場で採取されることも多い」とする、「原色検索日本海岸動物図鑑[Ⅱ]」の記載と『漁網を染めるのに使われた』というウィキの記載の不思議な一致もとても面白い(と私は思う)。ともかくも、私の「于」「干」の字の同定及びそれに付随する推理については、大方の御批判を俟つものである。
・「東奥」東の奥の地方で奥州地方を指す。「とうおく」と読んでもよい。
・「中國や海西」本邦の中国地方や九州を含む西日本の謂い。但し、ボウズボヤの分布域からすると不審である。
・「紫蘇葉色」双子葉植物綱シソ目シソ科シソ属エゴマ変種シソ
Perilla frutescens var. crispa の中でも栽培品種である「狭義のシソ」であるアカジソ
Perilla frutescens var. crispa forma purpurea の葉の色であろう。赤紫蘇は葉の両面ともに赤色で、縮れないことを特色とする。
・「本草綱目」明の李時珍の薬物書。五十二巻。一五九六年頃の刊行。巻頭の巻一及び二は序例(総論)、巻三及び四は百病主治として各病症に合わせた薬を示し、巻五以降が薬物各論で、それぞれの起源に基づいた分類がなされている。収録薬種一八九二種、図版一一〇九枚、処方一一〇九六種にのぼる。
『※蛤類の「石蜐」は是れか』[字注:「※」=「虫」+「午」。]この「※」は「蚌」の誤りであろう。「本草綱目」にあっては「蚌蛤(ぼうごう)」は、広く淡・海水産の二枚貝を指している。「石蜐」は「せきこふ(せきこう)」または「せきけふ(せききょう)」と読む。「和漢三才図会 介貝部 四十七」の「石蜐」には(私の電子テクストより当該を引用)、
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「本綱」に『石蜐、東南海中に生ず。石上の蚌蛤の屬。形、龜脚のごとく、亦、爪有り。状、殻、蟹の螯(はさみ)のごとし。其の色、紫にて、食ふべし。長さ八、九寸の者有り。春雨を得れば、則ち節に應じて花を生ず。』と。
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とあり、これは節足動物門甲殻類の蔓脚類に属するフジツボ目ミョウガガイ科カメノテ
Pollicipes mitella を指していることが明らかで、「蚌蛤の屬」というのは生物学的には誤りである。「春雨を得れば、則ち節に應じて花を生ず。」という叙述も不審で、満潮に応じて蔓脚を出す捕食行動か、放精放卵行動を誤認したものかと思われる。
しかしながらここで後藤梨春が「甫夜」を「石蜐」に同定候補しているのはどうも解せない。しかも記述の末尾でも人見必大の同定に力を得て、『「石蜐」は、春にして花を發すとの諸説は、貝肉の精液、春、吐き出でて凝り成ると謂ふは、此の物か』と一貫してこの同定を支持している様子が窺える。これは一つの推理であるが、後藤は目が不自由であった。ホヤの入水管や出水管を触れてみた場合、亀の首や手に似ていないとは言えない。また、ホヤ類の下部、仮根の生える部位の形状は(特にこの附図では特に)亀の手の甲の石畳状のざらついた質感に似てないとは言えない気がするのである。但し、第一義的には他の健常な本草学者や好事家が「石蜐」に同定していることがその主因であり、後藤の目の不自由さとこの同定は無関係であるとも言い得る。謂わば私にとっては、当時の多くの識者がこれをカメノテの仲間と誤認したことの根底にある、対象認識への集団的無意識構造が大いに気になる、と言った方が正確であろう。
・「和名抄」正しくは「倭(和とも表記)名類聚鈔(抄とも表記)」で、平安時代中期に源順(したごう)によって編せられた辞書。
・「今、按ずるに貝類なり」早々に後藤はホヤを貝類と断定している。以前にも述べたが、現在でも、私の知り合いの物理の大学教授や年季の入った寿司屋の大将、果ては町の魚屋でさえ、「ホヤガイ」と呼称して貝類だと思っていたり、イソギンチャクの仲間だと言って見たりと、かなり最近は市民権を獲得して、市場に出回っているにも関わらず、誤認している人が多いから、ここでは後藤の誤りを特に論う必要はあるまい。
・「海鼡膓」海鼠腸(このわた)。「和漢三才図会 巻第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「海鼠」に(ここで寺島良安は「和名抄」同様に、魚類に分類していることに注意)、
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海鼠腸(このわた)は、腹中に黄なる腸三條有り。之を腌(しほもの)とし、醬(ひしほ)と爲る者なり。香美、言ふべからず。冬春、珍肴と爲す。色、琥珀のごとくなる者を上品と爲す。黄なる中に、黑・白、相交る者を下品と爲す。正月を過ぐれば、則ち味、變じて、甚だ鹹(しほから)く、食ふに堪へず。其の腸の中、赤黄色くして糊(のり)のごとき者有りて、海鼠子(このこ)と名づく。亦、佳なり。
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とある(私の同巻の電子テクストから、やや改変して示した)。「腌」は塩漬けのこと。
・「蔕のごとき處は、性、鰒の耳の形のごとく」最下部の仮根を発芽している部分は、その触感はアワビの外套膜辺縁部(因みに私の大々大好物の部位である)に似ている、というのである。『いや! 実に言い得て妙だ! その通り!』と快哉を叫びたい気が、ホヤ・フリークであると同時に鮑の耳フリークでもある私にはしてくるほどに、美事な記述である。
・「錣」兜(かぶと)の鉢の左右・後方につけて垂らし、首から襟の防御とするもの。多くは札(さね)または鉄板を三段ないし五段下りとして縅(おどし)つけるが、この場合、個虫が札(さね)のように見える(生体がというよりこの附図の誇張描写が特にそうである)ことを言ったものと推定される。
「此の貝、或いは二つ、或いは三つ、又、花のごとき物、形、海鼡に似る疣有り」これは入水管と出水管を言っていると断定出来るが、「三つ」というのは不審である。皮革部に散在する突出部をも含めて言っているのであろうか。なお、この辺りからはボウズボヤではなく、私たちの知っている海鞘(ホヤ)綱壁性(側性ホヤ)目褶鰓亜目ピウラ(マボヤ)科マボヤ
Halocynthia roretzi かアヤボヤ Halocynthia aurantium の記載になっているとしか読めない点は注意が必要である。なお、群体ボヤであるボウズボヤやアンチンボヤはそれぞれの小さな個虫にちゃんと(当然のことながら、やはり事実を知ると「へえっ!」となる)この入水管と出水管がある。
・「貝肉は差少にして食ふに堪へず。此の物の有ること、知らずして食ふ。」この部分、訓読に自信がない。一応、食い物とするにはあまりに肉部分が少ない。多量に採取して、その肉(筋帯部)を塩蔵品として各地に送るために、元はこのように奇体な「貝」(後藤の言い方に倣う)であることを知らずに何か普通の貝類の塩蔵品として知らずに食っているのである、という意でとった。ここまで読まれた方はお分かり頂けると思うが、私のこの読みは先の注に示した荒俣氏が紹介された松浦武四郎の「知床日誌」の記述内容に触発されたものである。是非とも識者の御教授を乞うものである。
・「海鼡赤皮」海鼠のような外側の皮革質部分という意味であろう。
・「番椒」唐辛子。
・「野必大」本草学者人見必大(寛永一九(一六四二)年?~元禄一四(一七〇一)年)。幕府の侍医随祥院元徳の子。小野必大が本名であったが中国風に野必大とも名乗った。先祖が源頼朝から人見姓を与えられたとの伝承により人見姓を通称し、千里・丹岳とも号した。食生活が豊かになり、食物と健康の関係に関心が集まった元禄期に、本格的な食物本草の書「本朝食鑑」(元禄一〇(一六九七)年)を刊行した。同書は多数の食品を健康への良否を中心に解説、民間行事や民間伝承の紹介も多く、民俗学的にも重要視されている書である。延宝元(一六七三)年に禄三〇〇石を継いで幕府の医官として波乱なく過ごした(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠ったが、書名を「本草食鑑」とするのを改めた)。
・「『石蜐は春にして花を發す』との諸説、『貝肉の精液、春、吐き出でて凝り成る』と謂ふは、此の物か。」ここも訓読に自信がない。識者の御教授を乞う。
・「鹽膚子」塩膚木。双子葉植物綱ムクロジ目ウルシ科ヌルデ
Rhus javanica のこと。フシノキ・カチノキとも呼ぶ。ウィキの「ヌルデ」によれば、『ヌルデの名は、かつて幹を傷つけて白い汁を採り塗料として使ったことに由来するとされる。フシノキは後述する生薬の付子がとれる木の意である。カチノキ(勝の木)は聖徳太子が蘇我馬子と物部守屋の戦いに際し、ヌルデの木で仏像を作り馬子の戦勝を祈願したとの伝承から』とある。この葉に昆虫綱有翅亜綱半翅(カメムシ)目腹吻亜目アブラムシ上科アブラムシ科の『ヌルデシロアブラムシ
Schlechtendalia
chinensis が寄生すると大きな虫癭(ちゅうえい)を作る。虫癭には黒紫色のアブラムシが多数詰まっている。この虫癭はタンニンが豊富に含まれており皮なめしに用いられたり黒色染料の原料になる。染め物では空五倍子色(うつふしいろ)とよばれる伝統的な色をつくりだす。インキや白髪染の原料になるほか、かつては既婚女性』および一八歳以上の未婚女性の『習慣であったお歯黒にも用いられた』。『また生薬として五倍子(ごばいし)あるいは付子(ふし)と呼ばれ腫れ物、歯痛などにもちいられた。但し、猛毒のあるトリカブトの根も付子であるので、混同しないよう注意を要する。(トリカブトの方は「ぶし」または「ぶす」と読む。「付子」よりも「附子」の字を当てるのが多い。)』とある。
・「五倍子」「ごばいし」とも読み、「付子」「附子」とも書く。ヌルデの若芽や若葉などにアブラムシが寄生してできる虫こぶのことで、紡錘形を成しており、タンニンを多く含むために採取してインクや染料の原材料とする。この当時は「お歯黒」の素材として盛んにに利用された。
・「贅瘤」贅疣(ぜいゆう)と同じで疣(いぼ)や瘤(こぶ)状の余計な突起物をいう。ここでは先に示した植物の虫こぶのことを指している。今では如何にもなトンデモ学説ながら、当時、まことしやかに語られていた無生物から生物が生まれるとした化生説などに比べれば、まだしもな説ではあるまいか。
○なお、「世界大博物図鑑別巻2 海産無脊椎動物」の図では、最終行の後に朱書きで、
石勃卒 雨航雜錄
と記されてある。これは『「筠庭雑録」に表われたるホヤの記載』に注した通り、「石勃卒」は平安初期の本邦の記載に既に見られるとするホヤの古名称、「雨航雜錄」は明代後期の文人馮時可(ひょうじか)が撰した雑文集。魚類の漢名典拠としてよく用いられ、四庫全書に含まれている書である。後藤梨春が指示して書き入れさせた追記か、当該写本の持主の覚書きかは不明。「石」の字の筆跡を本文と比べると、有意に異なり、少なくとも本文の右筆とは異なる人物による書き入れと思われる。
◆やぶちゃん現代語訳(一部に敷衍・意訳を含む)
甫夜(ホヤ) 「老海鼠」の字を当て、又、「梅于」の字をも当てる。
この生物は東北地方に多く産出して、中国地方や西日本では稀にしか産しない。
塩蔵して、食物として四方に搬送する。
その形は、白梅のようで、色は紫蘇葉色(しそばいろ)、その形ゆえに「梅于」の字を当てて品名を記す。
まさに、これは「本草綱目」の「介部」に所載するところの、「蚌蛤(ぼうごう)類」の「石蜐(せきこう)」こそがこれではなかろうか。
但し、「和名鈔」は、この「老海鼠」を以って魚の部に入れている。
今、考えるに、これは貝類である。
その肉の味は、海鼠腸(このわた)に似て、香りもまた、海鼠(なまこ)にそっくりであり、しかもその独特の磯臭さは、かなり強烈である。
図に著わした下部の蔕(へた)のような部分は、質感・形状ともに鮑の耳のそれに似ており、上部の粟粒の形をした部分は、毛のような物を以って造られた、いわば鎧兜(よろいかぶと)の錣(しころ)の札(さね)そっくりの形状で、この貝の上部全体を包んでいる。
この貝には、二つ若しくは三つ、有意に大きい花のような、形が海鼠に似た、疣状の突起がある。その色は特に赤く、小刀を以ってその突出した箇所の先端を切除すると、勢いよく水が噴き出る。
また、海鼠に類似した赤い皮革を総て剥離すると、まさに中から肉が現われる。
酢に浸して、以って生姜や唐辛子を添えてこれを食するに、形・味・香り、これ、他の貝の肉と全く変わらない。但し、このホヤの貝の肉は極めて少量しか採れず、一個体では食うには足らない。そこで多量に採取したものを塩漬けにして各所に送るのであるが、このような奇体なる貝がいることを知らず、それを普通の貝の肉と思って人々は食っているのである。
赤い皮革のような部分は非常に硬い。漁民でさえも、この部分は食わない。
野必大(やひつだい)氏も「甫夜」を以って「石蜐」と同定されている。
今、考えるに、「本草綱目」にあるような『石蜐は春になると花を咲かせる』という諸説や、『貝肉の精液は春に吐き出されて凝り固まって花のようなものとなる』という言説の「花」とは、実は、このホヤのことを指しているのではなかろうか。仮に今、例証を挙げるならば、ヌルデの木が五倍子(ふし)を生じ、また、諸々の樹がいろいろな虫瘤(むしこぶ)を生じるのと同様の理窟、とも言えるのではなかろうか。
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