大橋左狂「現在の鎌倉」 3 「花の鎌倉」
花の鎌倉
鎌倉を探らんとする人、鎌倉に遊ばんとする人は、必ず皆萬人萬律に鎌倉の古址多きを探りて往昔時代の如何に隆盛なりしかを追想し、自然の風光が如何に絶勝なるかを嘆賞するのである。未だ曾つて花の鎌倉を探らんとしたる人は殆んど僅少、否反て皆無である。鎌倉の花は眞に隱君子の態度をなしてゐる。
上野公園の櫻ケ岡、淸水堂、パノラマ前の早咲き、遲くは竹の臺、動物園前、さては向島、飛鳥山の櫻を賞する者は數多し、鎌倉の櫻を觀んとする人は少ないのである。此れ鎌倉に花あるを知らなかつたのである。人或は言はん、花を賞せんとせば須らく東都の花を賞すべし、何ぞ閑散靜寂の鎌倉の花を賞するの遑あらんと、之れ眞に時代的趣味深き鎌倉の花を知らない人である。
[やぶちゃん注:「上野公園の櫻ケ岡」上野の山は別名桜ヶ岡と呼んだ。
「淸水堂」不忍池を見下ろす清水観音堂。
「パノラマ」浅草公園第六区にあった巨大なジオラマを興行した日本パノラマ館。明治二三(一八九〇)年開館。
「竹の臺」現在の上野公園のほぼ中央部にある、知られた大噴水を中心とした広場のある所の地名。江戸時代にはここに東叡山寛永寺の中心であった根本中堂の大伽藍があったが戊辰戦争で失われた(明治一二(一八七九)年に現在地である旧子院大慈院跡に寺とともに復興再建)。名称は両側に慈覚大師が唐の五台山から竹を根分けして持ち帰って比叡山に移植したものが更に根分されて、当時の寛永寺のこの付近に植えられたことに由来するものと思われる。
「飛鳥山」現在の東京都北区にある桜の名所として知られる区立飛鳥山公園。ウィキの「飛鳥山公園」によれば、『徳川吉宗が享保の改革の一環として整備・造成を行った公園として知られる。吉宗の治世の当時、江戸近辺の桜の名所は寛永寺程度しかなく、花見の時期は風紀が乱れた。このため、庶民が安心して花見ができる場所を求めたという。開放時には、吉宗自ら飛鳥山に宴席を設け、名所としてアピールを行った』という。]
東都の花を見んとて其地に到れば、寸尺も餘地なき程觀客相肩摩して押返すばかりなる中に、醉態狂狀の人多くして俗趣味と云ふより外はないのである。鎌倉の花は此俗塵を去つて高潔淸澄、高尚優美、一たび雙眸に映ずるや眞に鬱々たる精神をも靜養するに足るのである。鎌倉の花が他所の花と異なるのは即ち此點にある。
鎌倉の花を記さんとて冐頭第一位に鎌倉の梅を案内することにした。由來鎌倉の梅樹は悉く數十年を經たる老骨鐵幹である。倒まに蜿蜒(えんえん)たるあり、白臺枝を沒して蛟龍淵を出づるの態を爲すのがある。隨て開花の期が非常に遲いのである。即ち三月上旬頃が例年最(もつとも)の見頃である。
[やぶちゃん注:「蜿蜒」底本では「蜒」は「虫」が「延」の下方にある字体であるが、同字であるのでこれに代えた。また読みは歴史的仮名遣では正しくは「ゑんえん」である。蛇がうねるようにどこまでも続くさまをいう。
「白臺枝を沒して蛟龍淵を出づるの態を爲す」とは、白い台(うてな:通常なら花の萼(がく)を指すが、この場合は極楽に往生した者の座る蓮の花の形をした台を梅花に譬えていよう)が枝を没し去るほどに美しく咲き、その中を苔生したごつごつとした枝が蛟龍(みずち)が深い淵から天へ昇るが如き体(てい)を成すものがある、というのであろう。]
鶴ケ岡八幡境内の梅 赤橋を渡りて境内に入れば左に鬱蒼たる杉林右に二層建の馬見(ばけん)樓を見て、數段の石段を登れば、玆は拜殿地と名けられた境内の中庭である。右に上村將軍寄附の野猪及び猿猴が檻の中に參詣者の投入する食料を樂みに、いと嬉しく遊んで居る。其前方に八十餘株の白苔帶びたる老梅樹が白兵戰の如く縱横入り亂れて銃劍の交るが如くに見える。左り半僧坊に入るの道傍に偃蹇(えんけん)して虎の天風に哮ゆるが如き屈鐵せる古梅が百數十株ある。何れも陽春三月の交、杖を境内に曳けば、樹々六花の花を綴るかと疑われ香氣馥郁嘆賞の外ないのである。而して暮鐘沈々花間に傳ふるも尚ほ歸るを忘るゝ程絶快である。
[やぶちゃん注:「馬見樓」不詳。幾つかの明治後期の地図や写真を見ても分からない。位置からすると流鏑馬馬場の沿道と思われ、もしかするとこれは神社の公施設ではなく、茶屋の名か? 識者の御教授を乞うものである。
「上村將軍」日本海海戦を勝利に導いた名将として知られる海軍大将上村彦之丞(かみむらひこのじょう 嘉永二(一八四九)年~大正五(一九一六)か。
「半僧坊」建長寺の半僧坊を指すとは思われない。按ずるに旧二十五坊(ヶ谷)の誤りではあるまいか?
「偃蹇」物が延び広がったり、高くそびえたりしているさまをいう。]
大佛の梅 長谷大佛に詣で、山門を入れば右に古物店がある。それより蓮池に至るの間は、一面の梅樹である。今を盛りと咲き競はゞ恰かも雲の如く、雪の如くである。東風一たび梢を吹くときは落花片々六花を降らすが如く眞に佳景筆舌の及ばぬ程である。其他大巧寺、圓覺寺、建長寺、安國論寺、極樂寺境内等にも見るべき花は實に多い。
[やぶちゃん注:「六花」雪の雅称。]
鎌倉の櫻 敷島の大和心を人問はゞ、旭日に匂ふ山櫻花と詠じられた通り、櫻は大和武士の神髓を表示した日本特有の花である。此賞玩すべき櫻花も鎌倉の個所々々に多くある。鎌倉停車場構内の櫻は例年三月下旬頃より班(まばら)に蕾を破りて四月三日神武天皇祭の佳辰頃は第一の好見頃である。長谷大佛境内の櫻は八重櫻が尤も多い。四月第一日曜より第二日曜前後が好見頃である。鶴ケ岡八幡境内殊に段蔓一帶の櫻は之れも神武天皇祭前後が丁度滿開の眞最中である。後醍醐天皇第三皇子護長親王を祀れる官幣中社大塔宮境内の櫻は大樹老木が多く、例年遲咲きの方である。四月第二日曜頃より第三日曜日頃は尤も見頃である。師範學校々庭の櫻は鎌倉第一の古木と評されて居る。四月第二日曜頃が花盛りである。此時分には授業を妨げない限り公衆に校庭櫻樹の觀櫻を許してある。鎌倉唯一の花やしき要山の櫻は眺望絶佳なる自然の高丘に靉靆(あいたい)として雲霞の如く咲き匂ひ、淡紅なるものは美人の薄化粧のそれの如く、濃白なるものは貴女の盛裝した樣に觀客に婚びて居る。自然の風致と相俟つて對照は嘆賞の外はない。此花も四月第一日曜頃迄からそろそろ咲き初めて第二日曜頃迄には好見頃となる。極樂寺境内にある八重一重咲き分けの櫻、源平咲分けの櫻等は最も有名なる櫻樹である。鎌倉に花期杖を曳くものは、必ず此源平咲き分けの櫻花を見て、多大の趣味を覺へて嘆賞するのである。四月三日頃より見頃となる。此外扇ケ谷永勝寺、山の内建長寺内半僧坊等の櫻花も此日頃より見頃となるのである。
[やぶちゃん注:「敷島の……」は、本居宣長の和歌。
おのがかたを書きてかきつけたる歌
敷島のやまと心を人とはば朝日ににほふ山ざくら花
寛政二(一七九〇)年に六十一歳の自身肖像画に書き付けた自賛。自撰家集には採られていないが、宣長の名歌として人口に膾炙する。
「護長親王」は護良親王の誤り。
「師範學校」神奈川師範学校。現在の横浜国立大学教育人間科学部の前身。現在、横浜国立大学教育人間科学部附属鎌倉小中学校の校地。
「要山」後掲される「名所舊蹟」の項の文中に『要山(かなめやま)香風園』とあり、ここもそれを指すと考えてよいであろう。但し、要山という呼称は廃れている。また、ここは田中智学の別荘であったものが、大正九(一九二〇)年に売られ、旅館としたものが香風園と認識していた。しかし本書は明治四五年の刊行であるから、実は田中の別荘であった時代から香風園と呼ばれていたことがこれで分かる。
「永勝寺」英勝寺の誤り。]
鎌倉の桃 鎌倉に見るべき桃花は、極樂寺境内に一町餘歩の空地を利用して四十一年秋頃田中住職が苦辛して植付けられた桃樹がある。花季玆に到れば、今は盛りと咲き匂ふ桃花、紅(くれなゐ)を朝(てう)して幔幕の如く棚びき、坐ろに武陵桃源の感興に入るのである。此外鵠沼旅館東家(あづまや)主人の風流に成る、鵠沼花壇に數丁歩の桃園あり。尚ほ鵠沼停留場前及び藤ケ谷附近にも、觀るべき桃花少なからず。
[やぶちゃん注:「朝して」呈していって、達して。
「鵠沼旅館東家」明治三〇(一八九七)年頃から昭和一四(一九三九)年まで鵠沼海岸(高座郡鵠沼村、現在の藤沢市鵠沼海岸二丁目八番一帯)にあった旅館東屋。多くの文人に愛され、広津柳浪を初めとする尾崎紅葉主宰の硯友社の社中や斎藤緑雨・大杉栄・志賀直哉・武者小路実篤・芥川龍之介・川端康成ら錚々たる面々が好んで長期に利用し、「文士宿」の異名で知られた。約二万平方メートルの広大な敷地に舟の浮かぶ大きな庭池を持ったリゾート旅館であった。ここで「東屋主人」とあるが、参照したウィキの「旅館東屋」によれば、本来の経営権者は創始者伊東将行であるが、実際の切り盛りは初代女将で元東京神楽坂の料亭「吉熊」の女中頭であった長谷川榮(ゑい)が取り仕切り、明治三五(一九〇二)年九月に江之島電気鉄道が藤沢―片瀬(現在の江ノ島)間で営業運転を開始(鎌倉市街との開通は明治四〇(一九〇七)年八月)すると、伊東将行は鵠沼海岸別荘地開発の仕事が多忙となって東屋の経営権は長谷川榮に委ねられたとある(その後にこの経営権の問題で伊東家と長谷川家で意見の対立が生じたものの大正九(一九二〇)年には和解した模様である)が、「鵠沼花壇」という固有名詞風の呼称からもこの桃林の「主人」とは、とりあえず伊藤将行を指していると考えてよいであろう。
「藤ケ谷」は現存しない江ノ電の駅名。鵠沼駅と柳小路駅の間にあったが、昭和一九(一九四四)年に廃止された。因みに、現在の路線域とほぼ一致するようになるのは昭和二四(一九四九)年三月一日に横須賀線高架を潜った若宮大路にあった鎌倉駅(旧小町駅)を国鉄鎌倉駅構内に移転して以降のことである(その後では昭和四九(一九七四)年六月に藤沢―石上間が高架線化して藤沢駅を江ノ電百貨店(現小田急百貨店藤沢店)二階に移転している)。前の注も含めて、江ノ電関連の記載は主にウィキの「江ノ島電鉄線」を参考にした)。]
鎌倉の花と東都の花とを問はず、花を見花を記(き)する、心中既に花となるのである。實に花は奇麗である、濃艷である、誰れも愛玩するのである。然れども此花を記して花の快味を覺ゆると共に、一面頻りに反響の感想に打たるゝのである。此花や風雨一たび過ぎて香雲地に委すればどうである。今迄仰ぎ見られた花も今は花辨地上に落ちて泥土と何ぞ撰ばんのである。人も榮華に誇り、綺羅を纏ひ、金殿に住み、玉食に飽く者と雖も、一朝風雨の變に遇えば、此落花の觀なきを得ないのである。花を見て嘆賞すると共に、處世の前途を警成するを要するのである。花は人を嬉ばしめ又眞に人を戒むるものかな。
誰れやらの歌に曰く、
明日ありと思ふ心のあだ櫻 夜半に嵐の吹かぬものかは
[やぶちゃん注:「香雲」桜の花などが一面に咲いているようすを雲に見立てた語。
「地に委すれば」は恐らくは「委(まか)すれば」若しくは「委(い)すれば」と読んでおり、委ねれば、の意であろう(「委(い)す」には捨てるの意もあるが、であるなら、この場合は受身で「委さるれば」とならないとおかしい)。
「玉食」「ぎよくしよく(ぎょくしょく)」で、非常に贅沢なものを食べること。美食。
「警成」見慣れない熟語であるが、戒めるように己れに成すよすがとする、の意であろう。
「明日ありと……」は「親鸞上人絵詞伝」に載る、親鸞が九歳で得度する前夜に詠んだとされる和歌。]
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