耳囊 卷之七 咳の藥の事
咳の藥の事
多喜安長の家に、咳の妙藥とて人にも施せしに、ある人諸人の爲なれば傳法を乞ひしに、用あらばいつにても可被申越(まうしこさるべし)、法を傳(つたへ)ん事をいなむにあらずといへ共、其法を聞(きき)ては信仰も薄きと斷りしに、切に乞(こひ)求めければ、無據(よんどころなく)傳達せしに、黑砂糖に胡桝を配劑して與ふるよし。〔或人曰、半□を少(すこし)加(くはへて)猶(なほ)よし。〕
□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。〔 〕は「耳囊」では珍しい割注であるが、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では本文に含まれている。民間療法シリーズの一つ。
・「多喜安長」不詳。戦国時代の甲賀武士に多喜氏がいる。
・「胡桝」。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『胡椒』である。これを採る。但し、この時代には唐辛子の葉のことを指す。
・「半□」□は判読不能を示す。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『半(はん)げ』とし、長谷川氏が注して『半夏。漢方でからすびしゃくの根を乾燥させたものらしい』とある。これを採る。「からすびしゃく」とは単子葉植物綱ヤシ亜綱サトイモ目サトイモ科ハンゲ属カラスビシャク Pinellia ternata。参照したウィキの「カラスビシャク」によれば、北海道から九州まで広く分布するが人為的なものと考えられえおり、中国から古くに帰化した史前帰化植物と考えられている。『コルク層を除いた塊茎は、半夏(はんげ)という生薬であり、日本薬局方に収録されている。鎮吐作用のあるアラバンを主体とする多糖体を多く含んでおり、半夏湯(はんげとう)、半夏瀉心湯(はんげしゃしんとう)などの漢方方剤に配合される。他に、サポニンを多量に含んでいるため、痰きりやコレステロールの吸収抑制効果がある。なお、乾燥させず生の状態では、シュウ酸カルシウムを含んでおり食用は不可能』とある。「半夏」とはカラスビシャクが生える七月二日頃が「半夏生」という雑節になっていることに由来するか、とも書かれている。
■やぶちゃん現代語訳
咳の薬の事
多喜安長殿の家に、咳の妙薬と称するものが伝えられてあり、人にも施して御座ったところ、ある人が、
「諸人(もろびと)のためなれば一つ製法の伝授を。」
と乞うたところが、安長殿、
「必要とあらば、何時にてもお求めに参られるがよかろうと存ずる。製法を伝うるは、これを否む訳では御座らねど、拙者の思うに、具体な原料や製法を、これ、聴き知るらば、薬の効験への期待もこれ薄まってしまうように存ずれば……。」
と一度は断られたとのことであったが、先方が切(せち)にと乞い求めたによって、よんどころなく伝授致いたと申す。
その製法は
――黑砂糖に唐辛子の葉
を配剤して処方するとの由。
[根岸注:この話、別な人から同じ話訊いた際には、半夏を少し加えると、なほ効き目がよくなるとの由。]
« わが少女捕虜のごとくくゝられて鞭もて打たれ泣きたしといふ 萩原朔太郎 | トップページ | 大和田建樹「散文韻文 雪月花」より「鎌倉の海」(明治二九(一八九六)年の鎌倉風景) 3 / 本日閉店 »