明恵上人夢記 10
10
一、我が周圍に石を疊みて鎭護す。富貴の相也と云ふ事、大菩薩の御加護也。
一、勝れて夢を畏るべき事、別なる事有るべからず。而も、吉事か、剩(あまつさ)へ吉慶の相有るべき也。
[やぶちゃん注:二つめ条は「10」の夢の自己理解を受けて、明恵独特の夢解釈理論が示される頗る興味深い部分である。玄室のような石室(いしむろ)の中に居る一見恐ろしものにも見える夢を菩薩の鎮護とポジティヴに解釈した自分の解釈法への補足である。但し、そこではその積極的な陽性の解釈が、ややもすると「畏れ」を失って都合のいい牽強付会に陥ることをも戒めているようである(後掲のやぶちゃん補注も参照)。なお、これが錯文でないとすれば、前後から建仁三(一二〇三)年十月から十二月の間で見た可能性が大きい。]
■やぶちゃん現代語訳
「私は、周囲に石畳み重ねた堅固な構造物の中に居て、完全に鎮護されてある。――」
〈私明恵の夢解釈〉
これは精神的な意味に於いて、富んで貴(とうと)き吉相であって、私が尊(たっと)き菩薩様たちの御加護を受けていることを意味しているのだ。
〈私明恵の夢解釈理論〉
夢というものに対する時、私たちは、私たちが日常に於いて神仏を畏れ敬うのと同じように接すべきことは言うまでもない(夢を、下らぬ、意味のない、若しくは不気味で、不快なもの、或いは一方的な『覚醒時の自分の』願望充足の代償やその成就の安易な予兆などとして、接するようなことがあってはならない)。いや、寧ろ、その夢の世界には、『覚醒時の自分が予期もしていない』真に素敵な素晴らしいことが、そこに隠されて「在る」――そればかりか、実は『覚醒時の自分が予期もしていない』、真の自分にとって目出度く喜ばしいことが、これ真直に近づいているのだということの、さりげない前兆さえもそこに黙示されて「在る」――と解釈するのがよいのである。
[やぶちゃん注:この部分叙述が本邦のユング派の代表者である河合隼雄氏を歓喜させたことは想像に難くない。ここで明恵が言っている夢分析理論はまさに七〇〇年後にユングが提唱した夢理論と美事に合致するからである。河合氏は「明惠 夢に生きる」で、この部分について(一五四頁。「第四章 上昇と下降」の掉尾に当たる)、
《引用開始》
明恵がわざわざ「畏る」という文字を用いているのは、神に対するように夢に対するべきことを表わしたいからだと思われる。夢に対するこのような敬虔な態度は、現代においての夢分析を行うものにとっても必要なことであろう。明恵は、夢を見る者の根本的態度によって、夢の内容も意味も異なるものになることをよく知っていたのであろう。このような態度をもっていないと、たとえば「筏立の夢」[やぶちゃん注:私のテクストの「9」の夢を指す。]などによって喜んでしまい、自我肥大を起こしてしまうことだろう。夢に関心をもつ危険性のひとつは、自我肥大が起こりやすいことであるが、その点で明恵はまったく心配がなかったということができる。
《引用終了》
と述べておられる。私の現代語訳の〈私明恵の夢解釈理論〉の部分の補足敷衍は、この河合氏の見解に負うところが多い。ここに引用して謝意を表するものである。]
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