大橋左狂「現在の鎌倉」 2
戸數人口
鎌倉は東西北の三面に山嶺負ひ、南面海に瀕する故夏涼しく冬暖かにして眞に氣候温順である。夏季寒暖計九十三四度冬期四十度に降らないのである。加ふるに到る處名所古蹟ならざるはないのである。故に都人士が紅塵萬丈の地去つて此地に別莊を構ふるもの多く、年々避暑避寒者は數を加へるのである。貸別莊も貸間も、夏季に至れば一軒一間も空きがないのである。此地に常住して京濱間の官衙銀行會社へ通勤する官吏紳商も横須賀に通勤する陸海軍人も數多いのである。鎌倉の戸數及び人口が年々歳々増加する事は前記の通りである。玆に記した戸數人口は大町、小町、由井ケ濱、材木座、雪の下、長谷、坂の下、極樂寺、扇ケ谷、二階堂、西御門、十二所、淨明寺の十三字が、純粹の鎌倉町の戸數人口である。江の島、片瀨、腰越の戸數人口は別に記載してある。此戸數人口は寄留すると否とに係らず現在鎌倉に起臥しつゝある者の實地に就ての調査である。記者自からの實地踏査ではない、警察官が實地に就て調査された毎年の戸口調査表を移記したのである。
[やぶちゃん注:「夏季寒暖計九十三四度冬期四十度に降らない」は華氏表記なので、摂氏に変換すると凡そ「夏季寒暖計三三・九から三四・四度、冬期四・四度に降らない」ということになる。
「瀕する」現在は「瀕死」という熟語でしかお目にかからないのであるが、「瀕」はもともとは水際・渚・水辺・浜・岸、土地が河や海などに沿って存在する、の意である。
「官衙」役所。官庁。]
鎌倉町四十二年末の戸口は、戸數二千三百七戸、人口一萬二丁百四十二人であつた。四十三年末には戸數二千三百九十二戸、人口一萬一千五百六十八人を數えられた。四十四年末の調査で四十五年二月二日の現在戸口は、戸數二千四百二十二戸、人口一萬一千七百五十九人である。今各字に區別すれば左の通りである。
[やぶちゃん注:以下、底本では二段組であるが、一段で示す。]
戸數 人口
小町 二五一 一、二〇五
大町 二七二 一、四九二
雪の下 二九〇 一、三一二
由井ケ濱 二一九 一、〇七九
長谷 三九八 一、八二一
坂の下 二〇四 一、〇六二
極樂寺 一〇五 五四五
材木座 三九〇 一、七八三
扇ケ谷 一一八 四二二
二階堂 五七 三一六
西御門 三二 一八六
淨明寺 四三 二五九
十二所 四三 二七七
以上は鎌倉町の戸數及人口の字別である。更に片瀨、江の島、腰越の四十五年二月現在の戸口は左の通りである。
戸數 人口
片瀨 三三七 二、〇一九
江の島 一九八 一、二二五
腰越 四九〇 二、八五五
津村 二一七 七五五
[やぶちゃん注:鎌倉市公式サイトの二〇一三年五月一日現在の人口動態累計によれば、
鎌倉市総人口 一七三、七一一人
同総世帯数 七三、三二七世帯
で、この当時(実に一〇一年前である)の
総人口比で 一四・八倍
総世帯数比で 三〇・三倍
に膨れ上がっている。各字との比較はリンク先のPDFファイルで確認されたい。
なお、ここでは「鎌倉町」となっているが、ウィキの「鎌倉市」によれば、明治二二(一八八九)年にそれまで三〇あまりあった村が、東鎌倉村・西鎌倉村・腰越津村・深沢村・小坂村・玉縄村に纏まり(この年に軍港横須賀への搬路としての横須賀線が開通しており、これを機に鎌倉の観光地化が一気に進んだ)、明治二七(一八九四)年に東鎌倉村と西鎌倉村が合併して鎌倉町となった。鎌倉市としての市制施行は昭和一四(一九三九)年十一月であった。]

