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2013/05/07

耳嚢 巻之七 始動 / 名人の藝其練氣別段の事

 耳 嚢 卷之七

 

 名人の藝其練氣別段の事

 

 小野流一刀の始祖にて神子上(みこがみ)典膳と云しは、御當家へ被召出(めしいだされ)、小野次郎右衞門と名乘る。其弟は小野典膳忠也(ただなり)と名乘り、諸國遍歷して、藝州廣嶋に沒す。依之(これによつて)藝州にては忠也(ちゆうや)流といひて、右忠也の弟子多(おほく)、國主も尊崇して今に其祭祀を絶(たえ)ず。十人衆とて、忠也を修行する者右の祭祀の事抔取扱ふ者、右十人の内に間宮五郎兵衞といえるは、別(べつし)て其藝に長じ、同輩家中えも師範なして、其比(そのころ)の國守但馬守も武劔(ぶけん)を學(まなび)給ふ。然るに五郎兵衞不幸にして中年に卒去せしが、悴市左衞門十六歳にて跡式相續致(いたし)ける處、則(すなはち)但馬守は五郎兵衞免許の弟子故、悴市左衞門えも傳達の趣(おもむき)段々傳授のうへ、其業ばつぐん故免狀も被渡(わたされ)んと有(あり)し時、市左衞門退(の)ひて其斷(そのことわり)を述(のべ)ければ、如何(いかが)の存寄成(ぞんじよりな)る哉(や)と尋有(たづねあり)しに、一躰(いつたい)親の義にて候え共、流義の心得をば五郎兵衞甚(はなはだ)未熟に致(いたし)、逸々(いちいち)其修行違(たが)ひ申(まうし)候。依之右の誘引故、國中の一刀流いづれも下手(へた)にて候へば、五郎兵衞師範の御家中何れも未練の稽古に御座候と申ければ、但馬守以の外憤り、汝が父の教方不宜(おしへかたよろしからず)と申(まうす)も緩怠(くわんたい)なり、殊に其方へは予致し太刀筋也、夫(それ)を不宜(よろしからず)と申(まうす)は主人え對し若(もしくは)父を嘲(あざけ)るに相當り、旁(かたがた)不屆也、子細有哉(あるや)と尋られければ、武藝の儀惡敷(あしき)とぞんずるを、若(もし)父のなし給ふ事とて不申(まうさざる)、不忠也(なり)、某(それがし)あしきと存候(ぞんじさふらふ)所、御疑ひも候はゞ同衆の手前にて御立合せらるべしと答ふ。但馬守、彌(いよいよ)奮怒の餘り、小悴迚無用捨(とてようしやなく)、立合申(たちあひまうす)べしとて、彼(かの)十人の内に勝れたる同流のもの撰(えらみ)、勝負被申付(まうしつけられ)しに、右十人は不及(およばず)とて、一家中心得有る者ども立合けるが、獨りも市右衞門に勝(かつ)ものなし。但馬守も自身立合被申(まうされ)しに是(これ)又負(まけ)られければ、但州甚(はなはだ)賞翫して、親を誹(そし)り候所は當座の咎め申付(まうしつけ)、忠也流の稽古、萬事市左衞門に差圖可致(いたすべき)と被申付、殊の外家中に名譽の者出來(いでく)と也。可惜(をしむべし)、市左衞門三十歳に不成(ならず)して卒去して、當時其子(そのこ)跡相續なしけると也。但馬守殊の外惜しと也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:「卷之六」掉尾との連関性はない。本格武辺物で巻頭を飾るには相応しい。

・「小野次郎右衞門」小野忠明(永禄一二(一五六九)年又は永禄八(一五六五)年~寛永五(一六二八)年)のこと。将軍家指南役。安房国生。仕えていた里見家から出奔して剣術修行の諸国行脚途中、伊藤一刀斎に出会い弟子入り、後に兄弟子善鬼を打ち破って一刀斎から一刀流の継承者と認められたとされる。以下、ウィキの「小野忠明」によれば、二文禄二(一五九三)年に徳川家に仕官、徳川秀忠付となり、柳生新陰流と並ぶ将軍家剣術指南役となったが、この時、それまでの神子上典膳吉明という名を小野次郎右衛門に改名した。慶長五(一六〇〇)年の関ヶ原の戦いでは秀忠の上田城攻めで活躍、「上田の七本槍」と称せられたが、忠明は『生来高慢不遜であったといわれ、同僚との諍いが常に絶えず、一説では、手合わせを求められた大藩の家臣の両腕を木刀で回復不能にまで打ち砕いたと言われ、遂に秀忠の怒りを買って大坂の陣の後、閉門処分に処せられた』とある。「耳嚢」では「卷之一」の冒頭から三番目に配された、「小野次郎右衞門出世の事 附伊藤一刀齋の事」のことに既出する。ここで彼に纏わる剣豪譚をここに記したことに私は、改めて「耳嚢」の初心に帰ろうとする根岸の心意気を感じるものである。

・「小野典膳忠也」前の小野忠明の弟小野忠也。一刀流流派小野派忠也流(おのはちゅうやりゅう)開祖。

・「間宮五郎兵衞」間宮久也(ひさなり ?~延宝六(一六七八)年)。幕臣間宮庄五郎次男で、一刀流の伊藤忠也に学び、間宮一刀流を立てた。安芸広島藩剣術師範となり、晩年には高津市左衛門と改名している(以上は講談社「日本人名大辞典」に拠った)。

・「其比の國守但馬守」安芸国広島藩浅野家初代藩主浅野長晟(ながあきら 天正一四(一五八六)年~寛永九(一六三二)年)。浅野長政次男。叔母寧子(北政所)が豊臣秀吉の正妻であった縁で早くから秀吉の近侍となり、秀吉没後は徳川家康に従って京にいた寧子の守護を命じられ、備中国蘆森(現在の岡山市足守)で二万余石を与えられた。慶長一八(一六一三)年に兄幸長が嗣子なく没したことから和歌山城に入り、紀伊国三十七万余石を領した。大坂冬・夏の陣では大功を立てる一方、この間に大坂城と通じた国内の熊野・新宮などの一揆をも平定している。元和二(一六一六)年には家康の三女振姫を妻に迎えて同五年に改易となった福島正則の跡、安芸・備後に四十二万余石を領することとなって広島城に移った。ここでも地域の慣行を重んじて諸制度を整え、藩政を確立した(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

・「武劔」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『舞剣』。

・「ばつぐん」底本では左に『(拔群)』と傍注する。

・「逸々(いちいち)」は底本のルビ。

・「其修行違(たが)ひ申(まうし)候」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『其条行違(ゆきちが)ひ申(もうし)候』。前者の方が決定的で強烈な感じのする謂いである。

・「右の誘引」岩波版で長谷川氏は『五郎兵衛の指導』と注されておられる。

・「緩怠」①いいかげんに考えてなまけること。②失敗すること。過失。手落ち。③無礼・無作法なこと。ここでは無論、③の意。

・「夫を不宜と申は主人え對し若(もしくは)父を嘲るに相當り」「若(もしくは)」は底本のルビ。ここ、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『夫を不宜と申は主人え對し候て主人をそしるに相当り』である。後者の方が屋上屋でなく自然である。ただ、怒った但馬守の謂いとしては、前者の方がリアルな気もしないではない。順列を恣意的に変更して、混淆して訳してみた。

・「旁(かたがた)」は底本のルビ。

・「御疑ひも侯はゞ」底本は「御競ひも侯はゞ」であるが、意味が通じない。ここ部分のみ、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版を採った。

・「右十人は不及とて」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『右十人は不及申(もうすにおよばず)』。現代語訳はバークレー校版に従った。

・「但馬守殊の外惜しと也」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『但馬守殊之外愎しみ被申しとや』とあり、長谷川氏は「愎」の右に補正注『〔惜〕』を配しておられる。現代語訳はバークレー校版に従った。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 名人の芸というものはその修練に対する気合覚悟が如何にも格別である事

 

 小野一刀流の始祖にして神子上典膳(みこがみてんぜん)と申すは、御当家徳川家に召し出だされ、小野次郎右衛門と名乗られた。

 その弟は小野典膳忠也(ただなり)と名乗り、武者修行に諸国遍歴を致し、安芸国は広島にて亡くなられた。

 これによって安芸国にては忠也流(ちゆうやりゅう)と称し、かの忠也殿(ただなり)の御弟子が殊の外多く、代々の国主も尊崇して、剣術家にあっては、今に忠也(ただなり)殿を奉って礼を尽くす祭祀(さいし)の習慣が、これ、絶えずある。

 十人衆と申し――これは忠也流を修行する達者で、その宗主の日々の大切なる祭祀のことなどにも従事致す者で御座る――その十人の内でも間宮五郎兵衛と申す者は、別(べっ)してその技に長じて御座ったゆえ、同輩の家中の者どもへも剣術の師範を成し、その頃の国守であられた但馬守浅野長晟(ながあきら)公も、剣術をこの間宮五郎兵衛に学ばれた。

 然るに五郎兵衛殿は不幸にして中年にて早々に卒去せられた。

 されば、子息市左衛門が十六歳にて跡式を相続致いたが、長晟公におかせられては、御自身も五郎兵衛免許の御弟子であられたゆえ、この市左衛門へ、その技の仔細をお教えになられ、だんだんに奥義も伝授なされた上、その手技も抜群で御座ったればこそ、市左衛門を親しくお召しになられ、間宮五郎兵衛直伝の忠也流の正統なる免状をも渡さんとなされた。

 すると、市左衛門は身を引き、それを固辞致す旨、申し上げた。

 されば、不審なる長晟(ながあきら)公の、

「――一体、如何なる所存にて、かく辞退致すものか?」

とのお訊ねに対し、市左衛門は、

「……一体、親の義にては御座いまするが――忠也流流義の心得をば、かの父五郎兵衛は、これ、甚だ未熟なままに誤って受け継ぎ――その具体な手技(しゅぎ)から修業入魂の仕儀に至るまで――これ――悉く誤って御座る。――かくなる五郎兵衛の指南を受けて御座ればこそ――御家中の一刀流の達者と呼ばるる御仁は、これ、孰れも『下手(へた)』にて御座れば――五郎兵衛を師範と致いて参った御家中と申す者は、これ、孰れも、はなはだ未熟未練の者にて御座る。……」

と答えたから堪らない。

 但馬守様は、これ、以ての外に憤られ、

「……な、汝が父の教え方が宜しからずと申すも……こ、これ、ぶ、無礼千万じゃ!……こ、ことに、その方へは、この予が、直々に教えた太刀筋であるぞッ!……そ、それを宜しからずと申すは……こ、これ、父に対して嘲(あざけ)る……いや!……これは!……その、なんじゃ?!……この我ら……し、主君を謗(そし)っておるのと、ま、全く以って同じことではないかッ! こ、悉く不届き者じゃッ!! 弁解の余地もあるまいがッ!?!」

と劇しく糺された。

 すると、市左衛門、これ、平然と、

「――武芸の儀は全く『悪(あ)し』と存ずるものあるに、これもし、我が父のなし給うたことなればとて、それを口に申さざるということあらば――これ――不忠で御座る。……某(それがし)が『悪(あ)しきもの』と存じまするところにつき、お疑いの儀、これ、御座いまするとならば、御家中御一同の御面前にて御立合(おんたちあい)の儀、ご命じ下されい。――」

と答えた。

 されば但馬守様、怒髪天を衝き、

「あ、青侍の、こ、小悴(こせがれ)とて、よ、容赦致さず、立ち合い申せえッ!!」

と、その場にて即座に、かの忠也十人衆直系のうちでも、特に技量の勝れたる同流の手練れを選び、急遽召し出だいて御前試合を申し付けられた。

 ところが……

……その十人は言うに及ばず

……御家中にても他流の心得ある者どもまで、悉く立ち合い致いたのだが

……誰一人として

……市右衛門に勝てる者は、これ、御座らなんだ。……

 遂には、立ち合いの相手が誰もおらずなったによって、但馬守様御自身も、立ち合いなされた。

……が

……これもまた

……お負けになられた。……

 されば、但馬守様、一転、はなはだ賞美なされ、

「……親を誹(そし)ったるは、これ、当座の咎めを申し付けおく。……が――忠也流の稽古は向後、万事、市左衛門に指南さするように!」

と申し付けられ、

「――いや! 殊の外、家中に名誉の者が出来(しゅったい)致いたわい!」

とご満悦であられたと申す。

 惜しいかな、この市左衛門殿は三十歳にならずして卒去なされ、その時はまた、その子息が名跡(みょうせき)を相続致いたと聞いて御座る。

 但馬守様は、この市左衛門殿の夭折を、殊の外、惜しまれた、とのことで御座る。

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