大和田建樹「散文韻文 雪月花」より「鎌倉の海」(明治二九(一八九六)年の鎌倉風景) 3 / 本日閉店
本日は日曜に続き、文楽に参ればこそ早々に店仕舞いと致す。悪しからず。 店主敬白
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けふは叔母さま東京よりをはすとて、子供ら朝はやくより起きてさわぐ。午後の滊車は待ちつる人をのせて停車塲につきぬ。やがてうちつれ鶴が岡にのぼる。今を盛の池の蓮は、かうばしき風を送りて、銀杏のもとにたゝずむ人を吹くもきよし。子供はあるじぶりして、こゝかしこをしへめぐりつゝ口々にいふ。叔母さま明日もおはせ、明後日までもおはせと。
一日小坪より山越して逗子に遊びし事もあり。坂つきて松の間より弓の如き入海を見おろしたるけしきは、又たぐふべきものをしらず。砂白く波きよき渚に添ひたる家のさまもおもしろきに、之を境として莚の如き靑田のうしろに廣がるあり。渚の方には貝ひろふ人蟻の如く、潮あむ人水馬の如し。かなたに山のそがれたるやうなるは鎧摺なるべし。それより右につゞきては葉山の村里より、森戸明神の松林までまがふべくもあらず。子供よあの松の右なるが、をとゞし休みて茶をのみたる處なるぞ。
[やぶちゃん注:「鐙摺」葉山町堀内にある鐙摺山。旗立山とも呼ぶ。NPO葉山まちづくり協会公式サイト「葉山地域資源MAP」の「葉山の文化財 58 旗立山(鐙摺山)」によれば、伊豆蛭ヶ小島に配流されていた源家の嫡流頼朝が、治承元年(一一七七)、三浦微行(びこう)の折り、鐙摺山城に登る際に、馬の鐙(あぶみ)が地に摺れたのでこの名が付いたと言われる(この記載は蜂起以前のことととれる)。「源平盛衰記」では、『石橋山に旗上げした頼朝に呼応した三浦一族の三浦党は、この鐙摺の小浜の入江から援軍として出陣したとしている』。『この合戦で頼朝は敗走するが、三浦党も酒匂川畔まで行き、敗戦を聞き引き返す途中、小坪あたりで畠山重忠軍と遭遇したとき、お互いの誤解から合戦になるが、この時、鐙摺山城にいた三浦党の』惣領『三浦義澄はこの様子を望見し援軍を送ったが、和解が成立し、再び軍をこの鐙摺山城に引きかえした』。『鐙摺山城を旗立山(はたたてやま)と呼ぶのはこのためである』。また、「曽我物語」によれば、『伊豆伊東の豪族伊東祐親は、頼朝配流中は、頼朝の暗殺を図ったため、鐙摺山上で自刃、現在その僕養塔が山上に祀られている』。また、「吾妻鏡」によれば『頼朝の籠女亀(かめ)の前(まえ)が、小坪飯島』の伏見広綱の邸内『にかくまれていたのを、北條時政の妻牧(まき)の方(かた)に見つかり、牧の方はこれを頼朝の御台所政子に告げたため、憤激した政子は、牧の三郎宗親に命じて』広綱邸を破却させたが、『広綱はいち早く亀の前を大多和義久の鐙摺山城へ逃亡させ、事なきを得た』(この一件については引用元に脱文が認められるので私が補った)が、その後今度は頼朝が『鐙摺山城を訪れ、牧の三郎宗親を呼び「お前の主人はこの頼朝か政子か」と迫り、宗親の元結(もとゆい)を切った。このため、義父の北條時政は怒って伊豆へ引き揚げるという一幕もあった』。歌人佐佐木信綱によれば、建保五(一二一七)年に実朝が『この地に観月し、「大海の磯もとどろに寄する波 われてくだけてさけて散るかも」と詠んだと』する。現在、山上には三〇〇坪に『余る平坦があり、ここから見る景色は富士、箱根、江の島など、抜群である』とある。
「をとゞし休みて茶をのみたる處」「汐なれごろも」の八月二十五日の条の「逗子にて休みたる處は、入江を隔てゝ養神亭といふ旅館と相對し、風景やゝ晴れやかなるを肴にして、携へたる瓢箪を傾け握飯の包を打開く」で休憩した茶屋(私は柳屋旅館を候補に挙げた)である。森戸まで見えたとあるから長者園を指しているようにも見えるが、彼等はあの時ここで宿泊しているから違う。]