明恵上人夢記 13
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元久元年
一、同七日、地藏堂より還る。月暗くして、瀧四郎之許(もと)に宿る。夢に、春日の御社に參らむと欲(ほつ)するは今日也と思ひて、將に行水せむとすと云々。
[やぶちゃん注:「元久元年」西暦一二〇四年。なお、底本のここの注に、以下「16夢」までは『掛軸装の一幅。箱書きに「明恵上人夢記」とある』とする。
「還る」帰還先は筏立と思われる。
「地藏堂」底本注に、『泉州・紀州の境界地にある雄の山地蔵堂か』とある。「雄の山」は雄ノ山峠(おのやまとうげ)で現在の和歌山県和歌山市と岩出市にある峠(標高一八〇メートル)。京と熊野三山を結ぶ熊野街道の途中にあり、峠の北側は紀伊国と和泉国の界(現在は和歌山県と大阪府の境界)となっている、とウィキの「雄ノ山峠」にある。現在、大阪側の阪南市にある峠の登り口に地蔵堂王子跡というのがあるが、ここか。
「瀧四郎」底本注に、「明恵上人行状」『に建久八年(一一九七)明恵が淡路島に同行したとある多喜四郎重保のことか』とある。多喜四郎重保については高山寺公式サイトによれば、その宝物中に重要文化財に指定された「春和夜神像」なるものがあり、その解説によると『春和夜神像(しゅんわやしん)は、華厳経入法界品に見える善財童子が歴訪する善知識の一人である。本図は華厳経に「形貌端厳」と表現される夜神の姿を絵画化したものであり、虚空の宝楼閣に座す夜神に対し善財童子が合掌恭敬して立つ。元久元年(一二〇四)、明恵の紀州(和歌山県)での庇護者、多喜四郎重保の妹の一周忌にあたり、明恵は婆沙陀天を図絵する。婆沙陀天とはすなわち春和夜神であることから、あるいは本図も明恵と関わりをもつものかもしれない』(アラビア数字を漢数字に代えた)とある。
「春日の御社」奈良の春日大社。底本注に、『天竺渡航の志を春日明神の神託によって思い止まるほか、春日明神を高山寺内にも祀るなど、明恵との関係は深い』とある。神託による一回目の中止は先立つ前年の正月のことであり、この翌年元久二(一二〇五)年にも重い病いとともに、同じ神託が下って断念することとなる。]
■やぶちゃん現代語訳
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元久元年
一、同七日夜、地藏堂より戻ろうとしたが、月があまりに暗いので、瀧四郎の屋敷に泊まった。その時の夢。
「『春日大社の御社に参詣しようと思ったのは今日だった。』と思いついて、今、まさに潔斎のための行水をしようとする――。」