漠然たる敵 萩原朔太郎
●漠然たる敵
すべての偉大な人物等は、避けがたく皆その敵を持つてゐる。より偉大なものほど、より力の強い、恐るへき敵を持つであらう。單純な人物――政治家や、軍人や、社會主義者や――は、いつでも正體のはつきりしてゐる、単純な目標の敵を持つてる。だがより性格の複雜した、意識の深いところに生活する人々は、社会のずつと内部に隱れてゐる、目に見えない原動力の敵を持つてる。しばしばそれは、概念によつて抽象されない、一つの大きなエネルギイで、地球の全体をさへ動かすところの、根本のものでさえもあるだろう。彼等は敵の居る事を心に感ずる。だが敵の實體が何であり、どこに挑戰されるものであるかを、容易に自ら知覺し得ない。彼等はずつと長い間――おそらくは生涯を通じて――敵の名前さえも知らないところの、漠然たる戰鬪に殉じて居る。死後になつて見れば、初めてそれが解るのである。
何所(いづこ)にか我が敵のある如し
敵のある如し……… 北原白秋斷章
[やぶちゃん注:昭和四(一九二九)年十月第一書房刊のアフォリズム集「虚妄の正義」の最終章「思想と爭鬪」より。「はつきり」「より」は底本では傍点「ヽ」、「原動力」は底本では傍点「●」。引用の白秋の詩は、詩集「思ひ出」に載る以下の詩の冒頭と思われるが、底本校異に、朔太郎は『記憶によって記したものと思われる』とある。
敵
いづこにか敵のゐて、
敵のゐてかくるるごとし。
酒倉(さかぐら)のかげをゆく日も、
街(まち)の問屋に
銀紙(ぎんがみ)買ひに行くときも、
うつし繪を手の甲に捺(お)し、
手の甲に捺し、
夕日の水路見るときも、
ただひとりさまよふ街の
いづこにか敵のゐて
つけねらふ、つけねらふ、靜(しづ)こころなく。
以上は、昭和四二(一九六七)年新潮社刊「日本詩人全集7 北原白秋」所載のものを恣意的に正字化して示した。]