耳嚢 巻之七 唐人醫大原五雲子の事
唐人醫大原五雲子の事
三田大乘寺といへる寺に、大原五雲子が墓あり。森雲禎など其流れを汲(くみ)て、今以(もつて)右流下の者訪ひ弔ひも致候よし。則(すなはち)、五雲子は雲南と言し故、雲禎が跡當時雲南と名乘(なのり)候。右五雲子は、明末の亂に彼(かの)地の王子の内壹人、樂官(がくくわん)のもの壹人、都合三人漕流なし來て、五雲子は醫を以(もつて)業とし高名をなし、彼王子は出家して、禪宗にて祥雲寺といふに住職し、みまかりしよし。樂人は大原勘兵衞と名乘、喜多座の役者と成り、雲子牌名に、東嶺院晴雲日輝居士、萬治三子(ね)年四月廿六日と記し、大乘寺に有之(これある)由人の語りぬ。
[やぶちゃん注:「三田大乘寺」底本の鈴木氏注に、『誤りであろう。三田には同名寺院はなく、大の字のつく寺名は大松寺、大聖院(伊皿子寺町)、大増寺(三田台町)、大信寺(北代地町)など』とされる。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、本文が『三田小山大乗寺』となっており、長谷川氏はこの寺について、現在の港区三田の『小山にある大松寺(黄鴿山、浄土宗)であろう』と注されておられる。但し、ネット上ではここに大原五雲子の墓が現存するかどうかは確認出来なかった。当時の亡命皇族の近臣で、本邦で大々的に医術を広めた(次注参照)事蹟墓碑まで明らかなのに、鈴木氏が寺も墓所を同定出来なかったというのはやや不審である。郷土史研究家の方の御教授を乞うものである。
「大原五雲子」底本の鈴木氏注に、『明の福建出身。初名は珪、字は寧字、姓は王氏。帰化して大原と称し、紫竹道人と号す。明国から朝鮮を経て長崎に来り、明人の名医一庵について医学を学んだ。後、諸国を旅行し、寛永万治年間医名が高かった。その学は、襲延賢、皇甫中を主とした。その門下の森雲竹(正徳二年没、八十二)は、さらに昔に遡って研讃し、名医であったが、世間に出ることを好まず、塾生を教育し、その数は首百を以て算えた』とある(「研讃」はママ)。「寛永万治年間」西暦一六二四年~一六六一年。
・「森雲禎」前注の鈴木氏注にある直弟子であった森雲竹本人か(叙述では生前の直弟子の門下生の医名と読める)、その門下の、当代(「卷之七」の執筆推定下限の文化三(一八〇六)年夏頃)の襲名医師であろう。
・「明松の亂」一六三一年に勃発した李自成の乱以下の明王朝の滅亡に至った内乱。
・「漕流」底本には右に『(漂カ)』と注する。
「祥雲寺」岩波版で長谷川氏は、『瑞鳳山祥雲寺(曹洞宗、小石川)、瑞泉山祥雲寺(臨済宗、渋谷)などあり』と注されておられるが、「DEEP AZABU.com 麻布の歴史・地域情報」の「むかし、むかし8」の「奇妙な癖のある人」(これは「耳嚢」巻之八の「奇成癖有人の事」の紹介記事である。こちらの記事群には「耳嚢」の話が多く掲載されており、考証も充実している。必見である)で、当該話の文中に登場する、長谷川氏注の後者の「麻布祥雲寺」ついて、これは『現在渋谷区広尾(広尾商店街突き当たり)にある祥雲寺だと思われるが、この寺は鼠塚(明治三三年~三四年、東京に伝染病が流行し、その感染源として多くのネズミが殺された。その慰霊碑)、曲直瀬流一門医師の墓などがある。由来は、豊臣秀吉の天下統一に貢献し、後に福岡藩祖となる黒田長政は、京都紫野大徳寺の龍岳和尚に深く帰依していたので、元和九年(一六二三)に長政が没すると、嫡子忠之は龍岳を開山として、赤坂溜池の自邸内に龍谷山興雲寺を建立した。寛文六年(一六六六)年には麻布台に移り、瑞泉山祥雲寺と号を改め、寛文八年(一六六八)の江戸大火により現在の地に移った』とし、この記事が書かれた頃(これは「卷之八」の謂いであるが、「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏であるから同じである)『にはすでに広尾にあった』とされておられる(アラビア数字を漢数字に代えさせて頂いた)。しかし、明から亡命した皇族が住持となっているのに、それが現在確認出来ないというのは(寺伝に載ることは勿論のこと、その住持していた寺に当然の如く墓があるはずであるのに)、私には不審である。識者の御教授を乞うものである。
・「喜多座」能の喜多流。
・「樂人は大原勘兵衞と名乘、喜多座の役者と成り、雲子牌名に、」この部分、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では(恣意的に正字化した)、
樂人は大原勘兵衞と名乘、喜多座の役者と成る。今も勘兵衞とて弓町に町屋敷など望(のぞみ)しと也。五雲子碑銘に、
となっていて、文脈上でも内容でもこの方が質がよい。ここの部分の現代語訳は、このバークレー校版で行った。「弓町」は現在の本郷三丁目附近。それにしても、この楽人も五雲子と同じく日本名で「大原」姓を名乗っているのは気になる。「大原」は大本という原義もいいが、それ以外に現在の山西省省都で古都の太原や、周代の宣王の御料地であった山西省大原市陽曲などの地名と彼らの主君たる王子若しくは彼等自身の出自や領地と関係があるのかも知れない。
・「万治三子」万治三(一六六〇)年庚子(かのえね)。
■やぶちゃん現代語訳
唐人医師大原五雲子(おおはらごうんし)の事
三田小山の大乗寺と申す寺に大原五雲子の墓が御座る。
当代の医師森雲禎(もりうんてい)など、その五雲の流れを汲む者も多く、今以って森流医術門下の者が参拝供養致いておる由。
五雲子は雲南とも号したによって、雲禎に医師の名跡を嗣がせた隠居後は、專ら、雲南と名乗って御座ったとも申す。
この五雲子と申すは、明末の乱の際、かの地の王子の内の一人、楽官(がっかん)の者一人と、都合、三人して大陸より漂流致いて御座った者らにて、この五雲子は、医を以って本邦での生業(なりわい)と成し、高名を博して御座った。
なお、王子は出家して、禅宗なる祥雲寺という寺の住職を成し、そのまま身罷った由。
今一人の楽人は大原勘兵衛と名乗り、能楽の喜多座の役者と相い成った。――今もその子孫が「勘兵衛」と称して、弓町に町屋敷など賜わっておる大層な家柄として残っておる由。
因みに、かの五雲の碑銘には、
――東嶺院晴雲日輝居士 万治三子(ね)四月二十六日――
と記し、大乗寺に今もある由、人の語って御座った。
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