栂尾明恵上人伝記 27 二度目の天竺渡航断念
元久二年春比(ごろ)、年來の本意たる問、天竺(てんぢく)へ渡るのこと思ひ立ち給ひけり。同心の同行五六人なり。志を一にして、既に其の營みに及ぶ。又大唐の長安城より中天竺王舍城(ちゆうてんぢくわうしやじやう)に至るまでの路次(ろじ)の里數に付きて、先達(せんだつ)の舊記を尋ね、これを檢(しら)べ注し給ふ。今に上人の御經袋(おきやぶくろ)の中にあり。然る間評定(ひやうぢやう)し營みて、殆んど衣裳の出でたちに及ぶ。然るに上人俄に重病を煩ひ給へり。其の病の躰(てい)普通にあらず。飮食なども例の如し、起居(ききよ)あへて煩ひなし。只此の渡天竺談合(とてんぢくだんがふ)の時のみ身心苦痛す。或時は左の片腹切り裂くが如く、痛く、或時は右の方苦痛す。心中に深く思ひ定むる時は、兩方の腹背に通りて刺疼(しとう)し悶絶す。是れ只事にあらず。先年渡天竺の事既に思ひ立ちし時、春日大明神種々の御託宣ありしに依つて思ひ留りき。思ひ留るといへども、其の志休(とゞ)め難くして、亦思ひ立つ處なり。さりながら、數日病惱して身心疲極(ひきよく)する間、遠行(ゑんかう)叶ひ難し。仇て試みに、本尊釋迦の御前と、春日大明神の御前と、善財(ぜんざい)童子等の知識の御前と、此の三所に御鬮(みくじ)を書して取るべし。一には西天に渡るべきや、一には渡るべからざるかと云々。然るに此の三所の御鬮の中、たとひ一處にても渡ると云ふ鬮あらば、其の志變ずべからずとて、心神深く潔齋して誠を致して、祈請して是を取る。善知識と大明神の御前の鬮をば他人に是を取らしめ、本尊の御前の鬮をば上人自ら是を取り給ふ。佛前の壇上に二の鬮をうつす。一の鬮忽にころびて壇の下に落つ。是を求むるに終に失せぬ。不思議の思ひに住して其の殘る鬮を開き見るに、渡るべからずと云ふ鬮なり。知識・明神の御前の鬮同じく渡るべからずと云ふ鬮なり。上人其の朝(あした)語つて云はく、今夜の夢に、空中に白鷺(しらさぎ)二つ飛ぶ。其の上に白服を着せる俗人一人立てり。春日大明神の御使と覺しくて、弓箭(ゆみや)を取りて一の鷺を射落すと見つると云々。今思ひ合はするに、此の鬮の一つ失せつるに符合して不思議に思ひき。
[やぶちゃん注:私は明恵を尊敬するが信徒ではないから平気で言えるのであるが、この時の明恵の病態は、所謂、重度の心身症のように思われるのである。明恵の無意識の中には、実は天竺への渡航を『実はしたくはないのだ』若しくは『実はすべきではないのだ』という希求が有意に大きく存在したのではなかったろうか? 但し、尋常でない明恵のストイックさを考える時、死の恐怖や災難による『実はしたくはないのだ』というレベルの低い卑怯な内心は全く考えられぬから、寧ろ、自ら衆生を還相廻向によって済度すべき存在であると認識していたと思われる明恵が、自分自身の正法の追究を主たる目的として天竺へ渡航するということに対し、実は根本的な部分で非常に強い疑義を抱いていた――西方巡礼の途次で命を落とすかも知れないという予覚に基づくところの、自己の本来の衆生済度という使命の放棄に繋がるかもしれない蛮挙としてそれが無意識下に於いて増殖していた――のではなかったか、それによって激しい身体変調と不定愁訴を訴える重い心身症を発症していたのではないか、と私は考えるのである。]