明恵上人夢記 12
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元久元年九月三日、紀洲より移りて、神護寺(じんごじ)の槇尾房(まきのをばう)に還住(げんぢう)す。
同十一日、學問、之を始む。未だ書籍を取り寄せざる間、一兩の同行とともに香象(かうざう)の密嚴(みちごん)の疏(しよ)を讀み始む。其の夜、夢に云はく、紀洲蕪坂(かぶらざか)と覺しき所に、成辨が居處と思しき庵室(あんじつ)あり。わりなく之を造れり。此の房の處は以ての外の高處也。其の下に大きなる湯屋(ゆや)あり。然も、成辨、或るところに於いて、一部の書上中下三卷〔本經の儀軌(ぎき)かとも覺ゆ。〕を借り得たり。一處に置かむと欲す。此の湯屋に到り、止まり息(いこ)ひて、此の本の庵室を見擧げ、此處に居らむと思ふ。心に思はく、我が前の房、巳に破れにき。然れども此の庵室故(もと)の如し。敢て拘勞(くらう)を用ゐず、須(すべから)く之に居るべしと。此の思惟(しゆい)を作(な)す際、一つの雀有り。二つの鴿鳥(かふてう)飛び來る。雀は灰の中に落ち、鴿鳥は樹に居り。成辨、此の雀を取り、又、鴿鳥に向ひて言はく、「願はくは來りて我が手に居よ。」即ち、飛び下りて手に入る。此の雀死に了んぬ。彼(か)の庵室の邊に佛頂房有りて、云はく、「此の鴿(いへばと)、變じて涌(よう)とならむ」と云ふ。成辨、之を聞きて思はく、此の鳥、雲霞の如くなる物に成るべきか。即ち涌〔此の字かと思ふ〕。此の鴿、片目にしのづきの如くなる物あり。而も、死するかと思ふ程に、手を放ちて之を見るに、飛びて外に去りて近き邊に居たり。又之を呼べば、來りて手に居る。今度、靑き鳥と成る。糸にて組みつくれるが如し。漸く靑雲と成りて空に上る。成辨、手を擧げて此の雲を取り、漸々に之を飮む。次第に空に上るを次第々々に之を取りて飮む。後は白雲にして上る。之を取りて飮む。皆、飮み巳(をは)る樣に思ふ。之を飮む間に此の事を思ふ。一切を利益(りやく)せむ。
[やぶちゃん注:「元久元年」西暦一二〇四年。
「神護寺(じんごじ)の槇尾房」現在、京都市右京区にある真言宗大覚寺派槇尾山西明寺(まきのおさんさいみょうじ)。京都市街の北西、周山街道から清滝川を渡った対岸の山腹に位置する。周山街道沿いの高雄山神護寺、栂尾山高山寺とともに三尾(さんび)の名刹として知られる。寺伝によれば天長年間(八二四年~八三四年)に空海の高弟智泉大徳が神護寺別院として創建したと伝える。その後荒廃したが、建治年間(一一七五年~一一七八年)に和泉国槙尾山寺の我宝自性上人が中興、本堂・経蔵・宝塔・鎮守等が建てられた。後、正応三(一二九〇)年に神護寺から独立した(以上はウィキの「西明寺」に拠る。
「香象」法蔵(六四三年~七一二年)は唐代の華厳宗の第三祖。大師号は賢首又は香象。姓は康。長安出身。華厳の第二祖智儼に学んでその教学を集大成する。則天武后の勅で入内した際、側にあった金獅子の像を例にとって本質と形相の関係を五つに分け、華厳の教学を体系化して示したといわれる。「華厳五教章」「探玄記」「起信論疏」(ここで明恵の言う「疏」とはこれか)などの著があり,実叉難陀とともに「新華厳経」八十巻の漢訳を完成した(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。
「密嚴の疏」法蔵作「密厳経疏」。「大乗密厳経」の注釈。同経では大日如来がいる三密で荘厳された浄土(密厳国・密厳仏国ともいう)について説かれている。因みに真言宗では、このけがれた国土そのものが密厳仏国であると説いている。
「紀洲蕪坂と覺しき所に、成辨が居處と思しき庵室あり」という謂いからは、そこは蕪坂に似ている場所であり、明恵は実際には蕪坂に庵室は持っていなかった、というあくまでも夢中内での実感を述べているように感じられる。「蕪坂」熊野古道の一壺王子と山口王子の間、現在の有田市宮原町畑字白倉の蕪坂王子跡近くにある坂。 「栂尾明恵上人伝記」によれば、建久四(一一九三)年に紀州に遁世した明恵は(リンク先は私の電子テクスト)、
湯淺(ゆあさ)の楢原村白上(ならはらむらしらがみ)の峰に、一宇の草庵を立て、居(きよ)をしむ。其の峰に大盤石(だいばんじやく)、左右に聳えて、小(ちいさ)き流水前後に出づ。彼の高巖(かうがん)の上に二間(ふたま)の草庵を構へたり。前(まへ)は西海(せいかい)に向へり。遙(はるか)に淡路島を望めば、雲晴れ浪靜かにして、眼(まなこ)窮(きはま)り難し。北に亦谷(たに)あり、鼓谷(つゞみだに)と號す、溪嵐(けいらん)響(ひゞき)をなして、巖洞(がんどう)に聲(こゑ)を送る。又草庵の緣(えん)を穿(うが)ちて、一株(ひとかぶ)の老松(おいまつ)あり。其の下に繩床(じやうしやう)一脚(きやく)を立つ。又西南の角(すみ)二段ばかり下に當つて、一宇の草庵を立つ。是は同行來入(どうぎやうらいにふ)の爲なり。此の所にして、坐禪・行法・寢食を忘れて怠りなし。或時は佛像に向ひて、在世(ざいせい)の昔を戀慕し、或時は聖教(しやうげう)に對して、説法の古(いにしへ)をうらやむ。
とある。この「湯淺の楢原村白上の峰」とは、講談社学術文庫版の平泉洸氏の訳注によれば、『和歌山県有田郡湯浅町栖原に施無畏寺(せむいじ)があって』、『その後ろの山が白上の峰である』と注されている。この夢のモデルもこれであろう。
「本經」文脈からは「大乗密厳経」と読める。
「儀軌」密教で如来・菩薩・諸天などを念誦供養する際の方法や規則を記した典籍。
「佛頂房」天台僧仏頂房隆真か。彼は明恵と同じく法然の念仏に破折を加えた、定照の「弾選択」二巻に奥書を加えている(「赤鬼のブログ」の「浄土九品の事 第四章 天台宗の高僧らの対応」を参照した)。
「涌とならむ」底本注に、『あわのようになるだろうの意か』とある。現代語訳はそれで訳した。]
「即ち涌〔此の字かと思ふ〕。」この部分、よく分からない。即座に泡となったと一応、解釈した。以下の割注については、「涌」という変わった字で仏頂房の台詞を示したけれども、実際に夢の中で私は彼の言う「よう」という発音を「涌」とほぼ直観していたのだ、確かにこの「涌」という字であったという確信に近い感覚があるのである、という意味で採った。
「しのづき」「篠突」で、篠(細い針のような竹)で突いたように、傷や病変によって生じた角膜上の白濁した点のこと。
「之を飮む間に此の事を思ふ。一切を利益せむ。」このコーダも難解である。私はこれを夢の中のエンディングに於ける明恵の意識の自問自答と解釈した。覚醒直前のことと思われ、あるいは覚醒後の夢解釈が夢記述に影響を及ぼした可能性も否定出来ないが、「之を飮む間に此の事を思ふ」の部分は確かな夢内として示されているから、あえて最後の「一切を利益せむ」を夢の中の明恵の覚悟と読む。「此の事を思ふ」の「此の事」は、実は前の雲を食うことを指すのではなく、「一切を利益せむ」ということを雲を食っている間に思ったという意味にも採れる(寧ろ、その意で覚醒時の明恵は記述している可能性の方が強いようにも私は思っている)が、話の分かり易さという点でかく採った。
「利益」仏菩薩が人々に恵みを与えること。仏の教えに従うことによって幸福や恩恵が衆生にもたらされることの意から、一切衆生利益の謂いを私なりに解釈して訳のように示した。大方の御批判を俟つものではある。
■やぶちゃん現代語訳
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元久元年九月三日、紀州より移り、神護寺に戻って、槇尾房(まきのおぼう)に還住(げんじゅう)した。
一、移って八日後の同月十日のこと、やっと気持ちが落ち着いたので、学問を始めたが、未だ、紀州からの書物の荷が届いていないため、同行(どうぎょう)の一僧とともに、賢首香象大師(けんしゅこうぞうだいし)の「密厳経疏(みつごんきょうしょ)」を読み始める。その夜の夢。
紀州蕪坂(かぶらざか)と思しい所に、私のずっと以前の居所と思われる庵室(あんじつ)がある。思い起こせば、この庵室は私が、ある止むを得ぬ気持ちから造ったものではあった。しかも、この庵室が建っているのは、これ、とんでもない高所なのであった。
その断崖の直下には大きな湯屋(ゆや)があった。
しかも、私はこの時、ある所に於いて、全一部の上・中・下の三巻から成る仏典[明恵注:この時の夢の中の私は、それらを「大乗密厳経」に関わる儀軌(ぎき)について記した書であったように認識していたように思われる。]を借り受けて来たばかりで、何としてもこの大部の仏典総てを同じ一つのところに置いておきたいという強い希望を持っていた。
そこで、この湯屋に立ち寄って、一息ついた。
そうして、ふと、このずっと以前に住みなした、かの庵室を見上げた。
すると、
『……やはり、ここに棲もう!』
という強い思いが湧き起った。
そして、さらに心中、思ったことは、
『……私がこの前まで住んでいた住房は既に壊(く)えてしまった。――しかれども、ここのあの庵室は、今も、もとのように在るではないか! あえて奇態なる拘束や苦労をせず――なすべきことは、これ、ここに棲むことである!』
という感懐であった。
こんなことを考えていた、丁度、その時である。
一羽の雀が、傍にいた。
また、そこに、一羽の山鳩が飛んできた。
雀は、湯屋の火焚きの灰の中に落ち、山鳩は、樹にとまった。
私は、この雀を灰の山の中から掬い取ってやり、また、山鳩に向かって語りかけた。
「願わくは、羽ばたききたって私の手にとまれ。」
と。
すると、山鳩は、たちまち飛び下りてきて、私の掌(てのひら)の中におさまった。
この時、さっき救ってやった雀は地面の上で死んでしまっていた。
はっと気づいて見上げてみると、かの遙か上の庵室の辺りに知人の仏頂房が佇んでいるのが見えた。そうして彼が、眼下の私に向かって、
「その山鳩は、変じて『涌(よう)』となるであろう。」
と叫んだ。
私は、それを聴いて思った。
『この生きた山鳩が、雲や霞の如き物に変成(へんじょう)しようはずもあるまい。』
――ところが
――山鳩は私の掌の中で、たちまち、涌(泡)に変じてしまったのであった!……
[明恵注:夢の中の私は、その時の『よう』という彼の発音を、確かに泡を意味する『涌』という、この「字」として認識していたように思われる。]
なお、この私の掌の中にいた山鳩には、片方の目に白濁した星のような跡があった。
……ところが、泡になってしまったから、死んだものかと思っていたところが――
――ぱっ
と手を開いてこれを見てみると、元の山鳩の形のままに、
――さっ
と掌から飛び去って、すぐ近くに降り立った。
また、これに呼びかけた。
すると、再び飛びきたって、私の掌の中におさまった。
ところが、それをよく見てみると、今度はさっきとは全く違った、青い見慣れぬ鳥となっている。
まるで青染めの糸を組み紐にして編んだかのようであった。
しばらくすると、その青い鳥は、私の掌の中で、青みがかった雲と変じて、空へ空へと、ゆっくりと昇ってゆく、また変じては昇ってゆく、のであった。
私はすばやく手を挙げて、この彩雲を摑み取り、徐ろにこれを――飲んだ。
次々に空へ昇り行かんとする青い雲を――次々に摑み取っては――飲む。
遂に最後のそれは、白雲となって、やはり空に昇ろうとする。
私は遂にそれをも取って――飲んだ。
即ち、私は、その――すべてを飲みきり終わったように――思うのである。
そして――これを飲んでいた、その間中……
――私は、
『……これら、不思議なることは……一体……如何なる意味を……持っているのだろう?……』
と考えた。
そして、その答えは、
「一切は他者のために!」
であった。
[やぶちゃん補注:読解に難解な個所が多いが、サンボリズムかシュールレアリスムの散文を読むような極めて幻想的魅力に富んだ夢記述で、明恵の夢の中でも私の好きな一篇である。断崖、その頂上に建つ庵室、湯屋、雀、鳩、その泡のメタモルフォーゼ、青い鳥、青い雲、白い雲、それを飲み続ける自分、そしてコーダの「一切を利益せむ」と――解釈学をそそるシンボルが目白押しであるが、私はこのまんまの夢の情景が、何故かは分からないが、すこぶる直感的に心地よいのである。仏頂房の登場も唐突で、パースペクティヴが利いていて素晴らしい。
あえて言うなら、私はこの夢には、明恵の信条であった個としての極楽往生を願わないところのゾルレンの思想「あるべきやうは」に基づく、謂わば浄土教に於ける一度極楽浄土に往生しながら衆生済度のために再び生死(しょうじ)の現世へと還ってくるところの還相廻向に類似した意識が表わされているのではないかと読み解いている。明恵の「あるべきやうは」の思想については私の『栂尾明恵上人伝記 24 「あるべきやうは」――ゾルレンへの確信』を参照されたい。
また私にはこの夢が、タルコフスキイの「鏡」ラスト・シーン、瀕死の詩人が死の床で死んだ小鳥の遺骸を優しく握ってやる――そうして――それをゆっくりと空へ放つ――小鳥が元気よく飛び立つ……というシーンを、何故か、強烈にフラッシュ・バックさせるのである……]