大橋左狂「現在の鎌倉」 4 夏の鎌倉
夏の鎌倉
炎帝威を逞ふして下界爲めに沸くが如きの三伏期、身は恰かも甑中に閉ざ込められた樣の思を爲し、鬱陶として五尺の小身も、殆んど容るゝに餘地がないと言ふ樣の時、此鎌倉は何ふであらうか。流石は山水明媚、風光佳絶、冬暖かに夏涼しと、先輩諸人が定評された丈け、それだけ苦熱を覺へない。外人が鎌倉を評して世界の公園だと稱贊したのも無理はない。年々歳々歐米各國より日本の風光を見んとて觀光する團體は、必ず一度は鎌倉に足を踏むのだ。それは鎌倉を見ないのは日本を見ないのと同樣だとの觀念であるそうだ。歐米外人が已にその觀念だ。それ故吾人は自己の故國である以上は、一生涯に尠くも一度は、此地の風光を見るの義務は在るだらうとは稍々出過ぎた鎌倉贔屓の過言だ。年々夏期に於て此鎌倉に遊覽する客人は、何億萬何十億萬あるか測り知られない。外國人さへ來るのだから臺灣、九州、樺太、北海道は、別に遠い事はないが、常に九州又は東北地方から見物に來る遊覽者が絶へずある。其他に毎年七月中旬か又は八月上旬頃より、九月の下旬頃迄定則の樣に、必ず此地に來て別莊或は貸別莊又は貸間に避暑する人が多い。之れ等の人を別莊客、避暑客と云ふて、鎌倉土着の諸商人其他貸家業者は大に崇拜するのだ。それも其筈で鎌倉人士の財源は全く此避暑客別莊客にあるからだ。鎌倉は此夏期を書入時としてあるので一部の營業者は此期節の收入が一年の諸經費に充てられるのである。
[やぶちゃん注:「三伏期」「三伏」は「さんぷく」と読み、陰陽五行説に基づく選日(せんじつ:暦注に於いて主な六曜・七曜・二十八宿・九星・以外の特定の期日の総称。)の一つ。初伏(しょふく)・中伏(ちゅうふく)・末伏(まっぷく)の総称。庚(かのえ)は「金の兄」で金性であり、相剋説によって「火剋金」(金は火に伏せられる)ことから、火性の最も盛んな夏の時期の庚の日は凶であるとする。そこで、夏の間の三回の庚の日を三伏として、種蒔き・療養・遠行・男女の和合などは全て慎むべき日とされる。三伏の時期は、七月中旬から八月上旬で酷暑の頃に当たるため、「三伏の候」「三伏の猛暑」と手紙の前文に書くなど、酷暑の頃を表す言葉として現在も用いられている(以上は主にウィキの「三伏」に拠った)。
「閉ざ」底本では右に『(ママ)』表記がある。]
僅かに三ケ月内外の收入が一ケ年の生活費を除いて尚ほ相當の利益を爲すと言へば餘程の暴利を貪る樣に見受けられる樣だが、其實は反て損失をする商人も多いのだ。由來鎌倉は避暑地であり、又別莊地であるから、避暑客の年々増加して貸間貸屋を賃借する者も増加し、或は自己の別莊を建築する人も續々殖へて來たので隨て家督、地代等の高騰する樣の傾向は昨年頃迄往々認められたが、此等の事は勿論一般商業品等の相場が各店毎に一定してないのは、遊覽客避暑客別莊客等に非常に不安の念慮を懷かしめ終には鎌倉の衰微する樣な基を招く虞ありとて玆に逸早く覺醒したのは、鎌倉商業界の中心たる米酒業者である。此等の者が幾度となく集會して鳩首協議の結果昨年末から鎌倉米酒商組合なるものを組織し、可及的品質の精良を選び確實なる價格の均一を取る事に決定された。鎌倉に商業組合の組織されたのは米酒商組合を以て囁矢とするのである。毎日相場の移動や其他樞要の事共の通告を發して居る此組合組織以來地主、家主、其他の營業者も悉く之に倣つて互に相談して標準額を一定する樣になつたので、今日此頃の鎌倉諸營業の活動振りは實に確實となつた。商家の雇人手代連も商業道德修養の必要を自覺して商家雇人會なるものを組織し、毎月囘數を定めて、講師を聽し商業上有益なる講演を教へられて居る。斯くして久しく他から非難の聲を浴せ掛けられつゝあつた鎌倉の商業界も、今日此頃は面目を一新したのは實に快絶と叫ばざるを得ない。遊覽避暑客も別莊客も大に安心して續々入込んで來る。鎌倉の前途も玆に於てか、一點の光明を認め得たのである。續いて鎌倉の經濟界も活躍して來たのは、大に祝すべき譯だ。
[やぶちゃん注:現在、鎌倉商工会議所の公式サイトの「歴史」を見ても、昭和二一(一九四六)年の戦後の社団法人鎌倉商工会議所の創設しか記されていない。この叙述はその前史を知る上で貴重である。]
夏の鎌倉とは夏期七月上旬より九月下旬に至る此三ケ月を云ふので、僅か九十日足らずの短日月が、鎌倉に取つては唯一の玉緒(たまのを)で、土着民の生命と言ふべき財源である。鎌倉は此夏季遊覽客、避暑客、夏他の別莊客を歡迎すべく、町費の許す限り、有志者寄附金の在る限り最大限の出費を爲して、町内の街路下水は勿論材木座、由井ケ濱、長谷、坂の下、七里ケ濱に至る海岸迄の大掃除を爲して、例令(たとへ)如何なる人、何國の人が來遊して見ても愧しくない樣にと苦心して諸々の設備をするのだ。一昨年夏より鎌倉公設海水浴場なるものも開設せられた。又縣下に未だ見ざる鎌倉圖書館なるものも鎌倉小學校附屬庫内に設けられて一般公衆の縱覽を許して居る。尚ほ又鎌倉博物館やら、鎌倉水族館、動物園等も建設されるとの風評であるが、此分は現在の鎌倉にては未だ急速の建設は見られまいと信ずるのである。
[やぶちゃん注:由比ヶ浜の海水浴場について、つい先日の二〇一三年四月十一日附「産経新聞」の「鎌倉の海水浴場が9月まで営業延長」という記事の中で、『鎌倉の海水浴場は130年の歴史を誇るが、営業を9月まで延長することは今回がはじめて』という下りが現われる。単純に計算すると一三〇年前は明治一六(一八八三)年になるが、これは恐らく二年後の明治一八(一八八五)年に内務省初代衛生局長長与専齋の奨めによって鎌倉由比ヶ浜の三橋旅館が海水浴場を開設したことを「東京横浜毎日新聞」で広告した辺りを起点としているものと思われる(医療目的でない日本最古の海水浴場はオランダ人医師ポンペからオランダ医学を学んだ初代軍医総監松本順によって明治一五(一八八二)年十月に三重県伊勢市二見町の立石浜が国によって公的指定を受けたのを嚆矢とするという)。以上の海水浴場の歴史はウィキの「海水浴場」を参照した)。
「玉緒」魂(たま)の緒の意から、生命線の意。
「鎌倉水族館」恐らくご存知の方はあるまいが、鎌倉には「鎌倉水族館」がかつてあった。富田康裕著「トミタクンの思い出の記」によれば『稲村ヶ崎から長谷に向かい、坂を降りたところに鎌倉パークホテルがある。その敷地内に当時、鎌倉水族館があった』とある。昭和二八(一九五三)年開園で六年後に閉園したとあり、展示物の殆んどはホルマリン漬けの標本展示という恐るべき水族館であったらしい。私は閉園時二歳であったから行っていたとしても記憶はない(行った可能性は結構高い気はする。私の両親は当時、六地蔵の高濱虚子の娘の家の隣に間借りしていたからである)。ただ、幼少の頃にぼろぼろになるまで読んだ小学館の「魚貝の図鑑」の裏表紙にあった日本の水族館一覧にしっかりと「鎌倉水族館」とあって、ずうっと行きたくて行きたくて仕方がなかったのを思い出す(勿論、最早なくなっていることを知らずに)。ホルマリン漬けでもいい、今でも私は「鎌倉水族館」に行くことを夢見ている……。]
鎌倉の避暑客は前陳の通り歳々年々増殖の趨勢を示して居る。最近二ケ年間に於ける鎌倉避暑客數を統計すると左記の如き數字を顯はすのである。小天地の鎌倉としては實に多數の避暑客があると言つても差支はない樣に考へられる。避暑客は多くは七月に避暑して九月に歸るので此三ケ月の各月毎に人員に差異を生ずるのは絶へず避暑客の出入がある故理の當然である。此處に記した統計は夏期三ケ月を統計した一ケ月の平均避暑客數である。
明治四十二年 五、九〇七人
明治四十三年 六、四一六人
明治四十四年 八、八二六人
前記の統計を示すので、之れを七、八、九の三箇月に延算すると四十五年の如きは實に一萬八千四百七十八人となる。此避暑客は旅館、別莊、或は貸家貸間其他寺院等思ひ思ひの方面に散在假住するのである。この外に一日二日の滯在見込にて出掛るもの或は日曜祭日を利用して來る遊覽客等を數へると一ケ月平均七十萬以上に昇るそうだ。此大多數の遊覽客は鎌倉の土地に相當の金を散じて歸るのである。夏季鎌倉の收入は非常の高額に上るのだ。即ち避暑客、遊覽客は鎌倉の財源なりとは此邊より割り出されたものである。
[やぶちゃん注:「四十五年の如きは實に一萬八千四百七十八人となる」底本では「四十五年」及び「一萬八千四百七十八人」の右に『(ママ)』注記がある。一ヶ月平均の単純三倍であるから、ここは最も多い明治四四(一九一一)年の数値×3倍したものと思われるから、正しくは「四十四年の如きは實に二萬六千四百七十八人となる」でなくてはなるまい。
「一ケ月平均七十萬以上」鎌倉市公式サイトの統計(PDFファイル)で平成二三(二〇一一)年の鎌倉への年間入込観光客数見ると、
年間 一八、一一〇、八六八人
で、
一ヶ月平均 一、五〇九、二三九人
と当時の二倍以上に増えている。延入込観光客数推計表の同年の七・八・九月分を見ると、
七月 九〇七、七三八人
八月 一、五六二、〇三〇人
九月 八九五、一八〇人
とあり、この平均値をとると、
一ヶ月平均 一、一二一、六四九人
となり、明治四十四年の実に百二十七倍である。]