中島敦漢詩全集 九 「春河馬」 二首
九
春河馬 二首
悠々獨住別乾坤
美醜賢愚任俗論
河馬檻中春自在
團々屎糞二三痕
春晝悠々水裡仙
眠酣巨口漫垂涎
佇眄河馬偏何意
閑日閑人欲學禪
○やぶちゃんの訓読
春の河馬(かば) 二首
悠々たるかな 獨住(どくぢゆう) 別乾坤(べつけんこん)
美醜賢愚 俗論に任(まか)す
河馬(かば) 檻中(かんちう) 春 自在
團々たるかな 屎糞(しふん) 二三痕(にさんこん)
春晝 悠々たり 水裡仙(すいりせん)
眠酣(みんかん) 巨口(きよこう) 漫(そぞ)ろ垂涎(すいぜん)
佇眄(ちよべん)せる河馬よ 偏へに何をか意(おも)ふ
閑日閑人 禪を學ばんと欲す
〇T.S.君原案(一部は藪野補筆)の中国語を踏まえた語釈
・「悠々」遥か長い、遥か遠い、悠然としたさま、凡庸なさま、憂愁を含んださま、自在なさまなど、多くのニュアンスを有する。ここは俗世間の瑣事から超然としたカバの悠然たる様子を形容する。なお、鈍重さや、そこに漂う可笑しみまで感じ取っても許されよう。
・「獨」独りで、孤独に。ひとりで自足した佇まいを見せていると取りたい。
・「別乾坤」「乾坤」は天地、世の中を指す。「別」はここでは、他のという意。すなわち、通常の世界とは異なる、まさに「別天地」のことである。
・「俗論」世俗的な議論のこと。
・「河馬」カバ。現代中国語でも「河馬」である。
・「檻」飼育している動物を囲う檻(おり)のこと。
・「自在」自由であり束縛されないこと、若しくは、束縛されない無碍な状態を身も心も心地良く感じている状態のこと。
・「團々」丸い様子、丸く膨れた様子、群れたさまなどを表す。ここは糞が丸く団子のように落ちているさまを表す。「團」は「団」の正字である。
・「屎糞」大便。「屎」も「糞」も、うんこ、クソのことである。
・「痕」本来は、元通りに治癒せず残った傷あとのこと。ここでは、糞を掃除した痕ではなく、糞『らしき』ものが二つ、三つ、丸い塊りとして地面に落ちたままと捉えたい。
・「水裡仙」水の裡(うち)の仙人。一般的熟語としては使われない。造語であろう。
・「眠酣」「酣眠」ぐっすり眠る、熟睡するという意味の熟語があり、その倒置形か。なお「酣」単体では、心地よく思うままに酒を飲むことである。
・「漫」水などが満ち溢れるさま。よだれが口から垂れるまで溢れ出るさまを指す。
・「垂涎」文字通り垂涎(すいぜん)。よだれが垂れること。
・「佇眄」佇んで眺めること。詩人がカバを眺めると取るのが自然であろう。しかし「佇」には長時間立つこと、「眄」には横目で見ることという意がある。じっと突っ立って横目でこちらを見るというイメージがカバに相応しいため、動作の主をカバであると理解した。
・「偏」カバが何かをじっと考えているようであり、その状況を「偏(ひと)へに」と形容したものであろう。
・「閑日」何も用事のないのんびりとした日のこと。
・「閑人」何もすることのない暇な人のこと、若しくは特定の事柄に対し、用のない人のこと。ここでは前者。「閑日」と併せ、カバではなく、詩人自身のことを指すと思われる。
・「欲」行動への欲求をあらわす。~したい。
・「學禪」禅の境地を知ること、学ぶこと。
〇T.S.君による現代日本語訳
おおい、カバよ――
お前はひとり悠然として
桃源郷にでもいるんかね
美醜や賢愚の議論なんぞ
俗な奴らに任せておくさ
いいなあ、ひとり別天地
気ままな春を謳歌してる
……ところで……
おおきなまあるい糞団子
そこらに二三落ちてるぞ
おおい、カバよ――
のどかな春のひるさがり
さながら水中仙人だねえ
午睡ぐっすり思うがまま
でかい口から涎も垂れる
横目で此方を見たりして
一体なにを考えてんのさ
……ところで……
することもないこの日長
禅でも教えてくんないか
〇T.S.君とやぶちゃんの協働取組みによる評釈
のどかな春の昼下がりの、悠然自在たるカバへの賛歌である。
星を詠った幾篇かの詩と異なり、詩人の身体にも心にも特に緊張の高まりは見られない。最初から最後まで肩の力は抜きっぱなしである。最後に「欲學禪」というが、ここにおける「禪」は、禅宗が持つ厳しい自己修練の世界ではなく、老荘思想に見るような融通無碍な世界観や生き方のことである。それも、半ば以上は人間が到達し得る禅的境地さえも超えたところにある、カバの究極的な自然体のことを指している。さらにはそれを「禪」と表現することにどこか漂う滑稽を感じ取っても構わないだろう。
しかし忘れてはならない。詩人は決して冗談を言っているのではない。諧謔の言葉を口にしているのでもない。心の底では実に真摯な願いが渦巻いている。
詩人はなぜこのカバに共感するのか、なぜカバの境地に憧れるのか。それは詩人が、生きているこの娑婆で、日頃様々な不如意に苛まれているからである。大きく言えば人生そのものに。卑近なところで言えば仕事における人間関係から家庭での小さな軋轢までのあらゆる不本意に。詩人はその都度、つい本気で、時には感情をむき出しにして立ち向かってしまう。そして後で反省するのだ、――ああするべきでなかった。こう言うべきではなかった――と。自分が取った対応によって、自分自身が更に惨めになってしまった――と。詩人はとうの昔に分かっている。宇宙は広大無辺なのだ。一時の浮付いた感情に任せてはいけない。身をかわすのだ。聞き流すのだ。それこそがあるべき姿だ。しかしそれが本当に出来れば世話はない。そんな境地に到達するのは、どれほど難しいことだろう……。
人は、どうしてそんなことが分かるのかと私に問うかもれない。それなら私は(こっそり胸を張って)言おう。私も詩人と同じだから。詩人と同じようにくよくよ悩んでいるから……だと。
これは恐らく動物園だろう。私は想像してみる。詩人は春の休日の昼下がり、動物園にやってきた。実は昼前に面白くないことがあったのだ。私がここでどうしても想起してしまうのは、漱石の「こゝろ」の以下の部分である。詩人のこの時の精神状態と、「こゝろ」のこの日の先生の情緒が、私には二重映しになってしまうのである。
[やぶちゃん注:T.S.君の指定に基づき、私の初出形「心」の「先生の遺書(一)~(三十六)」の「(九)」より引用した。]
當時の私の眼に映つた先生と奧さんの間柄はまづ斯んなものであつた。そのうちにたつた一つの例外があつた。ある日私が何時もの通り、先生の玄關から案内を賴まうとすると、座敷の方で誰かの話し聲がした。能く聞くと、それが尋常の談話ではなくつて、どうも言逆(いさか)ひらしかつた。先生の宅は玄關の次がすぐ座敷になつてゐるので、格子の前に立つてゐた私の耳に其言逆ひの調子丈は略(ほゞ)分つた。さうして其うちの一人が先生だといふ事も、時々高まつて來る男の方の聲で解つた。相手は先生よりも低い音(おん)なので、誰だか判然しなかつたが、何うも奧さんらしく感ぜられた泣いてゐる樣でもあつた。私はどうしたものだらうと思つて玄關先で迷つたが、すぐ決心をして其儘下宿へ歸つた。
妙に不安な心持が私を襲つて來た。私は書物を讀んでも呑み込む能力を失つて仕舞つた。約一時間ばかりすると先生が窓の下へ來て私の名を呼んだ。私は驚ろいて窓を開けた。先生は散歩しやうと云つて、下から私を誘つた。先刻(さつき)帶の間へ包(くる)んだ儘の時計を出して見ると、もう八時過であつた。私は歸つたなりまだ袴を着けてゐた。私は夫なりすぐ表へ出た。
其晩私は先生と一所に麥酒(ビール)を飮んだ。先生は元來酒量に乏しい人であつた。ある程度迄飮んで、それで醉(ゑ)へなければ、醉ふ迄飮んで見るといふ冒險の出來ない人であつた。
「今日は駄目です」と云つて先生は苦笑(くるせう)した。
「愉快になれませんか」と私は氣の毒さうに聞いた。
私の腹の中(なか)には始終先刻(さつき)の事が引つ懸つてゐた。肴(さかな)の骨が咽喉(のど)に刺さつた時の樣に、私は苦しんだ。打ち明けて見やうかと考へたり、止した方が好からうかと思ひ直したりする動搖が、妙に私の樣子をそは/\させた。
「君、今夜は何うかしてゐますね」と先生の方から云ひ出した。「實は私も少し變なのですよ。君に分りますか」
私は何の答もし得なかつた。
「實は先刻(さつき)妻(さい)と少し喧嘩をしてね。それで下らない神經を昂奮させて仕舞つたんです」と先生が又云つた。
「何うして‥‥」
私には喧嘩といふ言葉が口へ出て來なかつた。
「妻が私を誤解するのです。それを誤解だと云つて聞かせても承知しないのです。つい腹を立てたのです」
「何んなに先生を誤解なさるんですか」
先生は私の此問に答へやうとはしなかつた。
「妻が考へてゐるやうな人間なら、私だつて斯んなに苦しんでゐやしない」
先生が何んなに苦しんでゐるか、是も私には想像の及ばない問題であつた。
この詩において、詩人は麦酒を飲む替わりに、カバを見たのだという気がする。彼はカバの檻の前で足が止まった。彼の横に妻や子供を思い描いても無理ではないだろうが、少なくとも彼の意識からは、妻が消える。子供が消える。そしてカバとの対話が始まる。
実際に彼が到達できるのか、そもそも到達したいのかは別問題であるが、彼が理想と観じた境地とはどのようなものだったか。私は自分の中のイメージを自分の言葉で表現しきれない苦しさに数日間藻掻いた。どうか、愛しいカバよ、何か語っておくれ……。
……まず例として頭に浮かんだのは、山村暮鳥の長大な連作詩「雲」であった。以下に該当箇所を引用する。[やぶちゃん注:T.S.君の指定に基づき、昭和三九(一九六四)年弥生書房刊「山村暮鳥全詩集」の詩集『雲』より、当該詩を引用した。]
雲
丘の上で
としよりと
こどもと
うつとりと雲を
ながめてゐる
おなじく
おうい雲よ
ゆうゆうと
馬鹿にのんきさうぢやないか
どこまでゆくんだ
ずつと磐城平(いはきだいら)の方までゆくんか
……しかし……違う。中島敦はこの詩のような悠然たる心の平安だけを求めているのではない。もっと深い、もっと虚無さえも存分に呑みこんでしまったような、世俗が信じる美醜や賢愚の判断を全く超越した世界を、求めているのだ……。
……次に浮かんだのが、人口に膾炙した宮澤賢治である。涎を垂らす『でく』のようなカバとこの詩のイメージが繋がった。詩全体を掲げるまでもなかろう。カバと並べ得て吟味し得る部分を抜き出したい。[やぶちゃん注:T.S.君の指定に基づき、筑摩書房昭和五一(一九七六)年刊「宮澤賢治全集 第六巻 補遺詩篇Ⅰ」より、当該箇所を引用したが、底本は新字体採用であるため、私のポリシーに則り、恣意的に正字化して示した。]
東ニ病氣ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稻ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
……いや……これは「雲」以上に、違う。積極的行動者としての『でく』になりたいなどとは、詩人は夢にも思っていない。社会との係わりを肯定的に受け入れ、自分の中の仏性に従い、無私を貫き、その結果として善根を積み重ねて生きる。そんな生き方など、左伝や史記などの、原色で正直で鮮烈な人間ドラマが無意識の深層に刻み込まれた詩人にとっては、ただ息苦しいだけだ(実は、私にとっても同様に窒息しそうだ)。……
最後に私が辿りついたのは、まさに『燈台下暗し』、詩人の手になる小説「名人伝」であった。そう、これだ。これに違いない。なぜすぐに気づかなかったのだろう。そのくせ、私の無意識の中には、この詩を読んだ当初から、この紀昌の姿があったような気がするのである。
[やぶちゃん注:T.S.君の指定に基づき、筑摩書房昭和五一(一九七六)年刊「中島敦全集 第一巻」より、当該箇所を引用した。「こ」を潰したような繰り返し記号は「々」に代えた。「とぼけ」の下線は底本では傍点「ヽ」である。]
雲と立罩める名聲の只中に、名人紀昌は次第に老いて行く。既に早く射を離れた彼の心は、益々枯淡虛靜の域にはひつて行ったやうである。木偶の如き顏は更に表情を失ひ、語ることも稀となり、ついひには呼吸の有無さへ疑はれるに至つた。「既に、我と彼との別、是と非との分を知らぬ。眼は耳の如く、耳は鼻の如く、鼻は口の如く思はれる。」といふのが、老名人晩年の述懷である。
甘蠅師の許を辭してから四十年の後、紀昌は靜かに、誠に煙の如く靜かに世を去つた。その四十年の間、彼は絶えて射(しや)を口にすることが無かった。口にさへしなかった位だから、弓矢を執つての活動などあらう筈が無い。勿論、寓話作者としてはここで老名人に掉尾の大活躍をさせて、名人の眞に名人たる所以を明らかにしたいのは山々ながら、一方、又、何としても古書に記された事實を曲げる譯には行かぬ。實際、老後の彼に就いては唯無爲にして化したとばかりで、次の樣な妙な話の外には何一つ傳はつてゐないのだから。
その話といふのは、彼の死ぬ一二年前のことらしい。或日老いたる紀昌が知人の許に招かれて行つたところ、その家で一つの器具を見た。確かに見憶えのある道具だが、どうしても其の名前が思出せぬし、その用途も思ひ當らない。老人は其の家の主人に尋ねた。それは何と呼ぶ品物で、又何に用ひるのかと。主人は、客が冗談を言つてゐるとのみ思つて、ニヤリととぼけた笑い方をした。老紀昌は眞劍になって再び尋ねる。それでも相手は曖昧な笑を浮べて、客の心をはかりかねた樣子である。三度紀昌が眞面目な顏をして同じ問を繰返した時、始めて主人の顏に驚愕の色が現れた。彼は客の眼を凝乎(じつ)と見詰める。相手が冗談を言つてゐるのでもなく、氣が狂つてゐるのでもなく、又自分が聞き違へをしてゐるのでもないことを確かめると、彼は殆ど恐怖に近い狼狽を示して、吃りながら叫んだ。
「ああ、夫子(ふうし)が、――古今無雙の射の名人たる夫子が、弓を忘れ果てられたとや? ああ、弓という名も、その使い途も!」
其の後當分の間、邯鄲の都では、畫家は繪筆を隱し、樂人は瑟の絃を斷ち、工匠は規矩を手にするのを恥じたといふことである。
この小説のテキストを求めてネット上を彷徨っていた時、この作品の意味するところを解説した、とある書き込みが目に留まった。そこには『究極的には、生きていることも含め、あらゆることに意味はないということだ』というような言葉があった。――ふざけてはいけない!――「名人伝」における中島敦も、この漢詩における中島敦も、生をこれっぽっちも否定してなんかいない。生きていることを満喫しなければ嘘なのだ。そもそもこの考え方自体、意味の有無を云々する価値判断の世界から一歩も踏み出してはいないではないか。有限の存在である人ごときに、一体何が分かるというのか。人は、底無しの星空のような境地で、身の程知らずのおこがましい意味づけを去って、与えられた生を伸びやかに享受しなければならない。いや……、享受したい。その思いが、詩人の心の底にしっかりとあった。そうである限り、表面でいくらのんびりとしていても、いくら滑稽な雰囲気が漂っていても、この詩の重心はあくまでも低いのである。
……ところで、詩人がカバを見たのはどこだったのだろうか。この詩を横浜に住んでいた時期と仮定すると、カバが見られた所といえば……。歴史ある野毛山動物園はまだ開園していなかった。上野動物園はやや遠すぎよう。……私は未だにそのカバの居場所を見つけられないでいるのだ……私も……そのカバに逢いたいのに…………
[やぶちゃ補注:可能性としては上野動物園が最有力であろうと思われる。明治一五(一九一一)年に農商務省所管の博物館付属施設として開園した日本で最初の動物園である。明治四四(一八八二)年にカバを購入し、これがカバの本邦初渡来でもあった。以上は上野動物園公式サイトの「上野動物園の歴史」に拠った。T.S.君が言うように、やや遠いとも感じられるが、中島敦が私立横浜高等女学校の教師(国語と英語)をしていた(昭和八(一九三三)年~昭和一六(一九四一)年の九年間)ことを考えると、奉職中の社会見学や家族との行楽で訪れた可能性はすこぶる高かったであろうと思われる(その場合でもT.S.君の評釈にある通り、「少なくとも彼の意識からは、妻が消える。子供が消え」「そしてカバとの対話が始ま」ってよい。いや、そうした対位法(コントラプンクト)的効果はこの詩に寧ろ、相応しいとさえ私は思う)。筆者の住所からは野毛山動物園が想起されるが、残念ながらあそこはT.S.君の記す通り、戦後の昭和二〇年代の創立である(野毛山動物園公式サイト「沿革」参照)。途中に挿入した河馬はT.S.君が上海動物園で本評釈後の2013年7月6日に撮ったもの。本詩に相応しい眼をしている。]。
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