生物學講話 丘淺次郎 第九章 生殖の方法 序
第九章 生殖の方法
前章まではおもに食ふため食はれぬために生物の行ふことを述べたが、何故食ふこと食はれぬことにかくまで力を盡すかといへば、これは子を産み終るまで生き延びんがために他ならぬ。されば食ふことは産むための準備とも考へられるが、しからばなんのために産むかと尋ねると、これはまた更に多く食はんがためともいへる。一疋が一代限では何程も食へぬが、蕃殖して數多くなれば、それだけ多く食へ、更に蕃殖すれば更に多く食へる。食ふのは産むためで、産むのは食ふためだといへば、いづれが目的かわからぬやうであるが、およそ生物の生活は他物をとって自體とするにあることを思ふと、食ふのも産むのもそのためであつて、決して一方だけを目的と見做すことはできぬ筈である。言い換へれば個體の食ふことと産むこととによつて種族の生活が成り立つて居るから、一方だけに離しては生活を繼續することが出來ぬ。他物を食うて自己の身體に加へれば、自己の身體は無論それだけ大きくなる。これが即ち成長である。しかしながら生物の各種には種々の原因から、それぞれ個體の大きさに定まりがあつてこれを超えることは出來ぬから、更に食つて更に大きくならうとすれば、數が殖えるより外に途はない。これが即ち蕃殖である。かやうに考へると、蕃殖は個體の範圍を超えた生長であるというても宜しい。たゞ一つ不思議なのは何故普通の動植物では個體の殖えるためには、前以て雌雄兩性の相合することが必要かといふ點であるが、これに就いては今日もなほ議論があつて確なことはまだ知られて居ない。或は老いた體質を若くするためともいひ、または生まれる子に變異を多くするためともいひ、その他にも種々の説がある。著者自身は寧ろ食ふために働いて古くなつた體質を更に多く食ふに適した若い體質に囘復するためであらうといふ説に傾いて居るが、いづれにしても生殖のために雌雄の相合することは、種族の生存上何か特に有利な點があることだけは疑がない。犬でも猫でも雞でも蠶でも世人の普通に知つて居る動物には皆雌雄の別があつて、生殖に當つては必ず雌雄が相合するゆえ、生殖といへば即ち雌雄の相合することである如くに考へるが、廣く生物界を見渡すと、雌雄に關係のない生殖法もあれば、雌雄の別はあつても雌雄相合するに及ばぬ生殖法もある。そしてこれらの相異なつた生殖法を順々に比べて行くと、終には日頃生殖とは名づけて居ない身體の變化にまで達して、その間に境を設けることが出來ぬ。されば生殖の眞の意義を知らうとするには、まづ生物界に現に行はれて居る種々の生殖法から調べて掛らねばならぬ。
[やぶちゃん注:「一疋が一代限では何程も食へぬが、蕃殖して數多くなれば、それだけ多く食へ、更に蕃殖すれば更に多く食へる」というのは極めて形而上的な謂いであることに注目したい。ここでは「多く食へ」るという言辞、「食ふ」という個体行動の行為が、各個体を超越して種の保存のためのレベルでのメタな概念へと変換されているからである。
「相合する」は「あひがつする(あいがっする)」と訓じているようである(講談社文庫版でもかくルビを振っている)。
「何故普通の動植物では個體の殖えるためには、前以て雌雄兩性の相合することが必要かといふ點であるが、これに就いては」「著者自身は寧ろ食ふために働いて古くなつた體質を更に多く食ふに適した若い體質に囘復するためであらうといふ説に傾いて居る」というのが丘先生の拠って立つところであられるようだ。恐らく現代の生物学者の多くは無難に〈個体が持つところの基本的なDNAを継承することを目的とするもの〉と答えるのであろうか。私などはイギリスの生物学者クリントン・リチャード・ドーキンス(Clinton Richard Dawkins 一九四一年~)が提唱する、生物は遺伝子のヴィークル(乗り物)に過ぎないという考え方を支持するゆえに、厳密には主体は個体ではなくDNAであり、〈個体の持つところの基本的なDNAが自己を継承することを目的とするもの〉と言うべきであろうと考えている。そして、私はこれが前の注で指摘した「食う」のメタ概念化とオーバー・ラップしてくるのである。生物が遺伝子によって利用されている乗り物に過ぎないからこそ、実は生物個体が自己認識によって合目的目的性を持つと信じて疑わぬ採餌も生殖も、結局は、DNAによって操られた、DNAだけの意志であって、我々生物はそれを与り知らぬ――そこには実は――自然界にあって、超越的自立的存在として自覚的に生きていると信じている人間を含めて――自立的で論理的な目的性など存在しないのだということになるからである。]