逗子の海岸 田山花袋
逗子の海岸 田山花袋
[やぶちゃん注:大正七(一九一八)年博文館刊の田山花袋「一日の行楽」より。底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの画像(コマ番号227)を視認してタイプした。親本は総ルビであるが、読みの振れそうなものと難読語のみのパラルビとした。踊り字「〱」は正字に直した。なお、親本には途中に「相模海岸」のキャプションを持つ当時の写真が挿入されてある。漁師の地引網風景のようである。]
逗子の海岸
逗子の海岸は、江の島を前にして、富士山を見るに好(よ)いところである。この眺望は三浦半島の西海岸(せいかいがん)から何處でも見らるゝやうな眺めであるけれど、逗子葉山あたりが一番整つてゐて好い。それに逗子から葉山にかけての海岸は、半(なかば)は徙崖(しがい)で、松原にもちょっとしたのがある。生魚も多い。こゝは鎌倉見物の次手(ついで)に訪ねて來(くる)べきところであるが、大抵は江の島の方へ廻つて了ふので、此方(こつち)にやつて來る客は少ない。
停車場(ていしやぢやう)から海岸までは、ちよつと十二三町ある。停車場の前は町を成してゐて、何でも大抵なものは間に合ふ。別莊があつたり、横須賀通ひの海軍の軍人が住んでゐたりするので、海水浴場と言ふよりも、何方(どちら)かと言へば、別莊地である。六代御前の悲劇のあとを語る御最期川(ごさいごがは)には、芦荻(ろてき)などが生えてゐる。養神亭のあるところまで行くには、路はかなりに折れ曲つて、川に添つたり橋を渡つたりしてゐる。たしか葉山、堀内の方まで通ふ乘合馬車がある筈である。養神亭へ行くには、海から深く入り込んでゐる汐入川(しほいりがは)の橋をわたらなければならない。この汐入川は泥川(どろがは)で、餘り綺麗でない。
柳屋や日蔭茶屋のある方は、養神亭と反対の方で、汐入川に添つて、徙崖の裾のやうなところになつてゐる。そこはやゝ町らしい形を成してゐる。徙崖の上には松が潮風に鳴つてゐる。
養神亭の海に面した廣間は中々好い。こゝから下駄を突かけて、芝生の庭の敷石づたひに海岸に出ると、此方(こちら)の鼻とは向ふの鼻とが相對して彎形(わんけい)をなした砂濱を抱(いだ)いてゐて、江の島の姿の浮んでゐるのが手に取るやうに見える。しかし、此處では波の高いのなどを見ることは出來ない。
浪切不動は『不如歸』のために、今は浪子不動と言はれて、逗子の景物の一つになつてゐる。不動もさぞ驚いてゐることであらう。此地には德富蘇峯氏の別莊があるので、蘆花氏はよく此處にやつて來た。氏の『自然と人生』の中の此地に關する寫生は、頗ぶる眞に迫つた好いものがある。それから、國木田獨歩(くにきだどくほ)に取つても、この地は忘れることの出來ない土地であつた。かれは前の細君信子と蜜のやうな半年を此處に送つた。確か柳屋にゐた筈であつた。
こゝから徙崖をめぐつて、葉山の方に行く。いくらかひろびろとする。それに松林が多い。御用邸のあるあたりは、流石にすぐれた風景である。
湘南の海岸では、規模は小さいが、景色に變化があつて、鵠沼、茅ケ崎あたりよりも此方(こちら)の方が好い。鎌倉の海岸よりも或(あるひ)は此方が好いかも知れない。概して、小ぢんまりとしてゐる。料理店、旅館などにも、氣の利いたのが多い。
朝も好い。夕べも好い。月の夜(よ)などは殊に好い。波の音(おと)に低く囁くやうなのも、戀を語るには最も適してゐる。
こゝから金澤へ二里半ほど。
[やぶちゃん注:「徙崖」「杉田の梅花」にも出たが、後退する海食崖という意味で用いているように思われる。
「六代御前の悲劇のあとを語る御最期川」「六代御前」は平高清(承安三(一一七三)年~建久十(一一九九)年)。平重盛嫡男維盛の嫡男で平清盛曾孫。六代は幼名で平正盛から直系六代に当たることからの命名。「平家物語」の「六代斬られ」等、「平
六代」で記載されることが殆どである。寿永二(一一八三)年の都落ちの際、維盛は妻子を京に残した。平氏滅亡後、文治元(一一八五)年十二月、母とともに.嵯峨大覚寺の北の菖蒲谷に潜伏しているところを北条時政の探索方によって捕縛された。清盛直系であることから鎌倉に護送・斬首となるはずであったが、文覚上人の助命嘆願により処刑を免れて文覚預りとなった。文治五(一一八九)年に剃髪、妙覚と号し、建久五(一一九四)年には大江広元を通じて頼朝と謁見、二心無き旨を伝えた。その後は回国行脚に勤しんだが、頼朝の死後、庇護者文覚が建久十(一一九九)年に起こった三左衛門事件(反幕派の後鳥羽院院別当たる土御門通親暗殺の謀議疑惑)で隠岐に流罪となるや、六代も捕らえられて鎌倉へ移送、この田越川河畔で処刑された。享年二十七歳であった。没年は建久九(一一九八)年又は元久二(一二〇五)年とも言われ、斬首の場所も「平家」諸本で異なっている(以上は主にウィキの「平高清」を参照した)。彼及び御最期川(現在の田越川)については「新編鎌倉志卷之七」の「多古江河〔附御最後川〕」及び「六代御前塚」の条と私の注を参照されたい。
「養神亭」現在の逗子市新宿一丁目六-一五(現在の京浜急行新逗子駅から徒歩十分ほどの田越川に架かる河口近くの渚橋とその上流にある富士見橋の西岸一帯と推測される)にかつてあった旅館。徳富蘆花が「不如帰」を執筆した宿として知られた。逗子の保養地としての開発に熱心であった元海軍軍医大監で帝国生命取締役矢野義徹の出資で、明治二二(一八八九)年に内海用御召船蒼龍丸の司厨長であった丸富次郎が逗子初の近代旅館として創業したもの。昭和五九(一九八四)年に廃業し、建築物は現存しない。庭園だけで千坪余りあったといい、花袋がこの記事を記した前後には『高級旅館として名を馳せ、名刺あるいは紹介がなければ宿泊ができない存在となっていたという』とある(主にウィキの「養神亭」に拠った)。
「養神亭の海に面した廣間」先に参照したウィキの「養神亭」の沿革の中に、『富次郎は旅館創業以前から同地で茶店ないしは休憩所を営んでいたようで、それより海側にあった貸別荘を買い取り、廊下でつないで宿屋として営業を始めたのが前述の』一八八九年であろうとホテル養神亭社長であった吉田勝義は推測しており、この別荘は後に取り壊されたが、富次郎没後の明治四二(一九〇九)年十二月八日に、『その跡地に百畳敷の大広間宴会場が建設された』とあるのがこれであろう。
「汐入川」これは田越川が富士見橋の上流で大きく西に蛇行したところから西北に分岐し、現在逗子開成高校の北東部へと続く久木川があるが、この川のことをかく呼称しているように私には思われる。識者の御教授を乞う。
「柳屋」現在の逗子市桜山に現存する旅館。やはり蘆花所縁の宿とある。但し、ネット上の情報から見ると、行きたいのであれば早目に訪ねた方がよさそうだ。
「日蔭茶屋」江戸中期に料理茶屋として創業した日本料理屋。現在も手広く繁昌しているのは周知の通り。
「不動もさぞ驚いてゐることであらう」この叙述からは田山花袋が空前絶後の大ベストセラーであった「不如帰」を、実はそれほど評価していないようにも思われなくもない。また逆に彼が私の偏愛する「自然と人生」を高く評価しているのも合点出来るのである。
「浪切不動」「浪子不動」は正式には高養寺という。逗子市商工会公式サイトの「浪子不動と高養寺」には、
《引用開始》
今から600年以上も昔のこと、披露山あたりの山から毎晩ふしぎな光がさすようになり、それまでたくさんとれていた魚がとれなくなってしまいました。鎌倉の補陀落寺(ふだらくじ)の頼基法印(らいきほういん)というお坊さんが人々のなげきを聞き、そのあたりを調べると、岩のほらあなの中に石の不動尊を発見しました。村人が大切に祭ったところ、また魚がとれるようになったという話が残っています。
この祠(ほこら)は、小坪の船を暴風雨から守ったところから「浪切不動」とか、後ろに滝があるので「白滝不動(しらたきふどう)」とか呼ばれ、漁村の信仰を集めるようになりました。そして徳富蘆花の小説「不如帰(ほととぎす)」がここを舞台にしていたので主人公の「浪子」にあやかり、今では「浪子不動」と呼ばれるようになりました。
高養寺という名は、寺の建物を作るのを援助した政治家、高橋是清(たかはし これきよ)・犬養毅(いぬかい つよし)の名をとってつけられたものです。また、お堂のそばには重要文化財指定を受けている石造りの五輪塔がありましたが、現在は東昌寺(とうしょうじ)に移されています。
昭和8年(1933)、お堂の前に海中に蘆花の兄、蘇峯の筆による「不如帰」の碑が建てられました。この碑に使われた石材は大崎の先にころがっていた鍋島石(なべしまいし)です。江戸城を築くために九州鍋島藩が伊豆から運んできた石垣用の石が、船の難破で大崎の海に落ちたと言い伝えられていたものです。
《引用終了》
とある。従って、本作がものされた当時はまだ、例の海中の碑は建っていない。]
« 耳嚢 巻之七 始動 / 名人の藝其練氣別段の事 | トップページ | 北條九代記 尼御臺政子上洛 付 三位に叙す »