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2013/05/23

〇公右大臣に任ず 付 拜賀 竝 禪師公曉實朝を討つ〈コーダ〉 附やぶちゃん注 了

○實朝公右大臣に任ず 付 拜賀 竝 禪師公曉實朝を討つ

〈コーダ〉

前〔の〕大膳〔の〕大夫中原(なかはらの)廣元入道覺阿、申されけるは、「今日の勝事(しようじ)は豫て示す所の候。將軍家御出立の期(ご)に臨みて申しけるやうは、覺阿成人して以來(このかた)、遂に涙の面に浮ぶ事を知らず。然るに、今御前に參りて、頻に涙の出るは是(これ)直事(たゞごと)とも思はれず。定(さだめ)て子細あるべく候か。東大寺供養の日、右大將家の御出の例(れい)に任せて、御束帶(ごそくたい)の下に腹卷(はらまき)を著せしめ給へと申す。仲章朝臣、申されしは、大臣、大將に昇る人、未だ其例式(れいしき)あるべからずと。是(これ)に依(よる)て止(とゞ)めらる。又、御出の時、宮田兵衞〔の〕尉公氏(きんうぢ)、御鬢(ぎよびん)に候(こう)ず。實朝公、自(みづから)鬢(びんのかみ)一筋(すぢ)を拔きて御記念(かたみ)と稱して賜り、次に庭上の梅を御覽じて、
  出でていなば主なき宿と成りぬとも軒端の梅よ春を忘るな
其外商門を出で給ふ時、靈鳩(れいきう)、頻(しきり)に鳴騷(なきさわ)ぎ、車よりして下(お)り給ふ時、御劍(ぎよけん)を突折(つきをり)候事、禁忌、殆ど是(これ)多し。後悔せしむる所なり」とぞ語られける。御臺所、御飾(かざり)を下(おろ)し給ふ。御家人一百餘輩、同時に出家致しけり。翌日、御葬禮を營むといへ共、御首(おんくび)は失せ給ふ、五體不具にしては憚りありとて、昨日(きのふ)、公氏に賜る所の鬢(びんのかみ)を御首に准(じゆん)じて棺に納め奉り、勝長壽院の傍(かたはら)に葬りけるぞ哀(あはれ)なる。初(はじめ)、建仁三年より、實朝、既に將軍に任じ、今年に及びて治世(ぢせい)十七年、御歳(おんとし)二十八歳、白刃(はくじん)に中(あたつ)て黄泉(くわうせん)に埋(うづも)れ、人間を辭して幽途(いうと)に隱れ、紅榮(こうえい)、既に枯落(こらく)し給ふ。賴朝、賴家、實朝を源家三代將軍と稱す、其(その)間、合せて四十年、公曉は賴家の子、四歳にて父に後(おく)れ、今年十九歳、一朝に亡び給ひけり。
以下、実朝暗殺のコーダ部分を「吾妻鏡」で見る。
〇原文
抑今日勝事。兼示變異事非一。所謂。及御出立之期。前大膳大夫入道參進申云。覺阿成人之後。未知涙之浮顏面。而今奉昵近之處。落涙難禁。是非直也事。定可有子細歟。東大寺供養之日。任右大將軍御出之例。御束帶之下。可令著腹卷給云々。仲章朝臣申云。昇大臣大將之人未有其式云々。仍被止之。又公氏候御鬢之處。自拔御鬢一筋。稱記念賜之。次覽庭梅。詠禁忌和歌給。
 出テイナハ主ナキ宿ト成ヌトモ軒端ノ梅ヨ春ヲワスルナ
次御出南門之時。靈鳩頻鳴囀。自車下給之刻被突折雄劔云々。
又今夜中可糺彈阿闍梨群黨之旨。自二位家被仰下。信濃國住人中野太郎助能生虜少輔阿闍梨勝圓。具參右京兆御亭。是爲彼受法師也云云。
〇やぶちゃんの書き下し文
抑(そもそも)、今日の勝事(しようし)、兼ねて變異を示す事一(いつ)に非ず。所謂、御出立の期(ご)に及びて、前大膳大夫入道、參進し申して云はく、
「覺阿成人の後、未だ涙の浮ぶ顏面を知らず。而るに今、昵近(ぢつきん)奉るの處、落涙禁じ難し、是れ、直(ただ)なる事に非ず。定めて子細有るべきか。東大寺供養の日の、右大將軍御出の例に任せ、御束帶の下に、腹卷を著せしめ給ふべし。」
と云々。
仲章朝臣、申して云はく、
「大臣大將に昇るの人、未だ其の式有らず。」
と云々。
仍つて之を止めらる。又、公氏、御鬢(ごびん)に候ふの處、御鬢より一筋拔き、
「記念。」
と稱し、之を賜ふ。次いで、庭の梅を覽ぜられて、禁忌の和歌を詠じ給ふ。

 出でていなば主(ぬし)なき宿と成りぬとも軒端(のきば)の梅よ春をわするな

次いで、南門を御出の時、靈鳩、頻りに鳴き囀(さへづ)り、車より下り給ふの刻(きざみ)、雄劔(ゆうけん)を突き折らると云々。
又、今夜中に阿闍梨の群黨を糺彈すべきの旨、二位家より仰せ下さる。信濃國住人中野太郎助能(すけよし)、少輔阿闍梨勝圓を生虜(いけど)り、右京兆の御亭へ具し參る。是れ、彼の受法の師たるなりと云云。
・「中野助能」(生没年未詳)幕府御家人。信濃出身。「吾妻鏡」では本件以外に、寛喜二(一二三〇)年二月八日の条で承久の乱での功績により、領していた筑前勝木荘の代わりに筑後高津・包行(かねゆき)の両名田を賜るという記事で登場する。
・「少輔阿闍梨勝圓を生虜」公暁の後見人であったこの勝円なる人物は同月末日の三十日に義時の尋問を受けるが、申告内容から無罪となって、本職を安堵されている。一方、「吾妻鏡」同条には、公暁が最初に逃げ込んだ同じく「後見」の「備中阿闍梨」については、先に掲げた通り、雪の下宅地及び所領の没収が命ぜられている(但し、この備中阿闍梨にしても、その後の本人の処罰内容は掲げられていない。おかしくはあるまいか? 犯行後に真っ先に逃亡した先の住僧であり、同じく公暁の後見人である。如何にも怪しいではないか)。
「勝事」快挙の意以外に、驚くべき大事件の意があり、ここでは後者。
「仲章朝臣」文書博士源(中原)仲章(なかあきら/なかあき ?~建保七(一二一九)年一月二十七日)。元は後鳥羽院近臣の儒学者であったが、建永元(一二〇六)年辺りから将軍実朝の侍読(教育係)となった。「吾妻鏡」元久元(一二〇四)年一月十二日の条に『十二日丙子。晴。將軍家御讀書〔孝經。〕始。相摸權守爲御侍讀。此「僧」儒依無殊文章。雖無才名之譽。好集書籍。詳通百家九流云々。御讀合之後。賜砂金五十兩。御劔一腰於中章。』(十二日丙子。晴。將軍家御讀書〔孝經。〕始め。相摸權守、御侍讀をたり。此の儒、殊なる文章無きに依りて、才名の譽無しと雖も、好んで書籍を集め、詳かに百家九流に通ずと云々。御讀合せの後、砂金五十兩、御劔一腰を中章に賜はる。)と記す。御存知のように、彼は実朝と一緒に公暁によって殺害されるのであるが、現在では、彼は宮廷と幕府の二重スパイであった可能性も疑われており、御剣持を北条義時から譲られたのも、実は偶然ではなかったとする説もある。
「宮田兵衞尉公氏公氏」宮内公氏が正しい。実朝側近。秦姓とも。

又、御出の時、(きんうぢ)、御鬢(ぎよびん)に候(こう)ず。實朝公、自(みづから)鬢(びんのかみ)一筋(すぢ)を拔きて御記念(かたみ)と稱して賜り、次に庭上の梅を御覽じて、
  出でていなば主なき宿と成りぬとも軒端の梅よ春を忘るな
其外商門を出で給ふ時、靈鳩(れいきう)、頻(しきり)に鳴騷(なきさわ)ぎ、車よりして下(お)り給ふ時、御劍(ぎよけん)を突折(つきをり)候事、禁忌、殆ど是(これ)多し。後悔せしむる所なり」とぞ語られける。
「御臺所……」以下は、「吾妻鏡」の翌一月二十八日の条の基づく。以下に示す。
〇原文
廿八日。今曉加藤判官次郎爲使節上洛。是依被申將軍家薨逝之由也。行程被定五箇日云云。辰尅。御臺所令落飾御。莊嚴房律師行勇爲御戒師。又武藏守親廣。左衞門大夫時廣。前駿河守季時。秋田城介景盛。隱岐守行村。大夫尉景廉以下御家人百餘輩不堪薨御之哀傷。遂出家也。戌尅。將軍家奉葬于勝長壽院之傍。去夜不知御首在所。五體不具。依可有其憚。以昨日所給公氏之御鬢。用御頭。奉入棺云云。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿八日。今曉、加藤判官次郎、使節と爲し上洛す。是れ、將軍家薨逝の由申さるるに依つてなり。行程五箇日と定めらると云云。
辰の尅、御臺所、落飾せしめ御(たま)ふ。莊嚴房(しやうごんばう)律師行勇、御戒師たり。又、武藏守親廣・左衞門大夫時廣・前駿河守季時・秋田城介景盛・隱岐守行村、大夫尉景廉・以下の御家人百餘輩、薨御の哀傷に堪へず、出家を遂ぐるなり。戌の尅、將軍家、勝長壽院の傍らに葬り奉る。去ぬる夜、御首の在所を知ず、五體不具たり。其の憚り有るべきに依つて、昨日、公氏に給はる所の御鬢(ごびん)を以つて、御頭(みぐし)に用ゐ、棺に入れ奉ると云云。
・「辰の刻」午前八時頃。
・「御臺所」坊門信子(ぼうもんのぶこ 建久四(一一九三)年~文永一一(一二七四)年)。実朝正室。西八条禅尼と通称された。出家後の法名は本覚尼。父は公卿坊門信清。元久元(一二〇四)年に実朝の正室となって鎌倉に赴いた。実朝との仲は良かったといわれるが、子は出来なかった。出家後は京に戻った。当時、満二十六歳であった。その後、承久三(一二二一)年五月に起こった承久の乱では兄坊門忠信・坊門忠清らが幕府と敵対して敗北するも、彼女の嘆願によって死罪を免れている。九条大宮の地に夫の菩提寺遍照心院(現在の大通寺)を建立。享年八十二で亡くなった。
・「武藏守親廣」源親広。以下、「左衞門大夫時廣」は大江時広、「前駿河守季時」は中原季時、「秋田城介景盛」は安達景盛、「隱岐守行村」は二階堂行村、「大夫尉景廉」は加藤景廉。

実朝の首は一体、何処へ行ってしまったのだろう?
現在、秦野市東田原に「源実朝公御首塚(みしるしづか)」なるものがあるが、同市観光協会の記載などには、『公暁を討ち取った三浦氏の家来、武常晴(つねはる)』や大津兵部『によってこの秦野の地に持ちこまれ』、『当時この地を治める波多野忠綱に供養を願い出て、手厚く葬られたと伝えられ』とするが、これは到底、信じ難い。……失われた実朝の首の謎……彼はそれ故に顔なき悲劇の貴公子であり――puer eternus――プエル・エテルヌスであり続ける……]

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