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2013/05/30

耳嚢 巻之七 鱣魚は眼氣の良藥なる事

 

 

 鱣魚は眼氣の良藥なる事

 

 

 寶曆の初(はじめ)、日本左衞門といへる強盜ありて、其節の盜賊改(たうぞくあらため)德山五兵衞方へ被召捕(めしとらへられ)御仕置に成りし。右吟味の節、同組與力何某、日本左衞門闇夜にも物を見(みる)事顯然たる由を聞(きき)、吟味處(ぎんみどころ)の燈を消して闇(くら)くなし日本左衞門を引出し、右吟味所に有之(これある)手鎖捕繩等の數を尋(たづね)しに、聊(いささか)相違無(なく)答へけれど、右は晝見置(みおき)候哉(や)の疑ひある故、其邊に有合(ありあふ)訴書(うつたへがき)を渡し讀(よむ)由好(この)みければ、燈火にて讀(よむ)程にはなけれ共、無滯讀(とどこほりなくよみ)ける故、何ぞ藥等有(あり)て眼精如斯哉(かくのごとしや)と尋(たづね)しに、若手の頭人の敎(をしへ)けるは、うなぎを澤(たく)さんに食すれば眼精格別と語(かたる)。其喰(くひ)しやふは、縱令(たとへ)ば朔日(ついたち)より八日迄日々うなぎを澤山に喰(くひ)、夫よりは斷(たち)もの同樣に一向不喰(くはず)、最初先(まづ)佛神えなり共(とも)祈誓して斷物(たちもの)にして、扨(さて)七日程喰(しよく)するよし。尤(もつとも)、鱣(うなぎ)の首の處は不給(たべず)、首より五分(ぶ)程の間(あひだ)、肝のある所を捨(すて)、尾先は末の所迄給(たべ)候由。鱣の肝は目の藥抔といへど、大き成(なる)そら事にて、尾先はすべて精身(せいしん)の集(あつま)る所故、尾先へは隨分肉を不殘喰(のこらずしよく)するよし申(まうし)けるを、彼(かの)與力聞(きき)て、右にならひうなぎを不絕(たえず)食しけるに、眼氣人よりはよかりしと、其子孫のかたりしと也。谷何某(たになにがし)物語也。 

 

□やぶちゃん注

 

○前項連関:民間習俗ながら天下の大盗賊の首魁日本左衛門の実録物とカップリングされた話柄は、なかなかに面白い。

 

・「鱣魚」鰻。目によいとされるビタミンAを多量に持っていることは事実である。但し、老婆心ながら申し上げておくと、ビタミンAは過剰摂取すると下痢などの食中毒様症状から倦怠感や全身の皮膚剥離などの重篤な皮膚障害などを引き起こし、また多量の体内蓄積は催奇形性リスクが非常に高くなるとされる。「ビタミン」というとまさに「鱣の社」に仕立て上げてしまう向きはご注意あれ。「鱣の社」を知らない? 教員時代は漢文の教科書によく載っていて、好んで授業したものだがなぁ。「異苑」に載る話だ。柴田宵曲 妖異博物館 乾鮭大明神」の私の注で電子化してあるから、見られよ。確かに、「鱣の社 異苑」で検索しても、ちゃんと紹介しているのは、私の記事ぐらいか? 漢文も、すっかり廃れたな。哀しいことだわ。なお、「眼」と「ウナギ」は逆に大変な事実がある。ウナギの血には「イクチオヘモトキシン」(ichthyotoxin) というタンパク質の毒が含まれており、飲むと、下痢・嘔吐・皮膚発疹・チアノーゼ・無気力症・不整脈・全身衰弱・感覚異常・麻痺・呼吸困難が引き起こされ、死亡することもあり、何より、江戸時代にも知られていたが、この血、眼に入ると、激しく痛み、結膜炎から――最悪――失明に至るんだぜ!!!

 

・「寶曆」西暦一七五一年から一七六三年。「初」とあるから、日本左衛門が本格的に大盗賊として知れ渡ったのは三十代前半であったことが知れる。

 

・「日本左衞門」(にっぽんざえもん 享保四(一七一九)年~延享四(一七四七)年)は本名浜島庄兵衛といった大盗賊。以下、ウィキの「日本左衞門」を引用する(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更した)。『尾張藩の下級武士の子として生まれる。若い頃から放蕩を繰り返し、やがて盗賊団の頭目となって遠江国を本拠とし、東海道諸国を荒らしまわった。その後、被害にあった地元の豪農の訴えによって江戸から火付盗賊改方の長官徳山秀栄が派遣される(長官としているのは池波正太郎著作の「おとこの秘図」であり、史実本来の職位は不明)。日本左衛門首洗い井戸の碑に書かれている内容では、捕縛の命を受けたのは徳ノ山五兵衛・本所築地奉行となっている(本所築地奉行は代々の徳山五兵衛でも重政のみ)。逃亡した日本左衛門は安芸国宮島で自分の手配書を目にし逃げ切れないと観念(当時、手配書が出されるのは親殺しや主殺しの重罪のみであり、盗賊としては日本初の手配書だった)』、『一七四七年一月七日に京都で自首し、同年三月十一日(十四日とも)に処刑され、首は遠江国見附に晒された。上記の碑には向島で捕縛されたとある。処刑の場所は遠州鈴ヶ森刑場とも江戸伝馬町刑場とも言われている。罪状は確認されているだけで十四件、二千六百二十二両。実際はその数倍と言われる。その容貌については、一八〇センチメートル近い長身の精悍な美丈夫で、顔に五センチメートルほどもある切り傷があり、常に首を右に傾ける癖があったと伝わっている』。『後に義賊「日本駄右衛門」として脚色され、歌舞伎(青砥稿花紅彩画)や、様々な著書などで取り上げられたため、その人物像、評価については輪郭が定かではなく、諸説入り乱れている』とある。「耳嚢 巻之一」の「武邊手段の事」には、その子分の捕縛時の逸話が記されてある。

 

・「盜賊改」火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)は、江戸時代に主に重罪である火付け(放火)、盗賊(押し込み強盗団)、賭博を取り締まった役職。本来、臨時の役職で幕府常備軍である御先手組頭、持組頭などから選ばれた。明暦の大火以後、放火犯に加えて盗賊が江戸に多く現れたため、幕府はそれら凶悪犯を取り締まる専任の役所を設けることにし、「盗賊改」を寛文五(一六六五)年に設置。その後「火付改」を天和三(一六八三)年に設けた。一方の治安機関たる町奉行が役方(文官)であるのに対し、火付盗賊改方は番方(武官)である。この理由として、殊に江戸前期における盗賊が武装盗賊団であることが多く、それらが抵抗を行った場合に非武装の町奉行では手に負えなかったこと、また、捜査撹乱を狙って犯行後に家屋に火を放ち逃走する手口も横行したことから、これらを武力制圧することの出来る現代でいうところの警察軍として設置されたものである。決められた役所はなく、先手組頭などの役宅を臨時の役所として利用した。任命された先手組の組織(与力五~一〇騎・同心三〇~五〇人)がそのまま使われたが、取り締まりに熟練した者は、火付盗賊改方頭が代わってもそのまま同職に残ることもあった。町奉行所と同じように目明しも使った。天明七(一七八七)年から寛政七(一七九五)年まで長官を務めや長谷川宣以(のぶため)が池波正太郎「鬼平犯科帳」で有名。但し、火付盗賊改方は窃盗・強盗・放火などにおける捜査権こそ持つものの、裁判権は殆んど認められておらず、敲(たた)き刑以上の刑罰に問うべき容疑者の裁定に際しては老中の裁可を仰ぐ必要があった。火付盗賊改方は番方であるが故に取り締まりは乱暴になる傾向があり、町人に限らず、武士、僧侶であっても疑わしい者を容赦無く検挙することが認められていたことから、苛烈な取り締まりによる誤認逮捕等の冤罪も多かった。市井の人々は町奉行を「檜舞台」と呼んだのに対し、火付盗賊改方を「乞食芝居」と呼び、一方の捜査機関たる町奉行所役人からも嫌われていた記録が見られ、こうした弊害を受けて元禄一二(一六九九)年には盗賊改と火付改は一度廃止されて三奉行(寺社奉行・勘定奉行・町奉行)の管轄となったが、元禄赤穂事件があった元禄一五(一七〇二)年に盗賊改が復活、博打改が新たに登場、さらに翌年には火付改も復活した。享保三(一七一八)年には盗賊改と火付改は「火付盗賊改」に一本化されて先手頭の加役となり、文久二(一八六二)年になると、先手頭兼任からも独立して加役から専任制になった(博打改は火付盗賊改ができた年に町奉行配下に移管)。以上はウィキの「火付盗賊改方」に拠った。

 

・「德山五兵衞」底本鈴木氏注に、『秀栄(ヒデイヘ)。享保九年本所火事場見廻、十八年御使番、布衣を許さる。延享元年御先鉄砲組頭、三年盗賊火付改、宝暦四年西城御持筒組頭、七年没、六十八。日本左衛門こと浜島庄兵衛が召捕となり、遠州見付で処刑されたのは延享四年三月であった』とある。

 

・「若手の頭人の敎けるは」の「若手」には底本には右に『(ママ)』表記する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『若年の頃人の教(おしえ)しは』で、すんなり読める。この部分はこのバークレー校版で訳した。

 

・「不給(たべず)」は底本のルビ。

 

・「五分」約一センチ五ミリメートル。

 

 

■やぶちゃん現代語訳 

 

 鰻は視力の良薬であるという事 

 

 宝暦の初め、日本左衞門(にっぽんざえもん)という知られた強盜がおり、その当時の火付盗賊改方徳山五兵衛殿に召し捕えられて御仕置と相い成った。

 

 その吟味の折り、同組与力の何某(なにがし)、

 

――日本左衛門は闇夜にてもはっきりと物を見ることが出来る

 

由を聞き、その日、夜間の訊問の折りから、吟味所(ぎんみどころ)の燈(ひ)をわざと消して暗くしておき、日本左衛門を引き出ださせると、吟味所の壁に掛けてある手鎖(てぐざり)や捕繩(とりなわ)なんどの数を訊いてみたところが、いささかの相違もなく正確に答えた。

 

 しかし、その与力、

 

「……うむ。しかしこれは……昼になした吟味の際、たまたま見覚えておったものでないとも限らぬ――」

 

と申した。

 

 すると日本左衛門は、

 

「――ではお近くにあるやに見えまするところの、その、訴状と思しい類いのもの――これ、どれでも一つ、お渡し下されい。――この場にてお読み申そうず……」

 

と言うたによって、与力は、訴状の中(うち)より、彼に読ませても問題のないものを選び出し、日本左衛門の前に差し出した。

 

 すると、彼は――燈火(ともしび)を照らして読むほどに流暢ではなかったものの――その一字一句を、これ、滞りのう、読み終えて御座った。

 

 されば、与力、

 

「……お主は、何ぞ、目に良き薬などを以って、その視力を養って参ったものか?」

 

と訊ねたところ、日本左衛門曰はく、

 

「……我ら、若き頃、さる人の教え呉れたことには、鰻をさわに食すれば、眼精(がんせい)は格別とのことで御座った。……我ら、それを守って御座ったとは申そうず。……その食い方と申さば、そうさ――例えば、月の朔日(ついたち)より八日までは、鰻をさわに食う――がしかし、その明けた九日よりは、逆に、断ち物同様、一切これを食わずにおくので御座る。少し具体に申さば――九日目の最初に、まず、何ぞ神仏へなりとも、これより鰻を断つ旨の祈誓を致いて、さても、それから七日ほどは一切、鰻を除いたものを食するので御座る。……もっとも、鰻の首の所は決して食い申さぬ。……そうさ、首より五分(ぶ)ほどの間にあるところの――俗に「肝」と申す――あそこは捨てて、尾先の方(かた)は末の末の部分まで、これ、綺麗に食べて御座る。……さても「鰻の肝」と申すを目の薬なんどと世間にては申しまするが……これは大いなる誤りにて――寧ろ、尾の先までは、これすべて、鰻の精気の凝り固まって御座るところなればこそ――尾先の方までは、随分、丁寧に、肉を残らず食うて御座った。……」

 

と申した由。

 

 その与力、これを聴いて――謂わば、日本左衛門の遺言のしきたりに倣って、鰻を絶えず食しては断ち、食しては断ちを繰り返してみたところが、人よりは眼が遙かにようなった――とは、その与力の子孫の者の語って御座った由。

 

 我らが知れる谷何某(なにがし)殿の物語りで御座った。

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