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2013/05/13

北條九代記 鎌倉怪異 附 北條義時藥師堂建立供養

もう……実朝の現世の時間は……残り僅かとなった……



      ○鎌倉怪異 附 北條義時藥師堂建立供養

同六月八日の夜、白虹(はくこう)、東方に見ゆ。片雲競(きそひ)集り、萬星希(まれ)なり。夜半に及びて、雨降りければ、虹は消えて跡なし。人々、恠(あやしみ)思ふ所に、又、同十一日、卯刻(うのこく)ばかりに、五色の虹立ちて、西方に見ゆ。上は黄にして次は赤し。その次は靑く、内のかたは紅梅の如し。その光、天地に映じて輝き、小時(しばらく)して黑雲(くろくも)一天に渡り、風、吹(ふき)起りて、後(のち)、雨降りたり。かゝる虹霓(こうげい)は前代にも傳へず、珍怪(ちんかい)の天變(てんぺん)なりと、諸人、私語(さゝや)きて、いかさま、世の中穩(おだし)かるまじき前兆かと思はぬ者はなかりけり。將軍家、大將に任ぜられ鶴ヶ岡にして拜賀の神賽(じんさい)行はる。參向(さんかう)の數輩(すはい)、各(おのおの)華美を盡す。庶民の費勞(ひらう)、幾何(いくばく)と云ふ事なし。同二十八日戌刻(いぬのこく)には、流星、乾(いぬゐ)の方より巽(たつみ)を指して飛び渡る。大さ滿月の如く光輝き、見る人、魂(たましひ)を消して怪みけり。同十月十日、實朝卿、内大臣に任ぜられ、大將は元の如し、同十三日尼御臺政子、三品を從二位に叙せらる。北條義時は右京〔の〕大夫に補(ふ)せられたり。將軍家、内大臣拜賀の爲に鶴ヶ岡に參り給ふ。壯観の裝(よそほひ)、美を盡さる。還御の後、義時休息して眠られける所に、夢ともなく現(うつゝ)ともなく、薬師如來の眷屬十二神將の中、戌神杜羅(いぬがみとら)大將來りて、義時に告げ宣(たま)はく、今年の神拜(じんはい)は事故なく共、來歳(らいさい)の拜賀の日は供奉せば、悔むべき者なり」と慥(たしか)に仰(おほせ)を蒙りて、夢は即ち覺めたり。奇異、更に明(あきら)めす。然るに、義時、壮年の比より、醫正善逝(ゐわうぜんせい)の誓願を仰ぎ、二六神將(じんしやう)の威力に歸し、信心を凝(こら)し給ふ所に、今この告(つげ)を蒙り給ふ。その事となく、大倉郷の南の山際に、一宇を建立して、藥師の像を安置すべしとて、指圖を出し、土木の功を勵(はげま)さる。各(おのおの)諫め申されけるは、「今年、將軍家、御神拜の事に依て、雲客(うんかく)以下、京都より參向(さんかう)あり。その間、御家人と云ひ、土民等(ら)と云ひ、財産多く費(ついえ)て、疲勞、此所(こゝ)に極り、愁(うれへ)痛みて未だ休(きう)せず。又、打(うち)續きて大造(たいざう)の營(いとなみ)を思召し立ち給ふ事、撫民政理(ぶみんせいり)の義なき歟」と申されければ、義時、仰せけるは、「是は一身安全の宿願なり。更に百姓土民の煩(わずらひ)を假(か)るべからず」とて、番匠を召(めし)て營作を催し給ふ。同十二月二日に、大倉郷新御堂、落慶供養あり。本尊の藥師如來は雲慶(うんけい)の造る所、烏瑟(うしつ)の髻(もとどり)には、萬德究竟(ばんとくくきやう)の光(ひかり)、明(あきらか)に、輻輪(ふくりん)の趺(あなうら)には、四智圓滿の相、濃(こまやか)なり。柔和(にうわ)の白毫(びやくがう)、眉間(みけん)に廻り、慈悲の靑蓮(しやうれん)、面貌(めんめう)に開く。供養の導師は、壯嚴房(しやうごんばう)律師行勇、呪願は(じゆがん)は園如房(ゑんによばう)阿闍梨遍曜(へんえう)、堂達(だうたつ)は頓覺房(とんかくばう)良喜なり。施主右京〔の〕大夫義時、夫婦簾中に座し、一族門葉の輩は正面の廣廂(ひろひさし)に座せらる。信濃守行光、大夫判官竹村以下の御家人等、結緣(けちwん)の爲に群參し、男女老少參詣の輩、袖を連ねて、市の如し。導師、高座に上りて供養の式を行ひ、宣説(せんぜつ)の辯を現(あらは)さる。されば、法雨を法界に降

くだ)して、災糵(さいげつ)の垢穢(くゑ)を洗ふには、醫王善逝(ゐわうぜんぜい)の威力、殊に勝れ、梵席(ぼんせき)に梵風(ぼんぷう)を扇(あふ)ぎて、短縮の壽命を延(のぶ)る事は、藥師如來の本願、最(もつとも)妙なり。藥草、藥樹の甘露、瀼々(じやうじやう)として、不老不死の靈方、幽々たり。説法、既に終(をはり)て、導師、座を下られしかば、布施物(ふせもつ)を積む事、山の如し。誠に殊勝の建立かなと、參詣の貴賤、隨喜の思を致されたり。

 

[やぶちゃん注:鎌倉の天変地異については「吾妻鏡」巻二十三の建保六(一二一八)年六月八日・十一日・二十八日を、実朝の左大将・内大臣叙任等の部分は同年正月二十一日、六月二十七日・十月十九日・二十六日を、義時が夢想によって大倉薬師堂(現在の覚園寺)を建立する一件は同年七月九日及び十二月二日に基づく。最後のそれは、私が義時の謀略の金のかかった大道具と断じるものである(私の昔の駄作「雪炎」など、お暇ならばお読みあれ)。

「北條義時は右京大夫に補せられたり」誤り。右京権大夫になったのは前年建保五(一二一七)年一月のことである。

「戌神杜羅大將」十二神将の対応には諸説あって招杜羅(しょうとら)大将は戌にも丑にも当てる。同様に別説では戌神は伐折羅(ばさら・ばざら・ばきら)大将(金剛力士)を丑にも戌にも当てる。因みに招杜羅ならば本地仏は大日如来、伐折羅ならば勢至菩薩である。

「烏瑟(うしつ)の髻」「烏瑟膩沙(うしちにしゃ)」のこと。仏の三十二相の一つ。仏の頂に多数突起している髻(もとどり)状の肉髻(にくけい)を指す。

「輻輪の趺」「輻」は車輪の中心部の轂(こしき)から放射状に並んだ「や」(矢)のことで「輻輪」は車輪やそれを象った武器や装飾品及び文様を指す。ここはその紋様が印されているといわれる如来の「趺」、足の裏のことを指す。やはり、仏の三十二相の一つ。

「靑蓮」青蓮華(しょうれんげ)青色の蓮華の意であるが、仏菩薩の目の譬えである。

「廣廂」広庇とも書く。寝殿造りで庇の外側に一段低く設けた板張りの吹き放しの部分。この外側に簀子縁がつく。広縁。広軒(ひろのき)。

 

以下、義時の大倉薬師堂建立の顛末を「吾妻鏡」で見る。まず七月九日の条。実朝の直衣始(のうしはじめ:関白や大臣などが勅許を受けて初めて直衣を着用する儀式。「ちょくいはじめ」ともいう)の儀が鶴岡八幡宮で行われた翌日の記事である。

○原文

九日戊寅。晴。未明。右京兆渡御大倉郷。於南山際。卜便宜之地。建立一堂。可被安置藥師像云々。是昨將軍家御出鶴岳之時被參會。及晩還御亭。令休息給。御夢中。藥師十二神將内戌神來于御枕上曰。今年神拜無事。明年拜賀之日。莫令供奉給者。御夢覺之後。尤爲奇異。且不得其意云々。而自御壯年之當初。專持二六誓願給之處。今靈夢之所告。不可不信仰之間。不及日次沙汰。可被建立梵宇之由被仰。爰相州。李部等不甘心此事給。各被諫申云。今年依御神拜事。雲客以下參向。其間。云御家人。云土民等。多以費産財。愁歎未休之處。亦被相續營作。難協撫民之儀歟云々。右京兆。是一身安全宿願也。更不可假百姓之煩。當矧八日戌剋。有醫王善逝眷屬戌神之告。何默止所思立乎之由被仰。仍召匠等。被下指圖也。

○やぶちゃんの書き下し文

九日戊寅。晴る。未明、右京兆、大倉郷に渡御す。

「南山(なんざん)の際(あひだ)に於いて、便宜(びんぎ)の地を卜(ぼく)して、一堂を建立し、藥師像を安置せらるべし。」

と云々。

是れ、昨(きのふ)の將軍家鶴岳へ御出の時、參會せられ、晩に及びて御亭へ還り、休息せしめ給ふ、御夢中に、藥師十二神將の内、戌神(いぬがみ)、御枕上(まくらがみ)に來たりて曰はく、

「今年の神拜は無事、明年の拜賀の日、供奉せしめ給ふこと莫かれ。」

てへれば、御夢、覺(さ)むるの後、尤も奇異と爲す。且つは其の意(こころ)を得ずと云々。

而るに御壯年の當初(そのかみ)より、專ら二六の誓願を持ち給ふの處、今、靈夢の告ぐる所、信仰せざるべからずの間、日次(ひなみ)の沙汰に及ばず、梵宇を建立せらるべきの由、仰せらる。爰に相州・李部等、此の事を甘心(かんしん)し給はず、各々諫じ申されて云はく、

「今年は御神拜の事に依て、雲客(うんかく)以下、參向(さんかう)す。其の間、御家人と云ひ、土民等と云ひ、多く以つて産財を費し、愁歎未だ休まずの處、亦、營作を相ひ續けらる。撫民の儀に協(かな)ひ難きか。」

と云々。

右京兆、

「是は一身の安全の宿願なり。更に百姓の煩ひを假(か)るべからず。當つて、矧(いはん)や八日戌の剋、醫王善逝(いわうぜんぜい)の眷屬戌神の告、有り。何ぞ思ひ立つ所を默止せんや。」

の由、仰せらる。仍つて匠(たくみ)等を召して、指圖を下さるるなり。

・「南山の際」御所からの位置関係に於いて、これは南の山の意味ではあり得ない(現在の覚園寺は北に当たる)。従ってこれは、私は南山の別称を持つ「あずち」(堋・安土・的山(まとやま)・射(あむつち))、即ち、御所内の弓場の、的をかけるために土または細かい川砂を土手のように固めた盛り土のことを指すのではないかと思う。陰陽道に則って地を占うには相応の広いハレの場所が必要であり、弓場はそれに相応しいように思われる。識者の御教授を乞う。

・「醫王善逝」薬師如来を意味する漢訳語の一つ。「醫王」は優れた医師で、衆生の病いとしての無明煩悩を癒すために法薬を与える仏を医師に譬えたもの。「善逝」は仏・如来の意。

ここで問題なのは、幕府財政が逼迫している中での、しかも彼以外の要人で肉身である姉政子・弟時房・長男泰時に至るまで、悉くが反対している中で、義時独りがすこぶる個人的な希求から薬師堂建立を訴えている点にある。私には如何にもな霊験譚を事前に作為するための見え見えのものとしか思われないのである。

 

次に建保六(一二一八)年十二月二日の条。

○原文

二日庚子。晴。右京兆依靈夢所令草創給之大倉新御堂被安置藥師如來像。〔雲慶奉造之。〕今日被遂供養。導師莊嚴房律師行勇。咒願圓如房阿闍梨遍曜。堂達頓覺房良喜〔若宮供僧。〕也。施主幷室家等坐簾中。相州。式部大夫。陸奥次郎朝時被坐正面廣廂。信濃守行光。大夫判官行村。大夫判官景廉已下御家人爲結緣群參。源筑後前司賴時。美作左近大夫朝親。三條左近藏人親實。伊賀左近藏人仲能。安藝權守範高等爲布施取。各參候于堂南假屋。戌剋事終。導師已下被引御布施。

〇やぶちゃんの書き下し文

二日庚子。晴る。右京兆、靈夢に依つて草創せしめ給ふ所の大倉新御堂、藥師如來像を安置せらる〔雲慶、之を造り奉る。〕。今日、供養を遂げらる。導師は莊嚴房律師行勇、咒願は圓如房阿闍梨遍曜、堂達は頓覺房良喜〔若宮の供僧。〕なり。施主幷びに室家等、簾中に坐す。相州・式部大夫・陸奥次郎朝時、正面の廣廂(ひろびさし)に坐せらる。信濃守行光・大夫判官行村・大夫判官景廉已下の御家人、結緣の爲に群參す。源筑後前司賴時・美作左近大夫朝親・三條左近藏人親實・伊賀左近藏人仲能・安藝權守範高等、布施取りとして、各々、堂の南の假屋に參候す。戌の剋、事、終はり、導師已下に御布施を引かる。]

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