〇公右大臣に任ず 付 拜賀 竝 禪師公曉實朝を討つ 全現代語訳
■やぶちゃん現代語訳(各パートごとに分けてそれぞれにオリジナルな標題を附し、御列記載は「吾妻鏡」の記載方式に准じた。誤りと思われる部分でもそのまま訳した。但し、一部に敷衍訳を施してある)
〇実朝公右大臣に任ぜらる事
付けたり 同拝賀の式の事
並びに 同拝賀の式にて、禅師公暁、実朝を討つ事
〈右大臣叙任の段〉
同建保六年十二月二日、将軍実朝公は、遂に正二位右大臣に任ぜられた。
「明年正月には、鶴ヶ岡の八幡宮に於いて、右大臣拝賀の儀を執り行なう」と決し、同拝賀の式次第奉行として大夫判官二階堂行村が、これを承って、供奉(ぐぶ)の随兵以下の人員及びその選抜をお定めになられる。
御装束及び御牛車以下の調度類はその総てが仙洞御所の後鳥羽院様より下し賜わられた。
右大将故頼朝卿の右大将拝賀の御時に随兵を定められた際には、かねてより代々、将軍家に仕えた勇士にして、弓馬の達人であって、且つ、容姿端麗なることという、三徳を兼ね備えた者を選んで、拝賀の供奉をお勤めさせなされた。――あの頃は、まっこと、古き良き時代で御座った。……
しかるに――この度は世も移り変わったとは申せ、この三徳兼備とは言い難き者も含まれて御座った――まあ、それは謂うまい……ともかくも、
「この度の右大臣拝賀の儀は、これ、関東にては未だ例(ためし)なき晴れの儀式である。」
ということなれば、早い時点に、あらかじめ、その参加すべき人員の選抜を行われ、お定めになられた。
建保七年正月二十七日のこと、今日はまさに儀式を執り行うに相応しき吉日なり、とのことなれば、
――将軍家右大臣御拝賀の式は酉の刻――
との触れられて御座った。
〈右大臣拝賀行列の段〉
拝賀の路次(ろし)の行列の装備は華麗荘重にしてしかも厳重である。
まず、
居飼(いかい)四人
舎人(とねり)四人、
次に、一員(いちいん)は二列に連なって、
将曹(しょうそう)菅野景盛・府生(ふしょう)狛(こまの)盛光・将監(しょうげん)中原成能(なりよし)
の三名が束帯で続いている。
次に、殿上人、
一条侍従能氏(よしうじ)・伊予(いよの)少将実雅(さねまさ)・中宮権亮(ごんのすけ)信義以下の五人
が各々、随身四人を伴っている。
次に、
藤勾当(とうのこうとう)頼隆以下、前駆(まえがけ)の十八人
が二列を組んで進む。
次に、官人、
秦兼峰(はたのかねみね)・番長下毛野敦秀(なんちょうしもつけのあつひで)。
次に、
将軍家実朝卿。
将軍家の御乗物は檳榔毛(びろうげ)の牛車。
車副(くるまぞえ)四人、
扈従(こじゅう)は坊門大納言忠信卿。
次に随兵十人、
皆、甲冑を帯びている。
次に雑色(ぞうしき)二十人、
検非違使(けびいし)一人、
その検非違使の供奉として、
調度懸(ちょうどがけ)一人、
小舎人童(こどねりわらわ)一人、
看督長(かどのおさ)二人、
火長(かちょう)二人、
放免(ほうめん)五人。
次に、将軍家御調度懸、
佐々木五郎左衛門尉義清
次に、随身(ずいじん)六人。
次に、
新大納言忠清・宰相中将国道以下
公卿五人
が、各々、前駆と随身を伴う。
次に、
受領(ずりょう)の大名三十人。
行列掉尾には、
路次(ろし)の随兵一千騎
が、それぞれに花を飾り、色鮮やかに着こなして、道中辻々警護を厳しく致して、御所より鶴岡八幡宮まで、大河の如くにねり廻り出でて赴き遊ばされる絢爛は、とても想像だにし得ず、また、筆舌にさえ尽くし得ぬほどのもので御座る。
「前代にもかくなる盛大なる儀式は例(ためし)、これなく、後代にも二度とはあるまじい。」
とて、貴賤上下の見物人は、なおますます膨れ上がって、立錐の余地もないほどで御座る。
道中の路次(ろし)は両側ともに何処(いずこ)も混み合って、その中でも特に押し合いへし合いしおる場所にては、
「万一、乱暴狼藉等、出来(しゅったい)致いては。」
と、警備の兵どもが駆け回っては騒ぎを静めるのに躍起で、落ち着いている暇もない。
〈鶴岡八幡宮社前の段〉
まさに拝賀の行列が鶴岡八幡宮寺の楼門にお入りにならんとした、丁度その時、右京大夫(うきょうのだいふ)義時殿、俄かに御気分が悪くなられ、御剣持(みけんもち)を仲章朝臣殿に急遽、譲られて退出なされる。
〈右大臣拝賀の段〉
右大将実朝公は小野の御亭より八幡の社前に参向なされ、夜に入って、参拝の儀式を終えられ、楽人(がくじん)が楽を奏し、祝部(ほうり)が鈴を持って鳴らしつつ最後に、実朝卿に右大臣の拝賀に際しての心構えや禁制と思しい神の思し召しをお伝え申し上げた。
〈鶴ヶ岡石階(いしだん)の段〉
上宮(かみのみや)での式次第を滞りなく終えられ、二尺ほども積もった雪の中、清浄に雪の除かれた社前の道をお下りになられた。
その時、当八幡宮の別当、阿闇梨公暁殿、秘かに下る石階(いしだん)の辺りにて隙を覗い、ぱっと飛び出でたかと思うと、剣を抜き放って、右大臣実朝公の首を一太刀に打ち落とした。
――白き雪に真っ紅な血の華が飛び散った……
……公暁殿は、その御頭(みぐし)を乱暴に引っ提げると、電光の如、素早く逃げて行方を眩ました。
〈鶴岡境内の段〉
闇夜の混乱の中、武田五郎信光を先頭に、大声を張り上げては互いに味方を確認し合いつつ、随兵らが四方八方へ走り散って、逃げた賊を探し求めたが、暗中の模索なればこそ、一体、実朝公暗殺、これ誰人(たれびと)の仕出かしたことかさえも相い分からぬ。
〈別当本坊の段〉
暫くして、
「――これ、別当坊公暁の所為じゃ!――」
と、誰ともなく口に出し、それが知れ渡ったによって、別当職となれば! とて、雪ノ下の公暁の本坊に方々、押し寄せてはみたものの、公暁殿はおわさぬ。
〈鶴岡社頭の段〉
かくも盛大荘厳であった行列の順列なんども、これ、みるみるうちに乱れに乱れ、公卿・殿上人は裸足のままに逃げ惑い、束帯の冠なんども脱げてどこぞに落ち失せる。
一千余騎の随兵らは、皆、馬手(めて)を絞って馬を廻しては馳せ、雲霞の如くなだれ込んで来る。
暗夜の騒擾なれば、逃げ遅れ、前へと突き出だされた貴賤を問わざる見物の人々は、これ、多くが兵馬に踏み殺され、或いは鎮圧のために不用意に抜き振られた太刀に打ち倒されて、これ、鎌倉中、目にも心にも全き闇(やみ)と相い成って、
「……これは……そ、そもそもが……一体、何が如何(いかが)致いたことなるぞ!?」
と、人々は魂消(たまげ)、ただただ呆然とするばかりであった。
〈三浦屋敷の段〉
その頃、公暁禅師は後見人であられた備中阿闍梨殿の雪ノ下の坊にお入りになっていた。
ともかくもと、ともにここまで連れ逃げて参った乳母子(めのとご)の弥源太兵衛尉(みげんたひょうえのじょう)を使者として、三浦左衛門尉義村殿に仰せ遣わせられた御消息には、
「……今は以って将軍の官職は欠員となった。我は関東の武門棟梁のの嫡孫である。速やかに将軍職就任への企計を廻らすがよい――ともかくも委細面談の上――」
とあった。
なお、ここで何故三浦義村殿の元へ消息を送って事後を頼んだのかと申せば、義村の子息 である駒若丸は、かの公暁殿の門弟であったればこそ、その好(よし)みを頼んで、かくも言いやられたので御座った。
さて、義村、これを聞いて、
「――まずは――拙宅へと来たり給え。――御迎えの護衛の兵士を追っ付け、差し向けますれば――」
と返答して、使者の弥源太をば帰し、そのそばから直ちに右京大夫義時殿に、以上の経緯を急告致いた。
そうして――義時邸からの返事は――これ――「左右(そう)なく誅し奉るべし」――で御座った。――
そこで義村は、
「……公暁は並みの人物にては、これ、御座ない!……武威も蛮勇も兵法も功者なればこそ……そう容易くは我らが謀りごとには載って参るまい。……」
と評議一決、彼に劣らぬ蛮勇にして精悍なる武士を選び、長尾新六定景を大将として、万全の誅殺部隊を組織して討手(うって)として備中阿闍梨の坊へと直ちに向けられた。
〈鶴岡後背大臣山峰の段〉
定景は黒皮縅(くろかわおどし)の鎧を着し、無双の大力を誇る強者(つわもの)雑賀(さいか)次郎以下、郎従五人を引き連れて、公暁のおわす備中阿閣梨の坊へと向かう。
公暁殿はと言えば、三浦の兵の迎えの来ぬに痺れを切らし、指示通り鶴岡の後ろの峰に登って、そこから間道を義村の家の方へを迂回して向かおうとなさっておられたが、まさしくその途次にて、長尾定景と行き合った。
公暁殿は定景に尋常ならざる気配を見抜きはした。――が――しかし――それは遅過ぎたのだった。
定景、太刀をすかさず抜き取り、あっと言う間に御頭(みぐし)を打ち落とし申し上げたのであった。
その場で探り見ると、公暁殿は、素絹(そけん)の法衣の下に腹巻(はらまき)をしっかりとなさっておられた。
長尾は、そこで公暁の御頭を持って馳せ帰って、三浦義村、そして北条義時とがこれを実検した。
〈大江広元の証言〉
前(さき)の大膳大夫(だいぜんのだいふ)大江広元入道覚阿殿の語り。
「……今日の恐るべき出来事は、拙者には何か、かねてより予感さるるところが、これ、御座ったように思わるる。……今朝、将軍家が御所を御出立するの時に臨んで、我ら、直(じき)に申し上げたことには、
『……この覚阿、成人してよりこの方、今日(こんにち)に至るまで遂に、涙の面(おもて)に浮かびしことは、これ、一度として御座らなんだ。……しかるに、只今――御前に参って――かくもしきりに涙の出ずる……これ、ただ事とも思われませぬ。――定めて、何か深い因縁のあるものかとも存じ奉る。――さればこそ――東大寺供養の砌り、右大将家の御出座の際の先例に倣い、御束帯の下に腹巻を御着帯下さいまするように――』
と申し上げたのであった。ところが、その場にあった、かの将軍家とともに右京兆(うきょうのちょう)殿の身代わりとして亡くなられた源仲章朝臣殿が、
『――大臣・大将に昇った人にあっては未だ嘗て腹巻を着帯なされたという例式は、これ、御座らぬ。』
と口を挟まれた。
されば、その仲章殿の一言によって、その腹巻の着用は沙汰止みとなったて御座ったのじゃ。……
また、御出立の直前には、宮田兵衞尉公氏(きんうじ)が御調髪をし申し上げて御座ったが、その折り、実朝公は、自ら御自身の鬢(びん)の御髪(みぐし)を一筋お抜きになられ、
『――これを形見に――』
とおっしゃっられて、公氏にお授けになられ、そうして……次に、縁端(えんばな)へとお歩み寄りになられると庭の梅をご覧になられ、
出ていなば主なき宿となりぬとも軒端の梅よ春を忘るな
――私が出で去ってしまったならば……
――この宿居は主人(あるじ)がおらぬ屋敷となって……
――誰からも忘れ去られてしまって浅茅が宿と化すにしても……
――しかし……そうなったとしても……
――お前、軒端に美しく咲く梅よ、……
――この世の春を……忘れずに……
――いつまでも……咲いて……いよ……
とお詠みになられた。……
その他にも、例えば、南門を出られ際には、白き霊鳩(れいきゅう)がしきりに鳴き騒ぎ、また、鶴岡社頭にて牛車よりお降りになられた時には、お佩きになられておられた礼式の御剣(ぎょけん)を突き折られてしまわれるなど……これ、禁忌に触るる、不穏にして不吉なる出来事が、まっこと、多くに御座った。……返す返すも……我らさえ、後悔致いておるところにて御座る。」
と語られたと申す。
〈葬儀埋葬次第〉
その日の内に、故将軍家御台所坊門信子(ぼうもんのぶこ)様が落飾なされる。
御家人百余名も、これ、同時に出家致いた。
翌二十八日、御葬礼を営まんとしたが、御頭(みぐし)は未だに御所在、これ、不明なれば、
「五体不具のままにては、葬送の事、甚だ、差支え、これ、あり。」
とのことなれば、昨日、公氏に賜わられたところの鬢(びん)の髪一筋を、これ、御頭(みぐし)と擬(なぞら)えて、棺に納め申し上げ奉り、勝長寿院の傍らに葬り申し上げたは、……ああぁ! これ、何たる、哀れなるかな!……
その初め、建仁三年に実朝卿の将軍に任ぜられなさってよりこのかた、今年に至るまで、治世十七年、御年二十八歳にして白刃の一閃に中(あた)って黄泉(こうせん)へとう埋もれなさって、人間(じんかん)を辞して幽冥の途次(とじ)へと隠れになられ、紅いの華麗な花の如き栄華も、瞬く間に、枯れ落ち朽ち尽きてしまわれた。
頼朝公・頼家公・実朝公――これを源家三代将軍と称す。その治世の間、合わせて四十年。公暁殿は頼家公の子息にて、四歳にして父に死に別れ、この年、未だ十九歳、僅かの間(ま)に亡んでしまわれたのであった。――
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