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2013/05/19

栂尾明恵上人伝記 26

この明恵の手紙文、比喩が面白い。悟りを糞で比喩するというのはカッキ的である。



上人の御消息に云はく、〔遣はされる處、未だ之を勘へ出さず、或る人云はく湯淺權守の許へと云々。〕[やぶちゃん注:「勘へ」は「かんがへ」と読む。宛先が不明であることをいう。以下の明恵の言葉は、底本では全文が一字下げである。]

如來の在世に生れ遇はざる程に、口惜しき事は候はざるなり。我も人も、在世若しくは諸聖(しよしやう)の弟子迦葉・舍利弗・目連等のいませし世に、生れたらましかば、隨分に生死の苦種(くしゆ)を枯らし、佛道の妙因を植ゑて、人界に生れたる思ひ出とし候べきに、如來入滅の後、諸聖の弟子も皆失せ給へる世の中に生れて、佛法の中において一(いつ)の位を得たることも無くて、徒に死する程悲しき事は候はず。昔佛法の盛りに流布して候ひし世には、在家の人と申すも皆或は四菩提の位を得て、近く聖果(しやうくわ)を期するもあり。或は見道(けんだう)と云ひ、無漏(むろ)の智惠を起して三界の迷理(めいり)の煩惱を斷ち盡して、預流果(よるか)と云ふ位を得るもあり、或るは進みて欲界の六品の修惑(しゆわく)を盡して、一來果(いちらいくわ)と云ふ位を得るもあり。是までは在家の人も得る位なり。此の位に至りぬれば、欲界の煩惱を斷ち盡して、不還果(ふげんくわ)と云ふ位を得て、其の次に色界・無色界の煩惱を斷ち盡して、阿羅漢果(あらかんくわ)を得るなり。或は隨分に修行して菩薩の諸位に進むもあり。人間界に生れたらば、此の如き所作を成したらばこそいみじからめ、煩惱惡業にからめ纏(まと)はれて徒に老死にするは、何事にも合はずしてのどかに老死にに死ぬとても、思ひ出であるにも候はざるなり。皆前の世に業力(ごふりき)の催し置きたるに隨つて、今生安くして死ぬる樣なれ共、さりとても、やがて進みて生死を出でて佛に成らんずるにてもなし。只靜かに飯打ち食つて、きる物多くきて、年よりて死ぬる事は、犬・鳥の中にもさる物は多く候なり。今生(こんじやう)安きと云ふも、又實にも非ず。只覺りも無くして、淺間しく穢(きたな)き果報、骨肉を丸がし集めたる身の、流るゝ水の留ることなきが如くして、念々に移り來て生れ出で來ては死なんずることの近付なる間、其の程の月日の重なるに隨つて、一より二に至り、二より三に至る間を、盛(さかり)なると云ひていみじく悦べども、覺り深き聖者の前には、有爲(うゐ)の諸行は轉變無常なりと云ひて、是を大なる苦しみとせり。年若く盛なりと雖も、誇るべきにあらず。喩へば遠き道を行くに、日の午の時に成りぬれば、日盛(さかり)なれども、巳に日たけぬと云ふが如し。午の時程なく過ぎ行きて、日の暮れんことの近付くなるが故に、日盛りなりとても憑(たの)むべからず。若き齡常ならず。念々に衰へ行きて終に盡くることあり。念々生滅の苦しみは、上界の果報も下界の果報も、皆同じ事なり。惣じて有爲の諸法の中心はこき味のなきに、凡夫愚((おろか)にして、嗜みて味を求む。三界の中に眞の樂みなし。凡夫迷ひて苦しみの中に於てみだりに樂を求む。喩へば火の中に入りて凉しきことを求め、苦(にが)き物の中に於て甘きを求めんに、惣(そう)じて得べからざるが如し。凡夫無始(むし)より以來、生るゝ所ごとに夢の中の假(かり)の身を守りて、幻(まぼろし)の如くなる樂を求むれども、生死海の中に本より樂なければ、得たることもなくして、終に苦しみ、愁の中にのみ沈みて、安き事なし。さればかゝる果報を厭はずしては、惣じて安き事を得べからざるなり。佛、是を悲みて、諸行は無常なり皆悉く猒離(おんり)せよ、と勸め給へるなり。法華經に云はく、世(よ)皆(みな)牢固(らうこ)ならず、水沫泡炎(すいまつほうえん)の如し、汝等咸(ことごと)く應に(まさ)に疾(はや)く猒離の心を生ずべしと。此の文の意(こころ)は、世間は皆破れ行く物なり。水に聚(あつま)れる沫(あわ)の如し。此(かく)の如くあやふき世間の中に於て樂の思ひを成すこと勿れ、皆猒離すべしと云へるなり。世間無常なりと云ふことは只此の人間の果報のみにあらず。惣じて四靜慮(じやうりよ)・四無色界(むしきかい)の諸天も、皆行苦(ぎやうく)の悲みを離れず、有頂天の八萬劫の果報も皆念々生滅の苦しみを離れたること無きなり。一人在りて、一室の床の上に眠りて千萬の苦樂の境界を夢に見れ共、夢中の事は皆うつゝの前には無きが如し。根本無明(こんぽんむみやう)の眠(ねむり)深くして、動轉四相(どうてんしさう)の夢の念を起す。其の中の苦樂の境界(きやうがい)は皆實ならざるなり。かゝる處にかゝる果報を受けたれば、惣じて愛着(あいじやく)する所なけれども、凡夫無始生死より以來、性體(しやうたい)も無き煩惱業苦(ぼんのうごふく)の中に於て我(が)・我所(がしよ)、執(しふ)して分別(ふんべつ)深くして、はかなく假(かり)の身を惜しみ、露の命を守ることたえず。地獄・餓鬼・畜生は淺ましき果報なれども、其も皆我が果報を惜しむことは同事なり。如來態(わざ)と世に出で有りのまゝに道理を説きて、生死を出でよと勸め給ふ。跡形(あとかた)もなき緣なる相續(さうぞく)の假(かり)なる法を執(しふ)して、我・我所とすること勿れ。此の所は只苦のみ多し。是に居たらん限りは苦患(くげん)たゆべからず。かゝる苦しみの境を、捨て離れよと教へたまへり。かゝる果報を受けたるは悲みなれども、快きかなや、我等無明の卵殼(らんごく)未ださけずと雖も、幸いに佛の御法(みのり)の流布せる世に生れ遇ひて、終に生死の苦患を盡して、佛果無上(ぶつくわむじやう)の樂を得んずる期在りと云ふことを知りぬ。大なる悦(よろこび)をなすべきなり。亦、生死の苦しみは、我が受くる果報なれども、無明の睡眠(すゐみん)の醉(ゑひ)深くして、此の果報の拙(つたな)く苦なることをも悟らず。大聖慈父無上大覺世尊(だいしやうじふだいがくせそん)世に出でて慇(ねんごろ)に教へ給へり。教への如くに猒(いと)ふべし。愚なる者の思ふべき樣は、諸行無常、有爲皆苦(うゐかいく)の道理は、佛の教ならずともなどかは悟らざるべき。華開きては必ず散り、果結びては定めて落つ。盛なる者は衰へ、生ある者は死す。是等は無常なり。亦打縛殺害(だばくせつがい)等の不可意の心に叶はぬことあり。是は苦なりとなどかは知らざらんなど思ひつべきことなれども、凡夫は一分の覺りもなし。只無始薫習(むしくんじう)の妄識種子(まうしきしゅじ)より現行(げんぎやう)の識體(しきたい)おこり、妄りに虛妄(こまう)の境界(きやうがい)を分別(ふんべつ)して、境界に於て、妄識の動轉(どうてん)するを以て凡夫の分別と名づけたり。是は酒に醉ひたる時の人の狂へる心の如し。眞(まこと)の覺りにあらざるなり。去れば、諸法の實理(じつり)におきては實の如く分別することなきなり。位(くらゐ)無餘(むよ)に入りぬれば、二乘(じじやう)の聖者(しやうじや)すら、猶(なほ)變易微細(へんやくみさい)の苦を知らずして、増上慢(ざうじやうまん)のとがに堕ちぬ。況や凡夫、實の如く如來所知(によらいしよち)の法印を知るこ難かるべし。又諸の外道論師(げだうろんじ)の中に教法あり。其の中にも分々(ぶんぶん)に常(じやう)・無常(むじやう)等の道理をば説けども、其も佛法の實理をば究めずして、或は無想天(むさうてん)を計(けい)して實(まこと)の解脱處(げだつしよ)とし、或は眞義(しんぎ)を立てゝ常住(じやうじゆう)の體(たい)とす。我が本師釋尊の説き給ふ、諸行無常の法印の道理は、三界所繫(さんがいしよけい)の法皆是れ無常なり。一法として常住なるはなし。亦皆悉く實ならざるが故に、一法として苦に非ざるはなきなり。涅槃は寂靜なり。若し人是を證しつれば、即ち法身(ほつしん)の體(たい)を得、又退(たい)することなし。彼の外道論宗(げだうろんしゆう)の中に、冥性(めいしやう)に歸して後、猶返りて衆生と成ると云ふには同じからず。此の如きの正見(しやうけん)は、佛法の力を離れては爭(いか)でか發(おこ)すことを得べき。さればこの諸行無常の道理一を聞きたりとも、無量劫(むりやうこふ)の中の思ひ出でとすべし。昔大王ありき。身に千の穴をゑりて、油を盛りて火を燃(もや)して婆羅門を供養して、此の道理を聞き給へりき。聖教に説きて云はく、若し人生きて百歳にして生滅の法を解(げ)せざらんよりは、如かず、生きて一日にして而して之を解了(げりやう)することを得んにはと。實に朽木(くちき)の如くして何(いつと)なく生(い)けらんよりは、覺り深くして一日生けらんに比ぶべからざるなり。巳に佛の御教(みをしへ)を受けて、有爲(うゐ)の果報は皆(みな)苦(く)なりと知りなば、速に是を捨離(しやり)すべき思ひをなすべし。我等無始より以來生死に輪廻せし間、此の身を痛(いた)はり惜みんで相離れず。徒に苦患(くげん)の中に沈み、妄(みだ)りに樂を求む。喩へば敵(かたき)を養ひて家に置いて、常に敵に惱まされんが如し。早く生死の果報を思ひ捨てゝ佛の位を求め賴むべし。かゝる果報を捨てずば、生々世々の中に苦みの多かるべし。佛の眞實の利益(りやく)は、只是の果報を捨てしめて、大涅槃の樂を與へ給ふなり。有爲生死界の中に於て、衆生の願に隨ひて、隨分に命をのべ官位を與へ給ふと云ふとも、其は只人の願ふことなれば、假令(かりそめ)にすかしこしらへて、其の心をゆかしめて終には佛になさんが爲に、暫く與へ給へども其れを終(つひ)の利益にして、さてやみ給ふ事は無きなり。終には必ず有爲生死の境をこしらへ出して、我と等しき無上の樂を與へ給はんとなり。されば今生(こんじやう)の事に於ては宿報決定(しゆくはうけつぢやう)して、佛菩薩(ぶつぼさつ)の御力も及ばせ給はぬことあれども、一度も佛を緣として心を起して名號をも念ずる功德(くどく)は、必ず有爲生死の中にして朽ちやむことはなきなり。喩へば人の食物は必ず米一粒も栗(くり)柿(かき)一顆(くわ)にても、腹中に入りぬれば、定めて屎(し)となりて腹を通りて出づるが如し。佛の處に於て作る功德は、小さきも大なるも、必ず有爲煩惱の腹を通りて、終に生死を盡す極めとなるなり。名聞利養(みやうもんりやう)の爲に作る功德も終には佛の種(たね)となるなり。されば佛菩薩の利生(りっしやう)によりて現世の願を滿てたりと云ひても、是に依(よつ)てさてやまんずるにてもなし。喩へば幼き赤子愚(おろか)にして土塊(つちくれ)を翫(もてあそ)びたがるには、其の父母慈(いつくし)み深き故に、土塊をば寶とは思はねども、赤子の心をゆかさんが爲に、暫く士くれを與へて其の心をゆかす。後におとなしく成りて實の銀金(しろがねくがね)など云ふ寶を與ふるが如し。終に土くれを翫ばしめてさてやむことはなきなり。只一向(ひとむき)に諸法の眞實の因果は只佛のみ知り給へり。我等が思ひ計るべき處に非ずと信じて、其の心に道理を失はず、生々世々に必ず無理なる果報をば得べからざるなり。亦、頻婆婆羅王(びんばしやらわう)、佛を深く念じ奉りしに依て、忽に七重(なゝへ)の室を出でざれども、如來の光明に照らされて不還果(ふげんくわ)を得たりき。打ちまかせて人の思へるは、如來の神力、などか七重の室を破りて、彼の王を取り出し給はざりしと。然れども諸佛慈悲はたゆることなけれども、三惡道の果報充滿せり。實に諸法の因果の道理は佛の始めて作り出し給へるにも非ず。慈悲深くいますとても法性(ほつしやう)を轉變し給ふべきにあらず。佛の自らの位も皆無量の功德の造り成せる果報なり。因果の道理を破りて推してし給へるにもあらず。只一切世間の所歸依(しよきえ)の處として、衆生の爲に増上緣(ぞうじやうえん)となりて、苦を拔き樂(らく)を與へ給へり。頻婆婆羅王、七重の室を出づべからざりし、因緣難ければ、室を出でずといへども、佛の御力にて斷ち難き欲界の煩惱を斷ち盡して、出で難き欲界を出で、登り難き聖位に登る事を得たり。さりとて佛の位に自在ならざる事のあるにはあらず。凡夫有相(ぼんぷうさう)の分別の前の苦樂の境界は、皆善惡の有漏識(うろしき)の種子現行(しゆじげんぎやう)するが故に、事理(じり)の二位深く隔たり、假實(けじつ)の差別同じからずして、病などするに橘の皮を煎じて飮むには其の病愈ゆることあれれども、經を誦し佛を禮するには愈えざるが如し。皆、無始より以來虚僞(こけ)の妄執深くして、眞理を隔て正智を遠ざかりしに依て、増上の意樂(いげう)を起さざれば、眞法は身に合ひ難きなり。喩へば夢の中に羅刹(らせつ)の姿を見て恐れをなさんに、傍に人有りて此の事を證知(しようち)して、是は羅刹に非ず、恐るゝこと勿れといへども、此の眠らん者の恐れやまじ、只自ら夢の中に、此の羅剃走りぬと見ば、其の恐れやむべし。傍に人有りて實事を示せども、睡覺めての位異なるが故に聞くことなし。眞妄實躰(しんまうじつたい)同じからざるが故に、其の恐れやまず、自ら夢の中にして、羅刹の姿實ならざれども恐れ深し。羅刹の逃げ去りぬるも實ならざれども悦びあり。一種性(いつしゆしやう)の心(こゝろ)相續して起るが故に、不同類(ふどうるい)の心現行(げんぎやう)せざるが故なり。されば善根に串習(げんじふ)せし人などの、増上の意樂(いげふ)を起して經卷を讀誦し佛を念ずるに、現前の災障(さいしやう)を破りて怨敵(ゑんてき)をも降伏(がうぶく)することのあるは、此の人の心力、道理に融(ゆう)するが故に、自ら發(おこ)す所の善根の相用(さうゆう)、佛の増上緣力を感ずるが故に、速疾(そくしつ)の利益は有るなり。是も此(かく)の如くなるべき道理をあやまたざるなり。惣じて諸法の中に道理と云ふものあり。甚深微細(じんじんみさい)にして輙(たやす)く知り難し。此の道理をば佛も作り出し給はず、天・人(にん)・修羅等も作らず。佛は此の道理の善惡の因果となる樣(やう)を覺(さと)りて、實の如く衆生の爲に説き給ふ智者なり。諸佛如來、衆生の苦相を觀じて、利益方便(りやくほうべん)を儲(まう)け給ふ事隙(ひま)なし。人こそ愚にして、俄に病などの發りたるをば、苦みと思ひて、自ら苦聚(くじゆ)に埋(うづ)もれたるをば知らず。喩へば犬のよき食物をば得ずして屎を食はんとするに、こと犬の來て屎を奪つて食せしめざるをば苦と思ひて、屎を食ひ得つれば樂(らく)の思ひをなして、自らの果報のあさましく、心拙(こゝろつたな)きをば苦しみと思はざるが如し。是は其の心拙くして苦聚の中に埋もれたるをば知らざるなり。諸佛如來の衆生を緣として、大悲を發し給ふ事は、必ずしも病などするを絲惜しがり給ふにもあらず。有爲有漏(うゐうろ)の業果(ごふくわ)の境界を出でずして、はかなく愚なるを深く哀み給ふ。されば定性二乘(ぢやうしやうにじやう)の聖者は無餘依(むよえ)の位に至りて、永く分段(ぶんだん)の果報を盡すといへども、深教大乘(じんけうだいじやう)の心によるに、反易生死(へんやくしやうし)の報(むくい)未だ免れず。されば如來の慈悲も救ひ給ふ事無くして、必ず八萬大劫の滿位(まんゐ)を待ちて、佛乘の法門を授けて究竟(くきやう)の位(くらゐ)に導き給ふ。何(いか)に况(いはん)んや生、死の苦海に輪轉(りんてん)し、出づる事を得ぬ衆生に於てをや。縱(たと)ひ病もせずいみじくて國王の位に登り、天上の果報を受くとも、佛の少しきも樂なりと思召して、たゆませ給ふ事はなきなり。只法性の因果改まらずして因緣を待つことばかりなり。されば佛の、我が名を念ぜば我れ行きて救はんと仰せらるゝは、流れの畔(くろ)の渡守(わたしもり)などの舟貸(ふなちん)を取りて人を渡すが如くにはあらず。只佛に不思議の功德います。其の名を念ずるに力を得て、増上緣と成りて、衆生を助け給ふなり。喩へば飯の、人に向ひて、我を食ふべし、汝が命を延べんと云ふが如し。是は飯が我が身を嫌ふことはなけれども、飯を身の中に食ひ入れつれば増上緣と成りて人の命を延ぶ。されば我を食へといはんが如し。諸佛の甚深の道理は、只佛のみ能く知り給へり。仰ぎて信をなすべきなり。なまこさかしく兎角我とあてかふことはわろきなり。如來は是れ我が父母なり。衆生は子なり。六道四生に輪轉するとも、如來と衆生とは親子の中かはることなし。世間の親子は生を替(か)ふるに隨つて替はりもてゆく。六道の衆生は皆三種の性德(しやうとく)の佛性(ぶつしやう)有るが故に、皆佛子なり。故に如來自ら、我れは父なり、汝は子なりと契り給へり。我等大聖慈父の御貌(おんかほ)をも見奉らずして、末代惡世(まつだいあくせ)に生るゝことは、先の世に佛の境界に於て、このもしく願はしき心も無かりし故なり。一向に渇仰(かつがう)をなさば、必ず諸佛に親近(しんごん)し奉りて、不退(ふたい)の益を得べきなり。生死の果報を得るも、生死の境界を願ふ心の深ければこそ、生死界にも輪轉するやうに、佛の境界を願ふ心の深ければ、亦佛の智惠を得るなり。只生死界をば惡(わろ)き大願を以て造り、涅槃界をばよき大願を以て造るなり。されば華嚴經に、淸淨(しやうじやう)の欲を起して、無上道(むじやうだう)を志求(しぐ)すべしと云へり。淸淨の慾といふは、佛道を願ふ心なり。佛道に於て欲心深き者、必ず佛道を得るなり。されば能々(よくよく)此の大欲を起して、是を便(たより)として生々世々(しやうじやうせゝ)値遇(ちぐう)し奉りて、佛の本意(ほんい)を覺り明らめて、一切衆生を導くべきなり。此の理を知り終りなば、何事かはわびしかるべき。欲に淸淨の名を付ることは、世間の欲の名利(みやうり)に耽りて何(いつ)までも心に持ちひつさぐる欲の如くにはなし。佛の境界を深くこのもしく思ふ大欲なければ、佛法に遇ふことなし。佛法に遇はざれば、生死を出づることなし。かゝる故に、暫く此の大欲にすがりて佛法を聞きあきらむれば、自ら祕藏しつる佛法も、大切なりつる大欲も、共に跡を拂ひてうするなり。かやうに跡もなき事をば淸淨と云ふなり。仍(よつ)て淸淨の欲と名づけたるなり。急がしければ、筆に隨ひ口に任せて申すなり。恐惶謹言。

    建仁二年十月十八日   高辨〔時に紀州在田郡糸野の山中なり〕

[やぶちゃん注:「猶(なほ)變易微細(へんやくみさい)の苦を知らずして」の「猶(なほ)」の部分は、底本では一字分が空きになっており、明らかな植字ミスと判断される。「猶」の字は複数の諸本から、「なほ」の読みは私の判断で補った(諸本はこう訓じてはいない)。大方の御批判を俟つ。

「昔大王ありき。身に千の穴をゑりて」の句点は私が打ったもの。底本では「昔大王ありき身に千の穴をゑりて」と繋がっており、如何にも読みにくい。]

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