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2013/05/13

耳嚢 巻之七 戲場役者も其氣性有事

 戲場役者も其氣性有事

 

 元祖坂田藤十郎和事師(わごとし)の名人にて、若者殿役旦那役或は堂上(たうしやう)方の眞似なす、誠に眞をなして、京地に其名高し。中村七三郎も是又和事師にて、上手の名(な)江戸に賑ふ。或年、七三郎上京せしに、京地の役者ども打寄り、七三郎も丈(たけ)のしれたる役者なり、新上(しんのぼ)りの事故、客座の上座に付(つき)て年比(としごろ)は功者に見ゆれど、京地には坂田藤十郎といへる和事師の名人あり。大坂へ成(な)り共(とも)先(まづ)登らばよかるべし。京地え來りし所は大概其樣子も知れたりと取々申ければ、藤十郎是を聞(きき)て、夫(それ)は大き成(な)る推量違ひ、我(われ)先年江戸に七三郎とも出合(であは)せしに、中々我など始終可及(およぶべき)者にはあらず、顏見せは、馴染もなければ格別の評判も有(ある)まじ。春狂言には果して評判宜しからんと、上方の評判なりしと也。其(その)暮(くれ)七三郎は江戸へ下りけるに、藤十郎も厚(あつく)暇乞(いとまごひ)し立別れぬ。京地の役者共も、餞別又は江戸表えも夫々贈り物抔して、七三郎とちなみのよし。是にても七三郎が上手成(なる)事評判せしが、藤十郎は餞別抔も贈らざりしが、江戸表え着せし後、或時藤十郎の狀相添(あひそへ)て、菰(こも)かぶりの樽を七三郎方え贈りしに、右狀を切解(きりとき)て見ければ京地にての事ども書(かき)綴り、江戸下り以來嘸(さぞ)榮(さかえ)ならん、此一樽(そん)は加茂川の水也、來春の大ぶくに用ひ給へといへる事故、七三郎殊の外感心して、賤しき我々の身分なれど、和事を相連(あひづれ)に勤(つとむ)る身故、志す處高貴富貴の贈り物感ずるに絶たりと、藤十郎が意氣地を深(ふかく)稱しけると也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:技芸譚直連関。

・「戲場」岩波版では「しばい」とルビが振られている。

・「元祖坂田藤十郎」歌舞伎役者初代坂田藤十郎(正保四(一六四七)年~宝永六(一七〇九)年)。俳号は冬貞、車漣。定紋は丸に外丸。元禄を代表する名優で上方歌舞伎の始祖の一人に数えられる。「役者道の開山」「希代の名人」などと呼ばれた。以下、参照したウィキの「坂田藤十郎初代から引用する(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更した)。『京の座元だった坂田市左衛門(藤右衛門とも)の子。延宝四年(一六七六)一一月京都万太夫座で初舞台。延宝六年(一六七八)「夕霧名残の正月」で伊左衛門を演じ、人気を得た。この役は生涯に十八回演じるほどの当たり役となり「夕霧に芸たちのぼる坂田かな」と謳われ、「廓文章」など、その後の歌舞伎狂言に大きな影響を与えた。その後、京、大阪で活躍近松門左衛門と提携し「傾城仏の原」「けいせい壬生大念仏」「仏母摩耶山開帳」などの近松の作品を多く上演し、遊里を舞台とし恋愛をテーマとする傾城買い狂言を確立。やつし事、濡れ事、口説事などの役によって地位を固め、当時の評判記には「難波津のさくや此花の都とにて傾城買の名人」「舞台にによつと出給ふより、やあ太夫さまお出じゃったと、見物のぐんじゅどよめく有さま、一世や二世ではござるまい」とその人気振りが書かれている』。『和事芸の創始者で、同時期に荒事芸を創始した初代市川團十郎と比較される。金子吉左衛門著の芸談集「耳塵集」によれば、藤十郎の芸は写実性さを追究したもので「誉められむと思はば、見物を忘れ、狂言は真のやうに満足に致したるがよし」という藤十郎自身の言葉がある。ただし、徹底的な写実性を求めるものでなく、見た目重視のところもあった。「夕霧」の伊左衛門が舞台で履物を脱ぐとき、「もし伊左衛門の足が不恰好に大きかったら客が失望する」と言って裏方に小さめの履物を用意させた』。『時代物や踊りは不得手であった。「松風村雨束帯鑑」の中納言行平を演じたが不評で、行平が髪結いにやつしている場面だけが好評だった。また、怨霊物では、踊らずにひたすら手を合わせて逃げ回る演技がよかったという。そのかわり話術が巧みで女性を口説くときの場面は抜群であった』。『「傾城仏の原」で、梅永文蔵を演じた藤十郎が恋人逢州の心底をたしかめるべく、わざと世間話をする場面で、あまりの冗長さに客席から苦情が出た。台詞を短くしようという忠告に、藤十郎はもう一日だけ同じやり方にしてくれをと頼み込み、昨日よりもゆっくりと世間話をすると好評だった。「昨日は、見物を笑わせる所だと思って演じた。それでいけなかった。あの場面は、逢州の心地を聞こうとしてわざと暇取らせているわけだから、そのつもりですればいいのだ。今日は長くやっても、こっちの気持ちが昨日とちがっていたから、よかったのだ」と藤十郎は成功の秘訣を語っている』。『芸に対しても真摯な姿勢を崩さず、後輩の役者が、「先日あなたの通りに演じたら好評でした」と礼を述べたが、藤十郎は誉めずに、「私のままに演じたら、生涯わたしを越えられませんよ、しっかりおやりなさい」と忠告した』という。これは如何にも凄い人物である。

・「和事師」歌舞伎で和事を得意とする役者。「和事」は柔弱な色男の恋愛描写を中心とした演技及びそうした演出様式をいう。元禄期(一六八八年~一七〇四年)に発生して主に上方の芸系に伝わった。江戸歌舞伎の特色で、武士や鬼神などの荒々しさを誇張して演じる演出様式(初世団十郎を創始と伝える)「荒事」、また役柄の分類上の、判断力を備えた人格的に優れた人物の精神や行動を写実的に表現する「実事」の対義語である。

・「中村七三郎」(寛文二(一六六二)年~宝永五(一七〇八)年)元禄期に活躍した江戸和事の祖と称された歌舞伎役者。俳号は少長。父は延宝期の初期中村座を支えた歌舞伎役者天津七郎右衛門、妻は座元の家柄である二代目中村勘三郎娘はつ。初舞台の役柄の記録は「女形・若衆形・子共」の三種で、後に若女形となった。貞享三(一六八六)年以後は没するまで立役を全うし、小柄で、「好色第一のつや男」、また、当代随一の美男の意で「わたもちの今業平」と評判され、ぞくっとするような魅力を発散したという。諸芸に通じ、ことに濡れ事・やつし事などの和事芸を得意とし、荒事の名人初代市川団十郎と並び称された名優であった。江戸下りの女形の相手役をすることにより、上方歌舞伎の柔らかい芸を取り込んで独自の芸風を確立した。この芸風を決定的なものにしたのが元禄元(一六八八)年に市村座で上演された「初恋曾我」(四番続)の十郎役で、曾我兄弟はこれまで荒事式で演じられていたが、この時、十郎を和事の演出で見せ、大評判を取り、以後は江戸の曾我狂言では十郎は和事の風で演じる決まりとなった。元禄一一(一六九八)年に京にのぼり、「傾城浅間岳」の小笹巴之丞役を演じて一二〇日のロングランの大当たりを取り、上方和事の祖坂田藤十郎を呻らせたという。この役を七三郎は一代の当たり役とした(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。以下、底本では鈴木棠三氏が本話に即した絶妙な注を附しておられ、これは引用せずんばならず! 長いが、例外的に全文引用をさせて頂く。
   《引用開始》

 俳名少長。江戸劇壇における随一の和事師として、初代市川団十郎の荒事と対照せられた名優。宝永五年没、四十七。七三郎が元禄十年上京、四条山下半左衛門座に出演したとき、藤十郎の評判は圧倒的で、江戸でやつしの名人と好評だった七三郎も、馬の後足とまで酷評された。上方役者たちの間では、江戸からわざわざ京に上ってやつし事をする七三郎はそもそも了簡違い、そこが下手のしるしであるなどとそしった。それを聞いた藤十郎は、いや七三郎は上手である、これが刺激になって自分の芸も進歩しよう、顔見世ではこちらが勝ったが、二の替りとなると負けるかも知れぬといった。その昔の通り七三郎は『傾城浅間嶽』の巴之丞の役で、割れるような大評判を取った。その後、替り日ごとに藤十郎は七三郎の舞台を見物して、両人は親密な間柄となった。十二年の暮七三郎は江戸山村座に出演ときまって東下した。七三郎が藤十郎に置土産を贈ったのに対し、折返し餞別を贈ってはしっぺ返しで面白くないと、藤十郎からはわざと何も贈らず、極月廿九日に加茂川の水を送った。以上は『賢外集』にあり、本書の一条もこの書物から採ったものであろう。なお藤十郎が大坂出演のとき、京から水を樽詰にして取寄せて使用したという話も、同書に載っている。それほど養生に留意したという逸話である。

   《引用終了》

彼は坂田藤十郎より十五年下であった。

・「客座」歌舞伎俳優の順位の一つ。一座の俳優のうち、座頭・書き出し・立女形などの俳優と同等同位の客員待遇を受ける者をいう。七三郎は江戸からの初上りの新鋭人気歌舞伎役者ということで優待された。

・「顏見せ」顔見世。一座の役者が総出演する芝居。顔触れ。面見世。

・「春狂言には果して評判宜しからんと、上方の評判なりしと也」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、ここが、

 春狂言には果してよろしからん」といひしが、其通り二ノ替り狂言より、和事師の名人なりと、上方の評判なりしと也。

となっている。「二ノ替り」について、長谷川氏は、『顔見世狂言をとり替えてそれに次いで正月に上演する狂言』と注されておられる。このバークレー校版の方が分かりがよい。現代語訳では、その雰囲気を敷衍した。

・「大ぶく」大服茶・大福茶のこと。元日の若水で点てた煎茶。小梅・昆布・黒豆・山椒などを入れて飲み、一年の邪気を払うとする。福茶。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 歌舞伎役者もそれなりの心立てがある事

 

 元祖坂田藤十郎は和事師(わごとし)の名人にて、若者・殿役・旦那役、或いは堂上(とうしょう)方を演(や)らいたならば、まっこと、本物より本物らしゅう演じなして、京にてはすこぶる高名なる役者で御座った。

 かたや、中村七三郎(なかむらしちさぶろう)も、これまた、和事師として、名手の名、江戸に知れ渡っておったもので御座った。

 ある年、七三郎が上京致いて芝居を打った。

 京の役者ども、楽屋内にてうち寄っては噂致すに、

「……七三郎も高が知れた役者でおますな。……新上(しんのぼ)りのことやさかい、客座の上座を張って、今日(きょうび)は達者のように見えますけど、京には坂田藤十郎という和事師の名人が、これ、あらっしゃいます。……江戸の新進の和事師と言わはるんなら……これ、まあ、大坂なんどへなりと……まずは登らるるがよろしゅうおますやろ……。それを、あろうことか、名手の藤十郎はんのおらるる京へ来なはるとは……これ、ほんまに――あほ――や。おおよそ、そのお人の、『技』といわはるも……これ、知れたもんやおまへんか。……」

とさんざんな申しよう。

 ところが、そこにたまたま、当の藤十郎がおって、これを小耳に挟んだと申す。

 すると藤十郎、

「……それは大きな見当違いでおます。……我ら、先年、江戸へ下向致いて、かの七三郎はんとも逢(お)うておりますれど……いや! なかなか!……我らなんど、そう、始終はためをはる者(もん)にてはこれ、あらしまへん。……今度の顔見世にては、七三郎はんの馴染みの方も、これ、当然のことながら、あらしまへんによって、格別の評判も、これ、ないに等しいものではありましたが……春狂言には、きっと、評判よろしゅうあろうとは、これ、上方の、専らの、評判でおます、え。……」

と、かばっておった申す。

 さても、その暮れになって、藤十郎の言う通り、すこぶるよき評判をも得、七三郎は江戸へと戻り下ることと相い成り、藤十郎も厚く、別れの挨拶を交わして立ち別れたと申す。

 さても……当初は、あれほど辛辣な陰口をたたいておった京役者どもさえ、大層なる餞別を渡し、また、江戸表へも七三郎気付で、それぞれに贈り物なんどまで致いては、七三郎と昵懇になることを望んだ者も多くあったとのこと。……そうして、偏えに――七三郎は和事の美事な上手なり――と、頻りに評判致いたとも聴いて御座る。

 さて、藤十郎は、といえば、その折り、ろくな餞別なども贈らずに御座った。

 しかし、七三郎が江戸表へ着き、暫く致いたある日のこと、藤十郎の書状をともに添え、菰(こも)被りの大きなる樽が一つ、七三郎宛に贈られて参った。

 七三郎、その消息の封を切って読んでみたところが――過日の京にての七三郎が芝居のよき仕草を褒め綴った上、

 

……江戸へお下り以来、さぞ、御繁昌のことと存じ、お悦び申上げ奉りまする……

……さて、この一樽(いっそん)は加茂川の水にて御座る……

……一つ、来春元旦の大福茶(だいぶくちゃ)にでもお遣い下さるれば、これ、幸い……

 

との文なれば、七三郎、殊の外、心うたれ、

「……賤しき我らが身分なれど……和事をともに精進致す身の上なればこそ……志すところの魂の響き合い……かくも高貴にして富貴なる贈り物……何とも、はや!……これ以上の……至福の感は……まずは御座らぬ!……」

と、藤十郎の芸人の気構え、これ、深(ふこ)う感じ入って、賞賛畏敬致いたとのことにて御座った。

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