大橋左狂「現在の鎌倉」 5 海水浴場
海水浴場
鎌倉の海水浴場と云へば海岸到る處皆海水浴場となるのである。即ち材木座の由比ケ濱海岸より長汀曲浦淸砂を辿りて長谷、坂の下、片瀨、鵠沼に至る海岸は悉く海水浴に適して居る。只七里ケ濱の峯ケ原附近は稍々危險だそうだ。夏期避暑客の續々と押し寄せて來る七、八月の頃は此一帶の海岸に數十の私設海水浴場が設けられる。別莊客は箇人專用の海水浴場を設ける。海岸は見渡す限り萱津(よしづ)に包まれた脱衣場が軒を並べて隙がないと言ても良い程である。此外に鎌倉町から避暑客の便利を圖つて町費にて設けられた公開海水浴場がある。此れは明治四十三年から初めて設けられたのである。江の島長橋の手前片瀨の東濱にも川口村公設の海水浴場がある。
[やぶちゃん注:江ノ電鎌倉高校前駅と七里ケ浜駅の間にある峰ヶ原信号場(退避線有)附近。かつてこの付近には旧七里ヶ浜駅が置かれており、現在の七里ヶ浜駅は戦中に旧駅が廃駅となった後、昭和二六(一九五一)年に行合駅を改称、更に旧七里ヶ浜駅と行合駅(現在の七里ヶ浜駅)間には峰ヶ原駅が、日坂駅(現在の鎌倉高校前駅)と旧七里ヶ浜駅間には谷沢駅が存在した(かつての駅の並び〈日坂―谷沢―七里ヶ浜―峰ヶ原―行合(当初の駅名は田辺)〉/現在の駅等の並び〈鎌倉高校前―(峰ヶ原信号所)―七里ヶ浜〉。以上はウィキの「峰ヶ原信号場」に拠った)。この峰ヶ原は古記録に出る金洗沢で、「新編鎌倉志卷之六」に、
〇金洗澤 金洗澤(かねあらひざは)は、七里濵の内、行合川(ゆきあひがは)の西の方なり。此所ろにて昔し金を掘りたる故に名く。【東鑑】に、養和二年四月、賴朝、腰越(こしごへ)に出で、江島に赴き還り給ふ時、金洗澤の邊にて牛追物(うしをふもの)ありと有。又元年六月六日、炎旱渉旬(炎旱(えんかん)旬を渉(はた)る)。仍て今日雨を祈ん爲に、靈所七瀨の御祓(はらへ)を行ふ。由比濱(ゆひのはま)・金洗澤(かねあらひざは)・固瀨河(かたせがは)・六連(むつら)・柚河(ゆのかは)・杜戸(もりと)・江島龍穴(えのしまのりうけつ)とあり。
と記す。「金洗」とは、恐らくは稲村ヶ崎から七里ヶ浜一帯で採取される砂鉄の精錬を行った場所と考えられている。
「川口村」現在の藤沢市片瀬地区、旧片瀬町(まち)の前身。明治二二(一八八九)年に町村制施行により片瀬村と江島村が合併して川口村となり、明治三五(一九〇二)年九月に江之島電氣鐵道(現在の江ノ島電鉄線)の新屋敷・西方(現在の湘南海岸公園駅)・浜須賀・山本橋及び片瀬(現在の江ノ島駅)の各停留所が、同三六(一九〇三)年六月には龍ノ口及び中原停留所が開業している。昭和八(一九三三)年に町制施行で片瀬町となり、昭和二二(一九四七)年四月一日を以って藤沢市へ編入合併された(以上はウィキの「片瀬町」に拠った。]
鎌倉の海水浴場は毎年七月二十日より九月七日迄の間開設してある。場所は由比ケ濱、極樂寺、坂の下、材木座海岸の四ケ所である。各所には間口七間奧行三間の更衣所が建設されて内部は男女の區別が嚴然としてある。又救護用として繃帶材料、アンモニヤ、其他應急上必要の藥品は全部各更衣所に備付けてある。何時何人(いつなんぴと)でも必要あれば使用しても差支ないのである。公衆の隨意使用を許してあるのは便利である。浴場の海上には絶へず三隻の救護船を浮べて浴客の危險なき樣にと見張らしめてある。由井ケ濱浴場の中央に公設海水浴場事務所を設けて毎日時間中は警察官町役場吏員が交代に出張して諸般の事務や萬一の警戒に怠りない。赤い饅頭笠を冠つた掃除夫は間斷なく海岸砂上を淸潔にして居る。中央事務所の番人は絶へず各浴場と連絡して信號を爲して危險を豫防して居る。周強く波荒くならんとするときには水浴を禁ずる爲め各浴場とも赤旗を樹てゝ信號する。波穩かに水浴適當に復したときは靑旗を掲げて信號する。毎日の水浴時間午前は七時より十一時まで、午後は二時より六時迄と制限されてある。此時間外にても水浴は出來るとは言へ救護船も引上げ監視員も退場するから甚だ危險である。公設水浴場には各所毎に眞水井を据つてあつて浴後の淸拭(きよふき)に用意されてある。川口村片瀨の水浴場も東濱に十數箇建てられてあるが、其設備は鎌倉の浴場と差異はない。
[やぶちゃん注:当時の海水浴場が我々の想像するよりも遙かに近代化されており、保安救護体制も完備していたことが分かる。僕らはこの映像の中に「こゝろ」の「私」と「先生」を配さねばならなかったのだ。僕らはもっと田舎染みた映像を想定してはいなかっただろうか?
「間口七間奧行三間」間口約一二・七メートル、奥行約五・五メートル。]
此外海水浴場として毎年此期節の休暇日を見計らつて、近衞師團や第一師團の軍隊が此の鎌倉迄水浴に來る。短かきは一週日間長きも三週間位の豫定である。軍隊の水浴場は大概由井ケ濱海岸を選定せられる。由井ケ濱の小學校、材木座の光明寺等は常に此水浴軍人の宿泊所と定められる。陸軍幼年學校生徒も毎年此鎌倉に來て、材木座の光明寺に宿泊するものは其山門前の由比ケ濱にて、又片瀬學習院の寄宿舍に宿泊する生徒は片瀨の濱にて水泳の練習をする。而して各級の修了期には、江の島一圓やら由井ケ濱江の島間等の壯烈なる遠泳を試みるのである。數百の健兒が激浪に押しつ押されつ或は丈餘の浪に碎けて、隊伍を散づると思へば又寄せ來る波を越へて、隊伍整々堂々と互ひに拔手を切つて、目的の彼岸に上陸して、意氣豪然萬歳を絶叫するに至つては、實に壯觀である。
[やぶちゃん注:この光明寺裏に漱石は避暑に来ており、高い確率で「こゝろ」の先生の宿所もそこである。因みに「私」の宿所も冒頭部分の『宿は鎌倉でも邊鄙な方角にあつた。玉突だのアイスクリームだのといふハイカラなものには長い畷(なはて)を一つ越さなければ手が屆かなかつた。車で行つても二十錢は取られた。けれども個人の別莊は其處此處にいくつでも建てられてゐた。それに海へは極近いので海水浴を遣るには至極便利な地位を占めてゐた』という描写から材木座・大町地域にあったと考えてよい。]
江の島の翠黛(すいたい)を前に眺めたる、白砂靑松風涼しき片瀨川の濱に、數隻のボートを繋ぎある其前に見ゆる小松原内の建物は、學習院の寄宿舍である。之れは毎年の夏期に於て學習院の若殿原が紅塵場裏の暑を避けて、日課の水泳練習を行ふべく與へられた樂境である。尚ほ山本橋を渡つた靑松白砂の間に點在する臨時天幕の宿舍が建られる。學習院の公達は毎年七月中旬から三週間の見込で此片瀨の濱に寄宿するのだ。中にも畏き御在學中の宮殿下のお參加を拜すのである。金枝玉葉の御身をば、此荒磯邊の波に揉ませられ、潮に洗わせ給ふ御技、拜するも畏多き事なり、實に宮殿下の水浴場に充てられたる片瀬濱の光榮こそ譽なれ。尚ほ乘馬軍隊の水馬演習も片瀨の濱に見受けられる。夏の鎌倉砂淨らかの海濱は、吾國軍隊や學校の水泳場と定められてあるのは眞に鎌倉繁榮の一彩色である。
[やぶちゃん注:「山本橋」現在の藤沢市片瀬海岸三丁目一にある片瀬川の河口から三番目の橋で、西浜公園の東角で対岸の片瀬海岸一丁目に架橋する。
「宮殿下」裕仁親王、後の昭和天皇。明治四〇(一九〇七)年四月に学習院初等科入学、まさに本書が出版された明治四五(一九一二)年七月三〇日に祖父明治天皇が崩御、父嘉仁親王が践祚したことに伴って皇太子となった。明治四五当時は満十一歳。その少年の泳ぐ姿を「金枝玉葉の御身をば、此荒磯邊の波に揉ませられ、潮に洗わせ給ふ御技、拜するも畏多き事なり、實に宮殿下の水浴場に充てられたる片瀬濱の光榮こそ譽なれ」たぁ、流石に、時代が時代なだけ、モノすげー表現だねえ……。但し、この叙述は正確にはまさにこの前年より正しゝないと言わざるを得ないのである。何故か? ウィキの「片瀬東浜海水浴場」を見よう。そこにこう書かれているからである(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『一八九一年(明治二四年)、学習院が隅田川の浜町河岸にあった游泳演習場を川口村片瀬に移す。一九〇四年(明治三七年)には片瀬海岸に学習院の寄宿舎(平屋建て、九棟)が翌年にかけて竣工し、三年後に学習院院長に就任した乃木希典の褌姿の写真も残っている。乃木院長は軍隊式の幕営という方法も採用した。一九〇五年(明治三八年)八月の記録には江の島片瀬に避暑客三〇〇人、学習院職員生徒一三二人来訪とある。しかし、一九一一年(明治四四年)、学習院は游泳演習場を片瀬から沼津御用邸の隣接地に移す。片瀬の海水浴場が一般客で混雑し、游泳演習場に適さなくなったのが理由とされる。この混雑のきっかけは一九〇二年(明治三五年)、藤沢駅から片瀬まで開通した江之島電氣鐵道によるアクセスの利便性の発展である』(下線部やぶちゃん)。しかし更に見てゆくと、この跡地がまたまた海水浴場になって発展するのである。『この学習院游泳演習場跡地の活用が一九一五年(大正四年)七月二十一日、鎌倉郡川口村の天野村長や村内有力者六名の協議により、更衣所や衣類所持品預かり所を設置し、見張り番・救助船などを準備した村営の海水浴場を開設することとなった。江ノ電の開通により、日帰り海水浴客が一般化してきたことが理由であろう。この傾向は一九二九年(昭和四年)四月一日の小田急江ノ島線開通によって決定的となった。江ノ電の方も一九三一年(昭和六年)七月十日、四輪車五両の海水浴納涼電車の運行を開始し、「海水浴納涼往復割引乗車券」を発売する。この賑わいは一九四〇年(昭和一五年)の頃まで続いたようで、東海道本線が品川駅 - 藤沢駅間に臨時列車を増発するほどだった。この年の東浜には休憩所、飲食店、売店等六十余軒が建ち並んだというから、今日の姿とほとんど変わらない』とある。従って泳ぐ神の子はもっと幼少の今の小学校三、四年生の映像が正しいということになろうか。]