大和田建樹「散文韻文 雪月花」より「汐なれごろも」(明治二七(一八九四)年及び二九(一八九六)年の鎌倉・江の島風景) 4
廿四日は昨夜の雨の名殘にて曇りがちなれば、後は晴るべきかいかにと問ひしに、里人こたへて今日は石割開山なれば必ずあがるべしといふ。そは又いかなる事ぞと問ひかへせば、建長寺の開山忌にて昔より降りたる例なしとて、頻りに參詣せよとすゝむ。村角力もあり古代の行裝にて開山の御わたりもありと語りつゞくるに、物見ずきなる性質のそれがし、いかでか以て猶豫すべき、日も誠に快く晴れたれば、午後三時過たゞひとり車にて出かけたり。車夫は處の歴史家にて、道すがら名所古蹟の物語など得意らしく説き出だすを、聞く聞く行くも徒然ならず。曰く鎌倉の七處の切通は朝夷三郎が一夜の間に作りしなり、曰く稻村崎は新田義貞の太刀を投げて潮をひかせたる處なりなど、村學教師の黑板の前に立ちたるもかくやとおもはるゝこそをかしけれ。山の内の切通にかゝる頃は、老少男女の喘ぎ喘ぎ登りくるもの數を知らず。兩肌ぬぎて娘に汗をふかする母もあれば、風呂敷を木の枝にかけて涼み居る若者もあり。黄なる日傘は赤き裳裾と相映じて、田舍の花は山道を裝ひたり。建長寺は山門を入るより、賑はしき事かの盆の十六日にも過ぎたる中に、種ものゝ店の多く出でたるは、都に見なれぬことなればいとめづらし。向ひは飴屋酸醬屋の花やかなるこなたに、練馬大根天王寺蕪など札を立てたるが並びゐたり。本堂の傍に人の集まるを何ぞとうかゞへば、四五十人の老若男女ども、何れも鉦と本とを前におきて、御詠歌などいふものにや、鉦にて拍子を取りつゝ皆同音におもしろく歌ふなり。あはれ老後のたのしみは、孫と是との二つにやとおもひやらるゝに、立ち聞く人は評して、何兵衞どのゝかみさまはよき聲よ、誰作さんのおふくろは感心なりなどいふをきけば、是また一夜づくりにはできぬものなるべし。さはいヘ口を開き目を見合せて唱ふる處は、馬鹿げたさまかなと獨言にいへば、同じく口を開き目を見はりて見物するさまこそ猶まさりたれと、彼等は答へんとすらん。さて角力はと問へばなしといひ、おわたりはと問へば或は暮るべしなどいふに、せんかたなく草を歸路にめぐらしたり。葭簀のかげに梨子の皮むく娘づれなど見つゝ歸るも、一幅の名所圖會めきていと樂し。車夫は又講釋をはじめていよいよ興に入る。
[やぶちゃん注:
この建長寺開山忌の描写もすこぶる貴重である。そもそもがかくもリアルにこうした臨済宗建長寺派鎌倉流の御詠歌場面、それを面白半分に見物する筆者大和田を含めた聴衆の語り口など、こうしたスカルプティング・イン・タイムは他の紀行文では滅多にお目にかかれないもののように思われる。
「石割開山」建長寺の開山蘭渓道隆の忌日。円覚寺の開山無学祖元の忌日(現在十月三日に実施)は「泣き開山」と称して例年よく雨が降るが、蘭渓道隆のそれは「石割開山」と称して炎暑となると伝えられている。「石割」とは、一滴の雨も降らず、石も干からびて割れるほどの炎天という謂いか? 識者の御教授を乞うものである。
「葭簀」の「葭」の字は、底本では(くさかんむり)の下が「叚」ではなく、右の部分が「殳」になった字体である。]