中島敦漢詩全集 十
十
早春下利根川 二首
水上黄昏欲雨天
春寒抱病下長川
菰荻未萌鳧鴨罕
不似江南舊畫船
淼洋濁水廻長坡
薄暮扁舟客思多
春寒料峭催冰雨
荻枯洲渚少游鵝
○やぶちゃんの訓読
早春利根川を下る 二首
水上 黄昏(くわうこん)して 雨(あめ)ふらんと欲するの天
春寒 病ひを抱きて 長川(ちやうせん)を下る
菰荻(こてき) 未だ萌えず 鳧鴨(ふあふ) 罕(すく)なし
似ず 江南 舊畫船(きうぐわせん)
淼洋(びやうやう)たる濁水 長坡(ちやうは)を廻(めぐ)り
薄暮の扁舟 客 思ひ多し
春寒の料峭(れうせう) 冰雨(ひようう)を催す
荻(おぎ)枯れて 洲渚(しうしよ) 游鵝(いうが)少なし
〇T.S.君原案(一部は藪野補筆)の中国語を踏まえた語釈
・「長川」長い川。中国古典でも複数の用例がある。
・「菰荻」「菰」はマコモ。沼地などに群生するイネ科の多年草、高さ約二メートル。「荻」はオギ。湿地に群落を作るイネ科ススキ属の多年草。一見ススキに似ている。
・「鳧鴨」狭義にはそれぞれ「鳧」は野生のカモ、「鴨」はカモを家畜化したアヒルを指すが、転じてカモ(アヒル)、水鳥の総称として用いられる。
・「罕」まれであること。少ないこと。
・「畫船」画舫(がぼう)。華麗な装飾を持つ遊覧のための船。水路の多い中国江南地方において一般的であった。江南の水上を渡ってゆく古式の美しい画舫という意味であろう。
・「淼洋」水が果てしなく広がっているさま。
・「長坡」地名ではあるまい。文字の意味は長い傾斜地で、ここでは長々と横たわった河岸の傾斜地としてよい。
・「扁舟」小船。
・「料峭」「料」は「なでる」、「峭」は「厳しい・きつい」の意で、春風が皮膚に寒く感じられるさま。
・「冰雨」現代中国語では、降った雨が冷たい地面に冷やされて凍るという、春浅い頃に見られる自然現象を指す。但し、ここでは日本語でいうところの、「霙(みぞれ)になりそうな冷たい雨」と採って良かろう。
・「洲渚」水の中の小さな陸地。中州。
・「鵝」鵞鳥。ガチョウ。
〇T.S.君による現代日本語訳
■自由詩訳
小舟が進む…
垂れ籠めた雲
枯果てた菰荻(こてき)
夕暮れの川面(かわも)
映るは病(やまい)の影
心をよぎる
夢の残照――
小舟が進む…
鉛のような水
鳥の影なき汀(みぎわ)
墨いろの土手
氷雨を孕む空
涯なく続く
春寒の夕(ゆうべ)――
■散文詩訳
もうすぐ夜が来る。今にも雨が降り出しそうな黝(くろ)い空が、暮れ方の生気のない川面に映っている。コートの内に忍び寄る寒気に身を縮めながら、私はさっきから、病に蒼ざめた顔を単調に続く河辺の方に向けている。岸一面に群生する菰荻(こてき)には芽吹きの兆しさえ見えず、水鳥の姿もほとんどない。私はひとり心の中で呟く。かつて夢見た江南の画舫(がぼう)の舟遊びとは、似ても似つかぬ船旅だ……。
果てしなく広がるこの濁った川は、延々と続く岸辺の堤(つつみ)を浸しつつ、ゆっくりと流れている。このたそがれ、小舟で下って行く私の胸に、様々な思いが去来する。遠くに去ってしまった人々、数々の思い出、そして不安や幽かな希望。春とは名ばかりのこの寒気に、霙(みぞれ)さえ落ちて来そうだ。河辺の荻(おぎ)の群れも見渡す限り枯れ果て、向うの中洲にも鵞鳥の姿はほとんど見えない……。
〇T.S.君とやぶちゃんの協働取組みによる評釈
この詩の現代語訳には大変苦しんだ。心の中で反芻し続けること約一週間、それでもぼんやりとしか形が見えないほどであった。それは、前半と後半の七絶で描写される世界の近似に戸惑ったからだ。似たような二枚の画像。それらが微妙にずれて重なった二重映しのスクリーンの処理に躓いたからだ。
両者はどのような関係なのだろうか。
すぐに気づくことがある。それは、ともに同じようなことを詠っているということだ。試みに、両方に出てくるモチーフを列挙してみよう。
――川の水が遥かに広がっている様子
――今にも雨が降りそうな薄暮の空
――春だというのに寒いということ
――水鳥の姿がほとんど見えないこと
――菰(こも)や荻(おぎ)などの群落が枯れ果てた姿で広がっていること……
……もう気づかれたであろう。これらはすなわち、この詩世界を構築するための主要部材なのである。
つまりこれらの詩は、『お互い非常に近い詩世界を構築しつつ、並び立っている』のだ。
では、ひとつの詩世界を詠んだ、ふたつの作品なのだろうか?
いや、そうとは言えまい。
前半だけに出てくる大切なモチーフ(詩世界の味付けのために不可欠なモチーフ)が、まるで隠し味のように、両方の詩の味わいをひき立てているからだ。
そのモチーフとは何か?
それは、ふたつ、ある。
――詩人が病を抱えているということ
そして、
――心の中の華やかな江南の画舫のイメージ
である。
試みに、後半の詩だけを、それだけでひとつの作品とみなして再読してみていただきたい。病いのイメージと、華やかな画舫のイメージが存在しないことによって、前半の詩より明らかに色彩が単純であることが分かる。
後半には、様々な思いが去来するという独自のモチーフはあるものの、それだけでは前半の詩に匹敵する奥行きを出せない。つまり、後半の詩には前半の詩が不可欠なのだ。
したがって、これはほぼ同じ世界を詠う二篇の七絶によって構成された、ひとつの作品だと結論づけることができる。
念のために申し上げたいのだが、近似した詩境を二度繰り返して表現することは、別に問題ではない。その逆である。調子をほんの少し変化させて二度歌うことに意味があるのだ。
私はグレン・グールドによるバッハのピアノ演奏を思い出す。彼は、ひとつのモチーフの反復に差し掛かると、二回目は必ず速度やリズムや陰翳の在り処を変化させ、まさに『そこでそう歌わなければならないもの』として音楽を創った……。そういえば彼自身も口にしていたではないか。「全く同じものなら繰り返す意味などないのだ」、と。
現代語訳に苦労した理由はもうひとつあった。それは、この詩のどこかに力点を置いたり、焦点を当てたりすることができないという点にあった。
薄暮の空――濁った水――枯れた菰荻――見渡す限りの単調な眺め――思念――寒さ――船――病い……。
どこにも特別なスポットライトを当ててはならない。
全て同等な重みを持つモチーフだからだ。
同じ大きさの積み木で隙間なく組み上げられた塔のような詩……。
どれかひとつでも欠けると、構築物としての耐久性が著しく減じて崩れ去ってしまうような尖塔……。
しかも、それぞれの部材は『ふたつずつある』のだ。どれかの部材に、構造上、他よりも大きな力が加わることのないよう、これらを『均等に配置』しなければならない……。
以上の詩人の示したふたつの公案を解決するために、私は試行錯誤の末、自由詩と散文詩の二篇を編んでみた。そこで注意したことは次の通りであった。
自由詩について意識したのはみっつ。外見上全く同様の二篇の詩形に組み上げるということ。
そしてひとつのモチーフを二度描く際に同じ言葉は決して遣わないということ。
さらには、前半は視線を空から水へと導き、後半は前半の鏡像のように視線を水から空へと導くことによって、各部材に均等な力がかかるようにするということ。
一方、散文詩で配慮したのは、全てに均一な力が加わるようにしながら、感情が平坦に進行するように配慮し、淡々と速度を変えずに叙していくことであった。
如何であろう……果たして詩人の懐いた世界に、少しは近づくことが、できたであろうか……。
ともかくもそれが私なりに成就したという前提に基づいて、改めてこの詩世界を味わってみたい。
描写されているのは――まことに物淋しい世界である。何かを見据え、それを取っ掛かりにして淋しさを詠うのではない。
詩人の視線はどこにも固定されない。
空、草、水……。
枯れ果てた、冷たい、薄暗い世界を、どこにも留まることなく、どこにも照準を合わせることなく、彷徨い続けるのだ。
しかも、詩人自身が居る場所ですら、水に浮かび、川下へと下っていく、覚束ない船の上なのである。
どこにも係留されず、中身が完膚なきまでに欠落したような、心が無限の空洞になったような、淋しさ……。
そして、寒さ、だ。
それも厳しい冬の寒さではなく、春浅い曇天の寒さ。厳しい寒気ではないだけに、かえって身体や心にしみじみと感じられる寒さ……。
まるで虚無の川に浮いたようなこんな淋しさを、一体、どのように説明したら良いのだろうか。
それは対位法のように示されてあるのだ。
江南の画舫は彼の暖かい夢の象徴だ。
ああ……、人は誰しも必ず、そうした拠り所を心のどこかに持っているものだ。
それは懐かしい人の面影であったり、憧れであったりする。
病いを抱えた詩人の胸に、一瞬、昔、夢見た華やかな春がよぎる。
その幻と、眼前の世界との――落差よ!
誰も、幼い頃に、こんな経験をしたことはないだろうか。
――原っぱ
――灰色の沈鬱な雲が、そもそも雲であるとは判別できないくらい空一面に広がった、底冷えのする冬の夕暮れ
――仲間と一緒に、自分の背丈よりも高い雑草の迷路の中を探検していた、そのとき……
……ふっと一瞬
――皆の姿も声も足音も消え
――気づけば
――冷たい地面と――草と――憂鬱な空だけに囲まれ、唯ひとり
――音といえば、鳥が苛立たしく叫ぶ声だけが、遠くの方から冷気を貫いて響いてくるだけ
――その瞬間
――自分がいる場所も
――帰れば会えるはずの両親の存在も
――日常の全てが
――まるで嘘だったかのように頼りない空虚なものに暗転する
――そしてなんとも言えない淋しい塊りが
――みぞおちのあたりからこみ上げて来る
――しみ込むような淋しさ、血の気が引いたような淋しさ……
……そこから逃れるには、ただ身じろぎもせず、じっと耐えて待つしか、ない……
私はこの詩に、そんな静かな深い淋しさを感じるのである。
最後に申し上げたい。
この詩を反芻する私には、
平均律クラヴィア曲集第一巻ヘ短調プレリュード
が聴こえる――。
冒頭の右手の四つの音。三度…、三度…、四度…と気体か何かのように上昇する不思議な音型。
ゆっくりと、しかも重力を感じさせずに高音へ向かうその虚ろな音の段差に、どこにも寄る辺のない、虚空を彷徨う魂の淋しさを感じる。
曲は、静かに、沈潜したまま、終始歩みを変えずに、とぼとぼと、進んでいく。その旋律に、川面を音もなく沈鬱に進む小船の姿が見える。
さらには――
詩人の孤独な魂の佇まいまでもが、浮かんで来る……。
人というものは、全て例外なく、こんな淋しさを抱えて生きていくしかない。
おそらくは皆、気づきたくないだけなのだ。
そうだ……
きっと、そうに違いない……
[やぶちゃん補注:私とT.S.君とがこよなく愛するグレン・グールドによるバッハ「平均律クラヴィア曲集第一巻第十二曲(BWV857)前奏曲4声のフーガヘ短調プレリュード演奏は、とりあえず今ならば、ここで聴くことが出来る。当該ページ内の「ericinema」氏のコメントにリンクされた“Fm 12P 46:34”をクリックされたい。そこまで飛んで演奏して呉れるはずである。]
« 北條九代記 實朝公右大臣に任ず 付 拜賀 竝 禪師公曉實朝を討つ (完全版 / 【第四巻~了】) | トップページ | 魚の祭禮 大手拓次 »