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2013/05/19

北條九代記 實朝公右大臣に任ず 付 拜賀 竝 禪師公曉實朝を討つ (まずは本文)

僕の好きな実朝の死である。まずは本文を示す。以降、煩を厭わず、注釈を附したものを順次公開する予定である。


      ○實朝公右大臣に任ず 付 拜賀 竝 禪師公曉實朝を討つ

同十二月二日、將軍實朝公既に正二位右大臣に任ぜらる。明年正月には、鶴ヶ岡の八幡宮にして、御拜賀あるべしとて、大夫判官行村、奉行を承り、供奉の行列隨兵(ずゐびやう)以下の人數を定めらる、御装束(ごしやうぞく)御車以下の調度は、仙洞より下されける。右大將頼朝卿の御時に隨兵を定められしには、譜代の勇士(ようし)、弓馬の達者、容儀美麗の三德の人を撰びて、拜賀の供奉を勤させらる。然るにこの度の拜賀は、關東未だ例なき睛(はれ)の儀なりとて、豫てその人を擇(えら)び定めらる。建保七年正月二十七日は、今日良辰(りやうしん)なりとて、將軍家右大臣御拜賀酉刻(とりのこく)と觸れられけり。路次(ろじ)行列の裝(よそほひ)、嚴重なり。先づ居飼(ゐかい)四人、舍人(とねり)四人、一員(ゐん)二行に列(つらな)り、將曹菅野景盛(しやうざうすがのかげもり)、府生狛盛光(ふしやうこまのもりみつ)、中原成能(なかはらのなりより)、束帶して續きたり。次に殿上人(でんじやうびと)北條〔の〕侍従(じじう)能氏、伊豫(いよの)少將實雅、中宮權亮(ごんのすけ)信義以下五人、随身(ずゐしん)各四人を倶す。藤勾當(とうのこいたう)賴隆以下前驅(ぜんく)十八人二行に歩む。次に官人秦兼峰(はたのかねみね)、番長下毛野敦秀(ばんちやうしもつけのあつひで)、次に將軍家檳榔毛(びりやうげ)の御車、車副(くるまそひ)四人、扈從(こしよう)は坊門(ぼうもんの)大納言、次に隨兵十人、皆、甲胄を帶(たい)す。雜色(ざつしき)二十人、檢非違使(けんびゐし)一人、調度懸(てうどかけ)、小舎人童(こどねりのわらは)、看督長(かどのをさ)二人、火長(かちやう)二人、放免(はうべん)五人、次に調度懸佐々木〔の〕五郎左衞門尉義淸、下﨟の隨身(ずいじん)六人、次に新大納言忠淸、宰相中將國道以下、公卿五人、各々(おのおの)前驅隨身あり。次に受領の大名三十人、路次の隨兵一千騎、花を飾り、色を交へ、辻堅(つじがため)嚴しく、御所より鶴ヶ岡まで、ねり出て赴き給ふ裝(よそほひ)、心も言葉も及ばれず。前代にも例(ためし)なく後代も亦有べからずと、貴賤上下の見物は飽(いや)が上に集りて錐(きり)を立る地もなし。路次の両方込合うて推合(おしあ)ひける所には、若(もし)狼藉もや出來すべきと駈靜(かりしづ)むるに隙(ひま)ぞなき。既に宮寺(きうじ)の樓門に入り給ふ時に當りて、右京〔の〕大夫義時、俄に心神違例(ゐれい)して、御劍をば仲章朝臣(なかあきらのあそん)に讓りて退出せらる。右大臣實朝公、小野御亭より、宮前(きうぜん)に參向(さんかう)し給ふ。夜陰に及びて、神拜の事終り、伶人(れいじん)、樂(がく)を奏し、祝部(はふり)、鈴を振(ふり)て神慮をいさめ奉る。當宮(たうぐう)の別當阿闍梨公曉、竊(ひそか)に石階(いしばし)の邊(へん)に伺來(うかゞひきた)り、剣(けん)を取りて、右大臣實朝公の首、打落(うちおと)し、提(ひつさ)げて逐電(ちくてん)す。武田〔の〕五郎信光を先として、聲々に喚(よばは)り、隨兵等(ら)走散(はしりち)りて求むれども誰人(たれびと)の所爲(しよゐ)と知難(しりがた)し。別當坊公曉の所爲ぞと云出しければ、雪下の本坊に押(おし)寄せけれども、公曉はおはしまさず。さしも巍々(ぎゞ)たる行列の作法(さはふ)も亂れて、公卿、殿上人は歩跣(かちはだし)になり、冠(かうふり)ぬけて落失(おちう)せ、一千餘騎の随兵等、馬を馳(はせ)て込來(こみきた)り、見物の上下は蹈殺(ふみころ)され、打倒(うちたふ)れ、鎌倉中はいとゞ暗(くらやみ)になり、これはそも如何なる事ぞとて、人々魂(たましひ)を失ひ、呆れたる計(ばかり)なり。禪師公曉は、御後見(ごこうけん)備中阿闍梨の雪下の坊に入りて、乳母子(めのとご)の彌源太(みげんだ)兵衞尉を使として、三浦左衞門尉義村に仰せ遣されけるやう、「今は將軍の官職、既に闕(けつ)す。我は關東武門の長胤(ちやういん)たり。早く計議(けいぎ)を廻らすべし。示合(しめしあは)せらるべきなり」とあり。義村が息駒若丸、かの門弟たる好(よしみ)を賴みて、かく仰せ遣(つかは)さる。義村、聞きて、「先(まづ)此方(こなた)へ來り給へ。御迎(おんむかひ)の兵士(ひやうし)を參(まゐら)すべし」とて、使者を歸し、右京〔の〕大夫義時に告げたり。公曉は直人(たゞびと)にあらず、武勇兵略(ぶようひやうりやく)勝れたれば、輒(たやす)く謀難(はかりがた)かるべしとて、勇悍(ようかん)の武士を擇び、長尾〔の〕新六定景を大將として、討手をぞ向けられける。定景は黑皮威(くろかはおどし)の胄(よろひ)を著(ちやく)し、大力(だいりき)の剛者(がうのもの)、雜賀(さいがの)次郎以下郎従五人を相倶して、公曉のおはする備中阿闍梨の坊に赴く。公曉は鶴ヶ岡の後(うしろ)の峰に登りて義村が家に至らんとし給ふ途中にして、長尾定景、行合ひて、太刀おつ取りて御首を打落しけり。素絹(そけん)の下に腹卷をぞ召されける。長尾御首を持ちて馳歸り、義村、義時是を實檢す。前〔の〕大膳〔の〕大夫中原(なかはらの)廣元入道覺阿、申されけるは、「今日の勝事(しようじ)は豫て示す所の候。將軍家御出立の期(ご)に臨みて申しけるやうは、覺阿成人して以來(このかた)、遂に涙の面に浮ぶ事を知らず。然るに、今御前に參りて、頻に涙の出るは是(これ)直事(たゞごと)とも思はれず。定(さだめ)て子細あるべく候か。東大寺供養の日、右大將家の御出の例(れい)に任せて、御束帶(ごそくたい)の下に腹卷(はらまき)を著せしめ給へと申す。仲章朝臣、申されしは、大臣、大將に昇る人、未だ其例式(れいしき)あるべからずと。是(これ)に依(よる)て止(とゞ)めらる。又、御出の時、宮田兵衞〔の〕尉公氏(きんうぢ)、御鬢(ぎよびん)に候(こう)ず。實朝公、自(みづから)鬢(びんのかみ)一筋(すぢ)を拔きて御記念(かたみ)と稱して賜り、次に庭上の梅を御覽じて、
  出でていなば主なき宿と成りぬとも軒端の梅よ春を忘るな
其外商門を出で給ふ時、靈鳩(れいきう)、頻(しきり)に鳴騷(なきさわ)ぎ、車よりして下(お)り給ふ時、御劍(ぎよけん)を突折(つきをり)候事、禁忌、殆ど是(これ)多し。後悔せしむる所なり」とぞ語られける。御臺所、御飾(かざり)を下(おろ)し給ふ。御家人一百餘輩、同時に出家致しけり。翌日、御葬禮を營むといへ共、御首(おんくび)は失せ給ふ、五體不具にしては憚りありとて、昨日(きのふ)、公氏に賜る所の鬢(びんのかみ)を御首に准(じゆん)じて棺に納め奉り、勝長壽院の傍(かたはら)に葬りけるぞ哀(あはれ)なる。初(はじめ)、建仁三年より、實朝、既に將軍に任じ、今年に及びて治世(ぢせい)十七年、御歳(おんとし)二十八歳、白刃(はくじん)に中(あたつ)て黄泉(くわうせん)に埋(うづも)れ、人間を辭して幽途(いうと)に隱れ、紅榮(こうえい)、既に枯落(こらく)し給ふ。賴朝、賴家、實朝を源家三代將軍と稱す、其(その)間、合せて四十年、公曉は賴家の子、四歳にて父に後(おく)れ、今年十九歳、一朝に亡び給ひけり。

[やぶちゃん注:遂に実朝が暗殺され、源家の正統が遂に滅ぶ。そうしてこれを以って「卷第四」は終わっている。「吾妻鏡」巻二十三の建保六年十二月廿日及び同七年正月二十七日・二十八日の条に基づく。]

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