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2013/05/09

(無題「ああ遠き室生犀星よ……」) 萩原朔太郎

 

 

 

 

ああ遠き室生犀星よ

 

ちかまにありてもさびしきものを

 

肉身をこえてしんじつなる我の兄

 

しんじつなる我の兄

 

君はいんらんの賤民貴族

 

魚と人との私生兒

 

人間どもの玉座より

 

われつねに合掌し

 

いまも尙きのふの如く日々に十錢の酒代をあたふ

 

遠きにあればいやさらに

 

戀着せち日々になみだを流す

 

淚を流す東京麻布の午後の高臺

 

かがふる怒りをいたはりたまふえらんだの椅子に泣きもたれ

 

この遠き天景の魚鳥をこえ

 

狂氣の如くおん身のうへに愛着す

 

ああわれ都におとづれて

 

かくしも痴禺とはなりはてしか

 

わが身をくゐて流涕す

 

いちねん光る松のうら葉に

 

うすきみどりのいろ香をとぎ

 

淚ながれてはてもなし

 

ひとみをあげてみわたせば

 

めぐるみ空に雀なき

 

犀星のくびとびめぐり

 

めぐるみ空に雀なき

 

犀星のくびとぶとびめぐり

 

淚とゞむる由もなき

 

淚とゞむる由もなき。 

 

[やぶちゃん注:底本第三巻「未發表詩篇」に所収する一篇。無題である。ところが、底本では、これを校訂したものを本文として、以下のものを以上の未発表原稿の上に本文として掲げている。 

 

 室生犀星に

     ――十月十八日、某所にて――

 

ああ遠き室生犀星よ

 

ちかまにありてもさびしきものを

 

肉身をこえてしんじつなる我の兄

 

君はいんらんの餞民貴族

 

魚と人との私生見

 

人間どもの玉座なり

 

われつねに合掌し

 

いまも尙きのふの如く日々に十錢の酒代をあたふ

 

遠きにあればいやさらに

 

戀着せち日日になみだを流す

 

淚を流す東京麻布の午後の高臺

 

たかぶる怒りをいたはりたまふえらんだの椅子に泣きもたれ

 

この遠き天景の魚鳥をこえ

 

狂氣の如くおん身のうへに愛着す

 

ああわれ都におとづれて

 

かくしも痴愚とはなりはてしか

 

いちねん光る松のうら葉に

 

うすきみどりのいろ香をとぎ

 

淚ながれてはてもなし

 

ひとみをあげてみわたせば

 

めぐるみ空に雀なき

 

犀星のくびとびめぐり

 

めぐるみ空に雀なき

 

犀星のくびとびめぐり

 

淚とゞむる由もなき

 

 

編者注によれば、この、

 

「日々」→「日日」

 

「かがふる」→「たかぶる」

 

「痴禺」→「痴愚」

 

とし、しかも少なくとも私には不審のある、「たかぶる」の後の、

 

怒りをいたはりたまふえらんだの椅子に泣きもたれ

 

をそのままにした校訂本文の、その題名「室生犀星に」及び附記「――十月十八日、某所にて――」について『は別稿にもとづき附した』とある。この注記から、この詩には、この無題の詩と全く同じか若しくは極めて酷似した未発表詩原稿があり(掲げるほどの異同がないことを意味している)、それには題名と附記がついていた、ということを意味している。しかし、では何故、その題名と附記まで採った『別稿』の方を未発表詩の元として挙げなかったのかが説明されていない。この詩には二つ以上の酷似した原稿があり、何らかの推定に基づき、これがより早期に書かれたものであり、その別稿には詩句上の異同が全くと言っていいほどに認められない、若しくは除去部分が無駄に残されていて、詩としての体裁をなしていないから没にしたということか?……分からない……そういうところをブラック・ボクッスにしたままに、編者によって『矯正』された(なお、私は「かがふる怒りをいたはりたまふえらんだの椅子に泣きもたれ」の一行は矯正しそこなった可能性さえ感じている)『唯一正当校訂本文』が最大活字ででんと坐っている……どうも私には、やっぱり、この筑摩版萩原朔太郎全集の校訂基準が、今一つ不審であり、不透明なのである。しかも、同全集は後の投げ込みで、本文六行目の「玉座より」の「よ」を誤字と断じて(まあ、その方がしっくりはくる)、校訂本文を「玉座なり」に修正している。

 

 しかし……萩原朔太郎がイエスに擬えた室生犀星……その首が……あの異形(いぎょう)の顔(嘗て私の同僚は犀星の顔を古武士のような立派な顔だと言ったが、私は朔太郎が最初に犀星に逢った時の――かの抒情詩から、美少年を彼は想像しており、内心、激しく失望している――烈しい驚愕と全く同じものを始めて彼の写真を見た際に味わった感覚を忘れない)が飛頭盤の如くに空中を乱舞する――朔太郎の禁断の新たな犀星への熱愛の情が伝わってくる素敵に慄っとする詩ではないか。]

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