平塚ノ海 萩原朔太郎 (自筆自選歌集「ソライロノハナ」より)
平塚の病院に昔知れる女の友の病むときいて長い松林の小路をたどつて東へ東へと急いだ。
海に望む病院のバルコニイに面やつれした黑髮の人と立つてせめて少年の時の追憶を語り合ひたかつたのである。音もない病室のカアテンの影に啜り泣く哀れの少女が思ひがけない昔の友の音づれをきいたとき、どんなにか驚きかつは悅ぶであろうといふ事も私の果敢ない驕樂の幻影であつた
けれども既にそこには待つ人は居なかつたのである、
あはれの人妻は一と月ほどまへ影のやうに此の世から消えてしまつたのである、
私は消然としてふたゝび海の方へさまよひ出た
病院の裏門を出て海岸へ
つゞける路のコスモスの花
平塚の佐々木(さゝき)病院のバルコンに
海を眺めてありし女よ
月光に魚の鱗(うろこ)のひかるとき
窓にもたれて泣く人を見き
平塚の海はあはれにも痛ましいものであつた、
濱邊には誰れ一人さまよふ者もなく、海には一つの帆影も見えない
其處にはただ松籟と濤聲とが何時もの哀歌をうたつて居たるばかりであつた
鷗の一群が私の前をよぎつて遙か先の波うち際に展開した
數十羽の白い鳥は兵士のする樣に散兵線を張つて沖の方へ沖の方へと進んで行く
悲しみて二月の海に來て見れば
浪うち際を犬の步るける
[やぶちゃん注:この一首は、朔太郎満二十四歳の時、『スバル』第三年第四号(明治四四(一九〇三)年四月発行)の「歌」欄「その四」に「萩原咲二」名義で掲載された五首の内の一首、
悲しみて二月の海に來て見れば浪うち際を犬の步ける
標記違いの相同歌である。]
かくばかり悲しき海にたゞ一つ
鷗のとぶは耐えがたきかな
其所の海岸の砂山にイスパニヤ形のベンチが置かれてあつた、
あはれ此の寂しい砂汀の上にたつた一個(ひとつ)のベンチ、その骨は銹びそのペンキは禿げ落ちてからそも幾年の間、あんどろめだの樣に御前は海ばかり眺め暮らして居たのか、その片隅に腰かけた時、私は何處からともなく運命の痛ましい訴へを聽いた、
人もなき砂山の上に置かれたる
べンチは如何にさびしからずや
幾人の肺病患者が來て息みけん
平塚の濱のあはれベンチよ
かのベンチ海を見て居りかのベンチ
日每悲しき人を待ち居り
「一人ぼつち」元氣のない旅びとは自分の指で砂に書いた文字を見つめながら、ぐつたりと疲れはてゝ其處に橫はつて居た、
何時までも、何時までも……
砂山にうちはら這ひて煙草のむ
かつはさびしく海の書きく
急にけたゝましい汽笛の音が眞晝の沈獸を破つてうら佗しいそこらの漁村に響き渡つた、
長い長い急行列車は冬枯れの木立の間をかすめるやうにして走り去つた。
私はまた立上つて松林の中をさまよつた、停車場の方へ出る路を急いだのでたどつて居るのである
海よ、さらば、
都の人は都へかへり、旅人は旅を急がなければならぬ、
何となく泣きたくなりて海へきて
また悲しみて海をのがるゝ
(平塚ノ海、完)
[やぶちゃん注:昭和五三(一九七八)年筑摩書房刊「萩原朔太郎全集」第十五巻所収の自筆自選歌集「ソライロノハナ」の一九一一年二月のクレジットを持つ「二月の海」より(同章はこの前の「大磯ノ海」という作品と二つで構成されている)。以上の通り、末尾に「(平塚ノ海、完)」として前に標題を置かない。取消線は抹消を示す(くどいがこの歌集は自筆肉筆本である)。ほぼ自筆本そのままに電子化した。従って「悅ぶであろう」「消然」「步るける」「耐えがたきかな」や句読点及びその有無も多くはママである(底本の校訂本文では仮名遣や送り仮名・漢字の誤りは勿論のこと、句読点もすべて『完璧に』整序されてしまっている)。但し、次の三箇所については鑑賞に際して著しい違和感を生ずると考え、私の判断で変更した。
・第二文「海に望む病院のバルコニイに面やつれした黑髮の人と立つてせめて少年の時の追憶を語り合ひたかつたのである。」とした末の句点は底本ではない。文意から打った。底本校訂本文でも同じく句点を打つ。
・「イスパニヤ形のベンチ」は自筆本では「ペンチ」。誤記。底本校訂本文でも同じく「ベンチ」に改めてある。
・「急にけたゝましい汽笛の音が」の「汽笛」の「汽」は自筆本では『(へん)「米」+(つくり)「気」』という奇体な字である。「氣」と配することも考えたが、それでも奇体な誤字印象を拭えないので、普通に「汽笛」の「汽」で配した。底本校訂本文でも同じく「汽」に改めてある。]