大和田建樹「散文韻文 雪月花」より「汐なれごろも」(明治二七(一八九四)年及び二九(一八九六)年の鎌倉・江の島風景) 3
降るにもあらず、晴るゝにもあらぬ空のけしきに抑へられて、濱にも得出でぬ日あり。つれづれのあまり、鎌倉名勝誌やうのもの繰返し見るに、ふと尋ねて見たくなりたるは、十六夜日記にて親しまれたる月影谷なり。極樂寺うしろの山續きなりとあるを案内にして探りたれど、村人も知らずといへば、推量にこゝかかしこかなど定めおきて歸りくる折しも、片瀨より訪ひ來れる友あり。共にしばしば此地に遊びたる同士なれど、互に見たる處見ぬ處あればとて、閑窓の興をそなたに轉ずる事になりぬ。
扇谷の壽福寺より車を下りて、實朝の墓を訪ふ。穗のなき薄は道を埋めて、踏み折りたる蹟もなきに、山水の音ひとり筧に溢れたるもゝのさびし。されど墓には錠のかゝりゐて、外より窺はるべくもあらざるこそ失望なれ。五六年あとまでは、道行く人も自由に花折り手向けつるものをと、打ちつぶやけど誰かは答へん。寺に歸りて僧に請ふまでの事もなければと、友のいふにまかせて、山道をあとへと下る。
次に十大の井戸を見んとす。我は始めてなれば、殊に心すゝみて行くほどに、海藏寺といふ寺に着きぬ。門前に浮草青く鎖したる水のあるは、名の高き底拔の井なるべし。かの『水たまらねば月もやどらず』の歌を、石に彫りて建てたるにて知りぬ。寺にて案内の人やあると尋ぬれば、片足みじかき寺男の掃除してゐたるが、箒を置きていざこなたへといふ。岩根づたひに猶のぼりゆけば、岩屋の戸を引きあけて是なりといふ。見れば恰も紺屋の藍壺をならべたるやうに、十二の井戸はならびゐたり。されど水なきに非ずやと語りつゝ、蝙蝠傘のさきをさし入れたれば、ぬれたるこそ道理なれ、水は透きとほる如き淸さにて、なみなみとたゝへゐたるぞかし。奧の壁には觀音と大師の立像ありて、薄暗き中に拜まるゝもそゞろ寒し。傳へいふ、弘法大師の加治水なりと。眞僞は知らねど、珍らしき見ものゝには洩るべからず。
寺男に別れんとして爲相卿の墓を問へば、網引地藏といふて尋ね給ふべし、其石段の上こそ卿の御墓なれと教ふ。猶道すがら村人に問ひつつたどりゆけば、露ふかき谷ふところに淨光明寺といふ寺あり。其奧なる山道を蜘妹の巣かき拂ひつゝ分け登れば、聞きしにまがはぬ墓こそ立ちたれ。五輪の文字は幾星霜の雨に打たれて形を見せねど、玉垣に彫れる冷泉家門人の文字は新しくして、歌道の絶えざるを知らせたり。雪の如き苔は燈籠を封じて石いよいよ白く、蓑の如き蔦は松を圍みて風ますます綠なるに、斜陽うすくこぼれて人影の塔より長きも、身にしむ山の夕暮なり。遠くは由井が濱より三浦のかたまで、たゞ一望の下に來りて、歸帆の影と夕波の聲と、今も歌人の幽魂を慰むるに似たり。卿の歌はまた聞く能はず。日ぐらしひとり昔の聲に鳴く。
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