鬼城句集 夏之部 凉 (残り九句)
草刈の凉しき草の高荷かな
雜兵の兜かむらぬ凉しさよ
弟子達に問答させて凉みかな
凉しさや犬の寐に來る藏のかげ
布衣の身の勤め凉しや黄帷子
[やぶちゃん注:江戸時代に武士の大紋に次ぐ四番目の礼服を「布衣(ほい)」といい、それを着る御目見(おめみえ)の身分のことをここではいう。それに縁語のように「黄帷子」の実装を配したところの、江戸の一人の武士を描いた先の「雜兵の」の句と同じく一種の夢想句である。鬼城は慶応元(一八六五)年に鳥取藩士小原平之進の長男として江戸に生まれたが、八歳(明治五(一八七二)年)の時に群馬県高崎市に移り住み、十一歳で母方の村上家の村上源兵衛の養子となって村上姓を名乗っている(事蹟はウィキの「村上鬼城」に拠った)。但し、次に示す注も必ず参照のこと。]
凉しさや梧桐もまるゝ闇の空
鳴かねども河鹿凉じき座右かな
そこそこに都門を辭して逃げ歸る
[やぶちゃん注:ウィキの「村上鬼城」によれば、明治一七(一八八四)年、二十歳の時、高崎から東京へ赴いて軍人を志したものの、耳疾のために断念、明治法律学校(現在の明治大学の前身)で法学を学びながら、司法代書人(現在の司法書士の前身)となり、父の勤務先である高崎裁判所司法代書人となって以後、亡くなるまでの一生を高崎で過ごした、とある。この句はその、錦を飾らずに帰郷した折りの自身の印象を自嘲的に詠んだものと推測される。但し、この鬼城の「父」というのが実父であるのか養父であるのかが、今一つ、よく分からない。「高崎新聞」公式サイトの「近代高崎150年の精神 高崎人物風土記」にある「村上鬼城」の非常に詳しい事蹟を読んでも、かなり微妙だからである。そこでは、鬼城は鳥取藩江戸邸で藩士小原平之進長男として出生、彼の祖父小原平右衛門は大坂御蔵奉行を務めた家禄五百石取りであったものの、その後三代養子が続いて禄を減らされ、父平之進の時には三百五十石であったとし、続けて、『明治維新後に父が県庁官吏の職を得て、前橋に移住。一年ほど後に高崎に居を移し』(下線やぶちゃん。以下同じ)たとあり、更に二十四の時に結婚した妻スミとの間に『二人の娘を授かったのも束の間、父を亡くすとすぐにスミも』二十七の若さで病死し(この「父」は文脈上は実父としか読めない。なお、ウィキの方には、鬼城は八人の娘と二人の息子を儲けて子宝に恵まれたものの、生活は常に貧窮していたという記載があり、「高崎新聞」版にも三十二『歳でハツと再婚し、二男八女の子宝に恵まれますが、生活は楽では』なかったと、所謂、鬼城=〈境涯の俳人〉の如何にもな強調がなされてある。私の〈境涯俳句〉批判は拙攷「イコンとしての杖――富田木歩偶感――藪野直史」を参照されたい)、『耳の状態が悪化し悲嘆にくれる中で、司法官も断念した荘太郎は、法律の知識を生かし、高崎裁判所の代書人(現在の司法書士)とな』ったとあるからである。ここでは一貫して実父は彼の傍におり、養父の影はまるで見えないかのように読める。則ち、どうも養父というのはただの縁組上のものに過ぎないように思われ、実父とともに生活はしていたように感じられるからである。ただ、この記載とウィキの記載とを並べてみると妙な齟齬が感じられるのである。それはウィキに出る『父の勤務先である高崎裁判所司法代書人となる』という部分で、「父の勤務先である」と話柄内同時時制で言っている以上、これは前掲の「高崎新聞」の叙述によって実父が既に亡くなった後のことであるから、この「父の勤務先である」の「父」は「養父」でなくてはならないことになるからである。どうも私は孰れの記載も何とも言えない言い足りていない違和感を覚えるのである。鬼城研究家の御教授を是非乞いたいところである。]
凉しさや小便桶の並ぶところ
凉しさや茸がはえてぬるゝ塀
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