北條九代記 尼御臺政子上洛 付 三位に叙す
○尼御臺政子上洛 付 三位に叙す
建保六年二月四日、尼御臺所政子御上洛あり。その次(ついで)に紀州熊野山抖藪(とそう)あるべしとて、相摸守時房を召連らる。同じき四月二十九日、南山巡禮の望を遂(とげ)て、京都に下向し給ふ。仙洞より勅ありて、尼御臺政子を從三位に叙せらるべき由、宣下せらる。上卿(しやうけい)は三條中納言なり。凡そ出家の人の叙位のことは弓削道鏡の外に其例なし。女の叙位は安德天皇の外祖母二位尼を初とす。その例に準據せらる。重ねて仙洞より尼御臺所に御對面あるべしと仰せ下さる。勅答申されけるやう、「關東邊鄙の老尼の身として、龍顏に咫尺(しせき)し奉らんは其益なきに似たり。憚り存ずる所なり。只、諸寺禮佛の志を遂げ奉る計(ばかり)なり」とてやがて鎌倉に歸り給ふ。
[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻二十三の建保六(一二一八)年二月四日及び四月二十九日の条に基づく。筆者は「北條九代記」の各所で女性である政子が政務を牛耳ることに対し辛辣であるが、ここでも筆致にそうした臭いがする。
「抖藪」「抖擻」とも書く。梵語“dhūta”の訳で音字は「頭陀」。衣食住に対する欲望を払い除けて身心を清浄に保つこと、また、その修行を指す。
「相摸守時房」鎌倉幕府初代連署北条時房は時政の三男で、政子や義時の異母弟である。
「上卿」「じやうけい(じょうけい)」とも読む。朝廷の諸行事や会議などに於ける執行責任者として指名された公卿のこと。列席した公卿中の首席の者が選ばれた。
「三條中納言」藤原頼房(安元二(一一七六)年~建長五(一二五三)年)か? 参議藤原頼定の次男で、越後守在任中の建久六(一一九五)年には源頼朝の石清水八幡宮参拝や東大寺供養の供をしている。斎院長官や右近衛中将を歴任し、この建保六年に同じく従三位に敍せられていることからの推定であるが、彼が「三條中納言」と呼ばれいたかどうか不明。そう呼ばれていた人物では藤原長兼がいるが、彼は建暦元(一二一一)年に辞しており、また建保二(一二一四)年に出家していて、ここには相応しくない気がする。識者の御教授を乞う。
「咫尺」「咫」は中国の周の制度で八寸に、「尺」は十寸に当り、元来は距離が非常に近いことを言い、転じて、貴人の前近くに出て拝謁する意となった。
「吾妻鏡」を以上の二日分を本作のようにカップリングして示しておく。
○原文
(二月)四日丙午。快霽。尼御臺所御上洛。相州扈從。是爲熊野山御斗藪也。以此次。令伴故稻毛三郎重成入道孫女〔年十六。綾小路三品師季卿女。〕給。依可被嫁于土御門侍從通行朝臣也。〔同廿一日入洛給云々。〕
(四月)廿九日庚午。晴。申剋。尼御臺所御還向。南山御奉幣無爲。御在京之間有珍事等。去四日御幸于大秦殿。仍立御車於三條河原邊。令見物給。因茲。御幸之儀殊被刷之云々。同十四日可令敍從三位之由宣下。上卿三條中納言。〔參陣。〕即以淸範朝臣。被下件位記於三品御亭。此事儀定及細碎歟。出家人敍位事。道鏡之外無之。女敍位者。於准后者有此例。所謂。安徳天皇御外祖母也。亦知足院殿御母儀准后事。適出家以後也。仍以彼准據被敍之云々。同十五日自仙洞可有御對面之由雖被仰下。邊鄙老尼咫尺龍顏無其益。不可然之旨被申之。抛諸寺礼佛之志。即時下向給云々。
○やぶちゃんの書き下し文
(二月)四日丙午。快霽(くわいせい)。尼御臺所、御上洛。相州、扈從(こしよう)す。是れ、熊野山御斗藪(ごとさう)の爲なり。此の次でを以つて、故稻毛三郎重成入道が孫女〔年十六。綾小路三品師季卿女(むすめ)。〕を伴はしめ給ふ。土御門侍從通行朝臣に嫁せらるべきに依りてなり。〔同廿一日、入洛し給ふと云々。〕
(四月)廿九日庚午。晴る。申の剋、尼御臺所、御還向(ごげかう)。南山の御奉幣、無爲(ぶゐ)なり。御在京の間、珍事等、有り。去ぬる四日、大秦殿(うづまさどの)に御幸あり。仍つて御車を三條河原邊に立てて、見物せしめ給ふ。茲(これ)に因つて、御幸の儀、殊に之を刷(かいつくろ)はると云々。
同十四日、從三位に敍せしむべきの由、宣下。上卿(しやうけい)は三條中納言〔參陣。〕。即ち、淸範(きよのり)朝臣を以つて、件(くだん)の位記を三品の御亭へ下さる。此の事、儀定細碎(さいさい)に及ぶか。出家人の敍位の事、道鏡の外、之無し。女敍位(によじよゐ)は、准后(じゆんこう)に於いては、此の例有り。所謂、安德天皇の御外祖母なり。亦、知足院殿の御母儀准后の事は適(たまたま)出家以後なり。仍つて彼(か)の准據を以つて之を敍せらると云々。
同十五日、仙洞より御對面有るべきの由、仰せ下さると雖も、
「邊鄙の老尼、龍顏に咫尺は其の益(やく)無し。然るべからず。」
の旨、之を申され、諸寺礼佛の志を抛(なげう)ち、即時に下向し給ふと云々。
・「稻毛三郎重成」彼は政子の妹を妻としていたから、この孫娘は北条時政の外曾孫に当たる。
・「綾小路三品師季」原姓は源氏である。
・「土御門侍從通行朝臣」は土御門(源)通親五男。なお、「愚管抄」ではこの時、後鳥羽上皇の子を実朝の養子としようと画策した、と記す。
・「大秦殿」広隆寺の太秦殿。秦氏名残りの漢織女(あやはとりめ)・呉秦女(くれはとりめ)・太秦明神を祀る。
・「淸範朝臣」能筆で知られた高倉清範か。然るべき官位の人間ではないようにも思われるが、彼は後鳥羽院の母兼子の甥に当たる。
・「件の位記を三品の御亭へ下さる」従三位に敍す旨の書面を三位政子の宿所へ下賜なされた、の意。
・「此の事、儀定細碎に及ぶか」この敍位に就いてはその決定に至るまで相当にもめたものらしい、の意。
・「知足院殿の御母」関白藤原忠実の母藤原全子(ぜんし/またこ 康平三(一〇六〇)年~久安六(一一五〇)年)。彼女は天永三(一一一二)年に摂政の母として従三位、更に永久三(一一一五)年に従一位に叙され、久安六(一一五〇)年には准三宮となっている(ウィキの「藤原全子」に拠る)。]
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