森川許六 風俗文選 より 鎌倉ノ賦 幷序
[やぶちゃん注:「風俗文選」十巻は蕉門十哲の一人彦根藩士森川許六(きょりく 明暦二(一六五六)年~正徳五(一七一五)年)が芭蕉の遺志を継ぐ最初の俳文集として宝永三(一七〇六)年、京都井筒屋庄兵衛から当初は「本朝文選」と題して刊行した俳文集。巻頭に李由序・去来序・支考序・許六序・作者列伝・目録を配し、本文の最後に汶村後序、巻末に許六門人孟遠らの跋を持つ。本文は蕉門俳人二十八名の作品約一二〇編を「古文真宝後集」などに倣って、辞・賦・譜等二十一類に分類して収めてある。「鎌倉ノ賦 並序」は、その「卷之二 賦類」の二番目に配された許六自身の賦(この場合の「賦」は漢文で対句を多用して句末で韻を踏む文体に擬えたもの。原文は以下の通りで漢文ではない)。
底本は早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」の同図書館蔵の寳永三年跋の坪内逍遙旧蔵本を画像を視認、不分明な個所については岩波文庫一九二八年刊の伊藤松宇校訂「風俗文選」及び吉川弘文館昭和六〇(一九八五)年刊の「鎌倉市史 近世近代紀行地誌編」に載る同部分を対照資料として字を確定した。なお、底本は片仮名による総ルビであるが、五月蠅いので読みの振れそうなものだけ限って、平仮名で示した。底本の「。」は適宜、読点に代え、一部に記号を追加してある。それらの記号の選択には特に本作の「賦」に擬えた巧みな対句表現を意識して配したつもりである。踊り字「〱」は正字化若しくは「々」とした。「冠(くはん」「郡(こをり)」「境(さかい)」などの歴史的仮名遣の誤りもそのまま再現した。底本では枠で囲まれた標題中の「幷序」は有意に小さく、序(○の前の部分)は底本では全体が一字半下げである。底本では本文頭の「〇」は、その半分が本文全体より上に飛び出している。標題と序と本文の間を一行空けた。読みがやや五月蠅く感じられる向きの方のために、直後に読みを排除したものを載せ、最後に注を附した。]
鎌倉ノ賦 幷序 許六
夫(それ)相摸國(さがみのくに)、鎌倉は、郡(こをり)の名にして、大職冠鎌子丸(だいしよくくはんかまこまる)の時、靈夢によつて、鎌を理(うづ)むの地也。このゆゑに郡の名とす。染屋の時忠、總追捕使(そうついほし)として、文武の御宇より、聖武の神龜年中まで、こゝに居す。それより上總介平直方(かづさのすけたいらのなをかた)、これに住して、八幡太郎義家朝臣(はちまんたらうぎかのあそん)より、源家代々居住の地なり。賦して曰、
○三代の將軍、九代の執權、春の花さけば、秋の紅葉と變ず。柳のみやこ・もろこしの里、鶴が岡(をか)・雲井の嶺(みね)。下(しも)の若宮は、賴義(らいぎ)朝臣の建立にして、上(かみ)の若宮は、源(げん)二位(い)の勸請なり。宮柱(みやばしら)ふとしき立(たて)て、民の戶烟(けふり)にぎはへり。江の島は、三辨財天。三浦三崎に、杜戸(もりと)の明神あり。鳥合(とりあはせ)が原は、相摸入道が鬪犬の地。由井の濱は、下河邊(しもかうべ)の庄司が、笠懸(かさかけ)を射初(いそむ)る。小袋坂(こぶくろざか)・稻村が崎・七里が濱。月かげが谷(やつ)には、暦(こよみ)を作り、扇が谷には、佐竹の紋(もん)の、畦(うね)あり。腰越(こしごえ)の寺には、辨慶が申狀(まうしじやう)の下書を殘し、兒(ちご)が渕(ふち)には、白菊(しらぎく)が最期の哥をとゞむ。片瀨川には、宗尊親王(そうぞんしんわう)の影をうつし、滑川(なめりがは)には、青砥(あをと)が錢(ぜに)を搜す。日蓮・盛久が首の座、景清・からいとが籠(ろう)のあと。大塔(おほたう)の宮は、侫臣(ねいしん)の讒(ざん)にくるしみ、實朝の卿は、公曉が爲に拭(しい)せらる。勝長壽院には、義朝の髑髏(どくろ)を葬(はうふ)り、法華堂には、賴朝の墳墓を築く。西行上人は、三夜に軍法を説(とき)、定家の卿は、七年和歌を談ず。化粧坂(けはひざか)は、少將に名高く、神前の舞臺は、靜(しづか)が舞をはやす。和田・畠山、千葉・北條。管領屋敷・梶原屋敷。佐々木屋敷には、馬ひやし場の水あり。正宗が舊跡には、刄(やいば)をきたふ泉を見る。花が谷(やつ)・蛇が谷。梅が谷・松葉が谷、建長寺・最明寺、圓覺寺(えんかくじ)・壽福寺。海藏寺は、石割玄翁(いしわりげんをう)の開基。松が岡は、實朝の尼寺也。籠釋迦(かごじやか)・鐵地藏(てつぢざう)、深澤(ふかざは)の大佛・長谷の觀音、金洗澤・星月夜の井。橋の下の小哥は、あめ牛めくらが威勢をそしり、小栗(ぐり)の說經は、横山が強盜(がうどう)を語る。阿佛・長明(めい)が日記、重衡・俊基の紀行。春は雪の下に花を蹈(ふん)で惜(をし)み、夏は山の内に鵑(けん)を待て眠る。美奈能瀨(みなのせ)川の月、御輿(こし)が嶽の雪。礎(いしづへ)のあとは、感慨の情をまし、鳩の聲は、懷舊の腸(はらはた)を斷(たつ)。鰹(かつを)は兼好が筆にいやしめ、左蒔(ひだりまき)の榮螺(さゞい)は、實平(さねひら)が麁相(そさう)を殘す。苔(のり)・磨砂(みがきずな)、海老・柴胡(さいこ)。すべて魚鼈(ぎよべつ)の類(たぐひ)、あまかづきいとまあらず、高瀨(たかせ)おしおくり、かよはぬ日なし。名(な)にしの地藏は、武相(ぶさう)の境(さかい)にして、六浦(むつら)・金澤は、むさしの地なり。瀨戶の明神には、四橋(きやう)一覽の眼(まなこ)をさき、能見堂(のうけんだう)には、八景惣詠(そうえい)の詩を見る。照手(てるて)の松、筆捨(ふですて)の松、金澤の文庫といふは、稱名寺にあつて今はなし。文珠像・普賢像、こく梅(むめ)・櫻梅(さくらむめ)、せいこ梅(むめ)・靑葉(あをば)の紅葉(もみぢ)。わづかに西湖(さいこ)・さくらの二梅(ばい)をとゞむ。大きなるものは、賴朝のかうべにたとへ、廣き所は、かまくら海道に比す。今の戸塚は、いにしへの材木町といひ、大磯の宿は、遊女町の沙汰なり。されど、東南に海(うみ)近く、西北(せいぼく)に山つらなれり。境地(けうち)狹(せまく)してすでに谷々(やつやつ)の號あり。むかしの繁花繁榮を論ぜば、なんぞ今の泰平不易の江戶に及ばむや。
■読み排除版
鎌倉ノ賦 幷序 許六
夫相撲國、鎌倉は、郡の名にして、大職冠鎌子丸の時、靈夢によつて、鎌を理むの地也。このゆゑに郡の名とす。染屋の時忠、總追捕使として、文武の御宇より、聖武の神龜年中まで、こゝに居す。それより上總介平直方、これに住して、八幡太郎義家朝臣より、源家代々居住の地なり。賦して曰、
○三代の將軍、九代の執權、春の花さけば、秋の紅葉と變ず。柳のみやこ・もろこしの里、鶴が岡・雲井の嶺。下の若宮は、賴義朝臣の建立にして、上の若宮は、源二位の勸請なり。宮柱ふとしき立て、民の戶烟にぎはへり。江の島は、三辨財天。三浦三崎に、杜戶の明神あり。鳥合が原は、相摸入道が鬪犬の地。由井の濱は、下河邊の庄司が、笠懸を射初る。小袋坂・稻村が崎・七里が濱。月かげが谷には、曆を作り、扇が谷には、佐竹の紋の、畦あり。腰越の寺には、辨慶が狀の下書を殘し、兒が渕には、白菊が最期の哥をとゞむ。片瀨川には、宗尊親王の影をうつし、滑川には、青砥が錢を搜す。日蓮・盛久が首の座、景清・からいとが籠のあと。大塔の宮は、侫臣の讒にくるしみ、實朝の卿は、公曉が爲に拭せらる。勝長壽院には、義朝の髑髏を葬り、法華堂には、賴朝の墳墓を築く。西行上人は、三夜に軍法を説、定家の卿は、七年和歌を談ず。化粧坂は、少將に名高く、神前の舞臺は、靜が舞をはやす。和田・畠山、千葉・北條。管領屋敷・梶原屋敷。佐々木屋敷には、馬ひやし場の水あり。正宗が舊跡には、刄をきたふ泉を見る。花が谷・蛇が谷。梅が谷・松葉が谷、建長寺・最明寺、圓覺寺・壽福寺。海藏寺は、石割玄翁の開基。松が岡は、實朝の尼寺也。籠釋迦・鐵地藏、深澤の大佛・長谷の觀音、金洗澤・星月夜の井。橋の下の小哥は、あめ牛めくらが威勢をそしり、小栗の說經は、横山が強盜を語る。阿佛・長明が日記、重衡・俊基の紀行。春は雪の下に花を蹈で惜み、夏は山の内に鵑を待て眠る。美奈能瀨川の月、御輿が嶽の雪。礎のあとは、感慨の情をまし、鳩の聲は、懷舊の腸を斷。鰹は兼好が筆にいやしめ、左蒔の榮螺は、實平が麁相を殘す。苔・磨砂、海老・柴胡。すべて魚鼈の類、あまかづきいとまあらず、高瀨おしおくり、かよはぬ日なし。名にしの地藏は、武相の境にして、六浦・金澤は、むさしの地なり。瀨戶の明神には、四橋一覽の眼をさき、能見堂には、八景惣詠の詩を見る。照手の松、筆捨の松、金澤の文庫といふは、稱名寺にあつて今はなし。文珠像・普賢像、こく梅・櫻梅、せいこ梅・靑葉の紅葉。わづかに西湖・さくらの二梅をとゞむ。大きなるものは、賴朝のかうべにたとへ、廣き所は、かまくら海道に比す。今の戸塚は、いにしへの材木町といひ、大磯の宿は、遊女町の沙汰なり。されど、東南に海近く、西北に山つらなれり。境地狹してすでに谷々の號あり。むかしの繁花繁榮を論ぜば、なんぞ今の泰平不易の江戶に及ばむや。
[やぶちゃん注:なお、これが錯文でないとすれば、前後から建仁三(一二〇三)年十月から十二月の間で見た可能性が大きい。本作に登場する地名旧跡は筆者の錯誤によるもの以外は、概ね「新編鎌倉志」に記載するので「新編鎌倉志總目錄(やぶちゃん電子版」で検索、確認されたい。
「大職冠鎌子丸」藤原鎌足。彼は初め、中臣鎌子(なかとみのかまこ)と名乗っていたが、後に中臣鎌足に改名、天智天皇八年(六六九)年の臨終に際して史上藤原鎌足だけに授けられた最上位「大織冠」(大化三(六四七)年に制定された冠位十三階の制で設けられたもの)とともに「藤原」姓を賜った。
「柳のみやこ」鶴岡八幡宮舞殿の辺りから東を柳原と呼んだが、印象的な位置としては古都鎌倉の中心と言えぬことはない。
「もろこしの里」片瀬川の東の原をかつて「唐原(もろこしがはら)」と呼称した。ここは江戸時代の鎌倉への一般的観光ルートの経由地である。前の「柳原」と位置はめちゃくちゃであるが、ここは都の原とその周縁の田舎の原を対句仕立てで示したとすれば納得がゆくように私には思われる。
「雲井の嶺」「鶴が岡」に完全なる対句といたものならば固有名詞でなくてはならないが、そのような名の峰はない(少なくとも私の知見にはない)。但し、鶴が(舞降りる)岡という解字的意味に、雲居の峰ととれば、如何にも綺麗な対句となる。
「宮柱ふとしき立て」「大宮柱太敷立」は大祓詞(おおはらえのことば。中臣祓(なかとみのはらえ)ともいう)祝詞に現われる台詞。
「相摸入道」北条高時。
「下河邊の庄司」頼朝の近臣にして弓矢の名手下河辺行平。
「月かげが谷には、曆を作り」極楽寺境内の西の谷。「十六夜日記」を記した阿仏尼が住んだ場所として知られるが、「新編鎌倉志卷之六」の「月影谷」の項には、「昔は曆を作る者居住せしとなり」とある。
「扇が谷には佐竹の紋の、畦あり」佐竹氏の定紋は「扇に月」(日の丸扇)である。佐竹氏第三代当主である佐竹秀義は頼朝に従って奥州合戦に加わったが、その際に伝家の無地の白旗を持参したところ、頼朝から源家の旗と紛らわしいとして扇を白旗の上に付けるよう命じられた。この扇は月を描いており、以後、佐竹氏は家紋として「扇に月」(日の丸扇)を用いるようになった。但し、室町期の佐竹氏本家当主佐竹義人は山内上杉家の出身で、扇谷に居住した上杉氏とは同族内対立にあり、この「扇が谷には」というのは不審。また「畦」人工的に作られた水を溜める溝のおとと思われるが、該当するような構造物や地形は扇ヶ谷には現在、認められない。実は現在、佐竹屋敷跡するものが大町名越の大宝寺のある谷にあるのであるが、これは「相模風土記」に『土人の傳に此地は佐竹常陸介秀義以後、數世居住の地にて、今猶當所を佐竹屋鋪と字するは此故なり』とあって、参照した東京堂出版の白井永二編「鎌倉事典」ではそれに続けて、この大宝寺のある『谷は五本骨の扇形で、これにより佐竹の紋所が生まれたとも』いう、という記載がある。更に私はこれと、扇ヶ谷飯盛山の麓にある鎌倉十井の一つで、開いた扇の形に掘削された扇ノ井(現在は私邸地所内で見学は出来ない)とがごっちゃになって許六が錯誤したものではなかなろうかと推理した。「畦」は水路や井戸と連想が繋がるからである。大方の御批判を俟つものである。
「定家の卿は、七年和歌を談ず」言わずもがなであるが、これは京の定家と実朝が和歌や歌学の遣り取りをしたことを指していよう。実朝は承元三(一二〇九)年に藤原定家に自らが詠んだ和歌三十首の評を請うており、建保元(一二一三)年十一月二十三日は定家から相伝の「万葉集」を受け取っており、現在ではその前後に「金槐和歌集」が纏められたと考えられているから、実朝の死去は建保七(一二一九)年一月二十七日であるから、定家と親交を九年とするのはすこぶる自然な表現ととれる。
「化粧坂は、少將に名高く」歌舞伎や舞踊の一つに「帯引物」というのがあり、そこでは仇討ちで知られる曾我五郎が親しく通う大磯の廓の傾城「化粧坂(けわいざか)の少将」が、五郎の父の仇敵工藤祐経が廓内にありと聞きつけて女だてらに勇み立って駆けこもうとするのを小林朝比奈が少将の帯を捕らえて引き止めるという設定になっている。彼女はその名から、恐らくは初め、この鎌倉の化粧坂下(遊廓として知られた、というか伝承の一つにある)出身の遊女であったという元設定なのであろう。それを許六は謂ったものと推測する。因みに、「少将」と名乗るのは、彼女が元は平家のやんごとない姫であったというような原設定でもあろう。
「佐々木屋敷には、馬ひやし場の水あり」「鎌倉攬勝考卷之九」によれば、「佐々木屋敷」跡と称する知られたものは「佐々木壹岐前司泰綱第跡」及び「佐々木三郎昌寛法橋第跡」であるが前者は二階堂の東、後者は塔の辻近辺と思われ、浄妙寺の東の公方屋敷跡とする野原の岩窟にあった「馬ひやし場」(「新編鎌倉志卷之二」では『又此の公方屋敷東の山際に、御馬冷場(をんむまひやしば)とて、巖窟(いはや)の内に水あり。賴朝の馬、生唼(いけづき)・磨墨(するすみ)の、すそしたる所なりと云(いひ)傳へて二所(ふたところ)あり。淨妙寺より此邊まで、足利家の屋敷と見へたれば、賴朝に限るべからず、馬も二疋のみならんや。鶴が岡の鳥居の前より此地まで十五町あり』とある)と一致しない。これは単純に許六の公方屋敷の錯誤ではないかと私は判断する。
「正宗が舊跡には、刄をきたふ泉を見る」「正宗」は鎌倉末期から南北朝初期にかけて活躍した刀工五郎入道正宗。新藤五国光に師事して諸国を修行行脚、鎌倉で「相州伝」を完成させた鍛治師である。現在、佐助ヶ谷の入口近くに正宗の井戸及び正宗稲荷と呼ばれる刃稲荷がある。因みに彼の墓は本覚寺にある。
「橋の下の小哥は、あめ牛めくらが威勢をそしり」これについて、ネット検索をかけた結果、大森隆子氏の論文「保育のための“遊び”研究考(Ⅷ)―「草履隠し」について―」(The Bulletin of Toyohashi Junior College 1996, No. 13, 61-75)に以下の内容を披見出来た(表記及び記号・字空けの一部を改変省略した)。下線は私の附したものである。
《引用開始》
Ⅰ
「草履隠し」の発祥と展開
伝承歌謡の研究者であった志田延義は,その著『続日本歌謡圏史』の中で,「草履隠し」の歌と「徒然草野槌所載巷歌」との関係に関心を寄せて考察をなさっておられる.結論からいえば,このわらべ歌は「これら二首の巷歌を子供の世界に摂取して伝承したものである」と相互の密接な関係を認められた。元歌として考えられたその二首とその意の解釈も含めて、氏の言葉を借りながら紹介しておきたい。
『国文論纂』所収、目黒和三郎の「第五十俗謡巷歌」には、「徒然草野槌に、頼朝の時、俗間に謡へりとて、左の二ツのものをいだせり、」といって、
一りけんちやう、二けんちやう、三里けんちやう、四けんちやう、しこのはこの上には,ゑもはもおとり、十万鵯、豆なかえたよ、黒虫は源太よ、あめ牛めくらが、杖ついてとほるところ、それはそこへつんのけ、橋の下の菖蒲は,折れどもをられず,かれどもかられず、伊東殿、土肥殿、土肥がむすめ、梶原源八、介殿、のけ太郎殿、を掲げ、解を試みて、一りけんちやう云々、こは一間町二間町などといふ義にて、鎌倉の町割をいふなり、(中略)蒲の御曹子の、御連枝なれども、弱きにも、強きにも、何の用にたち給はぬを、菖蒲のをれどもをられず、かれどもかられずといふなり、
とある。すなわち元歌の二首とは、「一りけんちやう、二けんちやう…」と「橋の下の菖蒲…」をいう。
現在、伝承遊び研究の第一人者でおられる梶原氏も今日に伝わる草履隠し歌の代表例を数種あげ、それらはいずれも「鎌倉時代の俗謡から派生した<ぞうりかくし>の歌です」と、『徒然草野槌』の記述を引用して志田氏と同様の説を発表されている。
《引用終了》
同論文によれば、この「草履隠し」という童子らの遊びは、論文冒頭に『まず全員が履物の片方を差し出して一列に並べ、その上を親が唱句に合わせて順番に指差してゆく。歌の終に当たった履物の持ち主は、その瞬間に鬼と化し、履物を隠す<隠し鬼>へと移行する』とある。「土肥」に下線を附したのは、後掲される土肥「實平」との関係性を強く示唆する部分でもあるからである。
「小栗の説經は、横山が強盜を語る」小栗判官と照手姫の話は説経節で知られるが、そこでは藤沢俣野の盗賊横山の館に宿をとった小栗を、その財宝を狙う横山から救うのが、横山に養われていた照手姫であったという設定となっている。
「重衡・俊基の紀行」「重衡」は平清盛五男平重衡。平家滅亡後、鎌倉に護送され、頼朝がその潔さに助命を考えるも、南都焼討の因によって木津川畔にて斬首、奈良坂般若寺門前で梟首された(享年二十九歳)。「俊基」は日野俊基。元徳三・元弘元(一三三一)年に発覚した討幕計画の画策による元弘の乱で捕縛され、葛原岡で処刑された。但し、これら二人が実質的な幕府の裁きのための下向に際し、紀行を残したというのは初耳である。識者の御教授を乞う。ただの辞世的伝承叙述を指すものか。
「鵑」ホトトギス。杜鵑。
「左蒔の榮螺は、實平が麁相を殘す」頼朝が石橋山の戦いの後に敗走、辛くも三浦半島から房総に落ちのびた際、実平の操った船を降り立った際(若しくは後日の物見遊山の時とも)、頼朝がサザエの角で足を怪我して貝を叱責、それよりここのサザエには角がないという伝承はあるようである。これはしかし、後の日蓮の(逆に)三浦上陸の際の霊験としてもあり、後世の作話であろう。
「苔」アサクサノリやイワノリの類、更には高い確率でワナメなども含むものと思われる。以下、鎌倉名産尽くしである。
「磨砂」関東ローム層の火山灰地層から、鍋などを磨くものとして採取販売されていたものと思われる。
「海老」鎌倉海老。イセエビ。
「柴胡」「鎌倉攬勝考卷之一」に、
柴胡 藥品、鎌倉柴胡の名あれど、多くは龜井野、長五等の野原より堀出す。
とある。双子葉植物綱セリ目セリ科ミシマサイコ Bupleurum scorzonerifolium(亜種としてBupleurum falcatum var. komarowi と記載するものもあり)の根。漢方で柴胡と呼ばれる生薬であり、解熱・鎮痛作用がある。大柴胡湯(だいさいことう)・小柴胡湯・柴胡桂枝湯といったお馴染みの、多くの漢方製剤に配合されている。和名は静岡県の三島地方の柴胡がこの生薬の産地として優れていたことに由来する。
「龜井野、長五」は現在の藤沢市亀井野(六会附近)と長後を言う。
「あまかづき」「海人潜」と書き、海人(あま)が水に潜ること。講談社「日本国語大辞典」の用例には、まさにここが引用されている。
「高瀨おしおくり」「高瀨」は川船の一種の高瀬舟。古代から中世にかけては小形で底が深かったが、近世になってからな大形で底が平たく浅いものになった。「おしおくり」も「押し送り船」で、帆をあまり使わず、数人で櫓を漕いで進める船のこと。特に獲れた魚類を魚市場に運んでいた早船のことをこう言った。
「名にしの地藏は、武相の境にして」鼻欠地蔵のことを指している。
「四橋一覽の眼をさき」?。全く分からない。識者の御教授を乞うものである。
「文珠像・普賢像、こく梅・櫻梅、せいこ梅・靑葉の紅葉。わづかに西湖・さくらの二梅をとゞむ」これは「新編鎌倉志卷之八」に示されてある、金沢八木〔靑葉楓・西湖の梅・櫻梅・文殊梅・普賢象梅、是は稱名寺境内にあり。黑梅今は絶たり。蛇混柏、瀨戸の神社に有。外に雀ケ崎の孤松、是を八木といふ。〕の内の、称名寺境内にあった六種を指している。「文珠像・普賢像」前者は「文殊梅」の、後者は「普賢象梅」の誤りであるが、好意的に考えれば、「像」はそれぞれの菩薩名を模(かたど)る、模すの意で用いているのようである。許六の時代にあってもこの六つの内、四種が既に失われていたことが分かる。
「大きなるものは、賴朝のかうべにたとへ、廣き所は、かまくら海道に比す」古来、頼朝の頭は大きいとされてきた。また、平賀源内の「源氏大草紙」の「四」に「物事の廣き譬に言ひ傳ふ實に鎌倉の海道筋」とあって、広い譬えとして鎌倉街道が一般的によく使われていたらしいことも分かる。面白い俚諺である。
「今の戶塚は、いにしへの材木町といひ」そう呼称した記録を今のところは見出せないが、戸塚は材木商が多かったものか。因みに戸塚からは大分離れるが、現在の横浜駅近くの平沼町には材木町の旧名がある。]