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2013/05/24

耳嚢 巻之七 稻荷宮奇異の事

 稻荷宮奇異の事

 

 久保田何某は、久しく小日向江戸川端に借地して住(すみ)けるが、拜領の屋敷と相對替(あひたいがへ)して、其儘右借地を居(ゐ)やしきとしてありしが、借地の比(ころ)より稻荷とてちゐさき洞(ほら)ありしが、地にては甚だおろそかにせしに、地主相對替なしけるが右洞も地主へ歸し、本所へ右地主引移りけるに、二三日過(すぎ)て取拂(とりはらひ)候元(もと)の場所え引渡しけるが、祠(ほこら)を唯持來るや、以前の通りありしゆへ、驚き陰陽家(おんみやうか)の者抔招(まねき)て、地祭(ぢまつり)して鎭守となしけるよし。右の陰陽師、此稻荷は餘り立派になしては不宜(よろしから)じ、麁末(そまつ)にても奇麗に祭り可然(しかるべき)者(もの)といゝし儘、有來(ありきたる)ちいさき祠のうへは、覆敷埋(おほひしつらひ)て鎭主なすよし語りぬ。引渡(ひきわたし)の節、地主僕抔元の所へ密(ひそか)に置ける由、又は稻荷には狐をつかはしめと被申せば、狐は靈獸ゆへ斯(かく)なしけると也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。この一条、表現が無駄に繰り返され、誤字としか思えぬものが散見されて、ひどく読みにくい。実は底本でも鈴木氏が例外的な注を附しておられる。以下に全文であるが本条読解には必須と思われるので引用させて頂く。

   《引用開始》

 この一条、悪文の見本のような感がある。写本も悪いせいであろうが分りにくい文章である。要するに久保田某が江戸川端の借地を地主と相談の上で、拝領屋敷と交換して居宅とした。そこにもとからあった稲荷の祠と洞穴は、もともと地主も大切にはしていなかったが、祠は旧地主の所有として取払い、地主の住居である本所へ移した。しかるにまた元の所にその祠が戻っていたので、久保田某は驚いて祭った。内実は地主の下男が横着をして、祠を片付ける振りをしてそのままにして置いたのを、稲荷が舞戻ったと早合点したのが真相らしいというのである。

   《引用終了》

但し、稲荷が岩の洞穴のようなものの中にあったのなら、最後のような屋根覆いの必然性が減じるように思われので、私は「洞」は岩波のカリフォルニア大学バークレー校版の『祠』の誤字と採った(以下の注を参照)。

・「小日向江戸川端」岩波版長谷川氏注には『小日向水道橋の南、江戸川沿いの地をいうか』と注されておられる。

・「拜領の屋敷」幕臣が江戸幕府から与えられた土地に建てられた屋敷は拝領屋敷と称し、大名が個人的に民間の所有する屋敷や土地を購入して建築したものは抱屋敷(かかえやしき)と呼んだ。

・「相對替」当事者双方の合意に基づいて田畑・屋敷等を交換すること。田畑の永代売買が禁止されていたために行われた事実上の土地所有権移動の一形態である。幕臣も幕府の許可を得て、拝領屋敷の相対替をすることが出来た。当初は新規に拝領した屋敷の場合は、相対替えには三年経過することが条件であり、また一度相対替した屋敷は替えて十年が経過している必要があったが、文化元(一八〇四)年には前者は年限の規制が廃止され、後者は五年に短縮された。さらに文久元(一八六一)年には五ヶ月経過後ならば再度の相対替が許可されるようになった、と参照した小学館「日本大百科全書」にはある。「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏であるから、この規制緩和によって、久保田何某は恐らく新規拝領の屋敷を相対替えしたものと判断される。なお、この言葉が用いらているからには相手も幕臣であるのは言うまでもなく、この久保田の住まう借家もその幕臣が貸していた自身の拝領屋敷でなくてはならない。

・「小さき洞」「右洞」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版はいずれも『小さき祠』『右祠』。岩を穿った祠ともとれなくなくはないが、ここではその移転が問題になっているので、ここは孰れもバークレー校版で採る。

・「地にては」底本では右に『(主脱カ)』と傍注し、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では正しく『地主にては』とあるので、「地主」で訳す。

・「唯持來るや」一読、前後の意味がよく分からない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『唯』は『誰』とあるので合点出来る。バークレー校版で採る。

・「陰陽家」ここでは単なる市井の祈祷師であろう。

・「有來(ありきたる)ちいさき祠のうへは、覆敷埋(おほひしつらひ)て鎭主なすよし語りぬ」この部分、やはりどう読むか非常に困った。「有來」はありふれているの意の「ありきたり(在り来り)」の当て字と読めるが、「覆敷埋」はお手上げであった。当初は「覆敷埋(おほひしきうめ)て」と読んではみたものの、読んだ自分も何だか意味が分からない。結局、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版を見ると、ここは、

 手軽く有来(ありきたる)小さき祠の上へ、

 上(う)は覆補理(おおいしつらい)して

 鎮主となすよしかたりぬ

とあって、さらに長谷川氏の注で「上は覆補理して」は『上部におおいを設けて』とあり、目から鱗。最早、このバークレー校版で採る以外に本条を読み解くことは出来ないほどである。

・「又は稻荷には狐をつかはしめと被申せば」底本には右にママ注記を附す。訓読不能である。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版を見ると、『又は稲荷には狐を使はしめとか申せば』とある。バークレー校版がよい。なお、我々は稲荷を狐を祀るものと思い込んでいるが、本来は京都一帯の豪族秦氏の氏神であり、山城国稲荷山(伊奈利山)、すなわち現在の伏見稲荷大社に鎮座する神を主神とする食物神・農業神・殖産興業神・商業神・屋敷神である。その後の神仏習合思想においては仏教の荼枳尼天と同一視され、豊川稲荷を代表とする仏教寺院でも祀られるに至った。現行の神仏分離の中にあっては神道系の稲荷神社にあっては「古事記」「日本書紀」などの宇迦之御魂神(うかのみたま)・豊宇気毘売命(とようけびめ)・保食神(うけもち)・大宣都比売神(おおげつひめ)・若宇迦売神(わかうかめ)・御饌津神(みけつ)といった穀物・食物の神を主祭神としている。狐との関連は以下、参照したウィキ稲荷神」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『狐は古来より日本人にとって神聖視されてきており、早くも和銅四年(七一一年)には最初の稲荷神が文献に登場する。宇迦之御魂神の別名に御饌津神(みけつのかみ)があるが、狐の古名は「けつ」で、そこから「みけつのかみ」に「三狐神」と当て字したのが発端と考えられ、やがて狐は稲荷神の使い、あるいは眷属に収まった。時代が下ると、稲荷狐には朝廷に出入りすることができる「命婦」の格が授けられたことから、これが命婦神(みょうぶがみ)と呼ばれて上下社に祀られるようにもな』り、『江戸時代に入って稲荷が商売の神と公認され、大衆の人気を集めるようになると、稲荷狐は稲荷神という誤解が一般に広がった。またこの頃から稲荷神社の数が急激に増え、流行神(はやりがみ)と呼ばれる時もあった。また仏教の荼枳尼天は、日本では狐に乗ると考えられ、稲荷神と習合されるようになった。今日稲荷神社に祀られている狐の多くは白狐(びゃっこ)である』。『稲荷神社の前には狛犬の代わりに宝玉をくわえた狐の像が置かれることが多い。他の祭神とは違い稲荷神には神酒・赤飯の他に稲荷寿司や稲荷寿司に使用される油揚げが供えられ、ここから油揚げを使った料理を「稲荷」とも呼ぶようになった。ただし狐は肉食であり、実際には油揚げが好物なわけではない』とある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 稲荷の宮の奇異の事

 

 久保田何某(なにがし)殿は、永く小日向江戸川端に借地をして住んで御座ったが、この度、お上より拝領した屋敷と相対替(あいたいが)えを致し、そのまま、現在の借地を御自身の正式な拝領屋敷として続けて住むことと致いたと申す。

 さて、その小日向江戸川端の屋敷内には、借地であった頃よりずっと、稲荷と称した小さな祠(ほこら)が、これ、御座った。

 この祠――しかし元の地主方にては、はなはだ疎かに扱って御座ったやに見えた――と久保田殿の談。

 久保田殿、この度の地主との相対替えを期に、この祠も地主方へと返し、本所にあるその地主の屋敷へと引き移させて御座ったと申す。

 ところが、二、三日過ぎて見てみると、取り払って先方へ送ったはずのその祠が、またしても元の場所へ――引き渡したにも拘わらず、その祠を誰かが再び持ち来たったものか――以前の通りにあった。

 久保田殿、流石に大いに驚き、祈祷を生業(なりわい)と致す者なんどを招いて、地鎮祭など執り行い、鎮守として祀ることとなさった由。

 その際、祈祷師が言うことに、

「この稲荷はあまり立派に祀りなしてはよろしゅう御座らぬ。まあ、質素なものでよろしゅう御座るによって、まずは綺麗に祀っておけば、よろしいという代物にて御座る。」

との見立てを成したればこそ、言うがままに、そのありがちな小さな祠の、その上に、雨風を除け得る程度の小ざっぱりとした覆いなんどを設(しつら)えて、屋敷の鎮守と成した――とは、久保田殿の直談で御座った。

 

 さてもこれ、按ずるに、祠の引き渡しの際、取りに参った地主方の下僕なんどが、一度は運び出す振りを致いたものの、面倒になってすぐに元あった場所へこっそりと戻し置いた、と申すが事の真相ででもあろうかと思わるるが、噂では、稲荷神に於いては狐を使者として使役致すと申すによって、狐は霊獣なればこそ、あるべき元の場所へと彼らが戻したのじゃ、と、まことしやかに申すものもおるやに聴いておる。

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