栂尾明恵上人伝記 22
建仁元年二月の比、如心偈(によしんげ)の釋(しやく)竝に唯心義二卷之を作る。
紀州保田(ほだ)庄の中に、須佐(すさ)の明神の使者といふ者の、夢の中に來りて、住處の不淨を歎き、又一尊の法、傳受の志甚だ深きの由を述べらる。然りと雖も、無沙汰にて心中計(ばか)りに存ぜられて、日を送られける程に、或時人に託して此の趣を託宣あり。先の夢に異ならず。不思議に思ひ合せられけり。爰に、身に於て其の憚りあり。授法の器(うつは)に非ずと云ひて固く辭せられければ、泣く泣く餘りに歎き申されける間、阿彌陀の印・眞言計りを傳授す。歡喜悦豫して去りぬ。此の如く靈物歸依渇仰(れいぶつきえかつごう)して、値遇(ちぐう)の志を述ぶる輩其の數を知らず。又石垣の地頭職違亂の事出で來りしかば、保田(やすた)の星尾(ほしを)と云ふ處に移り任し給ひぬ。
[やぶちゃん注:私の所持する、久保田淳・山口明穂校注岩波文庫版「明恵上人集」では「紀州保田(やすだ)庄」とし、末尾にはルビを振らず、平泉洸全訳注「明惠上人伝記」の原文パートでもともに「やすた」とし、両書ともにこの「保田」を現在の和歌山県有田市にあった庄名と採っている。]
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こういうフリーキーな連中が尋ねて来るというのは、恐らく同時代の鎌倉新仏教の教祖群でも似たり寄ったりなのだろうなあ…… 「明惠上人夢記 やぶちゃん訳注」の冒頭注でも述べた通り、明恵には、『表面的には専修念仏をきびしく非難しながらも浄土門諸宗の説く易行の提唱を学びとり、それによって従来の学問中心の仏教からの脱皮をはかろうとする一面』があり(初期の法然を彼は深く尊崇してもいた)、松尾剛次氏などは『明恵を祖師とする教団を「新義華厳教団」と呼んで』いる(引用はウィキの「明恵」より)など、僕は明恵を平安旧仏教の保守派に分類すべきではなく、法然・親鸞・日蓮と同列の、鎌倉新仏教のチャンピオンの一人と信じて疑わないのである。
なお、
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